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日本財団会長 笹川陽平ブログ

写真:ハンセン病の現場から「アフリカ・ピグミー族」

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「ハンセン病制圧活動記」その42―インド訪問― [2017年08月02日(Wed)]
「ハンセン病制圧活動記」その42
―インド訪問―


長島愛生園機関誌『愛生』
2017年5・6月号

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平


 2017年1月28日から2月5日にかけて、インドの首都デリーと中東部のチャティスガル州を訪ねた。今回の訪問は、毎年1月最終日曜日の「世界ハンセン病の日」に合わせ「ハンセン病に対するスティグマ(社会的烙印)と差別をなくすために」と題した「グローバル・アピール2017」(宣言文)をデリーで発表することと、ハンセン病患者数が特に多いチャティスガル州のコロニーに住む回復者と家族の環境を改善するよう州政府に要請するのが主な目的だった。私のハンセン病活動でのインド訪問は40回を超える。

 2016年度の世界保健機関(WHO)発表によると、インドの人口は13億1105万人。中国13億8392万人に次ぎ世界第2位であるがまもなく世界一の人口になるであろう。多様な民族構成でも知られ近年目覚しい経済成長を遂げ、「ボリウッド」と呼ばれるインド映画業界は、世界一の制作本数を誇っている。ITや自動車産業で有名なタタグループをはじめ、インド企業も好調だ。しかし、そうした経済発展の恩恵を受けている人はまだごく一部で、地方に行けば路上生活者を街中で見掛けることも珍しくない。

 インドの2016年の新規患者数は12万7326人と世界で一番多い。WHOが定義する「制圧」基準、人口1万人当たり患者数1人未満の基準は05年に達成しているが、州レベルでは29州のうち6州が未達成で、ここ数年は患者の数が横ばい状態である。また、地方分権化が進んでいるため、中央政府だけではなく、地方自治体の首長の理解が特に重要になってきた。

 1月30日に「グローバル・アピール2017」を発表した。このアピールはハンセン病の差別をなくすために2006年から続けている。世界中の政治・宗教指導者、それに世界医師会や看護師協会などの賛同を得て毎年発表してきており、今回で12回目となる。今年は、世界171カ国の議会が加盟する列国議会同盟(IPU)との共同宣言として発信した。IPUは各国の超党派の議員が参加しており1889年6月,パリで設立された権威ある団体である。
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グローバル・アピール2017の宣言文を読み上げる


 式典のあいさつでIPUのチョウドリー会長は、自国のバングラデシュで100年続いた差別法の廃止に尽力した経験を基に「笹川氏はモーターバイクの前輪は病気を制圧すること、後輪は偏見や差別を撤廃することと説明したが、それを動かすにはエンジンが必要だ。議会はそのエンジンとなれるのである」ハンセン病の差別法を作ったのも、撤廃するのも、ハンセン病対策のための予算を配分するのも議員。議会は差別法廃止だけではなく、立法、政策起案、予算獲得、政策の実施の権限がある。ハンセン病のない世界、差別のない世の中をつくることが議員の役割。それこそがIPUの精神だ」と力強く語った。

 モディ首相からはビデオメッセージが届いた。「インドの父であるガンジーは人々が尊厳を持って生きていくことが重要だと説き、ハンセン病を撲滅することが夢だった。夢の達成まで最後の1マイルにまで迫っているが、そのためには皆さんの経済的、政治的努力が必要だ」と呼び掛けた。

 私は「インドでは議員が立ち上がり、国会議員連盟をつくり、現在は50人の議員が加盟している。IPUの皆様と共に発信するグローバル・アピールを通じて差別法撤廃の活動に弾みがつくとともに、他の国にも波及することを期待している。ハンセン病制圧までの最後の1マイルを、各国政府、国際機関、そして何よりも患者、回復者の皆様と共に一歩一歩前進していきたいと思う」と訴えた。

 会場には全インドハンセン病回復者協会(APAL)ナルサッパ会長を初め、回復者、アジア諸国およびインドの国会議員、支援団体、報道関係者など300人ほどが集まった。APALはハンセン病回復者の全国組織で、設立準備から今日まで日本財団が財政支援を行っている。インド全域の回復者をネットワーク化し、自分たちの権利や社会制度などに関する知識を身につけ、コロニーの環境改善や生活向上のために、回復者自らが中央政府や州政府、地方自治体の役人側と交渉を行うための手助けも行っている。

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多くの回復者が出席


 式典の後、チャティスガル州へ向かった。州都のライプールはデリーより暖かく、昼は汗ばむほどだった。同州には34ヶ所のコロニーに2500人の回復者が生活し、2016年の新規患者数は1万人あたり3.31人と多い。州保健大臣のチャンドラカー氏との面談ではAPALの同州リーダーのボイさんを大臣に紹介した。ボイさんは「回復者の特別補助金をお願いしたい」と大臣に直接訴えた。熱のこもった訴えに大臣は「省庁を超えた調整委員会を作り、ハンセン病の問題を多角的にとらえる努力をする」と約束してくれた。

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右から保健大臣、ボイさん、筆者


 次に訪れたマハサムンド県の中央医療局では、インド建国の父マハトマ・ガンジーが中央に、隣にはモディ首相の写真が飾られてあり、保健担当官、医療従事者から、この地域の状況説明を受けた後、最近2人がハンセン病と診断されたということで、車で30分ほどのカッティ村を訪れた。

 診断された患者の1人は幹線道路沿いに住む30歳の女性、もう一人は鮮やかなエメラルドの家に住む、体の細い中年の男性だった。2人を発見したのは「ミタニン」という地域のボランティア。ハンセン病を1人見つけるごとに政府から250ルピー(約500円)が支払われ、患者が完治するとさらに手当てが出るという、インドだけではなく世界でも珍しい仕組みで新規患者の発見に努力していることがわかった。

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診断された男性のお宅を訪問


 午後、新患率が最も高いピトラ郡のメムラ村にも2人が病気とわかり、2時間かけて会いに行った。気温は30度を超え、強い日差しが肌を突き刺し、顔がピリピリするほどであった。主に稲作で生計を立てており人口1955人のこぢんまりとした静かな村だった。患者は80歳、50歳で、いずれも男性だった。2人とも腕に斑紋があった。村にはミタニン2人がいて、1人のミタニンは、これまで村全体370軒の約半分、175軒を探し4人を見つけたという。

 なぜ人口2000人足らずの村で、80歳のおじいさんの病気が今まで見つからなかったのだろうか。汚れた病気との思いから家族が隠していたのか、不思議なことである。いずれにしてもハンセン病の正しい知識を広める努力がまだまだ必要だと痛感した。

 夕刻には、州都のライプール市内のインドラ・ダラム・ダムハンセン病コロニーに到着した。幹線道路と鉄道が近いせいか、騒音が激しくレンガ造りの壁に今にも落ちてきそうなボロボロの瓦屋根の家が連なり、蚊やハエが飛び交う不衛生極まりない都市型のコロニーである。

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インドラ・ダラム・ダムハンセン病コロニーを訪問

 このコロニーで暮らしている州リーダーのボイさんよると、ここでは50世帯170人が生活している。そのうち80人が回復者ですべてが物乞いをして生計を立てているという。政府からの立退き要求もありボイさんをリーダーとして行政への陳述を繰り返しているという。コロニーに住む子どもたちは、学校に行ってもいじめられるなどの差別を受けていたが、このボイさんが近隣の学校の校長になってから、差別を受けることがなくなったという。

 ボイさんはかつて声が小さく頼りない印象だったが、今回保健大臣、社会福祉大臣との面談の時には声も大きく、問題点を強く主張している姿に州リーダーとしての自覚と責任感が身についたことに私は、内心嬉しい気持ちを抑え切れなかった。社会福祉大臣からは「他の州と同様に年金を値上げできるよう、また回復者が生活するコロニーの環境改善のために、積極的に今後取り組む」という発言があり、面談は大成功に終わった。

 気を良くしたボイさんは面談ごとに自信をつけ、自分のコロニーに戻った時には多くの人前で「社会福祉大臣からできる限りのことをするという約束をもらった。これで弾みをつけて皆さん共に立ち上がろう」と力強く演説をした。彼の成長を間近で見ることができ、今後は頼りになるリーダーとして活動を続けてくれるだろうと確信した。

 活動の最終日、51社のメディアが出席した記者会見を行った。私は「この州はミタニンという新しい組織をつくり、1軒1軒自宅を訪問し2500人を超える新規患者を発見する成果を挙げている。今一度、メディアにお願いしたい。ハンセン病は治る病気、薬を飲めば治り、早期発見、早期治療で障害が防げる。これらを市民が理解してもらえるように協力をしてほしい」と要請した。このようなメッセージを含んだ記事が、新聞、テレビ、ラジオなどを通じ100件以上が報道された。

 チャティスガル州では、州リーダーが直接、保健大臣と社会福祉大臣に会って要望を伝え、前向きな協力の言葉を得ることができた。これは回復者組織が州大臣に意見を伝えられるほど影響力を持つようになったということだ。しかしコロニーの人々の生活向上のための約束を政府がすぐに実行に移すとは限らない。私の夢であるインドからハンセン病患者や回復者の物乞いを無くすためにも、何度でもこの国を訪れる覚悟だ。

「ハンセン病制圧活動記」その41―エクアドル共和国のハンセン病施設を訪ねて― [2017年06月02日(Fri)]
「ハンセン病制圧活動記」その41
―エクアドル共和国のハンセン病施設を訪ねて―


星塚敬愛園機関誌『姶良野』
2017年陽春号

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平


 2016年10月中旬に南米エクアドル共和国を訪問した。エクアドルは、首都のキトに、地球を二分する赤道が通っていることから文字通りスペイン語で赤道「エクアドル(Ecuador)」が国名の由来となる。カカオやコーヒーの名産地であり、豊富な鉱物や石油などの資源を持つ国である。

 我々が訪問した時期は乾季で、日中に照り付ける太陽は非常に強く暑いが、朝晩は気温が10度前後まで冷え込む。そして注意が必要なのが高山病である。キトは標高が2800mと高地にあるため、頭痛、吐き気、息切れなど、特に若者に症状が出やすい。若い同行者は高山病予防の薬を服用していた。

 さて、今回の同国訪問の主な目的は、人間居住に関わる課題解決を話し合う第3回国連人間居住会議(ハビタット3)に出席するためだった。日本財団は、障害者も健常者も差別なく共に生活ができるインクルーシブなコミュニティーを作っていくことを大きな目標のひとつとして揚げている。そのため、障害者の視点を盛り込んだ課題の解決方法を提案する機会をこの会議で得たのである。

 私は、各国訪問の主要目的がハンセン病と関わりがなくても、その地にハンセン病に関連する施設や、関係者がいれば、ほぼ必ずと言っていいほど足を運ぶことにしている。今回も国連会議に出席した後に100年近い歴史を持つハンセン病の施設を訪問する機会を得た。ゴンザロ・ゴンザレス病院(Hospital Gonzalo Gonzalez)である。病院内にハンセン病回復者の居住区があり、現在も20名の回復者が住むという。

 首都キトにあるゴンザロ・ゴンザレス病院は、インターネットの地図で調べるとキト市の中心地にある我々の宿泊ホテルから車でわずか10分とのこと。世界中にあるハンセン病施設は、隔離を目的とするために郊外に作られることが多い。市街地に施設があるのかと、少し意外に思いながら車で宿泊ホテルを出発する。すると、確かに病院まではものの10分で到着した。しかし、街自体が小さいために、中心地から坂道をいくつか越えるとあっというまに街外れに到達するのである。ゴンザロ・ゴンザレス病院はそんな街外れにあった。

 病院の入り口には頑丈な鉄格子の門があり、周りは塀で囲まれている。やはりこの地でも、ハンセン病施設は町から隔離することを目的として作られたことがわかるのである。

 WHOアメリカ事務局のジナ代表と病院のディレクターからの説明によると、ゴンザロ・ゴンザレス病院は時代と共にハンセン病の患者数が減り、現在はハンセン病専門病院ではなく、麻薬中毒患者やアルコール中毒患者の入院施設も併設されているという。

 同病院のハンセン病専門病院としての始まりは、1929年に遡る。1920年代までは日本と同じく、ハンセン病とわかると警察が強制的に隔離できる政策があり、多くのハンセン病患者が病院に隔離されたという。

 2009年に政府が23戸の住宅を病院敷地内に建設。現在はハンセン病の回復者20名がその住宅で暮らしている。平均年齢は65歳で、最高齢は84歳とのことだ。ハンセン病患者のための入院施設は80床あるがほとんど使用されていない。 
                      
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病院敷地内にある居住施設


 病院の敷地内には昔のままのバロック式の建物が残り、劇場の跡地もある。かつては多くのハンセン病患者たちの唯一の娯楽だったのではないか、と想いを馳せながら病院の敷地内を歩く。

 回復者のリーダー的存在であるヨランダ・トロさんの自宅を見せてもらった。25年間ここに住み、縫い物や籠を作ることが好きだという。とても清潔な部屋で、あちこちに作品が飾られていた。トロさんはペルー南部の出身で、父親もハンセン病だった。30歳の時に入所して、早期に治療を始めたために後遺症はほとんどない。しかし、入所する前に離婚してから家族とは一切連絡は取っていないという。

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作品を見せてくれたトロさん


 そのあと、入所者のみなさんが我々を歓迎するために集まった会場に案内され、意見交換をする時間を得た。入所者からの話しを聞いてみると、今の一番の関心事は病院側と入所者の意見の相違のようである。政府はハンセン病制圧のステップという位置づけとして、ハンセン病回復者数の減少に伴い一般病院として再建したい。しかし入所者たちはそのことによって住む場所がなくなるのではないかという不安を持っていた。当然である。強制的に隔離された上に、また強制的に追い出されるのではないかという彼らの不安はいかほどのものか、考えただけでも心が痛む。

 私からは「ハンセン病に対する偏見はなくなっていない。全ての人は国民としての権利がある。未来を豊かに暮らすことを一緒に考えていきましょう」と激励した。

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入所者の一人一人と挨拶を交わす


 最後に「自分たちのことを覚えておいて欲しい、ハンセン病は終わっていないのです」と、古い雑誌を入所者の一人から手渡された。これは、全国のハンセン病患者向けの雑誌で、第一号は1961年に発行されている。病気についてや、恋愛についての情報、ポエムや亡くなった方へのお悔やみなど、日々の暮らしに関係することが書かれている。発行したのはゴンザロ・ゴンザレス病院で、書いているのはハンセン病患者と彼らをサポートする婦人協会である。50年以上も前にこのような雑誌を発行していたことに驚くと同時に、さぞ入所者の人々の心の支えになっていたことだろう。
    
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病院が発行していた雑誌を手渡される

 
 ハンセン病回復者の方々に会って、話しを聞いて、いつも考える。なぜ何千という病気がある中でハンセン病だけが社会的差別が根強いのか。当然、社会の側の責任は大きい。もっと各国政府に関心を持って欲しいとも思う。そのために私は活動を続けているのだが、いつの日か障害者と健常者が差別なく暮らしていける社会が実現すれば、ハンセン病療養所という社会から隔たれた中で生きてきた人々にも扉が開かれると信じている。

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入所者のみなさんと



「ハンセン病制圧活動記」その40―患者数が世界3番目のインドネシアを訪問− [2017年05月31日(Wed)]
「ハンセン病制圧活動記」その40
―患者数が世界3番目のインドネシアを訪問−


巴久光明園機関誌『楓』
2017年3月4日号

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平


 2016年12月12日から18日にかけて、インドネシアの首都ジャカルタ、西スマトラ州の州都パダン市、ジャワ島のスバン県、古都スラカルタ市(ソロ)を訪問した。インドネシアを訪問するのは今年2回目で合計すると16回目となる。

 インドネシアは2000年に世界保健機関(WHO)の制圧目標(人口1万人に1人未満になること)は達成したが、新規の患者数は毎年16,000〜19,000人の間を推移している。この数はインド、ブラジルに次いで世界3番目で、東南アジア諸国連合(ASEAN)の中では突出して多い。また、国レベルでの制圧は達成されたものの、ここ数年は患者数が減ることはなく、州ごとに見ると全34州のうち12州が制圧の数字を達成していない蔓延地域である。その理由は、アクセスが悪い島々に分散している州が多いことと、地方分権が進んでいることから、地方自治体ごとの首長の理解を得る必要があるためで、医療活動が思うように進まないのである。

 本格的な活動に入る前に、まずジャカルタにあるWHO事務所を訪問し、現状報告を受けた。HOの事務所には、ジハネ・タウィラWHOインドネシア代表を始め保健省の担当官も集まっていた。私はハンセン病担当官のリタ氏に政府の今年度のハンセン病対策予算について質問したところ、地方行政に任されており、正確なハンセン病の予算はわからないとのことであった。地方へ出張に行く予算をとることも難しいという。来年度は予算を必要なことに使ってもらうため各州の知事に会いに行きたいと申し出たところ、是非お願いしたいとのことであった。

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WHO代表のタウィ氏


 WHOでの報告を受けた後にそのまま飛行機で2時間、ジャワ島の西隣の西スマトラ州のパダン市に移動した。スマトラ島は日本よりも面積の大きい巨大な島で、12月7日に大きな地震があったばかりだったが、スマトラから離れたパダンは大きな混乱はないようであった。インドネシアにはさまざまな民族が暮らす。この地域に住むのはパダン人(ミナンカバウ人)という民族だ。辛い郷土料理が有名で、世界でもあまり類を見ない「母系社会」である。「母系社会」とは「ある一族の系統が父から息子にではなく、母から娘へと受け継がれていく社会」のことを言い、結婚するときに男性側が女性側の家に入ったり(日本で言うと婿養子のような形)、母親側の姓を受け継いだり、財産は娘が相続したりすることが一般的だそうだ。移動を終えるとすでに日が沈んでおり、この日は飛行場から宿舎へ移動するのみで終えた。

 インドネシアは総じて朝が早い。翌日は朝8時から、パダン市で行われた西スマトラ州のハンセン病啓発会合に参加した。会議の中心となるナスルール・アビッド西スマトラ州副知事や保健局長らは男性だが、他の参加者に女性の姿が多いことが印象的だった。通常、同様の会合では圧倒的に男性が多いのだが、これも母系社会ということが関係しているのだろうか。
さて、会合の中で興味深かったことは、州の保健局がバイクタクシーの運転手を教育して啓発活動に参加させていることである。様々な場所でハンセン病に関する知識を広め、モスク(イスラム教寺院)や婦人会でキャンペーンを行う活動を展開しているとのことである。インプットという、早期発見の活動や精神的なダメージから回復するためのアドバイスなどを行う回復者団体についての紹介もあった。

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啓発会合にてあいさつ


 会議場を後にし、次は最も新規患者数が多いパダン・パリアマン県に向かう。同県のエナム・リンクン保健所に到着すると、ハンセン病回復者や保健従事者ら約100人が我々の到着を待っていた。この時期のインドネシアは雨季だが、この日は快晴で、眩いくらいの青空だ。私は到着後早々にあいさつの機会をいただいた。「1人ではわずかなことしかできないかもしれない。しかし、束になれば大きなうねりとなる。回復者団体のペルマータやインプットと共に、権利や尊厳を主張していきましょう」と主にハンセン病回復者へ向けてメッセージを送った。

 この日、保健所では回復者たちによるセルフケア活動が行われていた。自分では後遺症で傷となった箇所が見えない場合もあるため、お互いの傷をチェックしあうというものだ。その中の男性の1人は、視力が低下し、指の後遺症が重かったが、手術をしたおかげで両方とも快方に向かっていると、嬉しそうに語ってくれた。手術の支援をしたのは、バスナスという財団だという。詳しく聞いてみると、同財団は住民の寄付機関で、国家公務員の2.5%を給料から天引きして集めたお金で運営されているとのこと。審査部があり、使途が明確であるために国民から信頼を得ている団体だという。西スマトラ州だけで500億ルピア(約5億円)の予算がある。大変素晴らしい制度で、日本でもこれを見習って寄付の文化を根付かせていただきたいものだ。

B手術をして指が伸びるようになったと喜ぶ男性.JPG
手術をして指が伸びるようになったと喜ぶ男性


 この話しを聞いて、昼食をとったレストランの入り口には、教育、子ども、老人、災害などとジャンル分けされた寄付箱が何箱もあったことを思い出した。同国は日本よりもよっぽど寄付文化が進んでいるのかもしれない。

 翌日はジャカルタに戻り、WHOが主催する世界各国の専門家が集まった戦略報告会に出席した。報告会の内容は、2020年までの5年間でインドネシア全州のハンセン病とイチゴ腫を同時に発見して制圧するというものだ。様々な戦略を立てて病気を制圧しようという関係者たちの熱意に、私もハンセン病の病気を制圧するために必要であれば1年に何度でもこの地に戻ってくることを約束した。

 モエロ・エク保健大臣との面談では、大臣から「制圧未達成の12州に対し、コミュニティを巻き込むとともに、家族に着目したアプローチを行っている」との発言をいただく。それに対して私からは「ぜひペルマータという回復者団体と連携してハンセン病対策活動を推進していってもらいたい。20年までに州県レベルで制圧をするという高い目標をお手伝いしたく、来年は年に何度でもこの地に戻ってくる」と決意を伝えたところ、大臣は私と共に地方を回ることを約束してくれたのである。

Cモエロエク保健大臣にハンセン病活動に対する更なる協力を要請.JPG
モエロエク保健大臣にハンセン病活動に対する更なる協力を要請


 ジャカルタに滞在している機会を利用して、インドネシアで最も大きいイスラム教の宗教団体の一つであるムハマディアの事務所を訪問し、副会長のマークス医師と面談した。同国は国民2億5,500万人(2015年)の約88%がイスラム教を信仰する世界最大のイスラム教国である。ムハマディアは学校教育を思想の柱としていることから、同国最大の私立学校ネットワークを持ち、幼稚園から大学まで含めた校数は1万以上あり、信者は約3,000万人いる。私は同教団の信者に対しハンセン病の正しい知識を広めていただくようお願いしたところ、マークス医師は快く協力を承諾してくれた。

 次の日はジャカルタを朝6時に出発し、西ジャワ州のスバン県に車で4時間かけて移動した。スバン県のハンセン病状況を把握するためである。この日もインドネシアの空は快晴で、青空と南国の青々とした木々のコントラストが美しい。しかし大渋滞の高速道路はクラクションが鳴り響き急ブレーキが掛かる。同行者の中には車酔いで気分が悪くなる者もいたが、私にとっては絶好の読書の時間でもある。インドネシアの渋滞の道路に私はすっかり慣れてしまった。

 景色を眺めながら、たまに読書をしていると、あっという間に人口10万人のスバン県に到着した。同県のハンセン病の状況についてはアフマドラ保健局長から説明を受けた。スバン県は西ジャワ州で特に患者の多い県で、医療従事者の不足と予防対策のための資金不足で患者発見活動が活発ではないとのことである。様々な苦労が見て取れるが、私からは激励の意味を込めて「世界の現場には、医者も、道具も、予算もないところが沢山ある。しかし、そういうところでも患者が激減している事例がある。もちろん経費はある程度は必要だが、一人一人が情熱を持って病気をなくすために努力をすれば、制圧することはできるはずである」と訴えた。

 私の到着に合わせて何人かのハンセン病回復者が集まってくれていた。その中のひとり、ユディさんという小柄な青年は、病気になって差別を受けたと感じたことはなかったが、自分に自信がなくなり、人と話すことが怖くなったという。徐々に自分の中の殻をやぶり、いまでは同じ病気の人のサポートをしているという。ユディさんのように殻をやぶって社会に戻れた人の話を聞けるとほっとするが、ハンセン病になった多くの人が自らを否定してしまうケースが少なくないのである。

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ユディ氏の自宅前にて


 最終日は6時にホテルを出発し、再びジャカルタを出て飛行機で1時間のジャワ島中部のソロに向かった。たまたま私の訪問と同じ時期に、ハンセン病回復者組織ペルマータの研修が行われていたので帰国の前に立ち寄ることにしたのである。私が到着した時は、3つの州にある27支部のリーダーたちが集まり、啓発、経済自立、教育などの活動について意見交換や報告を行っているところだった。若いリーダーが多く、活発な活動を行っているこの団体は、全インドネシアに3,000人の会員がいるという。私は「若く力強い団体に成長するところを見ることができとても嬉しい。1本の糸は弱いが10本の糸になれば強くなるように、みなさんの力を終結すれば大きな力になる」と激励した。

 世界で3番目にハンセン病患者の多いインドネシア。2020年に向けて州レベルでの病気の制圧を達成し、1人でも多くの人がハンセン病に対する正しい知識を持ち、偏見や差別のない社会を実現するために、私は各地を回って状況改善のために何度でもこの地に戻ってくることを硬く心に決めてインドネシアを後にした。

「ハンセン病制圧活動記」その40―インド チャティスガール州― [2017年03月13日(Mon)]
「ハンセン病制圧活動記」その40
―インド チャティスガール州―


1月30日、首都ニューデリーで列国議員同盟(加盟国166カ国)と日本財団は、ハンセン病の差別撤廃についての第12回グローバル・アピールを発表した。

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グローバルアピール2017宣言文読み上げ


列国議員同盟の会長はバングラディッシュのチョードリー国会議員で、同氏は100年続いたバングラディッシュに残るハンセン病差別法を撤廃した人でもある。モディ首相のビデオメッセージも戴き、近隣諸国やインドの国会議員も参加して、盛会裡に終了した。

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列国議会同盟のメンバーと回復者との意見交換


翌日、ハンセン病回復者の障害者年金制度の実現のため、チャティスガール州を訪れた。私は障害のあるハンセン病回復者が雇用の機会も無く、生きていくための最終決断として乞食をやらざるを得ない実態に心を痛め、乞食をゼロにするための活動を終生の仕事として活動している。そのためには、障害者年金をインド各州で制度化してもらうこと、既にある州では年金を増額してもらう活動も行っている。

過去には、交渉に不慣れなハンセン病回復者と共に各州の首相、保健大臣、社会福祉大臣と接渉して、ニューデリー特別区では500ルピーから1800ルピーへ、ビハール州では300ルピーから1800ルピーへ、ウッタルプラデッシュ(人口約1億8千万人)では3800ルピーの増額に成功した。しかし、回復者は今回訪問のチャティスガール州では5000ルピーを要求するという。内心大いに驚いたが、保健大臣、社会福祉大臣は回復者の話に耳を傾け、実現を約束してくれた。

ビハール州のように、月に2回も訪れたが、途中に選挙もあり、約束が実現するのに3年の月日を必要とした州もあったが、実現したことで多くの障害者の笑顔に出会えたことは、無上の喜びであった。ねばり強く、陳上が通るまで訪れるのが私の信念である。インド全州でハンセン病回復者の障害者年金実現のため、大いに汗をかいていきたいと思う。

私の訪問記事はチャティスガール州では新聞だけで20紙、ニューデリーでの「グロ−バル・アピール」の新聞報道を加えると40紙以上にもなり、テレビ、ラジオを加えるとハンセン病に対する啓蒙活動は大いに効果があったと思う。しかし、インドラ・ダラム・ダム・ハンセン病コロニーを訪れて驚愕した。何と!成人の全て、170人余りの全員が乞食で生計を立てていると報告を受けたのである。多くのコロニーを視察してきたが、このような情況は初めての経験で、一瞬、何とも言えぬ悲しみと深い落胆に体が硬直してしまった。

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このコロニーの住民全てが物乞いで生計を立てていると聞いて・・・


インド笹川ハンセン病財団が30〜50万円の小額融資を開始して10年。多様な商売で彼らの自立の道を探り、子供たちには奨学金で高等教育への道も開いているのにと考えたときに、私の力量不足を実感すると共に、新たな闘志が沸いてきた。

ダライ・ラマ師から「笹川さん、乞食をゼロにすることは難しいよ!!」と言われたが、「活動してみなければ何事も始まりません。生涯の仕事として取り組みます」と返事をした。その後、ダライ・ラマ師はハンセン病回復者の子弟の高等教育の機会をと印税を寄付して下さり、ダライ・ラマ奨学金も開始され、既に2年間で29人が高等教育の機会を得ている。いづれ、これらの若者がハンセン病回復者とその家族への差別撤廃活動の若き指導者として活動する日を夢見て、来月もオリッサ州で活動する予定である。

有難いことに、インド笹川ハンセン病財団の理事長に、長くCII(日本の経団連
のような組織)の名専務理事として活躍され、政界、経済界はもとより、インドに幅広い人脈のあるタルン・ダス氏が就任してくださった。これからのインドでの活動は、個人活動からダス理事長の人脈の協力を得て効率的な活動が展開出来るようになるので、私の夢であるハンセン病回復者の乞食ゼロ活動も、夢ではなくなる可能性が出てきた。いよいよ夢の実現に情熱が迸(ほとばし)ってきた。

*日本では『乞食』は差別語ですが、インドで『物もらい』では実感が出ませんので、あえて英語の『beggar』を訳しました。
「ハンセン病制圧活動記」その39―カメルーン その1― [2016年12月14日(Wed)]
「ハンセン病制圧活動記」その39
―カメルーン その1−


ハンセン病制圧活動で、アフリカには過去65回、27ヵ国を訪問している。その中でもガーナには8回、エチオピア6回、コンゴ民主共和国5回、モザンビークは5回訪問している。今回のカメルーンは初めての訪問で、28番目の国となった。

かつて、コンゴ民主共和国の奥地で生活するピグミーのハンセン病実態調査に訪れたことがある。あらゆる感染病が存在する地域で、ジャングルの中の仮設の広場への軽飛行機の離発着には、パイロットのお祈りから始まり、まさに命がけの旅であったことは今も懐かしい思い出である。

ピグミーとは、身長が低い(平均1.5メートル未満)の特徴を持つアフリカの赤道付近の熱帯雨林に住む狩猟採集民族の総称で、民族名はコンゴ民主共和国のムブティ、エフェ、トゥワ、中央アフリカ共和国のアカヤ、今回訪問したカメルーンのバカ族などで、一般的に他の黒人ほど肌の色は濃くないが、男性の体は筋肉質で胴は長くて太く、腕は長く足は短いが精悍な顔つきである。

カメルーンはチャド、中央アフリカ、ナイジェリア、赤道ギニア、ガボン、コンゴ民主共和国と国境を接している。アフリカ諸国の中では最も多様な民族で構成されており、およそ250の部族が居住している。

私の目指すバカ族の居住地には、パリ経由、カメルーンの首都ヤウンデから東部州の州都ベルトゥアまで車で6時間。ベルトゥアからさらに車で1時間ほど走ってやっとバカ族に邂逅(かいこう)した。

バカ族は、かつてはジャングルの中にキャンプを作り移動性の高い生活を送っていたが、フランス植民地政府やキリスト教ミッションによって定住化が促され、プランテンバナナ、カカオ、キャッサバ等の農耕方法を身につけ、街道沿いに小さな集落を作って生活する者も増えてきた。

街道沿いで生活するバカ族は、我々を歌と踊りで歓迎してくれたが、その中に3人ほどのハンセン病患者がいることがわかった。しかし、彼らは乾季にはほとんどが森に入り、数ヶ月にわたって定住村から数キロあるいは数十キロ離れた場所で狩猟、漁撈(ぎょろう)で昔ながらの生活をしているため、治療には困難を伴う。彼らは余り弓矢で猟は行わず、跳び罠で小動物を捕獲して生活しているようだ。しかし古老の一人は「象を倒したものは英雄として尊敬されている。私はその一人だ」と、胸をたたいて誇らしげに話してくれた。

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歓迎の踊りには踊りでお返し


長靴と杖を頼りに、人跡未踏といわれるバカ族が居住する深いジャングルに足を踏み入れた。先導者に導かれ、高木の広葉樹にさえぎられ日の光が入らない薄暗い道なき道を歩き続けた。静謐な深い森の中では、時々鳥の甲高い短い鳴き声が聞こえるだけである。蜘蛛の糸や顔にかかる小枝や葉っぱを避けながら歩くと、日の光が差し込んでいる小さな広場に出た。そこは4つの粗末な藁葺き小屋が建つ2グループ、23人が生活するバカ族の居住地であった。

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道なき道を歩き続けて


グループの長は彼らを我々に紹介しながら「食事が準備されているから食べろと」と、即席のテーブルに案内してくれた。「獣が捕れなくて今日は魚だけだけど美味しいよ」と、ナマズらしい魚の入ったスープを笹の葉で作ったスプーンで飲んだ。塩と唐辛子だけのナマズのスープはなかなかの味で、キャッサバもプランテンバナナ、そしてタロイモも野性味豊かでいい味だった。しかし、給仕してくれる女性の手の不潔さには少々閉口した。

我々の食事が一段落したところで、周りで待っていた大人たちがワッとテーブルに集まり、瞬く間に食べ物がなくなった。待っていた子どもたちは、ほんのわずかの食べ物にあるつけただけであった。食べ物は大人から先に食べるようである。飢餓の場合、子どもだけ生き残っても親が死んだら生きていけないが、例え子どもが死んでも大人には生殖能力があり次の子孫を作ることができるのでこのような習慣になっているようである。

ところで、23人のうちハンセン病回復者は3人おり、アルビノと呼ばれる俗に「白子」と呼ばれる先天性白皮症の人が3人いた。彼らは遠巻きに我々の行動を見ていたが、決して傍には近寄らず、明らかに差別のあることを直感した。小声で「今までいじめられたことはないですか?」と聞くと、「嫌というほどあるので、もうしゃべりたくありません」と冷たく答えた。「3人はどうしてこの病気になったと思いますか?」と聞くと、若い男性が「神様の罰か悪魔の祟りだ」と大声で答えた。このような奥深い森の中で、しかも23人という小さな集団の中にも偏見や差別があることに愕然とした。しかし、アルビノについては、差別はあるもののそれほど深刻な状態ではなかった。アルビノがカメルーンにも結構多く見られたのは新たな発見であった。

アルビノについては、ケニアでは深刻な状況で、アルビノの人の手や足の骨がお守りになると信じられ、多くの人が殺人の対象となっており、保護施設まで建設され、世界の注目を集めている。日本財団でも何らかの支援策はないか、検討しているところである。

小さな島、大森林地帯、砂漠の中、人が住む全ての場所でハンセン病への差別、いや、あらゆる問題で人間が人間を差別するいわば人間の業は、どうしたら解決できるのであろうか。

「インドネシアでハンセン病制活動」 [2016年12月12日(Mon)]
「インドネシアでハンセン病制活動」


12月12日〜18日まで、インドネシアで活動します。

インドネシアのハンセン病患者は、インド、ブラジルに次いで、世界三番目です。

今回はジャカルタで保健大臣、WHOの責任者と打合せの上、国内飛行機の移動で、スマトラ島のパタン、ジャワ島のソロなどで活動します。



「ハンセン病制圧活動記」その38―バチカンでのハンセン病国際シンポジウム― [2016年12月02日(Fri)]
「ハンセン病制圧活動記」その38
―バチカンでのハンセン病国際シンポジウム―


松丘保養園機関誌『甲田の裾』
2016年3号

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平


 6月7日から6月13日までバチカン市国を訪れました。今回の目的はハンセン病の国際シンポジウムに参加するためです。「ハンセン病患者・回復者の尊厳の尊重と総合的なケアに向けて」と題した本シンポジウムは、ローマ教皇庁保健従事者評議会、善きサマリア人財団と日本財団が主催で開催しました。キリスト教の総本山であるバチカン市国で、世界中のハンセン病回復者と宗教指導者が一堂に会して、宗教とハンセン病との関わりについて議論を交わすことは初めてのことです。 

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シンポジウムに参加したハンセン病回復者の方々と


この会議は、2013年にフランシスコ教皇が、教皇庁の出世主義を「ハンセン病のように悪しきこと」という差別的な比喩として使われたことに対し、私からこのような表現を教皇様がされることは一般の人々のハンセン病に対する誤解を助長する恐れがあるため、再びないようお願いの書簡を送ったことがきっかけでした。ハンセン病についての社会の誤解を解き、患者、回復者、その家族に対する差別をなくすことを目的とした社会啓発のための国際会議が必要であると考え、教皇庁と日本財団で共同開催することを提案して実現したものです。

 シンポジウムは6月9日、10日の2日間にわたって開催され、45カ国からハンセン病回復者をはじめ、宗教指導者、国連人権理事会諮問委員、医療関係者、NGO関係者、回復者、市民ら約250人が参加しました。

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45カ国約250人が参加したシンポジウム


宗教指導者からはローマ・カトリック教会、ユダヤ教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教の代表からハンセン病の宗教的解釈と救済の事例が紹介されました。中でもイスラム指導者の「慈悲を持って病人に接することがイスラムの教えであり、家族のつながりを切ってはならない、病人を癒さなければならないことはコーランに書いてある」とのスピーチは特に印象深く、改めて宗教の果たす役割に期待したいと感じました。

また、日本、インド、ブラジル、ガーナ、中国、韓国、フィリピン、コロンビアから回復者が登壇し、ライフヒストリーと差別解消に対する取り組みが共有されました。長島愛生園の石田雅男氏は「10歳で発症し、長島愛生園に入所した。プロミンの出現によってハンセン病は治る病気となり、人権意識がよみがえった。その後、仲間と一緒に『らい予防法』の廃止運動に関わってきた」と戦後まもなくの様子を振り返り「現在、日本のハンセン病資料館を記憶遺産への登録を目指して取り組んでいる。大変な仕事だが、残酷で悲惨な歴史を繰り返してはいけないという思いがある限り、自分たちの使命だと思っている」と現在の活動と目標を力強く語りました。石田さんの生き様や取り組みは、不当な差別や習慣が残っている国の回復者にとって大いに勇気付けられるものであったと思います。

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自らのライフヒストリーを語る石田氏


シンポジウム2日目の最後には、議論や発言を元に纏められた「結論と提言」が発表されました。社会に残る偏見・差別により、いまだにハンセン病患者、回復者とその家族の人権が十分に確保されていないことが指摘され、偏見・差別の解消に向けて、宗教界も重要な役割を果たしていくべきと明記されました。また、偏見を助長するような用語、特に「leper」の使用は避けるべきとの提言がなされました。

翌日6月11日は、回復者と国連人権理事会諮問委員とのセッションが行われました。これは、各国におけるハンセン病差別の状況を共有し「ハンセン病差別撤廃のための原則およびガイドライン(P&G)」がどの程度普及しているかを国連人権理事会諮問委員が確認する場として設けられ、回復者の声が直接人権専門家に届く有意義なセッションとなりました。また後半は各国の回復者よりそれぞれの課題や取り組みが紹介されました。コロンビアの発表者の「政府の対策は進んでいない。差別解消のためには自分たちが中心になって行動を起こさなければならない」との言葉は、その他の回復者を奮起させたようでした。

6月12日の日曜日はサン・ピエトロ寺院広場で「いつくしみの特別聖年」の教皇行事として開催された「病者と障がい者のための聖年」特別ミサに参加させて頂きました。世界中からおよそ7万人の障がい者、医療関係者、福祉関係者、キリスト教信者、一般参加者が集まり、フランシスコ教皇の話に熱心に耳を傾けていました。この日は朝から小雨が降っていましたが、ミサが始まる前に雨がピタッとやみ、空が明るくなってきたのを見たとき、私はこのミサもシンポジウムも神様に祝福されている証をみたような感動を覚えました。

ミサの中でフランシスコ教皇から「『病者と障がい者のための聖年』の一環としてローマでこのほど、ハンセン病を患った人々の治療のための国際会議が開かれた。感謝の念をもって開催者と参加者を歓迎し、この病気との闘いにおいて、実り多き取り組みが成されるよう切望する」とのメッセージがあり、会場から大きな拍手がおこりました。中でも、カトリック信者の多い南米やフィリピンの回復者の感動は一際大きいようでした。全世界で約12億人の信者を有するローマ・カトリックの総本山であるバチカンからハンセン病の差別撤廃のメッセージが発信されることで、社会に大きな影響を及ぼすことが期待されます。

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ミサに先立った8日に教皇にお会いする機会を得ました


これまでに何度かお話したかもしれませんが、私はハンセン病の問題の取り組みをモーター・サイクルの例えを使います。前輪は医療面の問題、後輪は社会面の問題、そのふたつが同じ速度で回転しなければ、問題の解決は困難です。医療面の問題については、多剤併用療法(MDT)の導入により、これまで世界中でおよそ1600万人の患者が治療されてきました。しかし、社会面の問題、すなわち偏見や差別は根強く残り、患者や回復者、またその家族を深く苦しめています。宗教はこれまで多くの人に思いやりの心や勇気を与え、苦しみを癒す役割を果たしてきました。宗教指導者、回復者、そして私たちが問題を共有し、共に活動を行うことで、患者や回復者の苦しみを軽減し、彼らが自らの尊厳を回復することを支援することができると信じております。

「ハンセン病制圧活動記」その37―インドネシア訪問記― [2016年11月30日(Wed)]
「ハンセン病制圧活動記」その37
―インドネシア訪問記―


多摩全生園機関誌『多摩』
2016年11月号

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平


 2016年3月13日から16日にかけて、インドネシアの首都ジャカルタ、東ジャワ州のスラバヤとマドゥラ島を訪問した。インドネシアへの訪問は2014年1月以来2年ぶりで15回目となる。今回は、インドネシアの制圧未達成の州の中でも群を抜いて新規患者数が多い東ジャワ州の状況を視察することと、同州で開催される「世界ハンセン病の日」についての集まりに出席することであった。

 インドネシアは、2000年にWHOの制圧目標(人口1万人に1人未満になること)は達成したが、新規患者の数は毎年16,000〜19,000人の間を推移している。この新規患者数はインド、ブラジルに次いで世界3番目で、ASEAN諸国の中では突出して多い。また、国レベルでは制圧は達成されたが、州レベルで見ると全34州のうち12州が制圧の数字を達成していない。特に今回訪問した東ジャワ州はその12州の中で最も新規患者数が多く、その数は国全体の40%の割合を占める高蔓延地域である。インドネシアではハンセン病患者や回復者、その家族への偏見が根強く残っており、国内に“ハンセン病コロニー”と呼ばれるハンセン病患者や回復者とその家族が住む居住区が今なお多く存在している。

 初日にまずWHO(世界保健機関)のインドネシア事務所を訪問した。ジャカルタの交通渋滞は世界的にも有名で、空いていれば10分とかからない事務所まで約40分かかった。WHOインドネシアのハンセン病担当官アナンダ氏からの説明によると、東ジャワ州の2004年〜2014年の新規患者発見数は横ばい状況で、患者の早期発見が遅れており、その対策のために病気、感染、障害、偏見、差別をゼロにする「Zeroストラテジー」を立てたという。また、WHOのグローバル・レプロシー・プログラムの責任者であるエルウィン・クールマン氏がインドのデリーにある本部から駆け付けてくれ「新規診断患者数が一時的に増えてもよいから、患者発見活動を促進することが大切で、早期診断を実現して感染の広がりを押さえるとともに、障がいが残るケース数を下げることを目標としている」と報告した。私は「それらの計画を成功させるには、メディアの協力が不可欠であることと、医師のハンセン病に関しての知識不足、家族の一人がハンセン病になったら同居家族を診察することの重要性」などについて話した。

WHOでの意見交換を終えてそのまま飛行場へ向かい、約1時間半、インドネシア第二の都市東ジャワ州の州都スラバヤに到着した。

 翌日は、田舎道だが綺麗に舗装され、緑が広がる道をマイクロバスで約1時間走り、ハンセン病の回復者93名とその家族が住んでいるサンバーグラガー村を訪ねた。社会福祉省のサポートによってできたという小さなホールには、お年寄りから小さな子供まで約100人が集まってくれていた。私は「ハンセン病は治る病気です。もし子供たちの身体にハンセン病の徴候であるパッチ(皮膚が白色になった箇所)を見つけたらすぐにお医者さんに見てもらってください」と伝え、同行したメディアにも協力を要請した。

@サンバーグラガー村の人々に歓迎される.JPG
サンバーグラー村の人々に歓迎される

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ホールに集まった人々と


 目もくらむ気温35度を超える暑さの中、歩いて併設するサンバーグラガー病院に向かうと音楽が聞こえてきた。病院の広場で職員が歌とダンスで迎えてくれたのだ。これは「パッチを見つけよう!」という曲に踊りをつけたもので、家族同士でパッチを探し合うための啓発キャンペーンのために作られたものだった。

 病院を案内される。2週間前に入院したというスギノさん(50歳)は右手、右足に潰瘍がある。村でただ一人ハンセン病になったが、お金がかかると思い、誰にも言わず5年間放置していたという。近所の人が病院に行った方がいいと教えてくれたが治療が遅れたために後遺症が残こり妻と子どもから見放されてしまったとのことだった。

Bサンバーグラガー病院に入院されている方々を見舞う.JPG
サンバーグラガー病院に入院されている方々を見舞う


 中庭で足を洗い合っていた、ショーレンさん(30歳)とハディリさん(36歳)は兄弟で弟は左足が義足だった。ハンセン病の治療薬は無料である。この兄弟もスギノさんもハンセン病とわかってすぐに病院に来ていたら彼らの人生はこんな悲しいことにはならなかったはずである。これだけ世界を駆け巡り、ハンセン病の正しい情報伝達の重要性を訴え続けてきたが、このような状況を見ると自分の力のなさを反省せざるを得ない。

 病院スタッフへは「みなさんの専門知識を使って他の病院のハンセン病に対する知識の向上を行ってください。また、歌とダンスは、言葉の通じない部族へのハンセン病の知識普及にとても効果的です。CDを一枚日本に持ち帰り、世界中でこの歌と踊りを普及させましょう」と述べたところ、皆さんにこやかに大きな拍手をしてくれた。

 翌日はまだ薄暗い早朝5時に宿泊施設を出発しマイクロバスでマドゥラ島へ向かった。1時間ほど走るとインドネシアで一番長い、スラマドゥ大橋を通過。対岸に靄がかかったマドゥラ島がうっすらと見えてきた。この島の人口は約360万人で、マドゥラ族が多く生活しており、マドゥラ族は全国で1,000〜1,500万人いると言われインドネシアに住む民族の中でジャワ族、スンダ族に次ぐ人数だそうだ。橋を渡って更に1時間程走ると、インドネシアの伝統的な作りの大きな赤い屋根のサンパン市の市庁舎に到着した。朝食の準備をしてサンパン市副市長と市の保健局長が我々を待っていてくれた。

 サンパン市のアバディ保健局長は、「サンパン市では、ハンセン病に対して強い偏見と差別が残っているが、それは市の住民の30%が貧困生活を送っており、就学期間が平均4年間しかなく小学生レベルの教育しか受けられていないことが原因だ。そのために字が読めなかったり言葉がわからなかったりするので、ハンセン病の知識普及は困難を極めている」。また、副市長のブディオノ氏は、「家族間で身体にできたパッチを見つけようという啓発キャンペーンをスタートさている。家族やボランティアの力を借りて早期発見できるように努力をしていきたい」と述べた。

「世界ハンセン病の日」の会場である市民広場には野外に赤と白の布で飾られたテントが張られ、小中学生たちを中心に市民が800人くらい集まっていた。スブ保健次官は挨拶で、2016年の世界ハンセンの病の日に合わせた啓発キャンペーンについて「パッチを見つけよう。早期発見すれば治る家族同士で身体をチェックし合いどこかにパッチを見つけたらすぐに病院にいくことで早期治療につなげよう」と熱弁を奮った。

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啓発キャンペーンで挨拶

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多くの小中学生が啓発キャンペーンに参加


 啓発キャンペーン開始は、保健省のスタッフ、集まった大勢の子供たち、私も含めた来賓まで“パッチを見つけよう!”ダンスで盛り上がり暑い日差しの中でのダンスで汗びっしょりになってしまった。この活動は、今年は東ジャワを皮切りに、南スラウェシ、中部スラウェシで実施し翌年以降インドネシア全土に拡げる予定だという。

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軽快なキャンペーンの歌とダンスに挑戦!


 我々は確実に実行されて具体的成果が出るよう関係者の意識が低下しないよう注意深く協力していく必要がある。どこまでもハンセン病との闘いは燃える情熱、どんな困難にも耐える忍耐力と成果が明確になるまでの継続的努力が我々には求められている。インド、ブラジルも大切だが今年来年中はインドネシアでの活動を強化したいと考えている。



「ハンセン病制圧活動記」その36―キリバス共和国― [2016年10月12日(Wed)]
「ハンセン病制圧活動記」その36
―キリバス共和国―


菊池恵楓園機関誌『菊池野』
2016年8月号

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平


2015年10月19日から22日までの4日間、太平洋のほぼ真ん中に位置するキリバス共和国(以下キリバス)を訪問した。初訪問となる今回の目的は、多くの離島を持つ太平洋島嶼国がどのようにハンセン病対策を行っているか、その現状について視察することである。

キリバスは太平洋に浮かぶ世界最大のサンゴ礁による島国で、北はマーシャル諸島、西はナウルとソロモン諸島、南はツバルとクック諸島が接している。キリバスには33の島があり、島の面積を全て足しても対馬ほどの面積しかないのに、世界第3位を誇る広大な排他的経済水域を有している。また隆起性珊瑚でできているバナバ島の最高地点が81mであることを除いて、ほとんどの島では海抜3.5mを超えるところがなく、地球温暖化による海水面の上昇が深刻な問題になっている。2055年までに最大30センチ近く上昇すると予測されていて、世界銀行によると首都タラワ周辺の島の5〜8割が浸水する可能性があり、政府はフィジーの土地購入を決定し、国民の職業訓練も行っているという。将来の海外移住を視野に入れた動きとの見方もある。

ミャンマーからシンガポール、オーストラリア、フィジーを経由し丸3日かけてたどり着いたのが、キリバスの首都タラワのボンリキ空港だ。一国の首都の空港としてはあまりにも小さく、地方のバスターミナルかとも見間違えるほど。1週間に2便しかない飛行機を見物に来たのか、多くの人が集まっていた。

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キリバス上空から


ホテルに到着しマニエバ(Maneaba)というこの国特有の深い屋根の集会場で、WHOと保健省のハンセン病担当者エレイ女史から説明を受けた。説明によると、キリバスの人口約10万人に対して毎年100〜200名のハンセン病の新規患者が発見され、10月の時点では121人が治療中だという。患者は貧困層に多く、南タラワに集中するが、その他の地域で患者が少ないわけではなく、発見できていないだけだという。たった3人のハンセン病担当者で広大な範囲を持つキリバスを管轄しており、特に人口密度の多い南タラワとアウターアイランドと呼ばれるメインの島の周りにある島をいかにフォローすることが課題とのこと。

私は、統計上の数字ではなく隠れた患者探すことの重要性と、目の前の患者に希望と勇気を与えることが大事であり、患者の未来をより良いものにするための崇高なミッションを持っていることを再確認しましょうと申し上げた。

翌日は快晴で、遠浅の海がエメラルド色に輝き美しい。しかし赤道に近い首都タラワは日中35度以上にもなる。水分補給と帽子は欠かせない。

キリバス市内を通る細長い道路は、ところどころすぐ両側が海という珍しい景色である。丁度朝の通学時間で、鮮やかな青い制服を羽織った子供達が物珍しそうにこちらを見て人懐っこく手を振ってくれる。

午前中にまずは空港のあるボンリキ地区のナワーワ病院を訪れた。午前10時
を過ぎたばかりだが既に炎天下。ニュージーランドのハンセン病支援団体がリノベーションを行ったスキンクリニック(皮膚病のためのクリニック)に入った。3人の患者が私の訪問を待ってくれていた。カノンガオちゃんという11歳の女の子は母親が病院に連れて来てくれたと言い、顔にも手にもほとんど症状が出ていなかったが、薬を飲んで治療中だという。16歳の男の子のベベルティくんは顔全体と主に鼻に、薬の副作用が出ていたが、薬を根気強く飲めば必ず治ると励ましたところはにかんだ笑顔を見せてくれた。

保健省のエレイ女史によると子供の患者が多いのが太平洋地域の特徴で、患者の20〜40%が子供だという。病気の発見方法、年齢、場所などをデーターベース化しており、家族の中に一人でも症状が出たら家族全員調べることも行っているという。これはとても重要なことだ。

病院の次に、空港のすぐ目の前にあるボンリキ村を訪れた。ヤシや他の多くの植物で鬱蒼とした集落には高床式の小屋と、マニエバスタイルの屋根が深い小屋がある。中には昼寝をする子供や、男性がハンモックにゆられていたりとのんびりした雰囲気だ。小屋の中にはタターケさん26歳がそのお父さんと生活していた。離婚したというので、理由を聞くと、ハンセン病になる前のことだということで、病気が原因ではないということで、少しほっとした。村には親戚一同が住んでいて、足に後遺症があるため、友人が連れ出してくれることが楽しみだという。治療薬は常に持っている、とポケットから出して見せてくれた。

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治療中のタターケ氏


タターケさんに別れを告げ、NGOの支援で商売をしている男性に会いに向かった。道路沿いの大きなヤシの木の下にトタン板の屋根でお店を構える回復者のミカエレさん(62歳)。彼は手に少し障害が残るが、ニュージーランドのハンセン病支援団体の支援事業により、電気コンプレーッサーポンプを購入し、タイヤの空気入れと車の洗浄を行い、1日12時間の労働で最低でも20オーストラリアドル(約1,600円)、多い時で30ドル(約2,400円)を稼いでいるという。国の平均が12ドル50セントということを考えると大変なことで、彼も支援によって仕事を始めてから自信が持てるようになったという。この団体のフィールド部長のウェインさんによると、39人に果物を育てたり、魚を取って乾燥させたりするノウハウや帳簿のつけ方などのトレーニングを行っているという。

昼食をはさみ、テオラエレケ村でニュージーランドの団体が新規患者を発見するために検診を行っている現場を見学した。村の中心にあるマニエバ(集会場)には100人ほどの村人が集まってきていて、奥にはブルーシートで区切られた4つの検診コーナーがある。診察を待つ人の声でかなりざわついていた。この日は1人の新規患者が発見されたということだった。その女の子は顔に症状がでており、センターにしばらく留まって治療をすることになるという。この団体の活動は「スキン・キャンプ」と呼んでおり、村人にはスティグマを助長する可能性があるので、あえて「ハンセン病の検診」と呼ばずに「スキンケア」と呼んで集まってもらっているのだという。これはハンセン病を数ある病気の中の一つとして捉え、総合的に取り扱うという最近のやり方の実践でとてもいい方法である。

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スキン・キャンプの様子


ホテルへ戻る前に、村の近くに、第二次世界大戦の時アメリカと旧日本軍の激しい戦闘があったベシオ地区を訪れた。旧日本軍が作った砲台と、司令部が置かれていた厚さ1mはあろうかと思われる鉄筋コンクリートでできた要塞が残っていた。砲台に登って海を眺めると、日本兵が4,500人も玉砕したとは思えないほど美しく、ここが血の海に変わった当時を想像すると心が締め付けられる思いであった。

3日目、北タラワのアバオコロ島を目指す。船着き場は珊瑚でできた遠浅のラグーン(内海)で満潮時しか船が入れないとの事で、時間ぴったりに出発しようとしたが船がなかなか来ない。待つ事も仕事である。やっとの事で6人乗り
の小さなボートに乗り込んだ。屋根がないボートは日差しが皮膚を刺すように暑いが、海はエメラルドに輝き美しい。

ちょうど中間地点に差し掛かったところで、地元の方から渡されたBandanasという葉を固めた“NIKOMO”というものを海に投げ入れ、一言「マウリ」と言った。北タラワは特に南と比べても精霊信仰が強く、海の中にいると言われている先祖に、航行の安全を祈願する意味があるという。

小一時間で島の近くの浅瀬に着いたが、ボートはこれ以上進めないとのこと。膝上まで浸かりながら歩いて上陸した。ヤシが生い茂る島に漂着したロビンソンクルーソーさながらの状況で、上陸後トラックの荷台に飛び乗り、熱帯植物が青々と生い茂る道なき道を進む。離れた島の奥地を突き進む探検家の気分だ。

5分ほどで、島で唯一のクリニックに到着。入り口にはタバコの害についてのポスターと、びっしりと埋まった一週間のタイムスケジュールが貼ってある。こんな辺鄙な場所のヘルスポストがこれだけ忙しいスケジュールをこなしているとはとても意外で、表を見ただけでも病院の方々がどれだけ熱心に活動しているかを知る事ができた。病院の倉庫にはMDTも収納されており、何人か患者さんも来ていた。

近くの小屋には6歳の男の子カウビナくんがいて、手と足、背中に白い斑点ができていた。薬を飲んで3カ月経ち、学校で同じ病気の子はいないが、特にいじめられたり嫌な事を言われたりすることもないそうだ。エレンさんによると、昔は差別があったが最近は見えるところに重い症状が出ることも少なく、病気に対して理解が進んでいるそうだ。同行していただいていたWHO西太平洋事務局のコーディネーター錦織医師は先ほど母親と病院に来たばかりの女の子テキタナさん(16歳)を診断すると、感覚のないところが2カ所あり、ハンセン病の疑いがあるとおっしゃった。彼女の曾祖母が遠く離れたフィジーのハンセン病隔離の島であったマコガイ島へ収容されたことがあったが、ハンセン病は早期発見したら治るということを知っていたそうで、すぐに娘さんを連れてきたのだという。

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治療中の小学1年生のカウビナ君


午後はアノテ・トン大統領との会談。大統領は日本にも数度訪れたことのある知日家としても知られ、ニュージーランド留学時代に極真空手の黒帯を取得し、愛読書は「宮本武蔵」とのことだ。大統領には人材・金銭的不足の中たった三人のハンセン病の担当者でとてもよくやっていることを報告した。公衆衛生上の問題としてハンセン病は大きくないかもしれないが、今は生活習慣病などの問題も増えており国民の健康管理とともにこの問題にも引き続き尽力いただきたいことをお伝えした。大統領からは「ハンセン病は私が若いころは恐れられた病気だったが、最近は病気への見方に変化が見られ、ハンセン病も病気の1つに過ぎないこと、完治することが認知されてきた。日本財団の活動に感謝する」と、我々の活動に謝意を示された。

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アノテ・トン大統領


その夜、大統領が私のために歓迎の宴を開いてくれ、官邸にあるマニエバ(集会場)では豚の丸焼きが振舞われ素晴らしい伝統音楽のバックミュージックと歓迎の言葉を頂き、友情を深めることができた。

今回の訪問では、キリバスにおいてハンセン病の早期発見が徹底されており、障害を伴わないケースが多いことが影響してか、他の蔓延国に比べ偏見や差別が少ないように感じた。人的資源が慢性的に不足しているが、少ないなりにそれなりの成果をあげていることが分かった。しかし、WHOの錦織医師によると、ハンセン病はMDTを服用すれば治るが、人口の少ない離島では、医者がいない場合も多く、治療が遅れるケースが多いとのことだ。

ハンセン病の制圧に向けては、コストの効率化のために結核やNTD(顧みられない熱帯病)などの感染症との総合的な取組が必要であると感じた。保健省によると、2018年までに制圧(人口1万人に1人未満)を目指すとのことで、次回は制圧のお祝いに訪れることができるかもしれない。
「ハンセン病制圧活動記」その35―フィジー共和国― [2016年10月05日(Wed)]
「ハンセン病制圧活動記」その35
―フィジー共和国―


大島青松園機関誌『青松』
2016年7・8月号

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平


2015年10月22日から24日までの3日間、南太平洋の少し西に位置するフィジー共和国を27年ぶりに訪れた。今回が3度目となる。フィジーは330以上の島々で構成される島嶼国家で西にバヌアツ、東にトンガ、北にツバルがあり、総面積は1万8千平方Kmほどで、日本の四国よりやや大きいくらいだ。南太平洋の民族や文化が交差する島々として「南太平洋の十字路」と呼ばれ、南太平洋諸国の中心的な役割を果たす重要な国で、主な産業は観光・砂糖・衣料品などである。

フィジーの第3の都市であるナンディから車で3時間半ほど移動して首都のスバに到着。スバはフィジーの政治及び行政首都で南太平洋最大の都市だが島の西部に比べて天気が悪く、旅行者が望むようなリゾートホテルなどが少ないという理由から観光客は少ないそうだ。

我々の最初の活動は世界保健機関(WHO)のスバ事務所への訪問だった。到着すると、フィジーのWHO代表である劉運国医師らスタッフが総出で我々一同を歓迎してくれた。

私から「フィジーではハンセン病はほぼ根絶されている状況だが、南太平洋にはまだ新規患者が多く発生している島がある。そのため、南太平洋の中心としてフィジーにはこれらの島々の状況をモニターする役割を期待したい」と述べたところ、劉代表は「ハンセン病は南太平洋諸国では未だ重要であり、南太平洋における健康プログラムを更に強化させていきたい」と力強い返答をいただいた。

続くウサマテ保健大臣との会談では大臣から「フィジーでは新患は殆どいないが、ハンセン病に対する監視や、障害のある患者へのリハビリテーションの支援も行っている。積極的に患者を見つけだすアウトリーチプログラムや早期発見プログラムも強化している」と、ハンセン病対策における深い理解を見せてくれた。

保健大臣との会談後に行われた記者会見では、フィジーを取り巻く島嶼国はまだ未発見の患者が多くいるのでその知見をこれらの国のために役立ててほしいこと、ハンセン病は治る病気で、薬は無料、病気による差別は許されないことをメディアの方々の前で訴えた。

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ウサマテ保健大臣から記念品をいただく


翌日は、タマブア村にあるトゥウォメー病院を訪れた。曇りの多いはずのスバには珍しい快晴で、大使館などのある地区の丘を越えたところに、青い空と南国らしいヤシなどの木々があるグリーンの屋根と黄色い壁でできた鮮やかな病棟が目立つ病院だ。ハンセン病や結核患者等が治療を受けることができる。病院の担当者に病院内を案内してもらう。

風通しがよく気持ちよい作りのハンセン病患者のいる病棟は薄い明るい黄緑色の壁でゆったりしていた。

フィジーにはかつてハンセン病患者を隔離したマコガイ島がある。政府が1908年にマコガイ島を購入し増え続ける患者をその島に集め、58年間運営してきたが、近代的な薬が開発されたことで、1969年頃からはトゥウォメー病院がハンセン病患者を扱うことになったとのことだった。治療のために入院していた患者さんがマコガイ島の経験を語ってくれた。鮮やかなハイビスカスの青いドレスと笑顔が素敵な白髪のハリエタ・トヌさん(81歳)は、病気にかかったときは家族から離れて島へ行かなければならないのがとても悲しかったという。黄緑のドレスが印象的なナニセ・モアラさん(75歳)は、25歳で診断を受け、病気になったときはとても驚いたが、家族は理解してくれたという。

66歳のペニーさんが昔のマコガイ島を思い出し描いた絵を見せてくれた。後遺症で瞼が思うように閉じないとのことで目は充血し、手にも後遺症が残るが見事な絵だった。

話を聞いた方々それぞれが島に行くときはとても辛く、沢山の苦労をしたと思うのだが、島のことを悪く言う人はいなかった。

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マコガイ島を思い出し描いた絵を見せてくれたペニーさん


病院を後にしてマコガイ島へ向かう。しかし、スケジュール上の理由からスバの船着場から約1時間半のレルビア島で一泊してから、マコガイ島を目指すことになった。

翌朝レルビア島から約1時間ボートに乗ると、うっすらと島が見えてきた。フィリピンにあるハンセン病隔離島だったクリオン島のような雰囲気で、島の斜面に建物が建っている。船着場に着くと芝生の道が続き建物が何棟かあり、電柱もあった。JICA(国際協力機構)と書かれた古ぼけた貯水タンクもあった。

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1911年から1968年まで、ハンセン病患者を隔離していたマコガイ島


最初にフィジー本島からハンセン病患者のマコガイ島への隔離が行われたのは、1911年で、その後58年間療養所は運営された。カトリックの宣教師数名が移住し、患者たちの生活一般及び治療についてきめ細やかな措置を実施した。その後、評判が高まり、近隣諸国から患者が移住し、最大742名となった。58年間で島に来た患者総数は4,500人。うち、2,500人は治療後に故郷に戻り、500名が本国(または近隣島)に戻ったが、約1,500名はマコガイ島で一生を終えたという。島には患者と患者のために尽くしたシスターたちが一緒に眠る墓地が残っている。ほとんどの隔離施設がハンセン病患者と医療従事者を別々に埋葬しているが、この島は患者と分け隔がなかった。

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約1500人のハンセン病患者と
献身的に患者のために尽くした英国のシスターたちが一緒に眠るお墓の前で


前述したトゥウォメー病院に入院中でマコガイ島に隔離された経験を持つペニーさんが、島を案内してくれるため同行してくれた。足が悪いため杖をつきながら、来た時のことを思い出し、時折涙で声を詰まらせながら話してくれた。

「初めて島に来たのは1964年。今日と同じように変わらずとても天気が良かったのを今でも覚えている、まさか戻って来ることができるとは思わなかった。親と離れてここに来るときは、銃殺されると聞いてもいたのでもう生きて帰れないと思っていた。しかしここに来ると印象は全く違った。同じくらいの年齢の子供もいたし、当時看護師を務めていたシスターも両親のように愛情を持って接してくれた。ハンセン病になったら学校に行くことはできないと聞かされていたが、ここではきちんと通うことができた。特にシスターのシエナさんには絵を描くことを教えてもらい、仕事にすることができた」。

ペニーさんはマコガイ島を出るとき、両親の元を離れた時と同じくらい淋しかったという。それだけシスターに愛情を注いでもらったのだろう。絶望の中で島に来た人が多かっただろうが、シスターらから我が子のように愛情を注がれ、いい思い出を持っている方も多い。これを絶望の中の光というのかもしれない。

話を聞き終わると、ペニーさんが昨日病院で見せてくれた島の絵を大きく広げて見せてくれた。もう一度見ても改めて島の様子がよく分かる絵だった。絵には、赤い色の屋根の教会、右手にはキリバス人が住んでいたという居住区、山の中腹あたりにはお墓がある。映画館、病院などペニーさんの中にある鮮明な記憶が当時の島の様子を映し出していた。

足の悪いペニーさんの代わりに、2歳のときから島に住んでいるというフリモニ・コラティさん(62歳)が島の中を案内してくれた。当時の隔離病棟(男女別)、映画館、刑務所などが残る。映画館は盛況で治安もよく、刑務所に入るのは、酒気帯びで女性を追いかけた男性などの軽犯罪のみだったそうだ。

今回の訪問では、フィジーにおけるハンセン病対策は既に制圧のレベルを超えて根絶の段階にあるが、とりまく島々は未だに多くの未発見の患者を抱えている。問題が現在進行形のこれらの島々のために協力してほしいというメッセージを、保健大臣に直接お伝えできたのは大きな収穫であった。またマコガイ島における体験はとても貴重で、隔離施設といっても、看護師として働いていたカトリックのシスターやアイルランド人医師の愛情あふれるケアで患者の方々にここまで幸せな記憶を残せるのかと考えさせられた。

ハンセン病はやがて人類にとって「過去の病気」となる日が来るかもしれないが、「差別の原点」「人類の負の遺産」として世代、時代を超えて語り継がなければならない。その意味では今回のマコガイ島の訪問は、「負の歴史」の中にこそ、その時代を生きた人間の強さ、美しさを学ぶことができるということを、改めて強く感じた。

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