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日本財団会長 笹川陽平ブログ

写真:ハンセン病の現場から「アフリカ・ピグミー族」

leprosy.jp
resize.png日本財団はハンセン病の差別撤廃を訴える応援メッセージサイト「THINK NOW ハンセン病」を開設。皆様からのメッセージを随時募集・配信しています。
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「ハンセン病と熊本県本妙寺」―加藤清正の墓所― [2015年04月13日(Mon)]
「ハンセン病と熊本県本妙寺」
―加藤清正の墓所―


2月18日、産まれてくる命を守るために活躍されている『赤ちゃんポスト』創設者の慈恵病院・蓮田太二理事長の教えを乞うため、日帰りで熊本を訪れた。その後、わずかの時間を割いて本妙寺を訪ねた。

本妙寺池廟中門.jpg
本妙寺池廟中門


日蓮宗の本妙寺は、ハンセン病に興味のある方には著名な寺である。加藤清正の墓所もあり、ライ予防法が制定されるまでは、多くの参拝者が集まる参道にハンセン病患者が並んで喜捨を求めていたという。加藤清正はハンセン病だったという説もあり、清正の墓に参り、病気を治してもらいたいという信仰もあったようである。

日本におけるハンセン病対策は外国人宣教師によって始められたといっても良い。最古のハンセン病病院は、1883年に来日したテストウィード神父により1889年設立された静岡県御殿場市にある神山復生病院(こうやまふくせい)病院である。建設から125年にもなる建物は、ハンセン病施設としては現存する日本最古のもので、国の有形文化財に指定されている。

私は世界各地のハンセン病施設を訪ねているが、神山復生病院のように宣教師や患者のお世話をしてくださった病院関係者が、亡くなった元患者の皆さんと同じ墓地に埋葬されている場所はこの地以外記憶になく、深く感動したことを思い出す。確か、天皇皇后両陛下も一昨年にご訪問されている。

しかし、テストウィード神父より1895年、熊本に回春病院というハンセン病施設を作ったハンナ・リデル女史の方が有名である。彼女は本妙寺の参道に並んで参拝者に喜捨を求める多くのハンセン病患者に心を痛め、医師でもないのに救済に立ちあがった。

彼女は有名人を説得する術を心得ていた。極端な貴族趣味の彼女は、軽井沢で優雅な休日を楽しみながらも積極的に政治家、実業家、裕福な人々に寄付を求め、皇族すら彼女の仕事を認めて寄付を行っている。大隈重信や渋沢栄一、特に渋沢栄一は、経済的危機に陥ったリデルを助けるために当時の金で1万5600円という大金を寄付するだけでなく、有識者の会議を開催して日本のハンセン病問題が討議され、公的なハンセン病対策が開始された。

リデルは宣教師であったせいか、回春病院内では療養者に徹底的な禁欲を強制し、男女が言葉を交わすことも禁じた。極端な話では、オス・メスのカナリアのつがいを同じ籠で飼うことさえ禁止したという。

このようにリデルは素晴らしい才能の持つ主ではあったが、手柄を独り占めする傾向があったと、彼女のもとで働く人の評判はよろしくなかったようである。しかし、日本におけるハンセン病対策の先駆けを作ったことはおいに評価されるべきであろう。

私が訪れた時は平日でもあり、本妙寺の参道は静かで人影もなく、両側には住宅が立ち並び、昔日の面影はなかった。

無題.jpg
本妙寺参道をバックに
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4月11日(土)・4月12日(日) [2015年04月12日(Sun)]
4月11日(土)

6:00 ブラザービル(コンゴ民主共和国)より、パリ着

8:30 笹川日仏財団 冨永重厚理事長と空港ホテルにて朝食

11:30 空港内ラウンジにて待機(約2時間半)

14:00 パリ発、成田空港へ


4月12日(日)

8:30 成田着

10:30 自宅着
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4月10日(金) [2015年04月10日(Fri)]
4月10日(金)

7:00 朝食

9:20 ホテル発

9:30 キンシャサのンゴビラ・ビーチ着

@コンゴ民主共和国でお世話になった方々と.JPG
コンゴ民主共和国でお世話になった方々と記念撮影


10:10 ンゴビラ・ビーチ発

Aコンゴ共和国へボートで渡る.JPG
ブラザービルへボートで渡る


10:20 コンゴ共和国ブラザービル着(首都が隣接している唯一の国)

B入国時の体温検査.JPG
入国時の体温検査

C雄大なコンゴ川をバックに!.JPG
雄大なコンゴ川をバックに!


11:00 WHOアフリカ地域事務所訪問 モエディ地域事務局長

Dモエティ地域事務局長.JPG
モエティ地域事務局長

EWHO地域事務所にて.JPG
WHO地域事務所にて


13:00 モエディ地域事務局長、WHOスタッフとの昼食

14:30 ホテルで休憩

18:00 ホテル発

19:00 空港着

21:30 ブラザービル発、パリへ
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「インドのハンセン病の現状」 [2015年04月10日(Fri)]
「インドのハンセン病の現状」


ハンセン病といえばインド、インドといえばハンセン病といわれる時代が長く続きました。

WHOは人口1万人に1人未満の患者数になることを公衆衛生上制圧されたと定めました。インドでの制圧は不可能といわれていましたが、政府並びに各州政府の懸命な努力によって、2005年12月、見事国家レベルでの制圧に成功し、インドの奇跡ともいわれました。

私は多い時には一年に7回もインド各地を訪問し、この活動に参加してきました。1980年以降、1100万人が病気から解放されましたが、日本財団が5年間、世界中でハンセン病の特効薬を無料で配布したことが大きく寄与したことはいうまでもありません。

世界中で激減したハンセン病ではありますが、今現在も約20万人の人々が新たに発症しています。その6割がインドで、統計学的には今もインドといえばハンセン病といえなくもありません。

インドの父マハトマ・ガンジーは、国家政策のマニフェストの17番目にハンセン病の制圧を掲げていました。それほど深刻な問題だったのです。ガンジーは「ハンセン病の患者を治すことは、その人の生活を変えることだけでなく、村を変え、最後は国を変えることなる」と述べていました。

昨年9月と11月の二度、モディ首相と面談し、ハンセン病対策へのさらなる努力を要請しました。モディ首相はガンジーと同じグジャラート州の出身です。今年1月の『世界ハンセン病の日』には、「ハンセン病は完全に治る病気です。皆さんと一緒にインドをハンセン病のない国にしましょう」と、力強く宣言してくれました。

父・笹川良一がインドのアグラにハンセン病の病院を建設したのは1967年、48年前のことで、以来、親子二代にわたり活動してきました。しかし2005年のハンセン病制圧で各州のハンセン病対策は、残念ながら停滞気味になり、患者数も毎年12万人程度と横ばい状態です。

大都市スラムや国境地帯、山岳地帯にはまだまだ隠れた患者がいるものと推測されます。この反省に立ち、各州の『ハンセン病担当者会議』に出席して下記のスピーチを行いました。

********************

州ハンセン病担当官会議


2015年3月10日
インド・ニューデリー


スピーチ.JPG


インドは、2005年12月に国家レベルでの公衆衛生上のハンセン病制圧に成功しました。このような偉業を成し遂げることができたのは、ハンセン病による苦しみから一人でも多くの人々を救うために、皆さまがたゆまぬご尽力をされてきたことに他なりません。

しかし、この10年の間に、ハンセン病を取り巻く状況は変化し、ハンセン病制圧への勢いが失われてきているようです。当時と今とでは状況が大きく異なり、インドでは未だに毎年12万人が新たにハンセン病を発症し続けているという停滞状況にあります。

私はWHOハンセン病制圧大使として、ハンセン病患者と回復者が直面している状況について理解を深めるために、世界各地の離島や山岳地帯に足を運んでまいりました。多くの場合、このような地域に暮らすハンセン病患者は治療を受けておらず、彼らの多くは身体に障害を負っていました。特に国境付近など人の移動が激しい場所や都市近郊のスラムなどにおいて、この傾向は強いようです。さらに、スティグマや差別を恐れて、家の中に閉じこもり、ひっそりと暮らしている人々もいます。

このような状況はインドも例外ではなく、遠隔地域や国境付近、都市近郊のスラムなどサービスが行き届いていない場所で有病率が高くなる傾向にあります。こうした地域に暮らす人々にリーチすることは困難ですが、だからといって、そのまま放置していると、症状が進むにつれ、身体に障害が出てきてしまいます。それがハンセン病の怖さなのです。そして、インドには、ハンセン病によって障害を負ってしまった人々が約30万人もいるといわれています。

さらに、私が懸念していることは、子どもたちが障害を負っているケースを目にすることです。他の国の島を訪れた時のことですが、若干4歳でハンセン病を発症している女の子に出会いました。幸いその女の子は、ハンセン病患者の家族を定期的に訪問していた意識の高い看護師により発見され、早期の対応がなされ、目に見える障害も見られませんでした。しかし、もしも発見が遅れ、治療をしていなかったら、彼女の人生はどうなっていたかと思うと心が痛みます。

ここインドにおいても、私はハンセン病により障害を負ってしまった子どもたちに会い、その度に胸が締め付けられる思いをしてきました。もし、子どもたちがハンセン病を発症し、障害が出るまで症状が進行してしまっている場合は、そのコミュニティにおけるハンセン病対策が機能していなかったと言わざるを得ません。

インドのように広大な土地を持つ多様性に富んだ国においは、それぞれの州や県において状況が大きく異なっております。ハンセン病患者へのサービスをいかに改善し、最も必要とする人たちに届けるかが大きな課題です。

当面の課題は、皆さまがそれぞれに担当している州が抱える問題を明らかにし、問題に対応した明確な目標を掲げ、個別の行動計画を立ててくことです。さらに、各県が抱える問題を明らかにし、それらの問題に対応した個別の行動計画を立て、最大限の結果を得られるような革新的な取り組みができるよう、県のハンセン病担当官を指導していただきたいと思います。

早期発見・早期治療に成功している県、すなわち、新規患者やグレード2の障害(目に見える障害)を負う患者の減少が報告されている県においては、県のハンセン病担当官の努力を称え、今後も様々なステークホルダーと連携し、継続的に活動してもらえるように励ましていただきたいと思います。

中・長期的にハンセン病対策を継続、改善するために、今後の協力が期待できるNGO、特にハンセン病患者と回復者がハンセン病対策に積極的に関わっていけるよう検討していただきたいと思います。コミュニティに根差し、幅広く活躍しているASHA ladies(女性のボランティア)のようなステークホルダーと協力することで、早期発見・早期治療を促進させることができるでしょう。同様に、研究者、医療専門家、国際ハンセン病団体連合や笹川インドハンセン病財団などの支援組織との連携強化も期待できます。

皆さまご存知の通り、ハンセン病は単に病気だけの問題ではなく、病気に起因する偏見や差別という深刻な問題を伴います。早期発見・早期治療に取り組むことは、単に患者数を減らすだけではなく、同時に、ハンセン病による偏見や差別による苦しみから解放される人々を減らすことにつながることを忘れないでください。

今こそ、私たち一人ひとりが決意を新たにし、2017年までにすべての県において公衆衛生上のハンセン病制圧を実現し、ハンセン病による苦しみを抱える多くの人々を救うために、ともに手を携えていきましょう。

会議には約100人が参加.JPG
会議には約100人が参加

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4月9日(木) [2015年04月09日(Thu)]
4月9日(木)

6:00 ホテル発

6:10 保健大臣のアレンジにより、コンゴ川下り

@早朝のコンゴ川下り.JPG
早朝のコンゴ川下り

C活気に満ちた魚市場!.JPG
活気に満ちた魚市場

A対岸には高床式の家が並ぶ.JPG
対岸には高床式の家が並ぶ


7:30 空港着

9:00 ムバンダカ発(帰りはジェット機のため45分)

9:45 キンシャサ着

10:30 ホテル着

12:00 関係者との昼食

15:00 記者会見(WHO事務所にて)

B記者会見.JPG
記者会見

CWHO女性スタッフと.JPG
WHO女性スタッフと


18:00 カプト前保健大臣

Dカプト前保健大臣.JPG
カプト前保健大臣


19:00 関係者との夕食
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4月8日(水) [2015年04月08日(Wed)]
4月8日(水)

5:30 朝食

@朝食は非常食で済ませる.JPG
朝食は非常食で


6:30 ムバンダカのホテル発(車で約150キロ約5時間半)
   (途中3カ所で橋が決壊しており、そのたびに修理して渡る)

D橋が決壊!ーその2.JPG
橋が決壊!

H何度も車を降りて歩く・・.JPG
何度も車を降りて歩く

Iトラックを交わすのも必死!.JPG
すれ違うのも必死!


12:00 インゲンデ地区・ボカトラ村にあるヘルスセンター着
    ピグミーと呼ばれるバトゥワ族のハンセン病患者と面会

ようやボカトラ村にあるヘルスセンターに到着。バトゥワ族のハンセン病患者に会う.JPG
ようやボカトラ村にあるヘルスセンターに到着
バトゥワ族のハンセン病患者


12:20 バトゥワ族が住むボインボ村に立寄り、ハンセン病患者と面会

Nハンセン病の患者に会う.JPG
ボインボ村のハンセン病患者


12:30 ボインボ村発ムバンダカへ(車移動約5時間45分)

橋が決壊!帰り道、同じ場所でまた橋が決壊していた!.JPG
帰りも同じ橋が決壊していた!


18:15 ムバンダカのホテル着

19:30 関係者との夕食(といっても、また非常食!)
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「国連笹川防災賞授賞式」 [2015年04月08日(Wed)]
「国連笹川防災賞授賞式」


2015年3月17日
於:仙台国際センター


第3回国連防災世界会議は3月14日〜18日まで仙台市で開催され、盛況であった。

この間「国連笹川防災賞」の発表と授賞式が行われた。

この賞は30年前に設置したもので、その先見性にいささかの自負もあり、国際的にも評価の高い賞ではあるが、残念ながら日本での報道は少なかった。

今年の受賞者は英国のアラン・ラベル氏で活動国はコスタリカ。
受賞理由は
「多主体環境において様々な役割を担う中で、ラベル氏個人が継続的に大きな影響力を持って続けた取り組みが、氏を『防災界におけるリーダー』たらしめた」
「(氏の)『大局的見地から見る能力』のおかげで様々な決定に動機づけや仲立ちが行われ、総合的な防災対策が開発されました」
「全ての人に気軽に直接会うラベル氏には、公的な仕組みを地元の地域社会のニーズに合わせて調整し、地域住民に力を与え、常に人間のニーズを強調する能力が備わっていました。この力は『全く異なるコミュニティを結びつける接着剤』となってきたのです。これはどんな時も時代を超える模範です」
でした。

防災賞受賞者のアラン・ラベル氏(中央)とUNISDRのワルストロム代表.JPG
防災賞受賞者のアラン・ラベル氏(中央)


下記はその折の私のスピーチ要旨です。


************


自然災害は世界各地で頻繁に発生しており、人々の生活に被害をもたらしています。日本財団は、人道支援に取り組む団体として、長年にわたり、国内外の災害に対する緊急支援や復興支援を実施してきました。

私たち日本財団は、緊急支援や復興支援を通じて、災害が人々の生活に深刻な影響を及ぼすということを直に経験し、30年前、国連とともに笹川防災賞を創設しました。この賞は、自然災害のリスクを軽減するための活動を促進し、そのための知識や経験を共有できるグローバルなプラットフォームを構築することを目的としています。

ここ数十年の間に、「防災」は狭義の技術的な領域という認識から、持続可能な開発に焦点を当てた、よりグローバルで広範な動きへと発展しました。笹川防災賞がこうした時代の変化とともに進化し、より革新的で多様性のあるものへと成長してきたことを嬉しく思います。

2015年の国連笹川防災賞のテーマは、「未来を形作る(Shaping the Future)」です。本テーマのもと、今年は様々な分野を代表する団体や個人から、過去最多のノミネートがありました。私も皆さまと同様に、これから発表される2015年の受賞者にお会いできること、そして、受賞者の方から、どのように安全なコミュニティをつくり、より良い社会を実現していくかについてお話を伺えることを楽しみにしております。
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4月7日(火) [2015年04月07日(Tue)]
4月7日(火)

5:30 ホテル発

7:45 キンシャサ発(31人乗りのプロペラ機で90分)

@プロペラ機でムバンダカに到着.JPG
プロペラ機でムバンダカに到着

A州の保健大臣らのお出迎え.JPG
州の保健大臣らがお出迎え


9:15 ムバンダカ着

10:00 ホテル着

B宿泊は雄大なコンゴ川沿い.JPG
宿泊は雄大なコンゴ川沿い


12:00 カバンゲ保健大臣と昼食

13:30 ムペトゥシ州保健大臣

Cムペトゥシ州保健大臣(中央)とカバンゲ保健大臣(右はじ).JPG
ムペトゥシ州保健大臣(中央)とカバンゲ保健大臣(右端)


14:15 インペト(暫定)州知事

D州知事面談.JPG
インペト州知事と面談


14:40 ぶら下がり記者会見

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地元記者のインタビューに答える


19:00 インペト州知事主催夕食会
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4月6日(月) [2015年04月06日(Mon)]
4月6日(月)

6:30 朝食

8:30 WHO デオ代表

@WHO事務所訪問.JPG
WHO事務所訪問


9:15 カバンゲ保健大臣

B保健大臣(右はじ)と.JPG
保健大臣(右端)


10:15 ミナコ下院議長 

A下院議長と.JPG
下院議長

C議長面談後、囲み取材を受ける.JPG
議長面談後、囲み取材を受ける

11:45 総合病院に併設されたハンセン病制圧プログラム事務所

Dハンセン病制圧プログラム事務所にて会合.JPG
ハンセン病制圧プログラム事務所にて会合

E旧知の保健省ハンセン病担当ムプトゥ氏の事務所にてと.JPG
旧知の保健省ハンセン病担当ムプトゥ氏の事務所にて

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病院内に常備されているハンセン病治療薬MDT

G総合病院にハンセン病の治療に来たマベベさん.JPG
ハンセン病の治療に来たマベベさん

G筆者の訪問には常に警備が同行してくれる.JPG
筆者の活動に同行してくれた警備

13:00 関係者と昼食

19:00 カバンゲ保健大臣主催夕食会

H保健大臣主催夕食会.JPG
保健大臣主催夕食会

I保健大臣より鉱物の置物の贈り物.JPG
保健大臣より、鉱物で作られた置物をプレゼントされ
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「戦後70年問題」―フィリピン残留日本人二世― [2015年04月06日(Mon)]
「戦後70年問題」
―フィリピン残留日本人二世―


安倍首相が戦後70年を節目として首相談話を発表することになり、にわかにメディアが騒がしくなってきた。しかし、隣国との関係などで全ての人が納得、満足する談話などあるはずはない。

したがって、個人的には70年だからといって特別に首相が談話を発表する必要はないと考えている。しかし、国家の最高責任者として発表したいという首相のお考えは尊重されなければならない。願わくば、戦後70年間、日本が如何に世界の平和と安定に貢献してきたかを述べ、今後の日本の役割と決意を発表することで、尊敬と敬意を持って国際社会から評価されるよう願ってやまない。

戦後70年。ロシアとの北方四島解決と平和条約の締結、北朝鮮問題、慰安婦問題など韓国との関係、尖閣諸島問題などを中心とした中国との関係等々、二国間で解決すべき問題は多い。安倍首相の70年談話がどのような内容になるのか知る由もないが、これを契機により積極的な解決策が模索されるよう切望する。

ところで、読者は戦後、母とともに現地に取り残されたフィリピン残留日本人二世の問題をご存知だろうか。これも戦後70年を経てなお未解決の問題だが、これは日本政府の決断次第で解決可能な問題でもある。

日本財団は海外日系人の支援を活動指針の一つにしており、長年に亘り、中国残留日本人孤児の国籍取得やサハリン残留日本人に対する支援、フィリピン残留日本人の救済に対しても長年、支援に取り組んできた。

このほど日本・フィリピン友好議員連盟の中にこの問題に取り組むための特別委員会が立ち上がり、3月30日の総会で小坂憲次会長のご理解を得て挨拶の機会を得た。

以下、私のスピーチと問題解決に向けた要望事項四点を報告する。

********************


フィリピン残留日本人二世は、中国残留孤児やサハリン残留日本人と同様、「日本人」でありながら日本に帰ることが出来ずにフィリピンで人生を過ごしてきた人々です。フィリピン残留日本人二世は、フィリピン人を母に持つ混血児にはなりますが、当時の国籍法では「父親の国籍をその子が受け継ぐ」という父系血統主義の時代に生まれた人たちですから、間違いなく「日本人」なのです。

長年の願いを訴える比残留日本人2世.jpg
長年の願いを訴える比残留日本人2世


しかしながら、太平洋戦争で二世たちの運命は劇的に変化しました。父親が戦死したり強制送還されたりで、一家離散になってしまったのです。戦後フィリピンに取り残された二世は、すさまじい反日感情に向き合わねばならず、それを避けるように人里離れた場所に住んだり、日本人であることが分からないように名字を母親の姓に変えたり、現地の子供よりも白い肌に墨を塗ってフィリピン人っぽく見えるようにしたりと、苦労を重ねることとなったのです。

戦争によって翻弄された人生を歩んできたフィリピン残留日本人二世は、父親のことを知りたい、自らのアイデンティティーの確立をしたいとずっと思い続けてきました。日本人であるのに日本人と認められないのは、まさに戦中・戦後の混乱があったからで、二世には全く責任のないことです。

戦争の犠牲者である二世たちを、同じ日本人として何とか救済できないかということで、日本財団では、2006年よりフィリピン日系人リーガルサポートセンターと共に国籍回復事業を行ってきました。二世たちの平均年齢は既に76.3歳、残された時間は少ないのです。また、昨年、日本国籍を取得して来日しようとした二世は、日本国籍を取ったことでフィリピンの70年間分の不法滞在費を支払うよう命令を受けました。

このように、国家間の問題へと発展しつつあるこのフィリピン残留日本人二世問題は、既に私たち民間が取り扱える範疇を超えてきております。

戦後70年が経過し、政府は遺骨収集にさらに力を入れていくと報道されていますが、フィリピン残留日本人二世が生きている間に、「日本人として認めてほしい」という彼らの長年の願いを叶えるべく、本日ご出席の国会議員の皆さまから政府に働き掛け、早急な救済措置を取っていただけるようお願い致します。


―要望事項―


今からでも遅くない。
フィリピン残留日本人に中国残留日本人と同様の援護を。

1) 日本政府(厚生労働省)は、依頼のあったフィリピン残留日本人につき、保有する軍関係資料、引揚関係資料等を活用し、身本捜しを実施してほしい。
2) 日本政府は、中国残留孤児につき中国政府と共同で実施している訪中調査に倣い、フィリピン残留日本人につき、フィリピン政府の協力のもと、共同調査を実施し、孤児認定を行い、認定された人を「フィリピン残留日本人孤児名鑑」に掲載し、日本において情報公開調査を実施してほしい。
3) フィリピン残留孤児問題(肉親捜し、国際問題、在留資格問題等)の解決に向け、日比両政府の協議を実施してほしい。
4) その他、中国残留孤児に対して行っているのと同様の支援を実施してほしい。
以上
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