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ブルキナファソでのハンセン病制圧活動 [2012年05月19日(Sat)]

「ハンセン病制圧活動」


長島愛生園は1930年、岡山県に設立。国立療養所13ヶ所の中の第1号の療養所である。
現在入所者は297名、平均年齢82.44歳の方々が静かに生活されている。

以下は機関誌『愛生』に投稿した原稿を若干修正したものです。



ブルキナファソでのハンセン病制圧活動


WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平


2011年11月4日から6日まで、アフリカ西部のブルキナファソを訪問した。

ブルキナファソはマリ、ベナン、トーゴ、ガーナ、コートジボワールと国境を接する内陸国です。国土面積は27万平方キロメートルで日本の4分の3ほど。人口は約1600万人。粟やとうもろこし、タロイモ、綿花などの農業や牧畜が主要産業で、一人当たりの国民総所得は480ドル(2008年)ほどだが、西アフリカ諸国の中では比較的経済が安定しており、国民の半数は伝統的宗教を信仰し、3割がイスラム教、1割がキリスト教の信者である。今年の3月から4月にかけて、軍関係者による威嚇発砲や市内スーパーマーケットなどでの略奪行為があり治安状況が危ぶまれたが、駐ブルキナファソ日本大使館から訪問に差し支えはないとの連絡を受け、同国を訪問することにした。

11月4日の深夜、その前の訪問国マリの首都バマコからブルキナファソ航空に乗って首都ワガドゥグに到着。粗末な仮設テントのようなラウンジに通されると、そこにはWHOブルキナファソ代表代理のトゥラオレ・エティエンネ博士や保健省ハンセン病担当責任者のカファンド・クリストフ博士、WHOアフリカ地域事務所ハンセン病担当官のビデ・ランドリー博士、杉浦勉駐ブルキナファソ日本大使が出迎えて下さった。ホテルに着いたのは夜11時過ぎで、夕食抜きの就寝となった。

翌5日の朝はWHOブルキナファソ事務所で、同国のハンセン病の状況について報告を受けた。ブルキナファソは1992年、アフリカ諸国の中では比較的早い時期にWHOが定める有病率が人口1万人あたり1人未満の基準を達成している。現在は登録患者および年間の新規発見患者数ともに320人。患者数が減ったこともあり、政府のハンセン病に対する関心は低下しているが、新しく発見される患者の中に子供が含まれていること、重い障害をもった症例が新規患者のうち20%と非常に多いことは問題である。今一度医療関係者への教育や、症状が出たら病院に行くといった国民への啓蒙を実施する必要があることが判明した。

続いて保健省では、アダマ・トゥラオレ保健大臣と面談した。早い時期に制圧を達成されたことに対する感謝の意を述べ、「大臣のリーダーシップで患者数をゼロにすることも可能であり、回復者に対する差別についても関心を払ってほしい」と念を押した。大臣は「パートナーの協力を得ており、病気の根絶と差別の撤廃のために取り組みたい」との返答があった。また、東日本大震災と津波に対してお見舞いの言葉があり、「日本の友人のために何かできることがあればやっていきたい」と挨拶された。

ブルキナファソ1・保健大臣と.jpg
ブルキナファソ1・保健大臣と


トゥラオレ大臣との共同記者会見は、イスラム教の犠牲祭という大きな祭りの日にあたり、その上土日であったが、テレビやラジオ、新聞など15社ほどの報道関係者が集まり、熱心な取材があった。大臣は「最近、早期発見が徹底していないことや子供の感染者がいるといった課題を克服し、患者数ゼロと差別をなくすという最終目標を実現したい」と、意欲を示された。私は「ブレーズ・コンパオレ大統領と東京で何度もお会いしており、その際に大統領が「若いとき軍事訓練場の隣にいたハンセン病患者とよく会う機会があったため、この問題に深い関心を持っている」と話していたことを紹介した。また、ハンセン病は治る病気で、薬は無料で配布されていること、そして差別は決して許されないことを訴え、国民への正しい知識の伝達のためメディアに協力してほしいと呼びかけた。差別については、2010年12月に国連総会でハンセン病患者、回復者とその家族に対する差別の撤廃決議が全会一致で可決されたことを紹介し、この問題がいかに世界的に大きな問題であるかを訴えた。

その日の午後は、アフリカ各国で展開している笹川アフリカ農業普及教育プロジェクト(SAFE)の実施校ボボ・デュラッソ工科大学農村開発研究所を訪ねた。赤茶けた大地と照りつける強烈な日差しの中、未舗装のデコボコ道に揺られて移動する途中には、所々でイスラム教犠牲祭のために人々が集まり祈りを捧げている姿も見られた。粟やトウモロコシ畑に囲まれた大学のキャンバスに到着すると、ハミドウ・ボリー学長はじめ学生たちやOB、村長や村人たちが盛大に歓迎してくれた。農業指導者となる学生代表の希望あふれた立派な挨拶に、国家の独立と発展の基本は農業であり、農民に情熱をもって新しい技術を指導していくこの若い一人ひとりこそ、この国の将来のリーダーであるとの思いを強くした。

ブルキナファソ・犠牲祭でお祈りする人々.jpg
犠牲祭で祈る人々


翌6日は車で2時間の西部の町クドゥグを訪れた。クドゥグは、ハンセン病患者が多い地域で、フランスのラウル・フォレロ財団の支援により、約70名の回復者が1.3ヘクタールの敷地内で各自の畑をもって農業を行っていた。回復者の住居からこの農地まではかなりの距離があり、マイクロバスで通ってくる。農業指導者はおらず、アイデア倒れのプロジェクトであることは一見にして理解できた。目的が良くても結果が悪ければ何もならない。今年は雨が少なく水不足で、ヒエや粟、トウモロコシや米などの畑はカラカラに干からび、米は実らずに枯れ果てていた。敷地内にあるポンプ式の井戸は形だけで、長く使用されていない様子で、いずれにしてもうまくいっていなかった。収入は頑張って働いている人でも年間100ドルほどで、回復者代表のシモン・ドランさんは「収入は十分ではないが、何かをやることが大事だと思っている」と話してくれた。自助努力によって働くことが尊厳をもって生きるための第一歩であることは確かだ。それにしても仏(ほとけ)作って魂入れずの農場で、この姿に満足しているNGOには落胆せざるを得なかった。活動自身が目的化しており、その成果を目的としていない活動は、私の活動の大きな教訓にもなった。

ブルキナファソ・カラカラの農地を視察るす筆者 .jpg
乾ききった農地を見て思うことは・・・


午後は首都ワガドゥグに戻り、日本財団が進める現代日本理解のための英文図書100冊をボボ・デュラッソ工科大学(ブルキナファソで2校目、世界で711箇所目)に寄贈するためのささやかな式を日本大使館で行い、その日の夜帰国の途についた。
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