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8月12日(月) [2013年08月12日(Mon)]

8月12日(月)

9:40 財団着
 
終日 書類整理、社内打合せ

「中央アジアの旅」その1 ―ウズベキスタン― [2013年08月12日(Mon)]

「中央アジアの旅」その1 
―ウズベキスタン―


7月3日〜12日、ハンセン病事情調査のため中央アジアのウズベキスタン・タジキスタンを訪ねた。

ウズベキスタンは北にカザフスタン、東にキルギスタン、タジキスタン、南にアフガニスタン、西にトルクメニスタンと国境を接し、人口は約3000万人で、中央アジア最大の国である。

カリモフ大統領は1989年にこの国の共産党第一書記となり、独立国となっても強権的政治を実施する独裁者である。したがって、この国に言論と政治活動の自由は存在しない。

世海最大の湖・カスピ海(日本の面積に匹敵)に面しているものの、二度国境を超えないと海に出られないという世界で数少ない二重内陸国でもある。この国を訪問するのは1996年以来で、17年前には曽野綾子前会長と共に訪問。カザフスタンからギルギスタン経由で、左に雪をいただく天山山脈を見ながら、かつてのシルクロードを、ウズベキスタンの第二の都市サマルカンドまで車で走ったものである。長い道中、亡くなった名落語家・桂枝雀の落語のテープを聞きながらの旅は、懐かしい思いでの一つである。

中央アジアのハンセン病事情は、昨年6月に訪問したロシア、ウクライナ同様、WHOの統計上に表れていない「空白地帯」であった。

ハンセン病の実態については別の機会に触れるとして、初日は韓国経由で夜遅く首都タシュケントに到着、翌朝、WHOウズベキスタン事務所にアスムス・ハマリック博士を尋ねた。博士とはインドネシアでお会いして以来二度目で、この国の保健状況について約1時間説明を受けた。

テーブルにはこの国の名産である干し杏、干し葡萄、くるみ、アーモンド、ピーナッツの砂糖がけ、色とりどりのドライフルーツ、ナッツの盛り合わせなどが盛られていた。今回の旅はハードスケジュールでもあり、秘書より禁酒厳守を申し渡されていたので、ハマリック博士の同意を得て、積まれたおつまみを紙ナプキンに包んでポケットに入れた。

私がポケットに入れたおつまみ.JPG
ポケットに忍び込んだおつまみたち


アリモフ・ヴァリエヴィッチ保健大臣は、母子保健に重点を置き、新生児死亡率は22年間で三分の一に減少したこと、人口3000万人のうち18歳以下が約950万人と若年層人口が多く、将来の発展の可能性について言及された。

保健大臣から民族衣装をプレゼント.JPG
保健大臣から民族衣装をプレゼントされ


この国の北西部にはカラカルパクスタン自治共和国がある。この首都ヌクスまで飛行機で約90分。空港には副首相のアタジャン・カラマエフ博士とダニエル保健大臣が出迎えてくれた。

歓迎の宴にはテーブル一杯に果物、パン、各種野菜にチーズ、サラミなどが盛られた皿がずらりと並び、出席者は弾む会話と共に酒、食べ物を次々と口に運ぶ。現地の人は相当な大食漢である。ほぼ満腹になったところでこれからが正式の夕食だといってスープが運ばれ、その後大盛の肉料理。悠々と食べる彼らの食べっぷりに少々感嘆させられた。

心尽くしのご馳走で会話も弾む.JPG
ウズベキスタン人の胃袋の強さに感嘆!


第二次世界大戦後、当時旧ソ連には60数万人の日本兵が捕虜として抑留され、劣悪な環境の中で強制労働に従事させられた。望郷の念にかられながら、約1割の6万人前後の兵士は現地で不帰の人となった。

モンゴルのウランバートル随一の建物は日本兵が建造したもので、今も立派に活用されている。ここウズベキスタンにも14万人が送り込まれ、彼らが建設した劇場があるというが、日程の都合で花をたむけることは叶わなかった。

その中にはハンセン病を発症した兵士が4、5人おられ、そのカルテには靴のサイズまで記録され、保健省に残っているという。幸い、彼らは元気に祖国日本に帰還されたという。

カラカルパクスタンには、かつてアラル海と呼ばれた九州ほどの大きな湖があった。アムダリアとシムダリアの二大河川から水が流れ込んでいたが、旧ソ連時代、綿花栽培など農業のために大量の潅漑用水が引かれ、その結果、現在ではかつての四分の一の大きさにまで縮小している。湖の底であったところは砂漠化し、塩分と化学物質を大量に含む砂塵によって農地は荒れ、肝臓や呼吸器疾患が周辺住民に増えているという。

アラル海の大規模な環境破壊の現状を視察するため、首都ヌクスから北へ210kmを車で移動。かつてアラル海の港町であったムイナクを訪ねた。

かつて漁港であった近くには古びた鉄製の船の残骸が無残にさらされており、湖水は岸壁から何十キロ離れているのだろうか。全く視野には入らなかった。かつて、カザフスタンでアラル海の船の墓場と称される船の残骸が並ぶ港町を見たことがあるが、その時は遠くにかすかに湖水を見ることができた。世界各地を歩いた私にとって、これほど大規模が環境破壊の現場を見たことはない。

干上がったアラル海に残された船.JPG
干上がったアラル海に残された船


老人たちは、子どもの頃はこの湖で遊び、親の漁業を手伝い、湖と共に人生を送ってきたが、今の子どもたちは荒れ果てた湖底の塩害に悩まされかわいそうだと、現状復帰が絶望的な湖水のないアラル海を眺め、昔を懐かしんで溜息をついた。

オーストラリアのTV局が懸命に取材していた。
人間は自然の中に住まわせてもらっているという日本人の謙虚さこそ、環境保全に必要な要諦ではなかろうか。
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