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日本財団会長 笹川陽平ブログ

写真:ハンセン病の現場から「アフリカ・ピグミー族」

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「ハンセン病制圧活動記」その40―インド チャティスガール州― [2017年03月13日(Mon)]
「ハンセン病制圧活動記」その40
―インド チャティスガール州―


1月30日、首都ニューデリーで列国議員同盟(加盟国166カ国)と日本財団は、ハンセン病の差別撤廃についての第12回グローバル・アピールを発表した。

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グローバルアピール2017宣言文読み上げ


列国議員同盟の会長はバングラディッシュのチョードリー国会議員で、同氏は100年続いたバングラディッシュに残るハンセン病差別法を撤廃した人でもある。モディ首相のビデオメッセージも戴き、近隣諸国やインドの国会議員も参加して、盛会裡に終了した。

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列国議会同盟のメンバーと回復者との意見交換


翌日、ハンセン病回復者の障害者年金制度の実現のため、チャティスガール州を訪れた。私は障害のあるハンセン病回復者が雇用の機会も無く、生きていくための最終決断として乞食をやらざるを得ない実態に心を痛め、乞食をゼロにするための活動を終生の仕事として活動している。そのためには、障害者年金をインド各州で制度化してもらうこと、既にある州では年金を増額してもらう活動も行っている。

過去には、交渉に不慣れなハンセン病回復者と共に各州の首相、保健大臣、社会福祉大臣と接渉して、ニューデリー特別区では500ルピーから1800ルピーへ、ビハール州では300ルピーから1800ルピーへ、ウッタルプラデッシュ(人口約1億8千万人)では3800ルピーの増額に成功した。しかし、回復者は今回訪問のチャティスガール州では5000ルピーを要求するという。内心大いに驚いたが、保健大臣、社会福祉大臣は回復者の話に耳を傾け、実現を約束してくれた。

ビハール州のように、月に2回も訪れたが、途中に選挙もあり、約束が実現するのに3年の月日を必要とした州もあったが、実現したことで多くの障害者の笑顔に出会えたことは、無上の喜びであった。ねばり強く、陳上が通るまで訪れるのが私の信念である。インド全州でハンセン病回復者の障害者年金実現のため、大いに汗をかいていきたいと思う。

私の訪問記事はチャティスガール州では新聞だけで20紙、ニューデリーでの「グロ−バル・アピール」の新聞報道を加えると40紙以上にもなり、テレビ、ラジオを加えるとハンセン病に対する啓蒙活動は大いに効果があったと思う。しかし、インドラ・ダラム・ダム・ハンセン病コロニーを訪れて驚愕した。何と!成人の全て、170人余りの全員が乞食で生計を立てていると報告を受けたのである。多くのコロニーを視察してきたが、このような情況は初めての経験で、一瞬、何とも言えぬ悲しみと深い落胆に体が硬直してしまった。

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このコロニーの住民全てが物乞いで生計を立てていると聞いて・・・


インド笹川ハンセン病財団が30〜50万円の小額融資を開始して10年。多様な商売で彼らの自立の道を探り、子供たちには奨学金で高等教育への道も開いているのにと考えたときに、私の力量不足を実感すると共に、新たな闘志が沸いてきた。

ダライ・ラマ師から「笹川さん、乞食をゼロにすることは難しいよ!!」と言われたが、「活動してみなければ何事も始まりません。生涯の仕事として取り組みます」と返事をした。その後、ダライ・ラマ師はハンセン病回復者の子弟の高等教育の機会をと印税を寄付して下さり、ダライ・ラマ奨学金も開始され、既に2年間で29人が高等教育の機会を得ている。いづれ、これらの若者がハンセン病回復者とその家族への差別撤廃活動の若き指導者として活動する日を夢見て、来月もオリッサ州で活動する予定である。

有難いことに、インド笹川ハンセン病財団の理事長に、長くCII(日本の経団連
のような組織)の名専務理事として活躍され、政界、経済界はもとより、インドに幅広い人脈のあるタルン・ダス氏が就任してくださった。これからのインドでの活動は、個人活動からダス理事長の人脈の協力を得て効率的な活動が展開出来るようになるので、私の夢であるハンセン病回復者の乞食ゼロ活動も、夢ではなくなる可能性が出てきた。いよいよ夢の実現に情熱が迸(ほとばし)ってきた。

*日本では『乞食』は差別語ですが、インドで『物もらい』では実感が出ませんので、あえて英語の『beggar』を訳しました。
「ハンセン病制圧活動記」その39―カメルーン その1― [2016年12月14日(Wed)]
「ハンセン病制圧活動記」その39
―カメルーン その1−


ハンセン病制圧活動で、アフリカには過去65回、27ヵ国を訪問している。その中でもガーナには8回、エチオピア6回、コンゴ民主共和国5回、モザンビークは5回訪問している。今回のカメルーンは初めての訪問で、28番目の国となった。

かつて、コンゴ民主共和国の奥地で生活するピグミーのハンセン病実態調査に訪れたことがある。あらゆる感染病が存在する地域で、ジャングルの中の仮設の広場への軽飛行機の離発着には、パイロットのお祈りから始まり、まさに命がけの旅であったことは今も懐かしい思い出である。

ピグミーとは、身長が低い(平均1.5メートル未満)の特徴を持つアフリカの赤道付近の熱帯雨林に住む狩猟採集民族の総称で、民族名はコンゴ民主共和国のムブティ、エフェ、トゥワ、中央アフリカ共和国のアカヤ、今回訪問したカメルーンのバカ族などで、一般的に他の黒人ほど肌の色は濃くないが、男性の体は筋肉質で胴は長くて太く、腕は長く足は短いが精悍な顔つきである。

カメルーンはチャド、中央アフリカ、ナイジェリア、赤道ギニア、ガボン、コンゴ民主共和国と国境を接している。アフリカ諸国の中では最も多様な民族で構成されており、およそ250の部族が居住している。

私の目指すバカ族の居住地には、パリ経由、カメルーンの首都ヤウンデから東部州の州都ベルトゥアまで車で6時間。ベルトゥアからさらに車で1時間ほど走ってやっとバカ族に邂逅(かいこう)した。

バカ族は、かつてはジャングルの中にキャンプを作り移動性の高い生活を送っていたが、フランス植民地政府やキリスト教ミッションによって定住化が促され、プランテンバナナ、カカオ、キャッサバ等の農耕方法を身につけ、街道沿いに小さな集落を作って生活する者も増えてきた。

街道沿いで生活するバカ族は、我々を歌と踊りで歓迎してくれたが、その中に3人ほどのハンセン病患者がいることがわかった。しかし、彼らは乾季にはほとんどが森に入り、数ヶ月にわたって定住村から数キロあるいは数十キロ離れた場所で狩猟、漁撈(ぎょろう)で昔ながらの生活をしているため、治療には困難を伴う。彼らは余り弓矢で猟は行わず、跳び罠で小動物を捕獲して生活しているようだ。しかし古老の一人は「象を倒したものは英雄として尊敬されている。私はその一人だ」と、胸をたたいて誇らしげに話してくれた。

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歓迎の踊りには踊りでお返し


長靴と杖を頼りに、人跡未踏といわれるバカ族が居住する深いジャングルに足を踏み入れた。先導者に導かれ、高木の広葉樹にさえぎられ日の光が入らない薄暗い道なき道を歩き続けた。静謐な深い森の中では、時々鳥の甲高い短い鳴き声が聞こえるだけである。蜘蛛の糸や顔にかかる小枝や葉っぱを避けながら歩くと、日の光が差し込んでいる小さな広場に出た。そこは4つの粗末な藁葺き小屋が建つ2グループ、23人が生活するバカ族の居住地であった。

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道なき道を歩き続けて


グループの長は彼らを我々に紹介しながら「食事が準備されているから食べろと」と、即席のテーブルに案内してくれた。「獣が捕れなくて今日は魚だけだけど美味しいよ」と、ナマズらしい魚の入ったスープを笹の葉で作ったスプーンで飲んだ。塩と唐辛子だけのナマズのスープはなかなかの味で、キャッサバもプランテンバナナ、そしてタロイモも野性味豊かでいい味だった。しかし、給仕してくれる女性の手の不潔さには少々閉口した。

我々の食事が一段落したところで、周りで待っていた大人たちがワッとテーブルに集まり、瞬く間に食べ物がなくなった。待っていた子どもたちは、ほんのわずかの食べ物にあるつけただけであった。食べ物は大人から先に食べるようである。飢餓の場合、子どもだけ生き残っても親が死んだら生きていけないが、例え子どもが死んでも大人には生殖能力があり次の子孫を作ることができるのでこのような習慣になっているようである。

ところで、23人のうちハンセン病回復者は3人おり、アルビノと呼ばれる俗に「白子」と呼ばれる先天性白皮症の人が3人いた。彼らは遠巻きに我々の行動を見ていたが、決して傍には近寄らず、明らかに差別のあることを直感した。小声で「今までいじめられたことはないですか?」と聞くと、「嫌というほどあるので、もうしゃべりたくありません」と冷たく答えた。「3人はどうしてこの病気になったと思いますか?」と聞くと、若い男性が「神様の罰か悪魔の祟りだ」と大声で答えた。このような奥深い森の中で、しかも23人という小さな集団の中にも偏見や差別があることに愕然とした。しかし、アルビノについては、差別はあるもののそれほど深刻な状態ではなかった。アルビノがカメルーンにも結構多く見られたのは新たな発見であった。

アルビノについては、ケニアでは深刻な状況で、アルビノの人の手や足の骨がお守りになると信じられ、多くの人が殺人の対象となっており、保護施設まで建設され、世界の注目を集めている。日本財団でも何らかの支援策はないか、検討しているところである。

小さな島、大森林地帯、砂漠の中、人が住む全ての場所でハンセン病への差別、いや、あらゆる問題で人間が人間を差別するいわば人間の業は、どうしたら解決できるのであろうか。

「インドネシアでハンセン病制活動」 [2016年12月12日(Mon)]
「インドネシアでハンセン病制活動」


12月12日〜18日まで、インドネシアで活動します。

インドネシアのハンセン病患者は、インド、ブラジルに次いで、世界三番目です。

今回はジャカルタで保健大臣、WHOの責任者と打合せの上、国内飛行機の移動で、スマトラ島のパタン、ジャワ島のソロなどで活動します。



「ハンセン病制圧活動記」その38―バチカンでのハンセン病国際シンポジウム― [2016年12月02日(Fri)]
「ハンセン病制圧活動記」その38
―バチカンでのハンセン病国際シンポジウム―


松丘保養園機関誌『甲田の裾』
2016年3号

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平


 6月7日から6月13日までバチカン市国を訪れました。今回の目的はハンセン病の国際シンポジウムに参加するためです。「ハンセン病患者・回復者の尊厳の尊重と総合的なケアに向けて」と題した本シンポジウムは、ローマ教皇庁保健従事者評議会、善きサマリア人財団と日本財団が主催で開催しました。キリスト教の総本山であるバチカン市国で、世界中のハンセン病回復者と宗教指導者が一堂に会して、宗教とハンセン病との関わりについて議論を交わすことは初めてのことです。 

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シンポジウムに参加したハンセン病回復者の方々と


この会議は、2013年にフランシスコ教皇が、教皇庁の出世主義を「ハンセン病のように悪しきこと」という差別的な比喩として使われたことに対し、私からこのような表現を教皇様がされることは一般の人々のハンセン病に対する誤解を助長する恐れがあるため、再びないようお願いの書簡を送ったことがきっかけでした。ハンセン病についての社会の誤解を解き、患者、回復者、その家族に対する差別をなくすことを目的とした社会啓発のための国際会議が必要であると考え、教皇庁と日本財団で共同開催することを提案して実現したものです。

 シンポジウムは6月9日、10日の2日間にわたって開催され、45カ国からハンセン病回復者をはじめ、宗教指導者、国連人権理事会諮問委員、医療関係者、NGO関係者、回復者、市民ら約250人が参加しました。

写真A.jpg
45カ国約250人が参加したシンポジウム


宗教指導者からはローマ・カトリック教会、ユダヤ教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教の代表からハンセン病の宗教的解釈と救済の事例が紹介されました。中でもイスラム指導者の「慈悲を持って病人に接することがイスラムの教えであり、家族のつながりを切ってはならない、病人を癒さなければならないことはコーランに書いてある」とのスピーチは特に印象深く、改めて宗教の果たす役割に期待したいと感じました。

また、日本、インド、ブラジル、ガーナ、中国、韓国、フィリピン、コロンビアから回復者が登壇し、ライフヒストリーと差別解消に対する取り組みが共有されました。長島愛生園の石田雅男氏は「10歳で発症し、長島愛生園に入所した。プロミンの出現によってハンセン病は治る病気となり、人権意識がよみがえった。その後、仲間と一緒に『らい予防法』の廃止運動に関わってきた」と戦後まもなくの様子を振り返り「現在、日本のハンセン病資料館を記憶遺産への登録を目指して取り組んでいる。大変な仕事だが、残酷で悲惨な歴史を繰り返してはいけないという思いがある限り、自分たちの使命だと思っている」と現在の活動と目標を力強く語りました。石田さんの生き様や取り組みは、不当な差別や習慣が残っている国の回復者にとって大いに勇気付けられるものであったと思います。

写真B.jpg
自らのライフヒストリーを語る石田氏


シンポジウム2日目の最後には、議論や発言を元に纏められた「結論と提言」が発表されました。社会に残る偏見・差別により、いまだにハンセン病患者、回復者とその家族の人権が十分に確保されていないことが指摘され、偏見・差別の解消に向けて、宗教界も重要な役割を果たしていくべきと明記されました。また、偏見を助長するような用語、特に「leper」の使用は避けるべきとの提言がなされました。

翌日6月11日は、回復者と国連人権理事会諮問委員とのセッションが行われました。これは、各国におけるハンセン病差別の状況を共有し「ハンセン病差別撤廃のための原則およびガイドライン(P&G)」がどの程度普及しているかを国連人権理事会諮問委員が確認する場として設けられ、回復者の声が直接人権専門家に届く有意義なセッションとなりました。また後半は各国の回復者よりそれぞれの課題や取り組みが紹介されました。コロンビアの発表者の「政府の対策は進んでいない。差別解消のためには自分たちが中心になって行動を起こさなければならない」との言葉は、その他の回復者を奮起させたようでした。

6月12日の日曜日はサン・ピエトロ寺院広場で「いつくしみの特別聖年」の教皇行事として開催された「病者と障がい者のための聖年」特別ミサに参加させて頂きました。世界中からおよそ7万人の障がい者、医療関係者、福祉関係者、キリスト教信者、一般参加者が集まり、フランシスコ教皇の話に熱心に耳を傾けていました。この日は朝から小雨が降っていましたが、ミサが始まる前に雨がピタッとやみ、空が明るくなってきたのを見たとき、私はこのミサもシンポジウムも神様に祝福されている証をみたような感動を覚えました。

ミサの中でフランシスコ教皇から「『病者と障がい者のための聖年』の一環としてローマでこのほど、ハンセン病を患った人々の治療のための国際会議が開かれた。感謝の念をもって開催者と参加者を歓迎し、この病気との闘いにおいて、実り多き取り組みが成されるよう切望する」とのメッセージがあり、会場から大きな拍手がおこりました。中でも、カトリック信者の多い南米やフィリピンの回復者の感動は一際大きいようでした。全世界で約12億人の信者を有するローマ・カトリックの総本山であるバチカンからハンセン病の差別撤廃のメッセージが発信されることで、社会に大きな影響を及ぼすことが期待されます。

写真C.jpg
ミサに先立った8日に教皇にお会いする機会を得ました


これまでに何度かお話したかもしれませんが、私はハンセン病の問題の取り組みをモーター・サイクルの例えを使います。前輪は医療面の問題、後輪は社会面の問題、そのふたつが同じ速度で回転しなければ、問題の解決は困難です。医療面の問題については、多剤併用療法(MDT)の導入により、これまで世界中でおよそ1600万人の患者が治療されてきました。しかし、社会面の問題、すなわち偏見や差別は根強く残り、患者や回復者、またその家族を深く苦しめています。宗教はこれまで多くの人に思いやりの心や勇気を与え、苦しみを癒す役割を果たしてきました。宗教指導者、回復者、そして私たちが問題を共有し、共に活動を行うことで、患者や回復者の苦しみを軽減し、彼らが自らの尊厳を回復することを支援することができると信じております。

「ハンセン病制圧活動記」その37―インドネシア訪問記― [2016年11月30日(Wed)]
「ハンセン病制圧活動記」その37
―インドネシア訪問記―


多摩全生園機関誌『多摩』
2016年11月号

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平


 2016年3月13日から16日にかけて、インドネシアの首都ジャカルタ、東ジャワ州のスラバヤとマドゥラ島を訪問した。インドネシアへの訪問は2014年1月以来2年ぶりで15回目となる。今回は、インドネシアの制圧未達成の州の中でも群を抜いて新規患者数が多い東ジャワ州の状況を視察することと、同州で開催される「世界ハンセン病の日」についての集まりに出席することであった。

 インドネシアは、2000年にWHOの制圧目標(人口1万人に1人未満になること)は達成したが、新規患者の数は毎年16,000〜19,000人の間を推移している。この新規患者数はインド、ブラジルに次いで世界3番目で、ASEAN諸国の中では突出して多い。また、国レベルでは制圧は達成されたが、州レベルで見ると全34州のうち12州が制圧の数字を達成していない。特に今回訪問した東ジャワ州はその12州の中で最も新規患者数が多く、その数は国全体の40%の割合を占める高蔓延地域である。インドネシアではハンセン病患者や回復者、その家族への偏見が根強く残っており、国内に“ハンセン病コロニー”と呼ばれるハンセン病患者や回復者とその家族が住む居住区が今なお多く存在している。

 初日にまずWHO(世界保健機関)のインドネシア事務所を訪問した。ジャカルタの交通渋滞は世界的にも有名で、空いていれば10分とかからない事務所まで約40分かかった。WHOインドネシアのハンセン病担当官アナンダ氏からの説明によると、東ジャワ州の2004年〜2014年の新規患者発見数は横ばい状況で、患者の早期発見が遅れており、その対策のために病気、感染、障害、偏見、差別をゼロにする「Zeroストラテジー」を立てたという。また、WHOのグローバル・レプロシー・プログラムの責任者であるエルウィン・クールマン氏がインドのデリーにある本部から駆け付けてくれ「新規診断患者数が一時的に増えてもよいから、患者発見活動を促進することが大切で、早期診断を実現して感染の広がりを押さえるとともに、障がいが残るケース数を下げることを目標としている」と報告した。私は「それらの計画を成功させるには、メディアの協力が不可欠であることと、医師のハンセン病に関しての知識不足、家族の一人がハンセン病になったら同居家族を診察することの重要性」などについて話した。

WHOでの意見交換を終えてそのまま飛行場へ向かい、約1時間半、インドネシア第二の都市東ジャワ州の州都スラバヤに到着した。

 翌日は、田舎道だが綺麗に舗装され、緑が広がる道をマイクロバスで約1時間走り、ハンセン病の回復者93名とその家族が住んでいるサンバーグラガー村を訪ねた。社会福祉省のサポートによってできたという小さなホールには、お年寄りから小さな子供まで約100人が集まってくれていた。私は「ハンセン病は治る病気です。もし子供たちの身体にハンセン病の徴候であるパッチ(皮膚が白色になった箇所)を見つけたらすぐにお医者さんに見てもらってください」と伝え、同行したメディアにも協力を要請した。

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サンバーグラー村の人々に歓迎される

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ホールに集まった人々と


 目もくらむ気温35度を超える暑さの中、歩いて併設するサンバーグラガー病院に向かうと音楽が聞こえてきた。病院の広場で職員が歌とダンスで迎えてくれたのだ。これは「パッチを見つけよう!」という曲に踊りをつけたもので、家族同士でパッチを探し合うための啓発キャンペーンのために作られたものだった。

 病院を案内される。2週間前に入院したというスギノさん(50歳)は右手、右足に潰瘍がある。村でただ一人ハンセン病になったが、お金がかかると思い、誰にも言わず5年間放置していたという。近所の人が病院に行った方がいいと教えてくれたが治療が遅れたために後遺症が残こり妻と子どもから見放されてしまったとのことだった。

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サンバーグラガー病院に入院されている方々を見舞う


 中庭で足を洗い合っていた、ショーレンさん(30歳)とハディリさん(36歳)は兄弟で弟は左足が義足だった。ハンセン病の治療薬は無料である。この兄弟もスギノさんもハンセン病とわかってすぐに病院に来ていたら彼らの人生はこんな悲しいことにはならなかったはずである。これだけ世界を駆け巡り、ハンセン病の正しい情報伝達の重要性を訴え続けてきたが、このような状況を見ると自分の力のなさを反省せざるを得ない。

 病院スタッフへは「みなさんの専門知識を使って他の病院のハンセン病に対する知識の向上を行ってください。また、歌とダンスは、言葉の通じない部族へのハンセン病の知識普及にとても効果的です。CDを一枚日本に持ち帰り、世界中でこの歌と踊りを普及させましょう」と述べたところ、皆さんにこやかに大きな拍手をしてくれた。

 翌日はまだ薄暗い早朝5時に宿泊施設を出発しマイクロバスでマドゥラ島へ向かった。1時間ほど走るとインドネシアで一番長い、スラマドゥ大橋を通過。対岸に靄がかかったマドゥラ島がうっすらと見えてきた。この島の人口は約360万人で、マドゥラ族が多く生活しており、マドゥラ族は全国で1,000〜1,500万人いると言われインドネシアに住む民族の中でジャワ族、スンダ族に次ぐ人数だそうだ。橋を渡って更に1時間程走ると、インドネシアの伝統的な作りの大きな赤い屋根のサンパン市の市庁舎に到着した。朝食の準備をしてサンパン市副市長と市の保健局長が我々を待っていてくれた。

 サンパン市のアバディ保健局長は、「サンパン市では、ハンセン病に対して強い偏見と差別が残っているが、それは市の住民の30%が貧困生活を送っており、就学期間が平均4年間しかなく小学生レベルの教育しか受けられていないことが原因だ。そのために字が読めなかったり言葉がわからなかったりするので、ハンセン病の知識普及は困難を極めている」。また、副市長のブディオノ氏は、「家族間で身体にできたパッチを見つけようという啓発キャンペーンをスタートさている。家族やボランティアの力を借りて早期発見できるように努力をしていきたい」と述べた。

「世界ハンセン病の日」の会場である市民広場には野外に赤と白の布で飾られたテントが張られ、小中学生たちを中心に市民が800人くらい集まっていた。スブ保健次官は挨拶で、2016年の世界ハンセンの病の日に合わせた啓発キャンペーンについて「パッチを見つけよう。早期発見すれば治る家族同士で身体をチェックし合いどこかにパッチを見つけたらすぐに病院にいくことで早期治療につなげよう」と熱弁を奮った。

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啓発キャンペーンで挨拶

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多くの小中学生が啓発キャンペーンに参加


 啓発キャンペーン開始は、保健省のスタッフ、集まった大勢の子供たち、私も含めた来賓まで“パッチを見つけよう!”ダンスで盛り上がり暑い日差しの中でのダンスで汗びっしょりになってしまった。この活動は、今年は東ジャワを皮切りに、南スラウェシ、中部スラウェシで実施し翌年以降インドネシア全土に拡げる予定だという。

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軽快なキャンペーンの歌とダンスに挑戦!


 我々は確実に実行されて具体的成果が出るよう関係者の意識が低下しないよう注意深く協力していく必要がある。どこまでもハンセン病との闘いは燃える情熱、どんな困難にも耐える忍耐力と成果が明確になるまでの継続的努力が我々には求められている。インド、ブラジルも大切だが今年来年中はインドネシアでの活動を強化したいと考えている。



「ハンセン病制圧活動記」その36―キリバス共和国― [2016年10月12日(Wed)]
「ハンセン病制圧活動記」その36
―キリバス共和国―


菊池恵楓園機関誌『菊池野』
2016年8月号

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平


2015年10月19日から22日までの4日間、太平洋のほぼ真ん中に位置するキリバス共和国(以下キリバス)を訪問した。初訪問となる今回の目的は、多くの離島を持つ太平洋島嶼国がどのようにハンセン病対策を行っているか、その現状について視察することである。

キリバスは太平洋に浮かぶ世界最大のサンゴ礁による島国で、北はマーシャル諸島、西はナウルとソロモン諸島、南はツバルとクック諸島が接している。キリバスには33の島があり、島の面積を全て足しても対馬ほどの面積しかないのに、世界第3位を誇る広大な排他的経済水域を有している。また隆起性珊瑚でできているバナバ島の最高地点が81mであることを除いて、ほとんどの島では海抜3.5mを超えるところがなく、地球温暖化による海水面の上昇が深刻な問題になっている。2055年までに最大30センチ近く上昇すると予測されていて、世界銀行によると首都タラワ周辺の島の5〜8割が浸水する可能性があり、政府はフィジーの土地購入を決定し、国民の職業訓練も行っているという。将来の海外移住を視野に入れた動きとの見方もある。

ミャンマーからシンガポール、オーストラリア、フィジーを経由し丸3日かけてたどり着いたのが、キリバスの首都タラワのボンリキ空港だ。一国の首都の空港としてはあまりにも小さく、地方のバスターミナルかとも見間違えるほど。1週間に2便しかない飛行機を見物に来たのか、多くの人が集まっていた。

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キリバス上空から


ホテルに到着しマニエバ(Maneaba)というこの国特有の深い屋根の集会場で、WHOと保健省のハンセン病担当者エレイ女史から説明を受けた。説明によると、キリバスの人口約10万人に対して毎年100〜200名のハンセン病の新規患者が発見され、10月の時点では121人が治療中だという。患者は貧困層に多く、南タラワに集中するが、その他の地域で患者が少ないわけではなく、発見できていないだけだという。たった3人のハンセン病担当者で広大な範囲を持つキリバスを管轄しており、特に人口密度の多い南タラワとアウターアイランドと呼ばれるメインの島の周りにある島をいかにフォローすることが課題とのこと。

私は、統計上の数字ではなく隠れた患者探すことの重要性と、目の前の患者に希望と勇気を与えることが大事であり、患者の未来をより良いものにするための崇高なミッションを持っていることを再確認しましょうと申し上げた。

翌日は快晴で、遠浅の海がエメラルド色に輝き美しい。しかし赤道に近い首都タラワは日中35度以上にもなる。水分補給と帽子は欠かせない。

キリバス市内を通る細長い道路は、ところどころすぐ両側が海という珍しい景色である。丁度朝の通学時間で、鮮やかな青い制服を羽織った子供達が物珍しそうにこちらを見て人懐っこく手を振ってくれる。

午前中にまずは空港のあるボンリキ地区のナワーワ病院を訪れた。午前10時
を過ぎたばかりだが既に炎天下。ニュージーランドのハンセン病支援団体がリノベーションを行ったスキンクリニック(皮膚病のためのクリニック)に入った。3人の患者が私の訪問を待ってくれていた。カノンガオちゃんという11歳の女の子は母親が病院に連れて来てくれたと言い、顔にも手にもほとんど症状が出ていなかったが、薬を飲んで治療中だという。16歳の男の子のベベルティくんは顔全体と主に鼻に、薬の副作用が出ていたが、薬を根気強く飲めば必ず治ると励ましたところはにかんだ笑顔を見せてくれた。

保健省のエレイ女史によると子供の患者が多いのが太平洋地域の特徴で、患者の20〜40%が子供だという。病気の発見方法、年齢、場所などをデーターベース化しており、家族の中に一人でも症状が出たら家族全員調べることも行っているという。これはとても重要なことだ。

病院の次に、空港のすぐ目の前にあるボンリキ村を訪れた。ヤシや他の多くの植物で鬱蒼とした集落には高床式の小屋と、マニエバスタイルの屋根が深い小屋がある。中には昼寝をする子供や、男性がハンモックにゆられていたりとのんびりした雰囲気だ。小屋の中にはタターケさん26歳がそのお父さんと生活していた。離婚したというので、理由を聞くと、ハンセン病になる前のことだということで、病気が原因ではないということで、少しほっとした。村には親戚一同が住んでいて、足に後遺症があるため、友人が連れ出してくれることが楽しみだという。治療薬は常に持っている、とポケットから出して見せてくれた。

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治療中のタターケ氏


タターケさんに別れを告げ、NGOの支援で商売をしている男性に会いに向かった。道路沿いの大きなヤシの木の下にトタン板の屋根でお店を構える回復者のミカエレさん(62歳)。彼は手に少し障害が残るが、ニュージーランドのハンセン病支援団体の支援事業により、電気コンプレーッサーポンプを購入し、タイヤの空気入れと車の洗浄を行い、1日12時間の労働で最低でも20オーストラリアドル(約1,600円)、多い時で30ドル(約2,400円)を稼いでいるという。国の平均が12ドル50セントということを考えると大変なことで、彼も支援によって仕事を始めてから自信が持てるようになったという。この団体のフィールド部長のウェインさんによると、39人に果物を育てたり、魚を取って乾燥させたりするノウハウや帳簿のつけ方などのトレーニングを行っているという。

昼食をはさみ、テオラエレケ村でニュージーランドの団体が新規患者を発見するために検診を行っている現場を見学した。村の中心にあるマニエバ(集会場)には100人ほどの村人が集まってきていて、奥にはブルーシートで区切られた4つの検診コーナーがある。診察を待つ人の声でかなりざわついていた。この日は1人の新規患者が発見されたということだった。その女の子は顔に症状がでており、センターにしばらく留まって治療をすることになるという。この団体の活動は「スキン・キャンプ」と呼んでおり、村人にはスティグマを助長する可能性があるので、あえて「ハンセン病の検診」と呼ばずに「スキンケア」と呼んで集まってもらっているのだという。これはハンセン病を数ある病気の中の一つとして捉え、総合的に取り扱うという最近のやり方の実践でとてもいい方法である。

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スキン・キャンプの様子


ホテルへ戻る前に、村の近くに、第二次世界大戦の時アメリカと旧日本軍の激しい戦闘があったベシオ地区を訪れた。旧日本軍が作った砲台と、司令部が置かれていた厚さ1mはあろうかと思われる鉄筋コンクリートでできた要塞が残っていた。砲台に登って海を眺めると、日本兵が4,500人も玉砕したとは思えないほど美しく、ここが血の海に変わった当時を想像すると心が締め付けられる思いであった。

3日目、北タラワのアバオコロ島を目指す。船着き場は珊瑚でできた遠浅のラグーン(内海)で満潮時しか船が入れないとの事で、時間ぴったりに出発しようとしたが船がなかなか来ない。待つ事も仕事である。やっとの事で6人乗り
の小さなボートに乗り込んだ。屋根がないボートは日差しが皮膚を刺すように暑いが、海はエメラルドに輝き美しい。

ちょうど中間地点に差し掛かったところで、地元の方から渡されたBandanasという葉を固めた“NIKOMO”というものを海に投げ入れ、一言「マウリ」と言った。北タラワは特に南と比べても精霊信仰が強く、海の中にいると言われている先祖に、航行の安全を祈願する意味があるという。

小一時間で島の近くの浅瀬に着いたが、ボートはこれ以上進めないとのこと。膝上まで浸かりながら歩いて上陸した。ヤシが生い茂る島に漂着したロビンソンクルーソーさながらの状況で、上陸後トラックの荷台に飛び乗り、熱帯植物が青々と生い茂る道なき道を進む。離れた島の奥地を突き進む探検家の気分だ。

5分ほどで、島で唯一のクリニックに到着。入り口にはタバコの害についてのポスターと、びっしりと埋まった一週間のタイムスケジュールが貼ってある。こんな辺鄙な場所のヘルスポストがこれだけ忙しいスケジュールをこなしているとはとても意外で、表を見ただけでも病院の方々がどれだけ熱心に活動しているかを知る事ができた。病院の倉庫にはMDTも収納されており、何人か患者さんも来ていた。

近くの小屋には6歳の男の子カウビナくんがいて、手と足、背中に白い斑点ができていた。薬を飲んで3カ月経ち、学校で同じ病気の子はいないが、特にいじめられたり嫌な事を言われたりすることもないそうだ。エレンさんによると、昔は差別があったが最近は見えるところに重い症状が出ることも少なく、病気に対して理解が進んでいるそうだ。同行していただいていたWHO西太平洋事務局のコーディネーター錦織医師は先ほど母親と病院に来たばかりの女の子テキタナさん(16歳)を診断すると、感覚のないところが2カ所あり、ハンセン病の疑いがあるとおっしゃった。彼女の曾祖母が遠く離れたフィジーのハンセン病隔離の島であったマコガイ島へ収容されたことがあったが、ハンセン病は早期発見したら治るということを知っていたそうで、すぐに娘さんを連れてきたのだという。

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治療中の小学1年生のカウビナ君


午後はアノテ・トン大統領との会談。大統領は日本にも数度訪れたことのある知日家としても知られ、ニュージーランド留学時代に極真空手の黒帯を取得し、愛読書は「宮本武蔵」とのことだ。大統領には人材・金銭的不足の中たった三人のハンセン病の担当者でとてもよくやっていることを報告した。公衆衛生上の問題としてハンセン病は大きくないかもしれないが、今は生活習慣病などの問題も増えており国民の健康管理とともにこの問題にも引き続き尽力いただきたいことをお伝えした。大統領からは「ハンセン病は私が若いころは恐れられた病気だったが、最近は病気への見方に変化が見られ、ハンセン病も病気の1つに過ぎないこと、完治することが認知されてきた。日本財団の活動に感謝する」と、我々の活動に謝意を示された。

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アノテ・トン大統領


その夜、大統領が私のために歓迎の宴を開いてくれ、官邸にあるマニエバ(集会場)では豚の丸焼きが振舞われ素晴らしい伝統音楽のバックミュージックと歓迎の言葉を頂き、友情を深めることができた。

今回の訪問では、キリバスにおいてハンセン病の早期発見が徹底されており、障害を伴わないケースが多いことが影響してか、他の蔓延国に比べ偏見や差別が少ないように感じた。人的資源が慢性的に不足しているが、少ないなりにそれなりの成果をあげていることが分かった。しかし、WHOの錦織医師によると、ハンセン病はMDTを服用すれば治るが、人口の少ない離島では、医者がいない場合も多く、治療が遅れるケースが多いとのことだ。

ハンセン病の制圧に向けては、コストの効率化のために結核やNTD(顧みられない熱帯病)などの感染症との総合的な取組が必要であると感じた。保健省によると、2018年までに制圧(人口1万人に1人未満)を目指すとのことで、次回は制圧のお祝いに訪れることができるかもしれない。
「ハンセン病制圧活動記」その35―フィジー共和国― [2016年10月05日(Wed)]
「ハンセン病制圧活動記」その35
―フィジー共和国―


大島青松園機関誌『青松』
2016年7・8月号

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平


2015年10月22日から24日までの3日間、南太平洋の少し西に位置するフィジー共和国を27年ぶりに訪れた。今回が3度目となる。フィジーは330以上の島々で構成される島嶼国家で西にバヌアツ、東にトンガ、北にツバルがあり、総面積は1万8千平方Kmほどで、日本の四国よりやや大きいくらいだ。南太平洋の民族や文化が交差する島々として「南太平洋の十字路」と呼ばれ、南太平洋諸国の中心的な役割を果たす重要な国で、主な産業は観光・砂糖・衣料品などである。

フィジーの第3の都市であるナンディから車で3時間半ほど移動して首都のスバに到着。スバはフィジーの政治及び行政首都で南太平洋最大の都市だが島の西部に比べて天気が悪く、旅行者が望むようなリゾートホテルなどが少ないという理由から観光客は少ないそうだ。

我々の最初の活動は世界保健機関(WHO)のスバ事務所への訪問だった。到着すると、フィジーのWHO代表である劉運国医師らスタッフが総出で我々一同を歓迎してくれた。

私から「フィジーではハンセン病はほぼ根絶されている状況だが、南太平洋にはまだ新規患者が多く発生している島がある。そのため、南太平洋の中心としてフィジーにはこれらの島々の状況をモニターする役割を期待したい」と述べたところ、劉代表は「ハンセン病は南太平洋諸国では未だ重要であり、南太平洋における健康プログラムを更に強化させていきたい」と力強い返答をいただいた。

続くウサマテ保健大臣との会談では大臣から「フィジーでは新患は殆どいないが、ハンセン病に対する監視や、障害のある患者へのリハビリテーションの支援も行っている。積極的に患者を見つけだすアウトリーチプログラムや早期発見プログラムも強化している」と、ハンセン病対策における深い理解を見せてくれた。

保健大臣との会談後に行われた記者会見では、フィジーを取り巻く島嶼国はまだ未発見の患者が多くいるのでその知見をこれらの国のために役立ててほしいこと、ハンセン病は治る病気で、薬は無料、病気による差別は許されないことをメディアの方々の前で訴えた。

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ウサマテ保健大臣から記念品をいただく


翌日は、タマブア村にあるトゥウォメー病院を訪れた。曇りの多いはずのスバには珍しい快晴で、大使館などのある地区の丘を越えたところに、青い空と南国らしいヤシなどの木々があるグリーンの屋根と黄色い壁でできた鮮やかな病棟が目立つ病院だ。ハンセン病や結核患者等が治療を受けることができる。病院の担当者に病院内を案内してもらう。

風通しがよく気持ちよい作りのハンセン病患者のいる病棟は薄い明るい黄緑色の壁でゆったりしていた。

フィジーにはかつてハンセン病患者を隔離したマコガイ島がある。政府が1908年にマコガイ島を購入し増え続ける患者をその島に集め、58年間運営してきたが、近代的な薬が開発されたことで、1969年頃からはトゥウォメー病院がハンセン病患者を扱うことになったとのことだった。治療のために入院していた患者さんがマコガイ島の経験を語ってくれた。鮮やかなハイビスカスの青いドレスと笑顔が素敵な白髪のハリエタ・トヌさん(81歳)は、病気にかかったときは家族から離れて島へ行かなければならないのがとても悲しかったという。黄緑のドレスが印象的なナニセ・モアラさん(75歳)は、25歳で診断を受け、病気になったときはとても驚いたが、家族は理解してくれたという。

66歳のペニーさんが昔のマコガイ島を思い出し描いた絵を見せてくれた。後遺症で瞼が思うように閉じないとのことで目は充血し、手にも後遺症が残るが見事な絵だった。

話を聞いた方々それぞれが島に行くときはとても辛く、沢山の苦労をしたと思うのだが、島のことを悪く言う人はいなかった。

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マコガイ島を思い出し描いた絵を見せてくれたペニーさん


病院を後にしてマコガイ島へ向かう。しかし、スケジュール上の理由からスバの船着場から約1時間半のレルビア島で一泊してから、マコガイ島を目指すことになった。

翌朝レルビア島から約1時間ボートに乗ると、うっすらと島が見えてきた。フィリピンにあるハンセン病隔離島だったクリオン島のような雰囲気で、島の斜面に建物が建っている。船着場に着くと芝生の道が続き建物が何棟かあり、電柱もあった。JICA(国際協力機構)と書かれた古ぼけた貯水タンクもあった。

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1911年から1968年まで、ハンセン病患者を隔離していたマコガイ島


最初にフィジー本島からハンセン病患者のマコガイ島への隔離が行われたのは、1911年で、その後58年間療養所は運営された。カトリックの宣教師数名が移住し、患者たちの生活一般及び治療についてきめ細やかな措置を実施した。その後、評判が高まり、近隣諸国から患者が移住し、最大742名となった。58年間で島に来た患者総数は4,500人。うち、2,500人は治療後に故郷に戻り、500名が本国(または近隣島)に戻ったが、約1,500名はマコガイ島で一生を終えたという。島には患者と患者のために尽くしたシスターたちが一緒に眠る墓地が残っている。ほとんどの隔離施設がハンセン病患者と医療従事者を別々に埋葬しているが、この島は患者と分け隔がなかった。

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約1500人のハンセン病患者と
献身的に患者のために尽くした英国のシスターたちが一緒に眠るお墓の前で


前述したトゥウォメー病院に入院中でマコガイ島に隔離された経験を持つペニーさんが、島を案内してくれるため同行してくれた。足が悪いため杖をつきながら、来た時のことを思い出し、時折涙で声を詰まらせながら話してくれた。

「初めて島に来たのは1964年。今日と同じように変わらずとても天気が良かったのを今でも覚えている、まさか戻って来ることができるとは思わなかった。親と離れてここに来るときは、銃殺されると聞いてもいたのでもう生きて帰れないと思っていた。しかしここに来ると印象は全く違った。同じくらいの年齢の子供もいたし、当時看護師を務めていたシスターも両親のように愛情を持って接してくれた。ハンセン病になったら学校に行くことはできないと聞かされていたが、ここではきちんと通うことができた。特にシスターのシエナさんには絵を描くことを教えてもらい、仕事にすることができた」。

ペニーさんはマコガイ島を出るとき、両親の元を離れた時と同じくらい淋しかったという。それだけシスターに愛情を注いでもらったのだろう。絶望の中で島に来た人が多かっただろうが、シスターらから我が子のように愛情を注がれ、いい思い出を持っている方も多い。これを絶望の中の光というのかもしれない。

話を聞き終わると、ペニーさんが昨日病院で見せてくれた島の絵を大きく広げて見せてくれた。もう一度見ても改めて島の様子がよく分かる絵だった。絵には、赤い色の屋根の教会、右手にはキリバス人が住んでいたという居住区、山の中腹あたりにはお墓がある。映画館、病院などペニーさんの中にある鮮明な記憶が当時の島の様子を映し出していた。

足の悪いペニーさんの代わりに、2歳のときから島に住んでいるというフリモニ・コラティさん(62歳)が島の中を案内してくれた。当時の隔離病棟(男女別)、映画館、刑務所などが残る。映画館は盛況で治安もよく、刑務所に入るのは、酒気帯びで女性を追いかけた男性などの軽犯罪のみだったそうだ。

今回の訪問では、フィジーにおけるハンセン病対策は既に制圧のレベルを超えて根絶の段階にあるが、とりまく島々は未だに多くの未発見の患者を抱えている。問題が現在進行形のこれらの島々のために協力してほしいというメッセージを、保健大臣に直接お伝えできたのは大きな収穫であった。またマコガイ島における体験はとても貴重で、隔離施設といっても、看護師として働いていたカトリックのシスターやアイルランド人医師の愛情あふれるケアで患者の方々にここまで幸せな記憶を残せるのかと考えさせられた。

ハンセン病はやがて人類にとって「過去の病気」となる日が来るかもしれないが、「差別の原点」「人類の負の遺産」として世代、時代を超えて語り継がなければならない。その意味では今回のマコガイ島の訪問は、「負の歴史」の中にこそ、その時代を生きた人間の強さ、美しさを学ぶことができるということを、改めて強く感じた。

「ハンセン病制圧活動記」その33―ブラジル訪問記 [2016年03月23日(Wed)]
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「ハンセン病制圧活動記」その33
―ブラジル訪問記―
〜ハンセン病制圧活動 ブラジリア、マットグロッソ、ペルナンブーコ〜


長島愛生園機関誌『愛生』
2016年1・2月号

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平

 
 2015年8月4日から16日までの13日間、ブラジルを訪問した。南米大陸最大の国土を誇るブラジルは多様性に富んだ文化・自然景観とスケールの大きさから多くの人を引き付つけてやまない。人口約2億人、国土面積は日本の約22.5倍にあたる851万km2の大国ブラジルはロシア、インド、中華人民共和国と並んで「BRICs」と呼ばれる新興経済国になるまで成長し、ラテンアメリカ最大の経済規模を持つ。ただし公衆衛生や教育などの公共サービスの水準は先進国に比べ低く、また沿岸部と内陸部との経済格差の差が著しいなど、早急に解決すべき課題が残されている。

 ハンセン病に関しては、WHOが掲げるハンセン病有病率1万人に1人未満という制圧目標を達成されていない国は世界の中でブラジルだけである。また新規患者数がインドに続いて世界で2番目に多い31,044人(2013年)、政府・国際機関、NGOのさまざまな取り組みにも関わらず過去5年間は横ばいの状態である。WHOハンセン病制圧大使としてなんとか制圧を実現すべく、私は今回ブラジルを訪問した。

 まず初めに訪問した首都ブラジリアではノバルティス財団主催の会議に参加した。テーマは「最後の1マイル」。薬の無料配布により患者数は激減したものの、年間20万人ほどの新規患者が世界では発見されており、減少する傾向は見られないとのこと。この問題の解決に向けて、政府、民間財団、NGO代表によって情報交換が行われた。

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ノバルティス財団会議の冒頭で挨拶する機会をいただいた


 会議の合間に保健省、人権庁、議員などの要人と面談を行い、ブラジルの政治を司る要人たちに協力・支援を惜しまないことを繰り返し伝えた。アルトゥール・キオロ保健大臣(当時)は「ブラジルは国を挙げてハンセン病対策に取り組んでおり、制圧は2015年までに達成される」と自信を持って発言されていたことが非常に印象深い。またブラジル司教協議会にも足を運び、カトリック教会の総本山であるバチカンと共にハンセン病差別対策に関する会議を開催したい旨を伝え、協力を要請した。

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キオロ保健大臣(当時)と


 また、今回の旅の大きな目的の一つであったWHO事務局長のマーガレット・チャンからの親書をジルマ・ルセフ大統領に手渡すことは、残念ながら面会の機会に恵まれず、日本大使館経由で渡して頂くことになった。

 首都での会議と要人面談を終え、翌日からマットグロッソ州を訪問した。中西部に位置するブラジル3番目の面積を持つ広大な州で、ボリビアと国境を接している。ユネスコの世界遺産にも登録されている世界有数の大湿原パンタナールを訪れるために、州都のクイアバには大勢の観光客が立ち寄るという。産業は広大な面積を利用した大豆や綿花のなどの農業である。特に大豆はブラジル最大級の生産量を誇る。ただし、沿岸部に比べて経済発展が遅れており、保健衛生に関しては、交通機関やインフラの未整備から、十分な医療サービスが提供されていない。実際にブラジルで最も多くのハンセン病新規患者が発見されるのはこの州である。そんなハンセン病蔓延地域マットグロッソ州では何年間も新規患者が発見されていない「サイレントエリア」と呼ばれる地域がある。私はこのサイレントエリアにおいて患者の早期発見・早期治療に真摯に取り組む医師や看護師の活動に立ち会うこととなった。

 今回の訪問地域はクイアバ市から車で20分ほど走ったスクリ村であった。2年間新規患者がゼロとのデータがあるが、周辺地域にはハンセン病患者が存在していることからも、発見されていない患者がいることは間違いない。州保健局・ハンセン病対策プログラムコーディネータであり、ヘルスポストの看護師であるシセロ氏はこのデータの信憑性に疑問を持ち、積極的に活動をしている。

 まずは、診療所でハンセン病の疑いのある住民10人程度を対象にシセロ氏が診察しているところを見学させていただいた。診察は、しびれやこむら返りなどの症状はないか、家族にハンセン病患者はいなかったか等の問診と神経の腫れの確認、温水・冷水を皮膚に当てた知覚神経、針を足などに軽く当てた知覚神経の検査であった。

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シセロ氏の診察を見学


 私が診療所にいる間に4名が診察を受けて、そのうち1名がハンセン病の可能性が濃厚、別の1名がほぼ確定であると診断された。ハンセン病と診断された男性(21歳)には、薬を12か月服用すれば必ず完治すること、普段通りの生活を続けてもよいこと、家族や近所の人たちも診察を受ける必要があることなどが分かりやすく、かつ丁寧に説明されていた。また100人に1人に呼吸がしにくい、唇の色が紫色になるなどの副作用があることも伝えられていたが、それでも確実に治療を続けるように説得されていた。副作用については、予め伝えておかないと途中で薬をやめる患者もいるので、伝えるようにしているとのことである。

 またハンセン病患者のいる家庭2軒を訪問し、その家族を診断する場面にも立ち会うことができた。1軒目にはハンセン病と診断された73歳の男性患者が暮らす。ロンドニア州に住んでいたが治療ができなかったため、治療が可能な弟家族が住むマットグロッソ州に移ってきたという。この日は、患者の妹、弟、姪(弟の娘)の3名を診察した結果、妹と姪はハンセン病であると診断され、大きなショックを受けていた。とくに姪は21歳と若く、ハンセン病についてはほとんど知らないと話していただけになおさらだろう。2軒目は、15日前にハンセン病であると診断された17歳少年が住む家を訪れた。一緒に生活している家族(父、兄二人、母)を診察すると、母以外の3名はハンセン病であることが判明。おそらく父から息子たちへ感染したと予想される。

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温水が冷水を足にあて、知覚神経の有無を確認するシセロ氏


 私が滞在した約半日の間にサイレントエリアから6人もの新規患者が発見されたことに非常に驚いた。本腰を入れて早期発見に努めれば、この地域からは大勢の患者が発見されるであろう。シセロ氏によるとサイレントエリアを生み出すのは、医療スタッフの頻繁な人事交代と医師の不足だという。症状が出ていない感染者を見つけるためには適切な医師の診断が不可欠である。また患者に接触する機会の多い家族や近隣住民を重点的に検査し、早期発見に努めることも非常に重要である。

 クイアバに滞在している間、ペドロ・タケス州知事とレオナルド・アルバカキ州議員と面談することができた。特に知事は選挙の時にハンセン病問題の解決を公約に掲げるほど熱心にハンセン病対策に取り組んでいる人物で、残り3年の任期までに何としてでも解決したいと話されていた。私は40年間、120か国以上でハンセン病の制圧に関わってきた経験から、制圧には指導者の強い情熱が欠かせないことを知っている。そのため知事や政治家が本気で取り組むのであれば協力の準備はあることを伝えた。まずはマットグロッソ州で成功事例を作り、ブラジル全土に普及させることができれば、ブラジルの制圧も「絵に描いた餅」ではなくなる。

 シセロ氏同様に新規患者発見に熱心に取り組むペレス医師とは具体的な対策について何度も話し合う機会を得た。ペレス医師は「早期発見を強化すると最初の3年で患者は倍増するでしょう。しかし3年後からは患者数は必ず減ります」と話していた。私は一時的にせよ患者数が増えることを恐れず、真剣に問題に立ち向かう姿勢に心底勇気づけられる思いがした。患者が多いことは恥ずかしいことではない。ただしそれを放置することは恥ずかしいことだ。ひとりでも患者を減らすために、マットグロッソ州での活動を支援したいと思う。

 また、マットグロッソ州ではハンセン病回復者の団体IDEAの集会に参加した。IDEAはパロウィア地区のカトリック教会で回復者の生活向上の活動を行っている。回復者15名以外にも30名程度の地域住民が参加して、収入安定のための手芸活動や住民の健康を促す保健活動を行っている。近隣には多くの回復者がいるが、障害があるので人目を気にして外に出たがらないという。そこでメンバーは家を訪問して活動に加わるよう促しているそうだ。

 組織の紹介をしてくれたのは、リーダーのアルジーラさん。彼女は14歳でハンセン病を患った。ある日親からサンパウロに出稼ぎに行くように言われた。娘の病気を隠すためだったと彼女は語る。コロニーで結婚して子供をもうけたが、最初の2人は引き離された。子供は自分の両親が育てることになった。手足に重い障害が残るアルジーラさんは、差別を肌で感じたために、同じような境遇の回復者が尊厳を取り戻し、安定した生活が送れるよう強い信念をもって活動している。

 私は集会の参加者に対して、回復者の生活を改善するためにはアルジーラさんのように自らが立ち上がって戦うよう訴えた。さまざまな病気がある中で、なぜハンセン病患者・回復者だけが差別を受けなければならないのか。彼らが悪いのではなく、社会が間違っているからである。社会を直すためには、当事者自らが立ち上がっていかなければならない。彼らの地道な活動が社会を動かす大きな力になることを信じている。

 最後の訪問地はペルナンブーコ州であった。ペルナンブーコ州は北東部に位置し、州の東側は大西洋に面している。ペルナンブーコに到着するとすぐに州保健局に向かった。保健局では、ハンセン病を含む「顧みられない熱帯病(NTD)」を対象とした新規患者発見および早期治療のためのプログラムであるSANAR計画について説明して頂いた。対象地域は州全体だが、深刻な地域にはより重点的に活動している。活動は州保健局がイニシアティブを取っているが、様々な機関と協力していることが特徴である。例えば教育機関と連携して、子どもの疾病の早期発見に努める活動などがある。ハンセン病に関しては、皮膚の斑点など初期症状の絵を見せて自分や家族に同じような症状がないか確認させている。2013年は24万人の児童を対象に活動を行い、20,107人が検査を受け、57人の感染者が発見された。また刑務所で650人の受刑者を対象にハンセン病検査を実施し、55人の感染が確認されたとのことだった。

 次にレシフェ郊外にあるジェラル・ミルエイラハンセン病専門病院を訪問。1941年に開業して以来、多くのハンセン病患者を治療・収容してきた。家族や社会から隔離された患者・回復者は、敷地内で畑を作り、養鶏や養豚を始めた。教会などの宗教施設や劇場も作られ、11,000ヘクタールの病院敷地はまるで小さな町のようであったという。また音楽や文学などの芸術を通して、自分たちの存在をアピールする人たちもいた。それらの記録は看護師が大切に保存している。さらにその看護師は回復者が亡くなると当時の歴史も消えてしまうことを危惧し、回復者からの体験談を聞き出しており、できれば出版したいと話してくれた。一番多い時期には約500人のハンセン病患者が入院していたが、現在ではベッド数が61床までに減少した。外来患者は1カ月で約200名である。さらに社会復帰できない回復者の居住区もあり、現在では11名が暮らしている。重い後遺症の残る回復者は治ったと伝えても、なかなか理解してもらえない苦しさがあるという。

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病院内にある大量の資料を見せていただく


 看護師にカルテ保管室、外来病棟、リハビリ室、入院病棟、回復者の住居、劇場など施設を案内して頂いた。印象に残ったのは回復者の住居で43年間一人で住んでいるという男性で「27歳でここに入ってからずっとこの中で暮らしている。青春はすべてここだった」と話していた。その隣で一人暮らしをする女性は私のために歌を3曲も歌ってくれた。とても美しい歌声に癒され、地球の裏側から来た疲れが吹き飛んだような気がした。辛いこと、悲しいことを乗り越えて、たくましく生きる回復者を心から尊敬している。そして彼らの生活が平和で穏やかなものであることを願っている。

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施設内にある住居に住む回復者を訪問


 その後、ブラジルの回復者団体MORHANが開催した回復者およびその家族のための集会に参加した。ブラジルのハンセン病の歴史、引き離された家族についてMORHANのギルド氏を始め、参加者からの話を聞くことができた。ブラジルでは1962年にハンセン病患者の強制隔離が法律で禁止されるまで、患者は社会や家族から引き離され、施設の中で別の生活をしなければならなかった。少年期に入所した患者は学校に通うことができず、結婚も施設の中の相手に限られた。また生まれた子供は外の施設に送られたり、養子に出されたりしたという。MORHANは、当時のブラジル政府の非人道的な誤った政策に対して、回復者およびその家族が補償を求め、彼らの生活が改善されることを中央政府に対して訴えている。

 日本財団はMORHANに10年以上支援をしている。次の世代が彼らのような深刻な経験をしないように、活動を活発にしなくてはならない。彼らは新規患者を見つけ、正しい知識を伝えることができる活動家たちである。私は参加者に対して、ひとりひとりの声が政治・行政を動かし、社会をよくする力になることを理解して欲しいと訴え、またこれからもMORHANを通して支援していくことを約束した。

 今回の旅を通して最後のハンセン病未制圧ブラジルの課題が見えてきた。中央政府はハンセン病問題に真剣に取り組んでいるが、マットグロッソ州の「サイレントエリア」のようにまだ発見されていない患者が大勢いること。そして医療スタッフのレベルを上げる必要があること。患者の家族や近隣住民の診察を重点的に行うことで早期発見・早期治療が可能であることも分かった。私はマットグロッソ州での早期発見の取り組みを支援することでまずはモデルケースを構築し、その成果をブラジル全土に普及させる取り組みに着手しようと思う。また人権面に関して言えば、MORHANとの協力関係を強化して、回復者や家族の尊厳回復にも力を入れていきたい。ブラジルからハンセン病問題がなくなるまで、私は何度でもこの国を訪れるつもりである。
「ハンセン病制圧活動記」その32―エチオピア― [2015年12月04日(Fri)]
「ハンセン病制圧活動記」その32
―エチオピア―


この活動記録は、群馬県草津市にある栗生楽泉園の機関誌『高源』2015年8月号に掲載されたものです。

栗生楽泉園には、現在88名(男性41名、女性47名、平均年齢85.8歳)の方々が静かに余生を送っておられます。

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 2015年4月2日〜5日、アフリカ東部にあるエチオピアを訪問した。前回訪問したのは2013年に同国でハンセン病の国際人権シンポジウムを開催した時で、今回は初訪問した1992年から数えて5回目となる。主な目的はハンセン病制圧状況の視察であったが、同時にハンセン病回復者組織の代表者との面談や、地方に住むハンセン病回復者たちの居住地訪問、彼らが運用しているマイクロファイナンス(小規模融資)の現状を実地に学ぶことも目的であった。

 エチオピアはアフリカ大陸の北東部に位置する6カ国に囲まれた内陸部の国で、アフリカ最古の独立国だ。人口は約9,000万人とアフリカ大陸でナイジェリアに次いで2番目に多く、首都アディスアベバは、アフリカ連合(AU)の本部が置かれるアフリカ地域における外交の中心地のひとつでもある。しかし人口の約半数が1日に1ドル以下の収入で生活する世界最貧国のひとつでもある。

 エチオピアは2000年にWHO(世界保健機関)が定めたハンセン病患者が国レベルで人口1万人あたり1人未満という制圧目標を達成している。しかし2013年時点で新規患者が約4,300人という数字は世界で5番目に多い。また、この病気が呪いや天罰によるものと考えられるなど偏見や差別が残り、回復者は家族や地域社会から拒絶され、就学、就職の機会が失われ、物乞いをせざるを得ない状況もある。

 4月2日に成田を発ち、パリ経由で乗り換え時間を含むと計約30時間の空の旅で、午前中に降り立ったエチオピアの首都アディスアベバは標高2,400mの高原都市のためカラッと晴れていても薄手の長袖シャツでちょうどよい。ホテルに到着したものの、荷を解く時間もなくすぐにWHOの事務所へ向かい、ムペレ代表とハンセン病担当官からハンセン病の現状についての説明を受けた。その中で特に気になったところは、新規患者数がここ10年ずっと4,000人前後が続いていること、子供の患者が13%もいるということだ。

 エチオピア保健省は、2013年にバンコクで日本財団とWHOが行ったハンセン病蔓延国保健大臣サミットに参加した。そして、その折に日本財団のイニシアチブで設定された「ハンセン病制圧バンコク特別基金」によるハンセン病制圧強化活動を実施する予定である。今後3年間のプランでもっとも重要なのは、ハンセン病患者に対する質の高い保健サービスの維持である。保健施設のサービスは良いとは言えず、ヘルスワーカーの知識も十分でなく、診断が十分にできていない。新たな強化活動では一般ヘルスワーカーのトレーニングに重点があてられている。

 私はこの活動内容を積極的にサポートすることを約束し、公衆衛生の問題が数多くある中で、ともすればハンセン病対策の優先順位が下がってしまいがちだが、さらに患者数を少なくする活動を継続することと、根強い偏見と差別の問題についても対応して欲しいということを要請した。

 アドマス保健大臣との面会で大臣は、保健省で行った集中的なハンセン病の高蔓延地域の患者分布状況調査で問題地域がどこであるか判明したため、今後重点的にこれらの地域での制圧活動を行うという。また、5,000人の看護師にハンセン病についても学ぶ機会を与えており、彼らも制圧活動に参加させるとの力強い表明があった。更に、全エチオピア・ハンセン病回復者協会(ENAPAL)と共に活動していくことで、エチオピアのハンセン病患者をゼロにしたいという力強い目標が掲げられた。

アドマス保健大臣.JPG
アドマス保健大臣


 保健大臣の話しにでてきたENAPALとは、ハンセン病患者や回復者の諸権利の保護、社会に対する啓発活動、社会的・経済的自立の支援を目的として1996年に設立されたハンセン病回復者協会である。国内全9州のうち8州に63の支部を持つ大きな組織で、世界を見てもこのような大きな組織はほとんどない。

 そのENAPALの事務所に足を運ぶと、事務所の中には私とメレス前首相とビルケ会長(当時)の記念写真が飾ってあった。もう10年も前のことだが、回復者の代表として初めてハンセン病の状況について直接首相に説明する機会を得た歴史的なシーンである。いまは亡きメレス前首相だが、真剣に話しを聞いてくれていたことをつい昨日のことのように思い出した。

ENAPAL事務所で歓迎のケーキをカットする.JPG
事務所では歓迎のケーキをカット


 事務局長のテスファイエ氏から保健省のハンセン病新規患者の分布状況調査やその保健サービスの人材を訓練することに協力しているという嬉しい報告を受けた。当事者が偏見や差別に屈することなく立ち上がり、自立し、活躍している姿を見られるということはこの上ない喜びである。また、WHOのスタッフがこの集まりに出席したことも喜ばしいことであった。保健省、WHOが、病気の経験者である回復者と連携を強化させれば、患者発見などのために大きな力となるはずである。

 翌日はENAPALが笹川記念保健協力財団からの支援金をマイクロファイナンス(小規模融資)の資金としてどのように運用しているかを確かめるためにテスファ・ヒューイット村とアディス・ヒューイット村の2つの村を訪問した。

 朝6時にアディスアベバを出発し、村までの道のりは舗装された道路を約2時間と砂埃にまみれながらでこぼこの道を2時間の計4時間。水を運ぶラクダやロバ、炭作りに精を出している人々など、エチオピアの様々な景色を眺めているとあっというまに目的地に到着した。この地は高原にあるアディスアベバと比べると標高が1,000mほど低いため、気温がどんどんあがり37度を超える炎天下である。そんな中、村の中央の広場で子どもたちがサッカーをして遊んでいた。

 最初にテスファ・ヒューイット村を訪問した。マイクロファイナンスで野菜農場を運営し、二人の子供を大学に行かせることが出来たというミコネンさんのお宅と農場を見学。広い農地で玉ねぎがすくすくと育っており、年3回の収穫で約30万円分の収入が得られるとのことである。公務員の最低賃金が月約2千円で部長クラスでも約3万円程度とのことであるから、十分な収入である。素晴らしい成果を見せてくれた。

テスファヒューット村のミコネンさんの畑の前で.JPG
ミコネンさん(中央)の農場を見学


 一方で、マイクロファイナンスの制度を利用せずに家に閉じこもりがちな男性もいる。理由を聞くと、「できればこんな生活はしたくない。本当は外に出て働きたい。でもお金を借りても返せるかが心配だ」という。私は「この機会をチャンスと考え、成功した人から話を聞き、希望を持って仕事をしてみて欲しい」と激励した。

テルファヒューイット村の人々.JPG
テルファヒューイット村の人々

テスファヒューイット村で出逢った瞳のきれいな子供たち.JPG
テスファヒューイット村で出逢った瞳のきれいな子供たち


 次に訪問したアディス・ヒューイット村は川のすぐ横にある。村人たちは笹川記念保健協力財団の資金援助で養鶏場を営み、その収入でなんとか日々の食事を確保しているという。私の訪問にあわせて集会が開かれた。川からの水を引くためのポンプを動かす発電機が故障して取り換えが必要だが資金がないこと、昔は無料で医療を受けられたが今は有料であり、無料サービスが受けられるようにして欲しいなどの要望があがる。

アディスヒューイット村.JPG
アディスヒューイット村の人々を激励


 それに対して私は、世界一の回復者組織であるENAPALと協力しあい、問題解決に向かうことが最も重要であり、また一人ひとりが当事者意識を持つことも必要であると返答した。まだまだ他にも問題は山積みである。70キロ移動しないとヘルスポストがないこと、若者に仕事がないこと、中等教育が受けられないことなど。彼らの苦労は計り知れない。しかし彼ら自身がそれらの問題を解決するために立ち上がることが解決の一番の糸口なのである。

 15年前に公衆衛生上の問題としてのハンセン病の制圧を達成したエチオピアだが、たくさんの問題が残されていることが実際に見て理解できた。マイクロファイナンスで自らの生活を向上させた人、そうでない人。今後はENAPALが回復者代表として更に保健省、WHOとの協力関係を強固なものにして、様々な問題に対処して役割を担っていくことができるかどうかに期待したい。また、そのためにできる支援は継続していくつもりである。
「ハンセン病制圧活動記」その31―ブラジル保健大臣とトラブル― [2015年10月28日(Wed)]
「ハンセン病制圧活動記」その31
―ブラジル保健大臣とトラブル―


読者ご高承の通り、私はハンセン病の制圧と患者・回復者とその家族へのいわれなき偏見・差別との闘いを終生の仕事として世界中を飛び回っている。

WHOの定めるハンセン病制圧とは、人口1万人に対して患者1人未満にすることである。勿論、これで世界から患者がゼロになるわけでもなく、偏見・差別がなくなるわけでもない。しかし、第一段階としてこの1万人に1人未満にするという数値目標の設定は、世界のハンセン病患者を激減させる上で有効な方法であった。現在この未制圧国はブラジル1カ国のみである。

私は第一段階の世界制圧のために、今年8月、13日間の旅程でブラジルを訪問したが、そこでブラジル保健大臣と思わぬトラブルが発生してしまった。

その経過は下記の通りである。

8月6日、製薬会社ノバルティス社主催の「ハンセン病の国際会議」で挨拶。その後、保健大臣との会談までの時間に、ブラジルの保健・医療問題を解決するためにNGO代表などが集まって開催されていた国家保健審議会の会議で、急遽、議長より飛び入りで「笹川さん、何でもいいですから挨拶してください」との要請があった。

「私は世界からハンセン病をなくす活動を終生の仕事として活動しています。世界全ての国々でWHOの定める人口1万人に患者数1人以下を達成しました。しかし残念なことに、ワールドカップを開催し、オリンピックを開催される国だけが唯一、この基準を達成していません。人材も豊富、お金もあるブラジルで、何故、実現できないのでしょうか? 世界ではブラジルより条件の悪い国々でも成功しています。今日お集りの皆さんは、それぞれの地域で社会活動家として影響力がある方々とお聞きしています。是非、ブラジルのハンセン病制圧活動に興味を持ち、力になって下さい」との要旨の挨拶をした。

ここに保健省の幹部が出席していたらしく、保健大臣にご注進となったらしい。
どのように説明したのかは不明だが、大臣との会談は不機嫌そうなそぶりで、冷たい握手から始まった。

冒頭「あなた方の持っているハンセン病患者・回復者数の資料は古い。現在は25,738人(2014年)まで減っている。今年12月までに制圧する」と発言されたのですかさず確認すると、再度12月までに制圧すると発言。内心しめたと思い、これを聞いただけで訪問したかいがあったと、手をのばして大臣と握手した。

キオロ保健大臣.JPG
キオロ保健大臣と握手はしたが・・・


わずか20分ほどの会談であったが、保健大臣の言質を取ったことは大きかった。外には入室を禁止されていたブラジルのハンセン病活動団体モハンのアルツールとカメラマンが心配そうに待っていた。

しかし、保健大臣の怒りは続き、ブラジル全州から保健関係者が集まる会議では、予定されていた私のスピーチが保健大臣の横槍で急遽、キャンセルとなった。理由は「挨拶する人が急に10人にもなったので」と、主催者は申し訳なさそうに弁解した。日本で準備したスピーチを読めなかったのは残念ではあったが、保健大臣の「今年中に制圧を実現する」との言質は、私にとって何よりの「みやげ」になった。しかし、同行スタッフには心配をかけて申し訳ないことになってしまった。

保健大臣の怒りの指示はまだまだ続く。

ブラジル最大のハンセン病蔓延州であるマトグロッソ州の保健関係者に、笹川一行の世話をしないようにとの連絡があったとのことで、出迎えもなかった。しかし、マトグロッソ州の中には良識派もいた。州知事は日曜にも関わらずご夫妻で滞在中のホテルを訪ねて下さり、「ハンセン病問題は深刻です。是非ご協力願いたい」との陳情を受けた。この州の元知事の中には、マトグロッソ州にはハンセン病はゼロだと公言した方もいたのだから驚きである。

出世ラインから外された良識派の看護師も参加して下さり、ハンセン病患者の自宅訪問に同行した。一人の患者宅では、父親は患者で診療所の名簿に記載さていたが、一緒に暮らす初診断の妹、弟、たまたま休日で遊びに来ていた弟の20歳の娘もハンセン病の疑いが濃厚だった。他の一軒も同様で、同じ家族の中に新患が三人も発見された。ハンセン病は微弱ではあるが感染症であることを改めて深く認識するとともに、現在進行形の存在であり、制圧への新たな闘志がわいてきた。

この惨状はいずれ書くとして、保健大臣の怒りがなければこのような実態を知ることなく保健担当官の見学コースを視察して終わっていたことだろう。怒りの保健大臣閣下には心からなる御礼を申し上げ、今年中の制圧の朗報を心静かにお待ちしています。

後日、保健大臣の怒りには原因があったことが判明した。
一つは、会談の前日、ブラジルの世論調査は、汚職疑惑にゆれるルセフ政権への批判から、支持率がたった8%と、歴代政権の最低の数字が出て神経質になっていたこと。
二つ目は、「ワールドサッカー、オリンピックも開催でき、資金も人材も豊富な国で、何故、ハンセン病が制圧できないのか」と挨拶した会議が、インターネットで全国に配信されていたこと。
三つ目は、ブラジルでハンセン病制圧活動を展開する我々の仲間であるモハンは、保健省のハンセン病対策批判の急先鋒であることが判明した。

しかし、今回のブラジル訪問は成功であった。
保健大臣が今年中にハンセン病を制圧すると発言したこと。保健大臣の圧力により公式ルートではなく、良識派の看護師の案内でハンセン病蔓延地域を視察することができ、私の想像をはるかに超える真実の惨状を目にすることが出来たことである。

ハンセン病対策は、当該政府や担当の保健大臣の協力も必要だが、救いの手のないところで絶望しているハンセン病患者を発見し、一人でも多く救い出すことが使命だと考えている。

「何が幸いするかわからない」とは、笹川良一の口癖であった。
本当にそう思うブラジル訪問であった。

後日談だが、9月30日に保健大臣はルセフ大統領によって突然解任された。
理由はわからない。

ブラジルでのハンセン病制圧活動は下記の通りです。(移動日は含まず)
2002年1月27日〜2月5日
2004年6月30日〜7月6日
2005年2月27日〜3月1日
2006年6月10日〜18日
2008年11月17日〜19日
2011年11月23日〜28日
2012年6月20日〜22日
2013年12月17日〜21日 
2015年8月5日〜14日 

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