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笹川陽平(ささかわようへい)の国内外における活動の記録。このブログを通じて、私の毎日を覗いてみてください。

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「日本の面影」―ミャンマー― [2013年06月17日(Mon)]
「日本の面影」
―ミャンマー―


自衛隊の週刊新聞「朝雲」に、5月30日に掲載されたエッセーです。

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********************


 ハンセン病制圧や学校建設などでミャンマーを軍政時代からしばしば訪問、名刺交換した政府閣僚から「ニッポン ミャンマー バンザイ」と両手を挙げて歓迎され面食らった思い出がある。「英国から独立できたのは日本のお陰」と感謝され、歴史問題で中国、韓国との緊張が高まる中、何か救われる気がしたこともある。

 仕事で世界120カ国を訪問したが、ミャンマーは間違いなく世界で1、2を争う親日国と実感する。背景には建国の父アウン・サン将軍やその仲間が、対ビルマ(現ミャンマー)工作を担う旧日本軍の「南機関」から中国・海南島で厳しい軍事訓練を受け、独立運動に立ち上がった歴史がある。

 閣僚の大半は古都マンダレーの近くにある陸軍アカデミーで学んだ退役軍人である。日本の陸軍士官学校に当たり、15年ほど前に訪れた際、いまだ貧困な施設の中、ベレー帽姿の幹部候補生の立ち居振る舞いが凛々しく立派だったのを記憶している。

 日本式の軍事教練を取り入れ、敬礼の角度や形も日本式、「ホフクゼンシン(匍匐前進)」など旧日本軍用語も使われ、上官は今も出来の悪い部下を「コラコラ」と叱るのだという。

 国軍には「海行かば」や「愛馬進軍歌」など日本軍歌約50曲が引き継がれ、国軍記念日の3月27日には軍艦行進曲(軍艦マーチ)が軍歌として演奏される。ミャンマー語で広く歌われる曲もあり、想像以上に日本の面影が残っているのは間違いないようだ。

 経済成長で大渋滞のヤンゴンの街を歩けばボディーに「○○観光」、「××商店」といった日本名を残した中古バスやトラックがやたら目に付く。「塗り替え費用の節約か?」と問えば「そのままにしておけば質の高い日本車であることが一目で分かる」との返事。日本に対する信用も半端ではない。
 日本政府から、ミャンマーの国民和解を担当する日本政府代表の辞令を受けた。

 戦後60年以上も内戦が続くこの国の民族和解が一朝一夕に実現できるとは思わない。しかし日本に対する手厚い信用が日本の貢献を可能にする面も大いにあるはずだ。信頼関係を精いっぱい大切にしながら、可能なら日本とミャンマーの軍人交流にも取り組んでみたい―。そんな思いでミャンマー訪問を重ねている。
(ささかわ・ようへい=日本財団会長)


雑誌『正論』私の写真館  [2013年06月12日(Wed)]
雑誌『正論』私の写真館
2013年6月号


つよく生きるのよ…

 あの日の母の言葉を、私は忘れない。

 B29の大群が東京を襲った昭和二十年三月九日の真夜中、紅蓮の炎に包まれた夜の街を、私は母の手を引いて逃げ回った。二人の兄は学童疎開で地方におり、その日、高熱を出して寝込んでいた母を救えるのは、私しかいなかったのだ。

 炎はすぐそこまで迫っていた。しかし母の逃げ足はにぶく、力尽きて何度もうずくまった。「ひとりで逃げなさい。我慢して、つよく生きるのよ」。そう叫ぶ母の手を、私は懸命に引っ張った。六歳の時のことである。

 私はよく裕福な育ちだと誤解される。おそらく私が財団法人日本船舶振興会(現日本財団)初代会長、笹川良一の三男だからだろう。しかし母は良一の籍に入っておらず、幼少の頃の生活は決して楽ではなかった。とくに戦後は大阪の民家の八畳一間に母子四人で居候し、家主からは下男同然に扱われた。

 父に呼び寄せられて上京したのは中学を卒業してからだ。しかし父は厳しく、下男同然の生活は変わらない。「笹川旅館」と呼ばれるほど来客が多く、私は毎朝六時から廊下の雑巾がけ、各部屋の清掃、洗濯物干し、来客の靴磨きに追われた。学校から帰っても洗濯、皿洗い、風呂の掃除などが休みなくあり、寝るのはいつも深夜だった。

 それでも辛くて逃げ出したいとは思わなかった。もともと身体を動かすことが好きだから、一室に閉じ込められて勉強しろと言われるより余程ましだ。母ゆずりの辛抱強さもある。そして何より、父を人生の師として尊敬していた。自分のことよりも他人を優先する、人から何を言われようが泰然自若として一切弁明をしない、そんな父の背中は誰よりも大きく見えた。


あの笑顔が見たいから…

 シベリア強制抑留者の墓地に花を手向ける約束を果たしてくれたゴルバチョフ元ソ連大統領、政界引退後もアイアンレディーの威厳は健在だったサッチャー元英首相、ガラガラ声でラブ・ミー・テンダーを歌ってくれたエリザベス・テイラーさん…。さまざまな分野で世界史に足跡を残した方々との交流は、私にとって掛け替えのない財産だ。しかし、そんな名士たちに勝るとも劣らぬくらいワクワクさせてくれた出会いがある。

 ジーブ一台がやっと通れる悪路を何時間もかけてジャングルの奥地に分け入り、そこに隔離されているハンセン病患者たちの肩を抱いて励ますと、最初はびっくりしたような、やがて満面の笑顔を見せてくれる。かつて父が同じように患者の手を握り、その体を抱きしめるのを目にしたとき、言葉に尽くせぬ感動を覚えたものだが、今はその気持ちがはっきり分かる。父はこの笑顔が見たかったのだと。

 父に触発された私が、生涯の仕事としてハンセン病制圧に乗り出してから四十年近くが経つ。これまで百二十カ国以上を訪れ、支援と啓蒙につとめてきた。その結果、世界中で忌み嫌われたこの病も各国で次々に制圧され、人口一万人あたり一人以上の新規患者のいる未制圧国はブラジル一国を残すだけとなった。

 ミャンマーの少数民族支援活動に力を入れているのも、あの笑顔が見たいからだ。民族対立の激しい辺境の地に小学校を建設したりするのは極めて困難な事業だが、母の辛抱強さと父の信念を受け継いだ私にとって、誰からも見捨てられたような人々を救うのは天職と思っている。

 笑顔は、前を向いて生きていくサインだ。私の笑顔探しの旅は、まだ終わりそうもない。


*クリックしていただくと大きくなります。

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産経新聞『正論』:民の情熱を再犯防止に生かせ [2013年04月12日(Fri)]
【正論】日本財団会長・笹川陽平
民の情熱を再犯防止に生かせ


2013年4月5日
産経新聞 東京朝刊


犯罪白書によると、2011年、一般刑法犯で検挙された人のうち43・8%を再犯者が占め、別の調査では「全犯罪の58%が再犯者の犯行」との結果も出た。3年前から再犯防止や少年院の在り方について有識者を交えた研究などに取り組んでいるが、これほど難しい問題は滅多にない。

 政府も2006年から元受刑者の総合的就労支援対策に乗り出しているが、ここ7年間、刑法犯全体は減少傾向にあるのに、再犯者が占める割合は逆に上昇し続け、実効は上がっていない。

 ≪初の数値目標「20%減」≫
 このため昨年7月には犯罪対策閣僚会議が新たに「再犯防止に向けた総合対策」をまとめ、10年後の再犯を20%以上減らす初の数値目標を打ち出した。課題は「居場所」と「出番」の創出。官民一体で刑務所や少年院を出た後の住居や職の確保を進める、としているが、簡単な話ではない。

 そんな中、「民」の中に新しい動きが出てきた。お好み焼きチェーン「千房」など関西の企業7社が立ち上げた「職親(しょくしん)プロジェクト」がそのひとつ。受刑者に各企業の担当者が面接、合意すれば半年間の就労体験の場を提供し、更生に向けた強い意志があれば正規雇用の道も用意する。

 もうひとつは関東と九州の4団体が参加する「農業を活用した再犯防止プロジェクト」。過疎化で増え続ける耕作放棄地を活用し、土に触れ収穫の喜びを実感することで出所者らの更生を図る。

 職親プロジェクトの先頭に立つのは千房の中井政嗣社長だ。3年前から元受刑者らに職場と社員寮を提供し、社会復帰を支援してきた。「国が総合対策をまとめたからといって、うまく行くほど生易しい問題ではない。彼らの親代わりとなって面倒を見る志がなければ再犯は防げない」と言う。

 中井氏の言葉に6社が賛同し、プロジェクトにも「職親」の名が付けられた。今後5年間に計100人の受け入れを計画しており、日本財団も自立支援金として1人月8万円を半年間、提供する。

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「職親(しょくしん)」プロジェクト調印式


 ≪動き出した復帰支援事業≫
 一方の農業を活用した再犯防止プロジェクト。4団体のひとつ熊本県の有限会社「ファームきくち」では、地域社会のリーダーでもある保護司が8年前から耕作放棄地を借り受け古代米などの生産に取り組み、少年院出院者らの指導に当たってきた。花栽培の責任者を任されるまでに立ち直った青年は「日々、植物が育つのを見ていると、自分の中の何かが確実に変わるのを実感する」と語る。

 両プロジェクトとも、あらかじめ企業名や団体名を公表する一方で、本人にも昔の仲間との接触を断ち、可能な限り前歴をオープンにするよう求めている。その分、本人の自覚と覚悟が高まり、職場や地域社会の受け入れもスムーズに進むとの考えだ。

 11年、一般刑法犯で検挙された再犯者は13万3700人。出所後5年以内に刑務所に戻る率は初犯が24・4%、2度目が45・9%、3度目以上は59・6%に跳ね上がる。無職の出所者の再犯率は有職者の5倍に達し、犯罪歴が増し高齢になるほど居場所はなくなる。
 服役を終わっても罪を犯した事実は消えず、世間の目も厳しい。法務総合研究所が06年に行った調査では、親族など受け入れ先がなかった満期釈放者は7200人、うち65歳以上の釈放者の半数以上が2年以内に再犯で刑務所に戻っている。

 ≪再チャレンジ可能な社会を≫
 職親プロジェクトの発足を受け谷垣禎一法相は「企業の方と受刑者の面談を矯正施設内で実施していただくことを含め、可能な限り協力する」と語った。まずは木工やクリーニングなど伝統的な科目中心の職業訓練を時代に合わせて見直し、刑務所内に企業の窓口担当者を置き、受刑者向けの企業情報を増やす必要がある。共有する情報量が増えれば、法人・個人を合わせ約1万に上る協力雇用主の活性化にも役立つ。

 長期的には農業プロジェクトの生産物を職親プロジェクト参加企業が安定的に買い取るようなネットワーク、全国の支援団体の活動拠点となるプラットフォームの建設なども必要となろう。過疎と後継者不足から今や耕作放棄地が埼玉県とほぼ同じ40万ヘクタールにも上る農村の再生にもつながる。

 これまでの犯罪者対策は、罪の償いに重点が置かれた。出所後の更生は保護司ら民間協力者に対する依存度が高く、行政としての目配りや気配りが希薄だった。官民一体による再犯防止対策の強化を目指す以上、まず法務省が刑務所の垣根を低くし血の通った行政に転換する必要がある。

 志のある民間企業家の力こそ問題解決の決め手となる。出所が近い受刑者が刑務所担当官を交え直接、企業担当者と就職相談するような方法も検討されていい。2月の本欄で犯罪被害者対策の手薄さを指摘したが、そうした努力が犯罪被害を減らし、「世界一安全な国 日本」の復活、さらには安倍晋三首相が言う「再チャレンジ可能な社会の構築」につながる。
(ささかわ ようへい)
産経新聞【正論】―国会の同意人事― [2013年03月11日(Mon)]
国会の同意人事制度については日銀の次期総裁人事で注目されている。以下、私の主張についてご批判を賜れれば幸甚です。

・・・・・・・・・・・
【正論】日本財団会長・笹川陽平
参院の「イエス」まで必要なのか


日本財団会長・笹川陽平
2013年3月6日


日銀の次期総裁人事に絡み国会同意人事制度が改めて注目されている。野党の一部には、白川方明総裁の後任に黒田東彦アジア開発銀行総裁を据える人事案が事前に報道されたのを理由に、政府が情報漏洩(ろうえい)の有無を調査し報告しない限り議論に応じられないとして採決を引き延ばす動きもある。

 ≪同意人事36機関253人も≫ 
事前に報道された場合、同意人事の提示自体を国会が拒否する「事前報道ルール」を廃止することで与野党が合意したはずなのに、これでは悪弊が撤廃されたとはいえない。今回の日銀総裁、副総裁人事の帰趨(きすう)はともかく、衆参両院で多数派が異なる“ねじれ”がある限り、同意人事が政権を揺さぶる有力な手立てとなり得る状況は続くことになる。

政治・経済の国際化が進む中、迅速な国の意思決定がますます重要になっている。候補者がポストにふさわしい人物か、人格・識見を問うのは総選挙で選ばれた衆議院の審議だけで十分ではないか。良識の府である参議院には衆議院とは違う役割があり、同意人事に参議院の承認は不要だと思う。抜本的な見直しを求めたい。

同意人事は、重要な政策決定に関わる行政機関の人事に、国会が関わることによって民意を反映させる狙いで、戦後、米国の制度が日本に導入された。現在、国会同意が必要な人事は全部で36機関253人に上る。

多くの国が同様の制度を採用しているが、二院制採用国で日本のように衆参両院の同意を必要とする国はほとんどない。大統領と議員が別個に選ばれ、同意人事制度を広く採用する米国は上院の同意だけを定め、日本と同様、議院内閣制を採る英国は選挙管理委員長など一部ポストに下院の同意を求めているが、英中央銀行であるイングランド銀行の総裁は財務大臣の推薦、首相の助言で国王が任命し、同意人事の対象外だ。

日本も日銀総裁、副総裁人事は戦前から一貫して政府の専管事項だった。しかし、1997年、旧大蔵省をめぐる接待疑惑などを受けて日銀法が改正され、同意人事の対象となった。同23条1項には「総裁及び副総裁は、両議院の同意を得て、内閣が任命する」とある。

 ≪時代の要請からズレた制度≫ 
前回、2008年には政府が示した人事案が民主党の反対により参院で否決され1カ月近くも総裁が空席となった。金融不安が世界に蔓延(まんえん)する中、国の要である日銀のトップ人事が決まらないようでは、国の信用も落ちる。改革路線の是非を争点に2月末に実施されたイタリア総選挙では、構造改革を掲げた中道左派連合が下院で辛勝したものの、上院では過半数を得られず政局混迷への不安から、一夜明けた東京の金融市場は円高・株安が進んだ。

国際化が進む中、衆参両院の同意を必要とし、事前に報道されれば情報漏れの有無を政府が調べ国会に報告する現行の制度はあまりに時間がかかり、時代の要請からかけ離れている。国民の関心が高い重要人事案をメディアが報道するのは当然だし、報道によって国会の議論が形骸化するとの主張は説得力を欠く。

平成24年度の補正予算案が、与党が過半数割れの参院でも可決され、党派を超えて良識を働かせる議員も増えつつあるようだが、それでも国会同意人事が政権攻撃や時間稼ぎ、取引の材料に使われる可能性は変わらない。
同意人事の対象を大幅に縮小するとともに、必要な同意を衆議院だけに限定しても、特段の支障はないと思う。それぞれの根拠法の関係部分を改正すれば可能なはずだ。ぜひ、専門家にも検討していただきたい。

参院で承認されない場合、法案や予算のように衆院の判断を優先させる構想もあるようだが、予算などと違って人事は修正して妥協点を見いだす余地はなく、現実性に乏しい。決められない政治は日本社会が停滞する大きな原因となっており、徒(いたずら)に情報漏洩の有無を争うのは日本の政治の欠陥を助長する結果にしかならない。

 ≪良識の府の権威は失われず≫ 
参院の同意を不要とする提案は「暴論」の批判を受けるかもしれない。しかし、2007年以来、5年以上も事前報道ルールを維持してきた国会の不可解さに比べれば、はるかに明快だと思う。現に新聞社などがネット上で行ったアンケートでも30%近くが国会の同意は不要、あるいは同意人事の対象を大幅に絞るべきだとする一方、「衆議院の同意のみでOK」とする意見も30%を超え、同意人事制度に対する国民の評価も極めて低い。

ねじれ国会では数の論理が先行し、政策より政局が優先しがちである。私はかつて本欄に、「存在意義をなくした参院は不要」との一文を奏した。衆院のカーボンコピー化した参院に、良識の府としての本来の機能を取り戻してほしいとの願いからだ。同意人事を衆議院に限ったところで、参議院の権威が損なわれるようなことはいささかもないと確信する。
産経新聞【正論】あまりに手薄な犯罪被害者対策 [2013年02月25日(Mon)]
【正論】日本財団会長・笹川陽平
あまりに手薄な犯罪被害者対策


2013年2月13日
産経新聞 東京朝刊


「預保納付金」という言葉がある。振り込め詐欺など犯罪に使われた預貯金口座に被害者が特定できないまま残され預金保険機構に納付された金で、2008年に施行された「振り込め詐欺救済法」により犯罪被害者支援に活用されることになった。

 ≪「振り込め」の被害金活用≫
 預保納付金は現時点で50億円を超し、事業の「担い手」に日本財団が選ばれた。民間の知恵を活用する金融庁の英断に敬意を表するとともに、民の立場でCSR(企業の社会的責任)や贖罪(しょくざい)寄付などを開拓し被害者支援の強化に少しでも貢献したいと考える。

 同時に現状の被害者対策は先進各国に比べあまりに手薄。犯罪に巻き込まれる可能性は誰にもあり、被害者支援は国民共通の課題である。政府には一層の強化を求めたい。

 オレオレ詐欺や架空請求詐欺など振り込め詐欺被害は07、08の両年、250億円を超え、その後2年間、3分の1近くに減ったが、11年は110億円を突破、昨年も132億円に達した。

 救済法は振り込め詐欺などの振込先として使われた口座の凍結・失権手続きや被害者の返金申請手続きを定め、最近では口座に残された金の70%近くが被害者の手元に戻っている。しかし当初の返金率が50%前後と低かったこともあって、昨年末時点で52億円が預保納付金としてプールされている。

 支援事業は、犯罪被害者の子弟に対する奨学金制度の新設と犯罪被害者等支援団体に対する助成の2本立て。奨学金は預保納付金のうち40億円を基金に高校生、大学生、大学院生に対し月3万〜10万円を無利息で貸与し、25万〜30万円の入学一時金も用意する。「まごころ奨学金」と名付け、4月から貸与を開始する予定だ。



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 残額と今後、新たに発生する預保納付金は犯罪被害者等支援団体の活動基盤の強化に充てる。犯罪被害者や家族・遺族は捜査・公判段階での精神的・物理的負担から「被害者にも落ち度があった」といった偏見に対する精神的苦痛、レイプや虐待に伴う心のケア、報道被害など極めて大きな被害を受ける。被害者支援には幅広い民の力こそ必要で、今回の金融庁の決断は支援強化の新たなモデルとなる。

 ≪被害者に冷たい社会≫
 犯罪被害者には05年に閣議決定された犯罪被害者等基本計画に基づき重症病給付金や障害が残った場合の障害給付金、さらに死亡した場合の遺族給付金が定められ、支給要件の緩和や支給期間の延長など順次、改善が図られている。しかし各年度の支給額は9億〜20億円、11年度までに約1万2千人に対し246億円が支給されているが、英米独仏4カ国に比べ10〜20分の1にとどまっている。

 犯罪被害者の支援態勢整備や国民の理解増進など内閣府や警察庁が進める関連予算も12年度は76億円。国選弁護士への報酬や刑務所諸経費など全体で1000億円に上る加害者関連予算に比べ大きな差がある。加害者対策が厚すぎると言うつもりはないが、これでは社会正義上もバランスを欠く。現状は「被害者に冷たい社会」と言われても仕方がない。

 わが国の犯罪被害者支援は「社会の連帯共助の精神」を基本としており、英仏両国と同様な考えに立つ。しかし国には犯罪を予防し国民を犯罪から守る責任がある。不幸にして国民が犯罪に巻き込まれた場合は国の責任で救済するのが筋である。被害者支援を「国が国民の安全を守れなかったことに対する補償」とするドイツの考え方こそ正しいと考える。

 警察庁によると、11年の刑法犯の認知件数は214万件。02年をピークに減少傾向にあり、国連が05年にOECD(経済協力開発機構)加盟国を対象に行った調査でも日本の犯罪率は先進国の中で最低ラインにある。振り込め詐欺の封じ込めも成果を上げつつある。

 一方で、動機不明の凶悪犯罪が増加する傾向にあり、何よりも200万という数字は誰もがある日突然、犯罪被害者となる可能性があることを示す。犯罪の撲滅と同様、被害者の救済も国・社会全体で取り組む必要がある。

 ≪民の活用で小さな政府を≫
 財務省によると、国債と借入金、政府短期証券を合わせた国の借金は今年度末、1000兆円の大台を超す。極めてタイトな財政状況の中で、犯罪被害者対策費をにわかに大幅アップするのは困難であろう。それを少しでもカバーするためにも、さらに民の知恵とノウハウを活用してほしいと思う。NPO法人(特定非営利活動法人)など民の受け皿は十分に育ってきている。

 長年、世界各地で支援事業に取り組んできた経験からいえば、官の仕事は公平公正が原則であり、その分、時間もコストもかかる。これに比べ民は自由な発想で動け、小回りも効く。民間のソフトパワーを活用し、官民一体の協力体制を効率的に運用すれば財政支出を削減し“小さな政府”の実現にもつながる。各省庁にも金融庁と同様の英断を期待する。
(ささかわ ようへい)
産経新聞【正論】:「海の目線」に立つ教育と外交を [2013年02月08日(Fri)]
「海の目線」に立つ教育と外交を


日本財団会長・笹川陽平
2013年1月18日
産経新聞 東京朝刊【正論】


≪海洋教育総合的強化急げ≫
 安倍晋三首相は第1次安倍内閣時代の2007年に海洋基本法を制定し、第2次安倍内閣のスタートに当たり、「美しい海を守り抜く」と述べた。しかし、同法の基本的施策の一つである海洋教育の強化は5年を経た現在も位置付けが不明確で、小中学校の教育現場に浸透していない。

 次代を担う子供たちが海を知らないのでは、海洋国家日本は成り立たない。小中学校の教科に「海洋」を新設するのが理想だが、現状では難しく、次善の策として学習指導要領の「総則」で海洋教育を明確に位置付け、理科や社会など関係科目で体系的、総合的に海洋教育を強化するのが現実的な選択と考える。

 学習指導要領の改定は18年とまだ先だが、それに向けた実務作業は近く始まる。さらに、今年は海洋基本法を受けて作られた「海洋基本計画」の5年目の見直し時期に当たる。新計画に、こうした将来構想を盛り込み、学習指導要領の改定作業に反映させる一方、海洋教育を担う教員の養成など環境整備を進めるのが現実的な強化策につながり、新政権には柔軟かつ積極的な対応を期待する。

 昨年暮れ東京大学で「海は学びの宝庫、すべての学校で進める海洋教育」のシンポジウムが開催され、東大と日本財団、海洋政策研究財団が全国の小中学校3万2000校に調査票を送って行った初の実態調査結果が報告された。

 ≪学習指導要領で鮮明にせよ≫
 20%強の6700校が回答を寄せ、70%は海洋教育という言葉、あるいは海洋基本法の存在を知らないと回答。海洋教育の実施状況に関しても62・8%は「教科書の範囲内での実施」と答え、13・7%は未実施。ゆとり教育で導入された「総合的な学習の時間」に海に関する体験学習を取り込むなど前向きの対応は16・7%にとどまっている。

 海洋基本法は、基本的施策の柱に「海洋に関する国民の理解の増進」を掲げ、海洋基本計画も「次代を担う青少年が、海洋の夢と未知なるものへの挑戦心を培うことができるような教育」の実現を前面に打ち出しており、もう少し高い数字を予想していただけに、意外な結果であった。

 確かに、学校教育の現状は、理科や社会の教科書に「海」が断片的に記述されているだけで、「教科書の範囲内」で実施している60%を超す学校で、どこまで教育効果が上がっているか疑わしい。学習指導要領が海洋教育に関する明確な位置付けを欠いている点が大きく、仮に「総則」で海洋教育を明確に位置付ければ、理科や社会に限らず全教科で海を横断的に取り上げることも可能となり、これを体系的に整理すれば、教科としての海洋を設けなくとも、それに見合う教育効果が期待できる。

 ≪海に守られる国から守る国へ≫
 地球人口が70億人を突破した現在、食糧、エネルギーから鉱物まで海の資源に対する世界の依存度は高まり、各国の争奪戦も激しさを増している。オランダの法学者グロティウスが17世紀に唱えた「海洋の自由」の時代は終わり、海の恩恵を最大限に受けて発展してきた日本は、「海に守られる国から海を守る国」への転換が急務となっている。

 尖閣諸島や竹島、北方四島の領有権問題も緊迫しており、海洋を中心にした安全保障、“海の目線”に立った外交の強化も欠かせない。韓国は、竹島について中高の歴史教科書だけでなく、小学校でも韓国領有の正当性を教え、中国では、中学の地理教科書を改訂して尖閣諸島を「中国の領土」と明記する動きも出ている。わが国も学校教育の中で現在に至る歴史経過ぐらいははっきり教えないと、韓国や中国の子供たちから議論を挑まれても、日本の子供たちは太刀打ちできない。

 東日本大震災での未曽有の津波被害も海の教育の必要性を一段と高めた。現に調査では、83・2%が「(大震災で)海の学習が、より大切だと考えるようになった」と答え、「津波の怖さ」「避難方法」、さらに「釜石の奇跡」を海洋教育に取り込むよう提案する意見も寄せられた。釜石の奇跡では、釜石市沿岸部の小中学校9校の児童生徒が地震発生直後に素早く避難し全員が助かった。こうした教訓を語り継ぐことこそ、生きた海洋教育になる。

 小中学校の授業で海洋の教科を持つ国は見当たらないというが、世界に先駆け海洋の教科を新設する気概があってもいいし、社会がこれほど激しく揺れ動く時代に「10年に1度」の学習指導要領の改定は、もう少し期間を短縮すべきではないかとも思う。

 海洋基本法はわれわれも民の立場から協力し、超党派の議員立法で成立した。海洋資源の開発から海上輸送の確保、離島の保全、海洋調査の推進など海に関する基本的施策を総合的にうたい、「総合海洋政策本部」の本部長を安倍首相が務める。海洋教育の強化を含め、各施策が着実に実行されるよう期待する。そうでなければ折角の海洋基本法も画竜点睛(がりょうてんせい)を欠く。
(ささかわ ようへい)


日本財団の姉妹財団であるB&G財団が主催する小学校の総合学習で
年間を通じで海について学ぶ「水に賢い子どもを育む年間型活動プログラム」導入学校の活動

山口県周防大島町沖浦小学校 海辺の生物採取 身近な海辺は貴重な学習教材.jpg
山口県周防大島町沖浦小学校 海辺の生物採取
身近な海辺は貴重な学習教材

愛媛県松山市中島小学校 海辺の生物観察を通じ食物連鎖を学ぶ.jpg
愛媛県松山市中島小学校 海辺の生物観察を通じ食物連鎖を学ぶ

山口県周防大島 海でのカヌー体験を楽しむ子どもたち.JPG
山口県周防大島 海でカヌーを楽しむ子供達
楽しむことで海を身近に
多摩全生園機関誌「多摩」:インドにおけるハンセン病制圧活動 [2013年02月04日(Mon)]
多摩全生園機関誌「多摩」
2013年1号


インドにおけるハンセン病制圧活動


WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平


2012年8月25日から9月2日の日程で、インドの首都デリーと北部のダラムサラ、中央部のマディヤ・プラデシュ州を訪問しました。ダラムサラではダライ・ラマ師と面談、デリーではハンセン病回復者の代表者たちと面会、マディヤ・プラデシュ州では州首相などに生活向上の訴えなどを行い、実り多い出張となりました。

デリーに到着した翌朝、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラに飛行機で1時間半ほどかけて移動しました。ダラムサラはチベット亡命政府のある都市で、標高1,500メートルほどの丘陵地域です。空港から町へと移動する山道からは緑の山々や清流が眺められ、とても美しいところでした。もともとこの地はハンセン病患者が少なかったため、インド28州をほぼ全て回ってきた私ですが、この州を訪問したのは初めてでした。

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ダラムサラの風景


ホテルにチェックインしたあと、この地域の周辺では唯一といわれるハンセン病回復者たちの住むコロニー、パランプール村を訪ねました。1917年、キリスト教系団体によって設立され、かつては30世帯ほど、今では17世帯が暮らしています。なかにはダライ・ラマ師を慕い、チベットからネパールを越え、インドのニューデリーを通ってこの地へ移り住んできた方も何人かいました。木々に囲まれ過ごしやすい環境のなか、キリスト教団体やチベット亡命政府からの支援もあり、ラミッシュさんは「今の暮らしは素晴らしい。ここで差別されることはない」と語り、私が「ここに住みたいが料理を自分でできないのが困った」と冗談を言うと、「みんなで作るから心配ない。何でも好きなものを作りましょう」と笑顔で答えてくれました。

翌27日は、チベット宗教最高指導者でノーベル平和賞受賞者のダライ・ラマ師を訪ねました。同師とはこれまで東京やチェコのプラハで何度もお会いしていますが、ダラムサラでお会いするのは初めてです。私が2006年から毎年行っているハンセン病差別撤廃のための「グローバル・アピール」に過去2回、賛同の署名をいただいており、私のハンセン病の取り組みに大変協力的な方です。今回は、ハンセン病の差別がいけないという強いメッセージをさらに多くの方々に発信するためのビデオメッセージをいただくために訪ねました。1時間近くにわたる会談でダライ・ラマ師は、「20年ほど前、亡き兄とオリッサを訪ねたときには50万人のハンセン病患者がいた。兄と二人で話をして、彼らのために何かしたいと思ったが、50万人はとても多くて何もできなかった。これだけのハンセン病患者が治癒されたことは素晴らしいこと。あなたをはじめ、この問題に取り組まれてきた方々に敬意を表したい」と話され、ビデオメッセージでは「ハンセン病の患者、回復者を社会が拒絶してしまうことは絶対にいけない。私たちは同じ人間であり、兄弟姉妹。すべての人がコミュニティの一員として幸せに生きられるよう、慈悲心と愛をもって接しましょう」という強いメッセージを発言されました。

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ダライ・ラマ法王に謁見


ダライ・ラマ師との面談の後、ダラムサラからデリーへと戻り、ハンセン病回復者の全国組織「ナショナル・フォーラム」のリーダーたちと打ち合せを行いました。インドには850のコロニーが各地に点在していますが、これまでお互いのことをよく知らず、まとまっていませんでした。私は、これらのコロニーに住む回復者たちが一致団結することで、政府やメディアを動かすことのできる大きな力になると考え、回復者の方々と共にこの全国組織を2005年に創設しました。今回は、創設時から中心的役割を果たしてきたゴパールさんが代表職を退任され、新しくアンドラ・プラデッシュ州のナルサッパさんが代表になったことを受けての会合です。私から「皆が一致団結し、問題解決のため一つ一つステップを踏んでほしい。全国組織があるということで、中央政府や州政府が交渉に値するとみてくれるようになる。私も全面的に協力し、各州を訪ねたい」と激励しました。新代表のナルサッパさんはやや緊張した面持ちで「これまでの草の根レベルでの経験をいかして頑張りたい」と決意表明されました。

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人権委員長(左から3人目)とナショナルフォーラム・メンバー


デリーではこの他に、P.K.プラダン保健次官やサムリー・プリアンバンチャンWHO(世界保健機関)東南アジア地域事務局長との面談、ササカワ・インド・ハンセン病財団の理事会やメディア・インタビューなどを行い、8月30日の早朝にマディヤ・プラデシュ州の州都ボパールに飛行機で移動しました。

マディヤ・プラデシュ州は2011年の新規患者数が5,708人、人口1万人あたりの罹患率は0.60と、年間12万6千人の新規患者を抱えるインドの中でも患者数が多い地域です。今回の訪問目的は、早期発見・早期治療を徹底し、患者数を減らすための努力を政府にお願いすると同時に、回復者の生活改善や差別撤廃といった社会面での働きかけを行うためです。治療が遅れたため障害が残っている回復者のなかには、障害者年金を受給している方もいますが、この州ではその年金が月150ルピー(約250円)と少額で、インドでも非常に困難な生活を余儀なくされています。他の州では平均して500ルピー、デリーではハンセン病回復者に特化した年金が月1800ルピー支給されており、同州でも高齢者や重度障害のある方が最低限の生活を保障されるよう年金を増額してもらう必要があります。

早速、前述の回復者組織ナショナル・フォーラムのナルサッパ代表と州代表のサランさんとともに、シブラジ・シン・チョウハン州首相に陳情に訪れました。サランさんは、この日にそなえてまとめた州内に34カ所あるコロニーの実態調査と政府への提言書を提出しました。私からも、最近になって月200ルピーから2000ルピーへとハンセン病年金の増額に動き始めたビハール州の例を紹介し、特に年金の増額を検討いただきたい旨と、今後もナショナル・フォーラムと継続して交渉を進めてほしい旨を要請しました。チョウハン首相はその場で、年金額を要望通りの1000ルピーに増額すると約束し、その他の要望についても善処すると応えくれました。

その後、A.K.サクセーナ州人権委員長代理との面談後、メディア30名ほどを前に記者会見を行いました。そこで州首相によるハンセン病年金増額の約束を紹介し、翌日の各紙に大きく取り上げられました。実際に制度として成立させるには今後の交渉と調整が必要となりますが、当事者であるサランさんと共に必ず実現までこぎつけたいと思います。

翌31日には、州都ボパールから車で3時間ほどかけて地方都市のインドールまで移動しました。途中に寄ったマガスプール・コロニーでは、ササカワ・インド・ハンセン病財団の小規模融資を受けて行っている酪農の様子を視察しました。1日20リットルの牛乳を州政府などに卸し、月に約18,000ルピー(約3万円)の収入を4人1グループで得ているそうで、「支援のおかげで素晴らしい活動ができ、みんな喜んでいる」と事業の成功を嬉しそうに報告してくれました。

次に訪問したラム・アバター・コロニーでは、同じく融資を受けて政府から借用している農地で、主に野菜栽培を30人で協力して行っており、昨年は雨が少なくあまり良い成績ではなかったが、今年は雨も多く、好収穫が期待できると自信のほどを話してくれました。また、ササカワ・インド・ハンセン病財団の奨学金で看護師の勉強をしているバシュニヤさんに「村の誇りだね」と話しかけると「一生懸命勉強します」と神妙に答えてくれました。

最後に、州代表サランさんの地元のコロニーも訪ね、100名近くの住人が集まる集会に参加しました。ハンセン病が治癒された子どもたちの歌や、奨学金を受けて大学に通っている若者、それに住人たちの活気ある姿に接し、「皆さん一人一人が非常に苦しい人生を歩んできましたが、これからは皆さんが社会から尊敬されるような時代に変わろうとしています。皆さんは決して一人ではありません。一致団結して希望をもってがんばってください」と語りかけると、住人からも「代表のサランさんと一緒に一人一人が責任をもってがんばっていきたい」と力強い言葉がありました。

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州代表のサラン氏


今回のインド訪問では、ダライ・ラマ師のビデオメッセージから、回復者全国組織ナショナル・フォーラムの新しい出発、そしてマディヤ・プラデシュ州における年金増額の約束取り付けや融資事業の成果の確認と、多岐にわたる分野で一歩ずつ前進することができました。ハンセン病の差別のない世界、彼らが物乞いをせずに尊厳をもって生きられる社会を実現できるよう、これからも回復者たちと共に歩んでまいりたいと思います。

菊池恵楓園機関誌「菊池野」:ウクライナにおけるハンセン病制圧活動 [2013年02月01日(Fri)]
菊池恵楓園機関誌「菊池野」
2013年1月号


ウクライナにおけるハンセン病制圧活動


WHOハンセン病制圧特別大使
笹川 陽平


ロシアでのハンセン病制圧活動を終え、7月4日、ウクライナ南部の都市オデッサを訪問した。ここは、黒海に面した港町で人口は約100万人。首都キエフ、工業都市ハリコフに次ぐ、ウクライナでは3番目に大きな都市である。芸術と文化の町として世界中に知られており、毎年多くの観光客が、西欧の影響を色濃く受けた美しい街並みやコンサート、オペラ、夏の美しいビーチを楽しみに訪れる。映画「戦艦ポチョムキン」に出てくる長い階段はこの町の象徴である。オデッサから車で1時間半ほど、豊かな平原を走った先にあるのがウクライナ唯一の国立ハンセン病療養所である「クチュルガン療養所」。クチュルガンというのはこの一帯の地域の名前を指し、もともと戦火を逃れてやってきたドイツ移民によって1808年につくられ、現在6つの村と計3,000人の人口を有している。

「登録患者」は全ウクライナのなかでわずか17人。全員完治した回復者である。WHO(世界保健機関)の定義では、治療が終わると「患者」とは呼ばなくなるが、この国では回復者も患者として登録し続けている。私がハンセン病を過去の病気と捉えている国々を訪れるのには理由がある。世界中で、ハンセン病に罹った人はひとつの場所に集められ、隔離する法律や社会からの偏見、差別により故郷で暮らすことを許されず、閉ざされた場所で生きることを余儀なくされてきた。この人たちがどのように生き、どのように生きたかったのか。そして何を残してきたのか。その声を直接聞いて後世に伝えていくことは、人類が犯してきた過ちを繰り返さないために、非常に重要だと考えているからだ。

ユリ・リバック副所長によると、クチュルガン療養所は1945年にオデッサ出身の有名な眼科医によって、当時増加傾向にあったハンセン病患者を治療するために設立された。この眼科医は、若い時、ウズベキスタンのサマルカンドの病院に勤めていた際にハンセン病患者を診た経験が自国で病院を建てようと思ったきっかけになり、空き家を利用して建てた療養所では、現在までに300人の患者を治療してきた。その多くはウクライナ以外の国から国境を越えてやって来た人たちで、当時150人の患者がいたが、現在は男性7人、女性5人、12人の患者が生活している。患者が最後に見つかったのは2004年で、驚いたことに、ハンセン病の治療薬であるMDTを初めてこの地に届けたのは保健省ではなく、ロマナ・ドラビック医師(75歳)というドイツ出身の元開業医の女性で、1997年のことであった。彼女は個人的な使命感からインドやアフリカ、そして旧ソ連の国々のハンセン病関連の施設を飛び回って支援しており、今回の私たちの訪問にも同行し、療養所内を案内してくれた。

私たちが到着すると、職員の皆さんが「こんにちは、ようこそいらっしゃいました」と、一生懸命練習したであろう日本語で温かく迎え、森のような敷地内を進んだ先にある古い病棟の一室に案内してくれた。部屋に入ると白衣姿の医師や看護師が衣装掛けを示し、「そこにかかっている白衣を着てもいいですよ」と言ったのには驚いた。世界中の療養所を訪問したが、白衣をどうぞと言われたのは初めてである。白衣を着るだけで、そこには「診る人(医師・看護師)」「診られる人(患者)」の上下関係が発生する。勿論、私は袖を通さなかった。

ここで43年間働いているヴラディミル・フェオドヴィチ・ナウモフ所長は、「患者を助けたかった。そして、いつしかそれは私の運命になった。かつてこれはとても難しい病気だった。ほとんど歩くことができない人がたくさんいた」と話した。私が「これまでで印象に残った患者さんは」と尋ねると、「10年ほど前、韓国系の障害がかなり進んだ患者のもとに、はるばるカザフスタンから、突然、16、7歳の彼の息子が訪ねてきた。翌日、その息子は殺された状態で発見された。警察の捜査の結果、患者である父親が犯人とされた。私は身体的障害から父親に殺人はできないと強く主張したが受け入れられず、父親は6年間を刑務所で過ごした。獄中の父親に食べ物などを送り支援を続けたが、彼の身体は弱り、結核も患い、出所後まもなくここで亡くなった。今は療養所内の墓地で眠っている。この事件の真相は今でも闇の中で、本当に不思議な事件だった」と、今も納得のいかない感じで話してくれた。

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療養所スタッフ
筆者の右はトラビック医師、左はナウモフ所長


療養所内の道路はきちんと舗装され、両脇に樹木や草花が生い茂げっていた。前庭にスグリやブドウが植えられたアナスタシアさん(80歳)のお宅は、家族の写真が飾られ、絨毯や人物画など何枚も壁にかけられており、美しくデコレーションされた可愛らしい家だった。旦那さんに先立たれ、「1人で住んでいるが息子はオデッサに住んでいるよ。今は4匹の猫が話し相手だよ」と金歯の口を開いて話してくれた。また、マリアさん(80歳)は「東日本大震災で苦しんでいる日本の皆さんのために神様にお祈りしています」と、遠い日本の情報を知っていた。

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療養所で生活する回復者と談笑


住民に声をかけて歩いた後、療養所内の墓地を訪れた。お墓は大変立派なもので、療養所で人生を終えた人たちの名前と顔写真がきちんと彫られていた。先ほど述べた韓国人のお墓も写真入りであった。多くの人はカザフスタン、ウズベキスタンなどの外国からで、家族と離れ、たった一人で異国の地で死んでいった。孤独で絶望のなかでの死を思うと、我々の罪深い負の遺産を繰り返さないためにも、悲惨な歴史をしっかりと記憶に留める必要がある。私はこれからもこのような世界中の療養所を訪ねて、回復者と向かい合い続けたいと願っている。

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無念の死を遂げた韓国人の墓石の前で
松丘保養園機関誌「甲田の裾」:ロシアにおけるハンセン病制圧活動 [2013年01月30日(Wed)]
松丘保養園機関誌「甲田の裾」
2012年4号秋


ロシアにおけるハンセン病制圧活動


WHOハンセン病制圧特別大使
笹川 陽平


2012年6月29日から7月3日まで、ロシアの南部にある3都市のハンセン病療養所(アストラハン、テルスキ、アビンスキ)を訪問した。

WHO(世界保健機関)は、毎年管轄地域ごとに世界のハンセン病の最新データを発表している。東南アジア、アフリカ、西太平洋、アメリカ、中東、そしてヨーロッパの6つの地域に分けられているが、そのなかで最大の面積を占め、西ヨーロッパから中央アジアに広がり53国を管轄するヨーロッパ地域のハンセン病データがごっそり抜け落ちている。

現在、ヨーロッパにはハンセン病に対する問題は少ないが、多少のケースは報告されている。そのほとんどが西ヨーロッパから発見され、途上国からの移民が主な原因であると言われる。一方、国によっては、ハンセン病は報告する必要がない病気であると判断され、データを消去してしまう国もあるようだ。WHOハンセン病制圧特別大使として、ヨーロッパ地域で何が起こっているのかをこの目で確かめる必要があると感じ、今回訪れることを決めた。

特に関心があるのはロシアとカザフスタン、タジキスタンなどの中央アジアの国々である。全旅程に同行してサポートしてくれたのは、ドイツ人女医ロマナ・ドラビックさん(75歳)だった。ドイツ西部のディンスラーケンという町で8年前まで開業医として働く傍ら、個人的な使命としてハンセン病患者、回復者に対する支援活動を30年以上続けている。

彼女が初めて患者に出会ったのは、観光旅行で訪れたケニアのモンバサであった。道で物乞いをする患者を見て驚き、「こんな人を放っておくなんて、行政は何をしているんだ」と市長のところへ直談判しに行ったという行動派である。その後、「ハンセン病患者とともに生きる」と誓った彼女は、支援物資を携えてインドやアフリカを駆け回った。1990年初頭に活動地域を旧ソ連の国々にも広げ、地道にコンタクトを取り、各地の療養所へ足を運び続けた。ロシア各地のハンセン病専門家にも顔がきき、彼女の構築した人脈がなければ、今回の視察は実現できなかっただろう。

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ドイツ人女医 ロマナ・ドラビックさん


私の最初の目的地はロシア南部のアストラハン国立ハンセン病研究所だった。モスクワから飛行機で2時間。カスピ海に近いアストラハン州の州都は人口50万人ほどで、ヴォルガ川のデルタ地帯である。1896年に開設されたハンセン病病院に併設して1948年に建てられたこの研究所は、旧ソ連の時代からハンセン病研究と技術指導が中心で、現在はヴィクトール・ドュイコ所長のもと、ロシアをはじめ、独立国家共同体(CIS)加盟国のハンセン病活動の拠点になっている。

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アストラハン・ハンセン病研究所の看板


アストラハン到着の翌日、ハンセン病研究所でロシア及びCISのハンセン病専門家が集まって会議が行われた。タジキスタン、トルクメニスタン、カザフスタン、そしてウズベクスタンから専門家が集まり、現場のヘルス・ワーカーにどのようなトレーニングをしているのか、ハンセン病に関する正しい知識をどのように広めているかなどの取り組みについて発表が行われた。WHO世界ハンセン病プログラムのスマナ・バルア代表もインドから駆けつけ、WHOの行っているハンセン病対策について紹介するとともに、今後はロシアをはじめとするCIS地域の国々とも綿密に情報交換の必要性を述べた。

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ハンセン病関係者会議


アストラハン研究所員は、「ロシアにおいてここ3、4年の間に新規患者は発見されておらず、2012年初頭の時点で382名の患者が登録されている」と報告したが、この数字については慎重に捉える必要がある。WHOの基準によると、ハンセン病は6カ月ないし12カ月の投薬で完治するため、完治した患者は登録簿から削除される。しかし、ロシアでは一度罹患した患者は完治しても登録され続けているため、どれだけの患者が治療を完了しているのかがこの報告からは読み取ることができない。WHOによる正確なデータ整理が必要であることを実感した。

アストラハン研究所は、回復者が利用する療養所の機能も持つ。数十年生活している人から、リハビリやその他の疾患治療のためにショートステイを利用している人まで、声をかけて回った。鮮やかなブルーの外壁の2階建ての建物で、ベランダが各階をぐるりと取り囲む可愛らしい家の一室に、マリアさん(62歳)とニーナさん(58歳)の姉妹が滞在していた。座り心地の良さそうな安楽椅子とシンプルなベッド、戸棚が置かれ、壁には大きな絨毯が飾られた趣味のいい部屋であった。「お医者さんや看護師さんには大変良くしていただき有り難く思っています」と短期の滞在を楽しんでいた。

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センター内に住む回復者のご夫婦


「ヴィクトールさんが所長になってから、アストラハンでの患者の暮らしは良くなった」と言う。確かに、青くてきれいな芝生が広がり、花壇には色とりどりの花が並び、可愛い鶴や蓮の花の置物が取り囲む小さな池まで整備され、家庭的な心のなごむ雰囲気であった。一方で、3メートルほどもある真っ白なレーニンの像や、ハンセン病患者専用の刑務所跡など、ソビエト時代の名残もあった。

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ヴィクトール博士とセンターに検査に来ていた回復者


アストラハン近郊のハンセン病回復者が住むウォストチノエ村は、市内から車で田園地帯を走り約1時間の人里離れた場所にあった。1960年、政府がハンセン病治療が終わった人たちに住宅を提供したのがその始まりで、その後回復者以外の人たちが集まりここで暮らすようになった。現在、1,000人いる住民のうち、回復者の家族はわずか15世帯である。  

「到着しました」と車を降ろされた場所は、幅4、50メートルの砂利道のど真ん中で、人の姿はまったく見えず、どこが村なのだろうかと少々戸惑ったが、よく見ると確かに道の両脇に木片やトタンで出来た古ぼけた塀と、その先の茂みに隠れるように、屋根がちらりと覗いていた。ヴィクトールさんがそんな塀のうちの一つを押開けると、庭の家庭菜園の向こうから老夫婦が姿を見せた。この家で年金生活をしており、柔道をしている10代の息子さんとの生活には満足しているようであった。

また別の家には、夫に先立たれた76歳の女性が一人暮らしをしており、年金、月額約6,000ルーブル(約14,000円)で暮らしている。ガスと水道は通ってなく、水道管を引くための工事費は5,000ルーブル(約12,000円)で、それが工面できず不便な暮らしを余儀なくされ、その上「アストラハン療養所に短期滞在し、家を空けている時に泥棒に入られ、貴重品やアイロンなどの生活用品まで全部盗られてしまった。現在生活が非常に困難だ。ソ連が崩壊してから、村の人口は減り続け、若い人は大都市に移ってしまい、年寄りしか残っていないのだ」と、私に窮状を訴えた。

二日間のアストラハン滞在を終え、私たちは次の目的地、テルスキハンセン病療養所を訪問するため、宿泊地予定のゲオルギエフスクを目指して出発した。9人乗りのミニバスに揺られ、カスピ海を背に内陸に向かってひたすら西へ向かう。360度地平線で囲まれ、乾燥した草原地帯が広がる何もない道を走ること4時間。昼食休憩のために立ち寄ったのが、ロシア連邦に属する自治共和国カルムイクの首都エリスタという街だった。

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乾燥した草原地帯が広がる道を西へ西へ


ここは、ヨーロッパ随一の仏教国とも言われ、人口が30万人に満たない小国である。カルムイクとはトルコ語でイスラム教に改宗しなかった「留まった者」の意味で、もともとカルムイク人はチベット仏教を信仰する遊牧民族だった。18世紀後半、ロシア人やウクライナ人などの移住者に改宗を迫られたため多くの仏教を信仰する民族が新疆ウイグル自治区方面に帰還する中、地形的理由から戻ることができなかった人々が留まってできたのがこの国だといわれる。挨拶に来てくれたエリスタの保健局長も、私たち日本人と似た顔であった。食後見学したチベット仏教の釈迦牟尼寺では、モンゴルをはじめアジア系の顔立ちの人々が荘厳な雰囲気の中祈りを捧げており、周囲に仏教地域がないこの離れ小島のような国で仏教が息づいていることに、歴史に翻弄された民族の悲劇を感じざるを得なかった。

カルムイク共和国に別れを告げて、南に向かって走り続けると、突然、広大な向日葵畑に遭遇した。全く同じ方向を向き、理路整然と並ぶ無数の向日葵。その畑に何十回と出会うのである。畑であるにも関わらず、それを管理する人をついに一度も見かけなかったのが何故なのかは、今でも分からない。

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アストラハンを発ってから11時間後の夜7時過ぎ。ようやくゲオルギエフスクに到着した。7月2日の朝、テルスキハンセン病療養所を訪問。創立115年を数えるロシア最古の療養所である。現在、51人の利用者と43人のスタッフがおり、今回私が訪ねた他の施設同様、テルスキはハンセン病を過去に患い、治った後も様々な社会的理由からここに留まる事を選んだ人々の終の棲家となっていた。加齢に伴う病気を中心に、医療的ケアも必要に応じてなされていた。短期滞在していたある高齢の女性は、「子どもたちは私がハンセン病であることを知っているが、孫や近所の人々は知らない」と言葉少なに語った。柔らかな表情で迎えてくれる回復者だが、カメラ撮影の了解にはほとんどの人がニエット(NO)の反応で、写真が公表されることによる差別を恐れている様子で、他国では経験しないことであった。

その後所内の病院に案内され、薄暗い玄関を抜けると見事な風景画が2枚と人物画が2枚。特に人物画の1枚は船上で船乗りが賑わっている様子が描かれ、今にも絵の中から人が飛び出してきそうな躍動感溢れる傑作であった。誰が描いたか尋ねると、昔この病院にいた人だと言う。こんな僻地に、これほどまでに素晴らしい絵を描く回復者がいたことに驚いたが、悲しいことに作者の名前は誰一人として知る人はいなかった。

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テルキス療養所に飾られていた躍動感溢れる絵画


ロシアの最終日、黒海方面を目指し北コーサカス西部に位置するクラスノダールという地方にあるアビンスキ療養所を訪れた。この療養所の創立は1905年に急増したハンセン病患者を収容するため軍医によって建てられ古い歴史を持ち、その時の肖像画が所内の壁に掲げてあった。30年間アビンスキで所長として働いた父の後を継いだ副所長のマリーナ医師はここで29年働いており、父が所長時代には500人の患者が暮らしていたが、現在は40人。それに対して職員は何と3倍以上の131人もいると言う。一番最近の患者は2009年に入所してきたとのことだった。回復者のおばあさんに「お名前は? どこから来て何年間ここに住んでいるのですか?」と聞くと、彼女が答えようとするより先に横にいた職員が「彼女はカーチャさん、40年間住んでいます。アストラハンから来ました」と話しだした。私が「本人の口から直接話が聞きたい」と言うのだが付け入る隙がなく、とうとう最後まで回復者とゆっくり会話することができなかった。

「なぜこれだけ素晴らしい施設で優秀な職員も多く病床も余っているのに、ハンセン病以外の病気を診ようとしないのですか」と職員に尋ねると、「ここはハンセン病専門の病院と法律で定められているので、他の病気は診察することができない」ときっぱりとした口調で答えた。WHOの方針であるインテグレーション、すなわち総合病院への方策は、ここロシアやウクライナでは実施されていなかった。また、何十年もハンセン病の「元患者」が暮らしているとのことだが、自分の家に帰ることができるのかと聞くと、「もちろん可能であるが、様々な社会的理由からそれが叶わないことが多く、そのような人たちがここに暮らしている。この療養所では手厚いケアがなされ、衣食住に困ることはなく、新聞、雑誌、テレビも無料で楽しめ、義肢義足も提供され、皆充実した人生を送っている。何もここから出ていくことはない」ということが一致した答えであった。

果たしてこれで良いのだろうか、彼らの苦難に満ちた人生はいったい何であったのだろうか。このまま我々が単純に忘れ去っていいのであろうか。起こった出来事を「記録」として残すことは勿論、一人一人の生命の証を記憶が薄れないうちに形にして残す必要がある。そのためには、ここで出会った回復者が本当はどのような生き方をしたいのか、本心を聞きたいと思う。テルスキの療養所にいたはずの無名の画家は、芸術を通してそれを表現したのではないのか。今回のような療養所を巡る旅は、私にとって大変重要な使命であり、今後も精力的に続けていきたい仕事である。

「ちょっといい話」その20 ―アール・ブリュット美術館― [2013年01月25日(Fri)]
「ちょっといい話」その20
―アール・ブリュット美術館―


日本財団アール・ブリュット支援プロジェクトの一環で開設を進める美術館が新建築11月号(11月1日発売)に掲載されました。本誌は、1925年(大正14年)に創刊された建築デザインを専門とする月刊誌で、日本の優れた建築家の作品を紹介することで定評があります。

古きよき町並みの保存と町家の再生で地域を元気に豊かにする日本財団の改修事業に、建築家の方々が関心を寄せて下されば望外のことです。

以下、掲載原稿です。

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雑誌「新建築11月号」


学識や伝統的な技法にとらわれない、自由で無垢な発想が生み出すアール・ブリュット作品を中心に展示する美術館が、日本財団のアール・ブリュット支援プロジェクトの一環で立ちあがっている。

アール・ブリュットは生の芸術というフランス語で、1945年にフランス人画家のジャン・デュビュッフェが提唱し、アウトサイダー・アートと英訳され世界中に広まった。文字通り既存の美術の外に置かれ、作品の優劣に関わらず、現代美術とは一線を画して取り扱われることが多い。

殊に日本では、知的や精神などの障害を抱える人の作品の中に、アール・ブリュットの域に達する美術的価値のある作品があっても、評価や展示をされないまま劣化していくのが実情です。

このプロジェクトは、福祉施設で障害者の支援に携わりながら、作家や作品に寄り添って来た方々と、作家に障害の有無は関係なく、美術的視点で作品が評価され、展示されるフェアな環境を目指して取り組んでいる。

本誌に紹介された美術館の改修設計を手掛けたのは、竹原義二氏(滋賀県・ボーダレス・アートミュージアムNO-MA、高知県・藁工ミュージアム、広島県・鞆の津ミュージアム)と乾久美子氏(京都府・みずのき美術館)で、半世紀以上もの間、人々の暮らしを見つめ続ける町家や蔵が、両氏の手により、懐かしくて温かい佇まいをそのままにし、誰もが気軽に立ち寄り集う、創造豊かなアール・ブリュットに親しむ空間に、見事に再生されている。

町の景観が次々と塗り替えられていくことに、不安や危機感を募らせる人は少なくない。こうした生活者の思いにも配慮しながら、各地に残る古き良き町並みや建物が、ただ保存されるだけでなく、地域の資産や象徴となるように活用されることを願ってやまない。

いま日本財団には、全国の自治体やNPOから美術館の開設について多くの相談が寄せられている。このプロジェクトで整備する美術館が、美術、福祉、建築の分野を超え、地域資源の再生、地域文化の発信、まちづくり・コミュニティの活性化と、あらゆる領域を横断する地域課題の解決に役立つことが期待されるからだろう。

多様な人材の英知をつなぎ、運営主体を厳選しながら、今後も整備する予定である。
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