CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
日本財団会長 笹川陽平ブログ日本財団会長 笹川陽平ブログ笹川陽平プロフィール笹川陽平バイオグラフィー
日本財団会長 笹川陽平ブログ
日本財団会長 笹川陽平ブログ

日本財団会長 笹川陽平ブログ

写真:ハンセン病の現場から「アフリカ・ピグミー族」

« エッセー(essay) | Main | スピーチ»
東北地方太平洋沖地震応援基金
Google
<< 2014年04月 >>
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
プロフィール

笹川 陽平さんの画像
笹川 陽平
プロフィール
ブログ
カテゴリアーカイブ
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
リンク集
http://blog.canpan.info/sasakawa/index1_0.rdf
http://blog.canpan.info/sasakawa/index2_0.xml
産経新聞【正論】「沈黙は美徳」の時代は終わった [2014年04月21日(Mon)]

下記は、4月15日、産経新聞『正論』に掲載されたものです。
読者の皆さんのご批判を賜りたいと思います。

「沈黙は美徳」の時代は終わった


産経新聞【正論】
2014年4月15日


 中国、韓国の「日本攻撃」がとどまるところを知らない。安倍晋三首相の靖国神社参拝や集団的自衛権解釈の見直しを「戦後国際秩序に対する挑戦」「軍国主義の復活」と宣伝し、国際社会で日本を孤立させる意図もうかがえる。
 安倍首相を「右寄り」と危険視する一部欧米メディアの論調や、米国で相次ぐ慰安婦像の建立、州教科書における「日本海」と「東海」の併記など一連の動きは、国際的な情報戦での日本の敗北を意味している。

 ≪広報宣伝外交で後れ取る≫
 戦後の日本は、経済発展を目指す一方で政治的発言を極力抑制してきた。自己主張を控える姿勢が、戦争に進んだ戦前の負のイメージを払拭し、民主的な平和国家を目指す日本への理解につながるといった思いがあったかもしれない。加えて、わが国には沈黙を美徳とする風土もある。

 しかし、グローバル化が進む国際社会での沈黙は日本理解を妨げ、誤解を助長する以外の何ものでもない。日本が引き続き存在感を保ち世界に貢献するためにも、主張すべきは主張する確固たる姿勢を確立しなければならない。

 最近、パブリックディプロマシーという言葉をよく聞く。対外広報や人的交流、国際広報を通じ自国の考えや文化への理解を促進する広報宣伝外交を言うようだ。

 過日、読んだ「パブリック・ディプロマシー戦略 イメージを競う国家間ゲームにいかに勝利するか」(PHP研究所)によると、外交宣伝の主戦場であるワシントンでの日本の活動は中国、韓国に比べ弱く、その傾向は一層、顕著になりつつあるという。

 ワシントンは北京、ソウルと姉妹都市関係にあるが、東京の相手はニューヨーク。こんなところにも政治に重きを置く中国、韓国と経済中心の日本の違いが出ている。それ自体に問題はないが、政治的な情報発信に限れば日本の後れは否めない。

 ≪一方的な主張が独り歩き≫

 先月末、中国の習近平国家主席が訪問先のドイツで、1937年の南京事件について、「30万人以上が虐殺された」などと日本批判を展開、菅義偉官房長官が抗議する事態に発展している。

 中国政府は一貫してこの数字を堅持し、「南京大虐殺記念館」にも刻まれているが、学術的根拠はなく、姉妹財団の東京財団が2007年に開催した講演会でも、中国側研究者が「現在の資料で犠牲者数を確定することはできない」と指摘している。

 しかし米国などを訪問すると、多くの人が「30万」を信じているのに驚く。日本が有効な反論をしないまま、一方的な数字が独り歩きしているというしかない。

 慰安婦問題でも同じ思いがする。募集の強制性を認めた1993年の河野洋平官房長官(当時)談話の作成に関与した石原信雄元官房副長官が2月の衆院予算委員会で、政治決着を急ぐあまり客観的裏付けがないまま談話が作成されたことを認めたうえ、最近の韓国政府の「日本攻撃」について「当時の日本政府の善意が生かされていないということで非常に残念だと思っている」と語った。

 これでは国の危機管理はできない。どんな理由であれ、いったん認めれば、その内容は新たな事実となり相手側の攻撃材料となる。今さら善意がどうのこうのと言っても話にならない。日本側の甘さこそ問われるべきである。

 ≪失いかねぬ国際的存在感≫
 過日、中国で評判を呼んだ老兵東雷(ブログ名)氏の「現代日本を怪物化した対日外交は失敗」と題したブログの日本語訳全文を本人の了解を得て筆者のブログに掲載したところ、日本の読者からも極めて大きな反響があった。老兵氏は英国や米国にも留学、政府職員として来日経験もあり、この中で「平和憲法に洗脳され、平和な環境の中で私権や自由を享受し、戦争からどんどん遠ざかっている日本人がどうやって軍国主義に向かうのか」としたうえで、「中国と韓国を除けば歴史問題で日本ともつれ合っている国はほかにない」と指摘している。

 対日姿勢に疑問を投げ掛ける同様の声は、中国だけでなく韓国にも多く、ましてASEAN(東南アジア諸国連合)各国を訪問すれば、「日本の積極的な発言」を求める声は極めて多い。

 仮に沈黙を続ければ、日本は存在感を失うばかりか、自国では不満がナショナリズムを高揚させ、相手国では多様で冷静な対日言論も育たない。結果、強硬策ばかりが加速する事態を招きかねない。

 中韓両国は歴史問題を外交、内政の切り札に異例の対日共闘体制を引き続き強める構えのようだ。国際社会には、地球温暖化や人口爆発、それに伴う食糧資源問題など緊急課題が山積している。

 日本は歴史・領土問題に冷静に対応する一方、グローバルなテーマで国際社会をリードし、国際社会の理解と支持を獲得すべきである。内向きの姿勢を捨て、「官」だけでなく「民」も交えた積極的な情報発信こそ、わが国の安全保障の確立につながる。
(ささかわ ようへい)

産経新聞【正論】祭りの力を被災地復興に生かせ [2014年03月17日(Mon)]
祭りの力を被災地復興に生かせ


産経新聞【正論】
2014年3月3日


 なんとなく日本全体に元気がない。間もなく発生から3年を迎える東日本大震災の被災地も、がれきの姿は消えたものの、街並みに以前の建物はなく、将来像が見えないまま住民の疲労感も増している。何よりも人々を元気付ける方策が必要である。

 そんな中で過日、BS放送で、祭りが世代から世代へ濃密な人間関係を作りながら伝承される姿を見て、これこそ絆、つながりの原点、日本を元気にする宝だと実感した。

 日本は世界でも稀(まれ)な祭りの宝庫であり、全国至る所に祭りがある。誇るべき宝を被災地の復興や過疎が進む地域社会の再生だけでなく、日本全体を元気にする「資源」としてもっと大胆に活用すべきだと考える。

 ≪日本全体を元気にする宝≫
 番組は関西に本社を持つ清涼飲料水会社が、CSR(企業の社会的責任)の一環として11年前から取り組む「日本の祭り」。たまたま2月中旬に見た際は、春の訪れを告げる静岡県掛川市の遠州横須賀三熊野神社大祭がテーマとなっていた。

 大祭は280年の伝統を誇り、城下町として栄えた掛川市横須賀の13町が13年に1度、奉納舞の大役を担う。画面では町の長老や青年が真剣な表情で子供たちに伝統の舞を引き継ぎ、中年の男性は「母の腹にいるころから祭りに参加していた」と郷土を愛する熱い思いを語った。

 われわれも姉妹財団がバイオリンの名器を売却して寄付してくれた資金を基に「まつり応援基金」を立ち上げ、これまでに被災地の162団体の祭りを支援してきた。中でも、三陸沿岸部は、浜ごとに神楽や鹿踊(ししおどり)、虎舞が継承される祭りの宝庫。震災後、「祭りがなくなれば、故郷を離れる人がもっと増える」「祭りこそ復興の決め手」といった声が沸き上がり、大津波で神輿(みこし)や山車、太鼓、獅子頭ばかりか演者も失い、開催不可能とみられる中、震災発生半年後の秋祭りを実現させた。

 支援先のひとつとなった岩手県釜石市の「虎舞保存連合会」が昨年10月の「釜石まつり」で行った虎舞フェスティバルには、仮設住宅に避難する被災者や県外に移り住む地元出身者も多数、姿を見せ、遠野市や青森県八戸市の団体も参加、例年以上のにぎわいを見せた。震災前に比べ虎舞を習う中高校生や、見よう見まねで太鼓を叩(たた)く幼児も増え、関係者からは「久しぶりに仮設住宅の被災者に笑顔が戻った」「街を去った人と残った人のわだかまりが少しは解消できた」といった声も出た。

釜石の虎舞.jpg
釜石の虎舞

太鼓をたたく子供.jpg
見よう見まねで一生懸命!


 ≪共通する地域社会崩壊の危機≫
 震災後、仮設住宅や県外の民間借り上げ住宅などに避難した被災者は47万人。復興庁などによると、その後、40%に当たる19万人が故郷や新たな土地で新生活をスタートしたが、今も28万人が住居や就業先を確保できないまま避難生活を送る。

 県外で暮らす約6万人の被災者の故郷への復帰希望は年ごとに低下し、故郷への帰還がかなわぬままストレスから酒に溺れる人も多いと聞く。報道によると、岩手、宮城、福島の3県警が確認した仮設住宅での孤独死は昨年8月時点で81人に上っている。

 もともと被災地の大半は震災前から人口減少が進む過疎地。新しい街づくりには、2カ所あった病院を1カ所に集約するような工夫が必要で、その分、地域社会の調整も難しく、高台移転や防災堤防に対する住民の意見も賛否両論に割れている。

 1995年、阪神淡路大震災に見舞われた神戸市は、人口150万人の大都市だったがゆえに、震災前の都市機能を復旧することで基本的に復興を実現できた。東北の被災地の将来像が見えてこないのは、過疎と震災に伴う人口流出が同時進行している点に一番の原因がある。

 2008年から人口減少に転じた日本では今後、過疎と高齢化が加速度的に進み、東北の被災地に限らず中山間地を中心に、多くの自治体が地域社会崩壊の危機に直面する。古くて新しいテーマだが、恐らく、これひとつで十分といった妙案はない。

 ≪人の心いかに繋ぎ留めるか≫
 支える人がいなくなれば地域社会は存続し得ない。インフラの整備や雇用の創出が欠かせないのは言うまでもないが、地域社会の維持・再生は住民の心をいかに繋(つな)ぎ留めるかに全てがかかる。

 全国各地で祭りの復活が目立ち、観光客の増加が地域興しに一役買っている。祭りが活発になれば伝統文化を受け継ぎ、これを守っていく人も増える。被災地では「祭りがあるから、この地を離れない」と言う声を何度も聞いた。

 被災地では正月の「春祈祷(きとう)」も終わり、間もなく全国各地で春祭りが始まる。遅れる被災地の復興や過疎地の再生、さらには日本社会全体を元気付ける活性策として、国、地方自治体は祭りをもっと積極的に政策に取り込むべきではないか。被災地の祭りの復興をお手伝いする中で、あらためてそんな思いを強くしている。
(ささかわ ようへい)
「朝雲」―不撓不屈の91年― [2014年02月28日(Fri)]
「朝雲」
―不撓不屈の91年―


2014年2月20日


「最後の帰還兵」小野田寛郎氏が1月、91歳で逝去された。1991年、福島県・塙町に開設された「小野田自然塾」を長年、支援させていただいた関係で何度かお会いした。

 新聞、テレビ、雑誌に膨大な“小野田論”が掲載されており、改めて論ずる立場にもないが、74年、フィリピン・ルバング島から29年振りに帰還された際、テレビ中継された両親との対面シーンは今も鮮明に記憶している。

 母親のタマエさんは深々と頭を下げる息子に「母が言った言葉を最後まで守ってくれ、ありがとうございました」と言葉を掛け、一呼吸おいて「えらかったのう」と涙を流した。

 その後、ご本人からうかがった話や手記などによると、陸軍中野学校を卒業して44年、フィリピンに派遣される際、タマエさんは「敵の捕虜となる恐れがある時は、これで立派な最期を遂げてください」と短刀を贈った。小学校1年の時、ささいなトラブルから友達の手にナイフでケガをさせた際には「人に危害を加えるような子を生かしてはおけません」と切腹を迫ったという。

 両親を敬愛する氏にとって、80年、川崎市で起きた「金属バット事件」は信じ難い事件だった。浪人生が両親を金属バットで殺害し、移住先のブラジルでも邦字紙に大きく報道された。

事件を機に、自然との触れ合いを通じた青少年の健全育成を思い立ち、4年後、富士山麓に子どもたちのキャンプ場、さらに小野田自然塾の開設にこぎつけ、2万組を超す親子を指導してきた。

塾の精神は「不撓不屈」。「親は心を鬼にして子どもを叱らなければならない時がある」「親が変われば子も変わる」と説き続けた。

「不撓不屈」小野田自然塾.jpg
塾の精神「不撓不屈」が刻まれた石碑


 昨年1月、人生の同志でもある町枝夫人とともに訪ねて来られ「私どもの仕事も体力的に終りに近づきました」と長年の協力に礼を述べられた。背筋をピンと伸ばした姿は90歳とは思えず、一層の活躍をお願いしたと記憶する。

 戦後日本は新憲法の下、しつけから教育まで全てが変わり、親の存在感も希薄となった。しかし子どもは、尊敬し時には怖い親の存在があってこそ健全に育つ。

われわれの社会は、小野田さんがルバング島のジャングルで闘い続けた29年間に、大切な何かを失った気がする。
(ささかわ・ようへい=日本財団会長)



*2月20日、自衛隊の週刊新聞「朝雲」に掲載されたエッセーです。
「朝雲」―1本10円の善意― [2014年02月21日(Fri)]
「朝雲」
―1本10円の善意―


 手前みそで恐縮だが、日本財団では2008年から「あなたの善意で社会は変わる」を標語に寄付型自動販売機・夢の貯金箱プロジェクトを進めている。

 飲料水1本ごとに10円を設置者から寄付してもらい、社会貢献に役立てる仕組みで、現在、設置台数は全国で約2000台。ミャンマーでの学校建設やホームホスピスの整備、犯罪被害者支援基金の設立などに活用されている。

 そして今回、少年院出院者や刑務所出所者が社会復帰に必要な技術や資格を取得する奨学金制度の立ち上げに向け、この関連では第1号となる寄付型自販機を福岡空港ビルに設置していただいた。

自販機設置式で挨拶.jpg
自販機設置式で挨拶

自販機の前で.jpg
ヒューマンハーバーの副島社長、筆者、福岡空港ビルディングの麻生社長

 
犯罪白書によると、我が国の一般刑法犯は過去8年間、減少傾向にあるが、再犯者が占める割合は逆に増加、昨年は過去最高の45.3%に上り、法務省も12年7月、今後10年間に再犯を20%削減する目標を打ち出している。

 3回以上、刑務所に入所した人の再犯率は約60%、初犯の2.5倍に上る、とのデータもあり、再犯防止は犯罪を減らす上で喫緊の課題である。

 企業が親代わりとなって就労の場を提供する職親(しょくしん)プロジェクトなど意欲的な取り組みが始まっており、奨学金事業では福岡市で元受刑者らの社会復帰に取り組むヒューマン・ハーバー社と協力、当面、50人を対象に上限30万円の奨学金をスタートさせたいと考えている。

 必要な寄付型自販機は約300台。設置者から寄付される10円はもともと消費者の支払いの一部。

 内閣府が昨秋、発表した再犯防止に関する特別世論調査によると、刑務所入所者や非行で保護観察下にある人を企業が積極的に採用すべきだ、とする意見が60%に上った。

 10円が持つ意味が購入者に意識されれば再犯防止の裾野も広がり、寄付型自販機を設置する企業のCSR(企業の社会的責任)も上がる。

 現在、国内に設置されている自販機は約230万台。1本10円の寄付を年間に直すと、1台当たり平均5万円となる。10%が寄付型自販機に変われば年間100億円の“世直し資金”が得られる計算となる。

 同様の試みは、今後さらに広がろう。「1本10円の善意」が日本の新しい寄付文化となる日を夢見ている。
(ささかわ・ようへい=日本財団会長)


*1月23日、自衛隊の週刊新聞「朝雲」に掲載されたエッセーです。


「朝雲」―ペリリュー島の碑― [2014年01月29日(Wed)]
「朝雲」
―ペリリュー島の碑―


 「諸国から訪れる旅人たちよ、この島を守るため日本軍がいかに勇敢な愛国心をもって戦い、そして玉砕したかを伝えられよ」

 第2次世界大戦の激戦地、パラオ共和国・ペリリュー島にこんな言葉を刻んだ碑がある。末尾に大戦中、米太平洋艦隊司令長官だったチェスター・ニミッツの作と記されているが、否定説もあり、真偽は分からない。

palau1[1].gif

英語.jpg


 たまたま日本財団が支援するミクロネシア地域の海上保安能力強化プロジェクト調印のため今月初め来日されたトミー・レメンゲサウ大統領も「よく調べてみたい」とのことだった。

 ニミッツは東郷平八郎元帥の心酔者だったことで知られる。連合艦隊が日本海海戦でロシア・バルチック艦隊に大勝した1905年、米アジア艦隊の士官候補生として戦勝祝賀会に招待され、東郷元帥と直接言葉を交わして感銘、34年の元帥の葬儀にはアジア艦隊旗艦の艦長として参列した。

 第2次大戦後も日本海海戦で連合艦隊の旗艦だった「三笠」が、横須賀港で銅や真ちゅうを戦争資材として剥がされ無残な姿をさらしているのに心を痛め、58年、文藝春秋に「『三笠』と私」を寄稿。

 「日本国民と政府が、全世界の海軍軍人に称賛され、尊敬されている提督の思い出を永らえるために、適切な方法を講ずることを希望する」と訴え、自ら印税を寄付する一方、廃艦となった米楊陸艦の廃材3000万円を保存費用に贈った。

 ペリリュー島の攻防が行われたのは大戦末期の44年9月。航空母艦を含め総兵力4万2千人の米軍と1万2千人の日本軍守備隊が2ヵ月半にわたり激闘。日本軍は軍機、機密書類を処分したことを意味する「サクラ・サクラ」の電文を最後に玉砕し、米軍にも1万人の死者が出たとされている。

 日本軍は米軍の総攻撃を前に、地元民全員を夜陰に紛れ船で本島に移した。結果、地元民に犠牲者はなく、今もこの国の親日の支えとなっていると聞く。

 ニミッツはこの戦闘の最高司令官、戦艦ミズーリ号上で行われた大日本帝国の降伏文書調印式で米国代表も務めた。しかし連合軍最高司令官のマッカーサーに比べ日本での知名度は低い。戦術など意見の違いも多かったとされるが、軍人としての生き様を見る限り、碑文の筆者がニミッツであっても特段の違和感はない。

 情報をお持ちの方に是非、この間の事情をご教授賜りたく思う。
 (ささかわ・ようへい=日本財団会長)


*12月19日、自衛隊の週刊新聞「朝雲」に掲載されたエッセーです。

「ハンセン病制圧活動記」その8 [2014年01月24日(Fri)]
「ハンセン病制圧活動記」その8
―インド東部・西ベンガル州のハンセン病―


星塚敬愛園機関誌『姶良野』
2014年新年号


〜連邦政府、WHO、会議員、回復者、NGOとの共同戦線〜


WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平


 9月中旬、12日間でベルギーとエチオピア、インド、タイを巡る過密なスケジュールの旅に出た。ベルギーでは国際ハンセン病学会に参加し、エチオピアでは「ハンセン病と人権国際シンポジウム」に参加、ハンセン病のフィールドを訪問したが、ここではインド西ベンガル州での2日間の活動を紹介したい。

 西ベンガル州は、インドの東部に位置し、北はブータン、西は僅かにネパール、東はバングラデシュと国境を接している。北海道よりもやや広い8万9千平方キロメートルの面積に、なんと北海道の約16倍に当たる9千万人の人が暮らす。主要な公用語は北インドでよく話されるヒンディー語ではなく、ベンガリ語。北東部の州とインド亜大陸をつなぐ位置にあるため、昔から人の行き来の多い土地である。

 東アフリカのエチオピアから中東のドバイ経由で、西ベンガル州の州都コルカタの国際空港に到着したのは9月22日、日曜日の夕方。インドのハンセン病回復者組織ナショナル・フォーラム代表のナルサッパ氏、理事であるヴェヌゴパール氏とランバライ氏がそれぞれ別の州から駆けつけ出迎えてくれた。

 翌23日は、コルカタから北西に230キロ離れたバルダワン県アサンソール市にあるコロニー2ケ所を1日かけて訪問。出発予定の朝8時になると、宿泊ホテルに続々と人が集まる。西ベンガル州から、州政府保健省ハンセン病担当官のプラディプ・クマール・マンダル氏。デリーからは、インド連邦政府保健省ハンセン病担当局長補佐のA・K・プリ氏並びにWHOインド事務所ハンセン病担当官のスラブ・ジェイン博士、ハンセン病回復者の自立支援を行うNGOササカワ・インド・ハンセン病財団事務局長のヴィニータ・シャンカー氏。インド中央政府保健省から担当官が私の地方訪問に同行するのは、過去10年間では初めてのことであった。そして最後にロビーに現れたのは、西ベンガル州選出の国会議員であり、インド・ハンセン病国会議員連盟発起人であるディネシュ・トリベディ氏。彼は過去に連邦政府鉄道大臣、保健副大臣を歴任されており、議員の中でも影響力が強く、2012年10月に発足したハンセン病国会議員連盟を牽引されている。

 ホテルから6台の車両を連ね、さて出発と思ったところ、早速1台の車の後輪がパンク。こういう予期せぬことが常に起こるのがインドである。きれいに舗装された片道二車線の国道を4時間かけて走り、アサンソール市に辿り着いた。国道を外れて細い道を入っていくと、第一の目的地であるラフマット・ナガル・ハンセン病コロニーに到着。そこでは西ベンガル州議会議員であり州政府の農業大臣でもいらっしゃるマライ・ガタック氏と、アサンソール市長のタパス・バナジー氏が出迎えてくださった。土壁の上にレンガの屋根が載せられた家々が狭い敷地内に建ち並び、今にも左右から崩れてきそうな軒の間を頭をかがめて通った。65世帯、約180人の人々が暮らすこのコロニーでは、例にもれず多くのハンセン病回復者が物乞いで生計を立てながら暮らしている。第二世代は日雇い労働やゴミ収集等の仕事に就き、わずかな収入を得て、障害の重い親たちを支えているという。

 トリベディ議員はハンセン病コロニーを訪れるのは今回が初めてとのことだが、「ハンセン病患者・回復者の救済に向けて、政府の対応は遅れていると言わざるを得ない。21世紀の社会において人が人を差別することがあってはならない」と、心強いメッセージを住人と集まったメディアに向けて訴えられた。議員連盟が発足した2012年10月当時はハンセン病についての認識が決して深くはなかった彼が、この1年間で勉強を積み、これほどまでハンセン病回復者の苦しみに近づいてくれたのかと思うと、その熱意に私も胸をうたれた。その後、トリベディ議員とガタック農業大臣、バナジー市長と4人でコロニーの中を歩いて回り、住人の方々と言葉を交わした。ある家の前に、薄い布の民族衣装サリーを纏い、細い木の枝を杖代わりについた高齢の女性がいた。目が見えない、自力で歩くこともできない、と訴える彼女は、トリベディ議員にやさしく肩を抱かれ、言葉をつまらせて涙ぐんだ。

 私は諸外国でコロニーを訪問する際、必ずメディアに同行してもらうようお願いしている。それは私がハンセン病回復者の皆さんと握手をし、肩を組んでいる姿を写真や映像で流すことによって、治療すればハンセン病はうつらない、決して迷信でいわれるような恐い病気ではないことを一人でも多くの人々に理解していただきたいからである。このコロニーでは20社近いメディアが我々を取り囲み、国会議員と州議員、市長の影響力の大きさを改めて見せつけられた。

 続いては、車で20分ほど移動したところにあるカンカー・ダンガ・ハンセン病コロニーを訪問。ぱりっとした白い制服を着た子どもたちが、ラッパなどの楽器を演奏しながら出迎えてくれた。子どもたちは皆、近隣の公立学校に通っているという。こちらは先ほどよりも規模が多く、90世帯、254人が生活している。家屋のうち60軒は政府の低所得者層向け政策で提供されたコンクリート建ての立派な家だった。電気、水の設備も整っており、先ほどのコロニーと比較すると住人の表情も明るく感じられた。

DSC_3425.JPG
カンター・ダンガ・ハンセン病コロニーに到着し、住民の歓迎を受ける


 コロニーの住民との交流を終え、気がつくと時計はもう午後4時を指している。アサンソール市で遅めの昼食を終え、再び来た道を戻り、ホテルに帰った時は既に午後10時をまわっていた。

 翌24日は、州都のコルカタで朝から分刻みのスケジュールであった。まずは9時半に、西ベンガル州人権委員会のアソック・クマール・ガングリー会長と面会。本来であれば事務所が開くのは10時過ぎだが、特別に私に会うために朝早くホテルを訪ねてくださった。同席したハンセン病回復者組織ナショナル・フォーラムのナルサッパ会長と、西ベンガル州回復者組織の代表パンダ氏他4人からの陳情に耳を傾けていただくうち、こちらの次の予定の時間が迫る。話の途中に申し訳ないがと断って席を立つと、「どうぞ出発されてください、私はもう少し彼らの話が聞きたい」と、私の退室後も1時間近く残り、物乞いに頼らざるを得ないハンセン病回復者らの生活をどう保障すべきか、ハンセン病による後遺症の治療を受けられる場所をどう確保していくかなど、パンダ氏らと協議されたという。立派なお人柄に感銘を受けた。

 ガングリー会長とパンダ氏をホテルに残し、次はインド屈指の名門大学、ジャダプール大学に向かった。日本財団では姉妹財団である東京財団と連携し、世界44カ国、69の大学において笹川ヤングリーダー奨学基金という奨学金プログラムを運営している。100万米ドルの基金を寄贈し、その運用益を使って、国際理解、社会問題解決に貢献する次世代のリーダーの育成を行っている。ジャダプール大学もこの一つであり、2003年に設置された基金の10周年を祝う式典が催された。10年前の基金贈呈式に出席した際にハンセン病の話をしたことが関係者の記憶に強く残っていたらしく、今回も「ぜひまた学生にハンセン病の話をして欲しい」と依頼があった。聞けば、毎年、奨学生が自主的にコルカタにあるハンセン病病院を訪ねる活動を継続しているとのこと。私が話すよりも、ハンセン病回復者の方の話を聞いていただく方が説得力が勝る。今回はナショナル・フォーラムのナルサッパ会長にも同席してもらい、ハンセン病回復者である彼自身も含めて、差別される側からどう当事者のリーダーとして変化を遂げ、活動を展開してきたかについて語ってもらった。会場に集まった約150人の学生や学校関係者の反応は上々で、社会から差別をなくすためにはこうした直接的な交流が一番有効だと希望を感じられる明るい風景だった。

 大学側が用意してくれた豪華な立食の昼食もそこそこに、車に飛び乗って次は西ベンガル州政府保健省へ。コルカタ市内の渋滞は凄まじい。我々の乗った車は、車線もわからないほどに詰まった道をのろのろと進む。なんとか約束の午後2時少し前に保健省に到着。

 面談の内容に入る前に、西ベンガルのハンセン病状況について少し触れておきたい。インドで世界最多のハンセン病患者数が報告されていることは皆さんよくご存知かと思う。インドで患者数が多い州をみると、北部のウッタル・プラデーシュ州、西部のマハラシュトラ州、東部のビハール州に次いで、西ベンガル州は全国で4番目。昨年度1年間で11,683人の新規患者が報告されている。中でも憂慮すべきなのが、新規患者数の中の障害発生率の高さだ。MDTの治療によって障害を未然に防ぐことが可能になった今、目に見える障害発生率の高さはハンセン病対策の遅れを示すひとつの指標となる。特に州都のあるコルカタ県の障害発生率は、インド全国平均が約3%であるのに対して10%と、目を疑いたくなる数字。そのような状況にも関わらず、ハンセン病対策を担う担当官が不在の県がコルカタ県も含め半数以上ある。人材にも資金にも不自由しないはずのインドにおいて、担当官が不在という事態が起こる背景には、州政府のハンセン病対策に対する優先順位の低下がある。

 さて、話を会議室に戻そう。案内された保健省の一室では、チャンドリマ・バタチャリヤ保健副大臣、西ベンガル州保健省保健サービス局長のB. サタパティ氏、国家地方保健計画局長のサンガミトラ・ゴーシュ氏とお目にかかった。ハンセン病対策においては新規診断と治療を可能にすることが最も重要であること、そのためにはまず対策を担う人員の空席を1日も早く解決していただきたい、と強く念を押した。バタチャリヤ副大臣は「ハンセン病の課題、特に長い間ポストが不在のまま放置されている問題については把握している。真剣に受け止めて善処する」と協力を約束してくださった。2005年以降、ハンセン病対策が一般医療に統合されてからは、国家地方保健計画局長が州政府保健省の予算執行権限を持つ立場である。その長であるゴーシュ局長からも「ハンセン病対策が改善されるよう州政府としても努力する」と前向きな言葉をいただいたことは心強かった。

 続いて会場を移動して行われた関係者連携会議では、前述の州保健政府の高官らに加え、県のハンセン病担当官、西ベンガルで活動するNGOなど総勢約35人が参加。7月にバンコクで行われた国際ハンセン病サミットにおいて、さらなるハンセン病対策加速に向けた蔓延国17カ国の保健大臣による決意表明に触れ、インドにおいても関係者が一丸となってハンセン病対策に取り組んでいく決意を新たにした。

 連携会議が終わると、トリベディ議員を迎えての記者会見。集まった約30人の記者からは、ハンセン病議員連盟発足の経緯について、ハンセン病患者・回復者が暮らす現状について積極的な質問が続き、予定時間を大幅に超える会見となった。

 一日の最後は、西ベンガル州ハンセン病回復者組織のメンバーとの会合。私の訪問に合わせて州各地から21人のメンバーが集まってくれた。西ベンガル州は残念ながら他州と比較し、中心的役割を担うリーダーの高齢化が目立ち、あまり活動的とはいえない。しかし中には若者の姿もあり、今回の訪問がきっかけとなって、コロニーの生活改善、年金の増額、子どもの教育といった課題解決のための働きが加速するよう期待したい。

DSC_3990.JPG
西ベンガル州のハンセン病回復者組織のメンバーたちと


 短い滞在ではあったが、中央政府のハンセン病担当官、WHOインド事務所の担当者とともに、州政府にハンセン病対策への積極的な取り組みを要請することができた。また、国会議員の力添えのもと、メディアを巻き込んで回復者の生活改善と差別撤廃の必要性を訴えることができた。その背景には、私が2006年にインドで立ち上げたササカワ・インド・ハンセン病財団の尽力があったことを記しておかねばならない。そして滞在中はずっと、私の兄弟と呼ぶべきハンセン病回復者の代表と行動を共にした。インドにおけるハンセン病との闘いは、着実により幅広い立場の人々を巻き込みながら展開している。今後も患者数の多い州を中心的に回り、共同戦線をさらに広めていき、ハンセン病問題がインドの社会問題として広く認識されるように活動を強化していきたいと念願しているところである。

「朝雲」―森の民の平等意識― [2013年12月24日(Tue)]
「朝雲」
―森の民の平等意識―


ハンセン病制圧活動で5年前、コンゴ民主共和国を訪れた際、「ピグミー」と呼ばれる人たちに会った。民族辞典などによると、ピグミーは民族名ではなく、成人男子の平均身長が150センチ以下の集団を指し、アフリカからアジアにかけ、いくつかの民族が住む。

訪問したのはコンゴ北部のオリエンタル州ワンバ地区。我々を乗せた9人乗りの小型機は、熱帯雨林の赤土の広場に激しく機体を揺らして着陸した。何とか降り立つと、この地域の支配民族であるバンドゥ人が警備する中、約500人のピグミーの人々が出迎えてくれた。

着陸寸前のセスナからの景色。滑走路?はほとんどない(コンゴ民主共和国).jpg
着陸寸前のセスナからの景色
これが滑走路?


彼らは普段、20〜50人の集団で狩猟をしながら森の中を移動しており、この日は周辺にいたいくつかのグループが集まってくれた。森の中を俊敏に動けるよう小型化したといわれ、多くの男性は130センチ前後。筋肉質で眼光も鋭い。女性は12、13歳で結婚、全体に多産といわれ、臨月に近い大きな腹に娘の赤子を横抱きした母親の姿もあった。

棒きれと葉っぱを組み合わせた小さな住居は家というより移動用のテント。家財もほとんどなく、歌と踊りで一行を歓迎しながら、同行した職員のカメラの映像に何度も驚きの表情を見せた。

訪問目的となったハンセン病。有病率は事前に指摘されたように相当高いようで、集まった中にも皮膚に特有の斑点を残す人も何人もおり、触れると見慣れぬ異人に緊張したのか、耳に聞こえるほどに心臓を高鳴らせた。

11.06-10 コンゴ ピグミー族とハンセン病 .jpg
ピグミー族のハンセン病をチェック


ハンセン病は1980年代に治療薬が開発され、世界のどこでも無料で手に入る。服用すれば半年から1年で回復し、この国も全体ではWHO(世界保健機関)の制圧目標「人口1万人当たり患者1人未満」を既に達成している。

ピグミーの人たちの有病率が特異に高いのは、移動性が災いして薬が行き届いていないということかー。同行したWHOの職員とそんな会話をしていると、現地でピグミーの定住化に取り組むカトリック神父が「彼らは厳しい環境を生き抜くため獲物を平等に分け合って暮らしている。薬も平等に分けているのではないか」と苦笑しながら口を挟んだ。

別れに当たり彼らは弓矢、魔法の杖とともに小鹿に似たアンティロープ、九官鳥を生きたまま贈ってくれた。世界で暮らす民族は5000〜6000にも上るといわれるが、素朴な贈り物に、今も独自の文化の中で生きる森の民の精いっぱいの誠意を感じた。
(ささかわ・ようへい=日本財団会長)

*11月21日、自衛隊の週刊新聞「朝雲」に掲載されたエッセーです。



産経新聞【正論】高齢化見据えて聴覚障害対策を [2013年12月03日(Tue)]
高齢化見据えて聴覚障害対策を


産経新聞【正論】
2013年11月22日


 鳥取県でこの10月、全国初の手話言語条例が成立した。北海道石狩市でも条例制定が検討されており、同様の動きは全国的にも広がる気配だ。条例制定に向け共同研究に取り組んできた立場から、国が早期に手話言語法を制定するよう期待する。

 耳の不自由な人にとって日常生活の中での情報入手や意思疎通は健聴者が考えるより、はるかに難しい。東日本大震災では多くの聴覚障害者が、テレビの音や防災無線が聞こえないまま逃げ遅れ、死亡率が全体平均の2倍に上ったと報告されている。

≪26カ国が電話リレーサービス≫
 代表的な公共インフラである電話も「耳が聞こえないから不要」「ファクスやメールなど代替手段での対応が可能」といった誤解が先行し、聴覚障害者は110番や119番の緊急電話さえ使えない現実がある。

 外見では分からないせいか、障害者対策全体に比べ聴覚障害者支援は手薄い感じが否めない。取りあえずの対策として、聴覚障害者が手話や文字を通訳するオペレーターの支援を受けながら相手先とやり取りする電話リレーサービスを公的に整備するよう提案する。

リレーサービスの様子.jpg
通訳の守秘義務を考慮し、日本財団のデモンストレーション用ブースにて撮影


 既に米国や欧州連合(EU)加盟国など26カ国が導入しており、わが国でも、緊急電話や公衆電話を維持するため電話利用者全員に数円の負担を求めているユニバーサルサービス制度を活用すれば、実現は十分可能。政府には早急な対応を求めたい。

 障害者白書によると、国内の聴覚障害者は約36万人。長い間、教育現場で読唇と発声練習を中心とした口話法が推奨されてきたこともあって、現在、手話を使う聴覚障害者は6万人にとどまるが、手話を言語と認める流れは急速に広がりつつある。加えて高齢化に伴い中途失聴者や難聴者も増加傾向にあり、公的な電話リレーサービスは、間違いなく高齢化社会に不可欠な基幹インフラとなる。

≪通訳料を全電話利用者で負担≫
 2006年に採択された国連障害者権利条約は、障害者が情報通信サービスを利用する機会を確保するための措置を求め、改正障害者基本法も、障害者が他人との意思疎通を円滑に図るための利便の増進をうたっている。

 東日本大震災の後、日本財団で実験的に遠隔情報・コミュニケーション支援センターを立ち上げ、岩手、宮城、福島3県を中心に電話リレーサービスに取り組んだ結果、今年9月までの2年間に302人が登録、利用回数も5700件に上った。

 1人平均20回近い利用で、子供の病気やけがに伴う学校や病院への緊急連絡、カード紛失時の信販会社への緊急問い合わせなど聴覚障害者が電話を必要とする事態は日常的に発生し、電話のニーズは極めて高いことを裏付けている。

 3社ほどの民間業者がこのサービスに取り組んでおり、手話通訳を使ったサービスで見ると、利用者がインターネットやテレビ電話で送ってくる情報を音声に直して病院や学校などに伝え、返事を再び手話に翻訳して利用者に送り返すのに、1回当たり300円超の通訳料が発生する。
 このため実施国の多くは、ユニバーサルサービス制度によって得られた収入で通訳料を賄い利用者の負担を軽減している。実施国のうち14カ国は365日間24時間対応している。聴覚障害者が通訳料を負担する国はない。

 わが国のユニバーサルサービス制度は現在、固定、携帯を問わず1番号当たり月3円を徴収、緊急電話や公衆電話の維持に活用されている。スタート時の06年は7円、その後、8円の時期もあったが、公衆電話の減少などで今はピーク時の半分以下になっている。
 電気通信事業法は制度の趣旨を「あまねく日本全国で提供が確保されるべき」と規定する。「あまねく」は地域を意味し、障害者など特定の集団に適用するのは難しい、というのが役所の見解だ。

≪来るべき社会への備えの一歩≫
 しかし条文の一部、あるいは解釈を変えれば解決できる問題ではないか。ちなみにユニバーサルサービス制度で集まる金は現在約70億円。電気通信事業者協会に集められた後、NTT東とNTT西で運用されている。仮に1円上げれば約20億円の増収となり、公的なリレーサービスを全国的に整備することも可能だ。

 近年、超低床電車やノンステップバス、JRや私鉄駅へのエレベーター、スロープの設置など障害者、高齢者向けのバリアフリー整備が進んでいる。9月にまとまった新障害者基本計画の審議では、内閣府の障害者政策委員会が電話リレーサービスを検討項目の一つに取り上げ、前向きに議論された経緯もある。

 情報・通信へのアクセスなしに日常生活を営むことは誰もできない。難聴者の数について各種の推計があるが、1千万人前後とする見方が最も多く、今後も難聴者や失聴者は増える。来るべき社会への備えの第一歩として、電話リレーサービスが早急に整備されるよう望む。
(ささかわ ようへい)

「朝雲」―究極の名器― [2013年11月28日(Thu)]
「朝雲」
―究極の名器―


 世の中、大抵のものは時代とともに進化するが、そうでない世界もあるらしい。バイオリンの世界もそのひとつであるようだ。17、18世紀にイタリア・クレモナで活躍した名工アントニオ・ストラディバリとグルネリ・デル・ジェスの作品を頂点に、以後、これを上回る作品はできないのだという。

 姉妹財団の日本音楽財団は1994年から将来性豊かな世界の若き演奏家に無償貸与するため楽器収集に乗り出し、チェロを含め2人の作品21挺を保有、「世界の文化遺産」と言われるまでになった。

貸与している演奏家に聞くと「とにかく音が違うのだ」という。その秘密をめぐり、さまざまな研究が続けられているが、有力視されていたニス説について独仏両国の専門家チームが最近、否定する研究結果を公表するなど科学的な論争も続いている。

専門家によると、楽器製作者の間には「2人の作品は究極の名器、改良すべき点が見つからない」、「その後300年間、真のバイオリンといえる作品は作れていない」といった声まであるそうだ。

 ストラディバリは生涯に約1100挺の弦楽器を製作し、うち700挺が現存するといわれるが、市場に出るのは珍しく、演奏家にとっても収集家にとっても垂涎の的。億単位で取引されている。

 東日本大震災の後、音楽財団が震災復興支援に向け、極め付きの一挺であるをロンドンのオークションに出し、過去最高の875万ポンド(約11億5千万円)で落札された。

英国が生んだ偉大な詩人バイロンの孫娘で「遍歴のアラビアーベドウィン揺籃の地を訪ねて」などの著作もあるレディ・アン・ブラントが、1864年から約30年間所有したことから、この名で呼ばれる。

売却代金は全額、日本財団に寄付され「地域伝統芸能復興基金」として、大津波で流失した山車や太鼓、神輿や獅子頭などの補修に充てられている。仮設住宅や故郷を離れて暮らす被災者が、復活した祭会場で再会、笑顔で絆を確かめ合う姿を見ると、名器がもつ不思議な力さえ感じる。

レディ・ブラントはストラディバリ晩年の作で、製作後、既に290年経つ。ほとんど未使用で原形を忠実にとどめ、バイオリン製作の貴重な教材、究極の名器として今後も歴史の中で生き続ける。100年、200年後の名声を想像するだけで楽しい思いがする。
(ささかわ・ようへい=日本財団会長)

Lady Blunt front.jpg
今後も歴史の中で生き続けるであろう名器レディ・ブラント


*10月24日、自衛隊の週刊新聞「朝雲」に掲載されたエッセーです。



「朝雲」―夢の北極海航路― [2013年11月13日(Wed)]
「朝雲」
―夢の北極海航路―


 アジアと欧州を最短距離でつなぎ、15世紀の大航海時代から「夢の航路」とされてきた北極海航路の活用が本格化している。

 9月初旬に東京と札幌で開催された海洋政策研究財団主催の「北極海航路の持続的利用に向けた国際セミナー」では、ロシアやノルウェーの専門家から日本の本格参入を求める声が強く出た。

 我が国は5月、中国、韓国など5カ国とともに、沿岸8カ国でつくる「北極評議会」のオブザーバー国に承認されたが、中国、韓国に比べ周回遅れの状態にある。

 私自身、海洋政策研究財団が1993年から6年間、ノルウェーのフリチョフ・ナンセン研究所、ロシアの中央船舶海洋設計研究所と取り組んだ国際北極海航路計画(INSROP)の運営委員会委員長を務め、その成果が今も北極海航路のバイブルとなっているだけに日本の現状は残念でならない。

写真.JPG
6年間の記録


 INSROPには最終的に14カ国390人の研究者が参加、横浜港からノルウェーのキルキネスまで試験航海も行い、その成果を99年、オスロで発表した。会場には“ライバル”となるスエズ運河の関係者も多数詰め掛け、大層、盛会だったと記憶する。

 これに比べ中国、韓国が持つ砕氷能力付きの調査船もなく、明確な将来像も持たない日本の現状はあまりに寂しい。日本は伝統的に北極海域への関心が薄いとされるが、南極に興味が偏り過ぎてはいないか。

 北極海は砕氷船の先導があれば6−10月の航行が可能で、30年後には氷がゼロになるとの予測もある。今年は60隻前後の利用が見込まれているが、これまで日本関係の船の利用は2隻に過ぎない。

 スエズ運河を利用する南回り航路と並ぶ第2のシーレーン、北極海に眠る石油・天然ガスの確保に向け、安全保障上も、これ以上の静観は許されない。地理的に最も有利な立場を生かし、北海道・苫小牧などにハブ港を整備すれば、国際港として大きな飛躍が期待できるが、実行が遅れれば価値も低下する。

 セミナー終了後の晩餐会では、中央船舶海洋設計研究所のペレシプキン所長が「あなたこそ北極海航路の生みの親だ」と握手を求め、ロシア・原子力船公社のルクシャ社長は「早い時期に是非」と乗船を招待してくれた。

 日本が北極海航路の先頭に立つ日を夢見ながら、「北極海の今」をこの目で確認できる日を楽しみにしている。
(ささかわ・ようへい=日本財団会長)

*9月26日、自衛隊の週刊新聞「朝雲」に掲載されたエッセーです。



| 次へ