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resize.png日本財団はハンセン病の差別撤廃を訴える応援メッセージサイト「THINK NOW ハンセン病」を開設。皆様からのメッセージを随時募集・配信しています。
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笹川 陽平
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7月1日(金) [2016年07月01日(Fri)]

7月1日(金)

7:25 財団着

8:00 カメルーン出張打合せ

8:30 「社会的投資」事業打合せ

9:30 海洋関係事業打合せ

10:00 JATCAFA(日本トルコ中央アジア友好と協力会)留学生・日本研修

11:00 富山 聡 法務省矯正局長

13:00 社会貢献者表彰式典 於:帝国ホテル

14:30 祝賀会

16:00 蓮實 進 日本さくらの会理事長

17:00 森 信親 金融庁長官

「カメルーン出張」 [2016年07月01日(Fri)]

「カメルーン出張」


3日の深夜便でカメルーンに出張いたします。

アフリカの原始林を移動して生活する民族、ピグミー族のハンセン病の実態調査のため、森深くまで入る予定です。

帰国は13日の予定です。

「ソフィア大学名誉博士」―ブルガリア最古の大学― [2016年07月01日(Fri)]

「ソフィア大学名誉博士」
―ブルガリア最古の大学―


余り晴れがましいことは私の性格に合わないのでブログで書くことはほとんどないが、このところ海外活動が多く、来週からアフリカのカメルーンでピグミーのハンセン病実態調査に入るためブログの種が不足してきてしまい、恥ずかしながら、表題の記事になってしまった。

この度、1888年に設置されたブルガリア最古のソフィア大学より名誉博士号を授与された。

1987年、未来の世界を担う修士・博士課程の優秀な学生に奨学金を提供する「笹川良一ヤングリーダー奨学金制度」を設置。現在は世界69大学に設置されているが、ソフィア大学は1992年に設置された大学のうちの一校である。

日本人のブルガリアに対するイメージは、ヨーグルトに美しい薔薇、引退した相撲力士くらいかも知れないが、約1400人が日本語を学んでおり、約450名の国費留学生、約800人のJICAで研修経験のある方々がおり、日本の伝統文化や武道の同好会もあると、小泉崇ブルガリア大使は教えて下さった。

私にとって嬉しいことは、この奨学金第一号を受けられたパシレフさんが、その後、年間100万本を生産するワイナリーの実業家として成功したのみならず、ブルガリアの政財界の有力者としても活躍されていることであった。

ソフィア滞在中は心を込めてアテンドして下さり、その上、写真のように、家宝である73年前、1943年産のワインを2本もプレゼントして下さった。学生時代の恩義を忘れず、その後、私のハンセン病との闘いに注視して下さり、名誉博士に推薦して下さったようだ。

DSC_1198.JPG
1943年産のワイン2本!


伝統ある大学での古式豊かな式典の様子はテレビで何回も放映されたと、在日本ブルガリア大使館から知らせをいただいた。

博士号授与の理由であるハンセン病について、10分間の映像の後、講演の機会をいただいた。既にヨーロッパではハンセン病は過去の話になっており、どのような過酷な歴史があったかは書物で若干知っている方がいる程度なので、映像に驚き、目頭を押さえる聴衆もいた。

以下、ハンセン病について比較的分かりやすく述べていますので、お読みいただければ幸甚です。

***************

「ソフィア大学名誉博士号授与式スピーチ」
―ハンセン病の病気と差別の制圧に向けた闘い―


2016年6月6日
於:ブルガリア・ソフィア大学


ハンセン病に関するレクチャーをさせていただく.jpg


この度は、ブルガリアで最古かつ最大の大学であるソフィア・聖クリメント・オフリドスキ大学から名誉博士号をいただくことができ、大変光栄に思います。また本日は、ハンセン病の制圧という私の生涯をかけた活動について、皆さまにお話しさせていただく機会をいただき、感謝申し上げます。

先ほどショートフィルムをご覧いただいたのは、この病気に苦しめられ、今もなお苦しんでいる人たちの現実を皆さまにご覧いただきたかったからです。映像にもありました通り、ハンセン病は何世紀にも亘り不治の病、神の罰などとされ、人々から恐れ嫌われてきました。

しかし1980年代になると、有効な治療法の確立により、ハンセン病は治るようになりました。簡単なことではないとはわかっていましたが、私はこの薬を、病気に苦しむ全ての人たちに届けることを決意しました。そして日本財団は、WHOと協力し、ハンセン病治療薬の無料配布を開始しました。

有効な薬を配るのですから、私たちはある一定の効果はすぐに現れるだろうと期待していました。しかし、多くの予期していなかった事態に遭遇しました。

例えば私は、世界には多くの人が薬の飲み方を知らないという事実を目の当たりにしました。それまで伝統医療薬しか飲んだことがないという人たちに対し、私は、まずブリスターパックと呼ばれる包装から錠剤を取り出し、水で飲み込むという薬の飲み方から教えなくてはならなりませんでした。

また、アフリカのある部族の人たちは食べ物を平等に分け合うという習慣があるため、配布された薬をも同じ村の人たちで分け合ってしまっていました。これでは当然、薬の効果は現れません。

また、無料なのに患者が薬を取りに来ないということもありました。痛みを伴う初期症状がないため、もしくは差別を恐れたためです。

薬を無料で配るだけでは効果的ではないということは明らかでした。私たちは、治療薬の配布に際し、その土地の習慣や文化なども考慮しなければならなかったのです。

このことを念頭に、より効果的に薬を患者に届けるために、私たちはWHOや各国の保健省、医療関係者、NGOなどと協力し、活動を続けました。

その結果、より多くの患者が病気を治療、治癒し、多くの蔓延国においてハンセン病患者の数は大きく減っていきました。私は、治療薬普及の成果が現れてきたことに、一種の達成感を感じ始めていました。

しかし、患者の数が減ったにも関わらず、私がハンセン病コロニーで目にした現実は、病気から回復した人たちの生活が治療前からあまり変わっていないということでした。彼らは治癒した後も、患者だったときと同じようにハンセン病療養所やコロニーで暮らし続けていました。そこは、草木も生えていないくぼ地のようなところで、外側からは単なる岩山にしか見えないような場所だったり、線路脇の土手のわずかな空間だったりしました。彼らはハンセン病を患ったときから、そのような場所に集まって暮らしていました。その場所と外の世界との境界に目に見える塀などは何もありません。しかし、まるでそこには目に見えない壁が立ちはだかっているかのように、彼らの住む場所とその外を行き来する人はいません。彼らはもう患者ではないのに、こうして「ハンセン病の元患者」として生活しつづけていました。

この状況を見て私は、私がそれまでハンセン病の差別やスティグマの問題を楽観視しすぎていたことに気づきました。私は単純に、病気を治すことは差別をなくすことにもつながるだろうと考えていました。しかし実際は、治癒してもなお、彼らは「元患者」から抜け出せていませんでした。これは特にハンセン病に顕著に見られる問題のように思います。

私は、ハンセン病の問題は医療の問題だけではないことに気づきました。それは私たちの意識の問題です。私は、この意識の問題にも取り組むことにしました。

ハンセン病の闘いについて話をするとき、私はよく、モーターバイクに例えて説明します。前輪は病気を治すための医療面のアプローチです。そして後輪は、スティグマと差別をなくすための社会面のアプローチを指します。この前輪、後輪が同時に動かなければ前に進まないモーターバイクのように、ハンセン病とその差別をなくすためには、医療面、社会面双方のアプローチを同時に進める必要があると、私は考えています。

後輪の差別の問題について取り組むにあたり、私は何から始めればいいのかわかりませんでした。医療面のアプローチのためには、WHOや保健省、医療専門家の方々と活動しましたが、社会面のアプローチには、新たな関係者を巻き込む必要があると感じました。

私はハンセン病の差別とスティグマの問題は人権問題であると感じました。それが、私が国際連合へ働きかけることにした理由でした。

私がジュネーブの国連人権高等弁務官事務所を初めて訪ねたのは2003年のことでした。そこで私が言われたことは、ハンセン病の問題についてそれまで誰も訴えてこなかったため、ハンセン病の差別の問題は人権問題として認識されていないということでした。

なぜそのようになってしまったのか、想像するのは難しくありませんでした――ハンセン病から治癒した人たちは、声をあげ、自らの人権を主張することをためらっていました。彼らは差別を恐れていたのです。彼らの多くは、自分たちに人権があることすら考えていなかったのかもしれません。ハンセン病から治癒したある人は、私にこう質問しました。

「本当に私たちに人権などあるのですか?」

私は、彼らの苦しみにこれ以上目をつむることはできませんでした。そして、このハンセン病の差別の問題を提起する必要があると思いました。

その後、この問題に注意を向けてもらうために、私はジュネーブを何度も訪れ、会議やポスターセッションなどを開催しました。この問題に対し、注目を集めようとしましたが、ことは簡単には運びませんでした。

しかし、私が人権委員会の小委員会で鮮明に覚えている瞬間があります。それは、私がハンセン病の回復者の人たち5人と会議に出席していたときのことでした。会議場で話をする機会に、私は自分が簡単に話した後、彼らのうちの一人の女性にマイクを譲ることにしました。インドから来た女性でした。

彼女は立ち上がり、「私はハンセン病でした」と言いました。

それまで、話半分に聞いていた会場中の人がその瞬間に振り向き、発言した彼女の顔を見ました。

その瞬間は、今でも忘れられない瞬間です。

そしてその瞬間は、私にとって、ハンセン病の差別の問題を人権問題として国連が初めて認識した瞬間だったように思います。

私の最初の国連訪問から7年、2010年にニューヨークの国連総会で、ハンセン病の患者と回復者、そしてその家族に対する差別撤廃の決議が採択されました。現在、加盟各国がこの決議の内容を実行に移そうと進めてくださっています。

社会的なアプローチを進める上で、私は、ハンセン病の差別やスティグマの問題をなくすには、当事者を巻き込むことが不可欠だと考えています。彼らに声をあげてもらうよう働きかけ、彼らの声を聞いてもらうことが重要なのだと思います。私が彼らの声を代弁することはできても、彼ら自身の声よりも説得力を持つことはないのだということに、私は経験を通じて気づきました。

ソフィアの後、私はバチカン市国でローマ教皇庁と共に、異なる宗教家、NGO、政府高官などとハンセン病回復者の包括的なケアと尊厳を考えるシンポジウムに参加する予定です。そのような時には必ず、回復者の声が直接、聴衆に届くよう、彼らを招待し、ご出席いただいています。

このような私の活動に対し、「ハンセン病は過去の問題ではないか、今さら取り組む必要はないのではないか」という人がいます。しかし私は、ハンセン病を考えることは、今まさに私たちがすべきことではないかと考えています。それは、ハンセン病を考えることが人間を考えることにつながるからです。ハンセン病の歴史は世界中で忘れ去られ、消されようとしている「負の歴史」として語られることが多いです。

しかし、ハンセン病の歴史は同時に、患者や回復者の方々が過酷な状況に置かれながらも、差別を乗り越えて生きてゆく、生命の輝きの歴史でもあります。名前を失い、故郷を失い、家族、友人をも失い、社会との関わりを断たれながらも、一人の人間として、生きようとしてきたその軌跡は、人間の強さと寛容さを私たちに教えてくれる、かけがえのない歴史でもあります。

だからこそ、ハンセン病を患った人たちの経験や記録を次世代に引き継ぐことで、人類がこの経験を忘れないようにしていくことが重要ではないでしょうか。彼らの声を次世代に届けていくこと。このことも、私の重要な仕事だと思い、ハンセン病の歴史保存の取り組みも進めています。

本日、この名誉ある学位をいただいたことで、皆さまより私のこれからの活動を後押ししていただけた想いがし、とても心強く感じております。

ありがとうございました。
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