パラオ・ハンセン病の島を訪ねて [2011年05月28日(Sat)]
パラオのハンセン病島 パラオ・ハンセン病の島を訪ねて WHOハンセン病制圧特別大使 笹川陽平 「ここから少し離れたところに“RAIBYO SHIMA”があります」と関係者から聞いたのは、2010年11月11日に南太平洋上のミクロネシア地域に浮かぶ島々からなるパラオ共和国最大の都市、コロール島を訪問した時のことでした。 「らいびょうしま?」私はパラオ語かと思い、少し考えてからそれが「らい病島(※)」であることがわかりました。そして、なぜ「らい病島」と呼ばれるようになったのか、どのような歴史があるのか、現在はどのようになっているのか…、様々なことが瞬時に私の頭の中を駆け巡りました。今回のパラオ訪問は、ミクロネシア・海上保安機能向上のための官民合同国際会議に出席することが目的でしたが、期せずしてハンセン病の貴重な歴史を辿る旅にもなりました。 パラオは珊瑚礁と美しい海に囲まれた島々からなる人口約2万人の共和国です。スペイン、ドイツの植民地時代、日本、アメリカの統治時代を経て1994年に独立しました。かつて日本が統治していた名残で、パラオ語には日本語と同じ言葉が1000以上あるそうです。例えばトイレのことは“ベンジョ”、ベースボールは“ヤキュウ”と言うそうです。 さて、今回の滞在期間はわずか1日です。この時期は雨期だと聞いていましたが、訪問した日は晴天に恵まれ、青い海が光り輝いていました。午前11時、ハンセン病の患者さんに会うために国際会議の合間をぬって海沿いのペラウ国立病院へ向かいました。パラオ共和国のハンセン病の登録患者数は2009年に2人、2010年は4人、あわせて6人です。 病院に着くと屋外に建てられたココナッツ屋根の休憩所に6人の患者さんとその家族の皆さんが集まってくださっていました。一人一人と挨拶を交わしていくと、患者の中にひと際若い女性がいました。年齢は17歳、名前はショスティーさんと答えました。ショスティーさんは、足の皮膚を触っても感覚がなかったので、母親が病院に連れてきたとのことです。人口約2万人の小さな島に、ハンセン病の患者は6人。その中にこのような若い子が発症しているというのは、なぜなのか。私は、病気の感染経路が明確でない不思議さを感じられずにはいられませんでした。 しかし、この島では医療行政が機能していることを知りました。患者6人全員が早い段階から薬を服用していて、身体に障害はなく、数カ月後には完治する方々ばかりでした。看護師のコニーさんの話しでは、結核の担当者と共に毎日患者さんの家をまわり、病状のフォローをしているとのことです。MDT治療薬も世界保健機関(WHO)から十分に届いているということで安心しました。そして、冒頭で触れた「らい病島」はこの病院を訪問している時に聞いたのです。患者の中の一人、エラさんの親戚がこの島に隔離されていたということを聞きました。そして、その隔離は日本国が統治している時に行った政策であること、隔離されると周囲からは多少なりとも差別はあったこと、などがわかりました。 私はペラウ病院を後にし、早速小さいボートで「らい病島」へ向かいました。ボートに乗り、まもなくすると肉眼で確認できるほどの近い距離に島が見えてきました。コロール島からわずか1マイル(1.5キロ)とのことです。島に上陸できるのかどうか、期待と不安を抱きながら近づく島を見つめていました。ところが、到着してみると島の周りは浅瀬でボートが入り江まで近づけません。あきらめきれず、靴のまま海に入り10メートルほど浅瀬を歩いて島に上陸しました。そして、ハンセン病に関連するものが残っていないか、この目で確かめたい一心で木や葉に覆われた朽ちた木の階段をみつけ、階段が壊れないように確かめながら登り始めました。かつてこの島に連れてこられたハンセン病の患者さんたちもこの階段を登ったのかもしれないと思うと胸が熱くなります。 10段くらい登ると草や木が覆いかぶさって見えなくなり、草木でできた道なき道を進みきると、そこはうっそうとしたジャングルです。木や蔦やクモの巣を避けながら、ハンセン病に関わる痕跡を探しながら歩きまわりましたがそれらしいものは見つかりませんでした。時間に限りがあり、後ろ髪を引かれる思いで来た道を戻りました。そして島を一周してから国際会議場へ戻りました。会場には私がWHOハンセン病制圧特別大使であることを知っていた前保健大臣で現在は外務大臣をされているヤノ氏が「らい病島」についての貴重な資料を持って来てくださいました。資料はジョリー・リストン(国際アーケオロジカル・リサーチインステチュート)氏が1998年に行った調査をもとに書いた60枚の「ゲルール島の調査報告書」です。 報告書によれば、島の本当の名前は報告書のタイトルどおり「ゲルール島(NGERUR ISLAND)」で、広さは4エーカー、たて350メートル、横250メートル、高さ30メートルの島で、もとは火山で地理学的にも珍しい島だそうです。なぜ「RAIBYO SHIMA」と呼ばれたか、それは日本の統治下であった1930年代にこの島へハンセン病の患者を隔離する政策をとったからである、と記されていました。ハンセン病の施設が設立されたのは1931年、日本式の3つの家屋と井戸が作られ、当初18人の患者が治療を受けていたそうです。ハンセン病の施設としていつまで利用されていたかは、資料ではわかりませんが1950年にはエピソン元大統領の一族が改築したという記述があります。また、1998年に撮影された写真が掲載されており、かつて患者が住んでいた家やお墓が写っていました。私が登った山の反対側にそれらが残っていたらしく、最初にこの資料を見ていたらと思うと残念でたまりませんでした。 帰国してからわかったことですが、この島のハンセン病施設に住んでいた80歳代のパラオ人男性がコロール島にいたのです。この男性は10歳の時に収容され数年間施設に住み、戦争の激化に伴い違う島に移ったとのことです。男性によると、月に一度医者が薬を、職員が米や缶詰を運んでくれ、また自分たちでタロイモ、タピオカ、サツマイモを栽培していたとのことです。 ご存知の通り、ハンセン病はかつて不治の病とされ、病気の拡大を防ぐために各国で患者を隔離する政策がとられてきました。そのため、世界中のハンセン病施設は、とりわけ山奥や谷の合間など、街から離れた場所や島にあります。例えばフィリピンのクリオン島、ハワイのモロカイ島などが有名で、その他に私は日本国内の島に建てられたハンセン病療養所に加え、韓国の小鹿島、南アフリカのロベン島、インドネシアのブナケン島などを訪問し、世界のいたるところで「ハンセン病、隔離、島」という図式を見てきました。 今回訪れた「RAIBYO SHIMA」は私がこれまで訪れたハンセン病の島の中では一番小さく、もしかしたら世界で一番小さい島ではないでしょうか。ともすれば忘れられてしまいそうな歴史的な事実がこのような小さな島にもありました。今ならまだ歴史の証言者が生存していますし、かろうじて資料や跡地なども残っています。できる限りそのような場所へ行き、人に会い、この目で見て記録し、心に留めねばならないと強く思いました。そしてそれを世界に伝えて行くことも私の重要な役割のひとつであると再認識した旅でした。 ※文中では現地の呼び名通り、あえて「らい病島」を使っています。 |