「ウィンブルドンテニスとウィンブルドン現象」
―日英の考え方の相違―
伝統あるウィンブルドンテニス大会が開催されている。残念ながら、期待していた錦織選手がベスト16に残ることはできなかった。
世界中のテニス選手にとって、ウィンブルドンのセンターコートでプレーすることは夢であり憧れである。しかし近年、英国選手の活躍は少なく、優勝は外国の選手の独壇場となってしまった。
英国が単にテニスコートを外国人に提供するだけになってしまったことを「ウィンブルドン現象」といわれているが、実際、イギリス人の優勝者は1977年の女子シングルスでバージニア・ウェードが、男子シングルスでは何と、1936年のフレッド・ペリーが最後の優勝者である。しかし大切なことは、ウィンブルドンでは試合は勿論のこと、練習でも白いウェアーの着用が義務付けられており、様々な慣習や伝統が維持されていることである。
錦織圭選手
ウィンブルドンは、選手は勿論、世界中のテニスファンにとっても憧れの地
先般、伝統あるチャタムハウス王立研究所と日本財団で5年間に亘り共催する日・英対話の会議に出席した折、雑談の中でウィンブルドンが話題になった。今やウィンブルドンは単に英国のウィンブルドンではなく、テニス選手を夢見る子供たち、そして各国の優秀な選手にとっての憧れの地であり、正に世界のウィンブルドンになり、世界中のテニスファンがテレビをはじめ報道を通じて注目してくれるようになったと、誇らしげに語っていた。
さすが、かつて世界7つの海を制覇し、日の沈む所なしと豪語していたジョンブル魂の末裔である。すべてのイギリス人ではないが、常に世界的観点から物事を判断する能力は、我々にとっても必要な能力である。
例えば、世界で航空機や海難事故が発生すると、日本のニュースは「日本人の犠牲者はなかったもよう」で終わってしまい、他国の犠牲者への哀悼の言葉はない。グローバリゼーションの時代、世界あっての日本であり、日本あっての世界ではない。このような対応では管見(管を通して世界を見る。狭い見識)の誹りを免れないだろう。
そのことは日本の大相撲が良い例である。
日本では大相撲が「ウィンブルドン現象」にならないようにと、揶揄しながら批判するその筋の専門家と称する評論家がおられる。日本人横綱の待望論は当然としても、外国人力士の制限論などは論外である。モンゴル、ロシア、中国、韓国、ブルガリア、ブラジル、エジプト、グルジア等々の力士の活躍で、大相撲ファンは世界的に拡大している。エジプト出身の大砂嵐の活躍は、アラブ圏にまで大相撲ファンを拡大させた。
エジプト初の関取「大砂嵐金太郎」
政局に揺れるエジプトに大相撲の嵐が吹き荒れる?
日本の伝統文化に強く根ざした大相撲を通じ、世界の多くの人々が日本に関心を持ち始めたことは有難いことであり、日本理解の一助として大いに誇り得ることである。相撲の聖地・国技館を目指し、世界中から志願者が殺到することを望みたい。
その意味でも、大相撲のウィンブルドン化は大いに評価すべきことで、日本理解の一大外交的ツール(道具)であることを日本人は誇りに思うべきである。
ここまで書いたところで、旅先のタジキスタンで英国人選手マレーの優勝を知りました。
英国人のみなさんに心からおめでとうと申し上げたいと思います。