「朝雲」
―聖なるガンジス―
インドで最も人気のある観光スポットの一つにヒンズー教の聖地バラナシがある。首都デリーから南東に約800キロ、ガンジス河西岸の人口約130万人のこの街には1500近くのヒンズー教寺院が並び、多くの巡礼客で賑わう。
ヒンズー教の教えでは、聖なる河ガンジスで沐浴すれば全ての罪が洗い流され、死後の肉体をこの河に流すと輪廻から解脱できる。河そのものが信仰の対象で、三島由紀夫の「豊饒の海」や遠藤周作の「深い河」にも登場し、日本人観光客も多い。
沐浴する人々
ハンセン病制圧活動で40回以上、この国を訪問しているが、3年前、この地のハンセン病施設に立ち寄った際に見たガンジス河の印象は強烈であった。
河幅は150メートル弱と意外と狭いが、流れは速く、少し上流では汚れた生活排水が勢いよく流れこみ、茶褐色の河面にゴミやペットボトルが浮かぶ。早朝、ボートで一帯を見学すると、河岸にはガートと呼ばれる階段状の沐浴場が並び、老人から子どもまで人で溢れかえっていた。
口に水を含んで頭や顔に水をかけ祈りを捧げる巡礼者、歯磨きや洗濯をする人、河辺で背を向け排せつをする人まで、まさに何でもあり。バラナシの別名である火葬場がいくつか並び、煙が上がる傍らには薪が積み上げられていた。
金持ちは豊富な薪で最後まで焼かれ、薪代のない貧しい人は生焼けの状態で河に流される。10歳未満の子供やハンセン病患者などは荼毘の対象外で、石の重しを付け川の深みに流される。数千年の歳月の中で河底に堆積した人骨はいかばかりであろうかー。牛の死骸を鳥が突っつく光影も見られ、時に布に包まれた子供の死体も流れるという。
ガンジスの水は霊力が宿る聖水であり腐らない、と信じられ、巡礼者は故郷に聖水を土産に持ち帰る。しかし生活排水や工場排水で水質は確実に悪化しており、インド政府は1985年から、ガンジスの水質保全対策に着手。2003年からはJICA(国際協力機構)もバラナシで下水道処理施設の建設・改修や公衆トイレの整備、住民の公衆衛生意識の向上に協力している。
混沌とした無秩序と多様な価値観、たくましいまでの生命力。夕陽を受けオレンジ色に輝くガンジスの河面を見ながら、悠久の聖なる川に頭(こうべ)を垂れ合掌した。
(ささかわ・ようへい=日本財団会長)
夕日を受けたガンジス河は、全てを飲み込み美しく輝く
*8月29日、自衛隊の週刊新聞「朝雲」に掲載されたエッセーです。