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笹川 陽平
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日仏財団 [2008年03月14日(Fri)]
終日、日本財団で稟議書等決裁、打ち合せ、書類整理

12:00 笹川日仏財団 日本側理事会
オルメルト・イスラエル首相 [2008年03月14日(Fri)]



「オルメルト・イスラエル首相」
〜義理と人情〜


カンボジアで日本財団が主催した『障害者国際芸術音楽祭』や『手話辞書作成事業』、『地雷除去』など、種々の活動現場を視察し、早朝7:30分に成田到着。その後すぐにホテル・ニューオータニオルメルトイスラエル首相との会談に臨んだ。

日本財団で髭をそり、背広に着替えて10時ぴったりにホテルに到着。当初首相は日本財団への訪問を希望されていた。しかし警備の都合上、できればおいで願いたいとのこと。一国の首相の安全を考えれば、これは当然のことである。

『礼を重んじる』は日本人の特徴の一つのように考えているが、私が交際した外国の指導者は全て礼を重んじられる。

かつて、亡父の若干の力添えでパプア・ニューギニアの初代首相となり、現在4回目の首相を勤めるマイケル・ソマレ首相は、今や『国父』として国民に尊敬されている。

かつて国賓として来日された折、外務省当局に「日本に着いたら最初に笹川良一氏を訪問したい。私の最も尊敬する人で、私の長男の名前は『リョウイチ』の名前を頂いた。この望みが実現しないなら訪日を躊躇する」といい出した。

困った外務省の担当者から「国賓は飛行機が成田に着陸した時点から国賓としての立場となり、成田から赤坂迎賓館へ直行となります。笹川先生、誠に恐縮ですが、ソマレ首相に事情を説明の上、先生の方から赤坂迎賓館に出向くから心配しないで来日しなさいと説得して欲しい」と依頼された。

当方に異論があるわけもない。赤坂迎賓館で国賓として来日した首相・ソマレの晴れ姿と対面し、父も満足そうであった。以後、ソマレ首相とはとぎれることなく今も交際が続いている。

父の教えの一つに「不遇の人と付き合え。スポットライトを浴びている人には蜜にたかる蟻のごとく人が集まる。お前が人間的に成長していくには不遇の人から学べ」というものがある。

米国のジミー・カーター大統領が職を辞した後、しばらく不遇の時期があった。

訪米の折、大統領と面談したエモリー大学の部屋は、学生食堂に隣接した粗末な寝室に小さな勉強机があるだけ。大統領はそこで学生への講義のテキストを作っていた。

亡父訪米の折、カーター大統領のご両親の墓参をさせていただいたところ、4〜5年後、ご多忙の中、わざわざ一泊で大阪の箕面市にある当方の先祖の墓参においで頂き、良一の葬儀にも来日して下さった。

カーター大統領とは、1984年、エチオピアで飢餓が発生したのを契機に、我々の事業であるアフリカでの食料増産運動『笹川グローバル2000(SG2000)』に積極的に協力していただき、今も続いている。

この事業は20年を経過し、今年5月に日本で開催される『TICAD(アフリカ開発会議)』を前に、各国から「我が国でも行って欲しい」と要請を受けるほど素晴らしい成果を上げている。

世界中、どこの国の人も、指導者的立場の人は気配りや礼に厚い。

イスラエルの話に戻る。
オイル・ショック後の日本は油乞い外交に終始し、中曽根康弘三木武夫など大物政治家が、競争するようにアラブ諸国を歴訪したことがある。

亡父はアラブ一辺倒は危険だと考えた。
「イスラエルとの関係も日本の将来にとって重要であり、イスラエルとの道を開こう」と、イスラエル訪問を計画した。イスラエルは首相、主要閣僚を中心にして大歓迎で迎えてくれた。

これが契機となったのか、外務省・栗山審議官の訪問、経団連ミッションの訪問と続き、現在のイスラエルとの関係が確立したといっても過言ではない。

世界に二つしかない日本美術専門の一つ、ティコティン・ミュージアムの建設支援。イスラエル最良のベングリオン大学に設置した優秀な学生への奨学金制度も順調に発展している。

オルメルト首相とはエルサレム市長時代の1999年、我々の招待で初来日された折、僭越ながら当時の小渕首相との面談をセットさせていただいたことがある。2005年4月、外務省の招待で来日された時にも親しくお目にかかった。当時、オルメルト氏が首相になると予想した人は全くいなかった。多少のご縁とは申せ、小生にとって望外の喜びである。

ついでに古い話で恐縮だが、ゴルバチョフ首相時代、コムソモール(ソ連共産主義青年同盟)のヤナーエフ議長が来日し、私は海部首相に面会させたいと金石秘書官に連絡、快諾を得たが、「外務省当局から日本国首相が面談するほどの相手ではないとクレームが入っているが、どうしましょうか」との電話があり、是非、面談を実現するよう再度陳情して実現にこぎつけた。

ゴルバチョフ政権崩壊のきっかけは、副大統領の地位にあったヤナーエフらの策謀であった。三日天下ではあったが、ヤナーエフは大統領になった。

この時の日本のマスコミの人物紹介写真は全て海部首相との面談時の写真である。あの時会談が実現していなければ、多分、日本にヤナーエフの写真はなかったのではないだろうか。日本航空から出向していた金石秘書官の隠れた功績である。

亡父の口癖であった「物事、何が幸いするかわからない」

無私の心での活動は、時々望外の喜びをもたらすこともある。
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