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産経新聞【正論】「海の日」を前に再度提案する [2014年07月18日(Fri)]
「海の日」を前に再度提案する


産経新聞【正論】
2014年7月14日


 今年も21日に「海の日」を迎える。これを前にふたつの提案をしたい。ひとつは7月の第3月曜日となっている海の日の固定化、もうひとつは懸案の初等中等教育における海洋教育の強化である。

 ≪日定め首相が世界に声明を≫
 ともに「海洋国家日本」の存在に関わる問題であり、特に「海の日」に関しては日を定め、総合海洋政策本部長である首相が、海の平和を守る声明を世界に発信されるよう求める。それが国際社会における日本のプレゼンスを高める結果にもなる。

 国土交通省によると、海の日は世界の多くの国が設けているが、日本のように国民の祝日にしている国はない。1996年の施行以来7年間、7月20日に固定されていたが、2003年からハッピーマンデー制度の導入で第3月曜日に変更された。

 海の日の意義より連休づくりが優先された形で違和感が残る。日本の祝日は17日もあり、連休も多い。海の日を特定の一日に定め、首相が力強いメッセージを出せば、国民の受け止め方を前進させるきっかけにもなる。

 一方の海洋教育の強化。昨年1月の当欄でも、海に囲まれ大きな恩恵を受ける海洋国家として、07年に制定された海洋基本法や翌年の海洋基本計画で、学校教育での海洋教育の推進を謳(うた)いながら、改善が進まない現状を「画竜点睛(がりょうてんせい)を欠く」と指摘、改善を求めた。

 現状は小学4年の理科と5年の社会に「海」が断片的に記されているものの、一昨年、東京大学、海洋政策研究財団とともに行った全国調査では70%が海洋教育という言葉自体を知らなかった。

 かつて盛んだった臨海学校も、プールの普及や安全に対する学校現場の配慮もあって姿を消し、ゆとり教育の中で生まれた「総合的な学習の時間」に、海に関する体験学習を取り込む学校も極めて少ない。これでは「仏作って魂入れず」で、海洋国家に相応しい人材育成は期待できない。

 ≪明確な位置付け欠く海洋教育≫
 学習指導要領で海洋教育が明確に位置付けられていないのが一因で、次の改訂版では海洋教育の強化を明確に打ち出す必要がある。学習指導要領はほぼ10年ごとに改訂され、次期改訂作業は当初17、18年と見られていたが、グローバル化に対応する人材育成の高まりなどで作業を前倒しし、東京五輪が開催される20年の完全実施を目指す方針と聞く。

 現在の学習指導要領は、小中学校が07年、高校が08年に改訂された。海洋基本法や海洋基本計画が制定、策定された年に当たり、その分、海洋基本法や海洋基本計画の目的を中央教育審議会の議論に反映できなかった事情がある。

 今回は文部科学大臣の諮問を受け中教審の議論を経て答申がまとまるまでに十分な時間がある。昨年、策定5年後の見直しが行われた政府の海洋基本計画も、前計画にはなかった学習指導要領の言葉を2度も使い、「学習指導要領を踏まえ、海洋に関する教育を充実させる」「必要に応じ学習指導要領における取扱いも含め、有効な方策を検討する」と積極的な姿勢を打ち出している。

 われわれも学識者を交えた海洋教育戦略会議で、学習指導要領の「総則」に「海洋の教育」もしくは「海洋」を、「総合的な学習の時間」の学習活動の例示にも「海洋の教育」もしくは「環境(海洋を含む)」をそれぞれ明記するよう提言した。

 「海洋」の教科を持つ国は世界にも見当たらない。理科、社会、歴史など、すべての教科に関連する海洋の特殊性からも、学習指導要領で明確な位置付けをしたうえで、各教科や総合的な学習の中で広く「海」を教えるのが目指すべき姿と考える。

 世界の人口は今世紀末にも100億人に達し、漁業資源だけでなく、海中、海底のエネルギー資源や領海、EEZ(排他的経済水域)をめぐる対立と緊張が一層、激しくなる。17世紀オランダの国際法学者グロチウスが唱えた「海洋の自由な利用」はとうの昔に終わり、国際的な秩序と協調の確立が喫緊の課題となっている。

 食糧、エネルギー資源など「母なる海」に対する人類の依存度は一層高まり、海の恵みをひたすら受けてきた海洋国家日本が果たすべき役割も必然的に大きくなる。

 ≪海洋国家日本が目指すべき姿≫
 未曽有の被害をもたらした東日本大震災の大津波は、漁業や水産業だけでなく、伝統文化も海と深く結び付いた地域社会の姿、さらに、海の視点を持たない防災がもはや成り立たない現実を浮き彫りにした。

 過日、文科相経験者4人とお話しする機会があった。英語や日本の歴史、伝統文化などの強化は当然として、海洋教育の一層の充実を図る点で異論はなかった。

 次期学習指導要領では、海洋教育の強化が間違いなく打ち出されると確信する。「海の日」を活用した外交戦略、海洋教育の強化とも海洋国家日本が目指すべき当然の姿であり、国際社会でこの国が負う責務でもある。
(ささかわ ようへい)
産経新聞【正論】日露交渉で「抑留者」の再提起を [2014年06月02日(Mon)]
日露交渉で「抑留者」の再提起を


産経新聞【正論】
2014年5月29日


 戦後の日ソ、日露交渉を見ていてどうしても納得いかない点がある。ソ連は1945年8月9日、翌春まで有効だった日ソ中立条約を破棄して参戦、旧日本兵ら57万人をシベリア、中央アジアなどに強制抑留し、極寒の地の飢えと重労働で5万5千人(いずれも厚生労働省推計)が命を失った。

 「日本の軍人は武装解除後、本国へ送還させられなければならない」としたポツダム宣言に反し、その非人道性は国際的にも明らかである。

≪「ボタンの掛け違い」≫
 しかし日本政府はソ連国民にその不当性を訴えることも、北方四島返還など一連の交渉でこの問題を取り上げることもしてこなかった。一方で、歴史的根拠が希薄な南京事件や慰安婦問題で有効な反論をしないまま守勢に立つ現状を見ると、自らの主張を控えることで相手の譲歩を引き出す「誤った忖度(そんたく)」や「ボタンの掛け違い」があるような気がする。

 外交は自らの主張が相手国や国際社会に認知されて初めて大きな力を発揮する。ロシア国民の多くがシベリア強制抑留の存在自体を知らない現状では、プーチン大統領が動ける範囲も限られる。

 膠着(こうちゃく)状態を打開するためにも、両国首脳が早い段階でシベリアにある抑留犠牲者の墓に共同参拝するよう提案する。謝罪の意を込め慰霊碑の建設も検討してもらいたい。ロシア国民が問題の重大性を認識し、日本国民の対露不信が和らげば懸案の平和条約締結交渉にも弾みがつく。

 10年ほど前、中央アジア・ウズベキスタンの首都タシケントにあるナヴォイ・オペラ・バレエ劇場を訪れたことがある。ビザンチン様式の美しいレンガ造りの建物で、壁面のプレートに、ウズベク語と日本語、英語で「1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本人が建設に参加し、その完成に貢献した」と書かれていた。

 抑留された日本兵約500人が2年がかりで完成させ、66年にこの地を襲った直下地震で多くの建造物が倒壊する中、無傷で残り、「日本人が作った建物はすごい」と地元の語り草になっている。

 抑留者の最後の帰還は56年。政府は2010年、国の決断を促した前年の京都地裁判決を受け「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法」(シベリア特措法)をまとめ、ようやく抑留者補償に手を付けた。60年を超す空白が確固たる方針の欠如を物語る。

≪「非人間的な行為に謝罪」≫
 ソ連側に動きがなかったわけではない。ゴルバチョフ大統領(当時)は、歴代指導者では初めて犠牲者に「哀悼」の意を表明。1990年9月、クレムリンでお会いした際、「日本国民の反ソ感情を和らげるためにも日本兵士の墓に花を手向けてほしい」と要請すると、「建設的な意見だ」とその場で同意し、翌春の訪日途中、ハバロフスク郊外の日本人墓地に墓参してくれた。

 エリツィン初代ロシア大統領も93年10月に訪日した折、「非人間的な行為に対して謝罪の意を表する」と表明、日本政府も「両国民の和解の基礎を築く」と評価した。しかし、こうした経過は不思議なほど日露両国民に知られておらず、プーチン大統領がこの問題に言及したこともない。

 当のプーチン大統領は首相時代の2010年4月、ポーランド首相とともにロシア西部スモレンスク郊外にあるカチンの森事件の慰霊碑を訪れ、ひざまずき献花した。2万人を超すポーランド将校がソ連軍に殺害されたこの事件、ソ連側は一貫して「ナチス・ドイツの仕業」としてきたが、最後は国を挙げて真相解明を求め続けたポーランドの熱意が勝った。

 これに比べシベリア抑留は最終的な抑留者数など未解明な点が残るもののソ連参戦や強制抑留の不当性に関し争いの余地はない。

 1990年、東京で開かれた抑留関連のシンポジウムで、ソ連側代表のアレクセイ・キリチェンコ氏も昨春発行された「知られざる日露の二百年」(現代思潮新社)で、「北方領土問題よりはるかに深刻」な問題だった、と日本側の姿勢に疑問を投げ掛けている。

≪両国の将来に新たな可能性≫
 ロシアでは近年、バイカル湖以東を中心に人口流出が続き、地下資源の埋蔵地シベリアの人口は最盛期の830万人から600万人に減少し、日本との共同開発に熱い視線を注いでいる。実現すれば日本にとっても資源安全保障が前進し、ロシア沿海地方と北海道に挟まれた海域は“自由な海”として発展する可能性を秘める。

 プーチン大統領は今、ウクライナ問題で国際的にも厳しい立場にある。しかし戦後70年を経て平和条約すら締結できず領土問題に縛られた日露の現状は異常であり、これ以上、放置できない。

 北方四島の返還問題は「返せ」と叫んでいるだけでは前進しない。両首脳が強制抑留の犠牲者に対する参拝を通じて信頼関係を確認し、問題解決に向けた決意を共有してこそ、日露両国の将来に新たな可能性を拓(ひら)く。
(ささかわ ようへい)
「将来を嘱望される若手研究者へ」 ―日本科学協会研究助成および笹川スポーツ研究助成― [2014年05月23日(Fri)]
「将来を嘱望される若手研究者へ」
―日本科学協会研究助成および笹川スポーツ研究助成―


2014年4月25日
於:ANAインターコンチネンタルホテル東京


日本科学協会と笹川スポーツ財団の2014年度研究助成者が4月25日、発表され、「将来を嘱望される若手研究者へ」と題し挨拶させてもらった。両団体の紹介を兼ね、当日の挨拶要旨を掲載させていただく。詳しい情報は両団体のウェブサイトを参照いただけると幸いです。

日本科学協会
かつて茅誠司元東大総長とソニーの創立者・井深大さんが運営されていた。ある時、若輩の私に「我々もいい年齢になった。後継者を探している」と声が掛り、お引き受けすることになった。

両先生は月刊「生物と科学」の発行を中心に活動されていたが、私は渡部昇一先生等と相談の上、文部省(当時)の科学研究助成が受けられない研究者を対象に研究助成金を支援する事業を始めた。博物館、美術館の学芸員や図書館の司書をはじめ一般の秀れた研究も対象にしている。

昭和63年の開始以来、平成26年までの助成金額は46億7千万円。採択率は22.2%と厳しいが、この間、助成金を受けた研究者は計8003名、外国人研究者も64ヶ国880名に上っている。日本科学協会では、これらの人々のネットワーク化を計り、さらに高度な研究助成も用意している。

STAP細胞をめぐる理化学研究所や小保方晴子研究ユニットリーダーの問題で研究者の倫理感が問われている今日、研究者には真理の追求と同時に人間性豊かな人物に成長してもらいたいと願っている。

笹川スポーツ財団
競技スポーツ中心ではなく、今日の高齢化社会を予測し、子供から老人まで幅広い層の生涯スポーツ普及のために創設された。スポーツを科学的に研究する団体が日本に存在しないこともあって近年はスポーツ・シンクタンクとしても活動している。

研究テーマは@スポーツ政策に関する研究Aスポーツと街づくりに関する研究B子ども・青少年スポーツの振興に関する研究で、今年は37名の方々が選ばれた。


―挨 拶―


挨拶1.JPG


今日は将来を嘱望される若い研究者の皆さま方が研究助成を受けられ、心からお慶び申し上げます。

日本財団は、日本科学協会、笹川スポーツ財団の親財団でありまして、成熟した日本が抱えるさまざまな社会課題を見つけ出し、解決していくことを活動の柱としています。長い間の活動を通じて政治家、行政官、学者、NPO、その他多くの専門分野の方々と、国内だけでなく世界的にも幅広いネットワークを築いており、さまざまな社会課題をピックアップして解決に導くとともに、そのノウハウを別の政策に反映させていきたいと考えています。

例えば、最近、新聞紙上を賑わしている望まない妊娠から生まれた子ども、育てられない子どもたちをどのように養子縁組させるかといった問題。あるいは服役を終え社会に出た元受刑者が再び犯罪を繰り返す再犯問題。防止策として、多くの中小企業の経営者の皆さんに雇用するだけでなく親代わりになって育てていただくプログラムや、刑務所内の在り方にまで立ち入らせていただき、社会で再チャレンジできる仕組みを作ろうというようなことも始めています。

多くの障害者、特に聴覚障害者の皆さんの手話を世界が言語と認める時代になりました。しかし日本の聴覚障害者の学校では「読唇術」といって、1939年に作られた法律に基づき、健常者並みに人のしゃべる唇を見て理解しろという時代錯誤の教育を続けています。障害者教育の現場には手話が使えない先生がたくさんいるという問題もあります。

先ほどの養子縁組を含め、DV(家庭内暴力)やさまざまな理由で施設に預けられる子どもがたくさんいます。施設で18年間育ち、社会に出なさいといわれても、家庭や社会の仕組みをほとんど知らずに育つわけですから、社会に適応するには大変な苦労が付きまといます。

われわれは、そういう方々を愛情ある家庭の中で教育していく仕組みを作っていきたいと考えています。里親を希望してくださる方も沢山いらっしゃいます。しかし施設に預かる子供がいなくなると、施設で働く人の職場がなくなるという問題もあり、依然として「子供たちは全て施設で面倒を見るべきだ」という意見もあるようです。

極端な例ですが、里親に施設から子どもを引き取っていただいたところ、子どもから施設に「虐待をされている。助けてください」と電話が入ったことがあります。調べてみると「月に4、5回、夕飯に食べた残りが朝食に出てくる。食べ残したものを、また食べさせられて虐待されている」ということでした。施設では栄養士がついて毎日、カロリー計算された3食違う食事を出します。過剰な福祉政策には、こんな問題もあるのです。こういう課題を解決するのも日本財団の仕事です。

人口、1億2千万人の日本には一人平均10口座、全体で12億もの銀行口座があります。皆さんもお持ちではないかと思いますが、多くは使われることのない休眠預金口座で、一定期間を経ると銀行の雑収入として処理されています。多くの預金額は5,000円とか6,000円と小額ですが、全体では毎年約800億円にも上ります。

こういうお金は国民にきちんと還元して使うべきです。銀行が自分たちのルールで人様のお金を収入にするのは許されません。中央ではアベノミクスによる経済の繁栄が期待されていますが、地方に行けばシャッター商店街があり、担保がないため50万、100万のお金が借りられないケースもたくさんあります。お金は人間の血液と一緒で、毛細管まで資金が回って初めて経済は活性化されます。そんな訳で、こうしたお金を上手に活かせるような法律の制定を目指しています。

皆さまの仕事に対する支援も、日本財団の仕事の大きな一つです。皆さん方は未知の分野の研究、まさしく社会課題の解決を目指しておられる訳で、もう少し研究助成を増やしたいというのが正直な願いですが、まだ実現していないことに忸怩たる思いもあります。

皆さまに誇りに思っていただきたいのは、この研究助成の決定プロセスです。学校名や皆さんを指導する先生の名前は一切気にせず、あくまで一人一人の研究テーマ、提出された論文内容を審査して決めていただいています。採用されなかった方に対しても質問があればきちんと説明責任を果たすということで、審査の先生方にボランティアで協力いただいており、このような透明性のある組織はユニークだと思います。それだけに皆さんには金額の大小ではなく、きちんと評価されたことに誇り持っていただきたいと思います。

博物館や図書館、美術館の研究者にも対象を広げていただいていますし、小学校の先生が蝶の研究をされているとか、どこかの海岸の巻貝の研究をされているといったユニークな研究も採用されたと聞いています。皆さまの研究は最終的に人々のために存在するわけですから、社会とのつながりを大切にしていただきたく思います。

東日本大震災から6カ月たった時、政府が動かないものですから、国際放射線の専門家32人を福島に招待して「放射線と健康」という国際シンポジウムを開催しました。あくまで放射線と人々の健康の問題に限定した国際会議で、原発に賛成とか反対ということではありません。

チェルノブイリ原発事故の後10年間、われわれの研究診療車は地球を90周回るほどの活動をし、検査データを蓄積してきました。国際原子力委員会IAEAでは、最も信頼性の高い調査報告とされています。

ところが、福島原発事故では自称科学者や放射線の専門家が、テレビやその他の報道を通じて感情論や思い込みによる無責任な発言をし、多くの人々に恐怖と不安を与えました。科学者もしっかりとした倫理観を持ち人格的にも優れていないといけないと思います。分からないことに関しては「その分野を研究はしておりません」とか「具体的な知見を持ってないので発言できません」というのが正しい姿だと思います。専門家のような顔をして、この時ばかりとテレビや報道で名を売る学者が何人も目に付きました。

参加していただいた32人の放射線学者の多くは、私どもとともにチェルノブイリで汗をかいた仲間です。報道を通じて、福島はもちろんのこと、日本人全てに放射線の正しい知識を持っていただこうと、全員が参加して3時間半にわたり最後の質問が出尽くすまで記者会見を行い、日本政府に提言書を提出しました。提言書の中には「私たち科学者は、放射線に対する専門的な知識を持っていながら、これを優しい言葉で人々に伝える能力に欠けていた」との一文が入っており、私はここに科学者としての素晴らしい人格、倫理観を見る思いがします。

今年9月、もう一度福島で「放射線と健康」について会議を開催するつもりです。健康被害との関係で私は当初から1ミリシーベルトなんていうことは有り得ないと主張してきました。インドのケララでは天然の放射線が年間20ミリシーベルトもありますし、アルゼンチンやフランスの一地域など10ミリシーベルト程度のところは世界にいくらでもあります。1ミリシーベルト以下に除染することが不可能と分っていながら、日本政府が言わざるを得なかった、あるいは言ってしまったために現在の混乱が起きているのです。

京都大学名誉教授で、現在、福島県立医科大学特命教授の丹羽太貫先生のように、今も毎週のように福島の被災地に入り、放射線と健康問題、住民の不安や恐れについて5人、10人の人々に丁寧に説明する宅和集会を続けておられる人や、しばしば福島入りして住民に寄り添っておられる国際的に優れた外国の放射線学者もおられます。

テレビや新聞で激しく煽った人たちは、今、何をしているのでしょうか。皆さん方に科学者である前に優れた人間であるようお願いして本日のお祝いの言葉とさせていただきます。
「朝雲」―幻のメガフロート― [2014年05月07日(Wed)]
「朝雲」
―幻のメガフロート―


2014年3月20日


 4半世紀以上、世界各地でさまざまな事業に取り組んできた。記憶に残る一つに1995年から6年間続けられたメガフロートの官民共同研究がある。鉄製の箱を繋いで洋上に浮かべるメガフロートは「超大型浮体式構造物」「人口浮島」などと呼ばれる。

 共同研究では政府、造船会社、鉄鋼会社、日本財団が資金を拠出して技術研究組合を立ち上げ、メガフロートが空港建設にどこまで利用できるか研究した。

 前半は長さ300メートル、幅60メートルの浮体モデルを使った基本技術の研究開発、後半は神奈川県・横須賀沖に長さ1000メートル、幅121メートルの浮体モデルを浮かべ、YS11機などを使って250回を超す離着陸実験も実施。最終的にスーパージャンボジェット機の離着陸に必要な4000メートル規模の滑走路建設も十分可能との結論を得た。

海上空港としての機能を検証するために建造した実験用メガフロート.jpg
海上空港としての機能を検証するために建造した実験用メガフロート


 メガフロートを使った浮体工法は、羽田空港再拡張・D滑走路の建設に向け国土交通省が入札対象とした3工法の一つにも選ばれたが、主体となる造船会社グループが建設業界などの協力を得られず、入札も不発に終わった。

 最終的に鹿島建設を幹事社とする15社の共同企業体(JV)が落札したが、桟橋と埋め立てを組み合わせたJVのハイブリット工法に比べ、浮体工法がコスト、安全面で劣るなどといったことはなく、広い意味で造船業界の“政治力の弱さ”が敗因だったと記憶する。

 実験用メガフロートはその後、4分割して各地のフェリー桟橋などに転用され、忘れ去られた存在となっていたが、東日本大震災の福島第一原発事故に伴い、静岡・清水港で海釣り公園に使われていた一つが急きょ汚染水の貯蔵タンクに活用され、思わぬところで脚光を浴びた。

 もともとメガフロートは米空母艦載機の夜間訓練基地や難航する普天間基地の移設問題でも、しばしば候補に挙がった。

 近年はメガフロートを使った太陽光や風力発電、さらには大規模な未来の水上都市構想まで夢多き企画が提案されている。各国の沿岸域は埋め立て、干拓による高度利用が進んだ結果、浅瀬や干潟が姿を消し、深刻な環境問題にもなっている。

 メガフロートは水深の深い沖合にも建設可能で、環境にもやさしい。共同研究で得られた先端データには世界も注目している。メガフロートが幻から蘇る日も遠くないと感じている。
(ささかわ・ようへい=日本財団会長)

*3月20日、自衛隊の週刊新聞「朝雲」に掲載されたエッセーです。
産経新聞【正論】「沈黙は美徳」の時代は終わった [2014年04月21日(Mon)]

下記は、4月15日、産経新聞『正論』に掲載されたものです。
読者の皆さんのご批判を賜りたいと思います。

「沈黙は美徳」の時代は終わった


産経新聞【正論】
2014年4月15日


 中国、韓国の「日本攻撃」がとどまるところを知らない。安倍晋三首相の靖国神社参拝や集団的自衛権解釈の見直しを「戦後国際秩序に対する挑戦」「軍国主義の復活」と宣伝し、国際社会で日本を孤立させる意図もうかがえる。
 安倍首相を「右寄り」と危険視する一部欧米メディアの論調や、米国で相次ぐ慰安婦像の建立、州教科書における「日本海」と「東海」の併記など一連の動きは、国際的な情報戦での日本の敗北を意味している。

 ≪広報宣伝外交で後れ取る≫
 戦後の日本は、経済発展を目指す一方で政治的発言を極力抑制してきた。自己主張を控える姿勢が、戦争に進んだ戦前の負のイメージを払拭し、民主的な平和国家を目指す日本への理解につながるといった思いがあったかもしれない。加えて、わが国には沈黙を美徳とする風土もある。

 しかし、グローバル化が進む国際社会での沈黙は日本理解を妨げ、誤解を助長する以外の何ものでもない。日本が引き続き存在感を保ち世界に貢献するためにも、主張すべきは主張する確固たる姿勢を確立しなければならない。

 最近、パブリックディプロマシーという言葉をよく聞く。対外広報や人的交流、国際広報を通じ自国の考えや文化への理解を促進する広報宣伝外交を言うようだ。

 過日、読んだ「パブリック・ディプロマシー戦略 イメージを競う国家間ゲームにいかに勝利するか」(PHP研究所)によると、外交宣伝の主戦場であるワシントンでの日本の活動は中国、韓国に比べ弱く、その傾向は一層、顕著になりつつあるという。

 ワシントンは北京、ソウルと姉妹都市関係にあるが、東京の相手はニューヨーク。こんなところにも政治に重きを置く中国、韓国と経済中心の日本の違いが出ている。それ自体に問題はないが、政治的な情報発信に限れば日本の後れは否めない。

 ≪一方的な主張が独り歩き≫

 先月末、中国の習近平国家主席が訪問先のドイツで、1937年の南京事件について、「30万人以上が虐殺された」などと日本批判を展開、菅義偉官房長官が抗議する事態に発展している。

 中国政府は一貫してこの数字を堅持し、「南京大虐殺記念館」にも刻まれているが、学術的根拠はなく、姉妹財団の東京財団が2007年に開催した講演会でも、中国側研究者が「現在の資料で犠牲者数を確定することはできない」と指摘している。

 しかし米国などを訪問すると、多くの人が「30万」を信じているのに驚く。日本が有効な反論をしないまま、一方的な数字が独り歩きしているというしかない。

 慰安婦問題でも同じ思いがする。募集の強制性を認めた1993年の河野洋平官房長官(当時)談話の作成に関与した石原信雄元官房副長官が2月の衆院予算委員会で、政治決着を急ぐあまり客観的裏付けがないまま談話が作成されたことを認めたうえ、最近の韓国政府の「日本攻撃」について「当時の日本政府の善意が生かされていないということで非常に残念だと思っている」と語った。

 これでは国の危機管理はできない。どんな理由であれ、いったん認めれば、その内容は新たな事実となり相手側の攻撃材料となる。今さら善意がどうのこうのと言っても話にならない。日本側の甘さこそ問われるべきである。

 ≪失いかねぬ国際的存在感≫
 過日、中国で評判を呼んだ老兵東雷(ブログ名)氏の「現代日本を怪物化した対日外交は失敗」と題したブログの日本語訳全文を本人の了解を得て筆者のブログに掲載したところ、日本の読者からも極めて大きな反響があった。老兵氏は英国や米国にも留学、政府職員として来日経験もあり、この中で「平和憲法に洗脳され、平和な環境の中で私権や自由を享受し、戦争からどんどん遠ざかっている日本人がどうやって軍国主義に向かうのか」としたうえで、「中国と韓国を除けば歴史問題で日本ともつれ合っている国はほかにない」と指摘している。

 対日姿勢に疑問を投げ掛ける同様の声は、中国だけでなく韓国にも多く、ましてASEAN(東南アジア諸国連合)各国を訪問すれば、「日本の積極的な発言」を求める声は極めて多い。

 仮に沈黙を続ければ、日本は存在感を失うばかりか、自国では不満がナショナリズムを高揚させ、相手国では多様で冷静な対日言論も育たない。結果、強硬策ばかりが加速する事態を招きかねない。

 中韓両国は歴史問題を外交、内政の切り札に異例の対日共闘体制を引き続き強める構えのようだ。国際社会には、地球温暖化や人口爆発、それに伴う食糧資源問題など緊急課題が山積している。

 日本は歴史・領土問題に冷静に対応する一方、グローバルなテーマで国際社会をリードし、国際社会の理解と支持を獲得すべきである。内向きの姿勢を捨て、「官」だけでなく「民」も交えた積極的な情報発信こそ、わが国の安全保障の確立につながる。
(ささかわ ようへい)

産経新聞【正論】祭りの力を被災地復興に生かせ [2014年03月17日(Mon)]
祭りの力を被災地復興に生かせ


産経新聞【正論】
2014年3月3日


 なんとなく日本全体に元気がない。間もなく発生から3年を迎える東日本大震災の被災地も、がれきの姿は消えたものの、街並みに以前の建物はなく、将来像が見えないまま住民の疲労感も増している。何よりも人々を元気付ける方策が必要である。

 そんな中で過日、BS放送で、祭りが世代から世代へ濃密な人間関係を作りながら伝承される姿を見て、これこそ絆、つながりの原点、日本を元気にする宝だと実感した。

 日本は世界でも稀(まれ)な祭りの宝庫であり、全国至る所に祭りがある。誇るべき宝を被災地の復興や過疎が進む地域社会の再生だけでなく、日本全体を元気にする「資源」としてもっと大胆に活用すべきだと考える。

 ≪日本全体を元気にする宝≫
 番組は関西に本社を持つ清涼飲料水会社が、CSR(企業の社会的責任)の一環として11年前から取り組む「日本の祭り」。たまたま2月中旬に見た際は、春の訪れを告げる静岡県掛川市の遠州横須賀三熊野神社大祭がテーマとなっていた。

 大祭は280年の伝統を誇り、城下町として栄えた掛川市横須賀の13町が13年に1度、奉納舞の大役を担う。画面では町の長老や青年が真剣な表情で子供たちに伝統の舞を引き継ぎ、中年の男性は「母の腹にいるころから祭りに参加していた」と郷土を愛する熱い思いを語った。

 われわれも姉妹財団がバイオリンの名器を売却して寄付してくれた資金を基に「まつり応援基金」を立ち上げ、これまでに被災地の162団体の祭りを支援してきた。中でも、三陸沿岸部は、浜ごとに神楽や鹿踊(ししおどり)、虎舞が継承される祭りの宝庫。震災後、「祭りがなくなれば、故郷を離れる人がもっと増える」「祭りこそ復興の決め手」といった声が沸き上がり、大津波で神輿(みこし)や山車、太鼓、獅子頭ばかりか演者も失い、開催不可能とみられる中、震災発生半年後の秋祭りを実現させた。

 支援先のひとつとなった岩手県釜石市の「虎舞保存連合会」が昨年10月の「釜石まつり」で行った虎舞フェスティバルには、仮設住宅に避難する被災者や県外に移り住む地元出身者も多数、姿を見せ、遠野市や青森県八戸市の団体も参加、例年以上のにぎわいを見せた。震災前に比べ虎舞を習う中高校生や、見よう見まねで太鼓を叩(たた)く幼児も増え、関係者からは「久しぶりに仮設住宅の被災者に笑顔が戻った」「街を去った人と残った人のわだかまりが少しは解消できた」といった声も出た。

釜石の虎舞.jpg
釜石の虎舞

太鼓をたたく子供.jpg
見よう見まねで一生懸命!


 ≪共通する地域社会崩壊の危機≫
 震災後、仮設住宅や県外の民間借り上げ住宅などに避難した被災者は47万人。復興庁などによると、その後、40%に当たる19万人が故郷や新たな土地で新生活をスタートしたが、今も28万人が住居や就業先を確保できないまま避難生活を送る。

 県外で暮らす約6万人の被災者の故郷への復帰希望は年ごとに低下し、故郷への帰還がかなわぬままストレスから酒に溺れる人も多いと聞く。報道によると、岩手、宮城、福島の3県警が確認した仮設住宅での孤独死は昨年8月時点で81人に上っている。

 もともと被災地の大半は震災前から人口減少が進む過疎地。新しい街づくりには、2カ所あった病院を1カ所に集約するような工夫が必要で、その分、地域社会の調整も難しく、高台移転や防災堤防に対する住民の意見も賛否両論に割れている。

 1995年、阪神淡路大震災に見舞われた神戸市は、人口150万人の大都市だったがゆえに、震災前の都市機能を復旧することで基本的に復興を実現できた。東北の被災地の将来像が見えてこないのは、過疎と震災に伴う人口流出が同時進行している点に一番の原因がある。

 2008年から人口減少に転じた日本では今後、過疎と高齢化が加速度的に進み、東北の被災地に限らず中山間地を中心に、多くの自治体が地域社会崩壊の危機に直面する。古くて新しいテーマだが、恐らく、これひとつで十分といった妙案はない。

 ≪人の心いかに繋ぎ留めるか≫
 支える人がいなくなれば地域社会は存続し得ない。インフラの整備や雇用の創出が欠かせないのは言うまでもないが、地域社会の維持・再生は住民の心をいかに繋(つな)ぎ留めるかに全てがかかる。

 全国各地で祭りの復活が目立ち、観光客の増加が地域興しに一役買っている。祭りが活発になれば伝統文化を受け継ぎ、これを守っていく人も増える。被災地では「祭りがあるから、この地を離れない」と言う声を何度も聞いた。

 被災地では正月の「春祈祷(きとう)」も終わり、間もなく全国各地で春祭りが始まる。遅れる被災地の復興や過疎地の再生、さらには日本社会全体を元気付ける活性策として、国、地方自治体は祭りをもっと積極的に政策に取り込むべきではないか。被災地の祭りの復興をお手伝いする中で、あらためてそんな思いを強くしている。
(ささかわ ようへい)
「朝雲」―不撓不屈の91年― [2014年02月28日(Fri)]
「朝雲」
―不撓不屈の91年―


2014年2月20日


「最後の帰還兵」小野田寛郎氏が1月、91歳で逝去された。1991年、福島県・塙町に開設された「小野田自然塾」を長年、支援させていただいた関係で何度かお会いした。

 新聞、テレビ、雑誌に膨大な“小野田論”が掲載されており、改めて論ずる立場にもないが、74年、フィリピン・ルバング島から29年振りに帰還された際、テレビ中継された両親との対面シーンは今も鮮明に記憶している。

 母親のタマエさんは深々と頭を下げる息子に「母が言った言葉を最後まで守ってくれ、ありがとうございました」と言葉を掛け、一呼吸おいて「えらかったのう」と涙を流した。

 その後、ご本人からうかがった話や手記などによると、陸軍中野学校を卒業して44年、フィリピンに派遣される際、タマエさんは「敵の捕虜となる恐れがある時は、これで立派な最期を遂げてください」と短刀を贈った。小学校1年の時、ささいなトラブルから友達の手にナイフでケガをさせた際には「人に危害を加えるような子を生かしてはおけません」と切腹を迫ったという。

 両親を敬愛する氏にとって、80年、川崎市で起きた「金属バット事件」は信じ難い事件だった。浪人生が両親を金属バットで殺害し、移住先のブラジルでも邦字紙に大きく報道された。

事件を機に、自然との触れ合いを通じた青少年の健全育成を思い立ち、4年後、富士山麓に子どもたちのキャンプ場、さらに小野田自然塾の開設にこぎつけ、2万組を超す親子を指導してきた。

塾の精神は「不撓不屈」。「親は心を鬼にして子どもを叱らなければならない時がある」「親が変われば子も変わる」と説き続けた。

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塾の精神「不撓不屈」が刻まれた石碑


 昨年1月、人生の同志でもある町枝夫人とともに訪ねて来られ「私どもの仕事も体力的に終りに近づきました」と長年の協力に礼を述べられた。背筋をピンと伸ばした姿は90歳とは思えず、一層の活躍をお願いしたと記憶する。

 戦後日本は新憲法の下、しつけから教育まで全てが変わり、親の存在感も希薄となった。しかし子どもは、尊敬し時には怖い親の存在があってこそ健全に育つ。

われわれの社会は、小野田さんがルバング島のジャングルで闘い続けた29年間に、大切な何かを失った気がする。
(ささかわ・ようへい=日本財団会長)



*2月20日、自衛隊の週刊新聞「朝雲」に掲載されたエッセーです。
「朝雲」―1本10円の善意― [2014年02月21日(Fri)]
「朝雲」
―1本10円の善意―


 手前みそで恐縮だが、日本財団では2008年から「あなたの善意で社会は変わる」を標語に寄付型自動販売機・夢の貯金箱プロジェクトを進めている。

 飲料水1本ごとに10円を設置者から寄付してもらい、社会貢献に役立てる仕組みで、現在、設置台数は全国で約2000台。ミャンマーでの学校建設やホームホスピスの整備、犯罪被害者支援基金の設立などに活用されている。

 そして今回、少年院出院者や刑務所出所者が社会復帰に必要な技術や資格を取得する奨学金制度の立ち上げに向け、この関連では第1号となる寄付型自販機を福岡空港ビルに設置していただいた。

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自販機設置式で挨拶

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ヒューマンハーバーの副島社長、筆者、福岡空港ビルディングの麻生社長

 
犯罪白書によると、我が国の一般刑法犯は過去8年間、減少傾向にあるが、再犯者が占める割合は逆に増加、昨年は過去最高の45.3%に上り、法務省も12年7月、今後10年間に再犯を20%削減する目標を打ち出している。

 3回以上、刑務所に入所した人の再犯率は約60%、初犯の2.5倍に上る、とのデータもあり、再犯防止は犯罪を減らす上で喫緊の課題である。

 企業が親代わりとなって就労の場を提供する職親(しょくしん)プロジェクトなど意欲的な取り組みが始まっており、奨学金事業では福岡市で元受刑者らの社会復帰に取り組むヒューマン・ハーバー社と協力、当面、50人を対象に上限30万円の奨学金をスタートさせたいと考えている。

 必要な寄付型自販機は約300台。設置者から寄付される10円はもともと消費者の支払いの一部。

 内閣府が昨秋、発表した再犯防止に関する特別世論調査によると、刑務所入所者や非行で保護観察下にある人を企業が積極的に採用すべきだ、とする意見が60%に上った。

 10円が持つ意味が購入者に意識されれば再犯防止の裾野も広がり、寄付型自販機を設置する企業のCSR(企業の社会的責任)も上がる。

 現在、国内に設置されている自販機は約230万台。1本10円の寄付を年間に直すと、1台当たり平均5万円となる。10%が寄付型自販機に変われば年間100億円の“世直し資金”が得られる計算となる。

 同様の試みは、今後さらに広がろう。「1本10円の善意」が日本の新しい寄付文化となる日を夢見ている。
(ささかわ・ようへい=日本財団会長)


*1月23日、自衛隊の週刊新聞「朝雲」に掲載されたエッセーです。


「朝雲」―ペリリュー島の碑― [2014年01月29日(Wed)]
「朝雲」
―ペリリュー島の碑―


 「諸国から訪れる旅人たちよ、この島を守るため日本軍がいかに勇敢な愛国心をもって戦い、そして玉砕したかを伝えられよ」

 第2次世界大戦の激戦地、パラオ共和国・ペリリュー島にこんな言葉を刻んだ碑がある。末尾に大戦中、米太平洋艦隊司令長官だったチェスター・ニミッツの作と記されているが、否定説もあり、真偽は分からない。

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 たまたま日本財団が支援するミクロネシア地域の海上保安能力強化プロジェクト調印のため今月初め来日されたトミー・レメンゲサウ大統領も「よく調べてみたい」とのことだった。

 ニミッツは東郷平八郎元帥の心酔者だったことで知られる。連合艦隊が日本海海戦でロシア・バルチック艦隊に大勝した1905年、米アジア艦隊の士官候補生として戦勝祝賀会に招待され、東郷元帥と直接言葉を交わして感銘、34年の元帥の葬儀にはアジア艦隊旗艦の艦長として参列した。

 第2次大戦後も日本海海戦で連合艦隊の旗艦だった「三笠」が、横須賀港で銅や真ちゅうを戦争資材として剥がされ無残な姿をさらしているのに心を痛め、58年、文藝春秋に「『三笠』と私」を寄稿。

 「日本国民と政府が、全世界の海軍軍人に称賛され、尊敬されている提督の思い出を永らえるために、適切な方法を講ずることを希望する」と訴え、自ら印税を寄付する一方、廃艦となった米楊陸艦の廃材3000万円を保存費用に贈った。

 ペリリュー島の攻防が行われたのは大戦末期の44年9月。航空母艦を含め総兵力4万2千人の米軍と1万2千人の日本軍守備隊が2ヵ月半にわたり激闘。日本軍は軍機、機密書類を処分したことを意味する「サクラ・サクラ」の電文を最後に玉砕し、米軍にも1万人の死者が出たとされている。

 日本軍は米軍の総攻撃を前に、地元民全員を夜陰に紛れ船で本島に移した。結果、地元民に犠牲者はなく、今もこの国の親日の支えとなっていると聞く。

 ニミッツはこの戦闘の最高司令官、戦艦ミズーリ号上で行われた大日本帝国の降伏文書調印式で米国代表も務めた。しかし連合軍最高司令官のマッカーサーに比べ日本での知名度は低い。戦術など意見の違いも多かったとされるが、軍人としての生き様を見る限り、碑文の筆者がニミッツであっても特段の違和感はない。

 情報をお持ちの方に是非、この間の事情をご教授賜りたく思う。
 (ささかわ・ようへい=日本財団会長)


*12月19日、自衛隊の週刊新聞「朝雲」に掲載されたエッセーです。

「ハンセン病制圧活動記」その8 [2014年01月24日(Fri)]
「ハンセン病制圧活動記」その8
―インド東部・西ベンガル州のハンセン病―


星塚敬愛園機関誌『姶良野』
2014年新年号


〜連邦政府、WHO、会議員、回復者、NGOとの共同戦線〜


WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平


 9月中旬、12日間でベルギーとエチオピア、インド、タイを巡る過密なスケジュールの旅に出た。ベルギーでは国際ハンセン病学会に参加し、エチオピアでは「ハンセン病と人権国際シンポジウム」に参加、ハンセン病のフィールドを訪問したが、ここではインド西ベンガル州での2日間の活動を紹介したい。

 西ベンガル州は、インドの東部に位置し、北はブータン、西は僅かにネパール、東はバングラデシュと国境を接している。北海道よりもやや広い8万9千平方キロメートルの面積に、なんと北海道の約16倍に当たる9千万人の人が暮らす。主要な公用語は北インドでよく話されるヒンディー語ではなく、ベンガリ語。北東部の州とインド亜大陸をつなぐ位置にあるため、昔から人の行き来の多い土地である。

 東アフリカのエチオピアから中東のドバイ経由で、西ベンガル州の州都コルカタの国際空港に到着したのは9月22日、日曜日の夕方。インドのハンセン病回復者組織ナショナル・フォーラム代表のナルサッパ氏、理事であるヴェヌゴパール氏とランバライ氏がそれぞれ別の州から駆けつけ出迎えてくれた。

 翌23日は、コルカタから北西に230キロ離れたバルダワン県アサンソール市にあるコロニー2ケ所を1日かけて訪問。出発予定の朝8時になると、宿泊ホテルに続々と人が集まる。西ベンガル州から、州政府保健省ハンセン病担当官のプラディプ・クマール・マンダル氏。デリーからは、インド連邦政府保健省ハンセン病担当局長補佐のA・K・プリ氏並びにWHOインド事務所ハンセン病担当官のスラブ・ジェイン博士、ハンセン病回復者の自立支援を行うNGOササカワ・インド・ハンセン病財団事務局長のヴィニータ・シャンカー氏。インド中央政府保健省から担当官が私の地方訪問に同行するのは、過去10年間では初めてのことであった。そして最後にロビーに現れたのは、西ベンガル州選出の国会議員であり、インド・ハンセン病国会議員連盟発起人であるディネシュ・トリベディ氏。彼は過去に連邦政府鉄道大臣、保健副大臣を歴任されており、議員の中でも影響力が強く、2012年10月に発足したハンセン病国会議員連盟を牽引されている。

 ホテルから6台の車両を連ね、さて出発と思ったところ、早速1台の車の後輪がパンク。こういう予期せぬことが常に起こるのがインドである。きれいに舗装された片道二車線の国道を4時間かけて走り、アサンソール市に辿り着いた。国道を外れて細い道を入っていくと、第一の目的地であるラフマット・ナガル・ハンセン病コロニーに到着。そこでは西ベンガル州議会議員であり州政府の農業大臣でもいらっしゃるマライ・ガタック氏と、アサンソール市長のタパス・バナジー氏が出迎えてくださった。土壁の上にレンガの屋根が載せられた家々が狭い敷地内に建ち並び、今にも左右から崩れてきそうな軒の間を頭をかがめて通った。65世帯、約180人の人々が暮らすこのコロニーでは、例にもれず多くのハンセン病回復者が物乞いで生計を立てながら暮らしている。第二世代は日雇い労働やゴミ収集等の仕事に就き、わずかな収入を得て、障害の重い親たちを支えているという。

 トリベディ議員はハンセン病コロニーを訪れるのは今回が初めてとのことだが、「ハンセン病患者・回復者の救済に向けて、政府の対応は遅れていると言わざるを得ない。21世紀の社会において人が人を差別することがあってはならない」と、心強いメッセージを住人と集まったメディアに向けて訴えられた。議員連盟が発足した2012年10月当時はハンセン病についての認識が決して深くはなかった彼が、この1年間で勉強を積み、これほどまでハンセン病回復者の苦しみに近づいてくれたのかと思うと、その熱意に私も胸をうたれた。その後、トリベディ議員とガタック農業大臣、バナジー市長と4人でコロニーの中を歩いて回り、住人の方々と言葉を交わした。ある家の前に、薄い布の民族衣装サリーを纏い、細い木の枝を杖代わりについた高齢の女性がいた。目が見えない、自力で歩くこともできない、と訴える彼女は、トリベディ議員にやさしく肩を抱かれ、言葉をつまらせて涙ぐんだ。

 私は諸外国でコロニーを訪問する際、必ずメディアに同行してもらうようお願いしている。それは私がハンセン病回復者の皆さんと握手をし、肩を組んでいる姿を写真や映像で流すことによって、治療すればハンセン病はうつらない、決して迷信でいわれるような恐い病気ではないことを一人でも多くの人々に理解していただきたいからである。このコロニーでは20社近いメディアが我々を取り囲み、国会議員と州議員、市長の影響力の大きさを改めて見せつけられた。

 続いては、車で20分ほど移動したところにあるカンカー・ダンガ・ハンセン病コロニーを訪問。ぱりっとした白い制服を着た子どもたちが、ラッパなどの楽器を演奏しながら出迎えてくれた。子どもたちは皆、近隣の公立学校に通っているという。こちらは先ほどよりも規模が多く、90世帯、254人が生活している。家屋のうち60軒は政府の低所得者層向け政策で提供されたコンクリート建ての立派な家だった。電気、水の設備も整っており、先ほどのコロニーと比較すると住人の表情も明るく感じられた。

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カンター・ダンガ・ハンセン病コロニーに到着し、住民の歓迎を受ける


 コロニーの住民との交流を終え、気がつくと時計はもう午後4時を指している。アサンソール市で遅めの昼食を終え、再び来た道を戻り、ホテルに帰った時は既に午後10時をまわっていた。

 翌24日は、州都のコルカタで朝から分刻みのスケジュールであった。まずは9時半に、西ベンガル州人権委員会のアソック・クマール・ガングリー会長と面会。本来であれば事務所が開くのは10時過ぎだが、特別に私に会うために朝早くホテルを訪ねてくださった。同席したハンセン病回復者組織ナショナル・フォーラムのナルサッパ会長と、西ベンガル州回復者組織の代表パンダ氏他4人からの陳情に耳を傾けていただくうち、こちらの次の予定の時間が迫る。話の途中に申し訳ないがと断って席を立つと、「どうぞ出発されてください、私はもう少し彼らの話が聞きたい」と、私の退室後も1時間近く残り、物乞いに頼らざるを得ないハンセン病回復者らの生活をどう保障すべきか、ハンセン病による後遺症の治療を受けられる場所をどう確保していくかなど、パンダ氏らと協議されたという。立派なお人柄に感銘を受けた。

 ガングリー会長とパンダ氏をホテルに残し、次はインド屈指の名門大学、ジャダプール大学に向かった。日本財団では姉妹財団である東京財団と連携し、世界44カ国、69の大学において笹川ヤングリーダー奨学基金という奨学金プログラムを運営している。100万米ドルの基金を寄贈し、その運用益を使って、国際理解、社会問題解決に貢献する次世代のリーダーの育成を行っている。ジャダプール大学もこの一つであり、2003年に設置された基金の10周年を祝う式典が催された。10年前の基金贈呈式に出席した際にハンセン病の話をしたことが関係者の記憶に強く残っていたらしく、今回も「ぜひまた学生にハンセン病の話をして欲しい」と依頼があった。聞けば、毎年、奨学生が自主的にコルカタにあるハンセン病病院を訪ねる活動を継続しているとのこと。私が話すよりも、ハンセン病回復者の方の話を聞いていただく方が説得力が勝る。今回はナショナル・フォーラムのナルサッパ会長にも同席してもらい、ハンセン病回復者である彼自身も含めて、差別される側からどう当事者のリーダーとして変化を遂げ、活動を展開してきたかについて語ってもらった。会場に集まった約150人の学生や学校関係者の反応は上々で、社会から差別をなくすためにはこうした直接的な交流が一番有効だと希望を感じられる明るい風景だった。

 大学側が用意してくれた豪華な立食の昼食もそこそこに、車に飛び乗って次は西ベンガル州政府保健省へ。コルカタ市内の渋滞は凄まじい。我々の乗った車は、車線もわからないほどに詰まった道をのろのろと進む。なんとか約束の午後2時少し前に保健省に到着。

 面談の内容に入る前に、西ベンガルのハンセン病状況について少し触れておきたい。インドで世界最多のハンセン病患者数が報告されていることは皆さんよくご存知かと思う。インドで患者数が多い州をみると、北部のウッタル・プラデーシュ州、西部のマハラシュトラ州、東部のビハール州に次いで、西ベンガル州は全国で4番目。昨年度1年間で11,683人の新規患者が報告されている。中でも憂慮すべきなのが、新規患者数の中の障害発生率の高さだ。MDTの治療によって障害を未然に防ぐことが可能になった今、目に見える障害発生率の高さはハンセン病対策の遅れを示すひとつの指標となる。特に州都のあるコルカタ県の障害発生率は、インド全国平均が約3%であるのに対して10%と、目を疑いたくなる数字。そのような状況にも関わらず、ハンセン病対策を担う担当官が不在の県がコルカタ県も含め半数以上ある。人材にも資金にも不自由しないはずのインドにおいて、担当官が不在という事態が起こる背景には、州政府のハンセン病対策に対する優先順位の低下がある。

 さて、話を会議室に戻そう。案内された保健省の一室では、チャンドリマ・バタチャリヤ保健副大臣、西ベンガル州保健省保健サービス局長のB. サタパティ氏、国家地方保健計画局長のサンガミトラ・ゴーシュ氏とお目にかかった。ハンセン病対策においては新規診断と治療を可能にすることが最も重要であること、そのためにはまず対策を担う人員の空席を1日も早く解決していただきたい、と強く念を押した。バタチャリヤ副大臣は「ハンセン病の課題、特に長い間ポストが不在のまま放置されている問題については把握している。真剣に受け止めて善処する」と協力を約束してくださった。2005年以降、ハンセン病対策が一般医療に統合されてからは、国家地方保健計画局長が州政府保健省の予算執行権限を持つ立場である。その長であるゴーシュ局長からも「ハンセン病対策が改善されるよう州政府としても努力する」と前向きな言葉をいただいたことは心強かった。

 続いて会場を移動して行われた関係者連携会議では、前述の州保健政府の高官らに加え、県のハンセン病担当官、西ベンガルで活動するNGOなど総勢約35人が参加。7月にバンコクで行われた国際ハンセン病サミットにおいて、さらなるハンセン病対策加速に向けた蔓延国17カ国の保健大臣による決意表明に触れ、インドにおいても関係者が一丸となってハンセン病対策に取り組んでいく決意を新たにした。

 連携会議が終わると、トリベディ議員を迎えての記者会見。集まった約30人の記者からは、ハンセン病議員連盟発足の経緯について、ハンセン病患者・回復者が暮らす現状について積極的な質問が続き、予定時間を大幅に超える会見となった。

 一日の最後は、西ベンガル州ハンセン病回復者組織のメンバーとの会合。私の訪問に合わせて州各地から21人のメンバーが集まってくれた。西ベンガル州は残念ながら他州と比較し、中心的役割を担うリーダーの高齢化が目立ち、あまり活動的とはいえない。しかし中には若者の姿もあり、今回の訪問がきっかけとなって、コロニーの生活改善、年金の増額、子どもの教育といった課題解決のための働きが加速するよう期待したい。

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西ベンガル州のハンセン病回復者組織のメンバーたちと


 短い滞在ではあったが、中央政府のハンセン病担当官、WHOインド事務所の担当者とともに、州政府にハンセン病対策への積極的な取り組みを要請することができた。また、国会議員の力添えのもと、メディアを巻き込んで回復者の生活改善と差別撤廃の必要性を訴えることができた。その背景には、私が2006年にインドで立ち上げたササカワ・インド・ハンセン病財団の尽力があったことを記しておかねばならない。そして滞在中はずっと、私の兄弟と呼ぶべきハンセン病回復者の代表と行動を共にした。インドにおけるハンセン病との闘いは、着実により幅広い立場の人々を巻き込みながら展開している。今後も患者数の多い州を中心的に回り、共同戦線をさらに広めていき、ハンセン病問題がインドの社会問題として広く認識されるように活動を強化していきたいと念願しているところである。

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