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笹川陽平ブログ(日本財団会長)

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「ハンセン病活動の苦闘」―インドネシアの場合― [2018年11月07日(Wed)]
「ハンセン病活動の苦闘」
―インドネシアの場合―


40年間世界中を飛び回り、ハンセン病制圧活動に従事してきた。各国での活動の苦闘は枚挙にいとわないが、現在世界の患者の7割はインド、ブラジル、インドネシアに存在する。

インドの国父・マハトマ・ガンジーの夢であったハンセン病のないインドを築くため、来年1月はガンジーの生誕150年でもあり、モディ首相のリーダーシップもあって積極的に対応してくれている。

ブラジルは、オリンピック以降政変が続き、また大統領選挙目前でもあり、新政権の安定する来年5月までの活動は無理である。

問題はインドネシアである。13,000を越える世界最大の多島国家で、人口は約2億5000万人を擁する。地方分権が進んでおり、地理的条件もあって中央政府の政策が各州に正確に確実に浸透している状況にはない。そこで、ハンセ病対策のため直接各州を訪問し、州知事をはじめ各県知事にも直接この地域のハンセン病事情を説明し、協力を願う活動が必要となってくる。

今年の3月にはスラウェシ島で活動したが、9月に起きた大地震で、豊かな自然に囲まれた美しい島の広い地域で大きな被害を受け変わり果てた姿をメディアで目にし、犠牲者とインドネシア国民の皆様に深い哀悼の意を表したい。

今年10月1日〜6日まで、ジャカルタから東に約2500キロのマルク州アンボン市で活動を展開した。

マルク州知事主催のハンセン病制圧会議は、サイード・アサガフ知事の到着が大幅に遅れた上、州保健局をはじめ関係部局の他、何故か、軍、警察も出席し、計30名ほどであった。しかし、各人のテーブルには一枚の書類もなく、今日は何の会議なのか、何故自分達が参加しているのかも十分情報が共有されておらず、全く形式的な会議であったことは一目瞭然であった。アンボン市長とのハンセン病啓発会議も、事前に私の訪問と会議開催が決まっていたのに主役の市長は欠席であった。

何事も原因のない結果はない。マルク州にハンセン病患者が多いのは指導者の無関心によるものである。かつてアフリカのモザンビークもこのような状態にあったが、5年間に4回訪問し、結果的に大統領がハンセン病制圧の最高責任者となり制圧した経験がある。必ずや近い将来、無関心な彼らが積極的に活動するよう何回でも訪問するつもりである。

しかし、今回の訪問は悪いことばかりではなかった。

インドネシア政府には各省庁の縦割行政を排除するため、複数の省を統括する調整省がある。国民福祉担当調整省は宗教省、保健省、社会省、文化・初中等教育省、研究開発・高等教育省、村落移民省などを管轄しており、関係省庁の連携が円滑になるよう調整している。

この度、はじめてハンセン病についてこの国民福祉担当調整省が主導権をもってハンセン病啓発会議を開催してくれた。国民福祉担当調整省のシギット次官は5年間、ハンセン病クリニックで勤務した経験もあり、「ハンセン病は病気だけでなく差別・スティグマを伴う。だから様々な省庁が協力して解決する必要があり、単に保健省の問題だけではない」と強調され、私の考えを代弁してくれた。

このような関係省庁の合同会議は私の経験の中でもはじめてのことで、シギット調整省次官を説得・協力してもらうことがインドネシアでのハンセン病解決への中心人物になると直感した。少し明るい燭光に、筆者の期待は膨らんでいる。

もう一つの明るいニュースは、テレビやラジオに出演してハンセン病の正しい知識を説明して視聴者の質問に答える方法を、笹川記念保健協力財団の南里常務が考えてくれたことである。形式的な会議より、直接電波を通じて住民に説明することの方がはるかに効果の高いことは筆者が実感しているとこである。テレビ生出演中にイスラムのお祈りで3分間中断したことは、ご愛敬というより、インドネシアのイスラム信仰の強さを理解する場面でもあった。

インドネシアは勿論、西パプア、北マルク、パプア等、まだまだ現地活動の必要な地域は多くあるが、ハンセン病制圧には私の信条である「あふれる情熱、どんな困難にも耐える忍耐力、そして、成果が出るまで活動する継続性」こそ必要不可欠であることは言うまでもない。
「ハンセン病制圧活動記」その46―インド訪問記「写真を通じてハンセン病に対する理解を」― [2018年10月10日(Wed)]
「ハンセン病制圧活動記」その46
―インド訪問記「写真を通じてハンセン病に対する理解を」―


栗生楽泉園機関誌『高原』
2018年7・8月号

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平


今年4月、私はインドの首都デリーを訪問した。18日の夕方日本をたち、翌日朝からいくつかの用件を済ませ、そのまま深夜便で帰国するという1泊2日の慌ただしいインド往復であった。

到着日の19日午前中、インド保健家族福祉省でハンセン病担当官のアニル・クマール氏との面談で、インド政府が2年前から実施している「ハンセン病患者発見キャンペーン(LCDC)」により多くの患者が発見されていることに敬意を表した。制圧が達成された途端、患者が増えることを恐れて発見の活動を怠ることを私は「エリミネーション・トラウマ」と呼んでいるが、インドはこのトラウマにも負けず、一生懸命に患者を探し、ハンセン病のない国の実現に向けて本気で取り組んでいる。彼らの勇気と熱意に大いに期待したい。

その後、笹川インドハンセン病財団理事との打ち合わせや子どもの権利活動家として2014年にノーベル平和賞を受賞したカイラシュ・サティヤルティ氏と面談。

夕刻から今回の主な目的である富永夏子の写真展『OUR LIVES』のオープニングセレモニーに出席した。富永は私と共に世界中をまわり、ハンセン病の患者・回復者、その家族の写真を撮り続けている日本財団職員の写真家である。

1写真展会場の様子.JPG
写真展会場の様子


写真展はデリー中心地にある格式高いインディア・インターナショナル・センターで4月20日から5月1日までの12日間開催された。インドおよび世界のハンセン病患者、回復者、家族の生活の様子が彼らの声と共に伝わるように100枚の写真が展示されていた。

2オープニングで挨拶をさせていただく.JPG
オープニングで挨拶をさせていただく


オープニングセレモニーにはインドでハンセン病問題に取り組んでいる政府、WHO、NGOなどの関係者、メディア、回復者の他、在インド日本大使館の全面的な協力を得て日系企業からも多数参加して下さった。私は今回の集まりをきっかけに日系企業の方々にインドの国民的課題であるハンセン病の実態と日本財団の取り組みを知っていただき、将来的には彼らの協力も得たいものと淡い期待もしている。

また、オープニングでは写真のモデルの一人であるマディア・プラデッシュ州のアニータさんが彼女のつらい人生経験を語ってくれた。

3写真展に駆けつけてくれたアニータさん(自身の写真の前で).JPG
写真展に駆けつけてくれたアニータさん(自身の写真の前で)


この写真展は多数のメディアが取り上げてくれ、多くの人にハンセン病の問題を伝えることができたのは望外のことで、世界の約20万人の新規患者のうち6割がインドで発見されていることを考えると、インドでのこの写真展は、一般の人々にハンセン病のことを知ってもらう機会を提供することができ、成功だったと思う。

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インド国内の多くの新聞に写真展について報道された(写真は富永夏子)


インド独立の父、マハトマ・ガンジーは当時社会の最下層に置かれていたハンセン病の患者の境遇を変えたいと願った。来年はそのガンジーの生誕150周年の年だ。それまでにインドのハンセン病問題の解決で画期的成果が出るようこれまで以上に、全力で活動に取り組んでいきたいと思う。

「インド訪問記」―写真を通じてハンセン病に対する理解を― [2018年05月18日(Fri)]
「インド訪問記」
―写真を通じてハンセン病に対する理解を―


今年4月、インドの首都デリーを訪問した。18日の夕方に日本を発ち、翌日朝からいくつかの用件を済ませ、そのまま深夜便で帰国するという1泊2日の慌ただしいインド往復であった。

到着日の19日午前中、インド保健家族福祉省でハンセン病担当官のアニル・クマール氏と面談。インド政府が2年前から実施している「ハンセン病患者発見キャンペーン(LCDC)」により多くの患者が発見されていることに敬意を表した。制圧が達成された途端、患者が増えることを恐れて発見の活動を怠ることを私は「エリミネーション・トラウマ」と呼んでいるが、インドはこのトラウマにも負けず、一生懸命患者を探し、ハンセン病のない国の実現に向けて本気で取り組んでいる。彼らの勇気と熱意に大いに期待したい。

その後、笹川インドハンセン病財団理事との打ち合わせや子どもの権利活動家として2014年にノーベル平和賞を受賞したカイラシュ・サティヤルティ氏と面談。

夕刻から今回の主な目的である富永夏子の写真展『OUR LIVES』のオープニングセレモニーに出席した。富永は私と共に世界中をまわり、ハンセン病の患者・回復者、その家族の写真を撮り続けている日本財団職員の写真家である。

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写真を通して多くのメッセージを受け取ってほしい


写真展はデリー中心地にある格式高いインディア・インターナショナル・センターで4月20日から5月1日までの12日間開催され、インド及び世界のハンセン病患者、回復者、家族の生活の様子が彼らの声と共に伝わるように100枚の写真が展示された。

オープニングセレモニーにはインドでハンセン病問題に取り組んでいる政府、WHO、NGOなどの関係者、メディア、回復者の他、在インド日本大使館の全面的な協力を得て日系企業からも多数参加して下さった。私は今回の集まりをきっかけに、日系企業の方々にインドの国民的課題であるハンセン病の実態と日本財団の取り組みを知っていただき、将来的には彼らの協力も得たいものと淡い期待をしている。

また、オープニングでは写真のモデルの一人であるマディア・プラデッシュ州のアニータさんが、彼女自身のつらい経験を語ってくれた。

この写真展は多数のメディアが取り上げてくれ、多くの人にハンセン病の問題を伝えることができたのは望外のことで、世界の約20万人の新規患者のうち6割がインドで発見されていることを考えると、インドでのこの写真展は、一般の人々にハンセン病のことを知ってもらう良い機会を提供することができ、成功だったと思う。

インド独立の父、マハトマ・ガンジーは、当時、社会の最下層に置かれていたハンセン病の患者の境遇を変えたいと強く願っていた。来年はガンジーの生誕150周年の年で、それまでにインドのハンセン病問題の解決に向けて画期的成果が出るよう、これまで以上に全力で取り組んでいきたいと思う。

「ハンセン病制圧活動記」その45―アゼルバイジャン共和国のハンセン病療養所を10年ぶりに訪ねて― [2018年04月23日(Mon)]
「ハンセン病制圧活動記」その45
―アゼルバイジャン共和国のハンセン病療養所を10年ぶりに訪ねて―

多摩全生園機関誌『多摩』
2018年2月号

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平

2017年10月にアゼルバイジャン共和国(以下アゼルバイジャン)を10年ぶりに訪問する機会を得た。今回の同国訪問の目的は、@南コーカサス地域(アゼルバイジャン、ジョージア、アルメニアの3国)に唯一あるハンセン病療養所の再訪、A日本の図書100冊事業の寄贈式、B中央アジア奨学金事業のアゼルバイジャン奨学生の同窓会出席であった。後者2つの日本財団事業については割愛し、療養所訪問について詳しく記したいと思う。

アゼルバイジャンはロシア、ジョージア(グルジア)、アルメニア、イランと国境を接し、様々な言語・文化・宗教が複雑に入り混じる地域に位置する。面積は日本の約4分の1。人口は約1,000万人(2017年現在)で、90%以上がイスラム教徒である。近年カスピ海で新たな油田が発見され好景気に沸いたが、現地の人たちによると原油価格下落の煽りを受けて一時期の勢いは失われつつあるという。ただ、首都バクーの幹線道路沿いに鬱蒼と立ち並ぶ高層ビル群は10年前には存在していなかった。カスピ海の水辺に広がる高層ビル群と周辺の乾いた岩山のコントラストは、さながら現代のオアシスを思い起こさせる。街には高級車が行き交い、有名ブランド店が軒を連ねる目抜き通りを着飾った女性たちが歩く様子は、パリかロンドンと錯覚してしまうほどである。

こうして国が発展する中、10年前に訪れたウンバキ療養所の元患者たちはどうしているのだろうか。療養所には30人ほどが入所していて、中庭のようなところで大きなケーキをご馳走になったことを覚えている。10年経ったいまはどうなっているのだろうか。私は当時撮った写真を携え、首都バクーから南西約80キロ離れたゴビスタン砂漠の中にある療養所へ向かった。ビルや住宅が並ぶカスピ海沿いの幹線道路を離れると景色は一変した。樹木1本生えていない荒涼とした大地が地平線まで続いていた。道路は依然、舗装はされていないものの10年前の干上がった川底のようなデコボコの道ではなく、平らにならされていた。

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砂漠の中の一本道を走り続ける


砂埃をあげながら疾走する車の外に広がる青空の下の地平線を眺めながら、10年前にも感じていたことを思い出していた。世界中のハンセン病施設の多くが社会からの「排除」を目的としているため、人里離れたところに建てられている。この地も例外ではない。これから訪ねるウンバキ療養所は、もともと南コーカサス地域で唯一のハンセン病施設として1926年に首都バクー(当時はソビエト連邦)に開設され、その後数回場所を変えて1957年にこの砂漠の中に移された。当初は300人近い患者が入居していたという。(2時間近く)砂漠の中を移動すると見覚えのある鉄製の門が見えてきた。砂漠の中にぽつんと建てられた療養所の入り口である。幅4メートルほどの門は前回来た時は塗装が剥げていて何色かわからなかったが、いまは青色に塗り直されていた。

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ウンバキ療養所の門の前で
一歩出れば砂漠が拡がる


門を入ったところで車を降りると10年前と同じ顔が私を迎え入れてくれた。療養所のアリエヴ院長である。早速10年前の写真を見せて、この方々はいらっしゃいますか、会いにやってきましたと伝える。すると、アリエヴ院長は写真を全てめくり終えると「この中の多くの方が亡くなりました」と教えてくれた。前回私が訪問した時、30人だった入居者は15人(女10男5)となり、ほとんどの方が80歳〜90歳になっていた。10年という月日を感じられずにはいられなかった。しかし、写真の中の何人かの方々は今もいらっしゃると聞き、早速会いにいくことにした。
            
まず、サヤラさんの部屋を訪ねた。木造の部屋の壁は綺麗な青色で塗られていた。ふかふかの絨毯にベッドが2つ置かれ、暖房が入っていて部屋の中はほんのり暖かかった。10年前の写真に写るサヤラさんは白衣を着ていたので私は看護師だと思っていたが、改めて話を聞くとハンセン病になって1969年に入所し、病気が治ったあとは施設内で暮らしながら介護などの仕事をしているとのことだった。10年ぶりに写真を一緒に撮りましょうと言うと「インターネットに私の写真が出ると親戚に迷惑がかかるので、やめてほしい」と断られた。私は、今なお偏見や差別に怯えながら生きる元患者がいることを思い知らされ、やるせない気持ちになった。しかし、サヤラさんからは「日本から来訪者が来ると聞いて、あなたが来ると思っていました。10年ぶりに会えて懐かしい」とうれしい言葉をかけてもらい、逆に励まされてしまった。

次に、庭で寛ぐセードバーニュさんを訪ねた。手渡した10年前の写真を懐かしそうに眺めながらご自身の話を少しだけ聞かせてくれた。出身はイランに近いランカランという地域で、14歳の時に入所して以来ずっとここに住んでいるという。家族とは連絡をとり続けているという。なぜ家族の元に戻れないのか、理由が想像できるだけに聞くことはできなかった。

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懐かしそうに10年前の写真を眺めるセードバーニュさん


その他にも亡き妻を写真の中に見つけ、懐かしさで涙ぐむ男性や、「娘に孫が生まれて顔を見せに来てくれた」と顔をほころばせる女性にも会うことができた。私にはここに住む全ての方々が、残された時間を穏やかに過ごすことができるよう心から願うことしかできなかった。

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お孫さんが会いに来てくれたと、嬉しそうに話す女性


かつてはアルメニア、ジョージア、タジキスタンからの患者もいたが、90年以降に帰国したとのことである。ふと、2012年にロシアのアストラハン・ハンセン病療養所を訪問した時にアゼルバイジャンから来たという男性に会ったことを思い出した。男性は25年間そこに住んでいると話していたので、その前はもしかしたらこの療養所にいたこともあったのかもしれない。

入所者の方々との再会を果たして施設内を歩いているとアリエヴ院長が、生い茂る木々を指差しながら「周りは砂漠だが、入所者たちが土を集めて果実を植えたので、ここは緑豊かです。ここはオアシスなのです」と誇らしげに話していた。家族や社会から「隔離」された人々が肩を寄せ合うようにひっそりと暮らす砂漠の中の療養所。「オアシス」と呼ぶには、あまりにも寂しい場所ではないだろうか。

現在、アゼルバイジャンではハンセン病の新規患者はほとんどいない。ロシアや中央アジアの療養所もそうだが、入居者は徐々に減り、やがていなくなるのは時間の問題である。ここも10年後には閉鎖されているかもしれない。たとえそうなっても、差別と排除の中で生きてきた人々がいるということを我々は忘れてはならない、と強く感じた再訪であった。

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療養所の中には緑が茂る
「ハンセン病制圧活動記」その44―インド東部のオディッシャ州を訪問して― [2017年09月20日(Wed)]
「ハンセン病制圧活動記」その44
―インド東部のオディッシャ州を訪問して―


大島青松園機関誌『青松』
2017年7・8月号

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平


3月17日から22日までインドのオディッシャ州とデリーを訪問しました。ハンセン病の回復者と家族が暮らすコロニーを訪問すること、また彼らの尊厳や人権の回復、そして生活状況の改善を州と中央の政府に訴えることが主な目的です。なお、インドでのハンセン病制圧活動は今回で56回となりました。

実は今年の1月末から2月初めにかけても、ハンセン病差別撤廃のイベントであるグローバル・アピールと蔓延州訪問のためにインドを訪問しており、そのときにオディッシャ州を回る行程を組んでいました。しかし出発直前になって、オディッシャ州で選挙が始まるので、訪問を延期して欲しいとパートナー団体であるインド・ハンセン病回復者協会(APAL)から連絡が入り、急遽予定を変更しました。そして1ヶ月後に改めて訪問することになったのです。
 
インド東部に位置するオディッシャ州はかつて貧困地域でしたが、近年鉄鉱石や石炭など鉱物資源が採掘されるようになってから、大手企業が進出し、産業が急速に発展しています。そのおかげでインドの中では珍しく電力の供給が安定した州となり、私が滞在している間は一度も停電がありませんでした。しかし、この豊かになりつつある州でもハンセン病の問題は依然として残っています。インド保健省の報告によると昨年発見された新規患者は10,174人で、これは全国の約8%にあたります。また、人口1万人のうち患者の割合を示す有病率は1.35で、インド全体の0.65を大きく上回り、WHOの制圧基準をいまだ達成していない数少ない州です。
 
首都のデリー経由で、オディッシャ州の州都ブバネーシュワルに飛行機で移動しました。空港の前には、インド・ハンセン病回復者協会(APAL)の州リーダーであるウメシュ氏やその他のメンバーたちが太鼓やタンバリンを叩いて大勢で出迎えてくれ、マリーゴールドの花輪をいくつも首にかけてくれました。彼らの生活が楽ではないことを考えると、このプレゼントは嬉しいようで、少し申し訳ない気持ちでした。

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APAL州リーダーのウメシュ氏と2年ぶりの再会


早速行動開始です。空港から直接向かったのは、B.K.ミシュラ人権委員会委員長です。同席した州リーダーのウメシュ氏は、この委員長に対して住居環境の改善について23件の要求を提出しています。強制力はないものの、委員長は非常に協力的で、会合にハンセン病の現状学習のためオリッサ州立大学法学部の女学生15人を出席させるなど、ミシュラ氏の真面目な対応が感じられました。私からも、回復者の生活改善について再度お願いをして会談を終えました。

会場を移して行われた医療従事者との会合では、オディッシャ州の活動が報告されました。報告によると、政府主導のLCDC(ハンセン病患者発見キャンペーン)というプログラムを昨年9月から10月にかけて行った結果、4,498人の患者が発見されたこと、「ASHA」と呼ばれる保健ボランティアが蔓延地域の世帯を一軒一軒回り、皮膚などに症状が出ていないか確認する活動などが成功しているとのことでした。

次に向かったのは、メヘルダ州保健省事務次官との会合です。次官から、州が新規患者の発見に努めているだけではなく、障害のある患者に対して再建手術やリハビリテーションを行って社会復帰を促す取り組みについての報告がありました。それに対して私から「新規患者数が多いということは、それだけ早期発見のための活動が積極的に行われている証拠で、活動を高く評価したい」と伝えました。

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メヘルダ州保健省事務次官との会合


翌日は州都のブバネーシュワルから車で3時間ほどのデンカナルという地域を訪問しました。街を少し離れるとのどかな田園風景が広がります。牛がのんびり寝ていたり、ブーゲンビリヤなどの色鮮やかな花々が咲いていたりするのを見ていると、長旅の疲れが消えていくような気持ちになります。

地域保健センターでは、患者の発見活動をする保健ボランティア「ASHA」と呼ばれる女性たちが、青と紺色のサリーを身にまとって私の到着を待っていました。彼女たちによってハンセン病とわかった男性、女性、子どもからお年よりまでさまざまな患者10名が村から私に会うために保健センターまで足を運んでくれていました。なかには11歳の少年もいましたが、早期発見・早期治療のおかげで障害がありません。このことは少年の未来を明るいものにします。私は「ASHA」の人々に向かって「ハンセン病は発見が早いと障害が残らない病気です。皆さんの活動は人の人生を明るくする誇り高い活動です」と激励すると、彼女たちは誇らしげに微笑みました。

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「ASHA」(中央)と彼女が見つけた患者さんと


ブバネーシュワル近郊のラムクリシュナパリー・ハンセン病コロニーでは、住民300人のうち、90人が障害者証明書を持っており、そのほとんどは職業欄に乞食(*)と書かれていたのには驚きました。コロニーのリーダーは「住民には土地の所有権がなく、いつ追い出されるか気が気ではない。また政府からの支援金が十分ではなく家族を養うことができない」と悲しそうに陳情されました。私は「州リーダーのウメシュ氏が私に同行して首相や知事に直接皆さんのお願いを伝えます。私もできるだけ皆さんの生活が改善されるよう支援します。希望を持ってお互いにがんばりましょう」とエールを送りました。

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コロニー住民のみなさんを激励


オディッシャ州滞在中、州首相をはじめ、主席事務次官、保健家族福祉大臣、社会保障・障害問題担当次官、社会保障・障害問題担当次官、障害者問題委員会委員長など多くの政府要人との面談が分刻みで行われました。要人との面談では、私から「ハンセン病のコロニーに住む人々は自立して生きていく努力をしているが、乞食をする以外に生きるすべがない重度の障害者や高齢者がいる。私はコロニーから乞食をゼロにするためにさまざまな支援を行っているが、民間組織の努力では限界があるので、ぜひ行政の力を貸して欲しい」と簡単に説明したあと、ウメシュ氏やAPALのメンバーから直接要望を伝えるよう促しました。いつもは周りの人が驚くほど大きな声で話すウメシュ氏ですが、緊張のせいでしょう、小さな声で額に玉のような汗をかきながら神妙な顔でコロニー住民に対する土地の名義取得や特別支援金サポートについて説明し、それらをまとめた資料を要人に手渡しました。その結果、ほとんどの要人からは積極的に検討するとの返答がありました。面談終了後にウメシュ氏が「昨日は面談で渡す資料などを作成していて、寝られませんでした。試験が無事に終わった気分です!」と興奮を隠し切れずに言った時の笑顔が忘れられません。

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州の保健大臣(左)に資料を渡すウメシュ氏


大勢のメディアが集まった記者会見では、私の方から「ハンセン病は治る、感染力が弱い、差別は不当であることを市民に理解してもらえるよう、協力をお願いしたい」と訴えました。翌日には今回の我々の訪問について20以上の記事が様々な媒体に掲載されました。メディアを通じてハンセン病に対する正しい知識が多くの市民に伝わることを願います。

慌しいオディッシャ州でのハンセン病活動を終えて、デリーに移動しました。
デリーでは、WHOのインド代表、中央政府の保健省主席次官、保健省副大臣らに、オディッシャ州の状況を伝え「地方ではハンセン病担当者のポストが空席のところがある。草の根レベルの活動を絶やさないためにも人材を確保して欲しい」との要望を出しました。
中央政府は2月の予算会議でハンセン病対策予算の増額を決定し、副大臣からは LCDC(ハンセン病患者発見キャンペーン)を3年間継続することが確定したと聞き、各州との連携強化のもとに一人でも多くの患者の救済に積極的な姿勢を示されたことは大いに評価したいと思います。

インド独立の父、マハトマ・ガンジーは当時社会の最下層に置かれていたハンセン病の患者の境遇を変えるために国づくりのマニフェストにハンセン病の解決を取り上げました。ハンセン病とその差別のないインドの実現は、ガンジーの夢でもあり私の夢でもあります。その達成を見届けるまで、私は何度でもこの国を訪れ、関係者と共に闘いたいと思います。

(注)インドでは乞食(ベガー)と言う言葉が通常使われます。ご了解ください。


「ハンセン病制圧活動記」その43―カメルーン共和国でのハンセン病制圧活動― [2017年09月04日(Mon)]
「ハンセン病制圧活動記」その43
―カメルーン共和国でのハンセン病制圧活動―


東北新生園機関誌『新生』
2017年6月20日発行

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平


 2016年7月3日から13日にかけて、アフリカの中西部に位置するカメルーン共和国(以下カメルーン)を訪問した。同国は、北東はチャド、東は中央アフリカ、北西はナイジェリア、南は赤道ギニア、ガボン、コンゴ共和国に国境を接し、西岸は大西洋のギニア湾に面している三角形の形をした国である。またアフリカの国々の中で最も多様な民族で構成されており、およそ250の部族が居住しているといわれている。

 カメルーンは1998年末に、WHO(世界保健機関)の定める公衆衛生上の問題としてのハンセン病制圧目標(人口1万人に1人未満となること)を国レベルで達成している。新規患者数は隣国のコンゴ民主共和国やナイジェリアが3,000人前後に対して、10分の1の300人程度である。しかし国全体の70%の行政単位でハンセン病の報告がされていない、いわゆるデータがない状態であるため、実際の数はわからない。また、ハンセン病による後遺症や悪化防止に対応する施設がなく、俗にピグミーと呼ばれる森の中で移動しながら生活するバカ族などの狩猟民族や、国内難民に対する医療サービスの提供が遅れていると言われている。このような特にサービスの提供が困難な、南部および南東部の森林地帯に住むバカ族ピグミーのハンセン病の実態調査を行うことが今回の主な訪問目的である。

写真@フォーダ保健大臣を表敬訪問.JPG
フォーダ保健大臣を表敬訪問


 日本からパリ経由で丸2日かけて降り立ったときは真夜中近くになっていた。カメルーンの首都ヤウンデは7つの丘に囲まれた高地で、小さな丘がいくつもあり、赤道に近いが暑くはない。7月はちょうど雨季で一日中曇っているという状況だった。
途上国での活動はまず保健大臣への表敬から始まるのが常である。官庁街も丘の上にあり、保健省は重厚な木の壁に覆われた廊下を通り、アンドレ・ママ・フォーダ保健大臣の部屋に入るまでに木製の扉が10メートルの間に3つもあった。

 保健大臣との挨拶を終えて次に向かったのは、ハンセン病担当官のンジ医師の事務所だ。かつてハンセン病患者が入院する施設だったという建物の片隅を事務所として使っていた。別の部屋には蚊帳が山積みになっている。マラリアの予防にもなる蚊帳の配布先はないのだろうか。

 翌朝は早くにバカ族が住む東部地区の州都ベルトゥアに向けて首都ヤウンデを出発した。この日はイスラム教のラマダン(断食)明けとあって、街中は鮮やかな色に着飾ったイスラム教徒の人々が多く、お祝いムードだった。想像以上にカメルーンの道は舗装されており、移動はスムーズであった。道路脇には、土壁で作られた家が続き、多くの家では子供が座って、通る車輌をあきもせずじっと眺めている。突然のにわか雨には歩いている子供が大きなバナナの葉を傘代わりに使っている。車窓からの景色は何時間見ていても飽きることはない。

 景色は楽しい。だが、アフリカで最も恐れるのは地方への移動なのである。都市部に比べ車輌が少ないにも関わらず交通事故が多いのである。アフリカのどこの国でも見られるように、過載とスピードの出しすぎで横転しているトラックを何度も見かけた。

 ヤウンデを出てから約6時間で東部州の州都ベルトゥアに到着し、荷物を解く間もなく、すぐに州知事を訪問。雨がやまず、黄色い壁にヤシの木が生い茂る、グレゴリー州知事のオフィスの敷地は赤土がむき出しでかなりぬかるんでいた。知事の説明では、この州はカメルーンにある10州の中で最も広いが、人口は一番少ないという。また、中央アフリカと国境を接していることから、人口100万人中20万人が難民で、食糧問題や健康問題が深刻になっているそうだ。知事から晩餐会にも招待され、手厚いもてなしを受けた。話の中で、知事がなんと三島由紀夫の『金閣寺』の影響を受け、京都に興味を持っていることがわかった。アフリカと三島由紀夫の取り合わせが興味深い。

写真Aメンゾー村に住むハンセン病回復者たちから話しを聞く.JPG
メンゾー村に住むハンセン病回復者たちから話しを聞く


 次の日は、森の中に住むバカ族の村を訪問。日本の梅雨のようなうす曇の天気だが、過ごしやすい気温で鳥の声がどこからともなく聞こえてきて心地よい。ベルトゥアから車で約1時間半、まずアボンバン保健局でバカ族が多く住むこの県のハンセン病の状況について説明を受け、その後、さらに保健局から2時間近く走ってメンゾー村に到着した。バカ族と近くに住む農耕民のバントゥ族も加え100人ほどが広場に集まり、太鼓と踊りで歓迎してくれた。私もいつもの通り彼らの輪に加わって一緒に踊った。バカ族のリーダー、エレン女史がハンセン病患者を3人紹介してくれた。1人目は杖を突いた白髪の痩せた老人男性。2人目は背中にハンセン病の初期症状と見られる斑紋のある幼児。3人目は手に潰瘍のある中年の女性で、足がとても細く、鼻のあたりに後遺症が残る。彼女に「何かいやなことをされたことはありますか?」と質問してみると「すごく意地悪されて、自殺を考えている。手がないじゃないか、お前は森へ帰れと言われ、家族からものけ者にされる」と私の手をとりながら大粒の涙をこぼした。私は彼女の手を引き、集まった村人に対してハンセン病は治る病気であり、差別をすることは不当であることを説明した。そして「この中にいる人で差別をしないと誓ってくれる人は手を挙げてください」と聞くと、ほとんどの人が手を挙げてくれた。

 私が去った後までその約束が守られることを願うばかりである。差別に対する感情というものは私のような外部の人間がちょっと説明したからと言って、すぐになくなるものではないことは十分理解しているつもりである。しかし、やり続けなければ問題解決にはつながらないのである。
 
 次に訪問したのは、コワンブという村である。両脇の木が覆いかぶさるような森の中のドロ道を30分ほど走るとコワンブ村に到着。村人はまた踊りで歓迎してくれた。村長によると、ここは1936年に近隣に住むバカ族のハンセン病患者を治療・入院させるためにできた療養所で、1970年代には600人を超す患者がいた。昔はアボンバン市内に病院はあったが、ハンセン病は怖いと考える周辺住民の反対に合い、このような深い森の中に施設を移動したという。また、バカ族を森の外に定住させる国家政策で、ここまでの道路が作られ、道沿いには定住・半定住化したバカ族が住み着いているところでもあった。

 村に4人いるという回復者の一人、鮮やかな青い服を着た盲目の老人が歌で歓迎してくれた。事前に準備したのか即興なのかは不明だが、SASAKAWAという名前が頻繁に聞こえ、太くて低い音声は森の中で厳粛に響きわたった。私は老人を抱きしめ「テレビに出られるレベルの素晴らしい歌声ですね。長い間の悲しみや苦しみを乗り越えて生活されていることに敬意を表します」というと盲目の目を大きくあけて強く私の手を握りしめた。

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コワンブ村に住むジャスティンさんの自宅を訪問


 そのあと、荒れ果てた建物に住む中年男性のジャスティンさんに話を聞いた。子どものころに発症し、家族と一緒に暮らしていた森から追い出され、親戚や友人もすべて離れてしまい一人の生活になったという。治療薬でだいぶ回復したので、森にまた戻りたいと考えているそうだが、たぶん受け入れてくれないだろうと悲しげな表情で下を向いてしまった。

 最終日には森深くにある集落を訪問した。探検隊のように、見たこともない野生の木々が生い茂るジャングルの中を進む。まるで少年の頃映画で見たワイズミュラーのターザン映画のような場所である。足元がぬかるんでいる所もあるので、転ばないように杖をたよりに注意しながら歩く。しばらくして、バカ族の住む森の集落にたどり着いた。木と葉で作ったドーム形をしたモングルと呼ばれる家が5軒あり、2家族23人が生活していた。集落のリーダーの話しでは、捕った獲物は全員で分け与え、争いなどはないとのことだが、23人の中にハンセン病の回復者が2人、アルビノ(先天性白皮症)を患う人が3人いて、彼らが家族の輪の中に入りきれずに遠くにいるようで少し気になった。

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森の中で生活するバカ族


 私は2人のハンセン病回復者に小声で「今までいじめられたことはないですか?」と聞いた。すると2人は「いやというほど経験しているので、もうしゃべりたくない」とだまってしまった。
他の家族に「2人はどうしてこの病気にかかったと思いますか?」と聞いてみると、ひとりの男性が「神様の罰か悪魔の祟りだ」と答えたのである。このような奥深い森の中で、しかも23人という小さい集団の中にも、偏見や差別があることに驚きを隠せなかった。

 私からは、ハンセン病は神様のたたりではなく、色々な病気のひとつであり、早く治療すれば後遺症は残らないと説明し、家族間での偏見や差別をしないで欲しいことを伝えて、森を後にした。

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ハンセン病回復者の女性ふたりと


 アフリカの森奥深くに住むバカ族の間では、ハンセン病にかかっても分け隔てなく生活できていると思っていたが、実情は違っていた。ハンセン病が神様や悪魔によって毒された病気と信じ、情報の入らない森の中でも差別が存在することがわかった。たとえ小さな島でも、大森林地帯でも、人が住むすべての場所でハンセン病に対する差別があることを思い知らされた。私の前で差別しないと誓った人がすぐに行動にうつせるとは限らない。世界中からハンセン病に対する差別がなくなり、すべての人が生き生きと暮らせるようになるためには忍耐強く、正しい知識を広める活動を続けていかなければならない。

「ハンセン病制圧活動記」その42―インド訪問― [2017年08月02日(Wed)]
「ハンセン病制圧活動記」その42
―インド訪問―


長島愛生園機関誌『愛生』
2017年5・6月号

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平


 2017年1月28日から2月5日にかけて、インドの首都デリーと中東部のチャティスガル州を訪ねた。今回の訪問は、毎年1月最終日曜日の「世界ハンセン病の日」に合わせ「ハンセン病に対するスティグマ(社会的烙印)と差別をなくすために」と題した「グローバル・アピール2017」(宣言文)をデリーで発表することと、ハンセン病患者数が特に多いチャティスガル州のコロニーに住む回復者と家族の環境を改善するよう州政府に要請するのが主な目的だった。私のハンセン病活動でのインド訪問は40回を超える。

 2016年度の世界保健機関(WHO)発表によると、インドの人口は13億1105万人。中国13億8392万人に次ぎ世界第2位であるがまもなく世界一の人口になるであろう。多様な民族構成でも知られ近年目覚しい経済成長を遂げ、「ボリウッド」と呼ばれるインド映画業界は、世界一の制作本数を誇っている。ITや自動車産業で有名なタタグループをはじめ、インド企業も好調だ。しかし、そうした経済発展の恩恵を受けている人はまだごく一部で、地方に行けば路上生活者を街中で見掛けることも珍しくない。

 インドの2016年の新規患者数は12万7326人と世界で一番多い。WHOが定義する「制圧」基準、人口1万人当たり患者数1人未満の基準は05年に達成しているが、州レベルでは29州のうち6州が未達成で、ここ数年は患者の数が横ばい状態である。また、地方分権化が進んでいるため、中央政府だけではなく、地方自治体の首長の理解が特に重要になってきた。

 1月30日に「グローバル・アピール2017」を発表した。このアピールはハンセン病の差別をなくすために2006年から続けている。世界中の政治・宗教指導者、それに世界医師会や看護師協会などの賛同を得て毎年発表してきており、今回で12回目となる。今年は、世界171カ国の議会が加盟する列国議会同盟(IPU)との共同宣言として発信した。IPUは各国の超党派の議員が参加しており1889年6月,パリで設立された権威ある団体である。
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グローバル・アピール2017の宣言文を読み上げる


 式典のあいさつでIPUのチョウドリー会長は、自国のバングラデシュで100年続いた差別法の廃止に尽力した経験を基に「笹川氏はモーターバイクの前輪は病気を制圧すること、後輪は偏見や差別を撤廃することと説明したが、それを動かすにはエンジンが必要だ。議会はそのエンジンとなれるのである」ハンセン病の差別法を作ったのも、撤廃するのも、ハンセン病対策のための予算を配分するのも議員。議会は差別法廃止だけではなく、立法、政策起案、予算獲得、政策の実施の権限がある。ハンセン病のない世界、差別のない世の中をつくることが議員の役割。それこそがIPUの精神だ」と力強く語った。

 モディ首相からはビデオメッセージが届いた。「インドの父であるガンジーは人々が尊厳を持って生きていくことが重要だと説き、ハンセン病を撲滅することが夢だった。夢の達成まで最後の1マイルにまで迫っているが、そのためには皆さんの経済的、政治的努力が必要だ」と呼び掛けた。

 私は「インドでは議員が立ち上がり、国会議員連盟をつくり、現在は50人の議員が加盟している。IPUの皆様と共に発信するグローバル・アピールを通じて差別法撤廃の活動に弾みがつくとともに、他の国にも波及することを期待している。ハンセン病制圧までの最後の1マイルを、各国政府、国際機関、そして何よりも患者、回復者の皆様と共に一歩一歩前進していきたいと思う」と訴えた。

 会場には全インドハンセン病回復者協会(APAL)ナルサッパ会長を初め、回復者、アジア諸国およびインドの国会議員、支援団体、報道関係者など300人ほどが集まった。APALはハンセン病回復者の全国組織で、設立準備から今日まで日本財団が財政支援を行っている。インド全域の回復者をネットワーク化し、自分たちの権利や社会制度などに関する知識を身につけ、コロニーの環境改善や生活向上のために、回復者自らが中央政府や州政府、地方自治体の役人側と交渉を行うための手助けも行っている。

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多くの回復者が出席


 式典の後、チャティスガル州へ向かった。州都のライプールはデリーより暖かく、昼は汗ばむほどだった。同州には34ヶ所のコロニーに2500人の回復者が生活し、2016年の新規患者数は1万人あたり3.31人と多い。州保健大臣のチャンドラカー氏との面談ではAPALの同州リーダーのボイさんを大臣に紹介した。ボイさんは「回復者の特別補助金をお願いしたい」と大臣に直接訴えた。熱のこもった訴えに大臣は「省庁を超えた調整委員会を作り、ハンセン病の問題を多角的にとらえる努力をする」と約束してくれた。

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右から保健大臣、ボイさん、筆者


 次に訪れたマハサムンド県の中央医療局では、インド建国の父マハトマ・ガンジーが中央に、隣にはモディ首相の写真が飾られてあり、保健担当官、医療従事者から、この地域の状況説明を受けた後、最近2人がハンセン病と診断されたということで、車で30分ほどのカッティ村を訪れた。

 診断された患者の1人は幹線道路沿いに住む30歳の女性、もう一人は鮮やかなエメラルドの家に住む、体の細い中年の男性だった。2人を発見したのは「ミタニン」という地域のボランティア。ハンセン病を1人見つけるごとに政府から250ルピー(約500円)が支払われ、患者が完治するとさらに手当てが出るという、インドだけではなく世界でも珍しい仕組みで新規患者の発見に努力していることがわかった。

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診断された男性のお宅を訪問


 午後、新患率が最も高いピトラ郡のメムラ村にも2人が病気とわかり、2時間かけて会いに行った。気温は30度を超え、強い日差しが肌を突き刺し、顔がピリピリするほどであった。主に稲作で生計を立てており人口1955人のこぢんまりとした静かな村だった。患者は80歳、50歳で、いずれも男性だった。2人とも腕に斑紋があった。村にはミタニン2人がいて、1人のミタニンは、これまで村全体370軒の約半分、175軒を探し4人を見つけたという。

 なぜ人口2000人足らずの村で、80歳のおじいさんの病気が今まで見つからなかったのだろうか。汚れた病気との思いから家族が隠していたのか、不思議なことである。いずれにしてもハンセン病の正しい知識を広める努力がまだまだ必要だと痛感した。

 夕刻には、州都のライプール市内のインドラ・ダラム・ダムハンセン病コロニーに到着した。幹線道路と鉄道が近いせいか、騒音が激しくレンガ造りの壁に今にも落ちてきそうなボロボロの瓦屋根の家が連なり、蚊やハエが飛び交う不衛生極まりない都市型のコロニーである。

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インドラ・ダラム・ダムハンセン病コロニーを訪問

 このコロニーで暮らしている州リーダーのボイさんよると、ここでは50世帯170人が生活している。そのうち80人が回復者ですべてが物乞いをして生計を立てているという。政府からの立退き要求もありボイさんをリーダーとして行政への陳述を繰り返しているという。コロニーに住む子どもたちは、学校に行ってもいじめられるなどの差別を受けていたが、このボイさんが近隣の学校の校長になってから、差別を受けることがなくなったという。

 ボイさんはかつて声が小さく頼りない印象だったが、今回保健大臣、社会福祉大臣との面談の時には声も大きく、問題点を強く主張している姿に州リーダーとしての自覚と責任感が身についたことに私は、内心嬉しい気持ちを抑え切れなかった。社会福祉大臣からは「他の州と同様に年金を値上げできるよう、また回復者が生活するコロニーの環境改善のために、積極的に今後取り組む」という発言があり、面談は大成功に終わった。

 気を良くしたボイさんは面談ごとに自信をつけ、自分のコロニーに戻った時には多くの人前で「社会福祉大臣からできる限りのことをするという約束をもらった。これで弾みをつけて皆さん共に立ち上がろう」と力強く演説をした。彼の成長を間近で見ることができ、今後は頼りになるリーダーとして活動を続けてくれるだろうと確信した。

 活動の最終日、51社のメディアが出席した記者会見を行った。私は「この州はミタニンという新しい組織をつくり、1軒1軒自宅を訪問し2500人を超える新規患者を発見する成果を挙げている。今一度、メディアにお願いしたい。ハンセン病は治る病気、薬を飲めば治り、早期発見、早期治療で障害が防げる。これらを市民が理解してもらえるように協力をしてほしい」と要請した。このようなメッセージを含んだ記事が、新聞、テレビ、ラジオなどを通じ100件以上が報道された。

 チャティスガル州では、州リーダーが直接、保健大臣と社会福祉大臣に会って要望を伝え、前向きな協力の言葉を得ることができた。これは回復者組織が州大臣に意見を伝えられるほど影響力を持つようになったということだ。しかしコロニーの人々の生活向上のための約束を政府がすぐに実行に移すとは限らない。私の夢であるインドからハンセン病患者や回復者の物乞いを無くすためにも、何度でもこの国を訪れる覚悟だ。

「ハンセン病制圧活動記」その41―エクアドル共和国のハンセン病施設を訪ねて― [2017年06月02日(Fri)]
「ハンセン病制圧活動記」その41
―エクアドル共和国のハンセン病施設を訪ねて―


星塚敬愛園機関誌『姶良野』
2017年陽春号

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平


 2016年10月中旬に南米エクアドル共和国を訪問した。エクアドルは、首都のキトに、地球を二分する赤道が通っていることから文字通りスペイン語で赤道「エクアドル(Ecuador)」が国名の由来となる。カカオやコーヒーの名産地であり、豊富な鉱物や石油などの資源を持つ国である。

 我々が訪問した時期は乾季で、日中に照り付ける太陽は非常に強く暑いが、朝晩は気温が10度前後まで冷え込む。そして注意が必要なのが高山病である。キトは標高が2800mと高地にあるため、頭痛、吐き気、息切れなど、特に若者に症状が出やすい。若い同行者は高山病予防の薬を服用していた。

 さて、今回の同国訪問の主な目的は、人間居住に関わる課題解決を話し合う第3回国連人間居住会議(ハビタット3)に出席するためだった。日本財団は、障害者も健常者も差別なく共に生活ができるインクルーシブなコミュニティーを作っていくことを大きな目標のひとつとして揚げている。そのため、障害者の視点を盛り込んだ課題の解決方法を提案する機会をこの会議で得たのである。

 私は、各国訪問の主要目的がハンセン病と関わりがなくても、その地にハンセン病に関連する施設や、関係者がいれば、ほぼ必ずと言っていいほど足を運ぶことにしている。今回も国連会議に出席した後に100年近い歴史を持つハンセン病の施設を訪問する機会を得た。ゴンザロ・ゴンザレス病院(Hospital Gonzalo Gonzalez)である。病院内にハンセン病回復者の居住区があり、現在も20名の回復者が住むという。

 首都キトにあるゴンザロ・ゴンザレス病院は、インターネットの地図で調べるとキト市の中心地にある我々の宿泊ホテルから車でわずか10分とのこと。世界中にあるハンセン病施設は、隔離を目的とするために郊外に作られることが多い。市街地に施設があるのかと、少し意外に思いながら車で宿泊ホテルを出発する。すると、確かに病院まではものの10分で到着した。しかし、街自体が小さいために、中心地から坂道をいくつか越えるとあっというまに街外れに到達するのである。ゴンザロ・ゴンザレス病院はそんな街外れにあった。

 病院の入り口には頑丈な鉄格子の門があり、周りは塀で囲まれている。やはりこの地でも、ハンセン病施設は町から隔離することを目的として作られたことがわかるのである。

 WHOアメリカ事務局のジナ代表と病院のディレクターからの説明によると、ゴンザロ・ゴンザレス病院は時代と共にハンセン病の患者数が減り、現在はハンセン病専門病院ではなく、麻薬中毒患者やアルコール中毒患者の入院施設も併設されているという。

 同病院のハンセン病専門病院としての始まりは、1929年に遡る。1920年代までは日本と同じく、ハンセン病とわかると警察が強制的に隔離できる政策があり、多くのハンセン病患者が病院に隔離されたという。

 2009年に政府が23戸の住宅を病院敷地内に建設。現在はハンセン病の回復者20名がその住宅で暮らしている。平均年齢は65歳で、最高齢は84歳とのことだ。ハンセン病患者のための入院施設は80床あるがほとんど使用されていない。 
                      
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病院敷地内にある居住施設


 病院の敷地内には昔のままのバロック式の建物が残り、劇場の跡地もある。かつては多くのハンセン病患者たちの唯一の娯楽だったのではないか、と想いを馳せながら病院の敷地内を歩く。

 回復者のリーダー的存在であるヨランダ・トロさんの自宅を見せてもらった。25年間ここに住み、縫い物や籠を作ることが好きだという。とても清潔な部屋で、あちこちに作品が飾られていた。トロさんはペルー南部の出身で、父親もハンセン病だった。30歳の時に入所して、早期に治療を始めたために後遺症はほとんどない。しかし、入所する前に離婚してから家族とは一切連絡は取っていないという。

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作品を見せてくれたトロさん


 そのあと、入所者のみなさんが我々を歓迎するために集まった会場に案内され、意見交換をする時間を得た。入所者からの話しを聞いてみると、今の一番の関心事は病院側と入所者の意見の相違のようである。政府はハンセン病制圧のステップという位置づけとして、ハンセン病回復者数の減少に伴い一般病院として再建したい。しかし入所者たちはそのことによって住む場所がなくなるのではないかという不安を持っていた。当然である。強制的に隔離された上に、また強制的に追い出されるのではないかという彼らの不安はいかほどのものか、考えただけでも心が痛む。

 私からは「ハンセン病に対する偏見はなくなっていない。全ての人は国民としての権利がある。未来を豊かに暮らすことを一緒に考えていきましょう」と激励した。

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入所者の一人一人と挨拶を交わす


 最後に「自分たちのことを覚えておいて欲しい、ハンセン病は終わっていないのです」と、古い雑誌を入所者の一人から手渡された。これは、全国のハンセン病患者向けの雑誌で、第一号は1961年に発行されている。病気についてや、恋愛についての情報、ポエムや亡くなった方へのお悔やみなど、日々の暮らしに関係することが書かれている。発行したのはゴンザロ・ゴンザレス病院で、書いているのはハンセン病患者と彼らをサポートする婦人協会である。50年以上も前にこのような雑誌を発行していたことに驚くと同時に、さぞ入所者の人々の心の支えになっていたことだろう。
    
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病院が発行していた雑誌を手渡される

 
 ハンセン病回復者の方々に会って、話しを聞いて、いつも考える。なぜ何千という病気がある中でハンセン病だけが社会的差別が根強いのか。当然、社会の側の責任は大きい。もっと各国政府に関心を持って欲しいとも思う。そのために私は活動を続けているのだが、いつの日か障害者と健常者が差別なく暮らしていける社会が実現すれば、ハンセン病療養所という社会から隔たれた中で生きてきた人々にも扉が開かれると信じている。

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入所者のみなさんと



「ハンセン病制圧活動記」その40―患者数が世界3番目のインドネシアを訪問− [2017年05月31日(Wed)]
「ハンセン病制圧活動記」その40
―患者数が世界3番目のインドネシアを訪問−


巴久光明園機関誌『楓』
2017年3月4日号

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平


 2016年12月12日から18日にかけて、インドネシアの首都ジャカルタ、西スマトラ州の州都パダン市、ジャワ島のスバン県、古都スラカルタ市(ソロ)を訪問した。インドネシアを訪問するのは今年2回目で合計すると16回目となる。

 インドネシアは2000年に世界保健機関(WHO)の制圧目標(人口1万人に1人未満になること)は達成したが、新規の患者数は毎年16,000〜19,000人の間を推移している。この数はインド、ブラジルに次いで世界3番目で、東南アジア諸国連合(ASEAN)の中では突出して多い。また、国レベルでの制圧は達成されたものの、ここ数年は患者数が減ることはなく、州ごとに見ると全34州のうち12州が制圧の数字を達成していない蔓延地域である。その理由は、アクセスが悪い島々に分散している州が多いことと、地方分権が進んでいることから、地方自治体ごとの首長の理解を得る必要があるためで、医療活動が思うように進まないのである。

 本格的な活動に入る前に、まずジャカルタにあるWHO事務所を訪問し、現状報告を受けた。HOの事務所には、ジハネ・タウィラWHOインドネシア代表を始め保健省の担当官も集まっていた。私はハンセン病担当官のリタ氏に政府の今年度のハンセン病対策予算について質問したところ、地方行政に任されており、正確なハンセン病の予算はわからないとのことであった。地方へ出張に行く予算をとることも難しいという。来年度は予算を必要なことに使ってもらうため各州の知事に会いに行きたいと申し出たところ、是非お願いしたいとのことであった。

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WHO代表のタウィ氏


 WHOでの報告を受けた後にそのまま飛行機で2時間、ジャワ島の西隣の西スマトラ州のパダン市に移動した。スマトラ島は日本よりも面積の大きい巨大な島で、12月7日に大きな地震があったばかりだったが、スマトラから離れたパダンは大きな混乱はないようであった。インドネシアにはさまざまな民族が暮らす。この地域に住むのはパダン人(ミナンカバウ人)という民族だ。辛い郷土料理が有名で、世界でもあまり類を見ない「母系社会」である。「母系社会」とは「ある一族の系統が父から息子にではなく、母から娘へと受け継がれていく社会」のことを言い、結婚するときに男性側が女性側の家に入ったり(日本で言うと婿養子のような形)、母親側の姓を受け継いだり、財産は娘が相続したりすることが一般的だそうだ。移動を終えるとすでに日が沈んでおり、この日は飛行場から宿舎へ移動するのみで終えた。

 インドネシアは総じて朝が早い。翌日は朝8時から、パダン市で行われた西スマトラ州のハンセン病啓発会合に参加した。会議の中心となるナスルール・アビッド西スマトラ州副知事や保健局長らは男性だが、他の参加者に女性の姿が多いことが印象的だった。通常、同様の会合では圧倒的に男性が多いのだが、これも母系社会ということが関係しているのだろうか。
さて、会合の中で興味深かったことは、州の保健局がバイクタクシーの運転手を教育して啓発活動に参加させていることである。様々な場所でハンセン病に関する知識を広め、モスク(イスラム教寺院)や婦人会でキャンペーンを行う活動を展開しているとのことである。インプットという、早期発見の活動や精神的なダメージから回復するためのアドバイスなどを行う回復者団体についての紹介もあった。

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啓発会合にてあいさつ


 会議場を後にし、次は最も新規患者数が多いパダン・パリアマン県に向かう。同県のエナム・リンクン保健所に到着すると、ハンセン病回復者や保健従事者ら約100人が我々の到着を待っていた。この時期のインドネシアは雨季だが、この日は快晴で、眩いくらいの青空だ。私は到着後早々にあいさつの機会をいただいた。「1人ではわずかなことしかできないかもしれない。しかし、束になれば大きなうねりとなる。回復者団体のペルマータやインプットと共に、権利や尊厳を主張していきましょう」と主にハンセン病回復者へ向けてメッセージを送った。

 この日、保健所では回復者たちによるセルフケア活動が行われていた。自分では後遺症で傷となった箇所が見えない場合もあるため、お互いの傷をチェックしあうというものだ。その中の男性の1人は、視力が低下し、指の後遺症が重かったが、手術をしたおかげで両方とも快方に向かっていると、嬉しそうに語ってくれた。手術の支援をしたのは、バスナスという財団だという。詳しく聞いてみると、同財団は住民の寄付機関で、国家公務員の2.5%を給料から天引きして集めたお金で運営されているとのこと。審査部があり、使途が明確であるために国民から信頼を得ている団体だという。西スマトラ州だけで500億ルピア(約5億円)の予算がある。大変素晴らしい制度で、日本でもこれを見習って寄付の文化を根付かせていただきたいものだ。

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手術をして指が伸びるようになったと喜ぶ男性


 この話しを聞いて、昼食をとったレストランの入り口には、教育、子ども、老人、災害などとジャンル分けされた寄付箱が何箱もあったことを思い出した。同国は日本よりもよっぽど寄付文化が進んでいるのかもしれない。

 翌日はジャカルタに戻り、WHOが主催する世界各国の専門家が集まった戦略報告会に出席した。報告会の内容は、2020年までの5年間でインドネシア全州のハンセン病とイチゴ腫を同時に発見して制圧するというものだ。様々な戦略を立てて病気を制圧しようという関係者たちの熱意に、私もハンセン病の病気を制圧するために必要であれば1年に何度でもこの地に戻ってくることを約束した。

 モエロ・エク保健大臣との面談では、大臣から「制圧未達成の12州に対し、コミュニティを巻き込むとともに、家族に着目したアプローチを行っている」との発言をいただく。それに対して私からは「ぜひペルマータという回復者団体と連携してハンセン病対策活動を推進していってもらいたい。20年までに州県レベルで制圧をするという高い目標をお手伝いしたく、来年は年に何度でもこの地に戻ってくる」と決意を伝えたところ、大臣は私と共に地方を回ることを約束してくれたのである。

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モエロエク保健大臣にハンセン病活動に対する更なる協力を要請


 ジャカルタに滞在している機会を利用して、インドネシアで最も大きいイスラム教の宗教団体の一つであるムハマディアの事務所を訪問し、副会長のマークス医師と面談した。同国は国民2億5,500万人(2015年)の約88%がイスラム教を信仰する世界最大のイスラム教国である。ムハマディアは学校教育を思想の柱としていることから、同国最大の私立学校ネットワークを持ち、幼稚園から大学まで含めた校数は1万以上あり、信者は約3,000万人いる。私は同教団の信者に対しハンセン病の正しい知識を広めていただくようお願いしたところ、マークス医師は快く協力を承諾してくれた。

 次の日はジャカルタを朝6時に出発し、西ジャワ州のスバン県に車で4時間かけて移動した。スバン県のハンセン病状況を把握するためである。この日もインドネシアの空は快晴で、青空と南国の青々とした木々のコントラストが美しい。しかし大渋滞の高速道路はクラクションが鳴り響き急ブレーキが掛かる。同行者の中には車酔いで気分が悪くなる者もいたが、私にとっては絶好の読書の時間でもある。インドネシアの渋滞の道路に私はすっかり慣れてしまった。

 景色を眺めながら、たまに読書をしていると、あっという間に人口10万人のスバン県に到着した。同県のハンセン病の状況についてはアフマドラ保健局長から説明を受けた。スバン県は西ジャワ州で特に患者の多い県で、医療従事者の不足と予防対策のための資金不足で患者発見活動が活発ではないとのことである。様々な苦労が見て取れるが、私からは激励の意味を込めて「世界の現場には、医者も、道具も、予算もないところが沢山ある。しかし、そういうところでも患者が激減している事例がある。もちろん経費はある程度は必要だが、一人一人が情熱を持って病気をなくすために努力をすれば、制圧することはできるはずである」と訴えた。

 私の到着に合わせて何人かのハンセン病回復者が集まってくれていた。その中のひとり、ユディさんという小柄な青年は、病気になって差別を受けたと感じたことはなかったが、自分に自信がなくなり、人と話すことが怖くなったという。徐々に自分の中の殻をやぶり、いまでは同じ病気の人のサポートをしているという。ユディさんのように殻をやぶって社会に戻れた人の話を聞けるとほっとするが、ハンセン病になった多くの人が自らを否定してしまうケースが少なくないのである。

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ユディ氏の自宅前にて


 最終日は6時にホテルを出発し、再びジャカルタを出て飛行機で1時間のジャワ島中部のソロに向かった。たまたま私の訪問と同じ時期に、ハンセン病回復者組織ペルマータの研修が行われていたので帰国の前に立ち寄ることにしたのである。私が到着した時は、3つの州にある27支部のリーダーたちが集まり、啓発、経済自立、教育などの活動について意見交換や報告を行っているところだった。若いリーダーが多く、活発な活動を行っているこの団体は、全インドネシアに3,000人の会員がいるという。私は「若く力強い団体に成長するところを見ることができとても嬉しい。1本の糸は弱いが10本の糸になれば強くなるように、みなさんの力を終結すれば大きな力になる」と激励した。

 世界で3番目にハンセン病患者の多いインドネシア。2020年に向けて州レベルでの病気の制圧を達成し、1人でも多くの人がハンセン病に対する正しい知識を持ち、偏見や差別のない社会を実現するために、私は各地を回って状況改善のために何度でもこの地に戻ってくることを硬く心に決めてインドネシアを後にした。

「ハンセン病制圧活動記」その40―インド チャティスガール州― [2017年03月13日(Mon)]
「ハンセン病制圧活動記」その40
―インド チャティスガール州―


1月30日、首都ニューデリーで列国議員同盟(加盟国166カ国)と日本財団は、ハンセン病の差別撤廃についての第12回グローバル・アピールを発表した。

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グローバルアピール2017宣言文読み上げ


列国議員同盟の会長はバングラディッシュのチョードリー国会議員で、同氏は100年続いたバングラディッシュに残るハンセン病差別法を撤廃した人でもある。モディ首相のビデオメッセージも戴き、近隣諸国やインドの国会議員も参加して、盛会裡に終了した。

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列国議会同盟のメンバーと回復者との意見交換


翌日、ハンセン病回復者の障害者年金制度の実現のため、チャティスガール州を訪れた。私は障害のあるハンセン病回復者が雇用の機会も無く、生きていくための最終決断として乞食をやらざるを得ない実態に心を痛め、乞食をゼロにするための活動を終生の仕事として活動している。そのためには、障害者年金をインド各州で制度化してもらうこと、既にある州では年金を増額してもらう活動も行っている。

過去には、交渉に不慣れなハンセン病回復者と共に各州の首相、保健大臣、社会福祉大臣と接渉して、ニューデリー特別区では500ルピーから1800ルピーへ、ビハール州では300ルピーから1800ルピーへ、ウッタルプラデッシュ(人口約1億8千万人)では3800ルピーの増額に成功した。しかし、回復者は今回訪問のチャティスガール州では5000ルピーを要求するという。内心大いに驚いたが、保健大臣、社会福祉大臣は回復者の話に耳を傾け、実現を約束してくれた。

ビハール州のように、月に2回も訪れたが、途中に選挙もあり、約束が実現するのに3年の月日を必要とした州もあったが、実現したことで多くの障害者の笑顔に出会えたことは、無上の喜びであった。ねばり強く、陳上が通るまで訪れるのが私の信念である。インド全州でハンセン病回復者の障害者年金実現のため、大いに汗をかいていきたいと思う。

私の訪問記事はチャティスガール州では新聞だけで20紙、ニューデリーでの「グロ−バル・アピール」の新聞報道を加えると40紙以上にもなり、テレビ、ラジオを加えるとハンセン病に対する啓蒙活動は大いに効果があったと思う。しかし、インドラ・ダラム・ダム・ハンセン病コロニーを訪れて驚愕した。何と!成人の全て、170人余りの全員が乞食で生計を立てていると報告を受けたのである。多くのコロニーを視察してきたが、このような情況は初めての経験で、一瞬、何とも言えぬ悲しみと深い落胆に体が硬直してしまった。

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このコロニーの住民全てが物乞いで生計を立てていると聞いて・・・


インド笹川ハンセン病財団が30〜50万円の小額融資を開始して10年。多様な商売で彼らの自立の道を探り、子供たちには奨学金で高等教育への道も開いているのにと考えたときに、私の力量不足を実感すると共に、新たな闘志が沸いてきた。

ダライ・ラマ師から「笹川さん、乞食をゼロにすることは難しいよ!!」と言われたが、「活動してみなければ何事も始まりません。生涯の仕事として取り組みます」と返事をした。その後、ダライ・ラマ師はハンセン病回復者の子弟の高等教育の機会をと印税を寄付して下さり、ダライ・ラマ奨学金も開始され、既に2年間で29人が高等教育の機会を得ている。いづれ、これらの若者がハンセン病回復者とその家族への差別撤廃活動の若き指導者として活動する日を夢見て、来月もオリッサ州で活動する予定である。

有難いことに、インド笹川ハンセン病財団の理事長に、長くCII(日本の経団連
のような組織)の名専務理事として活躍され、政界、経済界はもとより、インドに幅広い人脈のあるタルン・ダス氏が就任してくださった。これからのインドでの活動は、個人活動からダス理事長の人脈の協力を得て効率的な活動が展開出来るようになるので、私の夢であるハンセン病回復者の乞食ゼロ活動も、夢ではなくなる可能性が出てきた。いよいよ夢の実現に情熱が迸(ほとばし)ってきた。

*日本では『乞食』は差別語ですが、インドで『物もらい』では実感が出ませんので、あえて英語の『beggar』を訳しました。
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