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日本財団会長 笹川陽平ブログ

写真:ハンセン病の現場から「アフリカ・ピグミー族」

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「ハンセン病と人権」その2―国連人権理事会で決議― [2015年08月24日(Mon)]
「ハンセン病と人権」その2
―国連人権理事会で決議―


7月2日、第29回国連人権理事会において、日本政府提出の「ハンセン病差別撤廃決議」が94カ国の共同提案国を集めて全会一致で採択されました。

ハンセン病に関する日本の人権外交の画期的成果が一つ増えたことになります。

本決議は、2010年の国連総会決議で各国政府等に十分な考慮を払うように求めていたハンセン病に関する差別等の問題を解決するための「ハンセン病患者・回復者及びその家族に対する差別を撤廃するための原則及びガイドライン」の実施状況に関する調査を、国連人権理事会の下部機関である諮問委員会に求め、2017年6月に開催予定の第35回国連人権理事会に「P&G」のより広範な普及とより効果的な実施のための実践的な提言を含んだ報告書の提出を要請する内容です。

日本財団は2000年代初頭から「ハンセン病は人権問題である」と国連人権高等弁務官事務所等に働きかけを続けてきており、日本政府が提出し全会一致で採択されたハンセン病に関する2008年、2009年、2010年の国連人権理事会決議や2010年の国連総会決議を全面的に協力してきました。

今回の国連人権理事会決議を歓迎し、今後も世界各国に未だに根強く残るハンセン病感者・回復者やその家族に対する偏見や差別の解消を目指し、残りわずかな人生を燃焼させていきたいと思います。

以下、多少専門的になりますが、ハンセン病と国連人権理事会との関係と日本財団の活動について羅列しました。

○より具体的には、諮問委員会は第35回国連人権理事会(2017年6月開催)に「原則とガイドライン」のより広範な普及とより効果的な実施のための実践的な提言を含んだ報告書の提出を求められている。

○この報告を受けて、国連人権理事会において、2017年6月の理事会会合において、この議題が討議されることとなる。

○この決議の重要な点は、そもそも2010年に採択された決議で各国の十分な配慮が求められた「原則とガイドライン」には、条約のように法的な拘束力がなく、そのままにしておくと形骸化してしまう恐れがあるところ、そうさせないために5年後の調査・レビューを諮問委員会が実施し、差別と各国における対応の現状を明らかにするところにある。そして、その調査結果をもとに、具体的・実効的な方策を検討し、人権理事会において継続的に審議をすることにより、拘束力のない「原則とガイドライン」を拘束力ある施策へと発展させるところにある。

○日本財団は、2010年の決議と「原則とガイドライン」を受けて、世界5大陸において、その社会的認知を高めるための国際シンポジウム「ハンセン病と人権」を政治リーダー、保健担当実務者、メディア、NGO、人権専門家、ハンセン病患者、回復者などの参加を得て実施してきた。また同時に、「原則とガイドライン」の実効的な運用をどのようにするのがよいかを検討する国際ワーキンググループを人権問題の専門家の協力を得て組織し、その活動を支援してきた。その活動の成果は、現状分析の報告書、モデル・アクション・プラン、現状把握のための質問書のひな形などとして結実し、2015年6月18日にジュネーブで行った国際シンポジウムにおいて発表した。これらの成果物は、今後の諮問委員会による調査および実効的施策の策定の参考となることを確信する。

○この決議の趣旨は、全世界でハンセン病に関連する差別問題に苦しむ人々の人権を守るため、人権理事会においてハンセン病差別問題を議論し、差別を撲滅するための実効的な方法などを検討することを目的としている。

○日本政府は、ハンセン病患者・回復者・その家族に対する偏見・差別の解消に向けて人権理事会において、2008年、2009年、2010年の3年連続で、差別撤廃決議案を提出し、いずれも全会一致で採択された。そして、人権理事会諮問委員会が作成した「ハンセン病差別撤廃に向けた原則とガイドライン」に「十分配慮」することを求める2010年の決議については、国連総会本会議で同年12月に全会一致で採択された。

○今回(2015年7月)の人権理事会において採択された新たな決議は、2010年の決議から5年が経過し、各国による「原則とガイドライン」の実施状況を確認・レビューすることが必要であるとの認識のもとで、ハンセン病の差別撤廃に向けた取り組みをさらに前進させるための仕組みづくりに関する検討を目指すものである。

○具体的には、2010年の国連総会決議で各国政府等に「十分な考慮」を払うよう求められていた「ハンセン病患者・回復者及びその家族に対する差別を撤廃するための原則及びガイドライン」の実施状況に関する調査を国連人権理事会の下部機関である諮問委員会に求めている。
「ハンセン病制圧活動記」その28―大国インドからハンセン病がなくなる日まで― [2015年08月12日(Wed)]
「ハンセン病制圧活動記」その28
―大国インドからハンセン病がなくなる日まで―


東北新生園機関誌『新生』
2015年6月


 時はさかのぼるが、2013年8月28日から30日の3日間、インドのニューデリーを訪れた。私が第2の故郷と呼ぶインドへは、今回の訪問で47回目を迎えた。2泊2日、48時間の短い滞在であった。

 今回の目的は、今後のハンセン病対策についてインド政府保健省の事務次官と面談、昨年10月に発足したハンセン病国会議員連盟の会合への出席、そしてハンセン病回復者の経済的自立に向けて活動を展開しているササカワ・インド・ハンセン病財団の理事会に出席することであった。

 初日、朝一番にWHO東南アジア地域事務局にて世界のハンセン病制圧活動の責任者であるサムリー事務局長と面談。前月7月24日からの3日間、バンコクで国際ハンセン病サミットがWHOと日本財団との共催で開催された。近年ハンセン病の患者数の減少が停滞している懸念から、年間1000人以上の新規患者数を持つ17ヶ国から政府代表が参加し、専門家、NGO、ハンセン病当事者などあらゆるステークホルダーとともに、ハンセン病対策に力を入れることへのコミットメントが表明された。本サミットの共同提案者であったサムリー事務局長にサミットが成功裏に終わったことへの謝礼と、特に患者数の多いインド、ブラジル、インドネシアの3ヶ国に重点を置き、各国においてバンコク宣言のフォローアップに力を入れていくことを再確認した。

 国際ハンセン病サミットにおいてただひとつ残念だったことは、世界最大の患者数を抱える大国インドから政府の代表が姿を見せなかったことである。そこでインド政府保健省の事務レベルのトップであるケシャブ・デシラジュ保健次官、アンシュ・プラカーシュ次官次席、国家地方保健計画を担当されているアヌラダ・グプタ局長、ハンセン病局長のC・M・アグラワール博士、局長代理のA. K. プリ博士と、保健省内の関係者と並んで面談。一方、WHO側からは世界ハンセン病プログラムのチームリーダーであるスマナ・バルア博士、コンサルタントのランガナサ・ラオ博士、東南アジア地域事務所のハンセン病プログラム担当アドバイザーであるジーザズ・パウロ・ルイ博士、そしてWHOインド事務所のナタ・メナブデ代表が同席。ハンセン病当事者、回復者の代表であるナショナル・フォーラム(現 インドハンセン病回復者協会)のナルサッパ会長もハイデラバードから駆けつけ、バンコク会議の報告とインドのこれからのハンセン病対策についてさらなる活動の強化を要望した。

 インドでは2010年より、年間新規患者数発見率が1万人に1人以上である209の県を定義し、重点的に新規患者を発見するための活動を行っている。2012年〜2013年の1年間で報告された13万人のうち、実に2万人もの方々は保健ワーカーやボランティアの家庭訪問で発見されている。結果的に患者数は昨年より5%上昇。表面上患者数が増えたことは危惧すべきサインではあるが、それまで診断がされていなかった隠れた患者が診断され、治療が行き届くようになったことは歓迎すべき流れともいえる。

 一方で、1軒1軒家を回るような新規患者発見のための活動は費用対効果が非常に低いことから、通常の一般統合医療の中で診断・治療を可能にしなければ、ハンセン病対策のサービスが持続的とはいえないと指摘する専門家の声もある。

 発展途上国のインドの国土は日本の9倍以上あり、ハンセン病対策のサービスを広い国土の隅々まで行き届かせることは容易なことではない。対策を講じるにもまずは現状を把握することが不可欠であり、現在のハンセン病患者数を正確に把握するためには、各州レベル、県レベルにおいて患者発見活動に力を入れていくことが第一歩となるだろう。患者数の多い蔓延州において州政府のコミットメントを促すためにも、これからもインド各州への訪問が欠かせない。

 日本財団では毎年世界ハンセン病デーに合わせてハンセン病回復者への差別撤廃に向けたグローバル・アピールを世界各界の著名人の協力を得て発表しているが、来年2014年は各国の国家人権委員会からの賛同をもらうべく準備を進めており、インドからも協力を得るため、インド国家人権委員会バラクリシュナン委員長を訪ねた。インド国家人権委員会はハンセン病の問題について深い関心を示してくださっており、2012年10月にインドにおいてハンセン病と人権国際シンポジウムのアジア大会を開催した際にも出席された。また同年には国家人権委員会が主催し、ハンセン病をテーマに各州の人権委員会代表を集めたワークショップも開催された。夏期と冬期、年2回の恒例となっている法律や人権を専攻する学生によるインターンシップにおいてハンセン病をテーマとしたセッションを設けたり、デリー首都圏内の中学校においてササカワ・インド・ハンセン病財団が差別撤廃の啓発のための授業を行う活動資金も提供されている。

パラクリシュナン委員長(中央)とナルパッサ会長.JPG
パラクリシュナン委員長(中央)とナルサッパ会長


 八木日本大使に表敬後、午後には再びWHOインド事務所にメナブデ代表を訪ね、インドのハンセン病の現況について詳細な説明を受けた。

 夕方は、デリー中心地にあるディネシュ・トリベディ国会議員の自宅へ。私の長年の夢であるインドにおいてハンセン病問題の啓発をはかるための国会議員連盟の集まりがあった。鉄道大臣と保健家族福祉副大臣を務められた経験のあるディネシュ・トリベディ議員が発起人となり、合同発起人であるマドゥ・ヤスキ議員を始め52名の国会議員が連盟に参加。今回の会合には国会会期中にもかかわらず16人の議員が参加し、ナショナル・フォーラムの代表のナルサッパ氏も同席した。トリベディ氏の挨拶に続き、40年来取り組んできたハンセン病との闘いについて話したところ、皆さん熱心に耳を傾けてくださった。

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トリベディ議員が中心となった会合


 議員連盟では、ハンセン病問題を優先課題として取り組むよう国会等で積極的に取り上げていくこと、一般に向けた医療面社会面両方の啓発活動、そして低所得者層に向けた政策や各国会議員が持つ地域開発基金をコロニーの環境改善のために役立てることなどを目標として取り組んでいくことが決定されており、ハンセン病患者、回復者の生活向上と差別撤廃に向けて大きな支援者を得たことになった。

 翌日、30日は、朝食後にまずハンセン病回復者の全国組織ナショナル・フォーラムのナルサッパ会長とヴェヌゴパールと会い、彼らの活動の現状についての報告を受けた。

 続いてはササカワ・インド・ハンセン病財団(通称SILF)の理事会。財団の理事会というと、議事次第通りに書類が回覧されて承認される風景を想像されるかもしないが、この財団の理事会は一味もふた味も異なる。まず議論される書類の量は実に88ページに渡る分厚い資料。事務局長からの報告に対して各理事が真摯に意見を出し合い、熱い議論が繰り広げられ、会議が予定時間を超過することも珍しくない。

 SILFは「インドのハンセン病コロニーから物乞いをなくす」という壮大な目標のもと、2006年の設立以来、ハンセン病回復者の経済的自立を最大の柱として活動を展開。民族服サリーの販売やリキシャ操業など、各コロニーの立地と回復者のスキルを生かしたビジネスを立ち上げるための資金を提供しており、現在ではインド国内16州において約150のビジネスが立ち上がっている。

SILF理事会のメンバーと.JPG
SILF理事会のメンバーと


 近年は第二世代であるハンセン病回復者の子どもたちの教育支援にも力を入れて取り組んでいる。教育支援プログラムは、女性を対象とした看護師養成奨学金と、男女両方を対象とした職業訓練プログラムの2種類。

まず看護師養成については、インドステート銀行とサー・ドラブジ・タタ基金からの寄付をいただき、2011年より35人の子どもたちに国の認定を受けた看護師養成コース4年間の受講を可能にしてきた。インドでは、女性にとって看護師は伝統的にとても人気の職業であることから、この奨学金は希望者が多い。応募資格の条件には合うものの資金が限られていることから断らざるを得ないケースが多いことは残念であり、なんとか一人でも多くの希望者に報いるため、インド企業の寄付協力先を増やさなければならない。

 職業訓練プログラムは、10年生までの教育を修了した人たちを対象に、さまざまな店の販売員やファストフードの配達など、雇用が足りていないサービス業に就職しやすくするための基礎的なトレーニングを行うもので、2012年よりそれまでに66人の若者たちが修了し職に就いていた。加えて、2013年新たに国立職業開発協会より新たに350人分のトレーニング費用の寄付が決定し、各州を回って希望者を募っていく予定となった。

 インドのハンセン病の社会面の問題においては、当事者の経済的自立をどう進めていくかという課題と並んで、第二世代である若者の社会参画をどう実現するかという課題がある。全体の数から見れば一部ではあるものの、ハンセン病コロニーの出身者であるというレッテルを外して、一般社会の競争の中で成功できる若者が出てきていることはとても明るい兆しであり、我々が設立した財団がその機会を提供できたことは非常に嬉しく思う。

 関係者の努力の甲斐あって、インドにおけるハンセン病とそれにまつわる差別をなくしていくための闘いは、国会議員や人権委員会など、さらに幅広い層を巻き込んで展開されている。しかし問題が解決したといえるようになるまでの道のりはまだまだ遠く、手綱を緩めることはできない。今年は特に各州への訪問に力を入れ、ハンセン病対策が隅々まで行き渡るようになるまで、またハンセン病回復者が尊厳をもって生きられる社会となるまで、引き続き関係者と手を携えて取り組んでいく覚悟である。
「ハンセン病制圧活動記」その26―モロッコ訪問記 [2015年04月17日(Fri)]
「ハンセン病制圧活動記」その26
―モロッコ訪問記


星塚敬愛園機関誌『姶良野』
2015年新春号


2014年10月27日から30日まで、北アフリカのモロッコを訪問した。モロッコと言えば皆さんは何を思い浮かべるだろうか。イスラム教国、サハラ砂漠、「カサブランカ」を始めとする数々の映画のロケ地…。どこかエキゾチックなイメージをお持ちの方が多いのではないか。そんな魅惑の地、モロッコに今回訪れた目的は2つ。1つ目は、中東地域を対象としたハンセン病と人権に関する国際シンポジウムを開催すること、2つ目はモロッコのハンセン病の実情を視察するためだった。

このシンポジウムは、2010年に国連総会でハンセン病患者・回復者およびその家族に対するスティグマと差別をなくすための決議が採択されたのを受け、その実行を各国に促すため、日本財団が世界5地域で開催しているものである。今回は2012年2月、南北アメリカ大陸を対象としたブラジルでのシンポジウムを皮切りに、インド(アジア地域)、エチオピア(アフリカ地域)と続き、今回で4回目になる。同時並行で具体的な行動計画を策定するワーキンググループが活動しており、最終的な行動指針は2015年、国際連合欧州本部のあるジュネーブのシンポジウムの場での発表を予定している。

モロッコの首都は、カサブランカから海沿いに2時間ほど車を走らせた、ラバトという場所である。10月の気温は25〜30度と、日本であれば初夏の陽気だが、砂漠らしい乾燥した空気と照りつける太陽に、こまめな水分補給が欠かせない。また、どうやらスモーカーにはかなり寛容な国らしく、ホテルや空港は煙と、臭い消しと思われる香水の臭いが混じり合ったものが充満していた。

モロッコでの最初のプログラムが前述のシンポジウムである。全世界の新規患者の8割近くを占めるアジア地域、唯一の未制圧国ブラジルを有するアメリカ地域、制圧後の患者数のコントロールが予断を許さないアフリカ地域に比べ、中東地域では、医療面から社会面−人権の回復や歴史保存−にハンセン病問題がシフトしている国が多い。かつて療養所を有した国も多くがその役目の終末期に入り、高齢の回復者がどうその余生を送るか、建物や病院をどのような形で残して行くのかが課題となっている。モロッコ国内やエジプトの他、アメリカ、エチオピア、ブラジルなどからも回復者や専門家が登壇し、闊達な議論が交わされた。

登壇した中に一人、30代後半の若い女性回復者がいた。カサブランカから来たナイマさんで、これほどの聴衆の前で話をするのは初めてなのだろう、緊張した面持ちでマイクを握り、自身の経験を語り始めた。1984年に9歳で発症し、6ヶ月間入院。その翌年両親を相次いで亡くしたという。5人姉妹の末っ子で、入院した後も、カサブランカの療養所に定期的に6年ほど通った。その後面倒を見てくれていた姉が結婚して家を出て行き、一人になったナイマさんは当時住居施設のあった療養所に住み、家政婦をして生計を立てつつ縫製の研修を受ける。ほどなくして結婚、一男一女に恵まれ、現在はハンセン病回復者が少額融資を受けて小物制作を行うNGOを立ち上げ、メンバー80人をまとめている。手に障害が残っているが、神様がいるから大丈夫です、初めて自分のことをこのような場で話せたことが嬉しいです、と笑顔を見せるその顔からは、当初の不安げな表情は徐々に消え、自信に満ちたものに変わっていき、観客からは惜しみない拍手が送られた。

@ナイマ氏と娘さん(カサブランカの病院にて).JPG
ナイマ氏と娘さん(カサブランカの病院にて)


シンポジウムの翌日、ナイマさんも入院していた、カサブランカの国立ハンセン病病院を尋ねた。この病院は1952年に設立され、ピーク時は200人を超える患者がいたが、現在の入院患者は常時8〜16名、通院患者・回復者は月30名程度。3名の医師(うちハンセン病専門医は1名)が、西サハラ地方で年間数名発見される新規患者の治療と、後遺症のケアを行っている。ハンセン病患者の減少に伴い、皮膚科一般の診療も行っている。病院がこの地に出来た理由は、フランス人のロリー医師というモロッコでのハンセン病治療のパイオニアが、かつて軍の施設だった建物を病院として、患者を診るようになったためとのこと。フランスの統治下であった1950年代まで、患者は3ヶ月間の入院が義務づけられていた。これは隔離のためというよりも確実に治療を完了させるための処置だったといい、入院中は絵画などの文化活動や教育の機会が提供されていた。家族に見放されていたり、自活する財力がなかったりするため、20年以上入院している人もいるという。

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入院されている方々と病院関係者


療養所は白を基調とした建物が並び、緑も多く環境の良い場所だった。迎えてくれたのは女性院長のアスマ医師。到着してすぐ、1952年設立以来の患者のカルテが保存されているという建物に案内された。黄ばんだカルテが引き出しにひとつひとつ丁寧に保存されていた。その後園内を歩き、草木の生い茂った向こうに覗く古びた建物を、これはかつてのアトリエ、これはかつてのモスク、これは以前使っていたキッチン、と案内してくれた。衣食住、祈りの場、文化活動の場と、昔多くの人がこの敷地内で生活のすべてを完結させていた様子が目に浮かんだ。これらの建物が使われなくなったというのは、医療技術の進歩や社会の病気に対する理解促進が進んだことの証であり、歓迎すべきことである一方、これらの建物を朽ち果てさせるだけではなく、ここで起こったことをどのように後世に残して行くかが世界中で問われていることを改めて実感した。

続いて、それぞれ10床ほどのベッドが並ぶ男性病棟と女性病棟へ順に案内された。男性病棟は幅広い年代の人が入院しており楽しそうにおしゃべりを楽しんでおり、カメラを向けると嬉しそうにポーズを決めてくれた。1940年生まれという男性は、16歳で発症、25歳で足を切断したが、膝の辺りの切断面に潰瘍が残ってしまい、当時の外科手術の技術が未発達であったことが窺えた。しかし痛々しい傷跡とは裏腹に当人は明るい表情で握手に応えてくれた。女性病棟では、26歳の若い患者が印象的だった。村で一人感染し、手も変形してしまったため、病気を他人には隠すようになったという。しかし、結婚して子どもも2人生まれ、今は幸せだとのことだった。

病院を統括するアスマ医師は、まだ40歳前後で、以前は皮膚科医として働いていたが3年前にこの病院にやってきた。この病院でもハンセン病は臨床上皮膚科の一部として統合されているが、実際のケアは一般の皮膚科と異なると言い切る。例えば障害による差別のため、心のケアが必要であること。ハンセン病に罹った事実を受け入れられない患者もいるという。また患者が貧困層に多いのが特徴的で、財政的な支援の必要性も感じているらしい。ハンセン病患者・回復者と直に接する経験から、単なる職務以上の思い入れがある様子で、彼女のような若く親身になってくれる医師の存在は貴重だと感じた。

Aアスマ医師(中央)と病室を訪問.JPG
アスマ医師(中央)と病室を訪問


カサブランカを訪問した翌日、車に乗り込んで、海沿いに北へ出発した。この日の最終目的地は、アフリカ大陸とヨーロッパ大陸を隔てるジブラルタル海峡に面したタンジェという港町。その途中にハンセン病回復者が住む小さな村と病院があると聞き、尋ねてみることにした。モロッコと言えば砂漠の印象が強いかもしれないが、地中海に面する北部は温暖な地中海性気候で、4,000メートル級の山があるアトラス山脈には充分な降雨、積雪もある。最初に訪れたのはシャウエンという州にある、海抜700メートルの山岳地帯。右に左に大きく揺れながら山道を上がっていくと、小さな保健所に辿り着いた。迎えてくれたのは、ハンセン病専門看護師のラマダニさん。シャウエンを含むモロッコ北部地域のハンセン病対策活動に35年間関わっており、四輪駆動のない時代はロバで村々を回って、患者発見や回復者のケアに時に自腹で、熱心に回っていたという。現在この保健所は、48集落、31,000人を管轄し、一番遠い地域は30km離れており、さらに上った1,200メートルの高地から診療にやってくる人もいるという。母子保健やワクチン接種、外来診療も行っている。ハンセン病は、80年代に管轄下の住民を一斉に調査したところ、人口の4-5%にあたる2、30人が発見され、ホットスポットの1つであったが、ラマダニさんたちの苦労が功を奏し、過去10年間の新規患者数は12人に留まっている。

ラマダニさんは、ボウハル村というハンセン病回復者の家に案内してくれた。ボウハル村にはセウニ族という人々が住み、人口は232人。皆が親戚筋で、長老のディブさん(66歳)を筆頭に、オリーブ、ぶどう、イチジクなどの農作物や、ヤギ、鶏、羊などの家畜を育て、自給自足の生活をしている。通されたのは自分で建てたという、壁は石造り、屋根の部分に藁と土を使った、白を基調としたちょっとしゃれた家であった。日差しが強く外は暑かったが、中に入ると壁が土作りなのでひんやりと過ごしやすそうだった。三世代家族9人が出迎えてくれ、モロッコ伝統の甘いミントティーを振る舞ってくれた。

ディブさんは2011年、ハンセン病に罹ったが、ラバダニ看護師の診断により早期治療と障害予防ができたため、ラマダニさんを救世主のように思っており、村から80kmほども離れたラバダニさんの勤める病院にわざわざ会いに行くこともあるという。話を聞くと、この村には「ハンセン病」という言葉が存在せず「皮膚の病気」と呼ばれており、感染力の弱さも皆体験的に知っていて、もし周囲の人に症状が出れば医者に診てもらって治し、以前と同じ生活に戻れば良い、と当然のように考えているという。ハンセン病は正しい知識を持っていればなんら恐れる病気ではなく、差別は生まれようがないということを、このモロッコの都会から遠く離れた小さな村の住民たちが身をもって証明していた。

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ディフさん

D村に住む男性を診断するラバダニ看護師.JPG
村に住む男性を診断するラバダニ看護師


村を後にし、再び車に揺られながら、さらに北を目指して出発する。目指したのは、テトゥアンという、モロッコの地中海側にあり、ジブラルタル海峡まで南に40kmの場所にある街。位置柄、二つの大陸の文化が混じりあう独特の街で、メディーナと呼ばれる旧市街地は、低層の白い家々が立ち並び職人らが多く住み、世界遺産に登録されている。1956年にモロッコが独立するまでテトゥアンを含むモロッコ北端部はスペイン領だった(南部の大部分はフランス領)ため、住民の多くはアラビア語とスペイン語を話す。

訪れた病院は、モロッコ北部地域のハンセン病の中心施設。入院設備はなく外来のみで、ハンセン病の疑いのある人が診断を受け、陽性であった場合は治療を開始すると同時に、自宅を訪問し、家族に感染がないかを確認するという。外壁、内壁ともに白で統一され、洒落た形の窓が並ぶ立派な病院で、私たちの訪問にあわせて7、8名の患者が集まってくれていた。一人、ハンセン病と診断されたばかりの30歳の若い女性がいた。港町タンジェから車で1時間ほどかけてやってきた患者で、7ヶ月前に初めて症状が現れて複数の医者に診てもらったが誰にも診断できず、この病院に辿り着いたという。おじの息子にハンセン病が見られたといいい、病院のレスニン皮膚科医は、これから家族7名を調査すると話した。イスラムの女性は人前で肌を見せることに抵抗を感じる傾向にあるため、初期症状が気付かれにくい場合もある。そのような中、ラマダニさん他の関係者は、地方当局とも連携を取りながら積極的に患者を探し、信頼関係を大切にしながら治療と感染防止にあたっている。その地道な取り組みが患者数の大幅な減少に貢献していることは間違いなく、心からの賞賛とともに、引き続き努力を続けてほしいと伝えた。

モロッコは患者数だけを見ると決してインドやブラジル、インドネシアのような「蔓延国」ではないが、残された数人、数十人の患者の発見活動や回復者の障害ケアを丁寧に行っており、いずれ徐々にその状況に近づいて行く他の国々にとっても大いに参考になる部分があるはずだ。その鍵となるのは、患者は少なくてもハンセン病に真摯に取り組む医療関係者や、自分と同じ症状が見られる人に早期治療を勧める回復者である。最後の一人の患者が病気とそれに伴う差別から解放されるまで、ハンセン病問題は解決したとは言えないことを、最終局面に差し掛かっているモロッコの地で改めて感じた。
「ハンセン病制圧活動記」その25―スペイン・ポルトガル訪問記― [2015年03月27日(Fri)]
「ハンセン病制圧活動記」その25
―スペイン・ポルトガル訪問記―


菊池恵楓園機関誌『菊池野』
2015年3月号


2014年11月1日から3日まで、スペインとポルトガルのハンセン病療養所を訪問した。現在、これらの国々をはじめヨーロッパの国々において、ハンセン病の新規患者はアフリカなどからの移民が年間数名発見されるほかは見つかっておらず、日本と同様、かつてハンセン病患者が集められた病院や療養所で高齢の回復者が静かに余生を送っている。これまでノルウェー、ロシア、ウクライナ、ルーマニアなどを訪れ、回復者の減少に伴う療養所の将来構想や、かつての隔離の象徴である建物や人々の声をどのように残して行くかに取り組む様子を視察してきた。今回の訪問も、それぞれの療養所の過去と現在、そして未来への展望を見つめる機会となった。

スペイン東部、地中海に面するバレンシアから南へ車を2時間弱ほど走らせたところに、フォンティーイェスハンセン病療養所があった。地中海沿岸らしい温暖な気候で、10月でも日中の気温は20度を超え過ごしやすい。空気と水がきれいで風がよく通る場所を選んで建設されたという療養所は、周りを山に囲まれた谷にあり敷地面積は70万平方メートルと広大。オレンジの屋根と白い壁が鮮やかなメインの療養施設と、かつての面影を残す古い建物が混在し、まるで中世ヨーロッパのお城に迷い込んだかのような錯覚に陥る。1909年、当時社会で孤立し助けを必要としていたハンセン病患者を気の毒に思ったイエズス会の神父と敬虔なカトリック信者である弁護士によって設立され、1920年代、周囲の村人が農作物に影響があると恐れたことから四方を覆う全長3kmの壁が建設されたが、すぐに誤解は解け、この療養所は村人たちの主な就職先となる。入院患者が最も多かったのは1940年代で438名が暮らし、教会や劇場、パン屋に大工、美容院に庭師など生活の全てが所内に揃っていたという。現在は使われなくなった建物も多く、回復者の数は35人。設立当初から続くハンセン病研究所としての機能は残り、ヨーロッパ随一のものとして名高く、医療関係者の研修も多く受け入れている。スペインで毎年見つかる15-55人の新規患者(南アメリカや北アフリカからの移民か、スペイン国外に長く滞在していた人)の診断・治療も行う。一般の病院や老人ホームとしての役割も兼ね備える。さらに、1989年からは海外への支援活動をはじめ、インドやブラジルでのプロジェクトも展開している。

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フォンティーイェス・ハンセン病療養所

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全長3キロの壁を臨む


到着すると、ラモン・トレナー・ガリンド所長ほか、フォンティーイェスの幹部が揃って出迎えてくれた。まず、療養所内の小聖堂で40名ほどの回復者やその家族、職員に交じってミサにあずかったあと、日当たりの良い廊下で入所者の皆さんと交流した。68歳のガルシアさんという元気な男性は、スペイン南部のアルメリアという港町出身で、若い時は船乗りをしており、療養所には8年前から住んでいる。サッカーを見るのが楽しみの一つで、ひいきのチームはバルセロナだという。また、76歳の女性は16歳で発症、フォンティーイェスに入所、ここで結婚し、子どもも孫もたくさんいるという。病気になったときは家族と別れるのが悲しくてたくさん泣いたけれど、今はとても幸せ、いつでも外に出て戻ってこられるしね、と笑顔を見せた。ヤシの木と手入れされた芝生が心地よい中庭では女性たちが車いすを寄せ合って井戸端会議に興じていた。性能の良さそうなピンクの車いすに乗ったマルムエラさんという80歳の女性は、「30歳の時にハンセン病を発症して療養所にやってきた。7人の子宝に恵まれたが、自分が39歳の時娘を亡くしたときはとても悲しかった。今は天国で生きている旦那を想いながら、友達とのお喋りを楽しみに暮らしているのよ」と穏やかに話した。

その後、研究ラボ、研修施設、教会などの施設に案内された。世界各国のハンセン病に関する資料を収集している図書館へは、多くのハンセン病研究者が国内外から訪れるという。国際事業担当のエドゥアルドさんは、イタリア、ギリシャ、ルーマニア、ポルトガルなど他国においてもハンセン病に関する歴史遺産の状況を調査し、連携の可能性を探りたいとの意欲を見せた。

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図書館で貴重な資料を見せてもらう


療養所の職員はフォンティーイェスが果たす多面的な役割―高齢回復者の終の棲家、ハンセン病の歴史を保存し、次世代に伝えるためのセンター、豊富な経験と知識をもとに進められるスペイン国外の蔓延国への支援―に大変誇りを持っているようだった。早い時代から単に患者を社会から隔離するのではなく、患者の人間性に配慮して活動を進め、尊厳を持って生きていけるような生活の場、すなわち一つの村落共同体をつくりあげてきたフォンティーイェス。最終的に社会に復帰させるという創立者の意思を引き継ぎ、カトリック協議の弱者救済・社会奉仕の精神を原点に進めてきたこの療養所は、世界的に見ても稀有であり、ハンセン病問題のこれからを考えるにあたって重要な場所であることは間違いない。

フォンティーイェスの訪問を終えた後、バレンシアから飛行機で1時間半ほどの距離にあるポルトガルの首都リスボンに向かった。2003年に訪れた国立ハンセン病療養所ロヴィスコ・パイスを再訪するためである。リスボンから車で北に2時間で、世界遺産として有名なコインブラ大学がある街に辿り着く。コインブラからさらに西へ1時間ほど、海に向けて走ったところに療養所がある。

ロヴィスコ・パイスハンセン病療養所へは、1947年、ポルトガルで初めて、そして唯一のハンセン病専門病院兼療養所として設立された。200万メートルの広大な敷地を持ち、自給自足できる環境が整い、病院以外に住居や教会などの生活に必要な施設が揃っていた。入所者数のピークは1959年から60年頃で、およそ1,000名。何らかの理由で入居できない患者に対しては、療養所から監視員が派遣されたという。ポルトガルでは、1970年代後半から80年頃まで患者は強制隔離が義務付けられていた。またここは、ハンセン病研究センターとしての側面も強く、医学的研究が進んだ施設として知られ、国内初の形成外科手術もここで行われた。1996年に最後の患者が完治し、現在はハンセン病患者の治療は行わず、国内最大のリハビリセンターとして、脳に損傷を負った人などを年間約400人受け入れている。

10年前に訪れた際のスナップ写真を手に、高齢の回復者が暮らす病室を回った。最初に案内された最新の機材を備えた現代的なセンターに比べ、こちらは清潔ではあるが年季の入った建物である。40人いた回復者は現在、男性7名、女性5名の合計12名で、最年少は75歳、最年長は93歳である。前回訪れた際、ヨーロッパで最後に発見された新規患者である男性に出会っていた。畑仕事を生き甲斐にしており、再会を約束して太陽電池で動く腕時計をプレゼントしたのだが、数年前に70歳で亡くなったと聞かされた。ちょうどおやつ時だったため、女性3名、男性3名が食堂で介助を受けながらお茶を飲んでいたが、皆認知症が進み、会話は難しかった。ただ、私の持っていた写真に10年前の自分を見つけたある回復者は嬉しそうに頷いてくれたので、「お互い年を取りましたね。どうぞお元気で暮らしてくださいね」と一生懸命話しかけた。車椅子に座り廊下で窓に向かってずっと外を眺めている男性、見慣れぬ人種の訪問者に不思議そうな顔をする男性。障害の残る手に刻まれた深いしわは、ここが確かにかつてハンセン病療養所だったこと、そしてそれがもうすぐその役目を終えようとしていることを物語っていた。

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10年前の写真を喜んでくれた女性


回復者との交流を終えた後、2つの印象的な施設に案内された。1つは、非常に珍しいV字型の古い教会。教会は普通、司祭が立つ祭壇があり、その手前に会衆が座る椅子が並ぶが、この教会は、Vの字の2辺が交わる部分に祭壇を設け、その前に4〜5列のみベンチが並び、両辺にあたる部分にいる人々がどちらからでも祭壇が見えるようになっている。これは、男女が交わらないように同時にミサに参加できる工夫で、片方の辺は男性用、もう片方は女性用、祭壇近くのベンチは療養所職員用に割り当てられたという。日本と同様、子どもができないように男女の患者を分ける風習があったことがわかる。それでも産まれた子どもはどうなっていたのか。そのヒントが続いて案内された古く朽ち果てた独特のコンクリート造りの平屋建ての建物に隠されていた。50畳ほどあっただろうか、電気は通っておらず、夕方近くだったために中は薄暗い。部屋の天井は高く、木枠にはまったガラス窓で3つの部分に区切られていた。ガラスには、直径3cmほどの穴が無数に空いている。療養所の職員は、この場所はかつて入所していた患者の親とその子どもが対面できる場所だった、子どもはこの近くで育てられ、教会関係の人が自立するまで育て、時々ここで親とガラス越しに対面したのだと説明する。

ハンセン病患者から産まれた子どもは親に育てさせてはならない。これはかつて世界のあちこちで常識であり、かつてポルトガルの植民地だったブラジルや、マレーシアなどの国においても、産まれて数日で両親と生き別れた二世の「元」子どもたちが肉親を探す取り組みをNGOが支援している。ポルトガルでもそのような悲劇があったのか。現地の職員の口からは詳細を聞くことはできなかったが、ちょうど今年の6月にある現地の雑誌に、証言を交えたこのような特集記事があったのを見つけていた。「ガラスで仕切られた壁のこちらとあちらに、木製のベンチが並べられ、何かが始まるのを待ちわびる人々が座っている。ドアが開き、よそ行きの格好をした子どもたちが入ってくる。子どもたちは、ガラスの向こうに自分の親を見つけて指差す。親がそうしたいというそぶりを見つけると、子どもたちを連れてきた大人が子どもを抱きあげ、ガラスの方に近づける。ガラス越しに親子が手を重ね、キスをする。親が、ガラスに空いた穴に向かって、ご飯は食べてる?良い子にしてる?元気なの?と必死に話しかける。子どもが全ての質問にうん、と答える。面会時間が終わって、子どもたちはまた大人に連れられて帰っていく。住む場所は2マイルしか離れていないのに、とても遠く離れているようだった―」現在4、50代になった二世の記憶は、目の前の使われなくなった建物の状況と全く一致していた。ここでどれだけの親子が、胸が張り裂けそうな時間を過ごしていたのだろうかと、雨が降り肌寒くなってきた建物の中でしばし思いを巡らせた。

インド建国の父、マハトマ・ガンジーはかつて、ハンセン病病院の開所式に招待された際それを断り、「この病院が閉鎖される時、扉の鍵を掛けるために出席します」と言ったという逸話が残っている。ガンジーの言葉が、スペインやポルトガルのような先進諸国から順に、現実のものとなりつつある。これは医療関係者をはじめとする多くの人々の努力の結晶であり、歓迎されるべきものである一方、世界各地のハンセン病療養所で起こったことをどのように次の世代に伝えていくかを考えることが急務となっている。多くの人々の証言を集め、建物を保存し、世界に共有していくことに、我々もできる限りの手伝いをしたいと改めて感じた。
「ハンセン病制圧活動記」その24―コロンビア訪問記― [2015年03月25日(Wed)]
「ハンセン病制圧活動記」その24
―コロンビア訪問記―


私のハンセン病制圧活動記は全国13カ所のハンセン病療養所の機関誌に掲載しております。したがって、療養所の事情で今回のように掲載が大幅に遅れることもあります。読者の皆様にはご迷惑をおかけ致しますがご寛恕下さい。

松丘保養園機関誌『甲田の裾』
2015年月号


少し時はさかのぼるが、2013年12月22日から24日まで、コロンビア共和国を初めて訪れた。南米大陸の最北西端に位置し、パナマ、ベネズエラ、ブラジル、ペルー及びエクアドルと国境を接し、北はカリブ海、西は太平洋に面する。人口4,600万人、国土面積は日本の約3倍の114万平方キロメートル、公用語はスペイン語で主な宗教はカトリック、主要産業は言わずと知れたコーヒーをはじめとする農業と、世界の産出量の90%を占めるエメラルドほか、鉱物資源の埋蔵量も豊富である。赤道地帯にあり四季はないが、アンデス山脈が国をまたぎ、気候は高度や地形によって大きく異なり、高湿の密林や熱帯性平野から高地の万年雪まで幅広い。

かつてこの国でもハンセン病患者が強制隔離されていたが、その地域が1963年に一つの自治体として独立し、過去の記憶を失わせることなく発展の道を模索している。アグア・デ・ディオスである。ハンセン病が不治の病であった時代、特に19世紀後半から20世紀初頭にかけて、隔離を目的とした病院や療養所などの施設が日本をはじめ世界各地に作られた。しかし研究が進みハンセン病が治る病になったため、近年これらの施設が転換・閉鎖の傾向にあり、貴重な歴史的建造物が失われようとしている。また、そこで暮らした人々は高齢化が進み、口述記録の保存も最終段階に来ている。ハンセン病の歴史から学び、同じ過ちを二度と繰り返さないようにしなければならない。2012年には笹川記念保健協力財団により、日本の国立ハンセン病資料館で同じ意識を共有するフィリピン、マレーシア、ブラジル、台湾の当事者が集まる国際ワークショップも開催された。アグア・デ・ディオスも回復者やその家族が、様々な方法で歴史保存に取り組んでいた。

首都ボゴタは高度2,600メートル、平均気温16度。涼しく過ごしやすいが、酸素濃度は東京の4分の3程度である。翌朝、ホテルのロビーに一人の回復者男性が私を迎えにきてくれた。ハイメ・モリーナ・ギャルソンさん、67歳。2010年、インドのプネでハンセン病の国際会議で出会って以来である。アグア・デ・ディオスで「コルソハンセン」というハンセン病回復者の尊厳回復、啓発活動、収入向上活動などに取り組むNGOを運営している。しばし再会を喜び合った後、さっそく車に乗り込んで、アグア・デ・ディオス向けて出発した。クリスマスを前にどこか浮かれて行き交う人々の横で、警官が目を光らせ、鉄格子で守られた商店が並んでいるのを見ると、治安の悪さを実感する。海抜400メートルのアグア・デ・ディオスに向けて、霧濃い道を下り続ける。霧が晴れると、そこは一面に牧草地が広がっていた。国土の半分が密林、3分の1が牧草地、残りは農地が占め、人が住む村落・市街地は全体の1%以下であり、総じて緑豊かな国だと言える。ボゴタを発って約2時間半、「アグア・デ・ディオス」の看板が見え、そこから15分ほどでかつてハンセン病患者が隔離されていた施設のある町の中心部に辿り着いた。

コロンビアに現存するハンセン病療養所は二ヶ所。一つはコントラタシオン、一つはここアグア・デ・ディオスである。1864年、各県にハンセン病療養所を作ることを決定する法令が出された。アグア・デ・ディオスもその場所の一つとして選ばれ、1870年頃、最初に約40人の患者達が送り込まれた。当時そこは荒地で人の住むような環境ではなく、患者達は自分達の力で小屋を建てて、何とか生活を始めたという。最初の病院であるサン・ラファエロ病院が建てられたのは、1880年ごろ、入植から10年以上が経ってからだった。アグア・デ・ディオスに入るには首都ボゴタから流れ落ちる急流の川を渡らなければならない。1872年この川に、現在コロンビアの国家遺産になっている「嘆きの橋」が作られた。名前の由来は、ハンセン病患者がここで家族に最後の別れを告げ、アグア・デ・ディオスに向かっていったからである。この橋が出来るまでは、7~8人を籠に乗せて、両岸に吊るされたロープでまるでやっかいものの荷物のように運んでいたというのだから言葉がない。

ハイメさんとこの橋を渡った。橋は老朽化しており、昨年新しく現代的な橋が数十メートル先に完成しているのが望める。足下に流れる水はボゴタからの生活用水が流れており真っ黒で、「コロンビアで一番汚い川ですよ」とハイメさんが苦笑する。1961年、ハンセン病隔離法が廃止されるまでに、約6,000人から7,000人がここを渡ってアグア・デ・ディオスにやってきたと言う。中にはベネズエラなど、他の国から来た人もいるらしい。ひとたびアグア・デ・ディオスに来ると、国民に与えられる身分証明書は剥奪され、ここでしか通用しない身分証が割り当てられた。ハンセン病療養所域内通貨も存在していた。域内通貨はハンセン病患者が触れたお金を他の人に触らせないことと、住民の自由な移動を制限する目的があった。アグア・デ・ディオスが隔離療養所であった時代は、4メートルの鉄条網で囲われ、常に脱走者防止のため見張りが国から派遣されていたという。

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ハイメ氏(中央)、そのご家族と橋を渡る


アグア・デ・ディオスの現在の人口は約13,000人。うち、85%がハンセン病回復者とその家族である。街にハンセン病関係の資料館が4ヶ所あり、1つ目は、ハイメさんが運営する、コルソハンセンの事務所に併設された資料館。隔離時代の写真や当時の資料が展示されていたほか、当時10歳のエマさんという女の子の古く黄ばんだ身分証があったが、彼女は今も元気で、10歳当時の写真の面影をもって私を出迎えてくれた。娘のアナさんはコルソハンセンのスタッフとして働いていた。2つ目の資料館は、作曲家ルイス・カルボ(1882〜1945)の遺品を集めたもの。彼は34歳でハンセン病に罹患し、アグア・デ・ディオスに移り住んで、一心不乱に作曲活動を行ったその姿は「楽譜の労働者」と称されており、コロンビアでは有名な音楽家である。3つ目の資料館は、イタリア人のルイス・バリエラ神父(1875-1923)記念館で、ハンセン病の回復者のシスターが暮らす(現在は7名)、世界にも例を見ない修道院の中にある。バリエラ神父は1894年、19歳でアグア・デ・ディオスに到着。ハンセン病の子ども達の教育のために尽力し、子供の患者たちと共用した金管楽器や、施設を作るために「コロンビア国民につき1セント」の寄付を求めた手紙などが残されていた。4つ目の資料館は、国立療養所が運営する資料館で、コロンビアにおけるハンセン病の歴史を人類学的視点から見学者に伝えることを目的とし、病気に関する正しい知識の提供に取り組んでいる。倉庫には大量の医療カルテが保管されており、最古のものは1903年。カルテには逃亡記録も残されており、労働、罰金、収監の刑があったという。かつての刑務所は残されているが取り壊すべきという話があり、資料館のスタッフは貴重な歴史的施設を残すために努力中とのことであったが、未整理の資料は多く、劣化が進んでおり、貴重な資料は消滅する可能性すらあった。4つのどの資料館も、アグア・デ・ディオスの歴史を失わせず、どのように後世に伝えて行くか、関係者の努力と資金不足の現状に複雑な思いの見学であった。
市内にある療養所では、回復者全員に挨拶をして回った。暮らしているのはみな高齢者で、さながら老人ホームのよう。サン・ビセンテ女性療養所では、入所者が手工芸品を作ったり、テレビを見たり、訪問してくる家族としゃべったりしながら過ごしており、ボヤカ男性療養所では、入所者が集会所でチェスなどのテーブルゲームに興じていた。自分で作ったという詩を情感たっぷり読み上げてくれた人、手作りの可愛らしいキリンの置物をプレゼントしてくれた人、自分で手入れしているという盆栽のような植物を自慢げに披露してくれた人など趣味の世界で充実した日々を過している回復者に出会った。世界のハンセン病患者や回復者、その子孫の中には、素晴らしい才能を持った人が多くいるが、ルイス・カルボや北条民雄のように世に知られている例は稀で、作者不明だったり、倉庫のような場所に眠っていたり、日の目を見ない作品も多い。ロシアのハンセン病病院にも、回復者が描いた素晴らしい絵があった。このような貴重な作品は、捨てられることなく保存されてほしいと願う。

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コルソハンセンの事務所の資料館

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エマさん(身分証を手に)


面会したホルヘ・ベタンクール市長は両親が回復者で、40歳前後と非常に若い。「ハンセン病の歴史は人類の汚点であり、アグア・デ・ディオスが絶望の街から希望の街に変わったことはコロンビアが誇れる歴史であり、是非とも世界に情報発信していってほしい、貴重な財産である関係資料を保存してほしい」とお願いした。

実際には今なお、アグア・デ・ディオス出身というだけで差別されたり、経済発展も他の街より遅れていたりするなど、難しい現実もある。歴史を残し、それを街の発展にどのようにつなげていけるか、希望の街としてのアグア・デ・ディオスがどのように今後存在していくのか、全てはこの街の住民の肩にかかっている。
「グローバル・アピール2015」その2―安倍内閣総理大臣のスピーチ― [2015年02月13日(Fri)]
「グローバル・アピール2015」その2
―安倍内閣総理大臣のスピーチ―


1月27日の「世界ハンセン病の日」に、ハンセン病患者・回復者とその家族へのいわれなき偏見・差別撤廃を願うグログーバル・アピールが今年10周年となり、国際看護師協会と132カ国の看護師協会の賛同を得て東京から発表さたことは既に述べた。

その折の安倍総理と不肖私の挨拶文を掲載します。

日本国総理大臣の人権に関する発言は珍しいことで、日本の人権外交にとって、極めて有益なものでありました。

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以下、安倍内閣総理大臣の挨拶文です。

 世界各国から参加いただいた皆様、ようこそお越しくださいました。心から歓迎申し上げます。

 今日のテーマであるグローバル・アピールを主導してこられた笹川会長は、日本政府ハンセン病人権啓発大使やWHOハンセン病制圧特別大使を務めておられます。これまで、世界のハンセン病問題に対し、長年熱心に取り組んでこられたことに対しまして、改めて深く敬意を表する次第であります。

 ハンセン病は、感染力が非常に弱く、治療法も確立されており、今では適切に治療すれば後遺症なく治る病気です。しかし、残念ながら誤った理解により、世界中でハンセン病への差別や偏見は、まだ根強く残っています。我が国でも、かつて採られた施設入所施策により、患者の方々の人権に大きな制限・制約をもたらし、また、社会的偏見や差別を助長したという過去があります。

 我々は、その歴史を反省し、約20年前に大きな政策転換を行いました。元患者の方々に謝罪・補償を行い、その名誉を回復するための取組を国立ハンセン病資料館などで行っています。

 その一方、現在も、ハンセン病療養所には1700人を超える回復者の方々がいらっしゃいます。平均年齢は83歳を超え、看護や介護を得なければ、日々の生活の維持が困難となっている方が増えています。
 私どもは、これからも回復者の方々が安心して穏やかに暮らしていけるよう努め、また、ハンセン病に対する差別・偏見の解消に取り組んでまいります。

 本年のグローバル・アピールは、各国の看護協会の賛同を得て行われると伺っています。看護師は、女性の割合が高い職種の代表例ですが、私は「女性の力」が十分に発揮されることが、社会の大きな活性化につながると確信しています。看護師を始め患者の方々に寄り添う皆様が、それぞれの立場でなお一層輝き、大きな力となることを願っています。

 ハンセン病への社会的差別をこの世界からなくすため、今日の集いを通じ前進していくことをお祈りし、私の御挨拶とさせていただきたいと思います。

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以下、私の挨拶文です。

 ハンセン病は世界中で最も誤解されスティグマ(社会的烙印)の対象となってきた病気の一つです。人類の長い歴史の中で、多くの人々が病気とそれに伴うスティグマや差別に苦しんできました。

 ハンセン病との闘いは、20世紀半ば、医療面での大きな進展がありました。効果的な治療方法が開発され、治療薬を無料配布することで、世界の患者数が劇的に減少しました。早期発見と早期治療により、身体に障害を残すことなく治る病気となりました。

 しかし、このような医療面の進展があったにも関わらず、ハンセン病患者と回復者は今もなお、社会のスティグマや差別に苦しんでいます。彼らは、病気を理由に、教育や就職、結婚の機会を奪われ、彼らの家族さえも社会から疎外されているのです。

 日本のように、医療面の問題が解決している国では、ハンセン病は過去の問題であると思われがちです。しかし、このような国であっても、何十年も前に完治しているにも関わらず、家族に受け入れてもらえない回復者がいます。家族は彼らを受け入れることによって、自分たちにも差別の目が向けられることを恐れているからです。回復者は、ハンセン病療養所の中で暮らすことを強制されているわけではありませんが、多くの回復者が療養所の外に出ることを躊躇せざるを得ない状況におかれています。

 このように根深く、普遍的な問題を社会に訴えるために、私は2006年にグローバル・アピールという活動をはじめました。それ以降、毎年、ハンセン病患者と回復者の尊厳を取り戻すために、アピール(宣言)を発信しています。多くの人々にメッセージを届け、ハンセン病患者と回復者のおかれている環境を改善していくために、世界の指導者、ハンセン病回復者、宗教者、そして、グローバル企業や国際人権NGO、法曹界などさまざまな分野のリーダーと協力して、アピールを発信してきました。そして、この度、10回目のグローバル・アピールの式典をプライマリ・ヘルスケアの主な担い手である国際看護師協会の皆さまと共に開催する運びとなりました。

 ここ日本でグローバル・アピールを発信するのは今回がはじめてです。医療面の問題が解決している日本でも、ハンセン病にまつわる問題は多く残っています。日本の皆さま、特に若い世代の方々に問題意識を持っていただき、長い歴史の中に埋もれてきた出来事が持つ深い意味について考える機会になることを願っています。

 グローバル・アピールの式典に加えて、写真展や学生によるシンポジウムなどさまざまなサイドイベントを東京をはじめとする全国各地で開催しています。これらを通じて、ハンセン病に罹ったことにより苦難の道を歩んできた人々の歴史をより多くの人々に知っていただき、この問題を風化させることなく、次の世代につなげていきたいと思います。

 ハンセン病患者と回復者は私たちの想像を絶するほどの苦難の人生を歩んできました。私は、WHOハンセン病制圧大使として世界各地に足を運び、壮絶な人生を送ってきた人々にお会いしてきました。心を引き裂かれるような辛い経験を聞くたびに、胸がつまる想いがします。

    家族から強制的に引き離されてしまった人。
    名前を名乗ることさえできず、アイデンティティを失ってしまった人。
    療養所の中で重労働に従事しなければならなかった人。
    愛するわが子を手放さなくてはならなかった人。

 このような辛く悲しい経験をした人は、心を砕かれ、ハンセン病という病気を、そして、社会を恨む気持ちを抱くこともあったでしょう。しかし彼らの中には、長い歳月を経て、「もう一度自分の人生を生きてみよう」という前向きな気持ちを取り戻している人もいます。

 こうしたハンセン病患者と回復者のライフストーリーは、「人間とは何か」について、あらためて考えさせてくれます。そして、無知や誤解によって引き起こされるさまざまな人間の問題について考えさてくれるに違いありません。

 さらに私は、辛い経験をしているにもかかわらず、それでも前向きに歩んでいるハンセン病患者と回復者から、忍耐強さ、人の過ちを赦す心の寛容さなどについて教えてもらっています。

 私は彼らから人間の素晴らしさについて学ぶと同時に、多くの勇気を与えてもらいました。スティグマや差別との闘いには、まだ残された課題がたくさんありますが、一人ひとりが努力をすることで社会は変えることができると信じています。

 沈黙をしたまま苦しみ続けてきた人々に、そして、今なお、沈黙をしたまま苦しみに堪えている人々の苦悩にしっかりと向き合ってみようではありませんか。

 ハンセン病の歴史を風化させることなく、その歴史から学び、新しい未来を切り開き、次世代につなげていけるよう、皆さまと手を携えていきたいと思います。
「グローバル・アピール2015」その1―ハンセン病の差別撤廃に向けて― [2015年02月09日(Mon)]
「グローバル・アピール2015」その1
―ハンセン病の差別撤廃に向けて―


第10回ハンセン病患者・回復者とその家族への偏見や差別撤廃を願う「グローバル・アピール2015」は、1月27日、ANAインターコンチネンタルホテル東京で開催された。

ISIS(イスラム国)での日本人人質事件への対応、国会の開催など超ご多忙の中、安倍首相は令夫人と共にご出席下さり、錦上花を添えていただきました。

私はハンセン病への闘いをオートバイで説明している。前輪は病気を治すこと、後輪は偏見や差別と闘うことで、両輪が同じスピ−ドで回転しないとハンセン病制圧とその差別のない社会という目的地には到達しない。

しかし、私の力はあまりにも非力で、多くの人々のご助力を得たいと考えた。

そこで下記に列挙したように、毎年、それぞれの分野で活躍されている指導者の皆さまのご協力を得て「グローバル・アピール」を発表し、世界の人々に一人でも多くのハンセン病についての正しい知識を伝えたいと始めたものである。

第1回 2006年 ジミー・カーター 元アメリカ大統領
         ダライ・ラマ師
         オスカー・アリアス 元コスタリカ大統領、
         デスモンド・ツツ大司教
         エリー・ヴィーゼル
        ★以上5名はノーベル平和賞受賞者
         ハッサン・ビン・タラル ヨルダン・ハシェミット王国王子
         ルイース・イナシオ・ルラ・ダ・シルヴァ ブラジル大統領
         メアリー・ロビンソン 元国連人権高等弁務官
         R.ヴァンカタラーマン 元インド大統領
         オルセグン・オバサンジョ ナイジェリア大統領
         ヴァーツラフ・ハヴェル 前チェコ共和国大統領
         笹川陽平 日本財団会長
         以上の12名で、インド・ニューデリーから発表された。
第2回 2007年 世界12カ国のハンセン病回復者の指導者と、フィリピン・マニラから発表。
第3回 2008年 代表的な国際人権NGO10団体と、ロンドンから発表。
第4回 2009年 世界の各宗教団体指導者17人が署名されて、ロンドンから発表。
第5回 2010年 世界的大企業15社のCEOが署名されて、ロンドンから発表。
第6回 2011年 世界著名大学103校の学長が署名されて、北京から発表。
第7回 2012年 世界医師会と50カ国の医師会が参加して、ブラジル・サン・パウロから発表
第8回 2013年 世界法曹協会と47カ国が参加して、ロンドンから発表
第9回 2014年 39カ国の人権委員会が署名されて、ジャカルタ・インドネシアから発表。
第10回 2015年 国際看護師協会と132カ国の看護師協会が署名・参加して、東京から発表。

尚、1月27日グローバル・アピールの式典およびシンポジウムと1月30日の文芸でみるハンセン病の講演会がそれぞれUstream上で公開され、今後3〜4週間ほどアクセス可能です。

アクセスについての関連情報は下記の通りです。
1月27日に開催されたグローバル・アピール2015 式典及びシンポジウム
2月26日までアクセス可能です。

1月30日に開催された「 文芸でみるハンセン病」講演会
3月1日までアクセス可能です。

「ハンセン病とNTD問題」 [2012年10月29日(Mon)]
「ハンセン病とNTD問題」


最近NTD(Neglected Tropical Disease 顧みられない熱帯病)との闘いにWHOも努力を傾注しており、民間財団や製薬会社なども活動を活発化させようと努力中であり、大いに歓迎すべきことである。

ただ一点私が不満に思うことは、NTDという呼び方である。これは専門家や支援しようとする側のスタンスであって、日夜病気との闘いに苦しんでいる患者にとっては一時たりとも忘れることができないことである。これらの患者たちの救済に携わる側が、患者を見下すように「忘れた」病気というのは誠に失礼なことで、一つ一つの病名で対処すべきことであろう。

NTDとの闘いに多くの支援団体が参加することは喜ばしいことであり、当然、当該発展途上国政府との共働作業が不可欠である。しかし、私がハンセン病の制圧と人権問題の解決に奔走し始めたころ、私の働きは少数意見であった。多くのNGOは、汚職の噂の絶えない発展途上国の政府と共働することは好ましいことではないと、私の活動を非難したものである。しかし、私は1ドルたりとも直接政府関係者に資金を提供したことはなかった。

我々の支援活動は、WHOを通じて薬や専門家の派遣等に使用されたのである。公衆衛生の問題が、WHOは勿論のこと、当該政府の協力なくしては達成できないことは、ハンセン病の世界制圧を目前にした私の活動が正しかったことが立派に証明されたと考えている。ハンセン病制圧は、WHOにとって天然痘撲滅以来の画期的成果であり、NTDの撲滅に関与されるステークホルダーに良いケーススタディーを提供できたのではないかと自負している。

ハンセン病制圧も間近に迫っているものの問題は山積みしており、いまだ世界中で年間20万近くの新患者が発生している。ハンセン病の根絶への闘いと回復者の汚名・差別への闘いを更に進めていくため、残りの人生をかけて全力を尽くし、活動を更に強化したい。

世界の病める人々のために、WHOを中心に、各々の関心ある分野で人類の救済のために共に闘おうではありませんか。
「インドのハンセン病差別法」 [2012年10月26日(Fri)]
「インドのハンセン病差別法」


2003年、私は初めてジュネーブの国連人権理事会(当時は委員会)を訪ね、ハンセン病のスティグマや差別撤廃を訴えた。2010年12月にはニューヨークの国連総会で「ハンセン病患者、回復者及びその家族に対する差別撤廃」の決議案が加盟国192ヶ国(2010年12月時点)全ての賛成で「原則とガイドライン」と共に決議されたことはすでに報告した通りである。

ただこの決議案に拘束力はなく、このまま放置すれば忘れ去られてしまう恐れがあるが、私のハンセン病とその差別への闘いにとって有力な道具となるものではある。

私はこの決議案を世界の人々に理解してもらうために啓発活動を活発に展開しようと考え、今年1月にはブラジルで、10月にはニューデリーで、世界の人権専門家やハンセン病回復者も含め「ハンセン病と人権国際会議」を開催した。

この会議の中でインドの専門家より、ハンセン病に対する差別法についての説明があった。既に私はこれら法律を撤廃すべく活動中ではあるが、読者の参考までに下記に連記した。なお、この会議はエジプト、エチオピア、スイス(ジュネーブ)と世界五大陸で啓発のための国際会議を継続して開催します。


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インドハンセン病差別法


1. ムスリム結婚・離縁法(1939):
配偶者が2年間精神病の場合、またはハンセン病か悪性の性病の場合離婚が保証される。

2. 産業争議法(1947):
継続的な病弱を理由に労働者の雇用を停止することができる。

3. オリッサ地方自治体法(1950)及びオリッサ村議会法(1964):
選挙の当選者がもし精神異常者かハンセン病患者、結核患者である場合、当選資格は無効となる。議員がもし精神異常者かハンセン病患者、結核患者となった場合、その職を失うものとする。

4. 特別結婚法(1954):
もし配偶者が3年以上ハンセン病に罹っていたら離婚が保証される。

5. ヒンズー結婚法(1955):
もし配偶者が3年以上無菌性で治癒不可能なハンセン病に罹っていたら離婚が保証される。また、1年以上伝染力のあるハンセン病に罹っていたら法的別居が保証される。

6. ヒンズー養子縁組・扶助法(1956):
ヒンズー教徒の妻は、もし夫が伝染力のあるハンセン病に罹っていたら、権利を放棄することなしに夫と別居する権利が与えられる。

7. 生命保険会社法(1956):
ハンセン病患者・回復者に対して高額な保険料率の請求を認めている。


8. ラジャスタン地方自治体法(1959)及びラジャスタン村議会法(1994):
ハンセン病患者は選挙に立候補する権利がないとしている。

9. インド離婚法(1869):
配偶者が感染力のある治癒不可能なハンセン病に過去2年以上罹っている場合、その結婚は解消することができる。

10. インド鉄道法(1989):
鉄道当局は伝染性または感染性の病気に罹っている人を乗せることを拒否することができる。(ハンセン病を除外する記載がない)

11. インド・リハビリテーション法(1992)及びマディヤ・プラデシュ村議会法及びアンドラ・プラデシュ村議会法(1993):
「障害者」の定義の中で、ハンセン病による障害についてカバーしていない。

12. チャティスガール村議会法(1993):
感染症を持つハンセン病患者が村議会議員になることを禁止。

13. 障害者法(1995):
「障害」の定義にハンセン病「回復者」を含んでいるが、まだ治癒されていない患者が含まれていない。また「障害」の定義が医療的障害のみを言及し、スティグマによる社会経済的な困難については認めていない。

14. 少年司法(2000):
ハンセン病を伝染性で遺伝的にリスクのある病気と分類している。これによりハンセン病に罹った子供が特別照会サービスを通して隔離して扱われる根拠となる。

15. ボンベイ物乞い予防法(1959):
物乞い(ハンセン病患者、回復者が多い)が発見された場合、警察によって逮捕され1回目は記録され、2回目は1年以上3年未満の期間、認証施設(拘置及びトレーニングと雇用のための施設)に拘束される。一度施設に拘束されたことのある乞食が再度発見された場合10年間認証施設に拘束される。これは殺人刑の刑期10年に等しい。
「インドでのハンセン病制圧活動」 ―マディヤ・プラデーシュ州とサラン氏― [2012年10月03日(Wed)]
「インドでのハンセン病制圧活動」
―マディヤ・プラデーシュ州とサラン氏―


マディヤ・プラデーシュには2003年以来の訪問であった。

ハンセン病の制圧は勿論だが、近年、回復者の生活向上にも力を入れており、全国800ヵ所のコロニーの代表者による「インド・ナショナルフォーラム」を設立。その組織の強化も重要な仕事になってきた。

「インド・ナショナルフォーラム」の初代会長P.K.ゴパール氏が引退され、二代目会長はアンドラ・プラデーシュ州の代表である情熱家ヴァガヴァタリ・ナルサッパ氏が就任した。彼を同行し、マディア・プラデーシュ州の代表であるサラン氏と共に、シヴラジ・シン・チョウハン(Shivraj Sing Chouhan)首相に嘆願書を提出した。

首相に調査報告するサラン氏
首相に調査報告をするサラン氏.jpg

首相に報告するサラン氏.jpg


内容は、ハンセン病回復者が集団で生活するコロニーの生活改善に関するもので、主に年金の増額、食料配給カードの発行、職業訓練の実施等である。既に8月20日の私のブログで記したように、最貧州のビハール州で、行政府が確認しているコロニーは27ヵ所、年金は200ルピーであったが、当方の調査でコロニーは64ヵ所であるとの詳細な調査報告書と、年金の1000ルピーへの増額要求に対し2000ルピーの回答を得て今議会で承認されることを報告した。

マディア・プラデーシュ州の150ルピーから1000ルピーへの増額要請は、個人的には全国統一でビハール州並みの2000ルピーにしたかったが、各州のコロニーの置かれている状況も異なり、サラン代表の嘆願書に従い1000ルピーで交渉した。

首相は就任前には国会議員を4期務めていた評判の高い政治家である。担当部署が掌握しているコロニー数はたったの10ヵ所だが、当方の調査結果では34ヵ所、1459世帯、3761人であるとの調査報告書も添えて嘆願書を提出した。最重要の年金月額150ルピーを1000ルピーへの増額要請について、首相は実施すると即答された。

会見後、サランに「よかったね」とねぎらいの言葉をかけたところ、「文書で回答をもらうまでは信用できない」とにべもなく言い放った。今までも再三再四の嘆願を無視され続けてきただけに、彼の心情は痛いほどわかる。「私はビハール州には何回も足を運んで実現できた。ここにも何回でも来るよ。共にみんなのために頑張ろう」と話したらようやく微笑を浮かべてくれた。

州の独立した行政機関である人権委員会では「何でもっと早く陳情にこなかったのだ。ここは州政府に、勧告だけでなく場合によっては実施させる権限もあるのだ。これからも遠慮なく利用してほしい」と激励された。帰り道、サランは「行きたくとも交通費がなくて行けなかったんです」とぽつりと言った。

翌日サランの案内でマガスプール・コロニーを訪れた。彼は松葉杖であった。昨日は大役のため、足に合わない義足を付けて痛みを堪えていたとは知らなかった。

サラン氏と.jpg
松葉杖で現れたサラン氏にビックリ


コロニーでは「ササカワ・インド・ハンセン病財団」からの小額融資を受けて水牛を育て、ミルクを売る事業を視察した。薄暗い粗末な牛小屋には、一つしかないであろう古びた扇風機が回っていて、牛をいかに大切に扱っているか一目瞭然であった。サランに「君は財団からの支援で何かやらないのか」と聞いたところ「私は最後です。役得と思われたくないのでね」。頭のいい、あくまでも謙虚な男である。

今回のインド訪問中、駐在して活躍している日本財団職員の粟津知佳子より、「会長!! これからはコロニー訪問で見舞金を渡すのをやめて下さい。貰わないコロニーでは不満があるし、貰ったコロニーでも代表者が俺が貰ったと強弁する人もいて、問題になっていますから」との忠告を受けた。

いまでも物乞いで生活の多くを支えているコロニーの人たちが、私が訪れるというので歓迎の花飾りを買い、飲み物を買い、準備してくれた費用を彼等の生活費から出させるのは忍びなく、規模に応じて4万から多くて8万の見舞金を全員の前で激励の挨拶後に渡していた。しかし、歓迎式典のないコロニーでは見舞金を渡さなかったことも事実であった。

ささやかな感謝の気持ちも受け取る側によっては大きな波紋を呼ぶことになってしまう。粟津の忠告に従うことは当然としても、私の主義である目配り、気配り、心配り、感謝の気持ちも場合によっては害になることを知らされた。

サランほどの能力があれば、ササカワ・インド・ハンセン病財団から小額融資を受けて事業も出来るだろうに、「自分は最後だ」と言って、週に一度、密かに「物乞い」に出かけ、その金で34ヵ所のコロニーを束ね、組織の団結のために奉仕しているのである。

かつて、笹川良一は「巣鴨日記」の中で、昨日まで大臣だ大将だと威張っていた人たちが、巣鴨刑務所の風呂場で石鹸を取り合い、飯の量を多くしてくれと頼み込む姿を見て絶望したという。

「志」の高さは学歴でも貧富でもなければ役職によるのでもない。個々人の心に宿るものであることを、物乞いをしながら人々に奉仕するサランに教えられた。
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