• もっと見る
« 2008年07月 | Main | 2008年09月»
leprosy.jp
resize.png日本財団はハンセン病の差別撤廃を訴える応援メッセージサイト「THINK NOW ハンセン病」を開設。皆様からのメッセージを随時募集・配信しています。
Google
<< 2008年08月 >>
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            
プロフィール

笹川 陽平さんの画像
笹川 陽平
プロフィール
ブログ
カテゴリアーカイブ
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
リンク集
https://blog.canpan.info/sasakawa/index1_0.rdf
https://blog.canpan.info/sasakawa/index2_0.xml

「早稲田大学・公開講座」その2 [2008年08月01日(Fri)]



「早稲田大学・公開講座」その2
早稲田大学・講義録〜ハンセン病と人権問題〜

2008年7月11日 午後4時20分
於:早稲田大学22号館

<講義・要旨>

多くの方にお集まりいただき、大変恐縮しています。

今回、早稲田大学の平山郁夫記念ボランティアセンター(WAVOC)の西尾雄志助教から依頼を受け、本日ここに来ました。

私は1年の三分の一を発展途上国の現場で過ごしています。これまで26年間で1900日、約6年間を海外で過ごしたことになります。

1ヶ所の滞在日数は最長でも4日間で、ブラジルのブラジリアと先般訪問したアフリカのギニア共和国の2カ所だけです。したがって1900日は現場と飛行機や空港の待合室で過ごしてきたことになります。

そのような経験から日本を見たとき、皆様方が見る、あるいは感じている日本という国と、世界が見る日本との間には大きな開きがあるように思います。世界で最も好感度が高く素晴らしい国は2年連続で日本です。BBC放送の調査による平和指数の最も高い国はノルウェーですが、日本は5番目で、G8の中では飛びぬけて高い順位です。

私たちは子どもの頃から日本が赤く塗られて真ん中にある世界地図を見てきましたので、好むと好まざるにかかわらず日本を中心に世界を見てしまう習慣ができてしまっています。しかし、世界あっての日本であり、日本あっての私たちです。自分があっての日本、日本あっての世界ではないのです。

私たち日本人は少し視野狭窄で自己中心的になっているように思います。その結果、ものの見方や考え方が小さくなりがちになります。広く大きく多面的に世界を見る目を若い皆様方には養っていただきたいと思います。

発展途上国の多くの国は皆様方のような若い方々の活動を熱望しています。

5月末にアフリカ開発会議が横浜で行われました。日本のODAの額が年々減っていることに対する危惧の念や、それに伴い日本の地位が落ちているのではという論調が多く見られました。

しかし、これは大きな間違いです。日本の若い人を中心としたJICAの青年海外協力隊の活動は、世界的な評価を受けています。専門家の活動も世界的に評価されています。道路や橋といったインフラ整備も重要ではありますが、彼らとの接し方や指導方法が国際協力では重要なのです。

西側の人たちは自分たちのやり方が絶対に正しいと考えています。「私たちの言うことを聞きなさい。教えてあげます。指導します。監督します」といった、上から下を見るような態度がほとんどです。日本人は常に―アジアでも、アフリカでも―相手と目線を合わせて彼らの伝統や歴史、風俗や習慣を理解した上で彼らの協力を得るというスタンスのもと活動してきました。

私はハンセン病の患者と接するときには、常に同じ目線に立ちます。ベッドに横たわる患者と接するときも立ってではなく、膝を床について必ず同じ目線で話します。相手と同じ目線に立つことが大変重要なのです。

日本の若者の活動は相手の目線に立った活動です。ともに汗をかき、涙を流し、じっくり時間をかけて仕事をしながら相手のレベルアップを考えるという素晴らしいやり方です。西洋のような「自分たちの考えが正しいのだから、無条件で従いなさい。私の指導に何故従えない。昨日命令したことが何故、今日できない」ということでは、高圧的に受け取られてしまいます。

報道で目にする日本の評価と実際では大きく異なるのです。日本の若者には大いに誇りを持っていただきたいと思います。皆様にはボランティアセンターの活動に参加いただき、学問の場とともに実践活動を通じて何が問題なのか、解決方法は何か、ということを一人ひとりが実体験を通じて学んでいただきたいと思います。

皆様の能力をもってすれば大いに可能です。特に海外ボランティアに参加することは、非常に大きな自信と生きがいが得られると思います。決して皆様にボランティアに参加するよう強要しているわけではありませんが、多感で若いときに、また正義に燃える心を持っているときに、そのような現場に接することは、皆様方の人生をどれほど豊かにするかはわかりません。

本題に入りますが、ハンセン病の患者を見たことがある人はいますか?

2001年5月11日は、日本政府がハンセン病政策の間違いを認めた歴史的な日です。それをきっかけに皆様方はハンセン病を知るようになったのではないかと思います。ハンセン病問題は決して遠い過去の歴史ではありません。今も続いている問題です。

ハンセン病については、映画の「ベン・ハー」やオードリー・ヘップパーン主演の「尼僧物語」、新・旧約聖書、もっと古くは紀元前6世紀のインドの書物でも記載されています。一つだけお断りしますが、世界的にはハンセン病ではなく、レプロシーと呼ばれています。正しく翻訳しますとらい病です。この言葉は日本では使われていません。

レプロシー(らい病)という言葉を使わない国は日本とブラジルの2カ国だけです。その他は全てらい病と表現しています。医学界でもらい学会という組織であり、ハンセン病の菌は正式名称ではらい菌といわれています。日本では差別用語ということで、らいという言葉は使わず、ハンセン病という言葉を使っているのです。

古来、ハンセン病に罹るとアウトカースト、いわゆる人間としての存在が完全に否定されてきました。数千という病気がありますが、いずれも病気になれば少なくとも家族や恋人からの支援は受けられるでしょう。しかし、このハンセン病だけは、家族からも捨てられてしまう病気なのです。日本でもハンセン病を患うと家族にいない者として扱われてきました。Aさんの家からハンセン病患者が出たというだけで、日本では数代にわたって結婚の対象から外されてしまうという歴史がありました。

多磨全生園にいる私の友人は、テレビにも出て大変有名ですが、出身地の隣町まで講演に出かけたときにも、自分の生まれた町には入れなかったといいます。出身地の町の人々は皆彼のことを知っているのに、家族は知られていないと思い、今なお、家族のいる町に入れないのです。

今、日本には平均年齢79歳の回復者が2717人(2008年5月10日現在)いますが、その多くは本名を名乗っていません。私たちが海外のハンセン病の実情を視察するため彼ら回復者を海外に案内したとき、パスポートに記載の名前と違うことに気づきました。

日本には国立療養所が12カ所、私立が2カ所の14カ所の療養所があります。療養所の事務の一番大変なことは、選挙のときにいつも呼ばれている名前と本名が違うことです。名前を確認する作業が大変手間がかかるといいます。ハンセン病に罹ると名前を奪われ完全にいない人として扱われてきたのです。Aさんは東京に出て亡くなった、あるいは行方不明になったというように処理されてきたのです。

ハンセン病は慢性的な感染症といわれています。5〜6年前まで日本航空の医療手帳にもハンセン病に感染しないよう海外渡航の注意事項に書かれていました。ハンセン病は感染症ですが、この言葉に惑わされてはいけません。私は何千人もの患者と接してきました。笹川記念保健協力財団の湯浅洋先生は今年80歳になりますが、これまで数多くの患者と接してきましたが感染していません。

私は現地を訪れたとき、膿が出る足や手を素手でさわり、洗いますが、それでも感染しないのです。ハンセン病は感染力も低く、遺伝もしません。しかし、未だ世界的では、特に発展途上国では「神様から与えられた罰、遺伝する病気、感染しやすい」という誤った認識が残っているのです。インドでは大学を出た立派な方でも「笹川さん、ハンセン病は遺伝するのでしょう」と小さい声で尋ねるくらい知られていないのです。何世紀にもわたりハンセン病は恐ろしい病気だということが頭の中にインプットされてきたための結果です。

医学が発達していなかった時代、例えば中世のイギリスでは200カ所以上の施設があったのですが、患者は一般社会で生活することが許されていませんでした。教会で埋葬の儀が行われ、死んだことにされたのです。表を歩くときにはハンセン病患者とわかる独特な服装をさせられ、自ら鈴を鳴らし、ハンセン病患者であることを知らせることが義務付けられていました。

もう少し遡る13世紀、イギリス、中国、ベトナムでは生きたまま埋葬されたという記録も残っています。ヨーロッパの教会では、ハンセン病患者は教会に入れませんので、教会の中を覗く窓を作ってもらい、そこからお祈りを捧げたということがあったようです。インドでは最近まで死の儀式が残っていて、患者は村から追放され、村人と交わることができませんでした。最近、病気が治って村に帰る例も出てきましたが、その時には母の胎内から再生するという儀式を行わないと村には戻れないのです。

韓国には小鹿島という島があります。この島はハンセン病患者を隔離するための島でした。今日のように通信、あるいは交通の手段が全くなかった昔から、ハンセン病患者は世界中どこでも島に捨てられてきたのです。

日本でも長島愛生園、邑久光明園、大島青松園、沖縄愛楽園、宮古南静園は島にある療養所で、遠くは南アフリカ共和国のネルソン・マンデラ大統領が幽閉されたロベン島もハンセン病の施設でした。ハワイではモロカイ島にカラウパパという施設があり、絶海の孤島に隔離していたのです。地中海にも数多くありました。またフィリピンのクリオン島には数万人の患者が全国から集められた歴史があります。この韓国の小鹿島もその一つですが、ハンセン病患者は焼きゴテで烙印を額につけられたといわれています。

現在でもハンセン病に罹ったということがわかるとインドでは離婚の対象になります。これは宗教上、決められているのです。

もっと驚くべき話はアメリカです。アメリカにはハワイのモロカイ島のほかに、ルイジアナ州のカービルに施設がありました。今は閉鎖されていますが、そこにいた回復者が話すには、1945年までハンセン病の患者には投票権が与えられていなかったというのです。そして体調を崩し救急車を呼んだところ乗せてもらえず、終には霊柩車で病院に運ばれたといいます。それが民主主義の国アメリカで起こっていた事例です。

昔は治療方法がありませんでしたので、外形的に大きく変形した顔かたちに人々は恐怖したのです。そのため、ハンセン病患者は世界中どこでも差別されてきたのです。これが人権問題の原点だと私は考えています。

私は40年近くハンセン病の方々のお世話をしてきましたが、明確に世界からハンセン病をなくすことができると考えたのは1995年のことです。ベトナムのハノイで世界ハンセン病学会が開催された折に日本財団として5年間、世界の全ての国で薬を無料配布することを決意しました。




続きを読む・・・
| 次へ