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日本財団会長 笹川陽平ブログ

写真:ハンセン病の現場から「アフリカ・ピグミー族」

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leprosy.jp
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7月7日(金) [2017年07月07日(Fri)]
7月7日(金)

12:40 財団着

14:00 蒲生篤実 国交省海事局長

13:30 辰巳雅世子 笹川平和財団中東イスラム基金室長
 
14:00 安斎 驕@セブン銀行会長

15:00 ディマイ・ズヘイル・ハダッド ヨルダン大使

17:45 杉山晋輔 外務省事務次官
「ハンセン病のない世界のために」―病気と差別の制圧に向けての闘い― [2017年07月07日(Fri)]
「ハンセン病のない世界のために」
―病気と差別の制圧に向けての闘い―


今年の4月25日、ミネソタ大学より名誉博士号を授与された。
以下はその折のスピーチです。

********************


@基調講演を行なった.JPG
基調講演


只今ショートフィルムをご覧いただいたのは、この病気に苦しめられ、今もなお苦しんでいる人たちの現実を皆さまにご覧いただきたかったからです。映像にあった通り、ハンセン病は何世紀にも亘り不治の病、神の罰などとされ、人々に恐れ、嫌われてきました。

しかし1980年代になると、有効な治療法の確立により、ハンセン病は治るようになりました。簡単なことではないとはわかっていましたが、私はこの薬を、病気に苦しむ全ての人たちに届けることを決意しました。そして日本財団は、WHOと協力し、ハンセン病治療薬の無料配布を開始しました。

有効な薬を配るのですから、私たちはある一定の効果はすぐに現れるだろうと期待していました。しかし、多くの予期していなかった事態に遭遇しました。

当時私がどのようなことに直面したのか、いくつか例を申し上げます。

例えば私は、世界には多くの人が薬の飲み方を知らないという事実を目の当たりにしました。それまで伝統医療薬しか飲んだことがないという人たちに対し、私は、まずブリスターパックと呼ばれる包装から錠剤を取り出し、水で飲み込むという薬の飲み方から教えなくてはならなりませんでした。

また、アフリカのある部族の人たちは食べ物を平等に分け合うという習慣があるため、配布された薬をも同じ村の人たちで分け合ってしまっていました。これでは当然、薬の効果は現れません。

また、無料なのに患者が薬を取りに来ないということもありました。痛みを伴う初期症状がないため、もしくは差別を恐れたためです。

薬を無料で配るだけでは効果的ではないということは明らかでした。私たちは、治療薬の配布に際し、その土地の習慣や文化なども考慮しなければならなかったのです。

このことを念頭に、より効果的に薬を患者に届けるために、私たちはWHOや各国の保健省、医療関係者、NGOなどと協力し、活動を続けました。

その結果、より多くの患者が病気を治療、治癒し、多くの蔓延国においてハンセン病患者の数は大きく減っていきました。私は、治療薬普及の成果が現れてきたことに、一種の達成感を感じ始めていました。

しかし、患者の数が減ったにも関わらず、私がハンセン病コロニーで目にした現実は、病気から回復した人たちの生活が治療前からあまり変わっていないということでした。彼らは治癒した後も、患者だったときと同じようにハンセン病療養所やコロニーで暮らし続けていました。そこは、草木も生えていないくぼ地のようなところで、外側からは単なる岩山にしか見えないような場所だったり、線路脇の土手のわずかな空間だったりしました。彼らはハンセン病を患ったときから、そのような場所に集まって暮らしていました。その場所と外の世界との境界に目に見える塀などは何もありません。しかし、まるでそこには目に見えない壁が立ちはだかっているかのように、彼らの住む場所とその外を行き来する人はいません。彼らはもう患者ではないのに、こうして「ハンセン病の元患者」として生活しつづけていました。

この状況を見て私は、私がそれまでハンセン病の差別やスティグマの問題を楽観視しすぎていたことに気づきました。私は治療薬を世界中で広めることに忙しくしておりましたが、この病気には、より深刻な側面があると考えるようになりました。それは、ひとたびハンセン病を患った人は、治癒してもなお、差別やスティグマの対象となるということでした。

差別とスティグマは菌によって引き起こされるものではありません。これは、人々の意識の問題です。

私は、ハンセン病との闘いとは、モーターバイクに似ていると考えるようになりました。前輪は病気を治すための医療面のアプローチです。そして後輪は、スティグマと差別をなくすための社会面のアプローチを指します。この前輪、後輪が同時に動かなければ前に進まないモーターバイクのように、ハンセン病とその差別をなくすためには、医療面、社会面双方のアプローチを同時に進める必要があると、私は考えています。

後輪の差別の問題について取り組むにあたり、私は何から始めればいいのかわかりませんでした。しかし、ハンセン病の差別とスティグマの問題は明らかに人権問題であると感じました。そこで、国際連合へ働きかけることにしました。

私がジュネーブの国連人権高等弁務官事務所を初めて訪ねたのは2003年のことでした。そこで私が言われたことは、ハンセン病の差別の問題は人権問題として議論にあがったことがないということでした。あくまで病気として、他の病気同様、保健衛生の問題としてしか捉えられていなかったのです。

なぜそのようになってしまったのか、想像するのは難しくありませんでした――ハンセン病から治癒した人たちは、声をあげ、自らの人権を主張することをためらっていました。彼らは差別を恐れていたのです。彼らの多くは、自分たちに人権があるとすら考えていなかったのかもしれません。ハンセン病から治癒したある人は、私にこう質問しました。

「本当に私に人権などあるのですか?」

私は、彼らの苦しみにこれ以上目をつむることはできませんでした。そして、このハンセン病の差別の問題を提起する必要があると思いました。

その後、この問題に注意を向けてもらうために、私はジュネーブを何度も訪れ、会議や小さな写真展などを開催しました。

私が人権委員会の小委員会で鮮明に覚えている瞬間があります。それは、私がハンセン病の回復者の人たち5人と会議に出席していたときのことでした。会議場で話をする機会に、私は自分が簡単に話した後、彼らのうちの一人の女性にマイクを譲ることにしました。インドから来た女性でした。

彼女は立ち上がり、「私はハンセン病でした」と言いました。

それまで、話半分に聞いていた会場中の人がその瞬間に振り向き、発言した彼女の顔を見ました。

その瞬間は、今でも忘れられない瞬間です。

そしてその瞬間は、私にとって、ハンセン病の差別の問題を人権問題として国連が初めて認識した瞬間だったように思います。

私の最初の国連訪問から7年、2010年にニューヨークの国連総会で、ハンセン病の患者と回復者、そしてその家族に対する差別撤廃の決議が採択されました。

私たち日本財団は、この決議の実行のために、世界の状況を確認し、報告する民間レベルのタスクフォースを作りました。そこに人権問題の専門家として関わってくださっているのが、午前中にお話しいただく横田先生と、本会議を企画してくださったフレイ先生です。お2人には様々なアドバイスをいただき、非常に重要な役割を果たしていただいています。お2人のご尽力にあらためて感謝申し上げたいと思います。

社会的なアプローチを進める上で、私は、ハンセン病の差別やスティグマの問題をなくすには、当事者を巻き込むことが不可欠だと考えています。彼らに声をあげてもらうよう働きかけ、彼らの声を聞いてもらうことが重要なのだと思います。私が彼らの声を代弁することはできても、彼ら自身の声よりも説得力を持つことはないのだということに、私は経験を通じて気づきました。

ここまでお聞きになって、この病は遠い国の話だと感じられた方もいらっしゃるかもしれません。しかし、ハンセン病差別の問題は万国共通の問題であり、ここアメリカでも例外ではありません。

かつて全米のハンセン病患者や回復者は、三方を海に囲まれ、残る一方を断崖で遮断されたハワイ諸島モロカイ島のカラウパパ療養所と、有刺鉄線の高いサイクロンフェンスと2つの監視塔に囲まれたルイジアナ州のカーヴィル療養所に「収容」されていました。

私たちの活動に対し、「ハンセン病は過去の問題ではないか、今さら取り組む必要はないのではないか」という人がいます。しかし私は、ハンセン病を考えることは、今まさに私たちがすべきことではないかと考えています。それは、ハンセン病を考えることが人間を考えることにつながるからです。ハンセン病の歴史は世界中で忘れ去られ、消されようとしている「負の歴史」として語られることが多いです。

しかし、ハンセン病の歴史は同時に、患者や回復者の方々が過酷な状況に置かれながらも、差別を乗り越えて生きてゆく、生命の輝きの歴史でもあります。名前を失い、故郷を失い、家族、友人をも失い、社会との関わりを断たれながらも、一人の人間として、生きようとしてきたその軌跡は、人間の強さと寛容さを私たちに教えてくれる、かけがえのない歴史でもあります。

2009年にはローマ教皇ベネディクト16世によって、カラウパパの患者たちのケアに全身全霊を捧げたダミアン神父が、聖人の列に加えられました。さらに、同年オバマ大統領の署名によって「カラウパパ・メモリアル法」が成立し、カラウパパに収容された8000人全員の名を刻んだ記念碑が建立されることになりました。

このようにハンセン病を患った人たちの経験や記録を次世代に引き継ぐことで、人類がこの経験を忘れないようにしていくことが重要ではないでしょうか。彼らの声を次世代に届けていくこと。このことも、私の重要な仕事だと思い、ハンセン病の歴史保存の取り組みも進めています。

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副学長からDoctory Hood(学位フード)をかけていただいた

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