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日本財団会長 笹川陽平ブログ

写真:ハンセン病の現場から「アフリカ・ピグミー族」

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産経新聞【正論】子供の貧困解決が喫緊の課題だ [2016年07月08日(Fri)]
子供の貧困解決が喫緊の課題だ


産経新聞【正論】
2016年7月7日


 ≪放置すれば20兆円の負担増≫

 貧困家庭に育った子供が社会に出ても貧困となる「貧困の連鎖」が深刻度を増している。日本財団が民間の研究機関とともに行った調査では、このまま放置すると、将来の経済的損失は約50兆円、社会保障など国の財政負担は約20兆円増える。

 これでは子供の将来を奪うだけでなく国の将来も危うくなる。政府も昨年10月から官公民連携による「子供の未来応援国民運動」をスタートさせているが、事態の深刻さに対する国民の認識はいまひとつ希薄な気がする。

 今回の参院選でも各党がそれぞれの政策を打ち出しているが、子供の貧困は将来の日本社会、財政の在り方にもかかわる重要課題であり、文字通り国民が一体となって取り組むべきテーマである。不登校児や難病児の支援など、子供問題に幅広く取り組んでいた立場から、われわれも、ささやかでも問題解決に貢献したいと考える。

 そこで注目するのが、子供たちを地域ぐるみで健全に育ててきた日本の古き良き伝統だ。問題解決には、こうしたコミュニティー機能の復活こそ必要で、全国各地に「家でも学校でもない第3の居場所」のモデルを設け、地域社会が問題解決に一役買う事業に育てたいと思う。

 ≪第3の居場所で地域社会再生≫
 厚生労働省の国民生活基礎調査(2012年)によると、所得が平均的世帯の半分(122万円)に満たず、貧しい家庭で暮らす18歳未満の子供の割合を示す貧困率は過去最高の16.3%に上った。1980年代から上昇を続け、先進34カ国が加盟する経済協力開発機構(OECD)の中では高い方から10番目に位置する。

 18歳未満の子供の6人に1人、約330万人が貧困家庭で暮らしている計算で、1人親世帯に限ると貧困率は54.6%に上る。

 当財団では、15歳の子供120万人のうち、1人親家庭、児童養護施設入所者、生活保護世帯で暮らす18万人を対象に、今の状態が続いた場合の社会的損失を試算した。この結果、彼らが生涯に得る所得は、大学進学率などが一般並みに改善された場合に比べ2兆9000億円少なく、税や社会保障の負担額も改善モデルに比べ1兆1000億円少なかった。

 18歳未満の子供全体で見ると、所得は49兆円、税や社会保障の負担額は19兆円少ない計算となる。その分、国内市場の縮小、国の社会負担の増加につながる。

 高卒者全体の大学や専門学校等への進学率は70%を超えるのに対し、生活保護世帯の子供は31%と低く、経済格差が教育格差を生み、それが就業・収入格差、さらに次世代の貧しさにつながる貧困の連鎖も浮き彫りにされている。

 近年、学校と自宅以外に居場所がない「1人暮らし児童」「子供の孤食」といった問題も出ているが、子供の貧困は親の責任であっても子供に責任はない。

 政府も2015年秋、「子供の未来応援基金」を立ち上げ、日本財団も管理業務の一端を担っている。しかし、設立から半年、寄せられた基金は6億円余にとどまり、安倍晋三首相も発起人に名を連ね、子供の貧困対策の目玉としてスタートした事業にしてはあまりに動きが鈍い。

 そんな事情もあって、独自に第3の居場所の整備に乗り出すことになった。日本の地域社会には一昔前まで、皆が集う「場」があり、子供たちはそこで遊びや社会のルールを身に付け、病気などで親が不在の場合は全員で子供の食事の面倒もみた。

 核家族化の進行と地域社会の崩壊で、こうした場がなくなった結果、子供だけでなく高齢者も居場所がなくなった。

 ≪「社会の総合的豊かさ」目指せ≫
 最近、待機児童の解消に向けた保育園の建設をめぐり、周辺の高齢者が「子供の声が静かな住環境を壊す」と反対するケースが増えていると聞く。送迎の自転車や車の増加といった問題もあるようだが、子供の声が聞こえない街が健全だとはとても思えない。

 元気な高齢者や専門知識を持つ民間非営利団体(NPO)や自治体の協力を得ながら、全国100カ所に子供や高齢者が集う場所を整備したいと考えている。

 国立社会保障・人口問題研究所の社会支出集計によると、13年度、年金や介護、ホームヘルプサービスなど高齢者向け支出は国内総生産(GDP)比11.3%の54兆6200億円、これに対し家族手当など子育て(家族)向けは同1.2%の6兆500億円と大きな開きがある。

 高齢者向けサービスが必要なのは言うまでもない。しかし国の将来を担うのは子供であり、子供をどこまで自立した社会の担い手に育てることができるかが国の将来を左右する。

 近年、社会の豊かさをGDPや経済成長率ではなく、福利厚生度を中心にした「社会の総合的な豊かさ」で測る考えが国際的に強まっている。子供の貧困の解決こそ、今後の日本社会の豊かさにつながる喫緊の課題である。
(ささかわ ようへい)

産経新聞【正論】ハンセン病の歴史を記憶遺産に [2016年05月20日(Fri)]
ハンセン病の歴史を記憶遺産に

産経新聞【正論】
2016年4月14日

人類とハンセン病の闘いに2つの新しい動きが出ている。第1は世界保健機関(WHO)が制圧の基準とする「人口1万人当たり患者1人未満」をすべての国が達成、人類の長いハンセン病との闘いがひとつの節目を迎える見通しとなった点だ。

第2は世界に12億人の信徒を持つカトリックの総本山・ローマ教皇庁が6月、バチカン市国で日本財団と共催する国際シンポジウム。カトリック以外の宗教関係者も出席し、ハンセン病患者・回復者に対する偏見・差別の撤廃を世界に訴える予定で、宗教・宗派の違いがさまざまな紛争を引き起こしている国際社会に与える影響も大きい。

≪すべての国が制圧基準達成へ≫
ハンセン病は1980年代に3つの薬を併用する治療法(MDT)が開発されたことで「治る病気」となった。しかし治癒後も「元患者」として引き続き深刻な偏見・差別にさらされ、他の病気では考えられない悲惨な歴史をたどってきた。

一方で新しい患者の発生がほとんど見られなくなった先進国ではハンセン病の記憶が希薄になりつつある。差別をなくすためにも「負の歴史」を後世に伝える必要があり、WHOのハンセン病制圧大使として、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の記憶遺産への登録を目指す決意でいる。

亡父・笹川良一は83年、当時の法王ヨハネ・パウロ2世の招待を受けバチカンを訪問、筆者も随行した。その際、法王が亡父を抱擁してハンセン病制圧への取り組みに感謝の言葉を述べたことに深く感銘したのを記憶している。

ハンセン病はMDTを半年から1年間、服用することで治癒する。画期的な治療法の確立で、当時、世界で毎年100万人もの患者が発生していたハンセン病の制圧は大きく前進。95年から5年間、日本財団が、その後はスイスに本拠を置く製薬会社が世界で無償配布を進め、これまでに1600万人が治癒し、85年当時に世界で122カ国を数えた未制圧国はブラジル1カ国となっている。

ブラジル保健省は既に基準達成を確認済みと伝えられ、リオデジャネイロ五輪後の今秋にも調査結果が公表されると期待する。ハンセン病は長い間、「呪われた病気」「遺伝病」として恐れられ、何よりも本人の苦痛が大きい。患者数の大幅減少はそれ自体が極めて大きな意味を持つ。

しかし現在もインド、ブラジル、インドネシアを中心に年間15万人を超す患者の発生が確認されており、国レベルで世界が基準を達成したとはいえ、依然、基準を上回る州や地域を抱える国もあり、引き続き医療面でのハンセン病との闘いが続く。

≪宗教の違い超えバチカンで訴え≫
一方の偏見・差別との闘いも途上にある。国連は2010年に「ハンセン病患者と回復者、その家族に対する差別撤廃決議」を総会で採択。各国政府が具体的に取り組むガイドラインも示され、その徹底に向けたフォローアップ作業が進められている。

ローマ教皇庁も毎年1月の「世界ハンセン病の日」に患者や回復者を励ますメッセージを出し、2009年には偏見・差別の撤廃に向け筆者が主催するグローバルアピールにも賛同署名している。

そんな経過もあり、今回は日本の一民間団体であるわれわれのシンポジウム共催の提案を快く受け入れていただいた。現法王フランシスコは13年の就任式で社会的弱者の救済と環境保護を提唱。式には正教会やユダヤ教、イスラム教などの指導者も参列した。

シンポジウムには、このほかヒンズー教や仏教の関係者も参加、宗教の違いを乗り越えて偏見・差別の撤廃を世界に呼び掛ける予定で、長年、ハンセン病と闘ってきた身としてありがたく、敬意を表したい。

≪世界平和を考える一助に≫
わが国では、ハンセン病患者の厳しい隔離政策を打ち出した「らい予防法」が1996年に廃止されるまで90年間、約2万7000人が社会から隔絶されて生きた。

日本財団が4月から管理運営を受託することになった国立ハンセン病資料館(東京都東村山市)や、全国のハンセン病療養所に付随する歴史館には、文芸作品から絵画、写真、工芸、日記、自治会史など苦難の歴史を記した世界でもまれな資料が豊富に残されている。これら資料を記憶遺産に登録することで、ハンセン病の教訓を後世に伝える道も広がる。

現在、世界で348件、日本関係では平安中期に栄華を極めた藤原道長の、わが国最古とされる自筆日記など5件が記憶遺産に登録されている。各国の申請に基づき2年ごとにユネスコが審査・登録する仕組みになっており、全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)などと協力して対応を急ぎたいと考える。

歴史を見るまでもなく、偏見や差別は争いや紛争を誘発する温床となる。ハンセン病の歴史を冷静に見つめ直すことが、世界の平和を考える一助になると確信する。
(ささかわ ようへい)

「支援金と義援金の違い」―寄付先の選定について― [2016年04月25日(Mon)]
「支援金と義援金の違い」
―寄付先の選定について―


私は、東日本大震災の時に支援金と義援金の相違点を指摘し、日本財団への支援金のご寄付をお願いした。

近頃は支援金、義援金の他に、救援金とか単に募金募集とか、志ある寄付者には判断がつきにくい言葉もある。要は、支援金はいち早く現場で活動するNPO、ボランティアの必要資金のことである。

それ以外の寄付金は、集まった募金を検討委員会にかけ、それぞれの自治体に一括寄付したり奨学金を設置したり、東日本大震災の例のごとく、決定して配布されるまで6ヵ月以上、一年近く時間がかかるものまである。

日本財団は支援金募集である。勿論、募金収入がなくてもFAXやメールでNPOやボランティアグループに100万円を限度に支援することは東日本大震災の時と変わりはない。

どうぞ、ご寄付の意思のある方は、透明性と説明責任を大切にしている日本財団の下記をご利用願います。

なお「支援金と義援金の相違」ついては、こちらをクリックしてください。

熊本地震ボランティア活動資金
銀行振り込み先:三菱東京UFJ銀行
支店名 :きよなみ支店
預金種別:普通
口座番号:2443179
口座名(漢字):公益財団法人日本財団
口座名(カナ):ザイ)ニッポンザイダン

***************

改めて支援金の重要性を訴える


産経新聞【正論】
2016年4月21日


 災害寄付には「義援金」と「支援金」という、ふたつの形がある。連日の激しい揺れで日を追うごとに被害が拡大する熊本地震を前に、どちらにするか迷っている方が多いかもしれない。義援金は大災害での被災者にお悔やみや応援の気持ちを込めて贈られる見舞金を指し、支援金は被災地で活動する民間非営利団体(NPO)や災害ボランティアを支えるために寄付される浄財をいう。 

 ≪ニーズに応じ柔軟、迅速に≫
 どちらも重要である点に変わりはないが、義援金は公平・平等を検討した上、被害の特定を待って配分額を決定するため、過去の例では被災者の手元に届くのに10カ月以上かかる。大災害の発生当初や熊本地震のように現在進行形の災害では、現地のニーズに柔軟、迅速に対応できる支援金がまずは必要ということになろう。

 しかるに日本では、義援金が圧倒的に多く、支援金は全体の1割程度にとどまる。熊本地震の被災地復興活動が本格的に始まるのを前に、改めて支援金の重要性を訴えたい。

 大災害では、被災者の救出や水道、道路など基幹インフラの復旧を国や自衛隊、自治体など「公」が担い、食料や飲料、生理用品など被災者が必要とする物資の募集や仕分け、全半壊した家屋の片付けなどを「民」が担う役割分担が定着しつつある。

 寄付文化が未成熟といわれた日本でも1995年の阪神淡路大震災以後、民間から寄せられる浄財は増加傾向にあり、東日本大震災の寄付額は海外も含め6000億円を超えた。しかし大半は義援金で、支援金は700億円前後にとどまったとされる。

 民が果たす役割の大きさに比べ、バランスを欠くともいえるが、ひとたび大災害が発生すれば、支援金の拡大こそ不可欠で、それが被災地の復興をいち早く軌道に乗せることにもなる。

 熊本地震では14日の前震発生以降も連日、最大震度5強の揺れが続き、10万人近くが現在も自宅に戻れないでいる。食料や水はようやく届き始めたものの高齢者や障害者に対する専門的ケアや、大きな余震を恐れて狭い車中泊を続け、体調を崩すエコノミー症候群に対するケアも手付かずに近い状態にある。

 強い揺れで災害ボランティアセンターの開設が遅れていることもあって、各地から駆け付けたNPOは一部を除き県外で待機状態となっているが、余震が終息すれば活動も本格化する。被災地の必要物資を再点検して全国から募り、各被災地に的確に届けられる態勢や、NPO団体が効率的に活動できる拠点施設の整備も急務となる。

 ≪民の活動へ多くの善意を≫
 強い揺れが何度も重なった被災地では、熊本県だけで倒壊家屋が3000棟を超えたと報じられているが、家屋の片付けや泥土の排出・清掃などは自衛隊や警察、消防の活動対象外。NPOや災害ボランティアに頼るしかない。そうした民の活動を支えるのが支援金であり、熊本地震で民の活動が本格化する今こそ、多くの人の善意を支援金に寄せてほしいと思う。

 日本財団は東日本大震災でNPOなど計695団体に7億円を支援し、被災地の復興に一役買った。熊本地震でも1団体当たり100万円を上限に活動資金を支援する方針だ。

 寄せられた支援金はすべてNPOや災害ボランティアの活動資金に充て、不足した場合は、将来の災害に備えて2013年に独自に立ち上げた災害復興特別基金を充てる考えでいる。

 支援金は「赤い羽根」で知られる中央共同募金会などにも受付窓口が設けられているが、歴史的に言えば義援金に比べ明らかに後発で、いまひとつ国民に浸透していない現実もある。NPO活動を活発化させる一方、支援金の使途に対する説明責任を徹底し、活動実績のない名ばかりのNPOが多数存在する現状を早急に見直し、NPOに対する信頼を高める工夫や、寄付金を希望する団体が、義援金、支援金のどちらを求めるのか、あらかじめ明示するような方法も検討する必要があろう。

 ≪国民へいっそうの浸透を図れ≫
 わが国は災害復興も官と民が共同して進める時代を迎えている。支援金は寄付を通じて国民が復興に参加する形とも言え、民の活動を活発化させる上でも、その存在はもっと重視されていい。近年は専門知識を身に付けたNPOも多く、国や自治体との連携を進めることで、新しい社会を切り開く力も増す。

 ただし、民の活動を活性化するには、資材や備品からメンバーの生活を支える手当まで豊富な資金が欠かせない。義援金に偏った現状は、被災者個人に対する支援と被災地全体の復興を両立させる上でも、やはりバランスを欠く。

 少なくとも義援金と支援金が同等の重みを持って社会に迎えられることが必要と考える。そうした認識が広く国民に共有されたとき、わが国の災害対策にも新たな可能性が出てくる。

(ささかわ ようへい)

産経新聞【正論】震災から5年「民の力」活用して復興に活路を [2016年04月01日(Fri)]
震災から5年「民の力」活用して復興に活路を


産経新聞【正論】
2016年3月10日


 東日本大震災の被災地復興をお手伝いしながら阪神・淡路大震災(1995年)当時に比べ、現場に大きな変化が出てきているのを実感する。

 専門知識を備えたNPO(民間非営利団体)と行政の連携が進み、CSR(企業の社会的責任)から一歩踏み出し、CSV(社会との共有価値創造)の考えに立って復興支援を企業戦略に積極的に取り込む企業が増えてきた点だ。

 ≪行政主導には限界がある≫
 大都市に被害が集中した阪神・淡路大震災と違い、被害が広域に拡散した東日本大震災で、行政が復興を主導するのは限界がある。少子高齢化に伴う過疎や国、自治体の財政も悪化している。

 「民」の協力を抜きにした被災地復興はあり得ない。NPOや企業など民の力と行政をつなぎ、新たな活力を生み出す試みを全国に広げていくことが、日本の社会づくり、地方創生に活路を開くことになる。

 全国有数のサンマの水揚げで知られる宮城県女川町で新しい動きを見てみたい。大震災当時、人口約1万人の女川町は大津波で根こそぎ破壊され、人口比最大の8%、827人が犠牲となった。

 カタールから寄せられた支援金20億円を基に2012年秋、3階建ての多機能水産加工施設が完成、一昨年の水揚げ高は震災前を上回り、復興の兆しも見える。しかし人口は昨年10月時点で約6300人まで減り、被災地最大の37%の減少率を記録している。

 こうした中、町の若手事業者が「復幸まちづくり女川合同会社」(合同会社)を立ち上げ、町や民間団体、被災地で大規模な復興プロジェクトを展開するキリングループが連携して支援した。

 特産の水産加工品のブランド力を高め売れ行きを伸ばし、町の過半を占める水産関係者の収入と観光客増を図ることで人口流出に歯止めをかける、というのが合同会社の狙い。会社の形態を取っているが活動実態はNPOに近い。

 地元の方言をもじった「あがいん(AGAIN)女川」のブランド名も決まり、既に31商品を登録、加工・販売の一本化にも取り組んでいる。とかく一匹オオカミになりがちな漁師たちの連帯感も高まっているという。

 ≪積極的な企業のCSV≫
 キリングループは被災地のホップを使ったビールも製造、国内ではいち早くCSV本部を立ち上げ、被災地の人々を応援しながら企業としての収益・経済的価値を追う積極的な企業戦略を持つ。
 
 大手化粧品会社など数社が、こうした企業戦略を打ち出し、NPOや行政と連携することで復興の一翼を担っている。力を増したNPOの存在は阪神・淡路大震災の「ボランティア元年」に代わって「NPO元年」の到来さえ感じさせる。

 東北の被災地の現状に対し「復興遅れ」を指摘する声もある。しかし被災地はもともと深刻な過疎が進んでいた地域であり、大津波に襲われた土地のかさ上げといった特殊な事情もある。被災地が広い分、課題も多く時間もかかる。

 加えてインフラなど基幹施設の整備だけでなく、より難しい心の問題もある。大津波対策を徹底させた高台移転や巨大な防潮堤建設がいまひとつ不評な背景には、長年、この地で暮らしてきた人々の海に対する熱い思いがある。

 日本財団が取り組んだ地域伝統芸能復興事業でも、同様の印象を強く受けた。事業では大津波で流失した神社の社殿や神輿(みこし)、太鼓などを寄贈、各地の祭りの復活に一役買った。

 「祭りこそ他地域に避難した人々が帰るきっかけになる」「祭りがあるから地元に残る」といった若者の声に、地域との絆や帰属意識がいかに大切か、あらためて思い知らされた。

 ≪地方創生とテーマは同一だ≫
 復興の鍵のひとつは、住民の流出をいかに防ぐかにある。東日本大震災では現在も17万人が避難先で暮らし、総務省がさきに発表した国勢調査の速報値では、岩手、宮城、福島3県の人口は8年前に比べ30万人も減少している。

 自然減だけでなく、地域の将来像が見えないまま故郷に別れを告げる人が相当数に上っていると思う。どのようなコミュニティーを作っていくのか。人口が減少する縮小社会を迎え「解」を見つけるのは簡単ではない。

 「みんなが支え合う社会づくり」を目指す鳥取県と日本財団の共同プロジェクトが今月からスタートする。同県の人口は全国の都道府県で最も少ない58万人、中山間地の過疎も進んでいる。

 復興は地方創生と同一のテーマであり、東日本大震災の被災地の経験を生かし多角的な取り組みに挑戦したいと思う。専門家の知恵も取り込み、NPOや企業、行政のさまざまな組み合わせ、連携を模索する中から、被災地の復興、地方創生の新たなモデルが見えてくるのではないか。そんな思いを強くしている。
(ささかわ ようへい)

産経新聞【正論】ミャンマー支援の一層の強化を [2016年02月05日(Fri)]
ミャンマー支援の一層の強化を


産経新聞【正論】
2016年1月28日


昨年11月の総選挙で最大野党・国民民主連盟(NLD)が大勝したミャンマーの新政権の発足が目前に迫った。次期大統領の候補者名はまだ明らかになっていないが、誰が大統領になろうと新政権の最大の課題が国民和解と民主化、経済発展にあることに変わりはなく、日本に対する期待も極めて大きい。

 ≪和らぐ国軍の警戒感≫
 大勝したとはいえNLDが国軍や官僚機構の協力なしに政権を運営するのは難しく、NLDを率いるアウン・サン・スー・チー氏も総選挙後、まずは国軍との和解を目指し、手を打ってきた。

 昨年12月には自らを15年近く自宅軟禁した旧軍政のトップ、タン・シュエ元国家元首に会い、「過去を問わない」と伝え、NLDの支持者に対しても敗者となった現政権関係者への心遣いを求めた。

 昨年10月、15の少数民族武装組織のうち8組織が停戦協定に応じたのを受け、年明けに首都ネピドーで開催された連邦和平会議の開会式でも「一部とはいえ停戦が実現したことに感謝する」とテイン・セイン大統領や国軍に対する配慮を見せた。

 一連の言動に、スー・チー氏に対する国軍の警戒感も和らぎ、テイン・セイン大統領も総選挙の成功を「ミャンマー民主化のマイルストーン」と位置付けた上、「政権移譲を秩序正しく行う」と表明している。

 少数民族、とりわけ停戦協定を見送った7組織との和解はNLDの勝利、さらに「国民和解を最優先課題とする」としたスー・チー氏の発言を受け、双方の歩み寄りに拍車が掛かりそうだ。

 しかしコーカン族やワ族、さらにイスラム系のロヒンギャといった15組織とは別の存在もあり、国際社会は性急な結論より、長い目で見守る姿勢が必要だ。

 全民族との和解は、今も建国の父と慕われるスー・チー氏の父、アウン・サン将軍の夢でもあった。少数民族の自治権の拡大や連邦制度の在り方など難問も多く、筆者もミャンマー国民和解担当日本政府代表として一層の努力をしたい。

 ≪スー・チー氏の指導力に期待≫
 「アジア最後のフロンティア」と呼ばれるミャンマーへの各国の外交攻勢は今後、激しさを増す。特に隣国・中国は長い間、軍政とも親密な関係にあり、2011年に棚上げされた中国資本によるミッソンダム(北部カチン州)開発など懸案問題も多い。昨年6月にはスー・チー氏が中国を訪問、習近平国家主席と会談しているが、どのような話が交わされたのか、ベールに包まれたままだ。

 スー・チー氏は父に対する国民の尊敬、長年、軍政と闘ったカリスマ性を生かしNLDを大勝に導いた。しかし憲法が定める資格条項の制限で今のままでは大統領になれない。

 大統領は上院、下院と両院の4分の1を占める軍人議員から計3人の候補者を出し、連邦議会の全員投票で決まるが、2月1日の議会招集を前に、いまだに候補者名が公表されていないのは、スー・チー氏の立場をどうするか、憲法との兼ね合いも含め、検討されているのが一因とみられる。

 ミャンマーでは、資格条項を凍結して大統領に就任する、といった“うわさ”も流れているようだが、スー・チー氏は「私がすべてを決める」とも述べており、いかなる結果になるにせよ、スー・チー氏がこの国を引っ張っていくのは間違いない。

 スー・チー氏は1980年代に京都大学東南アジアセンターの客員研究員として来日した経験もあり「民主化を進める上でも日本を見習うべきだ」との考えを持つ。

 ≪積極的平和外交のモデルに≫
 日本は欧米各国が経済制裁を行った軍政時代も含め長い間、人道支援に取り組み、民政化後も3千億円を超す債権を放棄する一方、政府開発援助(ODA)を通じた手厚い支援を続け、各国の債権放棄にも筋道を付けた。

 今月23日にはNLDの経済委員会メンバー15人が日本財団の招待で各国に先駆け日本を訪問、財務省や日本銀行、金融庁などを視察、意見交換を進めている。日本に対する信頼の高さを示しており、日本外交の特筆すべき成果と言っていい。

 与党・連邦団結発展党(USDP)が大敗したとはいえ、テイン・セイン大統領は政権発足後わずか5年間で国際社会も驚く民主化、経済発展を実現した。インド、中国という巨大市場に隣接するミャンマーはアジア最貧国から豊かな国へ脱皮する大きな可能性を秘める。スー・チー氏が現政権の路線を継承・発展させ、豊かな国づくりを進めるよう期待する。

 総選挙と前後して、一部メディアは政権による不正選挙や、大敗に反発した国軍が動く可能性を指摘した。この国ではこのような事態がもはや、起こり得ないところまで民主化が進んでいる。

 日本は引き続き、ミャンマーに手厚い支援を続けるべきである。それが、安倍晋三首相が目指す積極的平和外交のモデルともなる。
(ささかわ ようへい)



産経新聞【正論】養子縁組中心の児童福祉実現を [2016年01月13日(Wed)]
養子縁組中心の児童福祉実現を


産経新聞【正論】
2015年12月24日


愛着や人格形成の上からも、子供が家庭で育つのが望ましいのは言うまでもない。親に育てる能力や意思がない子供には家庭で養育できる環境を社会全体で提供する必要がある。

 ≪世界でも特異な施設偏重の現状≫
 然るに、わが国では、社会的養護を必要とする子供たちの80%以上が施設で暮らす特異な状況があり、国連からも改善勧告を受けてきた。政府も「新たな子ども家庭福祉のあり方」を検討中で、年明けの通常国会に児童福祉法の改正案を提出する方針と聞く。

 改正案では国や自治体の責任を明確にし、養子縁組を国の児童福祉政策の柱と位置付けるとともに「養子縁組推進法(仮称)」を制定し、施設偏重の現状を家庭養護中心に切り替えるよう求める。

 わが国の社会的養護は全国133カ所の乳児院と601カ所の児童養護施設を中心に進められてきた。2013年度でみると、3歳未満の乳幼児約2950人が乳児院、3歳から18歳未満の児童約2万7500人が児童養護施設で暮らす。

 これに対し里親や5、6人の児童を養育するファミリーホームで暮らす子供は約5600人。増加傾向にあるとはいえ家庭環境で育つ子供は15%にとどまり、70%を超す英米両国や韓国に比べ極めて低い数字となっている。

 われわれは過去40年間、社会的養護が必要な子供たちが家庭で暮らせる社会を目指して里親支援などに取り組んできた。その経験や、私自身も参加した日本財団の「社会的養護と特別養子縁組研究会」での検討を参考に、以下、意見を述べたい。

 ≪実の親子関係に近い特別養子≫
 家庭環境といっても、里親はあくまで一時的に家庭を提供する制度であり、児童福祉が目指す「恒久的な家庭」には養子縁組の方が勝る。特に法律的にも親子関係となる特別養子縁組は実の親子関係に近く、生みの親の元に戻る見込みのない子供には最も優れた社会的養護といえ、わが国も1988年、民法に取り入れた。

 しかし2014年度の成立件数は約500件。近年、民間斡旋(あっせん)機関での成立件数が増える傾向にあるが、児童相談所の姿勢が変わらない限り、大幅増は望み難い。社会的養護が必要な子供の措置(委託)先は、全国208カ所の児童相談所の判断に委ねられ、児童相談所の姿勢が社会的養護の実態を左右する関係にあるからだ。

 児童相談所は18歳未満の子供のあらゆる問題を対象とする。伝統的に施設養護を中心に措置先を決定してきた経過もあり、直ちに家庭養護中心に切り替えるのは難しい面があるかもしれない。

 いじめの増加など、子供をめぐる環境は複雑、多様化しており、対応に追われるあまり、時間がかかる里親や養子縁組が敬遠される現実もある。施設には、入所人数をベースに自治体から運営費が支給されており、急激な家庭養護への切り替えが施設運営上、歓迎されない面があるようだ。

 こうした現実を打開するためにも児童福祉法の改正では、国や自治体が子供に安定した家庭環境を提供する義務と責任を負うことを確認、その上で養子縁組の優先を明確にする必要がある。
 養子縁組を加速させるため児童相談所に専門職を配置する必要もあろう。資格化を検討するのも一考である。

 ≪現行予算の枠内でも見直し可能≫
 次いで養子縁組推進法の制定。現在、国内では15を超す民間団体が養子縁組の斡旋活動をしているが、都道府県への届け出制で、実務にもバラつきがある。許可制に切り替え、実母へのカウンセリングや養親の家庭調査、養子縁組後の支援義務などの基準を設けることが民間活動を活性化させ、国民の理解を広げる道と考える。

 03年度から10年間に報告された0歳児の虐待死は計240件。うち111件は0歳0カ月、出産直後に命を奪われていた。生みの親が養子縁組の存在を知っていれば、別の解決法を選択できたケースもあったはずだ。

 厚生労働省によると、13年度の人工妊娠中絶件数は18万6千件。一方で子供に恵まれず不妊治療を続ける夫婦は40万組に上ると推計されている。養子縁組が広く普及すれば、救われる命は間違いなく増える。

 家庭養護は愛着形成が行われる乳幼児期こそ必要である。国連の児童の代替的養護に関するガイドラインは「3歳未満の乳幼児は原則として家庭で養育するべきだ」としているが、就学前の乳幼児のすべてを原則、家庭養護の対象とするよう提案したい。

 社会的養護関連の年間予算は1千億円を超える。乳児1人当たりで見ると、公立乳児院が年間830万円、民間乳児院が630万円。これに対し里親委託は150万円と少なく、結果、予算の大半が施設運営費に充てられている。

 運用方法を見直すことで、現行予算の枠内でも社会的養護を里親、養子縁組中心に大きく転換することは可能なはずだ。関係者の勇断を強く促したい。
(ささかわ ようへい)

「ミャンマーの将来と日本の役割」 [2016年01月08日(Fri)]
「ミャンマーの将来と日本の役割」


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取材を受ける筆者


―――ミャンマーの支援に力を入れている…。
笹川 戦後、多くの日本国民がミャンマーから輸入された米を食べて育ったように、両国には古い結びつきがあり、我々は軍政時代からミャンマー支援に力を入れてきた。このことに批判もあったようだが、我々は人道支援の窓口として関係を持ってきただけだ。以前、アメリカ大使館から経済制裁を実施しているミャンマーを何故支援するのかとクレームを受けたことがあるが、我々はただ苦しんでいるミャンマーの人々を支援したいだけだ。そうした政治や思想にとらわれない活動が花開いて、現在の日本とミャンマーの特別な関係が生まれたと自負している。当時は、彼らとの交流なしには、少数民族地域には立ち入ることすら不可能だった。

―――ミャンマー国民和解担当日本政府代表に就任された経緯は…。
笹川 少数民族とのコネクションを持つのが我々だけだったからだろう。ミャンマーでは政府と少数民族系武装組織らの間で70年間戦闘が続いており、和平実現は長年の悲願で、同国と古い関係がある日本政府もいち早くプレゼンスを示す必要があった。ここ3年間で私は約50回現地に赴き、時には武装組織の勢力圏であるジャングルに入り、双方の和解を仲介してきた。しかし一口で武装組織といっても、主要なものだけで15あり、意見を集約させるのは至難の業だ。私とテインセイン大統領は心臓にペースメーカーを入れており、お互い顔を合わせると機器の調子はどうかと聞きあう仲であり、彼の任期内での全面停戦の実現のために大いに汗をかいてきた結果、ようやく8グループとの停戦協定締結にこぎつけ盛大に開催された停戦署名締結式典では、中国やタイ、インドといった国境を接する国々は当然として、国境を面していない国で日本だけが停戦署名にサインした。米国も、旧宗主国の英国も署名できなかったことを踏まえると、この意味は大きく、日本の少数民族和平に向けた貢献が評価されたといえるだろう。今後も残り7グループとの停戦合意の実現に向け、全精力を向けていきたいと考えている。

―――これまでの具体的な支援事業は…
笹川 少数民族地域での小学校建設(341校)や食料支援など、戦闘が激しいカチン州を除く多くの地域で様々な人道支援活動を実施している。日本財団しか現地に入れない地域もあるため、現地での存在感は大きく、ミャンマー政府にも認知されている。国内避難民への食料支援ではなるべく紛争地に近い地点まで赴き、物資を手渡してきたが、その際、紛争地の住民の中にはミャンマー語の米袋には毒が入っているのではとのうわさが広がり、日本財団の名前がプリントされた米袋以外は受け取らないと言ってきたこともあった。我々は袋であれば何でも良いと思っていたのだが、それ以来全ての米袋を日本財団仕様に切り替えた。それだけ、政府と少数民族間の不信感は強いということだ。今後も少数民族支援は続けていきたいが、政権移行期であるため、新しい政権の意向を見極めてからでないと新しい動きは取りにくい。

―――11月の選挙の様子は…。

笹川 私は日本政府の選挙監視団の団長として実際に様子を確認したが、じつに整然とした混乱のない選挙だった。日本以外にも米国やEUなどからのべ1000人、ミャンマー国内からは9000人、合計1万人もの選挙監視団がモニタリングしたが、目だった問題は報告されなかった。選挙管理委員会が住民にきちんと選挙を説明し、住民側も真面目な態度を堅持したことが成功の背景だろう。私が監視していた場所の一つは、小さな敷地に4つの投票所があったため、混乱するのではないかと懸念していたが、当局者は何度も説明したため問題ないと太鼓判を押し、実際選挙が始まっても市民らはスムーズに決められた通りの投票所で投票していた。私は朝5時ごろに現地に到着したが、5時半には開門を待つ市民らの行列ができていた。彼らは暑い中、一時間以上も静かに待機していた。彼らは50年間一票を投じる機会を待ちわびていたので、誰もが投票の喜びをわかちあっていた。二重投票を予防するため、日本政府が寄付した特殊な塗料が投票後に市民の小指に塗布されたが、市民らの間では投票した証である小指を見せ合うのがしばらくの間流行となっていた。スーチー氏も支持者らに小指を掲げてみせたし、テインセイン大統領も選挙の1週間後に面会した際、私に色がついたままの小指をみせてくれた。

―――これからも民主化は進むのか…。
笹川 進展すると確信している。ここ5年間でテインセイン大統領が推進した民主化のプロセスは世界でも最高の内容だったと感じている。いまや、日本を除けば、ミャンマーはアジアでメディアが大幅に自由化されている国だ。更に大事なのは、ミャンマーには民主化に不可欠な市民社会が根付いていることだ。例えば1988年に市民運動を行った当時大学生の88世代には、国家国民のために政治をよくしようという考えを持つ民主化リーダーが沢山いる。その多くは長年刑務所に収容されていたが、テインセイン大統領は彼らのような政治犯を全て解放した。今後は彼らを中心とした市民社会がミャンマーの民主主義を支えるだろう。一般的に国際社会では、選挙を実施すれば民主主義が定着するという見方もあるようだが、アラブなどの事例をみればわかるように、選挙さえすれば民主化が定着するというのは大きな間違いだ。民主化には選挙をすることが第一義的に重要ではあるが、市民社会が存在、発展しないところには、真の民主国家は育たない。市民社会の成熟度合いでミャンマーは進んでおり、アラブのような混乱は発生しない。ミャンマーは世界でもっとも国民の寄付の多い国の一つであり、社会に対する連帯感は強いと評価できる。

―――経済改革については…。
笹川 日本企業の本社サイドでは悲観論が強いようだが、これは間違いだ。歴史的に軍事政権からの政権移行が平和裏に行われた例は少ない。だから今回のミャンマーも同じ轍を踏む、という考えのようだが、そうした過去の事例とミャンマーでは状況が全く違う。これは、ミャンマーに実際に駐在している方々なら感じ始めているはずだ。スーチー氏は選挙の勝利演説で敗者への思いやりが必要と強調しており、現政権を高く評価し、驕りを戒めている。選挙後にテインセイン大統領やミンアウンフライン最高司令官、さらにスーチー氏を監禁した責任者であるかつての国家元首タンシュエとも面会した。スーチー氏は慎重に、外国からの干渉を撥ね退け、現在政権移譲に全力を尽くしている。現政権側も円滑な政権移行のため、スーチー氏率いる国民民主連盟の面々と話し合いを進めている。こうした政権移行への取組みは評価でき、経済政策が大幅に変わることはないと断言できる。

―――日本の経済団体は更なる改革がなければ進出は困難との意見が目立つ…。
笹川 韓国や中国企業は、橋に一歩でも足がかかれば渡ったのと同じという考えで話を進めているが、日本企業は石橋を叩いても渡らないのが実情だ。ミャンマー側は投資環境が不十分なのを承知のうえで、長年の関係を信頼して日系企業に進出を頼んでいるわけで、その意を汲んで欲しい。ミャンマーも十分に日本を特別扱いしており、例えば昨年与えられた外国銀行の営業許可は、9つのうち、日本の大手銀行が3つを獲得した。シンガポールの2行を除けば、他の国はどこも1カ国1行だったことを踏まえると、これは大変な特別待遇だ。実は当初ミャンマー側が提示していたのは2つだったが、麻生財務大臣を始めとする日本関係者の努力で、3つにしてもらった。進出した金融機関らにはこの苦労に応える活躍をして欲しい。

―――ティラワ特別経済区はミャンマー経済発展の象徴だ…。
笹川 2012年に日本・ミャンマー政府が開発合意した当時は、現地はなにもない荒野だった。大統領は15年の選挙までに形にしたいと話していたが、山手線の内側の45%に相当する広大な地域を短期間で開発できるか、疑問だった。しかし今や第1期工事が完了し、日本だけではなく、香港やシンガポール、タイ企業ら45社が進出している。第2期工事の契約も終わった。いずれ世界に冠たる工業団地が完成するだろう。日本政府が供与するODAで港湾はすでに整備が進み、今後は道路や橋も作られる。開場式では、私と麻生財務大臣、日本ミャンマー協会の渡邉秀央会長と3人で、「あの荒野がこうなったか」と話しあったものだ。地元への貢献という意味でも、第1期工事では直接雇用で3万人、下請け、関連を入れれば30万人分もの雇用が創出された。ティラワは元々ミャンマー政府が日本、韓国、中国の3カ国で開発して欲しいとしていたものを、日本ミャンマー協会の渡邉会長の努力で、日本が独占した経緯もあり、今後の進展を実現する上で日本には大きな責任があるだろう。

―――日本政府の対ミャンマー政策をどうみるか…
笹川 ミャンマーに関して、日本政府の存在感は飛びぬけていると思う。5000億円の借款をゼロにしたことで世銀の融資実施への道を開いただけでなく、新たに1000億円を供与した。更に人材育成や、システムの構築でも貢献しており、中央銀行、証券取引所、郵便も、日本の優秀な専門家派遣で近代化が進んでいる。私は以前から中国とODAの金額で争うべきではないと申し上げてきたが、このようなソフトパワーの活用こそ日本のあるべき支援の形だろう。ここまで日本が他国の民主化のために協力した例はなく、今日の両国間の特別の信頼関係に繋がっている。新政権になれば経済政策の大幅な変更もあるのではとの見方もあるようだが、NLDの目指すところは前政権の改革を更に進展させることにあり、省庁の人間を全て入れ替えたり、これまでの対日関係を見直すことは絶対にないと断言できる。経済政策については、スーチー氏はテインセイン大統領が作った道の上で改革を進めるだろうし、悲観する必要はない。ミャンマーは戦後アジアで最も豊かな国でありながら、現在アジア最貧国にまで転落したが、今後は経済開発が素晴らしい勢いで進み、10年もかからず再び豊かな国になると確信している。

※以上は1月4日「金融ファクシミリ新聞」からの転載です。

国際開発ジャーナル「ミャンマーの現況と日本」 [2015年11月16日(Mon)]
「ミャンマーの現況と日本」


国際開発ジャーナルは主に日本のODAや、海外で活躍するNGOや企業の情況を掲載する専門月刊誌です。

70年近い少数民族武装勢力とミャンマー政府との紛争解決に向けた経緯が記されており、読者のご批判も参考にしたいと思い、掲載しました。

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国際開発ジャーナル
2015年10月号


Special Interview
〜日本財団会長 笹川陽平氏に聞く

積極的平和外交のモデルとなるか

大詰め迎えるミャンマー少数民族問題
70年以上にわたり政府と少数民族との間で武力紛争が続いてきたミャンマーで、10月15日、停戦協定が締結された。一部勢力は不参加ながら、和平の実現に向け一定の成果が上がったと言える。その立役者が、軍政時代から同国に入り、辺境地への支援を積極的に行ってきた日本財団の笹川陽平会長だ。2013年2月からは「ミャンマー国民和解担当日本政府代表」として奔走してきた同氏に、和解交渉の経緯と今後の展望を聞いた。
(聞き手: 本誌主幹・荒木光弥/本誌編集長・玉懸光枝)


政府と武装勢力の仲介に奔走
―少数民族武装勢力との和平交渉が大詰めを迎えていますね。

笹川 ここまで詰めに詰めてきた。この国には、7割のビルマ族に加え、100を超える少数民族が暮らしている。中でも大きく17グループの少数民族武装勢力が、今日まで政府側と闘い続けてきた。70年超の紛争の歴史は、そう簡単に解決される問題ではない。
 私は、彼らを理屈で説得するのではなく、「この人なら信頼できる」と思ってもらうため、1度より2度、2度より3度と回を重ね彼らを訪ねた。ゼロ泊3日の出張もあった。22時に自宅を出て羽田空港から夜半過ぎの飛行機に乗り、バンコク経由でタイの地方都市に移動して少数民族のリーダーと面会し、夕刻に現地を出てバンコクに戻り、深夜便で翌朝帰国しそのままオフィスに出勤することを3週間続けたこともある。また、信頼を醸成するために武装勢力リーダーの墓参りに渡航したこともあり、この3年間の訪問は50回に上る。
 協議がたびたび中断し、あわや決裂かという場面にも何度も直面したが、そのたびに私は政府と少数民族側の双方から仲介を頼まれた。45年以上祖国を離れ、パスポートもない少数民族武装勢力のリーダーの身の安全を保証した上で政府側との交渉の席に連れて行ったり、政府側から要望されて、中断した和平交渉の再開に向け、再交渉の場を設けたこともある。
 少数民族武装勢力が節目の場面でわれわれを活用してくれたのは、彼らと信頼関係が構築できたからだと思う。9月上旬の和平交渉では、「大統領と国軍司令官との会談に同席してほしい」との正式な依頼文書を17の少数民族武装勢力側から書面でいただいた。

──今のミャンマー政府側にまとめ役がいないということですか?

笹川 政府側の担当責任者は、アウン ミン大統領府付大臣だ。2012年には大統領府の管轄の下でミャンマー平和センターを立ち上げるなど、少数民族問題の解決に積極的に取り組んでいる。
 私自身の関与は、対話の場のセッティングや費用の支援、あるいは世界におけるミャンマーの客観的な状況に関する情報提供にとどめ、指図は一切しない。これはあくまでミャンマーの国内問題で、外国から干渉が入ると複雑化するからだ。外部者が上からの目線で「民主主義」や「人権問題」をかざして介入しても、うまくいかない。
 これまで日本が音頭を取って紛争問題を解決した事例はないだけに、ミャンマー和平が実現すれば、そのプロセスは日本にとっても積極的平和外交のモデルとなる。これまでの努力が実を結ぶかどうか、もう少し時間が必要だ。

平和の果実をすべての人々に
──日本政府はミャンマーの少数民族対策として5年間で100億円を計上しています。

笹川 予算規模は十分だ。ミャンマーは今後、産業が発展し、雇用が生まれ、都市部の多くのビルマ族は民主化の恩恵を実感するだろう。しかし、少数民族武装勢力も含めて皆に平和の果実を分かち与え、少数民族の中にも平和を希求する気持ちを醸成しなければ、この問題の解決はあり得ない。こうした支援を継続しているのは日本だけであり、われわれはその先遣隊だ。
 今後、本格的な停戦が実現したら、日本財団は日本の国際NPOやNGOと共に、それぞれの得意分野を生かした積極的な人道支援活動を実施したい。その後、国際協力機構(JICA)がインフラ整備を開始する―。この国の開発には、そうしたステップが必要だ。ミャンマーを舞台に、アジア的な紛争解決のモデルを作りたい。

──大いに賛成だ。少数民族武装勢力側が武器を手放せないのは、政府に不信感があるためです。和平の実現には、生活を豊かにし、政府への信頼を醸成するしかないという意味で、少数民族問題の支援には非政府組織が一番適しています。

笹川 常に中立の立ち位置でいるためには、非常に気も使う。例えば、私はこれまでどの国でもその国の民族衣装を着ることにしてきた。それにより、親近感がより醸成されるからだ。ミャンマーでもテイン セイン大統領との会談ではビルマ族の民族衣装を着ていたが、最近は少数民族側の立場も考慮し、洋服を着るようにしている。
 その一方で、ミャンマーには民主主義の受け皿としての市民社会ができ上がってきているのも事実だ。1988年に民主化運動に立ち上がった「88世代」がその代表格だ。今日のアジアでメディアが完全に自由化されているのは、日本とミャンマーぐらいだ。来たる11月8日の総選挙には日本からも選挙監視団を派遣し、私がその団長を務める。この国の少数民族問題は非常に複雑な連立方程式だったが、政府側も少数民族側もよくここまでがんばったと思う。
 日本の政府開発援助(ODA)も、要請主義を金科玉条にする時代は終わったのではないか。特に、国際機関を通じた援助は日本の顔を見えにくくしている。外国への人道支援にはもっと日本のNGOを活用し、日本の援助だと知らせる必要がある。そのためにも、ミャンマーの少数民族対策として計上された100億円は、すべての人々に「和平の果実」を実感してもらえるよう活用したい。
「ミャンマー総選挙について」 [2015年11月13日(Fri)]
「ミャンマー総選挙について」


11月10日、ミャンマー選挙監視団長としての任務を終え、帰国しました。
既に9日に外務報道官談話が発表されていますので、下記、転載しました。

ミャンマーにおける総選挙の実施


1 11月9日(現地時間同日),ミャンマーに派遣されている日本政府からの選挙監視団より,ミャンマーで8日に行われた2011年の民政移管後初めての総選挙の投票は,国内外の多数の選挙監視団による活動の下,概ね平穏裡に行われたとの報告を受けました。選挙結果に関しての正式な結果発表はまだ行われていませんが,民主化進展に向けた重要な一歩として総選挙の実施を歓迎するとともに,ミャンマー政府による選挙監視団の受入れを評価します。

2 我が国は,笹川陽平ミャンマー国民和解担当日本政府代表を団長とする選挙監視団の派遣等を通じて選挙の自由かつ公正な実施を支援してきました。我が国は,今次選挙の結果が公平かつ適切な手続に従い確定され,今後,ミャンマーの民主化と諸改革が更に進展することを期待します。

3 我が国は,ミャンマーにおけるこうした改革に向けた取組を引き続き支援し,伝統的友好・協力関係を更に発展させていく考えです。

(参考1)我が国によるミャンマー総選挙支援
(1)笹川陽平ミャンマー国民和解担当日本政府代表を団長とする選挙監視団を派遣したほか,現地大使館も選挙監視に当たり,自由・公正な選挙実施を支援。

(2)非電化地域の投票所にて行われる夜間の開票活動に必要な太陽光ランプ及び二重投票防止のための特殊インクの供与をUNDPと連携して実施。供与額1億1,100万円。

(参考2)笹川陽平政府代表のミャンマーにおける活動
(1)笹川陽平氏は,日本財団会長として,ミャンマー少数民族居住地域における学校の整備,薬の支援,農業支援等に20年以上にわたり尽力。

(2)日本政府も,ミャンマーの改革進展には国民和解が不可欠との観点から,地域開発と平和の定着を促進し,ミャンマーの安定と持続的発展に貢献するため,少数民族地域に対する支援を積極的に実施。

(3)2013年2月,長年にわたりミャンマーの少数民族支援に取り組んできた笹川陽平日本財団会長をミャンマー国民和解担当日本政府代表に任命し,国際協調主義に基づく積極的平和主義の下,同政府代表とともに国内和平に向けたプロセスを当事者間の対話を促す等様々な形で支援。

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又、若干手前味噌(自慢すること)で恥ずかしいのですが、遅まきながら10月30日、日刊ゲンダイの記事を併載します。

―ミャンマーを救え! 日本財団の支援プロジェクト―


日本財団は、ライフワークともいえるハンセン病制活動を40年以上展開してきた。122カ国あった未制圧国は、現在は残すところ1カ国まで制圧することに成功している。

日本財団は1974年から、笹川記念保健協力財団とともにミャンマーに対するハンセン病対策活動を開始。現地保健省を通じ、薬品・器材の供与を始め、医療面での支援を中心に行った。その活動は軍事政権時代も人道支援として続けられ、60年には人口1万人あたり250人とされた患者が、2003年には1人未満となりハンセン病の制圧を成し遂げた。

ミャンマーといえば、軍事政権の下、絶えず少数民族武装勢力と紛争が続き、西側諸国からの経済制裁を受けるなど、国内情勢が不安定な時代が長く続いた。日本にもアウン・サン・スー・チー女史の自宅軟禁など、その悲劇的な状態が伝えられたいた。そうした中でも、日本財団は民間外交として、人道支援の見地からミャンマー政府、武装勢力との対話を持ち、支援を続けた。

近年ミャンマーの民主化の動きが本格化し、10月15日にはミャンマー政府と武装勢力8グループが停戦合意し、60年以上続いた紛争解決に向けた大きな一歩を踏み出した。日本が和平プロセスにおいて証人国になったことは外交史上、意義深い出来事となった。

単なる金銭支援にとどまらず、そこに暮らす人々が自主性を持って暮らせるために、考え抜かれた方法を模索しながら、日本財団のミャンマ−支援は、暗黒の時代から今日まで多岐にわたり行われている。

ミャンマーも遠からず、安心して暮らせる国となることだろう。
「皇室とハンセン病」―両陛下が各国のハンセン病回復者の手を取られた日― [2015年11月09日(Mon)]
「皇室とハンセン病」
―両陛下が各国のハンセン病回復者の手を取られた日―


畏れ多いことではありますが、これは季刊誌「皇室」2015年10月号に掲載された私へのインタビュー記事です。

ご一読賜れば幸甚です。

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40年間以上にわたってハンセン病制圧と差別撤廃のために国内外で尽力し、この1月に各国からの回復者(元患者)たちと一緒に両陛下にお会いした日本財団会長・笹川陽平氏に話をうかがった。

ハンセン病と日本財団
 私が会長を務めている日本財団では社会福祉、教育、文化などの分野で事業を展開しています。とくにハンセン病については昭和30年代半ばより、ハンセン病支援を実施する財団法人藤楓協会を通じて国内のハンセン病療養所の図書館や集会所の建設、車両の購入資金などに協力してきました。また海外においては、私の父である笹川良一(日本財団の前身である「日本船舶振興会」会長)が私財によりインド、フィリピン、台湾、韓国などにおいてハンセン病施設の建設などの支援を実施していました。
 昭和49年には海外のハンセン病対策事業の専門機関として笹川記念保健協力財団を設立。以来、笹川記念保健協力財団と連携し、世界保健機関(WHO)を主要パートナーとすると同時にさまざまな非政府組織(NGO)とも協力し、国際会議の開催、ハンセン病対策従事者の育成、現地技術協力、ハンセン病の研究、教材の開発・供与、広報啓蒙活動、薬品・機材援助等を中心に取り組みを拡大してきました。
 平成7年から11年の5年間はハンセン病の制圧を推し進めるため、有効な治療法として認められた経口薬、MDTをWHOを通して世界中に無料で供給しました。平成12年以降は、日本財団の意志を引き継いだ製薬会社のノバルティス社が無償配布していますが、MDTの無償配布によりハンセン病患者の数は激減しました。WHOは「ハンセン病の罹患率が人口1万人あたり1人未満となれば、公衆衛生上の問題としては制圧されたと見なす」と定義していますが、現在、ハンセン病が制圧されていない国はブラジルのみとなっています。

御所でのご説明とご懇談
 毎年、日本財団では「世界ハンセン病の日」(1月の最終日曜日)に合わせ、ハンセン病と差別の問題について世界に訴える「グローバル・アピール」を発表しています。第1回は平成18年にインドのデリーで行われました。第10回となる本年は1月27日に初めて日本で行われることになったことから、同月13日、世界のハンセン病の現状とグローバル・アピールの意義について両陛下に御所でのご説明の機会に恵まれました。
 両陛下は世界のハンセン病の現状について深いご関心をお持ちで、ハンセン病の薬のことや、ブラジルが今なお制圧に成功しない理由についてなど、専門的かつ多岐にわたるご質問がありました。その結果、当初15分間のところを70分間にわたってお話しさせていただくことになりました。
 そして「グローバル・アピール」翌日の28日には日本、インド、アメリカなど各国の回復者の代表8人に御所でご引見くださいました。

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各国からのハンセン病回復者らと懇談された両陛下


 両陛下は二手に分かれて4人ずつにお会いになり、次に場所を交代されて回復者全員にお声をかけてくださいました。しかも驚いたことに、緊張した面持ちの回復者一人ひとりに対して、本当に肩を寄せ合うようにして両手で回復者の手を取って話されました。両陛下は国内の療養所でも椅子に座った回復者の傍で跪き、手を取り合ってお話しされますが、各国からの回復者にも分け隔てなく、同じように接してくださったのです。私は彼らの故国での辛い立場を思うと同時に、両陛下の尊いお姿に感動して涙を禁じ得ませんでした。というのも彼らは親や家族からも見捨てられ、手を握られたことがないのです。

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両陛下は回復者一人ひとりと手を取って親しく言葉を交わされた


 御所でのご懇談は予定の15分を大幅に超えて40分間におよび、最後に陛下から「今なお病気はもちろんのこと、差別に苦しんでおられる方々の指導者として活躍していただき、みなさんの生活がよりよくなることを願っています」とのお言葉をいただきました。
 その後の記者会見で回復者は「親や家族からも手を握ってもらったことがないのに、両陛下というやんごとなき方に手を握り締めていただいた。その瞬間に苦しみがすっと消えた」「夢を見ているようだ」「心から話を聞いてくださった」などと涙を流しながら御所での経験を振り返っていました。私はハンセン病関連の活動などでこれまでに125か国にのべ460回も行きましたが、過酷な日々を送ってきた人たちに対し、他の国で高貴な方が両陛下のように心からの愛を示されるのを見たことがありません。ところが両陛下はお住まいの御所に回復者を招いてくださったのです。親しくお話しされている両陛下からはまことの優しさが伝わってきて、常に世界の人々の安寧を祈られている無私そのもののお姿だと思いました。

皇后陛下に導かれて
 実は私とハンセン病の出会いは皇后陛下のお導きによるものです。昭和40年、当時、韓国大使を務めていた金山政英氏が父を訪ねてきて、韓国のハンセン病の病院建設に協力をお願いできないかと話されました。
 父は即座にお申し出を受け入れ、私はその病院の完成式典に父とともに出席しました。父は絶望した表情の患者の肩を抱き、膿の出ている足をさすりながら、一人ひとりを励ましておりました。そんな父の姿に感動したのが、今に至る私のハンセン病との闘いの第一歩なのですが、この金山大使との出会いをご説明時に申し上げると、皇后陛下は「それはよかったわ」とおっしゃいました。
 どういうことかと言えば、当時、皇太子妃殿下であった皇后陛下に韓国で活動するシスターから、韓国のハンセン病患者の置かれた痛ましい現状についてお手紙が届いたそうです。皇后陛下はそれを金山大使にご相談され、皇后陛下の意を汲んだ金山大使が父を訪ねてこられた、ということなのです。
 実は金山大使が父を訪ねてきた時は私も同席しており、大使が「(韓国の現状について)妃殿下も心配されておりますので」と付言されたことをはっきり記憶しておりましたが、ご説明時には皇后陛下のお名前はお伏せし、金山大使の名前を出すにとどめました。そうしたところ皇后陛下のほうから当時のいきさつをお話しくださったのです。私は皇后陛下のお話をお聞きするうち、自分の長いハンセン病との闘いが皇后陛下のお言葉に端を発していることに気づき、大変な感動を覚えました。
 日本の皇室は光明皇后の頃よりハンセン病に心を砕いてこられました。両陛下にお目にかかり、また両陛下の回復者へのお優しいまなざしを間近に拝見し、そういう皇室を戴く日本から世界に向けて差別撤廃を訴えていくことの意義を再認識しました。と同時に、かつて患者に対して過酷な差別があったという「負の歴史」を、風化させないための活動を広めていくことの重要性を改めて強く感じております。(談)


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