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3月3日(月) [2014年03月03日(Mon)]
3月3日(月)

7:45 財団着

8:00 関連団体役員会議

10:00 柴崎治生 東京財団常務理事

15:00 毎日新聞インタビュー
「現代日本を怪物化した対日外交は失敗」その1―論議呼ぶ中国の識者ブログ― [2014年03月03日(Mon)]
「現代日本を怪物化した対日外交は失敗」その1
―論議呼ぶ中国の識者ブログ―


 尖閣諸島問題で日中関係が冷え込み、安倍晋三首相の靖国参拝で中国の日本に対する歴史認識批判が一段と激しさを増す中、「現代日本の怪物化と対日外交政策の失敗」と題するブログが中国のネットに公開され、大きな論議を呼んでいる。
 
 筆者は英国や米国にも留学、政府職員として訪日経験もある「老兵東雷」(ブログ名)氏。国交回復当初、「日本の事はすべて自然に受け入れ、わだかまりも無かった中国人」が、中国にとって最大の援助国でもあった日本を何故、これほどまでに憎むようになったのか詳細に検討し、その原因の一つを「またしても軍国主義の道を行く」と日本を怪物化する中国側の視点にあると指摘。

 日本が軍国主義に進むという推論は、「悲惨な歴史を経験した中国人にとっては非常に理にかなったことではあるが、日本人にとっては荒唐無稽な陰謀説」であり、現実に平和憲法で洗脳され、平和な環境の中で私権や自由を享受し、戦争からどんどん遠ざかっている日本人が「どうやって軍国主義に向かうのか教えてほしい」とまで記している。

 その上で中日国交正常化40周年を前に起きた尖閣諸島事件での大規模な反日デモや日本車の焼打ちについて、「中日の国交はおかしくなった。中国の対日外交は、民意を日本との和睦に導く試みから、民意を利用した反日へと、すっかり変わってしまった」とするとともに、「中国と韓国を除けば歴史問題で日本ともつれ合っている国はほかにない」として、中国が新しい中日関係に向かうよう求めている。

 日中の対立が深まる中、日本人には「中国の世論は反日一辺倒」との思い込みがあり、中国側も日本の世論を「反中一色」で捉えがちだ。しかし現実には中国にも多様な意見があることを示す一文として熟読させてもらった。

 この老兵東雷と名乗る中国人識者のブログアップの準備中の2月21日付読売新聞朝刊に、北京特派員の牧野田亨記者が、『老兵東雷』の本名は『李東雷』元人民解放軍中佐として紹介していた。論文は、今の日本が軍国主義になることはありえない。対日外交の失敗。安倍首相の靖国神社参拝、防衛予算増加などを『軍国主義化』と結びつけて非難する言論に対し、今の日本人は「平和憲法を66年も受け入れ、十分な自由、民主を享受し、文民の管理下で一代一代と戦争の思考から離れていった」と説明した上で、「軍人が政治に関与しないのが(今の)日本だ。どうやって軍国主義に向かうのか」「戦後60年以上が過ぎ、日本は変わった。『軍国主義復活』との言い方は人々を誤解させ、たやすく過去の恨みと結びつける。自分の体験を交え、事実を伝えたいと思った」と述べている。

 日本語訳は全体で2万5000字を超える。極めて微妙なテーマであり、筆者の意を正確に読み取っていただくためにも、以下に掲載する第1回を含め3回に分け、あえて全文を掲載することにした。一人でも多くの人に目を通していただきたく思う。なお、日本語訳は筆者の友人に依頼した。一切添削をしなかったので若干読みづらいところはご寛容願いたい。

**********************
 
現代日本の怪物化と対日外交政策の失敗(1)


老兵東雷


本文は一方的な視点から書かれている。
その理由:
1. 本文は中国を分析する視点で書いたものであり、その分析には日本の対中姿勢に関する直接的な資料を用いていない。
2. 本文は筆者の経験に基づいている。関連する証拠を引用することは出来ない。
 日本とはどんな国なのか?この問いに答えるのは難しい。しかし私が知る現代の日本は、長らく我々により怪物化されてきた日本とは違う。私は外交で二つ目の学位を取得し、アジア太平洋の安全の実務に長く携わってきた。中国の対日外交について語るだけのストックはある。実際、私は7年前にも『冷静な目で日本を見る』という文章をブログに載せた。
 7年経った今、しかも日本車が焼き払らわれる事件や釣魚島問題での度重なる過剰報道を経験したことで、私は中日関係における中国を冷静な目で見る必要があると感じている。
本文には以下の三つの部分が含まれる:
1、 私が日本を認知するに至る過程。
2、 現代の日本を怪物化する理由。
3、 中国の対日外交が失敗である理由。

[T]私が日本を認知するに至る過程

 大学進学以前、私は浙江省の鎮海という海辺の小さな町で暮らし、そこの幼稚園及び小中高で学び、しっかりとした教育を受けた。小さな町ではあったが、みな町を自慢に思い、他の土地の人間を田舎者とする傾向があった。中学(注:日本の中学と高校を含む)の生徒は地元に住む者と寮生の2種類だった。寮生は我々が田舎とみなす所からの生徒で、勉強にとても熱心だった。なぜなら彼らにとって農村戸籍から脱出する術は大学に進学することだけだからだ。勿論その学校の大学進学率は驚くほど高かった。この様な町で暮らしていた私の最大の望みは、そこを出て世界を見ることだった。
 高校の時、私は次の様な方法で町を出ることを考えた。@家から遠く離れた大学に入るA大学に受からなかった場合は兵士か船員になる。幸いなことに、私はほぼ全ての望みをかなえる事ができた。大学に入り、兵士にもなり、後に軍艦に随行する形で海外・五大陸に行き、夢にまで見た世界を見ることができた。このような想い出話をわざわざ書いたのは、私も同年齢の中国人と同じく、閉鎖的な環境で幼少時代を過ごし、とても狭い考え方しかなく、階級で分け隔てる考え方をしていたという事を説明したかったからに他ならない。
 そのような閉鎖的な環境で日本を知る最初の手段は映画や連環画(子供向けの小型漫画本)だった。映画で一番印象的だったのは「三進山城」、「平原遊撃隊」、「地雷戦」、「地道戦」、「鉄道遊撃隊」などだ。当時映画は屋外で見るものだったので、これらの映画を何度も見た。その内容はほとんど同じ描かれ型で、遊撃隊が日本人を蹴散らし、最後は八路軍が鬼(日本人)を退治するというものだった。
 私の母は鎮海の中の更に小さい“柴橋”という村の出身で、当時地元ではそれなりに大きな家だった。その家の庭の壁は一部崩れていて、年寄りの話しによると抗日戦争時に日本の爆撃で壊れたそうだ。その他にも、東洋人(日本兵)が進攻して来た時に女性が顔を黒く塗りつぶして畑の中に身を隠したという思い出も聞かされた。
 高校では文科系に入り歴史を学んだ、割と全面的に歴史を学んだと言っていいだろう。それでも南京大虐殺については依然として耳にしたことがなかった。1985年に軍校に入学し、そこで歴史の授業を受けた。実際それは党史を学ぶ授業で、その時教わった抗日戦争の内容は分かりやすいもので:「日本軍が大挙して侵攻したが蒋介石と国民党はそれに抵抗しなかった。張学良の西安事件により国民党と共産党は共同戦線を張った、しかし国民党の破壊に遭い、共産党が全国の抗日戦線を指導し勝利に至った。」というものだった。南京大虐殺についてはこの時期に知ることとなった。
 故に、大学卒業まで完璧な洗脳教育を受けていて、日本人の印象はかなり悪いものとなっていた。しかし洗脳で植えつけられたものは、後の自らの体験により逆転された。
その1:
 1978年の改革開放後、鎮海と寧波が合併し一つの市区になった。また、鎮海は寧波の海の玄関口であることから、上海宝山製鉄所に原材料を運ぶための港を作ることになった、後に著名になる北侖港だ。宝山製鉄所が日本人の支援を得て作られた事はその時点で知っていた。そこの設備が日本の製鉄所の中古品であることも後で知った。私の知る限り寧波港の建設でも日本人の支援があった。父は寧波で初代の港湾建設者だったので、夏休みは父と共に通勤バスに乗り、港で過ごした。そのバスはそれまでに乗った事のある普通のバスと違い、とてもしっかりした作りで、窓ガラスには日本の文字が記されていた。つまりそのバスも日本からの支援だったのだ。後に思ったのだが、中国の開放が始まったばかりの頃、私たちには日本への反感などほとんどなかった。
 日本の家電は中国で一番人気があったし、その品質の素晴らしさは今も年寄りたちが懐かしむほどだ。当時の中国人は家に日本の家電があることを自慢に思っていて、90年代まではそうだった。日本の映画もまた『君よ憤怒の河を渡れ』という作品が一世を風靡し、日本のドラマに中国人は感動の涙をおおいに流した。日本のスターの名も、今の蒼井空さんのように、津々浦々に知れ渡り、日本の歌謡曲も流行った。中国から日本に嫁いだ女性も多くいた。
 その頃私は幼かったので、国家間の政治ゲームなど知る由もなかった。なぜ中国人は日本人に反感を持っていなかったのか、声高に南京大虐殺を訴える人もなく、釣魚島を知る人も無く、日本製品不買運動や戦争賠償の要求を叫ぶ人もいなかったのはなぜか、全く分からない。日本の事は全て自然に受け入れられ、わだかまりも無かった。当時日本はすでにかなりの先進国であり、30年に渡り貧困と極度な物資不足の中で暮らして来た中国人には日本にモノ申す気概など無かったのかもしれない。貧すれば鈍するということか?中国人もプラグマティストだったのか? いや、当時の中国人は党の言うことに従順だったことを忘れてはいけない。では今、中国の改革開放に日本が貢献した事を話題にする人はいるか?
その2:
 1990年から渉外事務に就いたが、残念ながら当時の中国の外交的環境はひどく劣悪だった。前の年に広場で起きた事により、中国は長い期間にわたり西側諸国からの政治的経済的制裁を受けることになったからだ。西側諸国(日本も政治的には西側諸国である)は中国との外交交流を停止した。でも後に友人に聞いた話では、89年の国慶節祝賀式典の夜、ケ小平が天安門の建物の中で、中信集団の招きで来訪した日本の代表団と会ったそうだ。それは西側諸国からの最初の代表団だった。私の友人はその席での通訳だった。
 私が日常生活の中で初めて日本の軍人を見たのは1990年夏だった。それがどこの国の主催のレセプションだったかは忘れた。北京では多くのレセプションが開かれ、各国の大使館が建国記念日や軍隊の日のレセプションを開いていた。とにかく、あるホテルでメガネをかけ髭を生やし、それまで見たことの無い軍人制服をした日本人を見かけた。彼は日本大使館の国防武官で、階級は一佐、更に正確に言うと自衛隊からの大使館員だった。私は心の中でひそかに彼を罵倒した。それは、子供の頃に見た映画で植えつけられた印象があったからだ。彼もまた中尉の身分を持つ中国の若き軍人である私に好奇心を抱いた。彼がそこそこ上手に中国語を喋れたので話しをしてみた。すると私は徐々に通常の、肩の力を抜いた状態に戻れた。それは、戦争はとっくの昔に終わり、目の前の日本の軍人は当時の軍国主義者とは違ったからだ。
 その後も彼は新年になるごとに日本のカレンダーを送ってくれた。それは素晴らしい印刷が施された見事なもので、当時の中国のカレンダーなど比べ物にならなかった。 その後も自衛隊訪中団の受け入れを担当したが、彼らはみな温和で謙虚で礼儀正しかった。
その3:
 1995年、イギリス外務省の奨学金を取得しイギリスに留学、外交学を専攻した。クラスメートには韓国、香港などアジアの学生が多く、男女3人の日本人学生もいた。日本の学生と長く触れ合うのはこれが初めてだった。彼らは皆若く、私が中国人だと言うとまず天安門広場を連想した。私は彼らとすごく大きな距離感を感じた。と言うよりも、西側諸国からの学生のほとんどが私に距離感を持っていたと思う。
 もう名前も忘れたが、みな私より5~6才年下だった。男性はスポーツマンタイプで溌剌とし、女性2人はいつも素っぴんが想像できないほど濃い化粧をしていて、話声はか細かった。その一人は名字を聞いただけで分かるほどの良家の子女だと聞いた。彼らは左程英語がうまくなく、授業では沈黙を守るタイプだった。私も授業中は寡黙を通した。当時の国際関係において中国は非難されやすい立場だったからだ。でもNBAの授業での中国は逆だと聞き、選択を間違えたと、ちょっと後悔したことを憶えている。
 一番好きだった授業は現代国際関係史だった。教官が中国に寛容な姿勢を見せていたし、私の論文に良い点数をつけてくれた。一方、外交の授業担当だった私の指導教官は、中国の朝鮮戦争介入を抗弁しようとした私の発言を度々遮り、外交政策の教官も私の考えが気に食わないようで、論文の文法上の間違えを挙げ連ね低い点数しかくれなかった。外国からの学生にはとても不公平だと思った。
 でも、まさにこの現代関係史が私に中国現代史をマクロに俯瞰させ、初めて明確な考えを持たせてくれた。つまり、中華民国こそが1949年以前の中国の国家主体であること、そしてそれにより私は20世紀初頭の中国の歴史をマクロに知り、党史の教育による呪縛から脱し、第二次世界大戦と抗日戦争の全容を知ることができたのだ。中国の学校教育では中国共産党史が中華民国史を代表し、徹底的に歴史を歪曲している。その目的はただ一つ、執政の合法性を証明するために歴史を改編しているのだ。実に恐ろしい。
 3人の日本人学生と親しくなるにつれ、彼らは私という英語が喋れる中国の軍人が想像したほど怖くないようだと思ったらしい。ある日私は「一緒に食事をしょう」と彼らを宿舎に招いた。ついでに洗脳しようとも思った。宿舎にやってきた彼らは天安門事件について質問し、私は日本が中国を侵略した歴史や南京大虐殺を話題にしてみた。すると彼らは至極驚いた様子をみせた。この間の歴史を彼らはあまり知らなかったからだ。
 そして一緒に音楽を聞こうと私が取り出したCDを見て、それが海賊版であること、私がそれを平然と聞いていることに彼らは驚いていた。海賊版が違法であることを彼らは知っていたからだ。この一件で私は目を覚まされ、恥ずかしさを感じるに至った。法治国家が育てた人の考えを知ったからだ。知的財産権に関する私の意識は、書いた論文も含めて、英国により育まれたものだ。
その4:
 1997年2月、中国の高級将校行政班と共にハーバード大学ケネデェイ行政大学院で研修を受けた。ここで私は二つの地域の問題について全く新しい見方をするようになった。一つは、アジア太平洋におけるアメリカのプレゼンスが地域の安全に有利であること。アメリカの核の傘が日本の軍事力発展の制約になっているからだ。二つ目は、それまでの視角を超えて中日関係を見ることになったことである。
 その研修の内容はグローバル化から地域衝突、情報化時代から核の危機など多岐に渡り、国際関係においてアメリカでトップクラスの学者や元国防長官などが講師を務めた。そのうちのお二人が私には印象的だった。それは、後にソフト・パワー説を発表したジョセフ・ナイ氏と、アメリカの東アジア問題の権威であるエズラ・ヴォーゲルで、私はお二人の講義の通訳をした。
 エズラ・ヴォーゲル氏の中日関係の講義は素晴らしく、中日関係の話しでは激しやすい中国の士官たちでさえぐうの音も出ないものだった。氏は第三者的視点から中日関係を語り、明治維新による日本の徹底的な変革や、第二次世界大戦後の日本がなぜ戦争の原因を徹底的に清算できないのか、日本の天皇が何故保たれたのか、靖国神社と先人を尊重する日本文化、日本の平和憲法、強いものに従う日本人とは、等々を語ってくれた。
 この講義で私は、自分たち中国人が日本を知らないこと、知ろうとしていないこと、独りよがりの狭隘な考えで日本を理解しようとし、そのナンセンスな理解を疑おうともしていなかった事を知らされた。
 その日は講義が終わっても皆黙り込んでいた。皆エズラ・ヴォーゲル氏の話しに納得がいったからだ。でも私は講義後に大佐と論争することになった。私が「中国の若者は日本を全く恨んでいない、逆に日本が大好きだ」といった事に大佐は、自分の息子が日本人を恨んでいることを理由に「中国の若者は心底日本を恨んでいる」と反論したからだ。事実は彼の主張は間違ってはいない。
 では中国人はいつから再び日本人を恨むようになったのか、私には今でも分からない。ここまで沢山書いたがまだ1997年までしか書けていない。私はこの年に30歳になったけれど、まだ日本には行ったことが無かった。ここからが実際に目にしたことで起きた変化である。
その5:
 1998年からは度々日本を訪れ、実際に日本を見ることになった。
 中でも最も印象に残ったのは、1998年に当時の軍事委員会副主任兼国防相だった遅浩田上将の訪日に随行した時の事である。それは中国の国防相の初の日本公式訪問だった。訪日をひかえた壮行会で遅副主席は代表団随行員全員に「日本に行くと腰が砕け、日本人にペコペコする無様な輩がいるが、みな決してそうなるな。」と語った。
 我々はその言葉どおり、始終腰をぴんと張って日本でのスケジュールをこなした。この『腰をぴんと張れ』は後に私が発表した「冷静に日本を見る」という未熟な作品の第1篇となった。
 遅副主席は抗日戦争の最後の段階で八路軍に参加した。後に発表された母を偲ぶ文章の中では、八路軍参加を母親がどれほど応援してくれたか書かれていて、それに深い感銘を受けた。まだ国内にいた頃、遅副主席が人民大会堂で日本のある政党の代表団と会った時の事だが、彼らにこう言ったことを今でもはっきり覚えている。彼は「あなたたち日本人に私は感謝したい。そもそも私は勉強して私塾の先生にでもなろうと考えていた。でも日本が中国を侵略し、私の村の人を虐殺したことで、私は軍に入ることになった。それが今の私を国防相にし、上将にした。」この言葉から、日本に対する彼の感情が私の何倍も複雑であることが分かった。
 東京滞在中は指導者との面会、会談、宴席など公式活動でびっしり埋まり、軍関係から政界、財界から華僑組織と広く接することで忙しく、東京がどんな所かも知ることもできなかった。覚えているのは歓迎宴で振る舞われた日本料理がとても手の込んだものだったという事だ。
政府との正式な交流活動を終えると、軍の視察と各地見物の日程が組まれていた。日本の防衛庁が、時間を節約するためにヘリコプターを手配し、航空自衛隊の百里基地や海上自衛隊の横須賀基地、陸上自衛隊の富士訓練センターへ案内してくれた。
 百里基地ではF-15とF-2戦闘機の航空パフォーマンスや装備の展示も披露してくれた。でもあまり深い印象は残らなかった。私の軍に関する知識の中でも空軍については最も知らなかったからだ。陸自の富士訓練センターは富士山の麓にあり、そこでは陸自の武器装備の展示や、一部については操作のデモンストレーションを見せてくれた。一連の対応は、我々が外国の軍事代表団を受け入れる時とほぼ同じだった。日本側の受け入れ態勢は我々と同じく綿密に準備され一糸乱れぬものだった。でも我々以上に緻密であった事は否定できない。
 横須賀基地が最も印象的だった。横須賀はアメリカと日本の共用の軍港で、その後再び訪日した時にはアメリカの空母「キティホーク」が停泊していたが、この時に日本側が披露したのは国産の護衛艦「春雨」だった。「春雨」は1996年に就役した防空対潜水艦護衛艦であり、当時の中国の現役の軍艦よりはるかに進んでいた。私は仕事柄、他国の軍艦を沢山見てきた。新旧・大小様々で、海に浮かぶものも海中を進むものも見た。日本の造船業と科学技術の水準は極めて高く、日本の軍艦から依然として日本製の精緻さを感じさせられた。
 日本の海軍を訪れたこの時、私は「もし再び中日で海戦が起きたとして、中国海軍が日清戦争の時以上の結末を迎えることはないだろう。戦いは海上にとどまり、陸上戦にまで広がることは無いだろう。」と確信した。
幸い中国の海軍装備はこの十数年で大きな進化を遂げたが、戦闘力を備えているのか分からない。
 公式訪問が終わると、文化の旅になった。私はこれまでに『文明の力:箱根から京都まで』という文章で、遅副主席が東京を発った後の文化の旅について書いた。それは二日前に改めてウィ―チャットでも公表した。それを書いたのは2007年1月4日で、文中に私は中華文化による覇権への期待を込めた。事実当時の私はあまりにも楽観的に考えていた。この7年間世相の乱れは拍車がかかり、経済の繁栄が中華文明に復興をもたらした形跡は見られなかった。同時に、中国による日本怪物化も激化した。
 訪日した当時、中国にはまだ高速鉄道が無く、新幹線での移動は感慨深かった。車中で同僚とふざけ合い、不意に浮かんだ「バカヤロウ」という言葉を私は言ってみた。すると、たまたま近くにいてそれを聞いた若い女性が驚き、そんな罵り言葉をどこで覚えたのかと質問してきた。
 遅副主席は日本訪問終了後、引き続き他国を訪問したが私は随行せず、大阪から東京に戻り単独で二日間を過ごした。私は二日間観光客として、賑わいながらも秩序ある街並みを見物し、普段の町の様子、夜の新宿、仕事帰りにパチンコに興じる日本人、通勤ラッシュの東京の地下鉄の尋常じゃない込み具合を体験した。
 その後も後続の代表団と共に日本で産業と農業の見学もした。他にも国防部関係者として日本での会議に何度か参加し、中国人留学生の部屋を訪ねたり、日本の大学構内をブラブラしたり、沖縄の米軍基地にも行った。
 私が感じた中国と日本の一番の違いは秩序であること、中国より人口密度が高いが、国民の資質はそれより遥かに高いことを感じた。かつて有った「大国の台頭」というテレビのシリーズ番組で、日本の台頭についても述べられ、その理由に日本のしっかりした教育を挙げていた。
 私が不思議に思うのは、日本では政治と国際問題が政治家と官僚のゲームとなり、一般の国民の生活とは直接関係していないようであることだ。中国では皆が政治を熱心に見つめ、それぞれに日本に対する沢山の感情を抱いている。とは言え、これは私の勘違いである可能性もある。
その6:
 時は経ち、アジア太平洋の多国間安全協力が私の主な仕事となった。多国間とは二カ国以上を指す。私は多くの地でアジア太平洋安全国際会議に出席した。会議で私は主にアメリカと日本の参加者と対峙した。この両者には明らかな違いがあった。アメリカ人は単刀直入を好み、私もそういう率直なやり方を好んでいた。だから日本人とのやり取りは気疲れが多かった。
 出席する会議は通常、外交官と国防省の人間で構成されていて、時には分かれて会議をすることもあった。国防との会議は比較的に簡単に済むことが多い。ひとつの問題をめぐりそれぞれが意志表明し、それを会議の成果とする。後は外交官の雑談を聞き、最終日に徹夜して文章をこねくり回し、妥協のすえ何ら拘束力の無い会議の声明文を作るのだ。
 日本の自衛官は滅多に会議に出席せず、出てもほとんど発言しなかった。それは、@日本の軍は政治に関わらないA彼らは地域の安全についてあまりにも知っていないからだ。通常、会議での日本は防衛庁の文官が発言する。彼らの英語での説得力はやや弱かったが、会議で求められ反応力、細部を把握し落ち度が無いか見抜く能力はかなり長けていた。最大の問題は、彼らの真意がどこにあるのかとても掴みにくい事だった。日本の文化に従い、彼らは面と向かって相手の意見を否定しようとしない、とは言え否定しない事を肯定しているとみなすことも出来ないので、常にてこずらされた。北東アジア安全シンポジウムの進行をまかされた事があったが、その場にいた日本の防衛庁職員と何度も言い争いになった。実は彼は私が会議の進行をする事に納得していなかったのだと最後になって気づいた。
 これは文化の違いによるものだろう。日本人は表面上とても謙虚で直接的な否定を好まない。一方私は長年英語圏の影響を深く受けてきたので遠回しな言い方に馴染めないのであった。
 英国にいた頃、国と国との文化の差について書いた事がある。また、外交官について書いた文章で、「外交官は学んだ外国語の影響を特に大きく受ける」と指摘した。また、ひとつの例として「中国外務省アジア局日本課を覗いたならば、そこの外交官の仕草も身なりも日本人に酷似していることを知るだろう」と書いた。そんな文化の違いは私に「日本人の姿を本当に理解できているのか、日本人の心の動きにちゃんとアクセスできているのか」という疑問を生じさせた。
その7:
 再び日本に行ったのが2008年。私は転職し北京オリンピックのオフィシャルサイトの記者になっていた。世界中をめぐる聖火リレーに随行し私は長野を訪れた。そこで国内にいる中国人には見ることが出来ない光景を目の当たりにした。私は聖火ランナーの前を走る報道用の車に乗り、北京でのオリンピック開催に反対する様々なアピールをカメラに収めた。当時それを『長野で妖怪変化を見た』と題した手記にした。
 北京オリンピックの聖火リレーはロンドン・パリ・アメリカ・ニューデリー・オーストラリア・長野・ソウルを走ったが至るところでチベット独立運動活動家の抗議の声、聖火の強奪や火消しなどに遭った。そして抗議は日本で最高潮に達した。そんな情景をロンドンで初めて見た時は腑に落ちず怒りを覚えたが、度々目にするうちに気にならなくなった。抗議することは民主政治の国の本来の姿であり、私たちがそれに慣れていないと気付いたからだ。
 我々には見慣れていない事を陰謀化したがる傾向がある。ただし、私は長野で行われた北京オリンピックの聖火リレーにおける『日本の警察官の懸命な努力』について書いた。あの日、日本の警察が北京オリンピックの聖火を守るために身を盾にして守り抜いたからだ。勿論あの日、長野市ではそれ以上に多くの中国国旗がはためいていた。私は「日本の中国人留学生や華人は親日的だから控えめにするだろう」と思い込んでいた。しかしあの日、日本各地の華人と留学生が粛々と長野に集まり、聖火リレーの走行ルートで、その愛国心からなる声援を送っていたのだ。
 帰国後、私はカメラに収めた写真を整理し、それを『聖火ランナー』、『チベット独立運動家』、『愛国学生』、『一般大衆』、『警察とメディア』に分けたPPT資料にし、大学での講義に用いた。受講者は見せられた写真に色々な思いを抱き、私の言葉に感情を左右させた。それでも、私がそれら全てを発表しない限り、北京オリンピックに関する諸外国の情報を全面的に知ることは出来ないのだ。
 ではこれまでの長期間、中国のメディアは日本について全面的に報じてきただろうか。我々は日本の誰かの何か一部でも明らか出来ただろうか。私は自身のPPTにとても独特にタイトルをつけた。それは、『寛容な目で世界を見よう』である。
その8
 3年前、世界の気候問題に関する議論が活発になり、まさにピークに達したころから、私は低炭素環境保護、省エネ排出削減の仕事をはじめた。環境問題に注目する中、私はふたたび日本をじっくり観察することになり、再度、日本の国際的義務について考察することになった。環境保護という視点からみた場合、日本はまちがいなく、世界において環境文明がもっとも発達した国のひとつであり、国際的義務を負うという視点からみると、日本が負っている国際的義務は非常に高く、世界で尊重されているレベルは中国よりはるかに高い。また、日本は中国に対する援助が最も多い国である。
@ 日本のGDP原単位は中国の7分の1である。これは恐るべき数字である。中国がGDPのみを追求したがゆえにまねいた、高エネルギー消費、低効率、深刻な汚染、低いアウトプットを意味しており、環境に対する略奪と回復不可能な破壊にほかならないからである。逆に、資源が不足し、人口密度が極めて高い日本の、地球や人類に対する貢献を意味している。環境文明は現代文明の新たな標識と言える。
A「京都議定書」は世界の環境と気候問題で一里塚の意味をもつ文書である。また、日本の京都で採択され、先進国の二酸化炭素排出制限を規定したものであり、日本は比較的厳格にこの文書を執行している。
B日本のどれだけの企業や組織またボランティアが、中国北部の砂漠地帯の植樹造林に参加したかは知らない。しかし、私は統計で出てきたこの数字が驚くべきものであり、中国人がこれにより慙愧の念にかられるであろうことを知っている。
C30年あまりにわたって、日本は中国にとって最大の援助国であり、中国は日本がもっとも多く援助した国である。中国が海外から受けた援助の内、60%以上が日本からのものである。30年にわたって、日本は中国に合計2900億人民元の援助をした。首都空港、浦東空港を含む中国の多くの空港、港、鉄道などいずれも日本からの援助を受けた。この種の援助には、中国人数万人の日本での研修も含まれている。
D90年代、日本はアメリカを抜いて世界最大の対外援助国となった。もし日本に以前ほどの国力がなくなっていたとしても、依然として世界最大の対外援助国の一つである。
 以上、認識を新たにした8つの理由を述べた。私は、日本がいったいどのような国であるのか明確に述べていないことはわかっている。私の日本に対する理解が不十分であることを認める。しかし、私は、あなたがたが考えている日本とは異なる日本を示すことができたと信じている。
(つづく)

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