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笹川陽平(ささかわようへい)の国内外における活動の記録。このブログを通じて、私の毎日を覗いてみてください。

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ブルキナファソでのハンセン病制圧活動 [2012年05月19日(Sat)]
「ハンセン病制圧活動」


長島愛生園は1930年、岡山県に設立。国立療養所13ヶ所の中の第1号の療養所である。
現在入所者は297名、平均年齢82.44歳の方々が静かに生活されている。

以下は機関誌『愛生』に投稿した原稿を若干修正したものです。



ブルキナファソでのハンセン病制圧活動


WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平


2011年11月4日から6日まで、アフリカ西部のブルキナファソを訪問した。

ブルキナファソはマリ、ベナン、トーゴ、ガーナ、コートジボワールと国境を接する内陸国です。国土面積は27万平方キロメートルで日本の4分の3ほど。人口は約1600万人。粟やとうもろこし、タロイモ、綿花などの農業や牧畜が主要産業で、一人当たりの国民総所得は480ドル(2008年)ほどだが、西アフリカ諸国の中では比較的経済が安定しており、国民の半数は伝統的宗教を信仰し、3割がイスラム教、1割がキリスト教の信者である。今年の3月から4月にかけて、軍関係者による威嚇発砲や市内スーパーマーケットなどでの略奪行為があり治安状況が危ぶまれたが、駐ブルキナファソ日本大使館から訪問に差し支えはないとの連絡を受け、同国を訪問することにした。

11月4日の深夜、その前の訪問国マリの首都バマコからブルキナファソ航空に乗って首都ワガドゥグに到着。粗末な仮設テントのようなラウンジに通されると、そこにはWHOブルキナファソ代表代理のトゥラオレ・エティエンネ博士や保健省ハンセン病担当責任者のカファンド・クリストフ博士、WHOアフリカ地域事務所ハンセン病担当官のビデ・ランドリー博士、杉浦勉駐ブルキナファソ日本大使が出迎えて下さった。ホテルに着いたのは夜11時過ぎで、夕食抜きの就寝となった。

翌5日の朝はWHOブルキナファソ事務所で、同国のハンセン病の状況について報告を受けた。ブルキナファソは1992年、アフリカ諸国の中では比較的早い時期にWHOが定める有病率が人口1万人あたり1人未満の基準を達成している。現在は登録患者および年間の新規発見患者数ともに320人。患者数が減ったこともあり、政府のハンセン病に対する関心は低下しているが、新しく発見される患者の中に子供が含まれていること、重い障害をもった症例が新規患者のうち20%と非常に多いことは問題である。今一度医療関係者への教育や、症状が出たら病院に行くといった国民への啓蒙を実施する必要があることが判明した。

続いて保健省では、アダマ・トゥラオレ保健大臣と面談した。早い時期に制圧を達成されたことに対する感謝の意を述べ、「大臣のリーダーシップで患者数をゼロにすることも可能であり、回復者に対する差別についても関心を払ってほしい」と念を押した。大臣は「パートナーの協力を得ており、病気の根絶と差別の撤廃のために取り組みたい」との返答があった。また、東日本大震災と津波に対してお見舞いの言葉があり、「日本の友人のために何かできることがあればやっていきたい」と挨拶された。

ブルキナファソ1・保健大臣と.jpg
ブルキナファソ1・保健大臣と


トゥラオレ大臣との共同記者会見は、イスラム教の犠牲祭という大きな祭りの日にあたり、その上土日であったが、テレビやラジオ、新聞など15社ほどの報道関係者が集まり、熱心な取材があった。大臣は「最近、早期発見が徹底していないことや子供の感染者がいるといった課題を克服し、患者数ゼロと差別をなくすという最終目標を実現したい」と、意欲を示された。私は「ブレーズ・コンパオレ大統領と東京で何度もお会いしており、その際に大統領が「若いとき軍事訓練場の隣にいたハンセン病患者とよく会う機会があったため、この問題に深い関心を持っている」と話していたことを紹介した。また、ハンセン病は治る病気で、薬は無料で配布されていること、そして差別は決して許されないことを訴え、国民への正しい知識の伝達のためメディアに協力してほしいと呼びかけた。差別については、2010年12月に国連総会でハンセン病患者、回復者とその家族に対する差別の撤廃決議が全会一致で可決されたことを紹介し、この問題がいかに世界的に大きな問題であるかを訴えた。

その日の午後は、アフリカ各国で展開している笹川アフリカ農業普及教育プロジェクト(SAFE)の実施校ボボ・デュラッソ工科大学農村開発研究所を訪ねた。赤茶けた大地と照りつける強烈な日差しの中、未舗装のデコボコ道に揺られて移動する途中には、所々でイスラム教犠牲祭のために人々が集まり祈りを捧げている姿も見られた。粟やトウモロコシ畑に囲まれた大学のキャンバスに到着すると、ハミドウ・ボリー学長はじめ学生たちやOB、村長や村人たちが盛大に歓迎してくれた。農業指導者となる学生代表の希望あふれた立派な挨拶に、国家の独立と発展の基本は農業であり、農民に情熱をもって新しい技術を指導していくこの若い一人ひとりこそ、この国の将来のリーダーであるとの思いを強くした。

ブルキナファソ・犠牲祭でお祈りする人々.jpg
犠牲祭で祈る人々


翌6日は車で2時間の西部の町クドゥグを訪れた。クドゥグは、ハンセン病患者が多い地域で、フランスのラウル・フォレロ財団の支援により、約70名の回復者が1.3ヘクタールの敷地内で各自の畑をもって農業を行っていた。回復者の住居からこの農地まではかなりの距離があり、マイクロバスで通ってくる。農業指導者はおらず、アイデア倒れのプロジェクトであることは一見にして理解できた。目的が良くても結果が悪ければ何もならない。今年は雨が少なく水不足で、ヒエや粟、トウモロコシや米などの畑はカラカラに干からび、米は実らずに枯れ果てていた。敷地内にあるポンプ式の井戸は形だけで、長く使用されていない様子で、いずれにしてもうまくいっていなかった。収入は頑張って働いている人でも年間100ドルほどで、回復者代表のシモン・ドランさんは「収入は十分ではないが、何かをやることが大事だと思っている」と話してくれた。自助努力によって働くことが尊厳をもって生きるための第一歩であることは確かだ。それにしても仏(ほとけ)作って魂入れずの農場で、この姿に満足しているNGOには落胆せざるを得なかった。活動自身が目的化しており、その成果を目的としていない活動は、私の活動の大きな教訓にもなった。

ブルキナファソ・カラカラの農地を視察るす筆者 .jpg
乾ききった農地を見て思うことは・・・


午後は首都ワガドゥグに戻り、日本財団が進める現代日本理解のための英文図書100冊をボボ・デュラッソ工科大学(ブルキナファソで2校目、世界で711箇所目)に寄贈するためのささやかな式を日本大使館で行い、その日の夜帰国の途についた。
「参議院不要論」―存在意義なくした参院は不要だ― [2012年05月18日(Fri)]
「参議院不要論」
―存在意義なくした参院は不要だ―


【正論】日本財団会長・笹川陽平 
2012年5月14日
産経新聞 東京朝刊


 「日本の政治はなぜ、何事も決まらないのか」。外国を訪問して要人と話すと、しばしばこんな質問を受ける。開会中の国会を見ても喫緊の課題である東日本大震災からの復興や財政再建に対する熱気は伝わってこない。とりわけ参議院はねじれ国会の中で数の論理ばかりが先行し、「良識の府」としての本来の機能を失っている。

 ≪衆院のカーボンコピー≫
 私は2010年4月の本欄で「衆議院300、参議院100」の定数削減を提案して以来、この考えを堅持してきたが、この際、あえて参院不要論に転向し、定数300の一院制への移行を提案する。国民のいら立ちと失望は頂点に達し、一院制に向け憲法改正を模索する動きが政界からも出てきている。存在意義をなくした参議院はもはや不要である。

 12年度予算は14年ぶりに成立が新年度にずれ込んだばかりか、約4割、38兆円分を賄う赤字国債発行法案は成立の目途が立っていない。消費税増税法案など関連法案の行方も含め引き続き混迷政局が続くと思うと、果たしてこの国は大丈夫か、暗澹(あんたん)たる思いがする。

 200年近くも前のフランスの政治家エマニュエル=ジョゼフ・シェイエスは「両議院が対立すると、これほど有害なことはないし、同じ議決となれば、これほど無駄な審議はない」と二院制を批判した。

 衆院通過から1カ月近くも経て本会議で予算案を否決した参議院の審議経過は、最初から「結論ありき」で目新しい議論があった記憶もない。両院協議会の議論も形骸化し、参議院は衆議院のカーボンコピーと化している。迅速な決断が求められる中、“時間の浪費”と批判されても仕方がない。

 ≪自身の責任で決断すべきだ≫
 サッチャー元英首相を取り上げた映画「鉄の女の涙」が評判を呼んでいる。3回お会いしたことがあるが、最初の1984年6月は首相6年目。亡父・笹川良一と私をダウニング街10番地の首相官邸に招待され、夕食後、われわれを閣議室に招き入れて亡父を首相席に座らせ、「このいすに長時間、たった一人で座り、1万6000キロの大遠征を孤独に決断した」と、その2年前のフォークランド紛争を問わず語りに述懐された。

 「困難な政治問題は多数意見に追随するのではなく自分自身の責任で断固決断し、人々を納得させなければならない」「コンセンサスはさほど重要と思わない。あれは時間の浪費のようなものです」とリーダーとしての覚悟、自信も語られた。先が見えない混迷の時代に政治家に求められるのは、鉄のように固い信念である。

 情報が瞬時に世界を駆けめぐり情勢が刻々と変化する外交の世界においては、なおさらである。北朝鮮の核、ミサイル開発が問題となる中で3月26、27の両日、韓国ソウルで開催された核安全保障サミット。野田佳彦首相のソウル入りは参院予算委員会集中審議出席のため26日夜に遅れた。結局、オバマ米大統領ら各国首脳との個別会談は実現せず、日本の存在感の薄さだけが目立つ結果になった。

 これでは外交は成り立たない。首相以下、閣僚があまりに国会日程に縛られる政治の現状は、かねて日本外交不在の一因と指摘されてきた。時代の変化に合わせ、もう少し工夫できないものか。東日本大震災の復興を見ても、過疎に直面してきた被災地を21世紀型の新都市に再生させるチャンスは、停滞する政治の前に失われつつある。

 何も決まらぬまま低迷が続く政治の作り替えこそ、“待ったなしの課題”であり、そのひとつの方法として定数削減が検討されてきた。民主、自民両党とも公約に明記しており、実現すれば議員の歳費や文書通信交通滞在費、公設秘書3人の給与など議員1人当たり年間1億円以上の節約になる。議員数が減ればその分、議員の顔が見えやすくなる効果もある。

 ≪増える廃止論、無用論≫
 しかし、遅々として進まない政治改革の現状を見れば、いたずらに定数削減の実現を待つのは、かえって国民の政治不信を助長する結果になりかねない。有権者の政党離れや参議院廃止論、無用論の増加は、未曽有の国難を前にしてなお政策より政局が優先する政治に対する国民の怒りが深く静かに広がっていることを示している。国民が政治に背を向けたとき、この国の将来は危うくなる。

 ならば、存在意義をなくした参議院を廃止し、一院制に移行した上で議席数を大幅に絞り込んだ方が政治の緊張感も増し、再生への近道となる。衆議院480、参議院242の議員数は明らかに多すぎ、この点が個々の政治家の存在感、責任感を希薄にしているからだ。一院制になり議席も絞られれば、モノ言わぬ政治家、行動せぬ政治家が生き残る道はなくなる。

 いつの時代も政治に求められるのは、スピード感のある決断と実行力である。参議院廃止による一院制移行は、これを実現するため早急に検討されるべきテーマである。政治家諸氏が責任と覚悟を持って取り組まれるよう求める。(ささかわ ようへい)

マリでのハンセン病制圧活動 [2012年05月03日(Thu)]

邑久光明園は、長島愛生園と同じ岡山市の東南35Kmの瀬戸内海に浮かぶ長島にある療養所で、現在169人(平均年齢82.9歳)の方が生活されております。

*******************

巴久光明園機関誌『楓』
2012年3月4日


マリでのハンセン病制圧活動


WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平


2011年11月1日から4日まで、アフリカ西部のマリを訪問しました。前回の2006年以来5年ぶりで3回目の訪問になります。

マリはアルジェリア、ニジェール、ブルキナファソ、コートジボワール、ギニア、セネガル、モーリタニアと7カ国に国境を接する内陸国です。国土面積は124万平方キロメートルと日本の約3.3倍で、人口は約1300万人。国土の北側3分の1はサハラ砂漠を擁する乾燥地帯で、残りの中南部もニジェール川沿岸の農耕地以外は乾燥地帯です。主要産業は農業で、主に綿花や米などをつくっており、他には鉱物資源として金も産出しています。一次産業に頼る産業構造のため、天候や一次産品の国際価格の影響を受けやすく、経済基盤は脆弱です。国民の80%以上がイスラム教で、伝統的宗教やキリスト教を信仰している人もいます。政治的には、1960年にフランスから独立した後、長い軍事独裁体制が続きましたが、1992年に憲法が制定されてからは5年に1度大統領選挙が実施され民主制がしかれています。

今回のマリ訪問の主目的は笹川アフリカ協会25周年記念シンポジウムに出席することでした。私の父・笹川良一は、1980年代前半にアフリカを襲った大飢饉を契機に、カーター元米大統領とノーベル平和賞受賞者でアメリカの農業学者ノーマン・ボーローグ博士と共にアフリカの食糧増産プロジェクト“ササカワ・グローバル2000”(SG2000)を始めました。その活動を推進してきたのが1986年に創設した笹川アフリカ協会です。これまでアフリカ14カ国でプロジェクトを実施し、各国の食料増産に貢献してきましたが、現在はマリ、エチオピア、ナイジェリア、ウガンダの4カ国で実施しています。今回のシンポジウムは、アフリカ協会創立25周年を記念し、マリの大統領など政府要人や農業関係者、アフリカ関係諸国の元大統領や農業大臣、国際機関やNGOの代表、学者など100人以上が参加し、アフリカの農業について議論する場です。

もう一つの訪問目的はハンセン病に関する視察です。マリは2001年にWHO(世界保健機関)が定める公衆衛生上の問題としてのハンセン病の制圧(有病率が人口1万人あたり1人未満)を全国レベルで達成しています。その後も制圧状態を維持しており、2011年初頭時点で登録患者数は373人、年間新規患者発見数は363人、新規患者の内の障害者の率や子供の率は共に5%と他のアフリカ諸国と比べて高い数字ではありません。保健省によれば、医師や看護師、ヘルスワーカーに対してハンセン病に関する教育を定期的に実施していることや、全国の保健区ごとに最低1名はハンセン病についての教育を受けたヘルスワーカーを配置していることなどが、制圧状態を維持できている要因とのことです。

10月31日に成田を発ち、パリ経由で11月1日夜にマリの首都バマコに到着しました。この時期、日中は35度以上になりますが、夜は気温も下がり少し肌寒いくらいでした。翌2日の朝は、まず保健省でウンスマネ・トゥーレ保健次官を表敬訪問した後に、バマコ近郊のカティ保健所を訪ねました。ここではハンセン病患者を外来で診療しており、私が訪問したときには5人の方がいらっしゃいました。目が見えなくなっている方や手に障害が残っている方がいらっしゃいましたが、みな治療は完了しており、他に9名が治療中とのことでした。マリでは、全ての保健所でハンセン病の診断と治療が可能となっているそうですが、回復後も障害が残っている方々の身体および社会的なリハビリテーションが課題となっています。

次にマルソー研究所と呼ばれていたマリ・ワクチン開発センターを訪れました。1931年にエミール・マルソー氏(1862-1943)が設立したこの研究所は、仏領圏アフリカにおいてハンセン病研究、治療、人材育成の中心機関としての役割を担ってきました。フランス出身の熱帯病研究者マルソー氏は、1923年フランス・ストラスブルグで開催された第3回国際らい学会でハンセン病患者への人道的対応を求め、全患者の隔離は必要ないこと、住居における隔離が必要な場合は人道的に行うことを訴えた方です。その後、国際らい病学会会長や国際ハンセン病協会会長なども歴任されました。マルソー氏が設立し80年の歴史を誇る同研究所は、現在ではハンセン病以外にもHIV/エイズや結核などの研究や他の病気の治療なども行っています。私が訪れた際には、所長のサンボ・ソウ博士がセンターにある様々な施設の紹介をしてくださいました。ハンセン病病棟には10名ほどの患者さんが入院中で、病状をみせてもらいました。サンボ博士が入院中の少年の症状を解説しながら「見た目には分かりづらく一般の医師ではハンセン病と判断できなくても、病気がかなり進行している。ハンセン病の患者数は減ってきているが、だからと言って医療関係者への教育の手を緩めると危険だ」と語っていたのが印象的でした。入院中の患者さんたちは不安な顔をしていましたが「立派な施設で素晴らしいお医者さんに診てもらっているから大丈夫だよ」と励ましたところ、少し笑顔をみせてくれました。センターにはこの他に、ネズミを約2000匹も飼ってハンセン病などの研究をする実験設備や、アフリカで最近多くなってきている細菌感染症の一種であるブルーリ潰瘍や他の重症患者の治療病棟、義足をつくる施設、ワクチン開発のための実験室などがありました。アフリカで唯一のハンセン病研究を行う本格的施設であり、現在の治療薬であるMDTに対する耐性が生じる可能性がゼロではないことを考えると、非常に意義のある施設であると思います。

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患者の病状を確認


この後は、ハンセン病回復者たちが山羊や牛を育てて売る生活向上プロジェクトを見学しました。車から外の町並みを眺めていると、道路脇に数千頭もの大量の山羊がいたので驚いていたら、実は回復者の方々が飼っていたものだったのです。そこで働く2百数十人のうち140人ほどが回復者で、1ヶ月で平均5、60頭を売るそうです。1頭5ユーロ(約600円)とのことなので、1月に3万円ほどの売り上げでマリでは安くない金額です。照りつける太陽の下、山羊に草を与えたり、井戸や川で水洗いをしたりと、熱心に働く姿がとても印象的でした。マリで50年以上活動するラウル・フォレロー財団の支援を受けながら回復者の方々が協会をつくり実施しているプロジェクトで、これほどの規模で皆が一緒になってしっかりと働いているところは世界的にも珍しいと言えます。ラウル・フォレロー財団マリ事務所長のティンボ・オウモウ女史は農業エンジニアリングを専門とし、長年の試行錯誤を経ながら現在のかたちになったと話していました。社会から差別されるのではなく、尊敬されるコミュニティになっており、私はここの活動が他の国々にとってもモデルになるのではないかと感じました。見学後に催された回復者の方々との集会では、回復者組織をまとめるゴウロウ・トゥラオレ氏が「皆の笑顔を見ていただき、皆が尊厳をもって生きていることを見ていただけたと思う。コロニーには1472人が暮らしており、プロジェクトをもっと拡大し、コロニーのみんなの生活がよくなるにしていきたい」と自信をもって話してくれました。集会では回復者の方々が結成し結婚式などのイベントで活動しているバンドグループの歌と演奏の披露もあり、最後には私も踊りの輪に入り皆で心を交し合う時間となりました。

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回復者の方々が育てている山羊


この日の午後はアマドゥ・トゥマニ・トゥーレ大統領ともお会いしました。トゥーレ大統領は前述の食糧増産プロジェクト“ササカワ・グローバル2000”のよき理解者であり、旧知の仲です。私から、同プロジェクトを通して農民の方々の生活向上を実現させたいという決意を述べるとともに、午前中に訪問したハンセン病の研究所と、回復者が行っている山羊の飼育の取り組みが世界的に見ても素晴らしいとの報告をしました。大統領は「子供の頃からハンセン病の患者、回復者の方々をよく見てきた。笹川さんが朝に見た光景はとても素晴らしいことだ」と語り、ハンセン病への取り組みについても深い理解と関心を示して下さいました。面談の後、笹川アフリカ協会25周年を祝う植樹祭を国立博物館で行い、トゥーレ大統領とナイジェリアのオルセグン・オバサンジョ元大統領、ベナンのニセフォレ・ソグロ元大統領はじめ多くの来賓の皆様にお祝いいただきました。翌3日と4日は、笹川アフリカ協会25周年記念シンポジウムと農業指導を行っている村への訪問を行いマリでの日程を終えました。

1.jpg
トゥーレ大統領に、患者・回復者の生活向上のための協力を依頼


今回のマリ訪問では、ハンセン病関連での時間は短かったものの、アフリカを代表するハンセン病研究所や回復者の方々が大規模に行う畜産活動を見ることができ、大変有意義なものとなりました。ハンセン病はMDTの普及により患者数が激減したものの、MDTに対する耐性が生じる可能性はゼロではなく、さらなる研究を進めていくことの重要性を再認識しました。また、回復者の方々が協会を組織し大規模に活動を展開する取り組みを見て、「一人ひとりの力は小さくても皆が団結することで大きな力になる」という私のかねてからの信念をより強くしました。ハンセン病の病気をなくし、差別をなくしていくために、医療面と社会面の両面において歩みを進めていきたく思います。

インドでのハンセン病制圧活動(デリー) [2012年04月14日(Sat)]
東北新生園機関誌『新生』
2012年3月号


インドでのハンセン病制圧活動(デリー)


WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平


 昨年秋にインドの首都デリーを訪問しました。ハンセン病対策を統括する各国の責任者が世界中から集まる国際会議に出席するのが主な目的で、ハンセン病の回復者やその家族が集まって生活するコロニーの訪問や政府要人との面談も行いました。

 2010年末現在、世界のハンセン病患者数は19万2千人、1年間に発見される新規患者数は22万8千人です。1985年には患者数が500万人以上を超えていましたが、治療薬MDT(多剤併用療法)が開発され、日本財団の支援などにより無料で配布されるようになってから患者数は大幅に減少しました。人口1万人あたりの有病率1人未満というWHO(世界保健機関)が定める公衆衛生上の制圧についても、1985年は122カ国が未制圧でしたが、現在ではブラジル1カ国を残すのみとなっています。患者数が多い国は今回の訪問国インドが最大で年間12万9千人、続いてブラジルで3万5千人、3番目にインドネシアで1万7千人が新規患者として発見されています。まだまだ多くの人々がこの病気にかかり、発見が遅れ障害が残ってしまう人もいるだけでなく、病気が治ったあとも社会に根強く残る偏見や差別に苦しんでおり、医療面と社会面の両面における闘いが必要なのです。

 デリーに到着した翌日の午前中、WHOが主催するハンセン病グローバル・プログラム・マネジャー会議に出席しました。アジア、アフリカ、中南米など50カ国近くから責任者が一堂に会し、世界のハンセン病対策を決める重要な会議です。WHOは現5カ年戦略のなかで、新規患者中のグレードUの障害(目に見える障害)数を2015年までに2010年比で35パーセント減らすという目標を掲げています。会議の冒頭で、WHO東南アジア地域事務局長のサムリー博士がこの目標を再度表明し、スティグマ・差別の問題を克服していくための取り組みについても力を入れていくと発表されました。また今回は、WHOが長年開催してきたこの会議において、初めてスティグマと差別に関するセッションが設けられ、さらに2日間ある日程の一番初めに行われました。WHOがいかにハンセン病の差別の問題を重要視し始めたかが伺える出来事であり、各国の政府保健省高官や国際機関職員たちが回復者の生の声を聞くよい機会となったと思います。先に述べた5カ年戦略でも社会面での取り組みが包含されており、私がよくたとえで使うモーターサイクルでいうところの前輪と後輪がそろって動き始めていることが感じられました。

 私からは基調講演で、各国のハンセン病責任者に対してこれまで制圧活動を成功に導いてきてくれたことへの感謝を伝えると同時に、今後も医療面、社会面の両側面において課題が残されているなか、戦略的、創造的な取り組みが求められており、また、昨年WHOが発行した「ハンセン病サービスにおける回復者参加強化ガイドライン」を各国に適用し実施していただきたい旨も述べました。社会面においては、人々の間でハンセン病に対する誤解や迷信が根強く残るなか、スティグマや差別をなくすための戦略として、国際機関と政府機関へのアプローチ、一般社会の認知の向上、当事者のエンパワーメントという三つの柱に基づく戦略を紹介しました。一つ目は、2010年12月、国連総会で「ハンセン病患者・回復者とその家族への差別撤廃決議」およびその原則とガイドラインが全会一致で可決されたことを触媒として、各国政府に差別的法律の改正や生活の改善を訴えるという取り組みです。2つ目の具体的な取り組みは、2006年から行っている差別撤廃の声明であるグローバル・アピールで、これまでノーベル賞受賞者をはじめとして、NGOや宗教、企業や大学の指導者に賛同を得て発表してきました。2012年は世界の各国医師会に賛同を得る予定であり、それを機に医療施設での患者に対する偏見を撤廃する足がかりとしたいという考えを述べました。3つ目の回復者のエンパワーメントとして、インドでのハンセン病回復者団体ナショナル・フォーラムによる当事者間のネットワーク化の動きと、笹川インド・ハンセン病財団による小規模融資や奨学金の取り組みを紹介しました。これらの3つのアプローチが組み合わさり「NGOと政府、国際機関、そして回復者自身が共に力を合わせることではじめて、差別をなくし尊厳を回復していくことができると信じている」と訴えました。

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WHO主催の会議で基調講演する筆者


 会議はその後、スティグマ・差別の問題と対策、世界のハンセン病の状況、障害への対策などをテーマに、各国の代表や専門家、あるいいは回復者自身から発表があり、積極的な意見交換がなされました。2015年までの5カ年戦略のもと、各国が積極的に対策を進めることを期待しています。

 午前中の会議の後、午後は、デリーで28のコロニーが点在するタヒプール地域のアナンダグラム・コロニーを訪問しました。

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アナンダグラム・コロニー訪問


 このコロニーでは笹川インド・ハンセン病財団の融資で養鶏事業を行っており、一千匹ものヒヨコが元気よく走りまわっており、成長すれば鶏肉として1kgあたり160ルピー(約300円)で販売されるそうで、その成果と結果の報告を楽しみにしています。また、このコロニー以外からもタヒプール地域の15のコロニーの代表が集まる集会も行いました。コロニーの代表からは、住民のほとんどが物乞いをして生活をしていること、家が古くて雨漏りすること、プロジェクトを行うための支援がほしいことなどが切々と訴えられ、支援策を検討することとなりました。

 また、回復者組織ナショナル・フォーラム代表のゴパール博士の同席のもとインド連邦政府のクルシッド法務大臣と面談しました。

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(左から)ゴパール回復者組織代表、ワルシッド法務大臣、筆者


 私からは先述のハンセン病差別撤廃の国連決議や、インド国内に残る差別的法律について話をしました。大臣からは「国連決議を尊重する。差別的条文が残っているこれらの法律はいずれも古いまま残っており、変えなければならない条文は改正する。法律の分野においてできることをフルサポートする」という積極的発言をいただきました。

 今回のデリー訪問では、モーターサイクルの前輪である医療面と後輪である社会面の両輪の必要性がWHOはじめ関係者に少しずつ理解されてきていることを確認できました。一方で、社会面での具体的な取り組みはインドはじめ各国でまだまだ遅れているのが現状です。長い歴史を通して人々のDNAの中に深く刻みこまれてきた差別の心を取り去るのは決して簡単なことではありません。しかし、世界で最も古い歴史を持つこの病気自体をなくすだけでなく、ハンセン病に伴う差別をなくし、回復者の方々が物乞いをせずに尊厳をもって生きられるよう、これからも回復者たちと共に歩んでまいりたいと思います。
産経新聞【金曜討論】―休眠口座預金― [2012年04月13日(Fri)]
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【金曜討論】
―休眠口座預金―
笹川陽平 VS 須田慎一郎


2012年4月6日
産経新聞 東京朝刊


13億口座もある膨大な休眠口座預金の取り扱いについては、国民の意見が分かれているというより、その真相が国民に正確に伝わっていないところが問題で、このまま金融業界に「知らぬ顔の半兵衛」のまま推移させないためにも読者の友人・知人に、是非、話題を広げてもらいたいのです。

以下、産経新聞よりの引用です。

*****************


金融機関で10年以上、お金の出し入れがない休眠口座預金について、政府は経済の成長戦略などに活用する検討を始めました。「まさに『国民の埋蔵金』であり、社会貢献活動などに活用すべきだ」という日本財団の笹川陽平会長と、「『預金は預金者のもの』という銀行側の反発は強く、実現は難しい」と見る経済ジャーナリストの須田慎一郎さんに聞いた。(喜多由浩)
                  ◇
 ≪笹川陽平氏≫
 ■合意形成し活用すべきだ
 ○「国民の埋蔵金」だ
 −−国に預金を取られる、と心配する声がある
 「まったくの誤解だ。制度が変わっても預金者の権利は保護されるべきだ。ただ、現実には預金者に銀行からの通知が届かなかったり、預金が少額のため、交通費や面倒な手続きを考えて払い戻さないで放置されたお金がたくさんある。特に亡くなった両親や祖父母の預金はそうだ。郵便貯金分を含めた金融機関の総計では恐らく1兆円を下らないだろう。これこそ『国民の埋蔵金』ではないか。広く国民の合意を形成した上で社会貢献活動などに活用すべきだ」
 −−銀行側は反対している
 「金融機関は『休眠預金』を過去3年間だけで、払い戻し要求があった分を除いても1500億円以上を利益として計上している。銀行側は『(当局の)指導でそうした』などと説明しているようだが、国会議員の質問主意書への政府の答弁書によれば、あくまで銀行業界で決めた内規にすぎない。金融機関は国民の預金といいながら実際は多額の利益としている。こうしたお金の透明性と説明責任を確保して国民のために使いましょうよ、と提案しているのだ」
 −−休眠預金の口座維持にもコストがかかっているとしているが
 「全金融機関の口座数は約12億もある。かつて銀行が預金を増やすために率先して顧客に口座を作らせ、仮名での口座開設も認めていたからだ。それを今になって『コストがかかる』というのはおかしいではないか。しかも、休眠預金のうち、連絡がつかず、返せないお金の多くは仮名口座のものなのだ。銀行側は“過去の行状”について反省も足りなければ説明責任も果たしていない。政府と金融機関はまず、休眠預金に関する正確なデータを公表すべきだ」
 ○国民全体でアイデアを
 −−活用する場合、「受け皿」組織はどこが主体となるべきか
 「一番良いのは、金融業界自身が社会貢献活動として自主的に休眠預金を提供・活用するシステムを作ることではないか。そうすれば金融機関に対する国民の信頼も一挙に高まるだろう。この問題で、国家の力を借りて政治の介入を受けるのは、あるべき姿ではない。休眠預金を国庫に吸い上げて、そこに“シロアリのごとく”官僚がむらがればコストが高くついてしまうからだ。『国民のお金(休眠預金)』の使い道について、国民全体が関心を持ち、みんなで知恵を出し合えばいい」
 −−応援する「国民会議」も発足した
 「関心は非常に高い。金融機関とともにより良い方法を考えたい。貧しい人々への少額融資制度や障害者起業家への融資など、望まれればアイデアも出したい」
                  ◇
 ≪須田慎一郎氏≫
 ■活用すれば逆に「損失」も
 −−政府が休眠預金活用の検討を始めたが
 「銀行など金融機関側の反発は相当に強い。一つは、消費税増税問題で窮地に陥り、国民の支持を失いつつある民主党政権が自身への批判をそらすため、この問題を利用して“銀行たたき”をしている節があることだ。『休眠預金を銀行が自分の懐に入れている』とアピールし、銀行を非難すれば、確かに世論は拍手喝采するだろう。もう一つは、銀行にとって『預金』を大切にすることは、企業としての社会的使命やカルチャーにかかわる重要な問題という意識が強いからだ」
 ●多大なコスト
 −−「預金は預金者のもの」という発言もあった
 「一口に『休眠預金』というが、金融機関は、連絡が取れなくなった預金者を捜すために、必死になって転居先などを突き止めるなど、ありとあらゆる手を尽くしており、作業には多大なコストもかかっている。それでも分からなかった預金については一定のルールに基づいて、納税後にいったん利益として計上しているが、その後も要求があれば、払い戻しに応じている。国が“召し上げる”といっても、簡単に『はい、分かりました』とはいえないだろう」
 −−しかし、休眠預金の原因の一つは、かつて銀行側も認めていた「仮名口座」がある。コストの件でも、情報開示は十分とはいえないのではないか
 「私見だが、休眠預金は『仮名口座』よりも、タンスの引き出しに通帳をしまったまま、忘れてしまったような少額の預金が多いと思う。情報開示には、預金者のプライバシーの問題もからんでくるが、今後、法整備など正式な手続きを踏んでからではないか」
 −−ただ、現実問題として毎年、帳簿上は多額のお金が金融機関に入っている
 「法人税の支払いなどを除いて実際に活用できるのは年間300億円程度だろう。だが、これは全金融機関を合算した額であり、一金融機関にしてみれば、それほど大きな利益にはならない。しかも、休眠預金の口座の維持や追跡作業には多大なコストがかかっている。こうしたコストはコンピューター全盛時代になっても、さほど変わりがない。むしろ、休眠預金を活用することで、“大義名分”ができ、金融機関が連絡先不明者の追跡作業を行わなくなる恐れがある。その『損失』の方がよほど大きいのではないか」
 ●政治的意図見える
 −−実現は難しいと見るか
 「制度が整い法律までできるようなら、金融機関も応じるだろう。だが今回は政権側の政治的意図が見え隠れしており、国民の支持も得られないのではないか」
                  ◇
【プロフィル】笹川陽平
 ささかわ・ようへい 昭和14年、東京都生まれ。73歳。明治大学政経学部卒。WHO(世界保健機関)ハンセン病制圧特別大使。「民」の立場から「公」への貢献をモットーに内外の現場で公益活動を実践している。近著に「紳士の『品格』」(PHP研究所)がある。
                  ◇
【プロフィル】須田慎一郎
 すだ・しんいちろう 昭和36年、東京都生まれ。50歳。日本大学経済学部卒。金融専門紙、経済誌記者などを経て、フリーに。銀行業界をはじめ、財務省、金融庁など金融関係を中心に幅広く執筆活動を行っている。著書に「サラ金殲滅」(宝島社)、「国債クラッシュ」(新潮社)など。

産経新聞『正論』小沢さん、故郷復興の先頭に [2012年04月02日(Mon)]
【正論】日本財団会長・笹川陽平 
小沢さん、故郷復興の先頭に


政治家 小沢一郎氏に対しての提言です。
小沢氏とは、二、三度の面識はありますが、挨拶程度のことで、したがってこの論は勿論私怨にもとづくものではありません。
読者の筆者に対するご批判は大いに歓迎致します。

******************************


2012年3月30日
産経新聞 東京朝刊


 政局の混迷が続いている。その中心には今も20年前も小沢一郎さんの姿があり、政治の低迷で未曽有の被害を出した東日本大震災の復興も滞っている。小沢さんはなぜ、故郷の復興の先頭に立たないのか。あえて申し上げたい。あなたは政局を離れて故郷に帰り、その剛腕をもって被災地復興の先頭に立つべきだと。

 ≪国の存亡かけた国難の時≫
 あなたの著作を何点か読み返してみました。『小沢主義』の中であなたは、人々の家から煙が立ち上がっていないのを見た仁徳天皇が国民の困窮に気付き租税を免除した、との日本書紀のエピソードを引き、「みんなが幸せな生活を、豊かで平穏な生活を送れるようにするために、何をすべきか。それを考えるのが政治の役割、政治家の役割であって、それ以上でもそれ以下でもない」と言い切っておられます。

 誠にその通りだと思います。東日本大震災では、あなたの故郷の岩手県も甚大な被害を受けました。国の存亡をかけた国難の時であり、あなたが「オヤジ」と尊敬する田中角栄元首相なら、壮大なプランを描き復興の先頭に立ったのではないでしょうか。
 
 しかし、あなたが釜石市や陸前高田市など沿岸の被災地を初めて訪問したのは震災から10カ月後でした。どう被災地を復興させるのか、『日本改造計画』を書いたあなたには復興に向けた深い造詣、多くの知恵があるはずなのに、何のビジョンも聞こえてきません。
 
 新聞の政治面にはあなたの名前が連日のように登場します。大半は政局関連記事で、具体的な政策論議は乏しく、政局を弄んでいる感すら覚えます。

 最近も、野田首相が政治生命を懸ける消費税率引き上げ関連法案に対するあなたの動向が注目されています。あなたが消費増税より優先させるべきだという行財政改革や経済の立て直しはもちろん必要です。しかし1000兆円にも膨らんだ国の借金を前にすれば「どれが先か」といった悠長な議論をしている時間はありません。

 ≪政策総動員で取り組むべき≫
 税金は安いほうがいいに決まっています。にもかかわらず各種調査で40%近い人が消費税増税を「やむなし」としているのは、巨額な財政赤字が医療や年金を後退させ、次世代への過重な負担になるのを心配してのことです。
 
 これ以上、増税を先延ばしにするのはいかがなものでしょうか。可能な政策を総動員して、喫緊の課題である財政再建に直ちに取り組むのが、あるべき政治の姿と思うのです。
 
 あなたは著書で、日本のマスコミは“リーダー潰し”に躍起となってきた、と批判した上で「アメリカのマスコミには、新しい大統領が生まれたときは最初の1年目に限って、その政策を批判しないという不文律があると聞いたことがある」と指摘、「リーダーをいったん選んだ以上は、その人の考えるとおりに任せる覚悟が国民の側にも必要だ」と述べています。その言やよし。ならば早々に消費税増税に反対を打ち出したあなたの姿勢は矛盾すると思います。仮に若手の多いあなたのグループ議員の選挙への悪影響を憂慮してのことであれば論外であり、「大多数の人たちに幸せをもたらす」ことを目指す大政治家、小沢一郎さんらしくありません。

 4月26日には資金管理団体「陸山会」の土地購入をめぐり、あなたが政治資金規正法違反(虚偽記入)の罪で強制起訴された事件の判決が出ます。結論がどうなろうと国民が最も知りたいのは、会社を経営したこともなく政治家一筋で来られたあなたが1600平方メートルを超す東京都世田谷区の豪邸に住み、4億円もの現金や不動産を持てるような富をどのように作ったのか、この一点に尽きます。

 相続した土地や著書の印税収入、議員歳費などを収入源として説明されているようですが、過去の納税額など詳細な資料が全て明らかにされない限り、国民の納得は得られないでしょう。最近は目にしなくなったとはいえ、国民が求める政治家像は今も昔も、私財をなげうって政治に命を懸け、最後は井戸と塀しか残さないような“井戸塀政治家”なのです。だから余計、あなたの巨額の財産に不審の目が向けられるのです。

 ≪今も名声残す後藤新平≫
 あなたと同じ、岩手県出身の後藤新平は89年前の関東大震災で内務大臣兼帝都復興院総裁として大胆な震災復興計画を立案、幹線道路網などを整備し、今もその名声を残しています。今回の大震災の被災地はもともと深刻な過疎に直面していました。若者が魅力を感じる21世紀にふさわしい未来都市に再生すれば、震災の教訓も生き、あなたが限界を指摘する東京一極集中を解消し、地方とのバランスを取り戻す道筋も見えて来ると思います。
 
 著書でこの国の改造計画を描いた小沢さんほど被災地復興の先頭に立つのにふさわしい人物は見当たりません。これこそが、あなたのこの国に対する「最後のご奉公」でもあると信じています。
(ささかわ ようへい)

雑誌「Yu」対談 [2012年03月31日(Sat)]
雑誌「Yu」対談

大畑慶高(日本武道総合格闘技連盟副理事長)
笹川陽平(日本財団会長)
小沢 隆(空手道禅道会首席師範)

日本武道総合格闘技連盟の各道場に寄付型の貯金箱が設置されて久しい。東北の震災から半年が過ぎた9月下旬、機会を得て笹川陽平会長と小沢隆首席師範、そして大畑慶高横浜支部長の鼎談が実現した。程よく空調されて静謐な空気が流れる日本財団の応接室の壁には、絵画と見間違うような大きな虎の刺繍額。笹川会長は軽やかに応接室に入ってこられた。対談までの経緯を説明しようとすると軽くさえぎり「読ませてもらっていますよ」の一言で鼎談がスタートした。

「人間教育の原点は武道でしょう。
だからそれを知らない子供達は不幸だよね」(笹川)

―まず本日は、日本財団と今回の震災に向けた支援活動について少しご紹介頂ければと思います。

笹川 日本財団は、ボートレースの売り上げの一部を財源に、社会の皆さまのためになる様々な活動、例えば、海外ではマラッカ海峡の安全の確保、ハンセン病回復者の社会復帰支援、また国内では福祉車両の配備や古民家を改修して福祉の拠点とするなどの活動に取り組んできました。災害関係では、ナホトカ号の海洋汚染、雲仙普賢岳噴火、阪神淡路大震災など、現場で活動する様々なNPOへの支援を重ねてきております。今回の東日本大震災でもご家族を亡くされたり行方不明となってしまった方々に、私共職員がお5万円ずつ直接お渡ししに現地に伺いました。現在も多くの皆さま、企業さまからのご寄付とご協力を受け、被災地への支援を継続しています。

―震災直後、被災者に対する多額の義援金が集まっても実際の配分までに時間がかかったのに対し、日本財団は、弔慰金・見舞金や現地で活動するNPOへの支援金という形で直ぐに被災地に送られたんですね。

笹川 非常時には、とにかくすぐにでも前に進まなければなりません。震災が起これば多くの民間企業、NPOの助けがなければ成り立たない訳ですから、現場で活動する人達を助ける支援金がすぐにでも必要だという判断でした。

小沢 私が空手の道場をひらいた当時は家庭内暴力の子が多かったのですが、どこにも頼るところがないという保護者の方に頼まれて、最終的に自分の自宅に問題児を預かり、生活を共にし、何とか成果に近いものを得てその後希望者がどんどん増えてきました。連盟の中に専門の部署を立ち上げた方が良いだろうと、5年前に通信制の高校とタイアップした自立支援の学校「ディヤーナ国際学園」を始めました。フィリピン・タイ・ラオスに施設がありまして、まずは日本を離れ海外で武道に取り組みながら地域の人達と交流を持ち、自分自身や親御さんとの関係性を見つめ直していくというのが基本となります。今回の震災では、学園の生徒達も、日本財団のプログラムで東北の震災のボランティア活動に参加することになりました。何を経験して帰ってくるのか楽しみです。

笹川 若い力は国の宝ですしね。やはり将来の日本国を背負って立たなくてはならないのですから、それはいい経験ですね。

若者よ、世界一美しい国に感謝と誇りを
小沢 笹川会長の『若者よ、世界に翔け!』という著作の中で、若者達はもっと海外に行け、もっと外を見て来いと強いメッセージを伝えていらっしゃいますが、当連盟で空手を習っている子達、あるいは当学園に通う一般の学校から落ちこぼれてしまった子達に向けて何かメッセージを伺えればと思います。

笹川 世界の国連加盟国193カ国で、私は120カ国を周っておりますが、世界で最も優れた国というのは日本かも知れません。ところが日本だけに住んでいると不平や不満ばかりが出てくる。だから私達が生まれ育った日本がいかに優れた国であるかということを知ってもらいたい。そのためには外国を見てもらうことが一番良い。英国BBC放送が調査した結果、統計上120数カ国の中、世界で最も高感度の良い国というのは日本だと評価してくれている。
日本のどこが良いのかというと、昔から海に囲まれているために外国からの侵略のない穏やかな国で、国土は南北3000kmにも渡り、しかも4つの春夏秋冬がハッキリ分かれているなんて世界にも少ない。その上、先進国で人口1億人もいて世界で最も犯罪率が低いし、何より世界中で深刻な紛争を引き起こしている宗教や民族の対立がないのは珍しい。世界で最も美しくて、山へ行けば緑に覆われ、川の水をすくって飲めるような場所が沢山あるというのは日本だけ。人々は穏やかで、今度の震災を見ても外国人は、「なぜ略奪が起こらないのか」「放火や犯罪が起こらないのか」と驚いたでしょう? 世界で最も素晴らしい国に生まれ育っていることに感謝すると同時に、日本人としての誇りを子供の頃から持ってもらいたい。そのために武道というものは子供時代の人間形成の上で最も重要なことです。武道には礼儀作法がきちんとありましね。長幼の序を学び、心身の鍛錬をしながら、怪我をした仲間には思いやりが持てる。相手に負ける悔しさも覚えるし、勝つ喜びも身に付けるというのが人間の心を豊かにします。そういう人間の心を豊かにすることを子供時代から身に付けていくことが大切なのだと思います。

小沢 会長のおっしゃる事に同感で、引きこもりや家庭内暴力の子が海外へ出て、そこで仲間同士で武道に取り組む中で、人に対する思いやりの心を持つとか、日本の文化は素晴らしいということに気付くことが、彼らの情緒を発達させることにつながるという判断で、東南アジアの国々に子供達を送り出しています。

美しく穏やかな自然風土が、温和な国民性をつくる
笹川 誇りを持つということと威張ることは別です。誇りを持つには謙虚さがないといけませんからね。世界には、緑も水もない荒野ばかりの国もあります。一方で、日本人には日常生活の中にあるのが当たり前のものですから大切なものだと思わない。餓死する人が一人もいない国なんて何処にありますか。確かに貧しい方もいらっしゃる、しかし餓死する人はいない。1日1ドル未満で生活している人は世界で14億人いる。日本では生活保護を受けている人でも1日何百円かは使うでしょう。すべては相対的ですから、他と比べてみないとわからない。

小沢 自分も1カ月に一度は東南アジアを回るのですが、ラオスは自然が沢山あり、時々昔の日本が残っていると感じる時があるんです。武道を始めとする様々な文化というのは、やはり日本の自然風土等がかなり影響してきたのかと思います。

笹川 確かに、温和な国民性が作られるのに、美しく穏やかな自然風土が影響を与えているのでしょうね。仮に砂漠の中の生活で水も食べ物もなければ、すさんだ精神構造になる。今の世界の状況を見てもらえばわかりますよね。

知育、徳育、体育から生まれるものに期待
―笹川会長の『ハンセン病との闘い』という著書の中で、世界最古の人権差別はハンセン病から生まれたのではないかと書かれていますが、ライフワークとして取り組まれている活動についてお聞かせ下さい。

笹川 学校で「自由」、「平等」、「民主主義」を習ったでしょう。何よりも皆、世の中のことがわかったつもりでいるけれども、私達の知らない世界というのは沢山あるんです。何もこれは世界のことだけではなく、日本の国内でも知らないことばかりです。皆さんの取り組まれている引きこもりや家庭内暴力の問題も、あるということは知っているけれど私とは直接関係ないと思っている。関係ないから良いのではなくて、自分に若干の時間的余裕があれば、そういう人たちに手助けしてあげたいという気持ちになるのが普通の人ではないかと私は思いますよ。
もし人が道路に倒れていたら、「大丈夫ですか」と聞きに行く。無視して通る人は日本人には少ないと思います。心には皆“やさしさ”を持っているんだから、素直に行動に移せるような人間になって欲しいと思うんですよ。

小沢 自然体で行動に移すためにはどういうことを学ぶべきでしょうか。

笹川 皆さんが教えていらっしゃる思いやりの精神や、やさしい心が醸成されていけば自然にそうなるのではないでしょうか。それを学問として本で読んで「自由・平等・民主主義」、「人を差別するのは良くない」と、いくら言っても頭で考えているだけではいけません。皆さんのように、現に武道を学んでいる子供達であれば、きちんと正座して礼儀作法も出来るし、先輩を立てなければならないですから。

小沢 戦ってみて初めて自分の弱さを知り、そこからが勉強ですからね。

笹川 人間教育の原点は武道かもしれない。戦うことを知らない子供達は不幸ですよね。

小沢 頭より、体から入るような教育を通しての方が良いということですか。

笹川 両方大事ですがバランスがとれないといけない。知能ばかりが発達しても駄目で、心の教育も必要です。「体育」、「知育」、「徳育」、これは「体を鍛えること」、「知識を吸収すること」、「徳育」というのは心の問題だからこの3つのバランスがとれないといけません。

戦後の文化の断絶により失った日本の良さを取り戻すためには
小沢 会長自身が若い頃から活動されてきた原点は何ですか?

笹川 ある意味、親の教育ですよ。親が教育しないで子供が勝手に育ちますか。多くの人々は、教育というとすぐに学校の先生がするものだと思っていますが、学校へ行く前の教育は家庭でするでしょう。

小沢 家庭の在り方も一つの文化だと思うのですが、それが随分ないがしろにされてきた結果というのもあるかなと感じます。

笹川 それは戦後崩壊してしまったことですね。終戦を知らずにフィリピンのルパング島で戦後29年間頑張って来た最後の日本兵小野田寛郎さんは、自分が帰還して日本に帰って来てみて、子供が親をバットで叩く、親が子供を殺す等、こんなことは信じられない、何とかしたいとおっしゃられて、日本財団から20年間支援をして子供達の教育に尽力していただいていますよ。

小沢 連盟では講演事業をやっておりまして、第1回目に呼ばせて頂いたのが小野田さんで私もお会いしたことがあります。

笹川 そうですか。小野田さんが戻って来た時に、「ここはもう日本ではなくなってしまった」と感じたそうです。

小沢 やはり戦前と戦後の文化の断絶みたいなものがあるのではないでしょうか。

笹川 歴史が断絶した国というのは世界では日本しかなくて、日本の最大の汚点だと思います。歴史というのは良いにつけ悪いにつけ大昔からずっと連綿と続いて来ている。戦争に負けた結果、戦争前の古いことは全て悪いこと、新しいことは全て良いことという風に区別してしまった。その結果、家庭内にあった良いこともみんな断絶してしまった。

小沢 では教育荒廃と言われるのも文化の断絶からきているのが大きいでしょうか。

笹川 これからは戦前と戦後を繋ぐことを一生懸命やらないといけません。知らない人はみんな、江戸時代は封建主義の時代だったと学校で習っている。ですが、江戸時代に世界で唯一の100万人都市が日本にあったというのは、世界に冠たるエコの文化があっということなんです。

小沢 石油や石炭のような化石燃料を一切使わずというのがやはりすごいですよね。

笹川 そういう日本の良さを今一度子供達に理解してもらいたいんです。我々が伝える努力をしていかなければならないことですね。

小沢 戦後の親子教育の中では断絶した部分もあるんですけど、武道の中ではどうしても戦前もしくはその前の歴史や技や文化を感じないと強くなれないし、武道を子供達に伝承していかなくてはなりません。ずっと昔から日本にあった武術から武道、そして総合格闘技にいたるまで断絶のない文化としての「武道」を何とか保守したい、教育に生かしていきたいというのがあったので、引きこもり等の子どもたちに対してなんらかの役にも立てたかなと思いますね。

笹川 それは素晴らしい。

小沢 武道は地味ですから、コツコツとやらなければならないので、案外周りの人にその活動をわかって頂けない部分があるのです。今は『Yu』誌上で幅広く皆に啓蒙活動しているという部分もあります。

―日本財団ではそのような啓蒙もされている訳でしょうか。

笹川 人として大事なことを日本人が忘れている訳だから啓蒙も必要なのかも知れませんが、今はそこまではやっておりません。ただ子供達の教育については、色々な分野で一生懸命支援をしています。

小沢 親学というのもそういう見地からですか。

笹川 今の時代は、余りにも物質文明が発達し過ぎて欲しい物は何だって手に入る。そして子供が学校の成績が良いと、お母さんは子供に何でも、何万円する物でも買ってしまうでしょう? 私達の子供の時には欲しくても手に入らなかったし、買ってもらえなかったから我慢することも知っていた。この教育の弊害というのは百年たたる、百年かからないと元に戻らないと言われます。戦後教育で肝心なことはみんな忘れてしまっている。結局は四代くらい、約百年かかって、また日本の素晴らしいところを取り戻して行く。震災が起こっても秩序正しく我慢強く耐え忍んでやっているのは、本質的なところは日本人としての素晴らしいDNAを持っているからで、全ての素晴らしさを失ってしまった訳ではないのです。

小沢 何とかして、自分達はそういう秩序はきちんと守れるんだということを顕在化することが大事だと感じます。

笹川 日本人自身は誰も評価していないけれど、そういう日本人の良いところを評価してくれているのは、外国の通信社や新聞社です。

小沢 家庭内暴力や引きこもりの子は、かなり自己否定をしている場合が多いんですが、ある時自分はこれで良いんだということが顕在化すると、急に行動が良くなるんです。そういう意味では、せっかく持っている自分の良さ、自分達の文化の良さを顕在化していくことで自分が変わっていけると思うんです。

笹川 戦後の日本の知識人と言われる学者を始め、日本人は皆悲観的なんです。先行きの心配ばかりして年間3万人以上もの自殺者がいる。外国では貧しくて自殺なんて考えている暇がない、明日をどうやって生きようか精一杯だから、引きこもりも自殺者もいない。食べるために忙しいのです。

小沢 元引きこもりでも精一杯生きているから、武道の試合に出ると一生懸命戦うんですよね。

笹川 やはりそういう人達を褒めてあげなきゃいけない。戦前の教育でもそうでしたが、日本は「してはダメ」という文化ですが、やはり褒めることが重要です。

小沢 その「してはダメ」という文化もある意味で日本の文化なのですか。

笹川 昔から変わらない文化だと思います。

小沢 悲観的なところだけ残ってしまったという感じですか。

笹川 「駄目だと怒られれば怒られるほど認められている」と。そして「怒られるうちが華で、怒られなくなったらお終いだ」とも言われましたよ。でも余り怒られてばかりも気持ちのいいものではないですね。

日本の未来への展望と活動について
―今お話をお聞きしていると、未来に希望はあっても現在は閉塞感も感じられます。今後はどういう形で活動に取り組んでいかれるのかお話しくださいますか?

笹川 日本人として誇りを持って、将来に希望を持って生きることが大切。だから今震災や福島の原発問題に対しても希望が持てるようにしてあげなければいけない。どういうことかというと、被災した人たちに「1年半後には戻れますよ」と言うことです。そうすると人間は1年半なら頑張れるんです。ところが「いつ帰れるかわかりませんよ」と言われたら、希望や夢がないからみんなしょぼくれてしまう。皆さん方のように武道をやっている方は、必ず将来「あの時先生に習っておいて良かった」「おかげで自分はこんなに強くなったし頑張れるようになった」と思えるようになるのだと教えてもらいたい。武道を覚えて強くなることも大事だけれど、それ以上に武道を通じて学んだことの方が大人になってもっと役に立つ。いくら強くても80歳になったら身体は弱くなるけれど、教わった精神はもっと強くなりますよ。

小沢 趣旨は笹川先生の仰ることと同じで、当たり前のことなんですけど、今の子供達を見ると自分のことだけに凝り固まってしまっている。よく保護者の方に、ご自分の子供さんのことを思うのであれば他人の子供さんのことも考えてあげて欲しいと話をするんですが、理解はして下さっても、実際の場面になると自分の子供さんの方だけになってしまうことが多いんです。PTAも、本当は学校の手助けをするはずが学校は文句を言いに行く場所みたいになってしまっている。そういう意味では日本の文化、日本人の国民性は実は素晴らしいんだということを顕在化させていく必要があると思うんです。思春期の時に海外に出て英語等を学び、海外のことをよく知る中で、日本の文化の良さが顕在化されていくと思います。学園の中には、来年から英語習得コースが開校しますが、海外で武道を学び、夏休みはバックパッキング等体験教育を重点に置く予定です。ボランティア活動、たとえばエイズのホスピスへ行って1カ月奉仕などの活動を積極的にする中で、大学の推薦枠で有利になりますので、人間力を上げながら大学に進学して欲しいと思います。

笹川 外国は高校でも既にそういう取り組みがあります。自分で夏休みの冒険旅行の計画をきちんと提出すると、内容が優秀な場合は学校から交通費の一部が出るんです。ところが日本ではそんなの真似出来ないでしょう? 
もしそれで事故が起きたら学校の責任にされてしまいます。事故は人間生きている限り必ずつきものだけど、全部学校の先生の責任にしてしまいますから。

小沢 そういう日本人の国民性、文化が断絶することによって、大分国民性が損なわれたというのもあるんですかね。

笹川 でも今の若い人の中にはしっかりした人も沢山出て来ているから、決して希望を捨ててはいけないと思います。

小沢 戦後の傷を持たないというか、負けて劣等感がない世代が「まとも」になって来ている。これから日本人が海外でどうしていこうかと考えているのだと思います

笹川 皆さん素晴らしい活動をなさっているのですから、これからも頑張って下さい。

2011年9月5日

「ハンセン病国立療養所多磨全生園」  インドでのハンセン病制圧活動 [2012年03月25日(Sun)]
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多磨全生園の桜


「ハンセン病国立療養所多磨全生園」


原稿は多磨全生園機関誌「多摩」に3月に掲載されたものです。

多磨全生園は西武池袋線秋津駅から徒歩20分。ハンセン病の歴史資料館もあり、広大な敷地に咲き誇る桜が名物です。天気の良い日のお出かけをお勧めします。


インドでのハンセン病制圧活動

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平


昨秋、インドの東部チャティスガール州と南部アンドラ・プラデシュ州を訪問しました。両州で、ハンセン病の回復者やその家族が集まって生活するコロニーを訪問すると同時に、彼らの実情や状況の改善を州の要人らに訴えることが主な目的です。

インドは、WHOが定めるハンセン病制圧基準(人口1万人あたりの有病率が1人未満)を2005年末に達成しており、2011年3月現在の有病率は0.69となっています。とはいえ、人口約12億人のインドでは、毎年約12万6千人もの人々が新たにハンセン病と診断されており、全国には回復者やその家族が居住するコロニーが850ヵ所もあります。ハンセン病に対する偏見は非常に根深く、患者や回復者及びその家族は今も日常的に厳しい差別に苦しめられ続けています。インドにはこれまで40回以上訪問していますが、状況を少しでも改善するために何度でもインドの関係者の戸をたたき続ける必要があるのです。

首都デリーに到着した翌朝、チャティスガール州ライプールに飛行機で移動し、空港からそのまま車で約4時間かけてビラスプールを訪ねました。チャティスガール州はインドの中でも比較的発展が遅れている地域です。道は舗装されていないデコボコ道が多く、道路の真ん中に大量の牛が歩いていたり、寝そべっていたりします。車が側を通っても牛は気にもとめず、ゆったりとしています。4時間揺れ続ける全身マッサージの車中から泰然とした牛の姿を見ていると、まさに「インドに来た」という想いが深まります。

ブランバ•ヴィハール•コロニーは少し前に大雨が降ったようで、周囲が水浸しになっていました。衛生状況も良くないようです。このコロニーは1979年に設立され、現在は23世帯45人が住んでいます。この州で110年以上活動を行っているザ・レプロシー・ミッション(TLM、英国救らい協会)の支援で四つの自助グループが形成され、共同で銀行口座を開設して貯蓄する習慣をつけています。生活状況は決して良くありませんが、リーダーのチトラ・シンさんを中心にコロニーの皆さんがよくまとまっている様子が伺えました。私からは州の回復者リーダーであるガシュラム・ボイさんを紹介し、「州のリーダーであるボイさんとコロニーのリーダーであるシンさんとが協力し合い、皆が団結すれば、大きな力となり、状況は必ず改善するのでがんばってほしい。私も皆さんの生活向上のため最大限努力する」と励ましました。シンさんによれば、コロニーが冠水しないようインフラの整備を政府に訴えているが聞いてもらえないとのことですが、州に点在するコロニーが団結して活動すれば、そういった訴えも届くようになると説得しました。

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ブランバ・ヴィハール・コロニーで回復者たちと


この後、ビラスプールの市街地に移動し、チャティスガール州のハンセン病担当官であるバット・パーレ博士が私の訪問に合わせて開催してくれた各県のハンセン病担当官が30人ほど集まる会議に出席しました。パーレ博士から、2001年に1万人あたりの登録患者数が11.0人だったのが、2006年までに1.46人まで激減したこと、その後は2.0前後で推移している状況の説明がありました。インド国内で有病率が1.0を超えている州はチャティスガールとビハールの2州のみで、チャティスガールは有病率が最も高く、18ある県のうち10県が10万人あたりの年間新規患者数が10人以上という蔓延県です。遠隔地域へのアプローチやハンセン病対策の公衆衛生政策上の優先度の低下、人材不足などの課題が残されていますが、パーレ博士からは対策強化への強い意思表明があり、回復者の障害に対する再生手術も力点をおき、回復者の社会復帰に尽力すると強調されました。私もパーレ博士の案内で、手の再生手術を受け、今は壷作りの仕事をしている回復者のクマールさんの家を訪ねました。たくさんの壷がところ狭しと並べられているなか、奥さんとかわいらしい子供3人とで仲良く暮らしている姿がとても印象的でした。会議の場でも「彼が自信をもって生きている姿を見て、一人でも多く彼らの人生を手助けすることが私たちの崇高な責任である」と参加者に訴えました。

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クマールさんの家族と


会議のあと、その日が誕生日というアグラワル州保健大臣に回復者のボイ代表と面会しました。インドでは州といっても、人口からすれば一国に値するほどの規模です。インドは連邦国家であり州ごとに大臣がおり、大きな権限をもっています。医者である娘と共に、「チャティスガール州をハンセン病対策のモデルケースとしたい」と決意を語り、ボイさんとの協力も約束してくれました。

翌23日は、まず車で1時間ほどかけドゥルグ県のアシャディープ•コロニーを訪問しました。このコロニーは笹川インド・ハンセン病財団(SILF)が小規模融資を行っているところです。私が訪問した際にも、融資によって購入した機織り機を使って、女性たちが上手に敷物を織っていました。5枚のサリー(インドの伝統的な女性服)をリサイクルし、1枚の敷物をつくるそうで、政府から学校用に注文を受けることもあります。これにより月4500ルピー(約9000円)ほどの収入を得ることができ、「お金も少しずつ貯めている」と嬉しそうに笑顔で答えてくれました。ほかにも、ホウキづくりや町の清掃を行って生計を立てている方など、それぞれが手に職を持って働いています。また、学校から帰ってきた子どもたちは両親の仕事を楽しそうに手伝っていました。このコロニーからは医者やエンジニアになった子どももおり、コロニー外の女性から尊敬され結婚した男性もいます。コロニーの皆さんの努力によっては一般の人からの差別が解消され、尊敬を得ることができるという一つの事例です。これまで40回以上インドを訪問し、100カ所以上のコロニーをみてきましたが、ここが一番のコロニーだという印象を受けました。聞いてみれば、数十年来コロニーの住民をまとめてきたリーダーのビシュヴァナスさんはコロニーの生活改善の闘いの中で19回の投獄経験のある活動家です。私はこのコロニーを一つの成功事例とし、インド中のコロニーをこのレベルに上げるという決意を新たにしました。

その日の午後は、レプロシー・ミッションと州の回復者団体の共催によるハンセン病対策に取り組むNGOが集まりワークショップを行いました。レプロシー・ミッションは2つの病院と3つの職業訓練施設を運営しており、手の再生手術やカウンセリング、自助グループの組織化、コンピュータや織物、機械などの職業訓練を行っているという発表がありました。回復者団体代表のボイさんは「政府への働きかけを続けていくと同時に、我々自身も起業していかなければならない」と語り、私は、午前中に見学したアシャディープ•コロニーの話をし、「コロニーの人々は働く能力も意欲もあるが機会だけがない。機会さえ与えれば素晴らしい成果を発揮する。努力しだいで社会の差別の心は尊敬の念に変わりうるとこの州で証明されている。」と強調しました。

翌24日の最終日は、朝は車で1時間ほど移動し、セントヴィノヴァ・コロニーを訪問しました。このコロニーはチャティスガール州最大のマハナディ川を含む3つの川が合流する宗教的聖地に位置します。そのため、物乞いで生活している者が多く、コロニーの衛生環境もよくありませんでした。昨日訪問し、皆が仕事をしていたコロニーとは印象が正反対で、住人に元気がなく表情も暗く、まとまりも感じられませんでした。私はインド中のハンセン病コロニーから物乞いをゼロにすることが後半の人生の夢ですが、このコロニーを視察して今までの何倍もの努力の必要性を痛感させられました。

この日はほかに、小学1年生から高校3年生までハンセン病回復者児童約400名が通うジヴォダヤ寄宿舎の訪問や、今回のチャティスガールでの活動を発表する記者会見、関係者との打ち合わせ、地元紙の個別インタビューなど多忙な一日でした。チャティスガール州はインドで最も有病率の高い州ですが、今回の訪問で関係者と精力的に会談し、活動したで、今後の変化を期待して引き続き注視していきたいと思います。

25日は南部のアンドラ・プラデシュ州ハイデラバードに飛行機で移動しました。到着後、早速記者クラブで会見を行い、そのままコロニーを訪問するため車で3時間ほどかけてニザマバードに移動しました。実は、アンドラ・プラデシュ州ではテランガーナという地域が州分離運動を行っており、私の訪問時にも公共交通機関のストライキや都市部各地でのデモなどが行われていました。その状況を現地の方から聞き、安全面で不安があることからニザマバードへの訪問を断念することも日本財団の担当者は検討していました。しかし、今回の訪問を要請してくれていた地元選出のヤスキ国会議員が安全の保証をして下さり、軍の警備つきで訪問が実現したのです。

ニザマバードのデヴァナガル・コロニーでは、200名近くの住人、それに多くの報道陣や警備隊も混じり、ごった返しの歓迎を受けました。そして、ヤスキ議員と再会の握手を交わしたのち、ハンセン病患者、回復者の一人一人と握手しながら挨拶して回りました。ヤスキ議員も私に続いて一人一人と握手を交わされ、彼らへの愛情を表現されていました。このコロニーの住民は180世帯850人で、農業または自営業で生計を立てていますが、1割ほどは物乞いです。若者たちは両親のサポートを受けながら、様々な業種の小売店を経営し、笹川インド・ハンセン病財団からも美容院、写真屋、洗濯屋、小売店の運営とバッファロー畜産に対しての小規模融資を実施しています。私の挨拶の後、ヤスキ議員からは「年金の増額のための働きかけや、道路などのインフラ整備、子どもたちの雇用などに取り組んでいく。また、笹川平和財団の交流事業で過去に2回訪日し、笹川さんとお話したのを機にハンセン病への関心を深めた。ハンセン病差別撤廃のための国会議員連盟をつくる」と表明されました。

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デヴァナガル・コロニーを訪問



ヤスキ議員は、翌日の朝食にも私邸に招待して下さると同時に、午後に開催したハンセン病人権セミナーでも力強い発表をして下さいました。セミナーではハンセン病患者、回復者に対する被選挙権や結婚、公共施設の使用などに関する差別的法律を議題にしましたが、「議員連盟を超党派でつくり、国会での議論や最高裁への働きかけを行う」と述べられました。彼の「お金が重要ではない。共にいる愛がいかに重要かを感じている。彼らの笑顔を見れるように、希望をもって尊厳をもって生きられるようにしたい」という言葉がとても印象的でした。

この日は13のコロニーの代表者会議もあり、男女約50人が集まり、それぞれの困難な生活状況の報告がありました。アンドラ・プラデシュ州には全部で101のコロニーがあり、その数はインドで最大です。土地や住宅、道路や衛生環境、年金や子供の教育など様々な課題をそれぞれが抱えており、集会はやや喧々諤々の様相となりました。しかし、この州でリーダーを務めるナルサッパさんを中心に州全体がまとまっていく過程にあり、このような意見交換と情報共有の場は大変重要なことで、私からも「101のコロニーが一つに団結すれば大きな力となり、州政府に声が届く。ぜひナルサッパさんを中心に団結してほしい」と説得。ナルサッパさんはインドのハンセン病コロニーの全国組織で、私も創設に携わったナショナル・フォーラムの理事でもあります。「他の人に依存するのではなく、自分たちの足で立っていかなければならない」と、集まったコロニー住人たちに力強く訴えていました。

話は少しそれますが、この集会の後の移動の際、先ほど述べた州分離運動の交通遮断デモに遭遇し、車が動かせない状態になりました。周囲は騒然とし、軍や警察、救急車、メディアも駆けつけています。何事も現場を見ないと分からないというモットーの私は、群衆をすり分けデモの最前線に行ってみました。一緒に行った職員が気付かれないように私の背後からビデオ撮影をしていると、デモ・グループの中に、その日、ヤスキ邸で朝食を共にした国会議員が座り込んでいました。お互いに気づいた我々は握手を交わし合ったところ、自分の横に座れと合図がありました。デモ隊の座り込みの先頭に私が座ったらテレビカメラの放映の中で後日、「あの日本人は誰だ!」ということになり危険外国人として入国禁止になったことでしょう。世界中でハンセン病の現場を訪ねると、日本では経験することのない様々な場面に出会います。その出会い一つ一つが現場への理解につながり、私自身の活動の刺激にもなります。

話を本題に戻したいと思います。翌日、アンドラ・プラデシュ州最終日はラジュカール地方貧困対策局局長、サティヤナラヤナ州社会福祉大臣、レディ州人権委員会委員長らと面談。すべての面談に、ナルサッパさんをはじめとした州の回復者リーダーたちに同席してもらい、なるべく彼らから直接話をしてもらう機会をつくりました。政府に何かを要求する際には、各コロニーが個別にお願いをしていては、政府としても全てに応えることはできません。逆に、州全体のコロニーの状況を代表者が整理し、優先順位をつけて、関係部局に的確に陳情することで、政府としても対応しやすくなります。今回はそのことを意識し、回復者リーダーにも、政府要人にもその旨をお話しました。

アンドラ・プラデシュ州はインドの中でも回復者の活動が進んでいるところですが、もう一つ特筆すべきこととして若者の存在があります。この日のお昼、コロニーに住む若者が20人以上集まる集会がありましたが、それだけ多くの将来性豊かな若い人たちと一度に会えたのは初めてのことです。ハンセン病によって苦しんできた親を助けたいという願いを持つ彼らの姿に触れ、ハンセン病コロニーの青年全国組織、ナショナル・フォーラム青年部を組織することを思いつきました。教育を受けた青年たちが一つにまとまり、立ち上がれば、社会を変革する大きな力になるはずです。

今回のインド訪問では、住人の大半が物乞いをしているコロニーから、いきいきと仕事をして住人に笑顔があふれているコロニーまで様々な状況をみてきました。州全体のコロニーをまとめようと奮迅する回復者州リーダーの存在はたのもしく、州によって状況は様々ですが、各州が刺激し合うことで州リーダーが育ち、州全体がまとまることで、その力が強くなり、ナショナル・フォーラムの存在が広く知られ、コロニー全体の生活の改善につながると信じています。そして私自身の長年の夢であるハンセン病の差別のない世界、物乞いをせずに尊厳をもって生きられる社会を実現するまで、何度でもこの国に足を運び、回復者たちと共に歩んでまいりたいと思います。

ハンセン病国立療養所菊池恵楓園 [2012年03月24日(Sat)]
「ハンセン病国立療養所菊池恵楓園」


原稿は菊池恵楓園機関誌「菊池野」に2月に掲載されたものです。

菊池恵楓園は、明治42年4月に九州7県連立「九州癩療養所」として開設され、昭和16年に国立療養所「菊池恵楓園」となった。

現在359名(平均年齢80.6歳)の方が生活されている。

熊本には加藤清正を祀ってある本妙寺があり、かつて、この参道には物乞いする多くのハンセン病患者がいたといわれている。この光景に心を痛めたイギリス聖公会のハンナ・リデル女史は、救済のために回春病院を開設した。

ハンナ・リデルは日本のハンセン病の歴史に大きな影響を与えた。回春病院は現在、彼女の資料の展示場になっている。ご興味の方は、英国大使であったアラン・ボイドの夫人、ジュリア・ボイド夫人が書かれた「ハンナ・リデル」(熊本文化出版会館 2005年発行)をお勧めしたい。

同じ頃、カトリックのコール神父が待労院を開設した。ここには今でも数人の回復者が余生を送られている。

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中央アフリカ共和国でのハンセン病制圧活動


WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平


2011年7月17日から21日にかけて、アフリカ中部の中央アフリカを訪問しました。これまでアフリカ諸国には頻繁に足を運んでいますが、同国の地を踏むのは今回が初めてです。

中央アフリカはチャド、スーダン、コンゴ民主共和国、コンゴ共和国、カメルーンと5カ国に国境を接する内陸国で国土面積は62万平方キロメートル(日本の約1.7倍)、人口約430万人の国です。緯度は赤道に近く、南部には熱帯雨林が広がり緑豊かです。1960年にフランスより独立しましたが、度重なるクーデターや内戦で政情が不安定な状態にありました。最近になってようやく政権が安定し、落ち着きを取り戻してきたようです。国民が信仰する宗教は、カトリック、プロテスタント、イスラム教、伝統宗教がそれぞれ4分の1ほどです。農業など第一次産業が主要産業で、資源はダイヤモンド、金、ウランなどを産出していますが、政情不安などの影響で、経済的には厳しい状態が続いています。

2005年に公衆衛生上の問題としてのハンセン病の制圧(有病率が人口1万人あたり1人未満)を全国レベルでは達成していますが、州レベルでは16州のうち4つの州で制圧をまだ達成できていません。年間の新規患者数は2010年で235人、人口1万人あたりの有病率は0.52という状況です。政情不安の影響や保健行政上のプライオリティの低下から、患者数がやや増加傾向にあるという報告が届いていたので、中央アフリカ政府のハンセン病対策に対するコミットメントを強化する必要があると判断し、今回の訪問となりました。

7月17日の午後、首都バンギの空港に降り立ちました。飛行機を降りると、強い日差しと強烈な暑さが襲い、アフリカの中心地に来たことを実感させられました。空港では、マンダバ保健大臣と2人の女性閣僚であるゼゼ社会問題大臣とナン教育大臣、それにWHO(世界保健機関)代表のマイガ博士ら大勢の方が出迎えてくださり、地元の人々による歓迎のダンスもありました。驚いたのは、ハンセン病の患者、回復者の方々まで空港で待ってくれていたことです。私も長い間各国を訪問していますが、そういったことは初めてのことです。空港では早速メディアのインタビューがあり、中央アフリカでハンセン病は公衆衛生上の制圧は達成したものの、病気の根絶と差別の撤廃に向けて取り組みをさらに強化する必要があるので、そのために今回訪問したと説明しました。また、国民に対して、ハンセン病は治る病気で、薬は無料であること、差別は間違いであることなど、ハンセン病について正しく理解してほしいと訴えました。

その日の夕方、WHOのオフィスを訪問し、マイガ代表や担当官からハンセン病の状況に関するブリーフィングを受けました。中央アフリカではILEP(世界救らい団体連合)のメンバーでスイスに本部があるFAIRMED(前ALES)の協力を受けて、ハンセン病対策を行っています。現在は、首都バンギに近い南西部オンベラ・ムポコ州とロバイェ州、それに北東部のバカガ州とオート・コット州の4州が、人口1万人あたりの患者数が1人以上と制圧が達成されていない地域で、この4州をターゲットにし制圧活動を進めていきたいとの報告がありました。私からは、この国でハンセン病の患者数をゼロにしていく環境は整ってきているので、保健省と仕事がやりやすくなるように私の訪問を活用していただきたいとお話しました。

翌18日、保健省を訪問し、マンダバ保健大臣と会談しました。私からは、HIV/エイズやマラリア、結核など数多くの病気があるなか、患者数が少ないハンセン病対策に尽力していただいていることに感謝の意を述べ、今後もWHOと保健省で協力しさらなる患者数の減少に向け取り組んでいただきたいと要請しました。保健大臣からも、WHOと一緒になって未制圧の4州でハンセン病を制圧し、根絶に向けて取り組んでいきたいと積極的は発言をいただきました。保健大臣は41歳と若く、まじめでしっかりと仕事をしてくださる印象を受けました。

保健大臣との面談後、車で2時間かけて西に移動し、ロバイェ州の森林奥地にあるカカ村を訪問しました。ロバイェ州は人口28万人中登録患者数が52人で、1万人当たりの患者数が1.84と未制圧州の一つです。その地域周辺にはピグミーと呼ばれる、体が小さく森を移動して生活している人々も住んでおり、ハンセン病の罹患率も高いそうです。村に着くと、お年寄りの方から小さな子どもまでが一緒になって賑やかなダンスと歌で歓迎してくれました。ハンセン病の患者・回復者は50人ほどいらっしゃり、一人ひとりと握手し挨拶を交わしましたが、多くの人に障害があり、患部のケアもあまりされていない様子でした。見た目からも苦しい生活が容易に想像され、胸が痛くなりました。

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この村ではベルギーから来たシスターが1年前から診療活動を行ってくれています。1985年から中央アフリカで医療活動を行っていましたが、この村に初めて来たとき、その現実を見て非常に大きな衝撃を受け、村での活動を始めたそうです。患者さんの代表からもお話があり、ハンセン病にかかったと知ったときの悲しみや、指、足と症状が進んでいくにつれ深まる苦しみを吐露されました。また靴を支援してほしいとの訴えがありました。この地域では多くの方が患部をむき出しにしたまま裸足で生活しているのです。一緒に来てくださった保健大臣からも話があり、私がハンセン病患者たちと触れ合う姿をみて、自分たちも自国でハンセン病に苦しむ人々のために何かをしなければならないと思ったと語られました。私からは、ハンセン病は神様からの罰でもないし、伝染性の強い病気でもない、薬は無料なので、早い段階で薬を飲むことが障害を残さないために大切だとお話しました。最後には、村人たちのダンスの輪の中に、私だけでなく、地元の市長や保健大臣までが入り、一緒になって踊りました。健康な人も病気の人もみな兄弟姉妹であり、分け隔てなく共に生きていくべきだというメッセージが少しでも伝わったのではないかと思います。

翌19日は、政府要人との面談が多い1日となりました。まず朝一番にトアデラ首相を表敬訪問しました。ハンセン病患者を減らすためのプログラムの推進と、国民へのハンセン病に関する正しい知識の普及をお願いし、首相からとても前向きな発言をいただきました。考えられているハンセン病強化プログラムの中には障害のある回復者の住環境の整備や、子供たちの就学支援など、生活環境の改善についても考慮すると述べて下さいました。また、日本財団がアフリカの農業に携わっていることにも触れられ、中央アフリカ国民の80%が農業に従事しており、貧困脱却のためには大規模な農業開発プログラムが必要という話をされました。私も首相の考えと全く同じであり、これまで25年間実施してきた「笹川グローバル2000」という食糧増産プロジェクトの経験を踏まえた国際会議を11月にマリで開催することを紹介し、担当者の派遣を提案しました。

その後、ガオンバレ国会議長、そして、到着日に空港に来てくださったゼゼ社会問題大臣とも会談しました。議長からはハンセン病の患者・回復者を差別しないようにする法律を議会で通すことや、ハンセン病関連の予算引き上げも検討できるというお話をいただきました。障害者や高齢者、差別の問題などを横断的に幅広く扱われている社会問題省のゼゼ大臣は、国民がハンセン病に関する正しい知識を持って差別を行わないよう、情報提供活動を実施していくと述べられました。

翌20日はまず教育省を訪問し、高等教育・研究担当のサコ国務大臣、サール職業・技術教育大臣、ナン初等・中等教育大臣の3名の大臣とお会いしました。初等・中等教育大臣からは、ハンセン病に関する正しい知識をエイズやマラリアなど他の公衆衛生の問題も含めて子供たちに教えていくという話がありました。職業・技術教育大臣は、技術教育高等学校が国に1つしかないことや、特に女子への技術教育の不足を心配されていました。国務大臣からは、国内唯一の総合大学の入学者数が、30年前の設立当初は700人だったのが、来学期には約2万人になるという報告を受けました。また、農業大学で農業技術を教えており、国の発展に貢献していると語られました。大臣たちのお話を伺い、予算が足りないなかでの国づくりの苦悩をひしひしと感じました。私からは、教育全般のあり方について必ずしも外国を参考にせず、自身の考えを進めていくとよいということ、そして、「1年穀物を植える、10年木を植える、100年人を育てる」というように、人材育成は20年、30年のスパンで計画を立て、毎年着実に進めていかなければならないと述べました。特に、首相との会談でもあったように、食料増産による農民の貧困解決と農業教育の重要性についてお話しました。

また、国連代表部も訪問し、人権問題を専門とされるヴォグト代表とも意見交換を行いました。数年来ジュネーブの国連人権理事会に働きかけた結果、昨年、人権理事会および国連総会でハンセン病患者、回復者および家族に対する差別撤廃の決議が192カ国全会一致で採択されたことを報告しました。もちろん、決議が得られたからこの問題が解決するわけではなく、私自身が決議を活用して各国の国家指導者やメディアに訴えかけ、法律や人々の慣習を変えていかなければなりません。ヴォグト代表は、中央アフリカにおける魔術の考えと人権問題について触れ、ハンセン病患者や障害者、病気の女性などが魔術にかけられたと思われ、人々から非難され、殺されてしまうと嘆かれ、そういった問題をなくしていかなければならないと話されました。また、私が実際に患者と触れ合っている姿がメディアで報道されることが、差別をなくしていくうえで大きな効果があると述べて下さいました。

この日は、首都バンギから24キロ離れたダマラという地区にあるデレバマ保健所も訪問しました。中央アフリカ国内に5ヶ所あったハンセン病療養所のうちの1つで、2000年に一般診療と統合されました。現在8人のハンセン病患者が自宅から通っているそうです。しかし、実際に中の様子を見てみると、MDTが1つもなくは、カルテの記録も途中で途切れている状態でした。MDTは注文中で、スタッフは最近あった内戦で逃げてしまったという報告も受けましたが、それにしても、私が各国の保健所を訪問した中でMDTがなかったことは初めてのことです。この国でいかにハンセン病対策が滞っているかを垣間見た気がします。

その日の午後には4日間の中央アフリカ滞在を総括する記者会見が行われました。その間、空港到着から要人訪問、そして地方視察にいたるまで多くのメディアが同行し、熱心に取材をしてくれました。私は常々、ハンセン病の問題を解決するにはメディアの協力なくしてあり得ないと考えています。それは、患者が病気を恥ずかしいと思い隠してしまうので早期発見が難しいこと、また、病気が治っても社会からの差別が消えないため社会復帰が難しいことが、医療、社会の両側面における課題であり、そういった人々の意識を変えるにはメディアの力が大きいからです。記者会見の質疑応答でもそのことを述べ、改めてメディアの協力を訴えました。

中央アフリカでの最後の夜は、大統領府で政府主催の晩餐会が行われ招待を受けました。大統領はご欠席でしたが、トアデラ首相はじめほぼ全ての閣僚と国際機関代表らが出席されました。そして、中央アフリカ政府から私に、ハンセン病への取り組みを評価する勲章を授与していただきました。首相からメダルをかけていただき、ハンセン病との闘いを情熱と忍耐をもって継続していかなければならないという気持ちを改めて強くしました。この勲章は、闘いを共にしてきたWHOや保健省、NGOの皆さん、そして何よりもハンセン病回復者の皆さんの努力によるものであり、全ての関係者の方々に贈られたものであると思っています。

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今回の中央アフリカ訪問では、病気と貧困に苦しむ患者の姿や、保健所にMDTがなかったことに象徴されるように、必要な医療サービスが必要なところまで行き届いていない現状を痛感しました。一方で、多くの国家指導者とお会いし、ハンセン病対策の強化について積極的な発言をいただきました。私の訪問がきっかけとなり、WHOと保健省がしっかりと協力し合い、患者数の多い4州での制圧と、さらには患者数ゼロに向けた取り組みが力強く推進されること、そしてハンセン病患者、回復者の方々への差別がなくなることを強く願います。そして、私自身もそのための闘いを生涯かけて継続していく決意を新たにしました。

被災地の瓦礫処理問題 [2012年03月15日(Thu)]
「被災地の瓦礫処理問題」


被災地の復興の基本は瓦礫処理問題である。
下記の通り、3月8日の毎日新聞に筆者の拙文が掲載された。

この記事を野田首相が読まれたのかどうかは不明であるし、影響があったとの不遜な考えは毛頭ないが、瓦礫処理について、3月13日の朝日新聞・夕刊に首相が出された指示が報道された。

日本の首相の権限は少ないというが、これは誤りである。強い意志を持って指示すれば大概の事案は処理できる。

国難の折、野田首相の勇断あるリーダーシップを期待したい。

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毎日新聞「これが言いたい」

がれきの処理目標、このままでは達成できない
復興資源としてリサイクルを


         2012年3月8日
笹川 陽平


東日本大震災から1年、「東北ガンバレ」「絆」「つながり」など被災地を励ます言葉が今も社会にあふれている。被災地の痛みは誰もが共有すべきで、掛け声だけでなく具体的な行動こそ被災者を勇気付ける。

被災地では今、膨大ながれきの処理が滞り、復興の大きな妨げとなっている。岩手県が通常の一般ごみ11年分に当たる476万トン、宮城県が19年分の1569万トン、福島県は208万トン。広域処理の対象となっている岩手、宮城両県で処理された量は10%以下。県内処理となる福島は除染作業の行方も絡みいまだに先は見えない。

広域処理を引き受けているのは東京都、山形県などに限られる。前向きな姿勢を打ち出している神奈川、静岡両県知事や青森県八戸市長らが近く「みんなの力でがれき処理」プロジェクトをスタートさせると聞く。一つでも多くの自治体による参加を求めたい。

放射能は自然界にも広く存在する。限りなくゼロを求め一切を拒否する限り、復興は進まず被災地に対する差別にもつながりかねない。問われているのは各首長の決断と住民に対する説得力である。

しかし広範な協力が得られたとしても、政府が目標とする14年3月末までの処理はやはり難しい。解体が必要な建物や大津波による塩害で立ち枯れになった樹木など、今後もがれきは大幅に増えるとみられるからだ。600万トンを超すがれきが市内各所に山積みされた宮城県石巻市では内部が発酵し、メタンガスが発生するという被害も出始めている。

事態を改善するには、広域処理に加え、新たな処理方法を確立する必要がある。がれきを厄介視するのではなく有効な復興資源として埋め立てなどに活用することこそ現実的な打開策と考える。

95年の阪神大震災では約2000万トンのがれきの半分が土地造成などにリサイクルされた。関東大震災(1923年)では大量のがれきや焼土を活用して横浜観光の中心「山下公園」が造成された。第二次大戦後のドイツでは建物の破片ばかりか戦車の残骸なども使い、公園整備など復興が進められたと聞く。

今回は、これまでになかった放射能汚染問題が加わる。議論の的となっている埋め立て可能な焼却灰の基準「1キロ当たり8000ベクレル」ひとつとっても危険性があるとは思えない。放射能が人体に影響を与える単位であるシーベルトに置き換えると年1ミリシーベルトを下回る数字で、昨年9月、日本財団が世界の専門家を集め福島で開催した「放射線と健康リスク」に関する国際会議で「年20ミリシーベルト以下は危険な数字ではない」とされた点からも問題はないと判断する。

材木やコンクリート塊、土砂に対する需要は大震災で地盤沈下した地域のカサ上げや高台の整備など、いくらでもあるはずだ。木材の場合は焼却処分で二酸化炭素(CO2)を発生させるより、埋め立てて自然に戻す方が理にかなっている。

同様の考えは国際的活動で知られる植物生態学者、宮脇昭・横浜国大名誉教授によりさらに具体的に提案されている。被災地に穴を掘り、危険物を除いたがれきを土砂とともに埋め、盛土状にし、タブノキなど常緑広葉樹を植える。15〜20年後に大規模な防潮林堤を完成させる、というのだ。
 
被災地は広く、適地はいくらでもあろう。十分、検討に値する妙案だと確信する。

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がれき積極利用 首相指示
閣僚会合 防潮林・高台整備など


2012年3月14日
朝日新聞・夕刊

 東日本大震災で発生したがれき処理を進めるため、野田政権は13日、第1回の関係閣僚会合を開いた。野田佳彦首相は「今までの発想を超えて大胆に活用してほしい」と要請。関東大震災のがれきで横浜市に山下公園を整備したエピソードを引き、将来の津波から住民を守る防潮林の盛り土や避難のための高台の整備、道路などの材料として、被災地のがれきを再利用していく考えを示した。
 細野豪志環境相は会合後、「鎮魂の気持ちとともにがれきを処理していく」と述べ、まず防潮林としてがれきを利用する準備に取りかかる方針を示した。環境省は、復興のシンボルとして三陸地方の自然公園を再編する「三陸復興国立公園」(仮称)の整備にも活用する方針だ。
 このほか、セメントや製紙業など、焼却設備を持つ民間企業にも協力求める方針を確認。経済産業省はこの日、関係する業界団体に要請文書を送った。同省によると、汚泥をセメントンの原料にしたり、木くずなどを製紙業のボイラー燃料にしたりして、2月20日現在、企業が約10万トンのがれきを処理したという。
 会合では、今週中にも全国の都道府県や政令指定都市に対し、がれき処理に協力を求める首相名の文書を出す方針を確認した。前向きな自治体に対しては、被災地の自治体名やがれきの種類、量などを明示し、具体的に受け入れを求める。
 被災3県で発生したがれき約2253万トンのうち、処理が終わったのは6.7%にすぎない。処分場の不足、放射能汚染の不安などから広域処理も進まず、本格的な受入れが始まっているのは東京、山形、青森の3県だけだ。
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