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日本財団会長 笹川陽平ブログ

写真:ハンセン病の現場から「アフリカ・ピグミー族」

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「支援金と義援金の違い」―寄付先の選定について― [2016年04月25日(Mon)]
「支援金と義援金の違い」
―寄付先の選定について―


私は、東日本大震災の時に支援金と義援金の相違点を指摘し、日本財団への支援金のご寄付をお願いした。

近頃は支援金、義援金の他に、救援金とか単に募金募集とか、志ある寄付者には判断がつきにくい言葉もある。要は、支援金はいち早く現場で活動するNPO、ボランティアの必要資金のことである。

それ以外の寄付金は、集まった募金を検討委員会にかけ、それぞれの自治体に一括寄付したり奨学金を設置したり、東日本大震災の例のごとく、決定して配布されるまで6ヵ月以上、一年近く時間がかかるものまである。

日本財団は支援金募集である。勿論、募金収入がなくてもFAXやメールでNPOやボランティアグループに100万円を限度に支援することは東日本大震災の時と変わりはない。

どうぞ、ご寄付の意思のある方は、透明性と説明責任を大切にしている日本財団の下記をご利用願います。

なお「支援金と義援金の相違」ついては、こちらをクリックしてください。

熊本地震ボランティア活動資金
銀行振り込み先:三菱東京UFJ銀行
支店名 :きよなみ支店
預金種別:普通
口座番号:2443179
口座名(漢字):公益財団法人日本財団
口座名(カナ):ザイ)ニッポンザイダン

***************

改めて支援金の重要性を訴える


産経新聞【正論】
2016年4月21日


 災害寄付には「義援金」と「支援金」という、ふたつの形がある。連日の激しい揺れで日を追うごとに被害が拡大する熊本地震を前に、どちらにするか迷っている方が多いかもしれない。義援金は大災害での被災者にお悔やみや応援の気持ちを込めて贈られる見舞金を指し、支援金は被災地で活動する民間非営利団体(NPO)や災害ボランティアを支えるために寄付される浄財をいう。 

 ≪ニーズに応じ柔軟、迅速に≫
 どちらも重要である点に変わりはないが、義援金は公平・平等を検討した上、被害の特定を待って配分額を決定するため、過去の例では被災者の手元に届くのに10カ月以上かかる。大災害の発生当初や熊本地震のように現在進行形の災害では、現地のニーズに柔軟、迅速に対応できる支援金がまずは必要ということになろう。

 しかるに日本では、義援金が圧倒的に多く、支援金は全体の1割程度にとどまる。熊本地震の被災地復興活動が本格的に始まるのを前に、改めて支援金の重要性を訴えたい。

 大災害では、被災者の救出や水道、道路など基幹インフラの復旧を国や自衛隊、自治体など「公」が担い、食料や飲料、生理用品など被災者が必要とする物資の募集や仕分け、全半壊した家屋の片付けなどを「民」が担う役割分担が定着しつつある。

 寄付文化が未成熟といわれた日本でも1995年の阪神淡路大震災以後、民間から寄せられる浄財は増加傾向にあり、東日本大震災の寄付額は海外も含め6000億円を超えた。しかし大半は義援金で、支援金は700億円前後にとどまったとされる。

 民が果たす役割の大きさに比べ、バランスを欠くともいえるが、ひとたび大災害が発生すれば、支援金の拡大こそ不可欠で、それが被災地の復興をいち早く軌道に乗せることにもなる。

 熊本地震では14日の前震発生以降も連日、最大震度5強の揺れが続き、10万人近くが現在も自宅に戻れないでいる。食料や水はようやく届き始めたものの高齢者や障害者に対する専門的ケアや、大きな余震を恐れて狭い車中泊を続け、体調を崩すエコノミー症候群に対するケアも手付かずに近い状態にある。

 強い揺れで災害ボランティアセンターの開設が遅れていることもあって、各地から駆け付けたNPOは一部を除き県外で待機状態となっているが、余震が終息すれば活動も本格化する。被災地の必要物資を再点検して全国から募り、各被災地に的確に届けられる態勢や、NPO団体が効率的に活動できる拠点施設の整備も急務となる。

 ≪民の活動へ多くの善意を≫
 強い揺れが何度も重なった被災地では、熊本県だけで倒壊家屋が3000棟を超えたと報じられているが、家屋の片付けや泥土の排出・清掃などは自衛隊や警察、消防の活動対象外。NPOや災害ボランティアに頼るしかない。そうした民の活動を支えるのが支援金であり、熊本地震で民の活動が本格化する今こそ、多くの人の善意を支援金に寄せてほしいと思う。

 日本財団は東日本大震災でNPOなど計695団体に7億円を支援し、被災地の復興に一役買った。熊本地震でも1団体当たり100万円を上限に活動資金を支援する方針だ。

 寄せられた支援金はすべてNPOや災害ボランティアの活動資金に充て、不足した場合は、将来の災害に備えて2013年に独自に立ち上げた災害復興特別基金を充てる考えでいる。

 支援金は「赤い羽根」で知られる中央共同募金会などにも受付窓口が設けられているが、歴史的に言えば義援金に比べ明らかに後発で、いまひとつ国民に浸透していない現実もある。NPO活動を活発化させる一方、支援金の使途に対する説明責任を徹底し、活動実績のない名ばかりのNPOが多数存在する現状を早急に見直し、NPOに対する信頼を高める工夫や、寄付金を希望する団体が、義援金、支援金のどちらを求めるのか、あらかじめ明示するような方法も検討する必要があろう。

 ≪国民へいっそうの浸透を図れ≫
 わが国は災害復興も官と民が共同して進める時代を迎えている。支援金は寄付を通じて国民が復興に参加する形とも言え、民の活動を活発化させる上でも、その存在はもっと重視されていい。近年は専門知識を身に付けたNPOも多く、国や自治体との連携を進めることで、新しい社会を切り開く力も増す。

 ただし、民の活動を活性化するには、資材や備品からメンバーの生活を支える手当まで豊富な資金が欠かせない。義援金に偏った現状は、被災者個人に対する支援と被災地全体の復興を両立させる上でも、やはりバランスを欠く。

 少なくとも義援金と支援金が同等の重みを持って社会に迎えられることが必要と考える。そうした認識が広く国民に共有されたとき、わが国の災害対策にも新たな可能性が出てくる。

(ささかわ ようへい)

産経新聞【正論】震災から5年「民の力」活用して復興に活路を [2016年04月01日(Fri)]
震災から5年「民の力」活用して復興に活路を


産経新聞【正論】
2016年3月10日


 東日本大震災の被災地復興をお手伝いしながら阪神・淡路大震災(1995年)当時に比べ、現場に大きな変化が出てきているのを実感する。

 専門知識を備えたNPO(民間非営利団体)と行政の連携が進み、CSR(企業の社会的責任)から一歩踏み出し、CSV(社会との共有価値創造)の考えに立って復興支援を企業戦略に積極的に取り込む企業が増えてきた点だ。

 ≪行政主導には限界がある≫
 大都市に被害が集中した阪神・淡路大震災と違い、被害が広域に拡散した東日本大震災で、行政が復興を主導するのは限界がある。少子高齢化に伴う過疎や国、自治体の財政も悪化している。

 「民」の協力を抜きにした被災地復興はあり得ない。NPOや企業など民の力と行政をつなぎ、新たな活力を生み出す試みを全国に広げていくことが、日本の社会づくり、地方創生に活路を開くことになる。

 全国有数のサンマの水揚げで知られる宮城県女川町で新しい動きを見てみたい。大震災当時、人口約1万人の女川町は大津波で根こそぎ破壊され、人口比最大の8%、827人が犠牲となった。

 カタールから寄せられた支援金20億円を基に2012年秋、3階建ての多機能水産加工施設が完成、一昨年の水揚げ高は震災前を上回り、復興の兆しも見える。しかし人口は昨年10月時点で約6300人まで減り、被災地最大の37%の減少率を記録している。

 こうした中、町の若手事業者が「復幸まちづくり女川合同会社」(合同会社)を立ち上げ、町や民間団体、被災地で大規模な復興プロジェクトを展開するキリングループが連携して支援した。

 特産の水産加工品のブランド力を高め売れ行きを伸ばし、町の過半を占める水産関係者の収入と観光客増を図ることで人口流出に歯止めをかける、というのが合同会社の狙い。会社の形態を取っているが活動実態はNPOに近い。

 地元の方言をもじった「あがいん(AGAIN)女川」のブランド名も決まり、既に31商品を登録、加工・販売の一本化にも取り組んでいる。とかく一匹オオカミになりがちな漁師たちの連帯感も高まっているという。

 ≪積極的な企業のCSV≫
 キリングループは被災地のホップを使ったビールも製造、国内ではいち早くCSV本部を立ち上げ、被災地の人々を応援しながら企業としての収益・経済的価値を追う積極的な企業戦略を持つ。
 
 大手化粧品会社など数社が、こうした企業戦略を打ち出し、NPOや行政と連携することで復興の一翼を担っている。力を増したNPOの存在は阪神・淡路大震災の「ボランティア元年」に代わって「NPO元年」の到来さえ感じさせる。

 東北の被災地の現状に対し「復興遅れ」を指摘する声もある。しかし被災地はもともと深刻な過疎が進んでいた地域であり、大津波に襲われた土地のかさ上げといった特殊な事情もある。被災地が広い分、課題も多く時間もかかる。

 加えてインフラなど基幹施設の整備だけでなく、より難しい心の問題もある。大津波対策を徹底させた高台移転や巨大な防潮堤建設がいまひとつ不評な背景には、長年、この地で暮らしてきた人々の海に対する熱い思いがある。

 日本財団が取り組んだ地域伝統芸能復興事業でも、同様の印象を強く受けた。事業では大津波で流失した神社の社殿や神輿(みこし)、太鼓などを寄贈、各地の祭りの復活に一役買った。

 「祭りこそ他地域に避難した人々が帰るきっかけになる」「祭りがあるから地元に残る」といった若者の声に、地域との絆や帰属意識がいかに大切か、あらためて思い知らされた。

 ≪地方創生とテーマは同一だ≫
 復興の鍵のひとつは、住民の流出をいかに防ぐかにある。東日本大震災では現在も17万人が避難先で暮らし、総務省がさきに発表した国勢調査の速報値では、岩手、宮城、福島3県の人口は8年前に比べ30万人も減少している。

 自然減だけでなく、地域の将来像が見えないまま故郷に別れを告げる人が相当数に上っていると思う。どのようなコミュニティーを作っていくのか。人口が減少する縮小社会を迎え「解」を見つけるのは簡単ではない。

 「みんなが支え合う社会づくり」を目指す鳥取県と日本財団の共同プロジェクトが今月からスタートする。同県の人口は全国の都道府県で最も少ない58万人、中山間地の過疎も進んでいる。

 復興は地方創生と同一のテーマであり、東日本大震災の被災地の経験を生かし多角的な取り組みに挑戦したいと思う。専門家の知恵も取り込み、NPOや企業、行政のさまざまな組み合わせ、連携を模索する中から、被災地の復興、地方創生の新たなモデルが見えてくるのではないか。そんな思いを強くしている。
(ささかわ ようへい)

産経新聞【正論】養子縁組中心の児童福祉実現を [2016年01月13日(Wed)]
養子縁組中心の児童福祉実現を


産経新聞【正論】
2015年12月24日


愛着や人格形成の上からも、子供が家庭で育つのが望ましいのは言うまでもない。親に育てる能力や意思がない子供には家庭で養育できる環境を社会全体で提供する必要がある。

 ≪世界でも特異な施設偏重の現状≫
 然るに、わが国では、社会的養護を必要とする子供たちの80%以上が施設で暮らす特異な状況があり、国連からも改善勧告を受けてきた。政府も「新たな子ども家庭福祉のあり方」を検討中で、年明けの通常国会に児童福祉法の改正案を提出する方針と聞く。

 改正案では国や自治体の責任を明確にし、養子縁組を国の児童福祉政策の柱と位置付けるとともに「養子縁組推進法(仮称)」を制定し、施設偏重の現状を家庭養護中心に切り替えるよう求める。

 わが国の社会的養護は全国133カ所の乳児院と601カ所の児童養護施設を中心に進められてきた。2013年度でみると、3歳未満の乳幼児約2950人が乳児院、3歳から18歳未満の児童約2万7500人が児童養護施設で暮らす。

 これに対し里親や5、6人の児童を養育するファミリーホームで暮らす子供は約5600人。増加傾向にあるとはいえ家庭環境で育つ子供は15%にとどまり、70%を超す英米両国や韓国に比べ極めて低い数字となっている。

 われわれは過去40年間、社会的養護が必要な子供たちが家庭で暮らせる社会を目指して里親支援などに取り組んできた。その経験や、私自身も参加した日本財団の「社会的養護と特別養子縁組研究会」での検討を参考に、以下、意見を述べたい。

 ≪実の親子関係に近い特別養子≫
 家庭環境といっても、里親はあくまで一時的に家庭を提供する制度であり、児童福祉が目指す「恒久的な家庭」には養子縁組の方が勝る。特に法律的にも親子関係となる特別養子縁組は実の親子関係に近く、生みの親の元に戻る見込みのない子供には最も優れた社会的養護といえ、わが国も1988年、民法に取り入れた。

 しかし2014年度の成立件数は約500件。近年、民間斡旋(あっせん)機関での成立件数が増える傾向にあるが、児童相談所の姿勢が変わらない限り、大幅増は望み難い。社会的養護が必要な子供の措置(委託)先は、全国208カ所の児童相談所の判断に委ねられ、児童相談所の姿勢が社会的養護の実態を左右する関係にあるからだ。

 児童相談所は18歳未満の子供のあらゆる問題を対象とする。伝統的に施設養護を中心に措置先を決定してきた経過もあり、直ちに家庭養護中心に切り替えるのは難しい面があるかもしれない。

 いじめの増加など、子供をめぐる環境は複雑、多様化しており、対応に追われるあまり、時間がかかる里親や養子縁組が敬遠される現実もある。施設には、入所人数をベースに自治体から運営費が支給されており、急激な家庭養護への切り替えが施設運営上、歓迎されない面があるようだ。

 こうした現実を打開するためにも児童福祉法の改正では、国や自治体が子供に安定した家庭環境を提供する義務と責任を負うことを確認、その上で養子縁組の優先を明確にする必要がある。
 養子縁組を加速させるため児童相談所に専門職を配置する必要もあろう。資格化を検討するのも一考である。

 ≪現行予算の枠内でも見直し可能≫
 次いで養子縁組推進法の制定。現在、国内では15を超す民間団体が養子縁組の斡旋活動をしているが、都道府県への届け出制で、実務にもバラつきがある。許可制に切り替え、実母へのカウンセリングや養親の家庭調査、養子縁組後の支援義務などの基準を設けることが民間活動を活性化させ、国民の理解を広げる道と考える。

 03年度から10年間に報告された0歳児の虐待死は計240件。うち111件は0歳0カ月、出産直後に命を奪われていた。生みの親が養子縁組の存在を知っていれば、別の解決法を選択できたケースもあったはずだ。

 厚生労働省によると、13年度の人工妊娠中絶件数は18万6千件。一方で子供に恵まれず不妊治療を続ける夫婦は40万組に上ると推計されている。養子縁組が広く普及すれば、救われる命は間違いなく増える。

 家庭養護は愛着形成が行われる乳幼児期こそ必要である。国連の児童の代替的養護に関するガイドラインは「3歳未満の乳幼児は原則として家庭で養育するべきだ」としているが、就学前の乳幼児のすべてを原則、家庭養護の対象とするよう提案したい。

 社会的養護関連の年間予算は1千億円を超える。乳児1人当たりで見ると、公立乳児院が年間830万円、民間乳児院が630万円。これに対し里親委託は150万円と少なく、結果、予算の大半が施設運営費に充てられている。

 運用方法を見直すことで、現行予算の枠内でも社会的養護を里親、養子縁組中心に大きく転換することは可能なはずだ。関係者の勇断を強く促したい。
(ささかわ ようへい)

「ミャンマーの将来と日本の役割」 [2016年01月08日(Fri)]
「ミャンマーの将来と日本の役割」


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取材を受ける筆者


―――ミャンマーの支援に力を入れている…。
笹川 戦後、多くの日本国民がミャンマーから輸入された米を食べて育ったように、両国には古い結びつきがあり、我々は軍政時代からミャンマー支援に力を入れてきた。このことに批判もあったようだが、我々は人道支援の窓口として関係を持ってきただけだ。以前、アメリカ大使館から経済制裁を実施しているミャンマーを何故支援するのかとクレームを受けたことがあるが、我々はただ苦しんでいるミャンマーの人々を支援したいだけだ。そうした政治や思想にとらわれない活動が花開いて、現在の日本とミャンマーの特別な関係が生まれたと自負している。当時は、彼らとの交流なしには、少数民族地域には立ち入ることすら不可能だった。

―――ミャンマー国民和解担当日本政府代表に就任された経緯は…。
笹川 少数民族とのコネクションを持つのが我々だけだったからだろう。ミャンマーでは政府と少数民族系武装組織らの間で70年間戦闘が続いており、和平実現は長年の悲願で、同国と古い関係がある日本政府もいち早くプレゼンスを示す必要があった。ここ3年間で私は約50回現地に赴き、時には武装組織の勢力圏であるジャングルに入り、双方の和解を仲介してきた。しかし一口で武装組織といっても、主要なものだけで15あり、意見を集約させるのは至難の業だ。私とテインセイン大統領は心臓にペースメーカーを入れており、お互い顔を合わせると機器の調子はどうかと聞きあう仲であり、彼の任期内での全面停戦の実現のために大いに汗をかいてきた結果、ようやく8グループとの停戦協定締結にこぎつけ盛大に開催された停戦署名締結式典では、中国やタイ、インドといった国境を接する国々は当然として、国境を面していない国で日本だけが停戦署名にサインした。米国も、旧宗主国の英国も署名できなかったことを踏まえると、この意味は大きく、日本の少数民族和平に向けた貢献が評価されたといえるだろう。今後も残り7グループとの停戦合意の実現に向け、全精力を向けていきたいと考えている。

―――これまでの具体的な支援事業は…
笹川 少数民族地域での小学校建設(341校)や食料支援など、戦闘が激しいカチン州を除く多くの地域で様々な人道支援活動を実施している。日本財団しか現地に入れない地域もあるため、現地での存在感は大きく、ミャンマー政府にも認知されている。国内避難民への食料支援ではなるべく紛争地に近い地点まで赴き、物資を手渡してきたが、その際、紛争地の住民の中にはミャンマー語の米袋には毒が入っているのではとのうわさが広がり、日本財団の名前がプリントされた米袋以外は受け取らないと言ってきたこともあった。我々は袋であれば何でも良いと思っていたのだが、それ以来全ての米袋を日本財団仕様に切り替えた。それだけ、政府と少数民族間の不信感は強いということだ。今後も少数民族支援は続けていきたいが、政権移行期であるため、新しい政権の意向を見極めてからでないと新しい動きは取りにくい。

―――11月の選挙の様子は…。

笹川 私は日本政府の選挙監視団の団長として実際に様子を確認したが、じつに整然とした混乱のない選挙だった。日本以外にも米国やEUなどからのべ1000人、ミャンマー国内からは9000人、合計1万人もの選挙監視団がモニタリングしたが、目だった問題は報告されなかった。選挙管理委員会が住民にきちんと選挙を説明し、住民側も真面目な態度を堅持したことが成功の背景だろう。私が監視していた場所の一つは、小さな敷地に4つの投票所があったため、混乱するのではないかと懸念していたが、当局者は何度も説明したため問題ないと太鼓判を押し、実際選挙が始まっても市民らはスムーズに決められた通りの投票所で投票していた。私は朝5時ごろに現地に到着したが、5時半には開門を待つ市民らの行列ができていた。彼らは暑い中、一時間以上も静かに待機していた。彼らは50年間一票を投じる機会を待ちわびていたので、誰もが投票の喜びをわかちあっていた。二重投票を予防するため、日本政府が寄付した特殊な塗料が投票後に市民の小指に塗布されたが、市民らの間では投票した証である小指を見せ合うのがしばらくの間流行となっていた。スーチー氏も支持者らに小指を掲げてみせたし、テインセイン大統領も選挙の1週間後に面会した際、私に色がついたままの小指をみせてくれた。

―――これからも民主化は進むのか…。
笹川 進展すると確信している。ここ5年間でテインセイン大統領が推進した民主化のプロセスは世界でも最高の内容だったと感じている。いまや、日本を除けば、ミャンマーはアジアでメディアが大幅に自由化されている国だ。更に大事なのは、ミャンマーには民主化に不可欠な市民社会が根付いていることだ。例えば1988年に市民運動を行った当時大学生の88世代には、国家国民のために政治をよくしようという考えを持つ民主化リーダーが沢山いる。その多くは長年刑務所に収容されていたが、テインセイン大統領は彼らのような政治犯を全て解放した。今後は彼らを中心とした市民社会がミャンマーの民主主義を支えるだろう。一般的に国際社会では、選挙を実施すれば民主主義が定着するという見方もあるようだが、アラブなどの事例をみればわかるように、選挙さえすれば民主化が定着するというのは大きな間違いだ。民主化には選挙をすることが第一義的に重要ではあるが、市民社会が存在、発展しないところには、真の民主国家は育たない。市民社会の成熟度合いでミャンマーは進んでおり、アラブのような混乱は発生しない。ミャンマーは世界でもっとも国民の寄付の多い国の一つであり、社会に対する連帯感は強いと評価できる。

―――経済改革については…。
笹川 日本企業の本社サイドでは悲観論が強いようだが、これは間違いだ。歴史的に軍事政権からの政権移行が平和裏に行われた例は少ない。だから今回のミャンマーも同じ轍を踏む、という考えのようだが、そうした過去の事例とミャンマーでは状況が全く違う。これは、ミャンマーに実際に駐在している方々なら感じ始めているはずだ。スーチー氏は選挙の勝利演説で敗者への思いやりが必要と強調しており、現政権を高く評価し、驕りを戒めている。選挙後にテインセイン大統領やミンアウンフライン最高司令官、さらにスーチー氏を監禁した責任者であるかつての国家元首タンシュエとも面会した。スーチー氏は慎重に、外国からの干渉を撥ね退け、現在政権移譲に全力を尽くしている。現政権側も円滑な政権移行のため、スーチー氏率いる国民民主連盟の面々と話し合いを進めている。こうした政権移行への取組みは評価でき、経済政策が大幅に変わることはないと断言できる。

―――日本の経済団体は更なる改革がなければ進出は困難との意見が目立つ…。
笹川 韓国や中国企業は、橋に一歩でも足がかかれば渡ったのと同じという考えで話を進めているが、日本企業は石橋を叩いても渡らないのが実情だ。ミャンマー側は投資環境が不十分なのを承知のうえで、長年の関係を信頼して日系企業に進出を頼んでいるわけで、その意を汲んで欲しい。ミャンマーも十分に日本を特別扱いしており、例えば昨年与えられた外国銀行の営業許可は、9つのうち、日本の大手銀行が3つを獲得した。シンガポールの2行を除けば、他の国はどこも1カ国1行だったことを踏まえると、これは大変な特別待遇だ。実は当初ミャンマー側が提示していたのは2つだったが、麻生財務大臣を始めとする日本関係者の努力で、3つにしてもらった。進出した金融機関らにはこの苦労に応える活躍をして欲しい。

―――ティラワ特別経済区はミャンマー経済発展の象徴だ…。
笹川 2012年に日本・ミャンマー政府が開発合意した当時は、現地はなにもない荒野だった。大統領は15年の選挙までに形にしたいと話していたが、山手線の内側の45%に相当する広大な地域を短期間で開発できるか、疑問だった。しかし今や第1期工事が完了し、日本だけではなく、香港やシンガポール、タイ企業ら45社が進出している。第2期工事の契約も終わった。いずれ世界に冠たる工業団地が完成するだろう。日本政府が供与するODAで港湾はすでに整備が進み、今後は道路や橋も作られる。開場式では、私と麻生財務大臣、日本ミャンマー協会の渡邉秀央会長と3人で、「あの荒野がこうなったか」と話しあったものだ。地元への貢献という意味でも、第1期工事では直接雇用で3万人、下請け、関連を入れれば30万人分もの雇用が創出された。ティラワは元々ミャンマー政府が日本、韓国、中国の3カ国で開発して欲しいとしていたものを、日本ミャンマー協会の渡邉会長の努力で、日本が独占した経緯もあり、今後の進展を実現する上で日本には大きな責任があるだろう。

―――日本政府の対ミャンマー政策をどうみるか…
笹川 ミャンマーに関して、日本政府の存在感は飛びぬけていると思う。5000億円の借款をゼロにしたことで世銀の融資実施への道を開いただけでなく、新たに1000億円を供与した。更に人材育成や、システムの構築でも貢献しており、中央銀行、証券取引所、郵便も、日本の優秀な専門家派遣で近代化が進んでいる。私は以前から中国とODAの金額で争うべきではないと申し上げてきたが、このようなソフトパワーの活用こそ日本のあるべき支援の形だろう。ここまで日本が他国の民主化のために協力した例はなく、今日の両国間の特別の信頼関係に繋がっている。新政権になれば経済政策の大幅な変更もあるのではとの見方もあるようだが、NLDの目指すところは前政権の改革を更に進展させることにあり、省庁の人間を全て入れ替えたり、これまでの対日関係を見直すことは絶対にないと断言できる。経済政策については、スーチー氏はテインセイン大統領が作った道の上で改革を進めるだろうし、悲観する必要はない。ミャンマーは戦後アジアで最も豊かな国でありながら、現在アジア最貧国にまで転落したが、今後は経済開発が素晴らしい勢いで進み、10年もかからず再び豊かな国になると確信している。

※以上は1月4日「金融ファクシミリ新聞」からの転載です。

「ミャンマー総選挙について」 [2015年11月13日(Fri)]
「ミャンマー総選挙について」


11月10日、ミャンマー選挙監視団長としての任務を終え、帰国しました。
既に9日に外務報道官談話が発表されていますので、下記、転載しました。

ミャンマーにおける総選挙の実施


1 11月9日(現地時間同日),ミャンマーに派遣されている日本政府からの選挙監視団より,ミャンマーで8日に行われた2011年の民政移管後初めての総選挙の投票は,国内外の多数の選挙監視団による活動の下,概ね平穏裡に行われたとの報告を受けました。選挙結果に関しての正式な結果発表はまだ行われていませんが,民主化進展に向けた重要な一歩として総選挙の実施を歓迎するとともに,ミャンマー政府による選挙監視団の受入れを評価します。

2 我が国は,笹川陽平ミャンマー国民和解担当日本政府代表を団長とする選挙監視団の派遣等を通じて選挙の自由かつ公正な実施を支援してきました。我が国は,今次選挙の結果が公平かつ適切な手続に従い確定され,今後,ミャンマーの民主化と諸改革が更に進展することを期待します。

3 我が国は,ミャンマーにおけるこうした改革に向けた取組を引き続き支援し,伝統的友好・協力関係を更に発展させていく考えです。

(参考1)我が国によるミャンマー総選挙支援
(1)笹川陽平ミャンマー国民和解担当日本政府代表を団長とする選挙監視団を派遣したほか,現地大使館も選挙監視に当たり,自由・公正な選挙実施を支援。

(2)非電化地域の投票所にて行われる夜間の開票活動に必要な太陽光ランプ及び二重投票防止のための特殊インクの供与をUNDPと連携して実施。供与額1億1,100万円。

(参考2)笹川陽平政府代表のミャンマーにおける活動
(1)笹川陽平氏は,日本財団会長として,ミャンマー少数民族居住地域における学校の整備,薬の支援,農業支援等に20年以上にわたり尽力。

(2)日本政府も,ミャンマーの改革進展には国民和解が不可欠との観点から,地域開発と平和の定着を促進し,ミャンマーの安定と持続的発展に貢献するため,少数民族地域に対する支援を積極的に実施。

(3)2013年2月,長年にわたりミャンマーの少数民族支援に取り組んできた笹川陽平日本財団会長をミャンマー国民和解担当日本政府代表に任命し,国際協調主義に基づく積極的平和主義の下,同政府代表とともに国内和平に向けたプロセスを当事者間の対話を促す等様々な形で支援。

*****************


又、若干手前味噌(自慢すること)で恥ずかしいのですが、遅まきながら10月30日、日刊ゲンダイの記事を併載します。

―ミャンマーを救え! 日本財団の支援プロジェクト―


日本財団は、ライフワークともいえるハンセン病制活動を40年以上展開してきた。122カ国あった未制圧国は、現在は残すところ1カ国まで制圧することに成功している。

日本財団は1974年から、笹川記念保健協力財団とともにミャンマーに対するハンセン病対策活動を開始。現地保健省を通じ、薬品・器材の供与を始め、医療面での支援を中心に行った。その活動は軍事政権時代も人道支援として続けられ、60年には人口1万人あたり250人とされた患者が、2003年には1人未満となりハンセン病の制圧を成し遂げた。

ミャンマーといえば、軍事政権の下、絶えず少数民族武装勢力と紛争が続き、西側諸国からの経済制裁を受けるなど、国内情勢が不安定な時代が長く続いた。日本にもアウン・サン・スー・チー女史の自宅軟禁など、その悲劇的な状態が伝えられたいた。そうした中でも、日本財団は民間外交として、人道支援の見地からミャンマー政府、武装勢力との対話を持ち、支援を続けた。

近年ミャンマーの民主化の動きが本格化し、10月15日にはミャンマー政府と武装勢力8グループが停戦合意し、60年以上続いた紛争解決に向けた大きな一歩を踏み出した。日本が和平プロセスにおいて証人国になったことは外交史上、意義深い出来事となった。

単なる金銭支援にとどまらず、そこに暮らす人々が自主性を持って暮らせるために、考え抜かれた方法を模索しながら、日本財団のミャンマ−支援は、暗黒の時代から今日まで多岐にわたり行われている。

ミャンマーも遠からず、安心して暮らせる国となることだろう。
「皇室とハンセン病」―両陛下が各国のハンセン病回復者の手を取られた日― [2015年11月09日(Mon)]
「皇室とハンセン病」
―両陛下が各国のハンセン病回復者の手を取られた日―


畏れ多いことではありますが、これは季刊誌「皇室」2015年10月号に掲載された私へのインタビュー記事です。

ご一読賜れば幸甚です。

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40年間以上にわたってハンセン病制圧と差別撤廃のために国内外で尽力し、この1月に各国からの回復者(元患者)たちと一緒に両陛下にお会いした日本財団会長・笹川陽平氏に話をうかがった。

ハンセン病と日本財団
 私が会長を務めている日本財団では社会福祉、教育、文化などの分野で事業を展開しています。とくにハンセン病については昭和30年代半ばより、ハンセン病支援を実施する財団法人藤楓協会を通じて国内のハンセン病療養所の図書館や集会所の建設、車両の購入資金などに協力してきました。また海外においては、私の父である笹川良一(日本財団の前身である「日本船舶振興会」会長)が私財によりインド、フィリピン、台湾、韓国などにおいてハンセン病施設の建設などの支援を実施していました。
 昭和49年には海外のハンセン病対策事業の専門機関として笹川記念保健協力財団を設立。以来、笹川記念保健協力財団と連携し、世界保健機関(WHO)を主要パートナーとすると同時にさまざまな非政府組織(NGO)とも協力し、国際会議の開催、ハンセン病対策従事者の育成、現地技術協力、ハンセン病の研究、教材の開発・供与、広報啓蒙活動、薬品・機材援助等を中心に取り組みを拡大してきました。
 平成7年から11年の5年間はハンセン病の制圧を推し進めるため、有効な治療法として認められた経口薬、MDTをWHOを通して世界中に無料で供給しました。平成12年以降は、日本財団の意志を引き継いだ製薬会社のノバルティス社が無償配布していますが、MDTの無償配布によりハンセン病患者の数は激減しました。WHOは「ハンセン病の罹患率が人口1万人あたり1人未満となれば、公衆衛生上の問題としては制圧されたと見なす」と定義していますが、現在、ハンセン病が制圧されていない国はブラジルのみとなっています。

御所でのご説明とご懇談
 毎年、日本財団では「世界ハンセン病の日」(1月の最終日曜日)に合わせ、ハンセン病と差別の問題について世界に訴える「グローバル・アピール」を発表しています。第1回は平成18年にインドのデリーで行われました。第10回となる本年は1月27日に初めて日本で行われることになったことから、同月13日、世界のハンセン病の現状とグローバル・アピールの意義について両陛下に御所でのご説明の機会に恵まれました。
 両陛下は世界のハンセン病の現状について深いご関心をお持ちで、ハンセン病の薬のことや、ブラジルが今なお制圧に成功しない理由についてなど、専門的かつ多岐にわたるご質問がありました。その結果、当初15分間のところを70分間にわたってお話しさせていただくことになりました。
 そして「グローバル・アピール」翌日の28日には日本、インド、アメリカなど各国の回復者の代表8人に御所でご引見くださいました。

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各国からのハンセン病回復者らと懇談された両陛下


 両陛下は二手に分かれて4人ずつにお会いになり、次に場所を交代されて回復者全員にお声をかけてくださいました。しかも驚いたことに、緊張した面持ちの回復者一人ひとりに対して、本当に肩を寄せ合うようにして両手で回復者の手を取って話されました。両陛下は国内の療養所でも椅子に座った回復者の傍で跪き、手を取り合ってお話しされますが、各国からの回復者にも分け隔てなく、同じように接してくださったのです。私は彼らの故国での辛い立場を思うと同時に、両陛下の尊いお姿に感動して涙を禁じ得ませんでした。というのも彼らは親や家族からも見捨てられ、手を握られたことがないのです。

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両陛下は回復者一人ひとりと手を取って親しく言葉を交わされた


 御所でのご懇談は予定の15分を大幅に超えて40分間におよび、最後に陛下から「今なお病気はもちろんのこと、差別に苦しんでおられる方々の指導者として活躍していただき、みなさんの生活がよりよくなることを願っています」とのお言葉をいただきました。
 その後の記者会見で回復者は「親や家族からも手を握ってもらったことがないのに、両陛下というやんごとなき方に手を握り締めていただいた。その瞬間に苦しみがすっと消えた」「夢を見ているようだ」「心から話を聞いてくださった」などと涙を流しながら御所での経験を振り返っていました。私はハンセン病関連の活動などでこれまでに125か国にのべ460回も行きましたが、過酷な日々を送ってきた人たちに対し、他の国で高貴な方が両陛下のように心からの愛を示されるのを見たことがありません。ところが両陛下はお住まいの御所に回復者を招いてくださったのです。親しくお話しされている両陛下からはまことの優しさが伝わってきて、常に世界の人々の安寧を祈られている無私そのもののお姿だと思いました。

皇后陛下に導かれて
 実は私とハンセン病の出会いは皇后陛下のお導きによるものです。昭和40年、当時、韓国大使を務めていた金山政英氏が父を訪ねてきて、韓国のハンセン病の病院建設に協力をお願いできないかと話されました。
 父は即座にお申し出を受け入れ、私はその病院の完成式典に父とともに出席しました。父は絶望した表情の患者の肩を抱き、膿の出ている足をさすりながら、一人ひとりを励ましておりました。そんな父の姿に感動したのが、今に至る私のハンセン病との闘いの第一歩なのですが、この金山大使との出会いをご説明時に申し上げると、皇后陛下は「それはよかったわ」とおっしゃいました。
 どういうことかと言えば、当時、皇太子妃殿下であった皇后陛下に韓国で活動するシスターから、韓国のハンセン病患者の置かれた痛ましい現状についてお手紙が届いたそうです。皇后陛下はそれを金山大使にご相談され、皇后陛下の意を汲んだ金山大使が父を訪ねてこられた、ということなのです。
 実は金山大使が父を訪ねてきた時は私も同席しており、大使が「(韓国の現状について)妃殿下も心配されておりますので」と付言されたことをはっきり記憶しておりましたが、ご説明時には皇后陛下のお名前はお伏せし、金山大使の名前を出すにとどめました。そうしたところ皇后陛下のほうから当時のいきさつをお話しくださったのです。私は皇后陛下のお話をお聞きするうち、自分の長いハンセン病との闘いが皇后陛下のお言葉に端を発していることに気づき、大変な感動を覚えました。
 日本の皇室は光明皇后の頃よりハンセン病に心を砕いてこられました。両陛下にお目にかかり、また両陛下の回復者へのお優しいまなざしを間近に拝見し、そういう皇室を戴く日本から世界に向けて差別撤廃を訴えていくことの意義を再認識しました。と同時に、かつて患者に対して過酷な差別があったという「負の歴史」を、風化させないための活動を広めていくことの重要性を改めて強く感じております。(談)


産経新聞【正論】手話言語法、制定の機は熟した [2015年10月21日(Wed)]
手話言語法、制定の機は熟した


産経新聞【正論】
2015年10月2日


 手話を言語のひとつと認める「手話言語法(仮称)」の制定を求める動きが全国に広がっている。手話は2006年に国連総会で採択された障害者権利条約で正式に「言語」と規定され、わが国も11年に改正された障害者基本法に「言語(手話を含む)」と記すことで初めて法的に認知した。

 ≪99.7%が意見書採択≫
 手話言語法が成立し手話が普及すれば、ろう者だけでなく、広く聴覚障害者全般の社会参加を促進し社会全体の活力も高まる。安倍晋三首相が新たに打ち出した「1億総活躍社会」にもつながる。

 手話は指や手、体の動きや顔の表情を使って音声言語と同様、対話・意思疎通を図り、情報を取得する。ろう者の間で受け継がれ発展してきたが、1880年、イタリア・ミラノで開催された国際会議は、口の動きで言葉を読み取る読唇と発声訓練により健聴者(聴者)のように話す口話法が手話より優れている、と決議した。

 ミラノ決議は130年後の2010年、カナダ・バンクーバーで開かれた国際会議でようやく否定されるが、この間、わが国でも口話法が普及し、手話はろう学校での使用も事実上禁止された。ろう者に対する偏見を助長する結果になったともいわれる。

 しかし、前世紀末から急速に見直しが進み、国内でも13年春には鳥取県が全日本ろうあ連盟、日本財団と手話言語条例研究会を立ち上げ、同年秋には全国の自治体で初めて手話言語条例を成立させた。

 以後、条例制定の動きは急速に広まり、この夏までに神奈川県や神戸市など全国20県市町で制定され、20近い自治体が制定を検討中だ。言語法制定を求める意見書も全自治体の99.7%に当たる1782自治体で採択された。

 昨年春時点では条例制定が3自治体、意見書採択41自治体となっており、わずか1年半の広がりは驚嘆に値する。昨年春と今年8月には手話言語法の制定を求める全国集会も開かれ、出席した与野党の議員からは「政府提案が難しいのなら与野党の議員で超党派の議員立法を目指したい」といった声も出た。

 ≪6カ国が憲法で言語と規定≫
 手話は聴者の間にも確実に広がっており、9月22日、鳥取県米子市で開催された「手話パフォーマンス甲子園」には全国の高校生47チームが歌や演劇で手話の表現力を競い、開会式では秋篠宮家の次女佳子さまが手話を使ってあいさつされた。法制定の機は十分、熟していると判断する。

 障害者基本法に「言語(手話を含む)」と明記されている以上、手話言語法は不要、あるいは障害者の情報アクセスの強化に向け検討中の「情報・コミュニケーション法(仮称)」と重複する、といった意見もあるようだが、ろう者の社会参加に向けた具体策を整備する上でも独立した手話言語法を定めるのが得策と考える。

 このほか手話には、日本語とは別の言語でろう者が日常的に使う「日本手話」と、日本語の語順に手話単語を合わせる形の「日本語対応手話」があり、どちらを日本の手話とするか、といった問題もあるようだが、極めて学術的な問題であり法制定後の専門家の検討に委ねてもいいのではないか。

 手話言語法の制定は国際的な潮流にもなっており、既にオーストリア、ハンガリーなど6カ国が憲法で手話を言語と規定、ほかにスウェーデン、ベルギーなど11カ国が法律で手話を公的言語と認めている。

 ≪聴覚障害者は確実に増える≫
 昨年春の全国集会には「欧州ろう連盟」顧問で自身も聴覚障害者のベルギー国会議員ヘルガ・スティーブンスさんも出席、「手話は音が聞こえない人が社会に参加するためのドアの鍵」と手話言語法の必要性を強調した。多言語社会である欧州各国では、言語政策が長い政策課題となっており、手話に関しても、単一言語の日本に比べ受け入れやすい土壌があるのかもしれない。

 制定されれば音声言語と対等の言語として、教育現場や企業での手話学習や教員・手話通訳者の養成、手話辞書やテキストの整備が進められ、ろう者だけでなく、耳の不自由な聴覚障害者全体の情報獲得やコミュニケーションにも道を開く。

 われわれは東日本大震災後、被災地の岩手、宮城、福島の聴覚障害者を対象に、聴者との会話をオペレーターが手話や文字を使って通訳する電話リレーサービスに取り組んできた。東日本大震災での障害者の犠牲は健常者の2倍の率に達した。こうしたサービスを公的に強化・発展させる上でも手話は大きな力となる。

 現在、障害者手帳を持つ聴覚障害者は、ろう者を含め34万人。高齢化に伴う難聴や中途失聴など「音が聞こえない人」は確実に増え既に数百万人に上るとの推計もある。1億総活躍社会の狙いは誰もが参加し活躍できる社会の実現と理解する。その一翼を担う手話言語法の早期の制定を政府、国会に強く求める。
(ささかわ ようへい)

産経新聞【正論】臆せず国際社会のリーダーたれ [2015年09月07日(Mon)]
臆せず国際社会のリーダーたれ


産経新聞【正論】
2015年8月26日


 安倍晋三首相は先の戦後70年談話で、わが国の戦後の「平和国家としての歩み」に触れ、この不動の方針を今後も貫く決意を語った。わが国の外交は歴史認識、慰安婦問題での中国、韓国の攻撃に守勢が目立つが、世界に目を転ずれば、平和国家への歩みや国際貢献は高く評価されている。日本は自信を持って自らの主張を世界に発信する時期に来ている。

 ≪大きな成果、ハンセン決議≫
 日本政府が提案したハンセン病差別撤廃決議が2010年、国連本会議で、今年7月には差別撤廃の徹底に向けたフォローアップ決議が同人権理事会で相次いで採択された。いずれも全会一致。日本政府の呼び掛けに応じた共同提案国も前者は59カ国、後者は93カ国に上った。

 筆者も世界保健機関(WHO)のハンセン病制圧大使として協力させてもらったが、一連の流れを一貫して主導した日本政府の努力は、日本外交の大きな成果として評価されていい。

 ハンセン病は1980年代の有効な治療薬の開発と無料配布で「治る病気」となった。しかし回復後もなお「元患者」として深刻な偏見と差別に直面している。偏見・差別は、あらゆる争いに共通する「負の遺産」であり、撤廃に反対する国はない。戦後、一貫して平和を求めてきた日本にふさわしい提案でもあった。

 筆者が国民和解担当日本政府代表を務めるミャンマーでも、少数民族地域での人道支援を柱にした日本政府の取り組みは、ミャンマー政府、少数民族双方から極めて高く評価されている。

 60年以上にわたって内戦が続いてきただけに、国民和解は一筋縄ではいかないが、人道支援を通じ“平和の果実”を実感してもらうことで停戦交渉を促進する日本外交はミャンマーでも存在感を増しており、やがて和解の実現につながると期待している。

 日本が国際社会に発信すべき平和のメッセージは、いくらでもある。「核兵器」もそのひとつ。今後もさまざまな議論が戦わされることになるが、唯一の戦争被爆国である日本の発言は大きな影響力、重みを持つ。安倍首相も70年談話で「不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たす」としており、世界も注目している。

 ≪戦後の歩みにもっと自信を≫
 「母なる海」の保全も然(しか)り。地球人口は既に70億人、半世紀後には100億人(国連推計)に膨れ上がり、海はその負荷に耐え切れないところまで来ている。温暖化に伴う海面温度の上昇、生活排水による水質悪化、漁業資源の枯渇など危機は極限まで来ており、筆者も7月の本欄で世界が結束して海の総合管理を徹底するよう訴えた。

 南シナ海などの現状を見ると、各国の利害・主張を直ちに調整するのは難しいが、海は人類の公共財。われわれには100年後の世界に、健全な海を引き継ぐ責任がある。この点を軸に国際協力を求めれば、間違いなく各国の賛同も得られるはずだ。

 安倍首相は戦後70年談話で「歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任がある」と述べた。

 英国BBCが毎年行う「国別好感度調査」で日本は14年、対象17カ国・地域中5位だった。中国、韓国で「(日本は)悪影響を与えている」との数字が高まったのが、12年の1位からダウンした一因とみられるが、両国を除けば「世界に貢献する国」としての日本の評価は依然高く、われわれは一貫して平和路線を歩んできたこの国の戦後に、もっと自信を持つべきである。

 ≪日本の知見・技術は国際公共財≫
 冷戦後の世界は一層複雑化し、大国だけで重要な国際問題を解決する時代は終焉(しゅうえん)しつつある。同時に地球全体で進む温暖化や気候変動、巨大化する自然災害に一国で立ち向かうのはもはや、不可能である。

 日本には米国や中国、ロシアのような広大な国土や人口、軍事力はない。しかし「課題先進国」といわれる通り、今後、世界各国が避けて通れない災害や環境破壊、少子高齢化など、難問が山積している。

 既に蓄積され、さらに今後新たに開発される多くの知見や技術は、やがて人類の公共財として、国際社会に共有される。そうしたソフトパワーこそ、日本の国際貢献を充実させ、国際社会での日本のプレゼンスを高める道につながる。

 戦後70年談話の閣議決定に先立ちまとめられた「21世紀構想懇談会」の報告書も、今後、日本が取るべき施策として、環境問題や人間の安全保障、貧困の削減、国際社会における女性の地位向上など多くを提言している。

 わが国に可能な国際貢献は、国民が考えているよりはるかに多い。日本の考えを臆せず発信し行動することが、安倍首相のいう積極的平和主義につながる。
(ささかわ ようへい)

「海の日に想う」その4―世界が結束して海の総合管理を―産経新聞【正論】― [2015年08月03日(Mon)]
「海の日に想う」その4
―世界が結束して海の総合管理を―


産経新聞【正論】
2015年7月14日


 野放図に流れ込むゴミや汚水、乱獲による水産資源の枯渇、気候変動・温暖化に伴う海面温度の上昇や海水の酸性化…。海の環境が一段と悪化している。

 人類は海を自由に利用することで発展してきた。しかし、このまま環境悪化が進めば、人類の危機につながる。国際社会は今こそ結束して、次世代に持続可能な海洋を引き継ぐ態勢を整えなければならない。

 ≪漁獲量が40〜60%も減少≫
 今年5月、東京都内で開催された「島と海のネット」の国際会議。太平洋の島嶼(とうしょ)国キリバスのアノテ・トン大統領は「海洋環境の悪化・海面上昇に伴って、長く住み慣れた祖国から『名誉ある撤退』を余儀なくされる日が来るかもしれない」と述べた。

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「島と海のネット」会議前にキリバスのアノテ・トン大統領と面談


 地球環境、とりわけ海の変化は地域差が大きい。この国が位置する赤道周辺の熱帯海域は最も変化が激しく住民の不安も強い。

 地質がもろいサンゴ礁からなる島の多くが水没の危機に直面し、温暖化の影響といわれる巨大台風も発生している。2013年11月、フィリピンを襲った台風ヨランダは90メートルに達する最大瞬間風速と4メートルもの高潮で、レイテ島などの住民6千人の命を奪った。

 水産資源も然り。乱獲などで漁業資源の70%が危機的状況にあり、世界全体の漁獲量も5〜10%減少している。熱帯海域の減少幅はこれに比べ、さらに高い。50年の商業魚種の漁獲量は現在に比べ40〜60%も減るというのだ。

 日本財団が4年前から世界の7つの大学・研究機関とともに取り組む「海の未来を地球規模で予測する」プログラムによると、広大なこの海域は規制も弱く、もともと乱獲による影響が大きかった。

 加えて温暖化による海面温度の上昇、さらに海が二酸化炭素など温室効果ガスを取り込み海水の酸性化、酸素濃度の減少が進むことで、貝類が殻を作る能力や植物プランクトンの発生率が低下。一方で魚は、それぞれに適した海水温とプランクトンを求めて冷たい水域に徐々に移動し、熱帯海域の魚が急速に減る結果を招いているという。

 ≪共有されていない危機感≫
 30年以上、海の問題に携わってきて、陸の問題に敏感な国際社会の海に対する反応があまりに鈍いのに、しばしば驚く。17世紀のオランダの国際法学者グロティウスが唱えた「海洋の自由な利用」の時代は「疾(と)うの昔」に終わっているのに、海に対する危機感が世界で共有されているとはとても見えない。

 当時、10億人に満たなかった世界の人口は今や70億人に膨れ上がり、半世紀後には100億人(国連推計)に達し、水産資源に対する世界の需要は今後も確実に伸びる。既にマグロなど人気の高い大型魚の不足も目立つ。

 国際連合食糧農業機関(FAO)によると、世界の漁獲量は大戦後、5倍近く伸び、20世紀末で約9千万トン。その後は大型船の導入など近代化が図られたものの漁獲量は横ばい状態にある。

 替わって養殖魚が同程度にまで増えているが、食としての安全性や、マグロを例にとると、出荷できるまでに、その体重の10倍、20倍ものサバやイワシが飼料として必要となり、貧困層の食の確保を一層難しくする、といった指摘もある。養殖だけで水産資源の落ち込みをカバーするのは難しいと思われる。

 ≪「海洋国家」日本が先頭に≫
 日本ももちろん大きな影響を受ける。わが国の水産資源の消費量は12年現在817万トン、世界の10%弱を占めるが、自給率は58%にとどまる。10年ほど前まで世界一だった一人当たりの消費量も減少傾向にあるとはいえ、依然、世界のトップクラスにある。

 海の変化に伴って、恐らく近海の漁場も大きく変わる。前述の海の未来予測プログラムでは、30年後の日本のすし事情を、ヒラメやマグロ、赤貝などは品切れ、逆にサバやスケトウダラは、おすすめ品になると予測している。

 さまざまな要素が複雑に絡み合い、解決策を見いだすのは確かに難しい。しかし海がこれ以上の負荷に耐えられないところまで来ているのも間違いない。

 世界の国々が地球環境全体を視野に、水産資源の保存・確保、温暖化防止に一致して取り組まない限り、海の未来は見えてこない。近年、夏場の海氷面積が大幅に減少し、新たな航路が現実化しつつある北極海も決してその例外ではない。

 わが国は漁業資源の開発や温暖化防止など海の再生に向けた豊富な知見と技術を持つ。何よりも海に守られ発展してきた国として、国際社会で積極的な役割を果たす責任がある。

 海洋政策を一元的・総合的に実施する目的で制定された海洋基本法も、十分に活用されているとは言い難い。今月20日には制定から20周年目の「海の日」を迎える。海洋基本法で総合海洋政策本部の本部長の立場にある安倍晋三首相には、ぜひ、海を守る各国の先頭に立っていただきたく思う。
(ささかわ ようへい)
産経新聞【正論】パラリンピック通じ共生社会を [2015年06月19日(Fri)]
パラリンピック通じ共生社会を


産経新聞【正論】
2015年6月3日


 2020年の東京五輪・パラリンピックまで5年余、日本は2度にわたって五輪とパラリンピックを同時に開催する初の国となる。前回1964年のパラリンピックは障害者スポーツを発展させる大きな契機となった。

 半世紀を経た現在、高齢化社会が進み、誰もが参加できるインクルーシブな社会の構築が大きなテーマとなっている。スポーツが社会に与える力は大きい。パラリンピックを成功させることが新しい社会を築く手掛かりとなる。

 ≪サポートセンターの立ち上げ≫
 しかし、選手の育成を含め競技団体の基盤はあまりに弱い。われわれは、長年取り組んできた「高齢者や障害者がともに住む街づくり」を教訓に「日本財団パラリンピックサポートセンター」を立ち上げた。オールジャパン態勢でパラリンピックの成功を目指したいと考える。

 初のパラリンピックは60年のローマ五輪で戦争負傷者を中心にした「ストーク・マンデビル国際大会」として開催された。パラリンピックの名称は日本人の発案。64年の東京大会で初めて使われ、88年のソウル大会から正式名称となった。2000年のシドニー大会から五輪開催都市での開催も義務化されている。

 64年大会には22カ国から500人を超す選手が参加し、現天皇陛下が皇太子として名誉総裁を務められた。渡辺允著「天皇家の執事−侍従長の10年半」(文芸春秋)には、大会終了後、東宮御所で開かれた慰労会で「日本の選手が病院や施設にいる人が多かったのに反して、外国の選手は大部分が社会人であることを知り、外国のリハビリテーションが行きとどいていると思いました」との感想を述べられた、と記されている。

 大会に先立つ61年、スポーツ振興法が制定されたが、五輪の施設整備が主眼で、所管の厚生省(現厚生労働省)にも障害者スポーツに対するビジョンはなく、日本選手のほぼ全員が療養先の病院や障害者施設からの参加だった。

 ≪定着していない障害者スポーツ≫
 その後、全国障害者スポーツ大会やジャパンパラリンピック競技大会などが整備され、2011年に成立したスポーツ基本法はスポーツを通じた国づくりを明記、14年には障害者スポーツの所管が厚労省から文部科学省に移管された。今秋には文科省の外局としてスポーツ庁も発足し、長く弊害が指摘された縦割り行政は改善されつつある。

 しかし障害者スポーツと一般スポーツの間には、組織面だけでなく、国民の目線にも垣根がある。テニス界の雄、ロジャー・フェデラーはかつて日本のメディアから「なぜ、わが国にあなたのような世界的選手が出てこないのか」と問われ、けげんな表情で「クニエダがいるじゃないか」と答えたという。

 クニエダ(国枝慎吾)は車いすテニスで初めて年間グランドスラムを達成した国際的なスーパースター。フェデラーが目標とするアスリートでもあった。こんな逸話にも障害者スポーツがスポーツとして定着し切っていないわが国の実情がある。

 サポートセンターには東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会、JOC(日本オリンピック委員会)、JPC(日本パラリンピック委員会)は言うまでもなく、政財界やメディア、教育界、自治体関係者にも参加を求め、国を挙げた態勢でパラリンピックを盛り上げることになる。

 ≪注目される日本の取り組み≫
 受け皿となる競技団体の現状を見ると、東京パラリンピックで予定される22競技への出場を目指す国内の協会、連盟26団体のうち7団体は法人格を持たず、選手強化費が出ても経理処理など実務に対応できない状況がある。

 これでは選手強化は難しく、センターに各団体の事務所を設け、人的、資金的にサポートするほか、障害者対応が可能なボランティアリーダーの育成、パラアスリートの雇用促進、さらには途上国の障害者スポーツの育成などにも取り組むことになる。

 前回ロンドン大会で英国は北京大会を大きく上回る五輪29個、パラリンピック34個の金メダルを獲得、熱気でパラリンピックの入場券280万枚も完売し、大会は大成功に終わった。

 ロンドンを見るまでもなく、大会の成功は五輪だけでなくパラリンピックの成否で大きく左右される。メダル至上主義に走るわけではないが、成績が上がれば障害者スポーツに対する理解も広がり、競技の裾野も広がる。JPCが目標とする金メダル22個が実現するよう支援を強化したい。

 世界は今、超高齢化社会のトップを走る日本が、今後どのような社会をつくるか注目している。目指すべき社会は、年齢や障害の有無にかかわらず、体力・気力を備えた人が、その能力に応じて参加できる共生型社会である。

 東京パラリンピックはその試金石であり、来るべき共生社会に向けた大きな一歩にしたいと考えている。
(ささかわ ようへい)




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