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「ハンセン病制圧活動記」その49―インドネシア― [2019年02月14日(Thu)]
「ハンセン病制圧活動記」その49
―インドネシア―

星塚敬愛園機関誌『姶良野』
2019年1月号

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平

昨年2017年11月11日から16日の6日間、インドネシアの首都ジャカルタと北東部のゴロンタロ州を訪問した。この半年で2回目の訪問である。インドネシアにおけるハンセン病の新規患者数は16,826人(2016年)で、この数はインド、ブラジルについで世界で3番目に多い。2000年にWHO(世界保健機関)の制圧目標(人口1万人に1人未満になること)は達成しているが、現在、州レベルでは全34州のうち12州がこの水準を満たしていない。今回は、未制圧州であるゴロンタロ州で、ハンセン病対策の視察を行うとともに、ジャカルタでは副大統領や州知事と面談してハンセン病対策の強化を要請した。

日本からジャカルタを経由し2日がかりでスラウェシ島にあるゴロンタロ州に到着した。活動初日は朝から地元のラジオ局でのトークショーに出演した。ガラス張りのスタジオには、司会者、保健局のアリフ医師、ハンセン病回復者団体「ペルマータ」のアル副代表、筆者が入った。司会者の軽快な声とともに番組がスタートし、アリフ医師がゴロンタロ州におけるハンセン病の現状を説明した。私からは、世界のハンセン病事情を紹介し、「みなさんが怖い病気だと思っているハンセン病は実はそれほど怖いものではありません。もし、皮膚に白い斑紋を見つけたらすぐに病院に行ってください。薬も無料で、障害が残らずに治りますよ。ラジオを聴いている皆さん、家族でチェックをしてください」と訴えた。アル副代表は6歳のときに発病したが恥ずかしくて病院に行かなかったため、手に障害が残ってしまった自らの経験を語り、早く病院に行くことの大切さを訴えた。つくづく当事者自身の話は、説得力があると感じる場面である。この番組の特徴はリスナーからの質問を受ける時間があることだ。質問の中には「患者と一緒に食事をすると感染するのか」といった誤解に基づく質問もあり、1つ1つ丁寧に答えた。これまで、外国のテレビやラジオのトークショーには何度も出演する機会を得ているが、地域住民の率直な疑問に答える番組は初めてで、画期的だと感じた。今後はこうした機会を増やしていきたい。

写真@ラジオ番組に出演。筆者隣がアル副代表.JPG
ラジオ番組に出演。筆者隣がアル副代表

午後には、ハンセン病患者を診察する病院を訪れた。頭にはイスラム教特有の白い「ヒジャブ」という布を被り、清潔感のある白い制服の看護師達が迎えてくれた。雨季であるはずなのに太陽が肌を刺すように暑く、中庭にはサボテンが生い茂り、近くで咲く真っ赤なハイビスカスとのコントラストはまさに南国特有の原色の風景である。ここは1942年に旧日本軍が武器庫として建設した後、ハンセン病専門病院として使用され、現在では一般診療も行う地域の総合病院として年間17,000人の患者が訪れている。

病院の裏には回復者の住む黄色い壁の古い建物があった。私を迎えてくれた回復者1人1人を抱きしめ、挨拶を交わした。そばにいた地元のメディアに、「これまで数千人の人と握手し、抱擁を交わしたが、ハンセン病には罹らなかった」と語りかけ、ハンセン病がうつりにくい病気であることを説明した。次に花柄のヒジャブを被った年配の女性に、「お母さん、調子はいかがですか。私と握手したら、100歳まで生きられますよ」と冗談を言うと、素敵な笑顔を返してくれた。道を挟んだ向かい側には田んぼが広がり、草を食んでいる牛の傍には、藁葺き屋根の小屋が並んでいた。小屋はレンガ火鉢を作る工場として使われていた。火鉢を売ることで彼らは現金収入を得ているのだそうだ。

写真A病院の裏に住む人々と交流.JPG
病院の裏に住む人々と交流

夜はTVRIというテレビの生放送に出演することになった。地元保健局の担当者、回復者団体のアル副代表と私が参加し、午前中のラジオ同様に司会者の進行で視聴者の質問に答える形式の番組であった。まずハンセン病について保健局の担当者が説明し、続いて私は病気だけでなく差別の問題も同時に解決しなければいけないことを伝え、そのことを両輪がうまく回らないとバイクは動かない事を例えに、前輪を病気の問題、後輪を差別の問題として説明した。視聴者からは「ハンセン病になったらどうすればいいのか」や、「ハンセン病患者が妊娠したが生まれてくる子供に問題はないか?」などの質問が寄せられたことに対し、ハンセン病は遺伝する病気ではなく、簡単にはうつらないことを強調した。視聴者とのやり取りを通じて、病気に対する誤解がまだまだあることに愕然とした。

写真Cその場で質問を受けるテレビ生番組に出演.JPG
その場で質問を受けるテレビ生番組に出演

2日目、リンボト小学校で試験的に行われているハンセン病の啓発活動を視察した。幹線道路沿いにあるこぢんまりとした学校の校庭には、200人ほどの児童が目をキラキラさせて私たち一行を歓迎してくれた。私は、「両親からハンセン病は怖い病気と言われているかもしれないが、薬があるので治るようになったと家に帰って話して欲しい」とお願いすると、大きな声で「約束します」と答えてくれた。彼らが帰って家族に正しい知識を伝えてくれることを願い、学校を後にした。

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配布されたハンセン病に関するリーフレットを熱心に読む小学生たち

学校から車で10分ほどのところに回復者が住んでいるというので訪れた。火事で廃墟のようになったイスラム教寺院に住む一家で、夫と死別した母と子供3人が、1週間前に別の州から引っ越して来たばかりという。母親は病院に行くのが遅れたために、左手には障害が出ていた。2ヶ所目は、入り組んだ住宅街の奥に住む高齢の女性で、一度薬を飲んだが副作用が苦しくて途中でやめてしまったために、再発したという。女性のかたわらにいた「大工になるのが夢だ」と言う孫に、私からおばあさんがちゃんと薬を飲むように見ていて欲しいとお願いした。

3日目、出張の最終日は、ジャカルタで要人との面談で、最初にアニス州知事とお会いした。アメリカで教育を受けた若手気鋭の政治学者から政治家に転身し、次の大統領の有力候補とまで言われている。知事には、インドネシアでのハンセン病対策の強化を要請することに加え、ハンセン病回復者団体「ペルマータ」の認知度を上げることだった。そのため、「ペルマータ」のパウルス代表とアル副代表にも会談に同席してもらい、直接彼らの話を知事に聞いてもらった。会談のあと予想を超える数のテレビや新聞社がこのことを報道してくれたことも大きな収穫だった。ハンセン病対策はメディアの協力が欠かせない。我々の活動を報道してくれ有難いことであった。

ジュスフ・カラ副大統領との面談は、2005年にマラッカ・シンガポール海峡の安全確保とハンセン病対策への協力を要請した時以来となる。 副大統領は、海運会社のオーナーであり、ハンセン病蔓延地域のひとつマカッサル出身でもある。私は、「病気が治っても酷い差別が残っているインドネシアのハンセン病を根絶したい。そのため、最重要国として、できるだけ多く訪問したい」と強調した。副大統領は、「私の故郷もハンセン病が蔓延し、昔は多くの施設があった。あなたの活動に心から感謝する」と労ってくれた。

最後に、日本財団が10年に渡って支援している義手や義足を作る義肢装具士養成学校を訪れた。毎年15〜20人の義肢装具士を養成している。来年夏には支援を終え、インドネシア政府にすべての運営を引き継ぐことになっている。卒業生は東南アジア諸国をはじめ海外でも活躍している。私達の訪問を、全校生徒に加えて、卒業生までもが歓迎してくれた。印象的だったのは、「ペルマータ」のアル副代表が義足の製作過程や、リハビリの様子を熱心に見ていたことだった。ハンセン病患者・回復者の中には義足を必要とする人も多く、仲間のために学んで帰りたいという気持ちが痛いほど感じられた。彼は、今回の全行程に同行し、「ペルマータ」を全国組織にしていくことを目標にしたいと言ってくれた。

今回の訪問では、ラジオやテレビを通じて直接視聴者からの質問を受けることで、地元の住民がどんな疑問を持っているのかを知ることができ、対話の重要性を感じた。インドネシアは私の活動の重点国であり、2018年は6回訪問したいと計画している。
「ハンセン病制圧活動記」その48―モザンビークのおけるハンセン病制圧活動 [2019年01月25日(Fri)]
「ハンセン病制圧活動記」その48
―モザンビークのおけるハンセン病制圧活動
経済発展に取り残されたハンセン病―

菊池恵楓園機関誌『菊池野』
2019年1月号

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平

2018年7月25日から29日の5日間、アフリカ大陸の南東部に位置するモザンビーク共和国を訪問した。同国は2007年に世界保健機関(WHO)の定めたハンセン病の制圧基準(人口10,000人あたり1人未満)を達成したものの、再び患者が増えている。今回は、制圧後に患者が増えている地域を訪問することで現状を把握し、マラリアや結核などと比べると優先順位が下がりがちなハンセン病の対策を強化してもらうことが主な目的である。

写真1マプト市内。遠くにユニークな形の山々が見える.JPG
マプト市内
遠くにユニークな形の山々が見える


直前までハンセン病制圧活動で訪問していたコモロ連合を出発し、マダガスカル、ケニア、南アフリカ経由で22時間、モザンビークの首都マプトに到着した。南半球にあるマプトは季節が日本と間逆で7月は一年の中でも寒い時期で、夜は毛布が必要なほどであった。同国は17世紀から1975年までポルトガルの植民地であったことから、ラジオから流れる音楽も建物の壁の色も、どことなくポルトガルの影響が感じられる。

翌日活動を開始した。まずアブドラ保健大臣と面談。大臣は、「制圧は2007年に達成したが、現在は患者が増えてきている」と述べたのに対して、私は「いま患者が増えてきているのは恥ずべきことではなく一時的な現象だと考えている。これは患者発見活動が活発になっていることの表れ。早期に発見することで障害がなく治すことができ結果的に患者を減らすことに繋がる」と激励した。

写真2アブドラ保健大臣と.JPG
アブドラ保健大臣と


翌日、東北部のナンプーラ州へと向かった。首都マプトから飛行機で2時間半ほどの距離にある。南半球は北部の方が赤道に近くなるので暑くなる。朝は涼しいが昼間は30度を超える気候だ。まずナンプーラ州知事庁舎を訪問した。私はボルジェス州知事に対して「ハンセン病が治る病気で、早期発見・治療で障害は残らないということを、学校の先生などにも伝えて欲しい」とお願いしたところ、知事は「医療面、社会面、コミュニティー面など、多角的な視点からハンセン病と闘っていきたい」と述べた。

州知事庁舎を後にし、生活雑貨や中古のタイヤなどが並ぶ市場を通り抜け、真っ直ぐに続く道路を田舎に向かってひた走る。道路は綺麗に舗装されているが、道路脇には乾いた赤土に木々が生い茂り、藁のような自然の材料で作られた家々が見える。1時間ほど経つとナマイータ村が見えてきた。村の入り口には色鮮やかな民族衣装をまとった村人200人ほどが集まり、太鼓を鳴らし歌とダンスで出迎えてくれた。

写真3大勢の村人に出迎えられる.JPG
大勢の村人に出迎えられる


人だかりが出来ている広場の中央にステージがあり、コンサート会場のような雰囲気になっていた。ナマイータ村のハンセン病回復者代表から私の紹介があり、1人のハンセン病治療中の患者の女性と共にステージに上がった。私の言葉よりも、ハンセン病を経験した当事者である彼女が人の前に出ることは、村人が病気を正しく理解するために最も効果的だと思ったからだ。「日本という遠い国から来た。なぜそんな遠い国から来たかと言うと、皆さんの村にあるハンセン病を無くすためだ。ハンセン病は神様の罰、呪い、子供にうつるなど思っている人もいるかもしれないが、それは間違いだ。薬を飲めば治る」と挨拶すると、お祭り気分で盛り上がっていた村人が少し真剣な表情になった。私は自分の服を脱ぎ、裸の上半身を指差しながら、「帰って家族に体を見てもらって欲しい。白い斑紋があったらハンセン病の可能性がある。しっかり調べてくれると約束して欲しい」と言うと大きな拍手が起きた。村人がハンセン病に対して正しい知識を持ち、一刻でも早くハンセン病がなくなることを願うばかりである。

写真4治療中である女性と一緒にステージに上がる.JPG
治療中である女性と一緒にステージに上がる


ナンプーラ市内に戻りラジオ番組に出演した。イスラム教徒向けのラジオ局で、ここでもハンセン病は治るので恐れる必要はなく家族で肌を調べ斑紋があったら病院に行くことを強調した。多くの人が聞いているラジオでリスナーの率直な疑問に答えることは、病気の理解に繋がると信じている。
翌日、首都のマプトに戻って政府や国民全体に対してハンセン病の正しい知識を普及するためモザンビークテレビという全国放送に出演した。インタビュアーからの「今回の訪問はどうだったか」という問いに対し、「テレビを視聴している皆さんに知っていただきたいのは、治る病気で薬は無料であり、体の皮膚に白い斑紋が出ることが兆候である。各家庭で皮膚をチェックして欲しい」と答えた。

写真5ハンセン病についての正確な情報をテレビを通じて拡散.JPG
ハンセン病についての正確な情報をテレビを通じて拡散


久しぶりに訪問したモザンビークは経済発展が進み高層ビルが立ち並ぶ国に変貌していた。しかし制圧して以来、ハンセン病対策は進展がなくナンプーラ市でのプログラムもさほど変わっていなかった。私の訪問によって政府、現場の保健従事者、住民がハンセン病に対して考え、やる気を出すきっかけとして欲しいと願っていたが、今回はその確証は得ることはできなかった。モザンビークの保健省、WHO、関係者たちが一層ハンセン病に対して力を入れ、一人でも多くの人に正しい知識を伝えて欲しいと願う。もし私が来ることで少しでも前進するのであれば、何度でもこの国を訪れる覚悟である。



「ハンセン病制圧活動記」その47―インドネシアのハンセン病対策 ― [2019年01月24日(Thu)]
「ハンセン病制圧活動記」その47
―インドネシアのハンセン病対策 省庁の垣根を越えて動き出す―

大島青松園機関誌『青松』
2018年11・12月号

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平

2018年10月1日から6日の5泊6日でインドネシアの首都ジャカルタと地方都市であるマルク州アンボン市を訪問した。本訪問直前の9月28日に同国中部のスラウェシ島にて地震と津波が発生し多くの方が犠牲となった。スラウェシ島は本年3月に今回同様ハンセン病制圧活動で訪れ、豊かな自然に囲まれた美しい都市が印象的であったが、報道を通じて大きな被害を受け変わり果てた姿を目の当たりにし、しばし言葉を失った。犠牲者並びにインドネシア国民の皆様に深い哀悼の意を表する。そして緊急事態の中ハンセン病制圧活動を重視し訪問を受入れて下さったインドネシア政府に改めて感謝申し上げたい。

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スラウェシ島での地震災害への募金活動を行う若者たち


インドネシアは東南アジア南部に位置する国家で、赤道をまたいで16,000を超える世界最多の島で構成される国家だ。人口は世界第4位の約2億5,000万人を有し、イスラム教徒が9割を占める。2000年にハンセン病の制圧を達成しているものの、2002年以降患者数が増加傾向にあり今尚17,000人ほどのハンセン病患者がいる。この患者数はインド、ブラジルに次いで世界で3番目に多い数字だ。今回の訪問では、どのように患者数を減らし、また、差別・スティグマを社会から取り除いていくにはどのような方策が効果的かについて中央政府・地方政府そして回復者組織であるPerMaTaと議論を重ね、メディアを通じて広くインドネシア国内へ周知するための活動も行った。

10月2日早朝、インドネシアのハンセン病回復者団体PerMaTaの代表パウルスさんと副代表のアルカドリさんが我々の宿泊するホテルまで会いに来てくれた。今までハンセン病制圧活動を共にしてきた仲間であり、今回の旅でも行動を共にする心強いパートナーだ。PerMaTaは現在インドネシア国内に4つの支部をもち、今回の旅中に訪れるマルク州アンボン市で5つ目の支部を開設する予定なのだ。ひとしきり再会の喜びを分かち合った後、国民福祉担当調整省でのハンセン病啓発会議に出席するため車でホテルを出発した。ホテルから国民福祉担当調整省までの距離は10キロにも満たないが、車で優に1時間以上もかかる。なぜならジャカルタは世界一とも言われる渋滞都市だからだ。通勤に向かう車、いたるところで乗客を拾うバス(インドネシアにはバス停がなくどこでも乗降可能)、そして道路を縦横無尽に疾走する大量のバイク。国の発展・活気を象徴するかのような熱気に満ちた交通事情を体験し、目的地である国民福祉担当調整省に到着した。

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渋滞が半端ないジャカルタ市内


因みに、調整省という名前は日本では聞きなれない名前だが、インドネシアの行政機構の特徴的な省なのだ。日本では各省庁は独立しており、所謂縦割り行政に陥りがちだが、ここインドネシアは複数の省を統括する調整省がある。国民福祉担当調整省は宗教省、保健省、社会省、文化・初中等教育省、研究開発・高等教育省、村落移民省などを管轄しており、関係省庁の連携が円滑になるよう、その名の通り「調整」している。ハンセン病についてはこの国民福祉担当調整省が主導権をもって、今回はじめての啓発会議を開催してくれた。

シギット国民福祉担当調整省次官は、5年間ハンセン病のクリニックで勤務した経験もあり、ハンセン病への造詣が大変深い。シギット次官から「クスタ(インドネシア語でハンセン病のこと)の問題は病気だけでなく、差別・スティグマが伴います。ですから、保健省だけでなく様々な省庁が協力して解決に当たらなければならない問題であり、調整省の責任者として関係省庁の担当者を集めた啓発会議を企画しました」と説明された。私は長年ハンセン病制圧活動に従事し各国の取組を見てきたが、中央政府の高官レベルで関係省庁が協力して啓発会議を開催した例はあまりなく、このような先進的な取組に興奮を覚え、期待に胸を膨らませて会議に臨んだ。

啓発会議には、国民福祉担当調整省とその管轄にある宗教省、保健省、社会省、文化・初中等教育省、村落移民省、そして別の調整省の管轄下にある内務省、通信・情報省、労働省からの担当官が30名ほど詰めかけていた。冒頭保健省よりインドネシアにおけるハンセン病の現状が説明された。ハンセン病の患者を少しでも多く見つけ治療することの必要性は理解しているものの、担当者にとって患者が増えることは職責から問題になることを恐れるケースもある。そして患者にもハンセン病と診断されることへの恐怖・恥という概念が根強く残っており、なかなか活動が上手くいかないといった現場の切実な本音が共有された。この様子をじっと聞いていたシギット次官は「私は、新しいクスタの患者を発見することに対して恥ではなく名誉を与えたいと思います。新しいクスタの患者を発見することは名誉と考えましょう」と提案した。私はシギット次官の考えに賛意を示し、患者を見つけることは不名誉でも恥でもなく、社会が持っている差別・スティグマという病気も啓蒙することが肝要であること、そして、このような省庁横断型で取組むことの重要性を改めて伝え、次回の会議にも必ず参加することを約束した。

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左からPerMaTaの代表パウルスさん、シギット次官、筆者、副代表のアルカドリさん


その日の夕刻、ジャカルタ・ポストの取材を受けた。記者のアリ・ヘルマワンさんは若くして編集幹事に抜擢された人物で、母親が元ハンセン病患者ということもあり、ハンセン病の正しい知識を広く社会に伝えていくことに大変意欲的な好青年だ。私からは、省庁横断型でハンセン病対策を進めようとしているシギット次官の取組を紹介し、ハンセン病の薬は無料で早期発見・早期治療で完治すること、従って差別をしてはならないと社会を啓蒙し、患者が自ら病院へ通うようになれば、患者をゼロにすることが出来ることを伝えた。アリさんは力強く頷き、引続きメディアの視点から啓発を進めていきたいと話してくれた。
翌日10月3日、ジャカルタから東に約2,500キロに位置するマルク州アンボン市に移動した。飛行機で約4時間かかる距離だ。アンボン市はインドネシア東部最大の都市で人口37万人を擁する。1999年にキリスト教徒とイスラム教徒による「マルク宗教抗争」のため多数の死者が発生し、現在でも対立が完全に収束したわけではないとのことだが、印象として治安はそこまで悪くはない。しかしこの町のハンセン病有病率は2017年の統計によれば1万人に2.49人であり、紛れもなくハンセン病対策が遅れてしまっている地域なのだ。ジャカルタに勝るとも劣らない雑然とした交通渋滞に巻き込まれながら空港からホテルへ移動し、その日は翌日からの活動に備えた。

10月4日早朝、マルク州知事主催の会議に参加するため知事庁舎へ向かった。庁舎に到着すると知事の姿はまだなく、しばらく会議場で待つことにした。少しすると州職員の様子が慌しくなり、程なくして多数の職員に随行されたマルク州知事のサイード・アサガフ氏が会場へと現われた。州職員が会議よりも知事への気遣いに追われている様子に、当地のハンセン病対策がどのようなものになっているのか一抹の不安を感じながら会議に臨んだ。

会議には州の保健局をはじめとする関係部局に加え軍・警察の担当者も合わせて3人ほど参加していたが、各人のテーブルには一枚の書類もなく、今日は何の会議なのか、何故自分たちが参加しているのか十分情報が共有されていない参加者も多数いるようだった。私の長年の経験で、全く形式的な会議であったが、これからも具体的成果が出るまで何遍でも訪問を続けるつもりだ。

午後は、インドネシア国営テレビに出演した。私はここ数年ハンセン病制圧活動で訪れた国では可能な限り現地のテレビ・ラジオ番組に出演することにしている。なぜなら、ハンセン病に関する正しい知識を多くの方に知って頂くには何より現地メディア、特にテレビ・ラジオは発展途上国の経済的に貧しい地方都市でも多くの家庭で所有しており啓蒙活動には有効な手段なのだ。

インドネシア国営テレビ局はアンボン市の小高い岡の上に位置している。局からは美しいバンダ海と雄大なアンボンの自然が調和したなんとも贅沢な景色が広がっていた。番組に出演するのはPerMaTaの代表であるパウルスさん、マルク州疫病対策部長のリタさん、私の3人だ。番組では私が発言している最中にイスラム教のお祈りの時間が始まったとのことで生放送ながら3分間中断が入るといったインドネシアならではの事情も体験しつつ、家族で互いに皮膚をチェックしハンセン病の早期発見・早期治療に務めることの重要さ、そしてハンセン病は神罰でも呪いでも遺伝でも、風邪のように強く伝染する病気でもなく、薬を飲めば治る病気で恐れるものではない、とのメッセージをパウルスさん、リタさんと一緒に伝えた。

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国営テレビの1時間番組に出演


翌10月5日はインドネシアの公共ラジオ放送の朝の番組への出演から始まった。このラジオ番組の特徴は、視聴者からの質問・相談を受け付けその場で答えることにある。我々が気付かないハンセン病に関する素朴な質問から、ハンセン病患者自身からの体調に関する相談まで、視聴者が日々の生活で疑問に思っていてもなかなか知る機会がない生の情報を伝えるからこそ番組への関心も高いようだ。今回の放送では短い時間ながら全部で6つも質問を頂戴した。中には「インドネシアのクスタ制圧にどのように日本が貢献していくのか」といった国際感覚に溢れた質問もあった。日本の活動がインドネシアの人々に期待されていると同時に、期待に応えるよう責任感を新たにした。

アンボン市長との面談と啓発会議については、事前に私の訪問と会議開催が決まっていたのに市長は不在であった。他に緊急の用件が発生したのかも知れないが、率直に言って落胆と同時にこの地域での取組みの不関心を感じた。市長不在の啓発会議が終わりに差しかかった頃、回復者団体PerMaTaの代表であるパウルスさんがおもむろに立ち上がり自己紹介をした上で、ハンセン病回復者は手を挙げて欲しいと会場を見渡した。不安な表情を浮かべつつも、10人程が手を挙げるとパウルスさんは「回復者団体PerMaTaがここアンボン市に支部を開設することについて皆さん賛成ですか」と質問した。挙手した回復者は戸惑うような素振りを見せたが、ハンセン病患者・回復者に対する差別・スティグマがない社会をつくっていくというPerMaTaの使命・役割を熱く語りかけた。初めは雲を掴むような様子で聞いていた回復者も、パウルスさんの真っ直ぐな志に突き動かされたのか、パウルスさんがもう一度PerMaTaのアンボン支部開設の是非を尋ねてみると、みな力強い声で賛成と答えた。パウルスさんは「私はPerMaTaの代表として、ここにPerMaTaのアンボン支部を正式に開設します」と高らかに宣言した。

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PerMaTaのアンボン支部に参加することを表明してくれた回復者の方々と


今回のインドネシア訪問では、省庁の垣根を越えてハンセン病の制圧活動に取組み始めたインドネシア政府、そしてその強力な支えになるであろう回復者組織PerMaTaの成長など多くの希望の萌芽を感じることが出来た。この希望の萌芽が花開くよう、これからもインドネシアを頻繁に訪問し、ハンセン病制圧活動に協力していきたい。

「ハンセン病活動の苦闘」―インドネシアの場合― [2018年11月07日(Wed)]
「ハンセン病活動の苦闘」
―インドネシアの場合―


40年間世界中を飛び回り、ハンセン病制圧活動に従事してきた。各国での活動の苦闘は枚挙にいとわないが、現在世界の患者の7割はインド、ブラジル、インドネシアに存在する。

インドの国父・マハトマ・ガンジーの夢であったハンセン病のないインドを築くため、来年1月はガンジーの生誕150年でもあり、モディ首相のリーダーシップもあって積極的に対応してくれている。

ブラジルは、オリンピック以降政変が続き、また大統領選挙目前でもあり、新政権の安定する来年5月までの活動は無理である。

問題はインドネシアである。13,000を越える世界最大の多島国家で、人口は約2億5000万人を擁する。地方分権が進んでおり、地理的条件もあって中央政府の政策が各州に正確に確実に浸透している状況にはない。そこで、ハンセ病対策のため直接各州を訪問し、州知事をはじめ各県知事にも直接この地域のハンセン病事情を説明し、協力を願う活動が必要となってくる。

今年の3月にはスラウェシ島で活動したが、9月に起きた大地震で、豊かな自然に囲まれた美しい島の広い地域で大きな被害を受け変わり果てた姿をメディアで目にし、犠牲者とインドネシア国民の皆様に深い哀悼の意を表したい。

今年10月1日〜6日まで、ジャカルタから東に約2500キロのマルク州アンボン市で活動を展開した。

マルク州知事主催のハンセン病制圧会議は、サイード・アサガフ知事の到着が大幅に遅れた上、州保健局をはじめ関係部局の他、何故か、軍、警察も出席し、計30名ほどであった。しかし、各人のテーブルには一枚の書類もなく、今日は何の会議なのか、何故自分達が参加しているのかも十分情報が共有されておらず、全く形式的な会議であったことは一目瞭然であった。アンボン市長とのハンセン病啓発会議も、事前に私の訪問と会議開催が決まっていたのに主役の市長は欠席であった。

何事も原因のない結果はない。マルク州にハンセン病患者が多いのは指導者の無関心によるものである。かつてアフリカのモザンビークもこのような状態にあったが、5年間に4回訪問し、結果的に大統領がハンセン病制圧の最高責任者となり制圧した経験がある。必ずや近い将来、無関心な彼らが積極的に活動するよう何回でも訪問するつもりである。

しかし、今回の訪問は悪いことばかりではなかった。

インドネシア政府には各省庁の縦割行政を排除するため、複数の省を統括する調整省がある。国民福祉担当調整省は宗教省、保健省、社会省、文化・初中等教育省、研究開発・高等教育省、村落移民省などを管轄しており、関係省庁の連携が円滑になるよう調整している。

この度、はじめてハンセン病についてこの国民福祉担当調整省が主導権をもってハンセン病啓発会議を開催してくれた。国民福祉担当調整省のシギット次官は5年間、ハンセン病クリニックで勤務した経験もあり、「ハンセン病は病気だけでなく差別・スティグマを伴う。だから様々な省庁が協力して解決する必要があり、単に保健省の問題だけではない」と強調され、私の考えを代弁してくれた。

このような関係省庁の合同会議は私の経験の中でもはじめてのことで、シギット調整省次官を説得・協力してもらうことがインドネシアでのハンセン病解決への中心人物になると直感した。少し明るい燭光に、筆者の期待は膨らんでいる。

もう一つの明るいニュースは、テレビやラジオに出演してハンセン病の正しい知識を説明して視聴者の質問に答える方法を、笹川記念保健協力財団の南里常務が考えてくれたことである。形式的な会議より、直接電波を通じて住民に説明することの方がはるかに効果の高いことは筆者が実感しているとこである。テレビ生出演中にイスラムのお祈りで3分間中断したことは、ご愛敬というより、インドネシアのイスラム信仰の強さを理解する場面でもあった。

インドネシアは勿論、西パプア、北マルク、パプア等、まだまだ現地活動の必要な地域は多くあるが、ハンセン病制圧には私の信条である「あふれる情熱、どんな困難にも耐える忍耐力、そして、成果が出るまで活動する継続性」こそ必要不可欠であることは言うまでもない。
「ハンセン病制圧活動記」その46―インド訪問記「写真を通じてハンセン病に対する理解を」― [2018年10月10日(Wed)]
「ハンセン病制圧活動記」その46
―インド訪問記「写真を通じてハンセン病に対する理解を」―


栗生楽泉園機関誌『高原』
2018年7・8月号

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平


今年4月、私はインドの首都デリーを訪問した。18日の夕方日本をたち、翌日朝からいくつかの用件を済ませ、そのまま深夜便で帰国するという1泊2日の慌ただしいインド往復であった。

到着日の19日午前中、インド保健家族福祉省でハンセン病担当官のアニル・クマール氏との面談で、インド政府が2年前から実施している「ハンセン病患者発見キャンペーン(LCDC)」により多くの患者が発見されていることに敬意を表した。制圧が達成された途端、患者が増えることを恐れて発見の活動を怠ることを私は「エリミネーション・トラウマ」と呼んでいるが、インドはこのトラウマにも負けず、一生懸命に患者を探し、ハンセン病のない国の実現に向けて本気で取り組んでいる。彼らの勇気と熱意に大いに期待したい。

その後、笹川インドハンセン病財団理事との打ち合わせや子どもの権利活動家として2014年にノーベル平和賞を受賞したカイラシュ・サティヤルティ氏と面談。

夕刻から今回の主な目的である富永夏子の写真展『OUR LIVES』のオープニングセレモニーに出席した。富永は私と共に世界中をまわり、ハンセン病の患者・回復者、その家族の写真を撮り続けている日本財団職員の写真家である。

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写真展会場の様子


写真展はデリー中心地にある格式高いインディア・インターナショナル・センターで4月20日から5月1日までの12日間開催された。インドおよび世界のハンセン病患者、回復者、家族の生活の様子が彼らの声と共に伝わるように100枚の写真が展示されていた。

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オープニングで挨拶をさせていただく


オープニングセレモニーにはインドでハンセン病問題に取り組んでいる政府、WHO、NGOなどの関係者、メディア、回復者の他、在インド日本大使館の全面的な協力を得て日系企業からも多数参加して下さった。私は今回の集まりをきっかけに日系企業の方々にインドの国民的課題であるハンセン病の実態と日本財団の取り組みを知っていただき、将来的には彼らの協力も得たいものと淡い期待もしている。

また、オープニングでは写真のモデルの一人であるマディア・プラデッシュ州のアニータさんが彼女のつらい人生経験を語ってくれた。

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写真展に駆けつけてくれたアニータさん(自身の写真の前で)


この写真展は多数のメディアが取り上げてくれ、多くの人にハンセン病の問題を伝えることができたのは望外のことで、世界の約20万人の新規患者のうち6割がインドで発見されていることを考えると、インドでのこの写真展は、一般の人々にハンセン病のことを知ってもらう機会を提供することができ、成功だったと思う。

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インド国内の多くの新聞に写真展について報道された(写真は富永夏子)


インド独立の父、マハトマ・ガンジーは当時社会の最下層に置かれていたハンセン病の患者の境遇を変えたいと願った。来年はそのガンジーの生誕150周年の年だ。それまでにインドのハンセン病問題の解決で画期的成果が出るようこれまで以上に、全力で活動に取り組んでいきたいと思う。

「インド訪問記」―写真を通じてハンセン病に対する理解を― [2018年05月18日(Fri)]
「インド訪問記」
―写真を通じてハンセン病に対する理解を―


今年4月、インドの首都デリーを訪問した。18日の夕方に日本を発ち、翌日朝からいくつかの用件を済ませ、そのまま深夜便で帰国するという1泊2日の慌ただしいインド往復であった。

到着日の19日午前中、インド保健家族福祉省でハンセン病担当官のアニル・クマール氏と面談。インド政府が2年前から実施している「ハンセン病患者発見キャンペーン(LCDC)」により多くの患者が発見されていることに敬意を表した。制圧が達成された途端、患者が増えることを恐れて発見の活動を怠ることを私は「エリミネーション・トラウマ」と呼んでいるが、インドはこのトラウマにも負けず、一生懸命患者を探し、ハンセン病のない国の実現に向けて本気で取り組んでいる。彼らの勇気と熱意に大いに期待したい。

その後、笹川インドハンセン病財団理事との打ち合わせや子どもの権利活動家として2014年にノーベル平和賞を受賞したカイラシュ・サティヤルティ氏と面談。

夕刻から今回の主な目的である富永夏子の写真展『OUR LIVES』のオープニングセレモニーに出席した。富永は私と共に世界中をまわり、ハンセン病の患者・回復者、その家族の写真を撮り続けている日本財団職員の写真家である。

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写真を通して多くのメッセージを受け取ってほしい


写真展はデリー中心地にある格式高いインディア・インターナショナル・センターで4月20日から5月1日までの12日間開催され、インド及び世界のハンセン病患者、回復者、家族の生活の様子が彼らの声と共に伝わるように100枚の写真が展示された。

オープニングセレモニーにはインドでハンセン病問題に取り組んでいる政府、WHO、NGOなどの関係者、メディア、回復者の他、在インド日本大使館の全面的な協力を得て日系企業からも多数参加して下さった。私は今回の集まりをきっかけに、日系企業の方々にインドの国民的課題であるハンセン病の実態と日本財団の取り組みを知っていただき、将来的には彼らの協力も得たいものと淡い期待をしている。

また、オープニングでは写真のモデルの一人であるマディア・プラデッシュ州のアニータさんが、彼女自身のつらい経験を語ってくれた。

この写真展は多数のメディアが取り上げてくれ、多くの人にハンセン病の問題を伝えることができたのは望外のことで、世界の約20万人の新規患者のうち6割がインドで発見されていることを考えると、インドでのこの写真展は、一般の人々にハンセン病のことを知ってもらう良い機会を提供することができ、成功だったと思う。

インド独立の父、マハトマ・ガンジーは、当時、社会の最下層に置かれていたハンセン病の患者の境遇を変えたいと強く願っていた。来年はガンジーの生誕150周年の年で、それまでにインドのハンセン病問題の解決に向けて画期的成果が出るよう、これまで以上に全力で取り組んでいきたいと思う。

「ハンセン病制圧活動記」その45―アゼルバイジャン共和国のハンセン病療養所を10年ぶりに訪ねて― [2018年04月23日(Mon)]
「ハンセン病制圧活動記」その45
―アゼルバイジャン共和国のハンセン病療養所を10年ぶりに訪ねて―

多摩全生園機関誌『多摩』
2018年2月号

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平

2017年10月にアゼルバイジャン共和国(以下アゼルバイジャン)を10年ぶりに訪問する機会を得た。今回の同国訪問の目的は、@南コーカサス地域(アゼルバイジャン、ジョージア、アルメニアの3国)に唯一あるハンセン病療養所の再訪、A日本の図書100冊事業の寄贈式、B中央アジア奨学金事業のアゼルバイジャン奨学生の同窓会出席であった。後者2つの日本財団事業については割愛し、療養所訪問について詳しく記したいと思う。

アゼルバイジャンはロシア、ジョージア(グルジア)、アルメニア、イランと国境を接し、様々な言語・文化・宗教が複雑に入り混じる地域に位置する。面積は日本の約4分の1。人口は約1,000万人(2017年現在)で、90%以上がイスラム教徒である。近年カスピ海で新たな油田が発見され好景気に沸いたが、現地の人たちによると原油価格下落の煽りを受けて一時期の勢いは失われつつあるという。ただ、首都バクーの幹線道路沿いに鬱蒼と立ち並ぶ高層ビル群は10年前には存在していなかった。カスピ海の水辺に広がる高層ビル群と周辺の乾いた岩山のコントラストは、さながら現代のオアシスを思い起こさせる。街には高級車が行き交い、有名ブランド店が軒を連ねる目抜き通りを着飾った女性たちが歩く様子は、パリかロンドンと錯覚してしまうほどである。

こうして国が発展する中、10年前に訪れたウンバキ療養所の元患者たちはどうしているのだろうか。療養所には30人ほどが入所していて、中庭のようなところで大きなケーキをご馳走になったことを覚えている。10年経ったいまはどうなっているのだろうか。私は当時撮った写真を携え、首都バクーから南西約80キロ離れたゴビスタン砂漠の中にある療養所へ向かった。ビルや住宅が並ぶカスピ海沿いの幹線道路を離れると景色は一変した。樹木1本生えていない荒涼とした大地が地平線まで続いていた。道路は依然、舗装はされていないものの10年前の干上がった川底のようなデコボコの道ではなく、平らにならされていた。

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砂漠の中の一本道を走り続ける


砂埃をあげながら疾走する車の外に広がる青空の下の地平線を眺めながら、10年前にも感じていたことを思い出していた。世界中のハンセン病施設の多くが社会からの「排除」を目的としているため、人里離れたところに建てられている。この地も例外ではない。これから訪ねるウンバキ療養所は、もともと南コーカサス地域で唯一のハンセン病施設として1926年に首都バクー(当時はソビエト連邦)に開設され、その後数回場所を変えて1957年にこの砂漠の中に移された。当初は300人近い患者が入居していたという。(2時間近く)砂漠の中を移動すると見覚えのある鉄製の門が見えてきた。砂漠の中にぽつんと建てられた療養所の入り口である。幅4メートルほどの門は前回来た時は塗装が剥げていて何色かわからなかったが、いまは青色に塗り直されていた。

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ウンバキ療養所の門の前で
一歩出れば砂漠が拡がる


門を入ったところで車を降りると10年前と同じ顔が私を迎え入れてくれた。療養所のアリエヴ院長である。早速10年前の写真を見せて、この方々はいらっしゃいますか、会いにやってきましたと伝える。すると、アリエヴ院長は写真を全てめくり終えると「この中の多くの方が亡くなりました」と教えてくれた。前回私が訪問した時、30人だった入居者は15人(女10男5)となり、ほとんどの方が80歳〜90歳になっていた。10年という月日を感じられずにはいられなかった。しかし、写真の中の何人かの方々は今もいらっしゃると聞き、早速会いにいくことにした。
            
まず、サヤラさんの部屋を訪ねた。木造の部屋の壁は綺麗な青色で塗られていた。ふかふかの絨毯にベッドが2つ置かれ、暖房が入っていて部屋の中はほんのり暖かかった。10年前の写真に写るサヤラさんは白衣を着ていたので私は看護師だと思っていたが、改めて話を聞くとハンセン病になって1969年に入所し、病気が治ったあとは施設内で暮らしながら介護などの仕事をしているとのことだった。10年ぶりに写真を一緒に撮りましょうと言うと「インターネットに私の写真が出ると親戚に迷惑がかかるので、やめてほしい」と断られた。私は、今なお偏見や差別に怯えながら生きる元患者がいることを思い知らされ、やるせない気持ちになった。しかし、サヤラさんからは「日本から来訪者が来ると聞いて、あなたが来ると思っていました。10年ぶりに会えて懐かしい」とうれしい言葉をかけてもらい、逆に励まされてしまった。

次に、庭で寛ぐセードバーニュさんを訪ねた。手渡した10年前の写真を懐かしそうに眺めながらご自身の話を少しだけ聞かせてくれた。出身はイランに近いランカランという地域で、14歳の時に入所して以来ずっとここに住んでいるという。家族とは連絡をとり続けているという。なぜ家族の元に戻れないのか、理由が想像できるだけに聞くことはできなかった。

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懐かしそうに10年前の写真を眺めるセードバーニュさん


その他にも亡き妻を写真の中に見つけ、懐かしさで涙ぐむ男性や、「娘に孫が生まれて顔を見せに来てくれた」と顔をほころばせる女性にも会うことができた。私にはここに住む全ての方々が、残された時間を穏やかに過ごすことができるよう心から願うことしかできなかった。

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お孫さんが会いに来てくれたと、嬉しそうに話す女性


かつてはアルメニア、ジョージア、タジキスタンからの患者もいたが、90年以降に帰国したとのことである。ふと、2012年にロシアのアストラハン・ハンセン病療養所を訪問した時にアゼルバイジャンから来たという男性に会ったことを思い出した。男性は25年間そこに住んでいると話していたので、その前はもしかしたらこの療養所にいたこともあったのかもしれない。

入所者の方々との再会を果たして施設内を歩いているとアリエヴ院長が、生い茂る木々を指差しながら「周りは砂漠だが、入所者たちが土を集めて果実を植えたので、ここは緑豊かです。ここはオアシスなのです」と誇らしげに話していた。家族や社会から「隔離」された人々が肩を寄せ合うようにひっそりと暮らす砂漠の中の療養所。「オアシス」と呼ぶには、あまりにも寂しい場所ではないだろうか。

現在、アゼルバイジャンではハンセン病の新規患者はほとんどいない。ロシアや中央アジアの療養所もそうだが、入居者は徐々に減り、やがていなくなるのは時間の問題である。ここも10年後には閉鎖されているかもしれない。たとえそうなっても、差別と排除の中で生きてきた人々がいるということを我々は忘れてはならない、と強く感じた再訪であった。

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療養所の中には緑が茂る
「ハンセン病制圧活動記」その44―インド東部のオディッシャ州を訪問して― [2017年09月20日(Wed)]
「ハンセン病制圧活動記」その44
―インド東部のオディッシャ州を訪問して―


大島青松園機関誌『青松』
2017年7・8月号

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平


3月17日から22日までインドのオディッシャ州とデリーを訪問しました。ハンセン病の回復者と家族が暮らすコロニーを訪問すること、また彼らの尊厳や人権の回復、そして生活状況の改善を州と中央の政府に訴えることが主な目的です。なお、インドでのハンセン病制圧活動は今回で56回となりました。

実は今年の1月末から2月初めにかけても、ハンセン病差別撤廃のイベントであるグローバル・アピールと蔓延州訪問のためにインドを訪問しており、そのときにオディッシャ州を回る行程を組んでいました。しかし出発直前になって、オディッシャ州で選挙が始まるので、訪問を延期して欲しいとパートナー団体であるインド・ハンセン病回復者協会(APAL)から連絡が入り、急遽予定を変更しました。そして1ヶ月後に改めて訪問することになったのです。
 
インド東部に位置するオディッシャ州はかつて貧困地域でしたが、近年鉄鉱石や石炭など鉱物資源が採掘されるようになってから、大手企業が進出し、産業が急速に発展しています。そのおかげでインドの中では珍しく電力の供給が安定した州となり、私が滞在している間は一度も停電がありませんでした。しかし、この豊かになりつつある州でもハンセン病の問題は依然として残っています。インド保健省の報告によると昨年発見された新規患者は10,174人で、これは全国の約8%にあたります。また、人口1万人のうち患者の割合を示す有病率は1.35で、インド全体の0.65を大きく上回り、WHOの制圧基準をいまだ達成していない数少ない州です。
 
首都のデリー経由で、オディッシャ州の州都ブバネーシュワルに飛行機で移動しました。空港の前には、インド・ハンセン病回復者協会(APAL)の州リーダーであるウメシュ氏やその他のメンバーたちが太鼓やタンバリンを叩いて大勢で出迎えてくれ、マリーゴールドの花輪をいくつも首にかけてくれました。彼らの生活が楽ではないことを考えると、このプレゼントは嬉しいようで、少し申し訳ない気持ちでした。

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APAL州リーダーのウメシュ氏と2年ぶりの再会


早速行動開始です。空港から直接向かったのは、B.K.ミシュラ人権委員会委員長です。同席した州リーダーのウメシュ氏は、この委員長に対して住居環境の改善について23件の要求を提出しています。強制力はないものの、委員長は非常に協力的で、会合にハンセン病の現状学習のためオリッサ州立大学法学部の女学生15人を出席させるなど、ミシュラ氏の真面目な対応が感じられました。私からも、回復者の生活改善について再度お願いをして会談を終えました。

会場を移して行われた医療従事者との会合では、オディッシャ州の活動が報告されました。報告によると、政府主導のLCDC(ハンセン病患者発見キャンペーン)というプログラムを昨年9月から10月にかけて行った結果、4,498人の患者が発見されたこと、「ASHA」と呼ばれる保健ボランティアが蔓延地域の世帯を一軒一軒回り、皮膚などに症状が出ていないか確認する活動などが成功しているとのことでした。

次に向かったのは、メヘルダ州保健省事務次官との会合です。次官から、州が新規患者の発見に努めているだけではなく、障害のある患者に対して再建手術やリハビリテーションを行って社会復帰を促す取り組みについての報告がありました。それに対して私から「新規患者数が多いということは、それだけ早期発見のための活動が積極的に行われている証拠で、活動を高く評価したい」と伝えました。

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メヘルダ州保健省事務次官との会合


翌日は州都のブバネーシュワルから車で3時間ほどのデンカナルという地域を訪問しました。街を少し離れるとのどかな田園風景が広がります。牛がのんびり寝ていたり、ブーゲンビリヤなどの色鮮やかな花々が咲いていたりするのを見ていると、長旅の疲れが消えていくような気持ちになります。

地域保健センターでは、患者の発見活動をする保健ボランティア「ASHA」と呼ばれる女性たちが、青と紺色のサリーを身にまとって私の到着を待っていました。彼女たちによってハンセン病とわかった男性、女性、子どもからお年よりまでさまざまな患者10名が村から私に会うために保健センターまで足を運んでくれていました。なかには11歳の少年もいましたが、早期発見・早期治療のおかげで障害がありません。このことは少年の未来を明るいものにします。私は「ASHA」の人々に向かって「ハンセン病は発見が早いと障害が残らない病気です。皆さんの活動は人の人生を明るくする誇り高い活動です」と激励すると、彼女たちは誇らしげに微笑みました。

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「ASHA」(中央)と彼女が見つけた患者さんと


ブバネーシュワル近郊のラムクリシュナパリー・ハンセン病コロニーでは、住民300人のうち、90人が障害者証明書を持っており、そのほとんどは職業欄に乞食(*)と書かれていたのには驚きました。コロニーのリーダーは「住民には土地の所有権がなく、いつ追い出されるか気が気ではない。また政府からの支援金が十分ではなく家族を養うことができない」と悲しそうに陳情されました。私は「州リーダーのウメシュ氏が私に同行して首相や知事に直接皆さんのお願いを伝えます。私もできるだけ皆さんの生活が改善されるよう支援します。希望を持ってお互いにがんばりましょう」とエールを送りました。

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コロニー住民のみなさんを激励


オディッシャ州滞在中、州首相をはじめ、主席事務次官、保健家族福祉大臣、社会保障・障害問題担当次官、社会保障・障害問題担当次官、障害者問題委員会委員長など多くの政府要人との面談が分刻みで行われました。要人との面談では、私から「ハンセン病のコロニーに住む人々は自立して生きていく努力をしているが、乞食をする以外に生きるすべがない重度の障害者や高齢者がいる。私はコロニーから乞食をゼロにするためにさまざまな支援を行っているが、民間組織の努力では限界があるので、ぜひ行政の力を貸して欲しい」と簡単に説明したあと、ウメシュ氏やAPALのメンバーから直接要望を伝えるよう促しました。いつもは周りの人が驚くほど大きな声で話すウメシュ氏ですが、緊張のせいでしょう、小さな声で額に玉のような汗をかきながら神妙な顔でコロニー住民に対する土地の名義取得や特別支援金サポートについて説明し、それらをまとめた資料を要人に手渡しました。その結果、ほとんどの要人からは積極的に検討するとの返答がありました。面談終了後にウメシュ氏が「昨日は面談で渡す資料などを作成していて、寝られませんでした。試験が無事に終わった気分です!」と興奮を隠し切れずに言った時の笑顔が忘れられません。

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州の保健大臣(左)に資料を渡すウメシュ氏


大勢のメディアが集まった記者会見では、私の方から「ハンセン病は治る、感染力が弱い、差別は不当であることを市民に理解してもらえるよう、協力をお願いしたい」と訴えました。翌日には今回の我々の訪問について20以上の記事が様々な媒体に掲載されました。メディアを通じてハンセン病に対する正しい知識が多くの市民に伝わることを願います。

慌しいオディッシャ州でのハンセン病活動を終えて、デリーに移動しました。
デリーでは、WHOのインド代表、中央政府の保健省主席次官、保健省副大臣らに、オディッシャ州の状況を伝え「地方ではハンセン病担当者のポストが空席のところがある。草の根レベルの活動を絶やさないためにも人材を確保して欲しい」との要望を出しました。
中央政府は2月の予算会議でハンセン病対策予算の増額を決定し、副大臣からは LCDC(ハンセン病患者発見キャンペーン)を3年間継続することが確定したと聞き、各州との連携強化のもとに一人でも多くの患者の救済に積極的な姿勢を示されたことは大いに評価したいと思います。

インド独立の父、マハトマ・ガンジーは当時社会の最下層に置かれていたハンセン病の患者の境遇を変えるために国づくりのマニフェストにハンセン病の解決を取り上げました。ハンセン病とその差別のないインドの実現は、ガンジーの夢でもあり私の夢でもあります。その達成を見届けるまで、私は何度でもこの国を訪れ、関係者と共に闘いたいと思います。

(注)インドでは乞食(ベガー)と言う言葉が通常使われます。ご了解ください。


「ハンセン病制圧活動記」その43―カメルーン共和国でのハンセン病制圧活動― [2017年09月04日(Mon)]
「ハンセン病制圧活動記」その43
―カメルーン共和国でのハンセン病制圧活動―


東北新生園機関誌『新生』
2017年6月20日発行

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平


 2016年7月3日から13日にかけて、アフリカの中西部に位置するカメルーン共和国(以下カメルーン)を訪問した。同国は、北東はチャド、東は中央アフリカ、北西はナイジェリア、南は赤道ギニア、ガボン、コンゴ共和国に国境を接し、西岸は大西洋のギニア湾に面している三角形の形をした国である。またアフリカの国々の中で最も多様な民族で構成されており、およそ250の部族が居住しているといわれている。

 カメルーンは1998年末に、WHO(世界保健機関)の定める公衆衛生上の問題としてのハンセン病制圧目標(人口1万人に1人未満となること)を国レベルで達成している。新規患者数は隣国のコンゴ民主共和国やナイジェリアが3,000人前後に対して、10分の1の300人程度である。しかし国全体の70%の行政単位でハンセン病の報告がされていない、いわゆるデータがない状態であるため、実際の数はわからない。また、ハンセン病による後遺症や悪化防止に対応する施設がなく、俗にピグミーと呼ばれる森の中で移動しながら生活するバカ族などの狩猟民族や、国内難民に対する医療サービスの提供が遅れていると言われている。このような特にサービスの提供が困難な、南部および南東部の森林地帯に住むバカ族ピグミーのハンセン病の実態調査を行うことが今回の主な訪問目的である。

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フォーダ保健大臣を表敬訪問


 日本からパリ経由で丸2日かけて降り立ったときは真夜中近くになっていた。カメルーンの首都ヤウンデは7つの丘に囲まれた高地で、小さな丘がいくつもあり、赤道に近いが暑くはない。7月はちょうど雨季で一日中曇っているという状況だった。
途上国での活動はまず保健大臣への表敬から始まるのが常である。官庁街も丘の上にあり、保健省は重厚な木の壁に覆われた廊下を通り、アンドレ・ママ・フォーダ保健大臣の部屋に入るまでに木製の扉が10メートルの間に3つもあった。

 保健大臣との挨拶を終えて次に向かったのは、ハンセン病担当官のンジ医師の事務所だ。かつてハンセン病患者が入院する施設だったという建物の片隅を事務所として使っていた。別の部屋には蚊帳が山積みになっている。マラリアの予防にもなる蚊帳の配布先はないのだろうか。

 翌朝は早くにバカ族が住む東部地区の州都ベルトゥアに向けて首都ヤウンデを出発した。この日はイスラム教のラマダン(断食)明けとあって、街中は鮮やかな色に着飾ったイスラム教徒の人々が多く、お祝いムードだった。想像以上にカメルーンの道は舗装されており、移動はスムーズであった。道路脇には、土壁で作られた家が続き、多くの家では子供が座って、通る車輌をあきもせずじっと眺めている。突然のにわか雨には歩いている子供が大きなバナナの葉を傘代わりに使っている。車窓からの景色は何時間見ていても飽きることはない。

 景色は楽しい。だが、アフリカで最も恐れるのは地方への移動なのである。都市部に比べ車輌が少ないにも関わらず交通事故が多いのである。アフリカのどこの国でも見られるように、過載とスピードの出しすぎで横転しているトラックを何度も見かけた。

 ヤウンデを出てから約6時間で東部州の州都ベルトゥアに到着し、荷物を解く間もなく、すぐに州知事を訪問。雨がやまず、黄色い壁にヤシの木が生い茂る、グレゴリー州知事のオフィスの敷地は赤土がむき出しでかなりぬかるんでいた。知事の説明では、この州はカメルーンにある10州の中で最も広いが、人口は一番少ないという。また、中央アフリカと国境を接していることから、人口100万人中20万人が難民で、食糧問題や健康問題が深刻になっているそうだ。知事から晩餐会にも招待され、手厚いもてなしを受けた。話の中で、知事がなんと三島由紀夫の『金閣寺』の影響を受け、京都に興味を持っていることがわかった。アフリカと三島由紀夫の取り合わせが興味深い。

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メンゾー村に住むハンセン病回復者たちから話しを聞く


 次の日は、森の中に住むバカ族の村を訪問。日本の梅雨のようなうす曇の天気だが、過ごしやすい気温で鳥の声がどこからともなく聞こえてきて心地よい。ベルトゥアから車で約1時間半、まずアボンバン保健局でバカ族が多く住むこの県のハンセン病の状況について説明を受け、その後、さらに保健局から2時間近く走ってメンゾー村に到着した。バカ族と近くに住む農耕民のバントゥ族も加え100人ほどが広場に集まり、太鼓と踊りで歓迎してくれた。私もいつもの通り彼らの輪に加わって一緒に踊った。バカ族のリーダー、エレン女史がハンセン病患者を3人紹介してくれた。1人目は杖を突いた白髪の痩せた老人男性。2人目は背中にハンセン病の初期症状と見られる斑紋のある幼児。3人目は手に潰瘍のある中年の女性で、足がとても細く、鼻のあたりに後遺症が残る。彼女に「何かいやなことをされたことはありますか?」と質問してみると「すごく意地悪されて、自殺を考えている。手がないじゃないか、お前は森へ帰れと言われ、家族からものけ者にされる」と私の手をとりながら大粒の涙をこぼした。私は彼女の手を引き、集まった村人に対してハンセン病は治る病気であり、差別をすることは不当であることを説明した。そして「この中にいる人で差別をしないと誓ってくれる人は手を挙げてください」と聞くと、ほとんどの人が手を挙げてくれた。

 私が去った後までその約束が守られることを願うばかりである。差別に対する感情というものは私のような外部の人間がちょっと説明したからと言って、すぐになくなるものではないことは十分理解しているつもりである。しかし、やり続けなければ問題解決にはつながらないのである。
 
 次に訪問したのは、コワンブという村である。両脇の木が覆いかぶさるような森の中のドロ道を30分ほど走るとコワンブ村に到着。村人はまた踊りで歓迎してくれた。村長によると、ここは1936年に近隣に住むバカ族のハンセン病患者を治療・入院させるためにできた療養所で、1970年代には600人を超す患者がいた。昔はアボンバン市内に病院はあったが、ハンセン病は怖いと考える周辺住民の反対に合い、このような深い森の中に施設を移動したという。また、バカ族を森の外に定住させる国家政策で、ここまでの道路が作られ、道沿いには定住・半定住化したバカ族が住み着いているところでもあった。

 村に4人いるという回復者の一人、鮮やかな青い服を着た盲目の老人が歌で歓迎してくれた。事前に準備したのか即興なのかは不明だが、SASAKAWAという名前が頻繁に聞こえ、太くて低い音声は森の中で厳粛に響きわたった。私は老人を抱きしめ「テレビに出られるレベルの素晴らしい歌声ですね。長い間の悲しみや苦しみを乗り越えて生活されていることに敬意を表します」というと盲目の目を大きくあけて強く私の手を握りしめた。

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コワンブ村に住むジャスティンさんの自宅を訪問


 そのあと、荒れ果てた建物に住む中年男性のジャスティンさんに話を聞いた。子どものころに発症し、家族と一緒に暮らしていた森から追い出され、親戚や友人もすべて離れてしまい一人の生活になったという。治療薬でだいぶ回復したので、森にまた戻りたいと考えているそうだが、たぶん受け入れてくれないだろうと悲しげな表情で下を向いてしまった。

 最終日には森深くにある集落を訪問した。探検隊のように、見たこともない野生の木々が生い茂るジャングルの中を進む。まるで少年の頃映画で見たワイズミュラーのターザン映画のような場所である。足元がぬかるんでいる所もあるので、転ばないように杖をたよりに注意しながら歩く。しばらくして、バカ族の住む森の集落にたどり着いた。木と葉で作ったドーム形をしたモングルと呼ばれる家が5軒あり、2家族23人が生活していた。集落のリーダーの話しでは、捕った獲物は全員で分け与え、争いなどはないとのことだが、23人の中にハンセン病の回復者が2人、アルビノ(先天性白皮症)を患う人が3人いて、彼らが家族の輪の中に入りきれずに遠くにいるようで少し気になった。

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森の中で生活するバカ族


 私は2人のハンセン病回復者に小声で「今までいじめられたことはないですか?」と聞いた。すると2人は「いやというほど経験しているので、もうしゃべりたくない」とだまってしまった。
他の家族に「2人はどうしてこの病気にかかったと思いますか?」と聞いてみると、ひとりの男性が「神様の罰か悪魔の祟りだ」と答えたのである。このような奥深い森の中で、しかも23人という小さい集団の中にも、偏見や差別があることに驚きを隠せなかった。

 私からは、ハンセン病は神様のたたりではなく、色々な病気のひとつであり、早く治療すれば後遺症は残らないと説明し、家族間での偏見や差別をしないで欲しいことを伝えて、森を後にした。

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ハンセン病回復者の女性ふたりと


 アフリカの森奥深くに住むバカ族の間では、ハンセン病にかかっても分け隔てなく生活できていると思っていたが、実情は違っていた。ハンセン病が神様や悪魔によって毒された病気と信じ、情報の入らない森の中でも差別が存在することがわかった。たとえ小さな島でも、大森林地帯でも、人が住むすべての場所でハンセン病に対する差別があることを思い知らされた。私の前で差別しないと誓った人がすぐに行動にうつせるとは限らない。世界中からハンセン病に対する差別がなくなり、すべての人が生き生きと暮らせるようになるためには忍耐強く、正しい知識を広める活動を続けていかなければならない。

「ハンセン病制圧活動記」その42―インド訪問― [2017年08月02日(Wed)]
「ハンセン病制圧活動記」その42
―インド訪問―


長島愛生園機関誌『愛生』
2017年5・6月号

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平


 2017年1月28日から2月5日にかけて、インドの首都デリーと中東部のチャティスガル州を訪ねた。今回の訪問は、毎年1月最終日曜日の「世界ハンセン病の日」に合わせ「ハンセン病に対するスティグマ(社会的烙印)と差別をなくすために」と題した「グローバル・アピール2017」(宣言文)をデリーで発表することと、ハンセン病患者数が特に多いチャティスガル州のコロニーに住む回復者と家族の環境を改善するよう州政府に要請するのが主な目的だった。私のハンセン病活動でのインド訪問は40回を超える。

 2016年度の世界保健機関(WHO)発表によると、インドの人口は13億1105万人。中国13億8392万人に次ぎ世界第2位であるがまもなく世界一の人口になるであろう。多様な民族構成でも知られ近年目覚しい経済成長を遂げ、「ボリウッド」と呼ばれるインド映画業界は、世界一の制作本数を誇っている。ITや自動車産業で有名なタタグループをはじめ、インド企業も好調だ。しかし、そうした経済発展の恩恵を受けている人はまだごく一部で、地方に行けば路上生活者を街中で見掛けることも珍しくない。

 インドの2016年の新規患者数は12万7326人と世界で一番多い。WHOが定義する「制圧」基準、人口1万人当たり患者数1人未満の基準は05年に達成しているが、州レベルでは29州のうち6州が未達成で、ここ数年は患者の数が横ばい状態である。また、地方分権化が進んでいるため、中央政府だけではなく、地方自治体の首長の理解が特に重要になってきた。

 1月30日に「グローバル・アピール2017」を発表した。このアピールはハンセン病の差別をなくすために2006年から続けている。世界中の政治・宗教指導者、それに世界医師会や看護師協会などの賛同を得て毎年発表してきており、今回で12回目となる。今年は、世界171カ国の議会が加盟する列国議会同盟(IPU)との共同宣言として発信した。IPUは各国の超党派の議員が参加しており1889年6月,パリで設立された権威ある団体である。
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グローバル・アピール2017の宣言文を読み上げる


 式典のあいさつでIPUのチョウドリー会長は、自国のバングラデシュで100年続いた差別法の廃止に尽力した経験を基に「笹川氏はモーターバイクの前輪は病気を制圧すること、後輪は偏見や差別を撤廃することと説明したが、それを動かすにはエンジンが必要だ。議会はそのエンジンとなれるのである」ハンセン病の差別法を作ったのも、撤廃するのも、ハンセン病対策のための予算を配分するのも議員。議会は差別法廃止だけではなく、立法、政策起案、予算獲得、政策の実施の権限がある。ハンセン病のない世界、差別のない世の中をつくることが議員の役割。それこそがIPUの精神だ」と力強く語った。

 モディ首相からはビデオメッセージが届いた。「インドの父であるガンジーは人々が尊厳を持って生きていくことが重要だと説き、ハンセン病を撲滅することが夢だった。夢の達成まで最後の1マイルにまで迫っているが、そのためには皆さんの経済的、政治的努力が必要だ」と呼び掛けた。

 私は「インドでは議員が立ち上がり、国会議員連盟をつくり、現在は50人の議員が加盟している。IPUの皆様と共に発信するグローバル・アピールを通じて差別法撤廃の活動に弾みがつくとともに、他の国にも波及することを期待している。ハンセン病制圧までの最後の1マイルを、各国政府、国際機関、そして何よりも患者、回復者の皆様と共に一歩一歩前進していきたいと思う」と訴えた。

 会場には全インドハンセン病回復者協会(APAL)ナルサッパ会長を初め、回復者、アジア諸国およびインドの国会議員、支援団体、報道関係者など300人ほどが集まった。APALはハンセン病回復者の全国組織で、設立準備から今日まで日本財団が財政支援を行っている。インド全域の回復者をネットワーク化し、自分たちの権利や社会制度などに関する知識を身につけ、コロニーの環境改善や生活向上のために、回復者自らが中央政府や州政府、地方自治体の役人側と交渉を行うための手助けも行っている。

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多くの回復者が出席


 式典の後、チャティスガル州へ向かった。州都のライプールはデリーより暖かく、昼は汗ばむほどだった。同州には34ヶ所のコロニーに2500人の回復者が生活し、2016年の新規患者数は1万人あたり3.31人と多い。州保健大臣のチャンドラカー氏との面談ではAPALの同州リーダーのボイさんを大臣に紹介した。ボイさんは「回復者の特別補助金をお願いしたい」と大臣に直接訴えた。熱のこもった訴えに大臣は「省庁を超えた調整委員会を作り、ハンセン病の問題を多角的にとらえる努力をする」と約束してくれた。

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右から保健大臣、ボイさん、筆者


 次に訪れたマハサムンド県の中央医療局では、インド建国の父マハトマ・ガンジーが中央に、隣にはモディ首相の写真が飾られてあり、保健担当官、医療従事者から、この地域の状況説明を受けた後、最近2人がハンセン病と診断されたということで、車で30分ほどのカッティ村を訪れた。

 診断された患者の1人は幹線道路沿いに住む30歳の女性、もう一人は鮮やかなエメラルドの家に住む、体の細い中年の男性だった。2人を発見したのは「ミタニン」という地域のボランティア。ハンセン病を1人見つけるごとに政府から250ルピー(約500円)が支払われ、患者が完治するとさらに手当てが出るという、インドだけではなく世界でも珍しい仕組みで新規患者の発見に努力していることがわかった。

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診断された男性のお宅を訪問


 午後、新患率が最も高いピトラ郡のメムラ村にも2人が病気とわかり、2時間かけて会いに行った。気温は30度を超え、強い日差しが肌を突き刺し、顔がピリピリするほどであった。主に稲作で生計を立てており人口1955人のこぢんまりとした静かな村だった。患者は80歳、50歳で、いずれも男性だった。2人とも腕に斑紋があった。村にはミタニン2人がいて、1人のミタニンは、これまで村全体370軒の約半分、175軒を探し4人を見つけたという。

 なぜ人口2000人足らずの村で、80歳のおじいさんの病気が今まで見つからなかったのだろうか。汚れた病気との思いから家族が隠していたのか、不思議なことである。いずれにしてもハンセン病の正しい知識を広める努力がまだまだ必要だと痛感した。

 夕刻には、州都のライプール市内のインドラ・ダラム・ダムハンセン病コロニーに到着した。幹線道路と鉄道が近いせいか、騒音が激しくレンガ造りの壁に今にも落ちてきそうなボロボロの瓦屋根の家が連なり、蚊やハエが飛び交う不衛生極まりない都市型のコロニーである。

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インドラ・ダラム・ダムハンセン病コロニーを訪問

 このコロニーで暮らしている州リーダーのボイさんよると、ここでは50世帯170人が生活している。そのうち80人が回復者ですべてが物乞いをして生計を立てているという。政府からの立退き要求もありボイさんをリーダーとして行政への陳述を繰り返しているという。コロニーに住む子どもたちは、学校に行ってもいじめられるなどの差別を受けていたが、このボイさんが近隣の学校の校長になってから、差別を受けることがなくなったという。

 ボイさんはかつて声が小さく頼りない印象だったが、今回保健大臣、社会福祉大臣との面談の時には声も大きく、問題点を強く主張している姿に州リーダーとしての自覚と責任感が身についたことに私は、内心嬉しい気持ちを抑え切れなかった。社会福祉大臣からは「他の州と同様に年金を値上げできるよう、また回復者が生活するコロニーの環境改善のために、積極的に今後取り組む」という発言があり、面談は大成功に終わった。

 気を良くしたボイさんは面談ごとに自信をつけ、自分のコロニーに戻った時には多くの人前で「社会福祉大臣からできる限りのことをするという約束をもらった。これで弾みをつけて皆さん共に立ち上がろう」と力強く演説をした。彼の成長を間近で見ることができ、今後は頼りになるリーダーとして活動を続けてくれるだろうと確信した。

 活動の最終日、51社のメディアが出席した記者会見を行った。私は「この州はミタニンという新しい組織をつくり、1軒1軒自宅を訪問し2500人を超える新規患者を発見する成果を挙げている。今一度、メディアにお願いしたい。ハンセン病は治る病気、薬を飲めば治り、早期発見、早期治療で障害が防げる。これらを市民が理解してもらえるように協力をしてほしい」と要請した。このようなメッセージを含んだ記事が、新聞、テレビ、ラジオなどを通じ100件以上が報道された。

 チャティスガル州では、州リーダーが直接、保健大臣と社会福祉大臣に会って要望を伝え、前向きな協力の言葉を得ることができた。これは回復者組織が州大臣に意見を伝えられるほど影響力を持つようになったということだ。しかしコロニーの人々の生活向上のための約束を政府がすぐに実行に移すとは限らない。私の夢であるインドからハンセン病患者や回復者の物乞いを無くすためにも、何度でもこの国を訪れる覚悟だ。

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