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10月9日(土) [2010年10月09日(Sat)]

10月9日(土)

 15:00 パリ・ホテル発

 18:15 パリ発

 19:50 プラハ着

 21:00 プラハ・ホテル着

「インドにおけるハンセン病回復者との共同活動」 [2010年10月09日(Sat)]


ヤダブ保健大臣とハンセン病問題解決への固い握手を交わす


「ハンセン病制圧活動」


下記の文章は、鹿児島県にあるハンセン病療養所・星塚敬愛園入所者自治会機関誌「姶良野」秋季号に掲載されたものです。

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「インドにおけるハンセン病回復者との共同活動」


WHOハンセン病制圧特別大使
日本政府ハンセン病人権大使
笹 川 陽 平



2010年春、4月と5月の2度にわたり、インド東北部のビハール州を訪れました。

4月には9日から14日、6日間の日程で、ニューデリーとビハール州とに、それぞれ3日間ずつ滞在。その際にビハール州の回復者リーダーたちとともにビハール州のナンド・キショール・ヤダブ保健大臣、国家地方保健ミッションのサンジェイ・クマール局長とお会いし、ハンセン病回復者の生活状況改善を求めたところ、「2週間以内に詳細のデータと年金受給希望者のリストを持ってきてくれればすぐにでも対応する」との言葉をいただき、約束を果たすために再び5月にビハールの地を訪れたのです。

私がインドを「第二の故郷」と呼ぶのには理由があります。通算で39回、多いときには3年間で20回近く足を運びましたが、ただ頻度が高いからではありません。世界最多のハンセン病患者・回復者が暮らすこの国で、いかに病気を制圧するか、そしていかに回復者の社会復帰を実現するか。一番問題が大きく達成が困難なこの地から、他の国のモデルとなる取り組みを発信しようと、この10年間特に重点的に取り組んでまいりました。

今回の二度の訪問は、ビハールの病気の制圧という医療面の課題と、ハンセン病回復者の社会復帰という社会面の課題と、どちらにおいても新しいスタートラインに立ったことを実感させられる旅となりました。
 
4月の訪問日程は、ニューデリーでササカワ・インド・ハンセン病財団の理事会からスタート。この財団は、2007年に1,000万米ドルの基金をもとに設立したもので、コロニー(定着村)で肩を寄せ合って暮らすハンセン病回復者が経済的に自立できるよう、事業を立ち上げるための小規模融資を行っています。

今回の理事会ではシン氏、タルン・ダス氏など理事に加えて、諮問委員であるランジット・ロイ・チョウダリー氏、ラティ・ヴィネイ・ジャー氏、ナレーシュ・ダヤル氏の3人も同席し、財団の現状と今後の事業展開について報告と議論がなされました。これまでに融資した事業数は59、融資額は総額1千万ルピー(約2千万円)。

しかしコロニーで暮らす人たちの期待は高く、資金要請のすべてに応じられているわけではありません。期待に応えるためには、インド国内から寄付を募り、基金額を上乗せすることで、その利息から事業費に充てる金額を増やせるようにすることが喫緊の課題です。寄付を集めるための委員会が立ち上がり、今後本格的に動き出す予定です。

理事会の翌日は日曜日。週末ということもあり日中少し時間が空いたので、久々にデリーの旧市街の路地を歩きました。インドを訪れてもほとんど分刻みで予定が詰まっているため、このような空き時間があるのは珍しいことです。デリーの中心部は小奇麗で近代的なビルが立ち並んでいますが、旧市街を歩くと全く印象が違います。細い通りには電線が絡まりあって垂れ下がり、道端に敷いたビニールシートの上に野菜を並べた売り子のすぐ脇を、人力車が荷物を載せて揺れながらところ狭しと通り過ぎます。チャイが一杯、6ルピー(約12円)。急激に経済発展を遂げるインドですが、この風景は10年前となんら変わらないように感じます。

日曜の夜にはビハール州の州都、パトナへ空路で移動。

ビハール州は人口約1億人、ネパールと国境を接する州のひとつで、インドで最も貧しい州のひとつといわれています。人口1万人に患者数1人未満という公衆衛生上の問題としてのハンセン病制圧基準を達成していない州はインド国内に4州ありますが、ビハールもそのひとつ。

インド全国患者数の約13%にあたる12,246人のハンセン病患者が暮らしており、病気の制圧の面でも課題が多く残されています。にもかかわらず、4月の訪問時には州のハンセン病対策を統括する担当官が空席という問題がありました。そして、生活レベルが高いとはいえない州の中で、厳しい社会的差別から社会の底辺での生活を余儀なくされているハンセン病回復者の方々の生活は非常に困難な状況です。

まずはコロニーの現状を自分の目で見ようと、昨年12月に立ち上げられたばかりのビハール州ハンセン病協会(ビハール・クシュトゥ・カラヤン・マハ・サン)の案内のもと、パトナから2時間車を走らせ、東チャンパラン地区にある3つのコロニーを訪問しました。パトナはデリーよりもさらに暑く、最高気温45度という猛暑。外を少し歩くだけで、体中から水分が蒸発していくのが感じられます。直射日光を避けるために帽子をかぶっても、帽子の中がすぐに汗だくになるような熱気です。

まず訪れたのはモティプール・コロニー。55世帯、158人が暮らすコロニーで、うち40人がハンセン病回復者の方々です。まず、子どもたちの元気な声が迎えてくれました。声のする方に行ってみると、建物の半屋外の廊下に子どもたちがまっすぐに並んで教科書を音読しているのです。

聞くところによると、政府の学校では差別をされるので、ネパールとの国境にあるNGOリトル・フラワーの支援で独自の学校を敷地内に開いているとのこと。敷地内に建てられた家は、藁でつくられた簡素な造りのものがほとんどで、老朽化しており雨季には雨漏りがひどいそうです。

政府の支援が全くないわけではなく、低所得者を対象にした生活必要物資の受給資格証明書を持っている家庭は、35キロの米を月に70ルピー(約140円)で、また食用油や燃料も市場より廉価で購入できます。

しかし、病気が原因で障害が残っている方々がいるものの、障害者年金の適格にならず年金はもらえず、また月に200ルピー(約400円)の老齢年金の対象者の高齢者たちも年金の給付が滞りがちだと、コロニーの代表者は暗い表情で切々と訴えました。自分で働くという希望はほぼなく、大半の人々は物乞いをして生活しています。

次に訪れたチャキア・コロニーも、同じような状況でした。35世帯、45人が暮らす小さな集落で、やはり大半の住人は物乞いで生計を立てています。ここは洪水が多くある地域で、2009年の大洪水では家が流され、笹川記念保健協力財団が復興のための支援を行いました。

道路沿いに簡単な小屋を建てて暮らしていますが、道路拡幅の計画があり移動を迫られているため、代わりに近くの土地をもらえるように政府に働きかけているところとのこと。トイレがなく、敷地内に造る計画があがっているものの、近隣の砂糖製造会社の反対にあい頓挫しているそうです。

その日の最後に訪れたのは、13世帯、22人が暮らすピプラ・コロニー。ここでは、2010年1月12日に痛ましい事件がありました。

土地の立ち退きを求める近隣の地主が火を放ち、数軒の家が燃え、逃げ遅れた5歳の男子が亡くなったのです。偶然にも2009年12月に前述のビハール州ハンセン病協会が立ち上がったばかりで、ビハール州の代表者と全国規模の回復者組織であるナショナル・フォーラムの代表者が終結し、警察や政府と交渉した結果、政府から10万ルピーの補償金と、4月までに近隣の土地を提供して家を建てる約束を取りつけました。ひとりの犠牲が、悲しくもビハールの代表者たちの団結を強めることにつながったのです。

この集落を訪れる客人(しかも外国人)は珍しいのでしょう、私が住人たちと話しこんでいると道往く人たちがバイクや自転車を停めて、遠巻きに好奇の目で見ては去っていきました。

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