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resize.png日本財団はハンセン病の差別撤廃を訴える応援メッセージサイト「THINK NOW ハンセン病」を開設。皆様からのメッセージを随時募集・配信しています。
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笹川 陽平
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10月6日(水) [2010年10月06日(Wed)]

10月6日(水)

 11:20 成田発 パリへ

 16:40 パリ着

 18:00 ホテル着

「ジュネーブ・パリ・プラハ出張」 [2010年10月06日(Wed)]

「ジュネーブ・パリ・プラハ出張」


今朝から10月13日まで、表記の地域に出張します。

ジュネーブは、昨年6月、国連人権理事会で決議された「ハンセン病患者・回復者とその家族への差別撤廃」決議に伴う「原則とガイドライン」が9月29日に決議され、私の長年の夢が実現。その御礼と挨拶のため、人権高等弁務官、日本国ジュネーブ代表部に参ります。

パリでは、姉妹財団である日本音楽財団がルーブル美術館で行なうコンサート、レセプション、夕食会に出席。

日本財団共催のサン・ピエール美術館で開催されている日本の障害者のアート展「アール・ブリュット・ジャポネ展」を視察。

9日からはプラハで、ハベル元大統領との共催で14年間連続で開催されている「フォーラム2000」シンポジウム「どんな世界に住みたいか」(於:クロスローズ教会)で開会挨拶と、アジアパネル(於:ゾフィン宮殿)でのスピーチ。

11日には「原爆展」(於:ゾフィン宮殿)の開会式でスピーチ。

13日帰国予定。

「ゲンナジー・ヤナーエフ氏・死去」 [2010年10月06日(Wed)]


1990年10月に訪日したゲンナジー・ヤナーエフ氏(写真・中央)


「ゲンナジー・ヤナーエフ氏・死去」


大連からの帰国の飛行機の中で、ヤナーエフ氏の死去を報ずる以下のベタ記事を読んだ。

「ゲンナジー・ヤナーエフ氏(旧ソ連副大統領) 24日付インタファクス通信によるとモスクワ市内の入院先で死去、73歳。詳しい死因は不明。全連邦労組議長などを務めた後、1990年、副大統領に就任した。当時のゴルバチョフ大統領を休暇先で軟禁、全権委譲を迫った91年8月の保守派クーデターの首謀者の一人。「国家非常事態委員会」を設置して大統領代行就任を宣言したが、クーデターは数日間で失敗に終わり、逮捕された。」(産経新聞)

ヤナーエフ氏との初対面は、彼が全ソビエト連邦労働組合議長当時、故ヴォリスキー産業同盟会長・ゴルバチョフ大統領に新思考外交を伝授したヤコブレフ氏との親交がはじまり、しばらくして共に来日された折である。

浅黒い細面の顔立ちながらがっしりした体格。しかし、ロシア人としては小柄であった。

海部首相に表敬したいとのことで官邸の首相秘書官に電話を入れると即座にOKの返事。しかし、しばらくして秘書官より「笹川さん、折角だけど、大した人物でもないのでなかったことにして下さい」との電話が入る。

秘書官はJALより出向の金石氏であった。「今でも政権に影響力があるし、更に偉くなる人だから私を信じて」と説得。金石氏の努力で表敬訪問は実現した。

後日副大統領となり、1991年、クーデターの首謀者としてゴルバチョフ大統領を追放。自ら大統領代行に就任したが、クーデターは失敗に終わり逮捕された。

このときの報道映像はすべて海部首相への表敬訪問時のもので、報道を見ながら変なところでお役に立ったものだと苦笑したものである。この映像がなければ今日の北朝鮮の後継者と言われる金正銀のように、静止画像のみの報道となったことだろう。

ヤコブレフ氏来日の頃は、ソ連で注射針の不足が大問題となっており、確か50万本寄贈したと記憶しているが、ヤナーエフ氏はそれを知っていて、感謝の言葉を述べられた。

「ところでヤナーエフさん、ソ連ではコンドームも不足しているそうですね」

「その通り、困っているよ」

「聞くところによると、スウェーデンから緊急輸入したらしいですね」

「よく知っているね」

「知ってますよ!!スウェーデンの製薬会社は気を利かしてラージサイズのコンドームをスモールサイズのS印で送付したらソ連の男どもはびっくりしたそうですね」

「そんなことはないよ」

と言いながら、左手にタバコを持って大爆笑となった。

以来、ソ連に行く時には彼の好物であるインスタントラーメンを段ボール箱で届けたものである。

1994年釈放された折にも自宅のアパートに慰めに行った。私の到着をアパートの前で待っており、エレベーターで5階か6階の部屋に案内してくれた。日本式に入口で靴を脱いで入った部屋には日本人形がいくつか飾られており、他に一部屋とキッチン、退職者用か労働者用の色彩のない暗い感じの部屋だった。

インスタントラーメンの箱を見て「笹川さんの友情は嬉しいね」とは言ったものの昔日の面影はなく、「これからは次代を担う若者の教育で余生を過ごす」と、淋しそうにタバコの灰をポンと灰皿に捨て、また大きく吸い込んで天井に吹き散らすように一気に吐き出した。

右手を少し上げて車を見送ってくれたのが最後の別れであった。



(次回10月8日は、「原爆体験者・笹森恵子とノーマン・カズンズ」です)
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