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日本財団会長 笹川陽平ブログ

写真:ハンセン病の現場から「アフリカ・ピグミー族」

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「少年剣道大会」 [2016年08月26日(Fri)]
「少年剣道大会」


全日本剣道道場連盟主催で、毎年全国各地で勝ち抜いた少年少女剣士約2,000名が武道の聖地・日本武道館に集結し、大会を行っている。日本財団はこの大会を支援している関係で挨拶の機会をいただいた。

全国にある剣道場は町の中にあるところも多いが、個人の敷地の中で剣道を趣味とした父親が子供や孫の心身の鍛錬のために作り、広く町の子供達に開放された道場も多い。礼に始まり、礼に終わる少年少女が剣道衣に面をつけて「しない」を持った姿はすがすがしい。近年、少女の選手が増加しているのもすばらしいことである。

ご臨席を賜った名誉総裁の三笠宮瑤子女王殿下は、原稿なしでスピーチをされる。剣道五段の腕前であるが、五段のテストは厳しく、二度失敗の上三度目に合格したと、自らのスピーチで述べられていた。

日本剣道連盟の福本修二専務理事は、剣道はオリンピック種目には入らないと断言されていた。柔道や空手などの日本古来の心身鍛錬の武道が、オリンピック種目になってから単なるスポーツとしての勝負にこだわり、美しさを失ってしまったという。けだし名言であり、私も支持したい。

ただ一つ残念なことは、この大会で数回注意したのだが、選手たちが国家「君が代」が歌えないというか、声が出ないのである。世界中、国歌斉唱は老若男女、子供たちまで大きな声を出して歌う。先般、森喜朗オリンピック組織委員長が選手壮行会で「声を出して歌いなさい」と苦言を述べられたが、正論であろう。

以下はショートスピーチです。

**************


2016年7月26日
於:日本武道館


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私は毎年、この大会に来ることを楽しみにしています。今日の皆さん方の輝いた目、そして鍛えられた体、皆さん方の素晴らしい鍛錬の成果をここに見せて頂き、私は皆さん方に負けないように頑張れという激励をもらえるような気がするのです。あとで鏡を見て下さい。皆さん方は本当に素晴らしい顔をしています。「僕ってこんなにいい男なのか」「私はこんなに輝いているのか」と必ず思うはずです。

日々の訓練は大変だと思いますが、我慢して粘り強く続けるということはとても大切なことです。少し難しい言葉ですが「記憶の美化作用」という言葉があります。辛く、厳しい訓練に耐え抜いたことが、大人になると楽しい思い出に変わるのです。人は武道を通じて心と体を鍛えることができます。武道は素晴らしいものです。その中でも特に、剣道は世界一だと思います。皆さん、よくぞ剣道を選んで下さいました。剣道をやることを誇りに思ってください。この憧れの武道館に座った感じはいかがでしょうか。きっと大人になった時に「あぁ、あそこに座ったな」と懐かしい良い思い出に変わることでしょう。皆さんには我慢して、剣道を一生懸命続けて頂きたいと思います。

多くのご両親をはじめ、先生、ご出席の皆様方、どうか我が子、我が教え子だけでなく、剣道の素晴らしさを周りの方々にも伝え、広めて頂けると大変有難いです。

心身ともに健全に、こんなに素晴らしい子供たちが育っていることは、道場主、あるいは道場の運営に日夜尽力して下さっている関係者のおかげで感謝申し上げますと同時に、これからも宜しくお願いいたします。そして、1年間手塩に掛けてこの大会を作り上げて下さった道場連盟の関係者の皆様にも厚く御礼を申し上げます。

今日は大いに日頃の鍛錬を発揮して頂きたいと思います。
今日ここに来られた皆さん、おめでとう!

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連盟の弁論大会最優秀賞者に対し、記念品の胴を贈呈


「海の日のイベント」―人材育成の国際会議― [2016年08月24日(Wed)]
「海の日のイベント」
―人材育成の国際会議―


日本は海洋国家である。

私は「海に守られた日本」から「海を守る日本へ」を提唱し、海洋基本法の制定にもささやかな貢献をしてきた。しかし残念ながら、国民の海の大切さへの理解にはまだまだ足りない。

日本財団は「海の日」を中心に、「海と日本プロジェクト」を全国で125のプロジェクトを実施。1,500のイベントを通じて100万人の参加者を目標に、関係団体や企業と共に海の啓発活動を行っている。

学校教育の中で海に関する記述の増加を要望しているが、文科省の動きは鈍い。メディアも世界中の陸上での事件や、例外的に海難事故は早刻報道されるが、世界人口100億人の到来も指呼の間になった今日、静かに進む海の環境悪化の深刻な状況は人類の生存にかかわる重大問題であるにも関わらず、なかなか人々の注目を集めることはできていない。

変化の激しい時代、政治家をはじめあらゆる分野の指導者は「よりよき環境を次世代へ」というが、海の問題は数百年あるいは千年単位で考えなければならない問題であると憂慮している。生命体としての地球の中で、海の環境悪化は人類の死滅を意味するのである。

日本財団は、牛歩ではあるが、海のあらゆる問題についての人材養成に懸命に取り組んでいく所存である。

下記は海の人材育成に関する国際会議でのスピーチです。

****************

「海の人材育成に関する国際シンポジウム」


2016年7月19日
於:ザ・キャピトルホテル東急


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皆さま、「海の世界の人材育成」に関するシンポジウムにお越し頂き、ありがとうございます。本日はレメンゲサウ大統領、トン(前)大統領をはじめ、海洋問題に携わるリーダーの皆さまがその知識や経験を共有するために世界中から集まってくださいました。心から歓迎の意を表します。

総合海洋政策本部及び国土交通省と共に、このシンポジウムを開催できることを光栄に思います。そしてこの場を借りて、The Nature Conservancy(TNC)(海洋環境問題のNGO)の協力に心より感謝申し上げます。

現在、世界の海を見渡してみますと、さまざまな問題が確実に深刻さを増して迫ってきています。気候変動は海洋環境の大きな変化を引き起こしつつあり、海水の酸性化は食物連鎖や海洋生物の繁殖に大きな打撃を与えています。海洋生物資源の乱獲はとどまる兆しを見せず、海底資源や世界の海の3分の2の面積を占める公海の利用においても各国がしのぎを削る状況が続いています。

これらの問題が放置されれば、人類の生存そのものがいずれ脅かされる危機さえ予測されます。私たちは人類誕生から何百万年もの間、海と共に生きてきました。私たちは海にもっと注意を払うべきです。この海を、次世代に、そして千年、一万年と、持続可能な形で未来の人類に残していくことを考えられるし、考えるべきです。

例えば海に迫る危機の例として、気候変動による海水面の上昇が挙げられます。トン(前)大統領やレメンゲサウ大統領は自国から世界に向けて、その危機に対する警告を発してきた指導者です。

海水面の上昇のような問題は、複雑な原因が絡み合って発生しており、一国や単独の組織の力では到底解決に導くことができません。海流の変化を知り、気候や外的要因が海水へ与える影響を知ることはもちろん、上昇に対処するための法律の整備や政策の立案に至るまで、多くの専門分野の知見が必要です。

また、地域住民や行政、漁業者、研究者、国際機関や、NGOなど、様々な立場にいるステークホルダーが協力して取り組むことも求められるでしょう。

人類の生存に関わる海に迫る危機に対応するためには、私たち人間がそのための“キャパシティ”を高めることが重要だと考えます。

求められるキャパシティは多岐にわたります。時には海で実際に起きている現象について分析、理解することが求められます。科学技術に加えて、海に起きている異変に柔軟に対応する適応力を身につけることも必要です。既存の対処法では打開できない状況にはイノベーションを起こす新しい発想力が求められるかも知れません。住民や研究者、行政、NGO、市民社会などによる分野横断的なコミュニケーションが解決を促すでしょう。何より困難に負けずに危機に立ち向かう強い意志は問題解決に不可欠だと思います。

それらの多様なキャパシティを高め、問題に応じて組み合わせなければ、海に迫る危機的な状況に立ち向かうことはできないと私は考えています。

この度日本財団は、TNCと協力して人材養成の先進事例に関する調査を行いました。その結果、世界中に現状の打破につながるような優れた事例があることがわかってきました。持続可能な海洋管理への取り組みや、多様なステークホルダーを巻き込んだ地域のユニークな事例など多岐にわたっています。しかし、各地で行われる優れた事例を共有し、連携を図るような試みについては限定的であることも分かりました。

それぞれの活動は各地で成果を上げられており、私たちがその知見を共有することが共に海の危機に対処するためには重要です。

本日のシンポジウムは、注目すべき取り組みを推進してこられた方々にお集まりいただいています。これはいわば、海に関わる人材養成の多様な取り組みを集めた、持続可能な海を目指す世界初のショーケースと言えるかも知れません。

参加者の皆さまには、ここでの議論で得たことを所属する組織や地域で応用できることはないか、そしてお互いに連携し協力できることがないかを積極的に議論していただきたいと考えています。

さらに、皆さまにはその議論の結果を一般の人々に分かりやすく伝え、私たちの懸念を広く共有してもらう役割も担っていただきたいと思います。

本日のシンポジウムが海の危機に立ち向かうロードマップを示す場になることを期待しています。

ありがとうございました。


「海と日本プロジェクト総合開会式」 [2016年08月22日(Mon)]
「海と日本プロジェクト総合開会式」


7月18日、「海の日」の祝日を記念し、日本財団は「海と日本プロジェクト」を立上げ、全国で125のプロジェクトを開始。国土交通省の強力なバックアップのもと、関係団体や企業と共に1500のイベントを通じて100万人の参加者を目標に、7月19日から9月初旬まで、幅広い啓発活動を実施している。

この総合開会式には安倍首相の出席も予定されていたが、所用で急遽欠席となったことは画竜点晴を欠いたが、関係者はもとより、多くの小学生、中学生が参加してくれたので、子供たちに向けて即席で話をさせていただいた。

*****************


2016年7月18日(月)
於:東京港晴海ふ頭 晴海客船ターミナル


総合開会式での笹川会長あいさつ1.JPG
総合開会式で挨拶


ご紹介賜りました日本財団の笹川でございます。
今日は海に関係する多くのみなさんにお集まりをいただきました。特に小学校、中学校の学生諸君が集まってくれたことは、私たちにとって大変嬉しいことです。

今日は「海の日」、祭日でございますけれども、世界で「海の日」が休みになっている国は、実は日本だけなんです。
どうしてでしょうか?
みんなで考えてみましょう。

日本は島国で海に囲まれています。みなさん方が毎日生活していく上で、海がないと生きていけないことを知っていますか?

なぜかと言うと、食べ物の60%は外国から輸入しています。日本だけで生きていこうとすると人口の40%近くしか生きられません。あとは全部外国から輸入しているんです。

日本の多くの造船会社が船を作って世界へ売っています。今日いらしていただいている三井OSKという世界でもとても大きい船会社が、今日は特別に乗ってもらおうと、自動車運搬船がそこに横付けされています。私は2,000台くらい積むのかなと思っていましたが、なんと6,000台も入るそうです。これをみなさんに見ていただきたいし、日本が誇る帆船も来ていますから、それもぜひ見ていただきたいと思います。

モノを輸出するための船をつくり、その船で自動車やさまざまな工業品を外国に売り、そしてそのお金で食糧を買って私たちは生活をしているんです。パンの原料の小麦はほとんど外国からの輸入品です。牛や豚や鳥を飼っていますが、その餌もみんな外国から来ているんです。

今世界で最も長生きの国は日本です。魚が健康にいいといわれて、これが世界中に広がってしまい、広がることはいいのですが、世界中で魚のとりっこが始まっています。日本財団と外国の研究者が一緒に研究をしていますが、あと30年もしますと、みなさんが40歳か50歳くらいになるころには、日本の近くの海の魚は半分近くに減ってしまう可能性があります。魚がいなくなったら、どうしましょうか?

海は静かできれいに見えますが、世界の人口が70億人を超え、世界の工場や生活排水が海に流れ込み、だんだん汚れてきています。

また、さまざまな理由で温度が上がってきて、毎年暑くなってきています。私は山の中に小さな家があるのですが、海抜1300メートルくらいの場所にも蚊が来るようになってきました。

北極海の氷が溶け、海面が上がってきて、南太平洋のキリバスという国は、いずれ水の中に沈んでしまうという危険が迫っています。

海は何も言いませんが、このような大きな変化が起きていますから、そのままにしておくと、何千年か何万年か後には人間が住めない地球になる可能性すらあります。

みなさんにもっと海に興味を持っていただきたいのです。今日は船に乗っていただいて、「よし、船をつくる人になろう」とか、「船を動かす人になろう」とか、「横浜のような大きな港で大きなコンテナを動かして船に積んだり下ろしたりする仕事をしよう」とか、あるいは「海の中で魚が減るのならそれをなんとかする研究者になりたい」という気持ちになってくれたら嬉しいですね。

総合開会式での笹川会長あいさつ4.JPG


そのために日本全国で125のプロジェクトを立ち上げました。あまり海のことを学校で教えてくださらないので、海の日を記念して、これから毎年、みなさんに海のことに興味を持つ人になっていただきたいという思いで、こういう取り組みを始めたわけです。

私たち日本が70年もの長い間平和でいられたのは、海に守られてきたからです。そして美味しい魚を食べて世界一の長寿国になりました。しかし今は世界中の国で魚をとるようになってきましたし、争いも海の上で起こるようになってきました。これからは海を守る日本にならなくてはいけませんし、「海に守られた日本」から、「海を守る日本」へ、そして「世界の海を守る日本」へと変わっていかなければいけません。その活動をみなさま方にお願いしたいと思います。

今日は多くの海事産業の関係者のみなさんが多く集まって、若い人たち、子供たちに海のことをもっと深く理解していただこうと力を合わせて盛り上げています。今日一日、どうぞ楽しんでください。

多くの関係者のみなさんのご理解とご努力で、この海の日を記念するプロジェクトがこれから毎年大いに盛んになることを期待しております。

今日はお集まりいただき、ありがとうございました。
「世界銀行とメンタルヘルス」 [2016年07月20日(Wed)]
「世界銀行とメンタルヘルス」


今年の4月、世界銀行より、ワシントンDCでメンタルヘルスの会議を開催するので出席してほしいとの要請を受けた。

私は医者でもないし、ましてやメンタルヘルスについては無知同然なのでお断りしたところ、「あなたが取り組んでいるハンセン病制圧活動が世界で顕著な成績を上げているので、その方法を参考にしたい。是非出席してほしい」との再度の依頼を受け、出席することにした。

メンタルヘルスとは、精神面においる健康のことで、WHO(世界保健機関)は下記のとおり定義している。
「精神的健康とは、単に精神障害でないということではない。それは、一人一人が彼または彼女自らの可能性を実現し、人生における普通のストレスに対処でき、生産的にまた実り多く働くことができ、彼または彼女の共同体に貢献することができるという、十全にある状態である」とある。

下記の通り、簡単に説明はしたものの、参加者の態度を見ていると、私の話などとても参考になったようには見えなかった。

実は「あなた方がこの問題を真剣に解決したいのなら、溢れる情熱、どんな困難にも耐える忍耐力、それに成果が出るまで絶対にあきらめない継続性こそ必要であり、その覚悟はありますか?」と突っ込みたい衝動に駆られたが、不本意ながらきれい事で終わってしまった。国際会議の中には、会議を開催することに意義があり、実行とその成果の実現への情熱が伺えないケースが多々ある。

しかし当方は、売れない芸者のように、お声がかかると地の果てまでも出て行く軽薄さ。これは私の欠点と知りながら出掛けていく。治りそうもない生活習慣病なのでしょう。

下記、その時の発言です。

****************


世界銀行/世界保健機関共催
「影の外へ−メンタルヘルスをグローバルな開発の優先事項に」


2016年4月14日
於:米国・ワシントン


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メンタルヘルス会議で発表はしたが・・・


今回、主催者から、このシンポジウムへの出席のご依頼を受けた時、私はメンタルヘルスの専門家ではないのでこの場に不適切ではないかと思いました。しかし、私が長年携わってきたハンセン病へのアプローチを参考にしたいとのことだったので、自分の経験が役立てばと思い、出席させていただくことにしました。

私は40年以上にわたり、ハンセン病制圧活動に取り組んでおり、2003年からWHOのハンセン病制圧大使として活動しております。

ハンセン病は、古くから呪いや神の罰と恐れられ、世界各地で患者や回復者に対する隔離政策が行われていました。

19世紀後半、ハンセン病はある種のバクテリアによる感染症であることが判明し、20世紀後半には、投薬による有効な治療法が確立されました。

こうして、それまでのハンセン病に対する人々の認識は誤解であることが証明されたはずだったのですが、多くのハンセン病患者を抱える開発途上国を中心に、ハンセン病は未だに公衆衛生上の問題であり、病気に対する誤解や当事者への差別は続いています。

ハンセン病は、感染力の高い病気ではありません。生命を直接脅かす病気でもありません。その結果、差し迫った問題として顕在化せず、国によっては政策上の優先順位が低く、保健政策の中にきちんと位置づけられていません。加えて、ハンセン病の専門家はほとんどいません。

本日は、ハンセン病制圧のための私の3つのアプローチについてお話したいと思います。政治指導者に直接働きかけること、ハンセン病の普及啓発に努めること、コミュニティを巻き込むことです。

まず1つ目に、政治指導者に働きかけることは、ハンセン病の制圧に対してその国のコミットメントを取り付ける上での鍵になります。私はWHOハンセン病制圧大使として蔓延国を訪れ、政治指導者と面会するようにしています。ハンセン病の問題の深刻さを説明し、解決することの重要性を説いて、政策上の優先順位をより高めてもらうよう求めています。このアプローチが功を奏し、いくつかの蔓延国において、ハンセン病への対策の予算が増やされ、この問題に国を挙げて取り組んでもらえることにになった例もありました。

2つ目は、普及啓発に努めることです。私は、この病気が、「治ること」、「差別は不当であること」をより多くの人に知ってもらうことが重要であると考えています。メディアはその中心的な役割を担います。ハンセン病は多くの地域でタブー視され、メディアで大きく取り上げられることはほとんどありませんでした。言い換えれば、影に隠れていた問題だったのです。私はそこで、ハンセン病の回復者に対し彼らの経験や、彼らが苦しんできた差別や誤解についての話をしてもらえないかと働きかけるようにしています。彼らの経験が共有されることで、より多くの人たちがハンセン病について知ることにつながるからです。このように、私はハンセン病を影の中から影の外に導き出そうとしています。

3つ目のポイントは、地域を巻き込むことです。ハンセン病は、早期発見・早期治療が非常に重要です。ハンセン病の患者の中には、病気に関する基本的な情報を知らなかったり、病気に伴う差別の恐れなどから受診をためらう人たちもいます。それが結果として症状を悪化させてしまうこともあります。例えば、インドのある地域では、同じ地域に住むハンセン病経験者が中心となって自助グループを作っています。彼らは地域でハンセン病と疑われる症状の人がいたら、その人を適切な医療機関に紹介するという活動を行っています。彼らは医師でも医療スタッフでもありませんが、同じ経験者だからこそわかる初期症状にいち早く気づくことができ、治療に行くよう説得することもできます。このような地域に根ざした活動は、未治療の患者を早期に治療に結びつける上で大きな成果を上げています。私は、専門家であるか否かに関わらず、地域の人たちが協力することが、潜在的な患者の発見や治療、ケアにつながることを学びました。

本日は、ハンセン病の制圧における私のアプローチとして、政治指導者に直接訴えること、普及啓発活動を行うこと、コミュニティを巻き込むことについてご紹介させていただきました。中には、メンタルヘルスに通じることもあるかもしれません。私の話が少しでもお役に立てばと思います。

ありがとうございました。

「ローマ教皇とハンセン病発言」その3―国際会議の結論― [2016年07月15日(Fri)]
「ローマ教皇とハンセン病発言」その3
―国際会議の結論―


日本財団とローマ教皇庁との共催による「ハンセン病患者・回復者の尊厳の尊重とホリスティック・ケアに向けて」と題する国際会議は、6月9日〜10日の2日にわたってバチカンで開催され、45ヶ国から約250名の宗教指導者、国連人権理事会諮問委員、国際機関代表、医療関係者、法律家、NGO、そして回復者組織の代表たちが参加した。宗教指導者では、ローマ・カトリック教会、ユダヤ教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教が参加した。またハンセン病回復者は、インド、ブラジル、ガーナ、中国、韓国、フィリピン、コロンビア、日本からの参加があり、バチカンでは初めてのハンセン病に関する国際会議となった。

B会議終了後に参加者が大集合!.jpg
国際色豊かな参加者が集合


各国のハンセン病回復者からは苦難に満ちた人生が語られ、特に長島愛生園から参加された石田雅男さんの「残酷で悲惨な歴史を繰り返してはいけない」と静かに淡々と語る姿に、参加者から大きな拍手が起こった。

A参加者は石田さんの話に聞き入っていました。.jpg
参加者は静かに語りかける石田さんの話に聞き入っていました


2日目の最後に、議論や発言をもとに「結論と提言」が発表された。社会に残る偏見・差別により、いまだにハンセン病患者・回復者とその家族の人権が十分に確保されていないことが指摘され、偏見・差別の解消に向けて宗教界も重要な役割を果たすべきと明記され、偏見・差別を助長するような用語、特に「Leper」の使用は避けるべきとの提言がなされた。

6月12日の日曜日はサン・ピエトロ寺院広場で、「いつくしみの特別聖年」の教皇行事として開催された「病者と障がい者のための聖年」特別ミサが行われた。世界中からおよそ7万人の障害者、医療関係者、福祉関係者、キリスト教信者、一般参加者が集まり、ローマ教皇の話に熱心に耳を傾けていた。このミサでは、私や会議出席者、回復者たちは最上壇の特別席に座らせていただいただき、間近でミサに参加することができた。ミサの中で教皇様から「『病者と障がい者のための聖年』の一環としてローマでこのほど、ハンセン病を患った人々の治療のための国際会議が開かれた。感謝の念をもって開催者と参加者を歓迎し、この病気との闘いにおいて、実り多き取り組みが成されるよう切望する。」とのメッセージがあり、会場から大きな拍手がおこった。

数万人の参加者の中で、私は一人静かに教皇様の言葉を心にきざみ、12億人の信者の最高責任者が従来の発言を訂正し、「レパー」という差別用語ではなく「ハンセン病を患った人々」とおっしゃったそのお言葉に、密かに喜びをかみしめた。


以下はバチカンにおける私のスピーチです。

******************

国際シンポジウム

2016年6月9日
於:バチカン市国

ローマ教皇庁保健従事者評議会がこのシンポジウムを共催してくださることに対し、心から感謝しております。また、よきサマリア人財団、ラウル・フォレロー財団、マルタ騎士団の皆さまのご協力にも感謝申し上げます。

私は、実際にハンセン病を経験した人たちの言葉を聞かずしてこの問題を語ることはできないと思います。しかし、実際に彼らの言葉を聞くことができた人は多くはありません。本日、はるばるご参加くださり、その経験を共有いただける皆さまにも心からの感謝の意を表します。

まずはじめに、ローマ・カトリック教会がハンセン病に苦しむ人々のために果たしてきた役割について言及したいと思います。

これまで、多くの教会の方々がハンセン病患者の救済のために尽くしてこられました。その中には、19世紀に宣教師としてハワイ・モロカイ島に渡り、ハンセン病患者に奉仕された聖ダミアン神父や、その活動を評価され、ノーベル平和賞を受けられたマザーテレサもいらっしゃいます。

私自身は、マザーテレサにお会いする機会に恵まれたことがあります。私がインドでハンセン病患者のためのホームを訪ねたとき、マザーは自ら私を案内してくださいました。患者のため、神に祈りを捧げる彼女と共に祈ったことは、忘れられない思い出です。

二人で記念撮影.png
マザーテレサと筆者


私が旅してきた場所では、多くのハンセン病回復者の方々が、教会から受けた献身的なケアに心からの感謝の気持ちをお持ちでした。

私が会長を務める日本財団と、関連団体の笹川記念保健協力財団は、世界各地で行っている様々な人道的支援に加え、1960年代からハンセン病の制圧活動に取り組んできました。

1983年、私の父である笹川良一が教皇ヨハネ・パウロ2世聖下自らの執務室に招き入れてくださる栄誉をいただいた時、私も付き添いました。この謁見において、教皇は父を抱き締め、父のハンセン病制圧に向けた取り組みに深く感謝してくださり、引き続き努力するよう激励してくださいました。

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ヨハネ・パウロ2世聖下と父


その後、1990年代に日本財団はハンセン病治療薬を世界中に無償配布することを決め、WHOや多くの方々のご尽力により、患者数の大幅減少を達成しました。

2003年に再び教皇ヨハネ・パウロ2世聖下に謁見する機会をいただいた私は、世界各国を回り、薬が届いていることを確認したこと、ハンセン病の患者数が大きく減ってきていることをご報告することができました。

薬によってハンセン病の患者数は減りました。このように医療面で改善が見られた一方、社会的な問題は変わりませんでした。多くの人々が、ハンセン病の差別とスティグマに苦しみ続けていたのです。

言い換えると、ハンセン病の回復者は、病気は治っているにもかかわらず、「ハンセン病元患者」としての烙印を押されたままでした。彼らは差別され、家族の元に戻れず、仕事への復帰もかなわず、患者だったときと変わらずにハンセン病療養所やコロニーで暮らす以外の術をもっていませんでした。

これは医療では解決できない、意識の問題です。

社会の意識の問題は、社会の中に根強く残ってしまっている、ハンセン病に対する差別的な意識のことです。それは、ハンセン病が未だに、遺伝病だとか神のたたりであるという誤った誤解に基づいていることが多くあります。

この誤解を解くため、日本財団では、社会の人々にハンセン病に関する正しい理解をもってもらうための活動を行っています。例えば、1月の世界ハンセン病の日に合わせ、2006年から毎年、社会からハンセン病の差別をなくすためのグローバル・アピールを発信しています。これは私たちが力を入れる啓発活動のひとつで、医学界やビジネス界、学術界など、様々な分野を牽引するリーダーの方々と共に行うことで、広く一般に届けようとしています。

2009年には、この活動に対し、ローマ教皇庁保健従事者評議会にご協力をいただきましたことに、あらためて感謝申し上げます。その時私たちは、世界の宗教指導者の方々と共に「ハンセン病における差別をなくし、癒しを開始しよう」というメッセージを発信しました。

このような活動は、ハンセン病についての誤解を正し、社会の人々にハンセン病についてもっと知ってもらうことを目指しています。私は、このことがハンセン病の差別とスティグマのない世界の実現への一歩となると信じています。

しかし、意識の問題にはもう1つあります。それは、ハンセン病を経験した人たち自身の意識の問題です。

私は、彼ら自身の多くもまた同様に、病気に対する誤解を持っていることに気づきました。彼らは、長い間差別を受けて暮らしてきたことで、社会に復帰することをあきらめてしまっていました。そして、さらなる差別への恐れから、自ら社会から隔絶して生きることを選択していました。彼らは、自分たちに人権があることにすら気づいていませんでした。

宗教指導者の方々は、多くの人の心や意識に触れる活動をされています。彼らの言葉は私たちに、思いやりの心を教え、勇気を与え、苦しみを癒し、そして私たち皆を一つにしてくださいます。

昨年、教皇フランシスコ聖下がバチカンで、ブラジルから訪れたハンセン病回復者の人々に謁見してくださいました。彼らはそれがいかに意義深く、報われる思いがしたかを語ってくれました。

本日は、教皇庁の格別のご配慮で、ローマ・カトリック教会を始め、様々な宗教に関わる方々がお越しくださっています。

私たちは、ハンセン病当事者に対する包括的なケアに関して議論し、ハンセン病の社会的差別をなくす必要性を共有するために集まりました。

そして本日ここに集まった回復者の皆さんはすでに自分たちの立場を社会に訴えるために力強く立ち上がった勇気ある人たちです。また、彼らは他の人たちを先導しようとしている指導者の皆さんです。

彼らと共に力を合わせることで、私たちはハンセン病患者や回復者の苦しみを軽減することができるでしょう。共に活動することで、私たちは、彼らが自らの尊厳を回復するお手伝いができるでしょう。

最後に、ハンセン病を克服した私の友人の言葉をご紹介したいと思います。彼は少年時代にハンセン病を患ったことでこの病気に苦しめられることになりました。その後、70年以上もの間ハンセン病療養所で暮らしています。現在89歳となった彼は、その経験を語る活動をしています。

彼はよく私に言うのです。

「自分はひどい差別を受けてきたが、私を差別した人たちを赦したいと思う。彼らを赦すことで、自分の人生は豊かなものになる。」

私は彼の言葉を聞いて、人間とはこんなにも強く、寛容になれるものかと思いました。勇気を振り絞り、差別に立ち向かい、自らの置かれた状況を変えるために立ち上がった多くの人たちがいます。彼はその一人です。

実際に差別にさらされ、苦しみを味わった患者や回復者の方たち自身が発する声は力強く響きます。彼らの声に耳を傾けることで、私たちは、何をなすべきかが見えてくるのではないでしょうか。

「ソフィア大学名誉博士」―ブルガリア最古の大学― [2016年07月01日(Fri)]
「ソフィア大学名誉博士」
―ブルガリア最古の大学―


余り晴れがましいことは私の性格に合わないのでブログで書くことはほとんどないが、このところ海外活動が多く、来週からアフリカのカメルーンでピグミーのハンセン病実態調査に入るためブログの種が不足してきてしまい、恥ずかしながら、表題の記事になってしまった。

この度、1888年に設置されたブルガリア最古のソフィア大学より名誉博士号を授与された。

1987年、未来の世界を担う修士・博士課程の優秀な学生に奨学金を提供する「笹川良一ヤングリーダー奨学金制度」を設置。現在は世界69大学に設置されているが、ソフィア大学は1992年に設置された大学のうちの一校である。

日本人のブルガリアに対するイメージは、ヨーグルトに美しい薔薇、引退した相撲力士くらいかも知れないが、約1400人が日本語を学んでおり、約450名の国費留学生、約800人のJICAで研修経験のある方々がおり、日本の伝統文化や武道の同好会もあると、小泉崇ブルガリア大使は教えて下さった。

私にとって嬉しいことは、この奨学金第一号を受けられたパシレフさんが、その後、年間100万本を生産するワイナリーの実業家として成功したのみならず、ブルガリアの政財界の有力者としても活躍されていることであった。

ソフィア滞在中は心を込めてアテンドして下さり、その上、写真のように、家宝である73年前、1943年産のワインを2本もプレゼントして下さった。学生時代の恩義を忘れず、その後、私のハンセン病との闘いに注視して下さり、名誉博士に推薦して下さったようだ。

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1943年産のワイン2本!


伝統ある大学での古式豊かな式典の様子はテレビで何回も放映されたと、在日本ブルガリア大使館から知らせをいただいた。

博士号授与の理由であるハンセン病について、10分間の映像の後、講演の機会をいただいた。既にヨーロッパではハンセン病は過去の話になっており、どのような過酷な歴史があったかは書物で若干知っている方がいる程度なので、映像に驚き、目頭を押さえる聴衆もいた。

以下、ハンセン病について比較的分かりやすく述べていますので、お読みいただければ幸甚です。

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「ソフィア大学名誉博士号授与式スピーチ」
―ハンセン病の病気と差別の制圧に向けた闘い―


2016年6月6日
於:ブルガリア・ソフィア大学


ハンセン病に関するレクチャーをさせていただく.jpg


この度は、ブルガリアで最古かつ最大の大学であるソフィア・聖クリメント・オフリドスキ大学から名誉博士号をいただくことができ、大変光栄に思います。また本日は、ハンセン病の制圧という私の生涯をかけた活動について、皆さまにお話しさせていただく機会をいただき、感謝申し上げます。

先ほどショートフィルムをご覧いただいたのは、この病気に苦しめられ、今もなお苦しんでいる人たちの現実を皆さまにご覧いただきたかったからです。映像にもありました通り、ハンセン病は何世紀にも亘り不治の病、神の罰などとされ、人々から恐れ嫌われてきました。

しかし1980年代になると、有効な治療法の確立により、ハンセン病は治るようになりました。簡単なことではないとはわかっていましたが、私はこの薬を、病気に苦しむ全ての人たちに届けることを決意しました。そして日本財団は、WHOと協力し、ハンセン病治療薬の無料配布を開始しました。

有効な薬を配るのですから、私たちはある一定の効果はすぐに現れるだろうと期待していました。しかし、多くの予期していなかった事態に遭遇しました。

例えば私は、世界には多くの人が薬の飲み方を知らないという事実を目の当たりにしました。それまで伝統医療薬しか飲んだことがないという人たちに対し、私は、まずブリスターパックと呼ばれる包装から錠剤を取り出し、水で飲み込むという薬の飲み方から教えなくてはならなりませんでした。

また、アフリカのある部族の人たちは食べ物を平等に分け合うという習慣があるため、配布された薬をも同じ村の人たちで分け合ってしまっていました。これでは当然、薬の効果は現れません。

また、無料なのに患者が薬を取りに来ないということもありました。痛みを伴う初期症状がないため、もしくは差別を恐れたためです。

薬を無料で配るだけでは効果的ではないということは明らかでした。私たちは、治療薬の配布に際し、その土地の習慣や文化なども考慮しなければならなかったのです。

このことを念頭に、より効果的に薬を患者に届けるために、私たちはWHOや各国の保健省、医療関係者、NGOなどと協力し、活動を続けました。

その結果、より多くの患者が病気を治療、治癒し、多くの蔓延国においてハンセン病患者の数は大きく減っていきました。私は、治療薬普及の成果が現れてきたことに、一種の達成感を感じ始めていました。

しかし、患者の数が減ったにも関わらず、私がハンセン病コロニーで目にした現実は、病気から回復した人たちの生活が治療前からあまり変わっていないということでした。彼らは治癒した後も、患者だったときと同じようにハンセン病療養所やコロニーで暮らし続けていました。そこは、草木も生えていないくぼ地のようなところで、外側からは単なる岩山にしか見えないような場所だったり、線路脇の土手のわずかな空間だったりしました。彼らはハンセン病を患ったときから、そのような場所に集まって暮らしていました。その場所と外の世界との境界に目に見える塀などは何もありません。しかし、まるでそこには目に見えない壁が立ちはだかっているかのように、彼らの住む場所とその外を行き来する人はいません。彼らはもう患者ではないのに、こうして「ハンセン病の元患者」として生活しつづけていました。

この状況を見て私は、私がそれまでハンセン病の差別やスティグマの問題を楽観視しすぎていたことに気づきました。私は単純に、病気を治すことは差別をなくすことにもつながるだろうと考えていました。しかし実際は、治癒してもなお、彼らは「元患者」から抜け出せていませんでした。これは特にハンセン病に顕著に見られる問題のように思います。

私は、ハンセン病の問題は医療の問題だけではないことに気づきました。それは私たちの意識の問題です。私は、この意識の問題にも取り組むことにしました。

ハンセン病の闘いについて話をするとき、私はよく、モーターバイクに例えて説明します。前輪は病気を治すための医療面のアプローチです。そして後輪は、スティグマと差別をなくすための社会面のアプローチを指します。この前輪、後輪が同時に動かなければ前に進まないモーターバイクのように、ハンセン病とその差別をなくすためには、医療面、社会面双方のアプローチを同時に進める必要があると、私は考えています。

後輪の差別の問題について取り組むにあたり、私は何から始めればいいのかわかりませんでした。医療面のアプローチのためには、WHOや保健省、医療専門家の方々と活動しましたが、社会面のアプローチには、新たな関係者を巻き込む必要があると感じました。

私はハンセン病の差別とスティグマの問題は人権問題であると感じました。それが、私が国際連合へ働きかけることにした理由でした。

私がジュネーブの国連人権高等弁務官事務所を初めて訪ねたのは2003年のことでした。そこで私が言われたことは、ハンセン病の問題についてそれまで誰も訴えてこなかったため、ハンセン病の差別の問題は人権問題として認識されていないということでした。

なぜそのようになってしまったのか、想像するのは難しくありませんでした――ハンセン病から治癒した人たちは、声をあげ、自らの人権を主張することをためらっていました。彼らは差別を恐れていたのです。彼らの多くは、自分たちに人権があることすら考えていなかったのかもしれません。ハンセン病から治癒したある人は、私にこう質問しました。

「本当に私たちに人権などあるのですか?」

私は、彼らの苦しみにこれ以上目をつむることはできませんでした。そして、このハンセン病の差別の問題を提起する必要があると思いました。

その後、この問題に注意を向けてもらうために、私はジュネーブを何度も訪れ、会議やポスターセッションなどを開催しました。この問題に対し、注目を集めようとしましたが、ことは簡単には運びませんでした。

しかし、私が人権委員会の小委員会で鮮明に覚えている瞬間があります。それは、私がハンセン病の回復者の人たち5人と会議に出席していたときのことでした。会議場で話をする機会に、私は自分が簡単に話した後、彼らのうちの一人の女性にマイクを譲ることにしました。インドから来た女性でした。

彼女は立ち上がり、「私はハンセン病でした」と言いました。

それまで、話半分に聞いていた会場中の人がその瞬間に振り向き、発言した彼女の顔を見ました。

その瞬間は、今でも忘れられない瞬間です。

そしてその瞬間は、私にとって、ハンセン病の差別の問題を人権問題として国連が初めて認識した瞬間だったように思います。

私の最初の国連訪問から7年、2010年にニューヨークの国連総会で、ハンセン病の患者と回復者、そしてその家族に対する差別撤廃の決議が採択されました。現在、加盟各国がこの決議の内容を実行に移そうと進めてくださっています。

社会的なアプローチを進める上で、私は、ハンセン病の差別やスティグマの問題をなくすには、当事者を巻き込むことが不可欠だと考えています。彼らに声をあげてもらうよう働きかけ、彼らの声を聞いてもらうことが重要なのだと思います。私が彼らの声を代弁することはできても、彼ら自身の声よりも説得力を持つことはないのだということに、私は経験を通じて気づきました。

ソフィアの後、私はバチカン市国でローマ教皇庁と共に、異なる宗教家、NGO、政府高官などとハンセン病回復者の包括的なケアと尊厳を考えるシンポジウムに参加する予定です。そのような時には必ず、回復者の声が直接、聴衆に届くよう、彼らを招待し、ご出席いただいています。

このような私の活動に対し、「ハンセン病は過去の問題ではないか、今さら取り組む必要はないのではないか」という人がいます。しかし私は、ハンセン病を考えることは、今まさに私たちがすべきことではないかと考えています。それは、ハンセン病を考えることが人間を考えることにつながるからです。ハンセン病の歴史は世界中で忘れ去られ、消されようとしている「負の歴史」として語られることが多いです。

しかし、ハンセン病の歴史は同時に、患者や回復者の方々が過酷な状況に置かれながらも、差別を乗り越えて生きてゆく、生命の輝きの歴史でもあります。名前を失い、故郷を失い、家族、友人をも失い、社会との関わりを断たれながらも、一人の人間として、生きようとしてきたその軌跡は、人間の強さと寛容さを私たちに教えてくれる、かけがえのない歴史でもあります。

だからこそ、ハンセン病を患った人たちの経験や記録を次世代に引き継ぐことで、人類がこの経験を忘れないようにしていくことが重要ではないでしょうか。彼らの声を次世代に届けていくこと。このことも、私の重要な仕事だと思い、ハンセン病の歴史保存の取り組みも進めています。

本日、この名誉ある学位をいただいたことで、皆さまより私のこれからの活動を後押ししていただけた想いがし、とても心強く感じております。

ありがとうございました。
「子どもの貧困対策プロジェクト」―全国100カ所50億円投下― [2016年06月10日(Fri)]
「子どもの貧困対策プロジェクト」
―全国100カ所50億円投下―


日本財団は、株式会社ベネッセホールディングス(以下、ベネッセ)をはじめとする各分野の第一人者とともに、子どもの貧困問題の有効な解決策を実証する「子どもの貧困対策プロジェクト」を開始し、その第一号拠点を埼玉県戸田市に開設することとなりました。

わが国の子どもの貧困率は、1980年代から一貫して上昇傾向にあり、今日では6人に1人の子どもが貧困状態にあるといわれております。こうした世帯で育つ子どもは、医療や食事、学習、進学等の面で極めて不利な状況に置かれ、将来も貧困から抜け出せない傾向があり、子どもの貧困問題への対応は喫緊の課題となっています。

日本財団は、特別養子縁組支援や児童養護施設出身者への奨学金設置、障害児への学習支援など、様々な「生きにくさ」を抱える子どもへの豊富な支援実績がございます。子どもの貧困問題については、この対策を新たな重点支援分野として掲げ、各分野の第一人者で構成するプロジェクトチームの立上げを進めてまいりました。昨年より、子どもの教育・生活分野で長年の実績と豊富な知見を有するベネッセを中心に、本プロジェクトチームでは子どもの貧困問題の有効な解決策の検討と具体化に取り組み、埼玉県戸田市にその第一号拠点を設置する運びとなりました。第一号拠点で、本事業の有効性を検証し、全国への展開を目指します。

以下、記者会見での私の挨拶です。

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2016年5月23日(月)
於:日本財団ビル2階


握手.JPG
ベネッセホールディングスの福原さんと


皆様ご承知のように、日本財団ではパラリンピックサポートセンターをはじめ、あらゆる分野の障がいを持った人たちへの支援を行っています。また、今は熊本の被災地でも懸命に努力していますが、災害救援活動や高齢者の支援は50年以上に亘ってやってきた組織です。しかし昨今、子どもの貧困問題についての報道が数多く取り上げられるようになりました。

子どもの貧困の状態は以前よりひどくなってきています。日本財団の調査によりますと、貧困を放置した時の経済的損失は一学年で2兆9千億円にもなります。障がいを持った子どもの問題に関しては以前から取り組んで参りましたが、「子どもの貧困問題」の解決というのは、まさしく国民的な関心事です。

極端な例を申し上げるのは如何かとは思いますが、日本財団の職員が面談をした折、将来何になりたいかということを聞いた時「うちは生活保護でお父さんも生きてきたから、僕も生活保護でいくんだよ」という答えが2、3あったと聞き、愕然としました。夢も希望も持てないで、その日暮らしの子どもたちが多数存在しているという非常に深刻な状況を改めて痛感し、これをどう解決するかを考えました。

私も長い人生を歩んで参りまして、子どもの頃を思い起こしました。私の場合ですが、学校が終わって帰り、お米屋さんや畳屋さんの前に行けば必ず中学1年生くらいから幼稚園の子どもたちが集まって遊びに耽っていました。生傷が絶えませんでしたが、足に擦り傷を作ると隣のおばさんが赤チンキを持ってきてすぐ塗ってくれたり、オキシドールを塗られて泡が吹いて痛いのを我慢した記憶もございます。遊んでいる子どもたちがちょっと遅くなると「早くおうちに帰りなさい」と近所のおばさんに叱られ、翌日にはまた集まって遊ぶという幼少期を過ごしました。

経済が成長し、非常に多様化した社会の中で、それぞれの家庭も個人も細分化をされてしまい、子どもたちにとっては今や学校と自宅、この2つにしか居場所がない時代になってきているのです。そういう意味でも第3の居場所を作る必要があるのではないかと思います。

第3の居場所というのはどういうところかと申しますと、コミュニティの中心になるような施設、居場所です。勉強を教えてもらったり、大学生のお兄さんたちとキャッチボールや縄跳びをしたり、鉄棒なども設置してちょっとした運動をしたり、「あそこに行けば仲間がいる」「お兄さんがいる」「話ができる」場所なのです。

もう少し夢を語らせて頂くと、今は老人も居場所がないのです。家庭の中に一日中いますと、奥様から大変なクレームが出るそうです。元気なご老人であれば、その第3の居場所に来て頂き、子どもたちに将棋や囲碁を教えたり昔話を聞かせてほしい。また、お母さんが夜働いていて食事が出来ないようなお子さんには食事も提供したいと考えています。近所の方々が食べ物などの届け物もしてくれるような、そしていただいた物に対して「ありがとう」という言葉が素直に言えるようになるといいですね。食事を通じて礼儀作法を覚えることもできるでしょうし、何よりも勉強もきちんとそこで教えてもらい宿題もできる。このような第3の居場所を作るというのが今回の「子どもサポートプロジェクト」といわれるものでございます。

昨年10月には政府そして経済界、メディアあるいは支援団体などからなる発起人が集まって「子どもの未来応援国民運動」という名の下に華々しくスタートしましたが、残念ながら未だに機能していません。政府もこの問題については深刻に受け止めていますが、依然動きはにぶいのです。

決して政府を批判する訳ではありません。大きい組織なので動き出すまでに時間がかかりますが、動き出せば大きく動いてくれると思っています。しかしその一方で、成熟した社会の中でそれぞれのニーズが多様化してきている今、民間の働きというものが行政でも大変重要視されるようになってきました。

そのような状況を踏まえ、我々はまず50億円の資金を使って全国100ヶ所の拠点を早急に作り上げることに致しました。それぞれの地方の特色を活かし、運営して下さる皆様の方針、方法論も取り入れて、画一的ではなく、地域にあった子どもサポートプロジェクトを作りたいと思っています。

この事業の共通のテーマは「未来の日本国を担う、そして世界に羽ばたく日本人を作る」ということです。そのチャンスを貧しくて生活が困難な家庭のお子さんたちにも平等に与える。これが国の基本であるべき姿だと考え、まずは民間レベルでスタートすることにいたしました。長い間、ベネッセホールディングスの福島さんとも話し合いを重ね、非常に専門的な幅広い知見をお持ちの福島様より「社としても大いに協力をしましょう」という大変力強いご協力を頂けることになりました。

この他に、今日は埼玉県戸田市の神保市長、特定非営利活動法人Learning for Allの李代表理事、そして慶應義塾大学 中室准教授もお見えになっています。我々の理想には十分には叶いませんが、神保市長が大変熱心でいらっしゃいますので、一号店は戸田市にお願いすることに致しました。神保市長自ら音頭を取って開所する場所も決まっていて、恐らく10月頃には完成すると思います。戸田市を拠点第一号として全国に呼び掛けてやっていきたいと考えております。

「子どもサポートプロジェクト」全国100ヶ所、50億円という資金を投入して、今申し上げたような子どもの居場所を作ると同時に、子どもに学校と家庭以外のところで様々なことを学ぶ機会を与え、そこで得た知識によって自分の将来を考え、自分がどういうことに向いているのだろうかということを探し当てることが、教育上大変重要なことだと思っております。

もう少しお話をさせて頂きますと、最近の若い皆様は一生懸命受験勉強をして希望の大学に入った後1割から2割は上級職を目指し、あるいは弁護士、会計士、建築家を目指して勉学に励まれる方がいらっしゃいますが、受験勉強から解放され2年間は遊んで過ごす人が大半で、3年生になってさぁ就職だ、どこに就職したらいいのだろうと迷ってしまいます。本来ならば子どもの時にその子の特徴が何であるかを見つけ出してあげて、「あなたは手が器用だから将来大工さんが向いていますよ」とか「君は非常に精密な絵を描けるのだから建築家になった方がいいのではないか」というような将来の道を探してあげるのも大変重要なことだと思うのです。

私はハンセン病の制圧活動で世界中を回っておりますが、途上国の子どもたちに「将来何になりたい?」と聞くと全員が手を上げます。そして、必ずお医者さん、看護婦さん、学校の先生と答えます。「どうして?」と聞くと「お父さんやお母さんを幸せにしたい」と、どんな山奥の子どもでも答えますが、日本でそういう声を聞く機会が非常に少なくなってきているということは誠に残念なことです。

まだ遅くはありませんし、やらなければならない仕事だと私たちは肝に銘じ、これから試行錯誤しながら只今申し上げた諸問題の解決のために活動を開始することを今日発表させて頂きました。ベネッセホールディングスの福原さんは100%我々の考えに同意をして下さいまして、一番大事な部分についてご協力を頂きました。

ありがとうございました。
「ハンセン病制圧活動記」その34―インドネシアの国旗― [2016年04月13日(Wed)]
「ハンセン病制圧活動記」その34
―インドネシアの国旗―


インドネシアはインド、ブラジルについで、世界で3番目にハンセン病患者の多い国である。3月13日〜17日までの5日間、シャカルタ、スラバヤ、東ジャワのマドゥラ島でハンセン病制圧活動に汗を流した。

2014年の東ジャワの患者数は4,116名で、インドネシア全体の10.68%を占める。その中でもマドゥラ島は2,000名と圧倒的に多い。ハンセン病は無痛なので、どうしても発見が遅れて手足等に障害が出るケースが多く発生する。そこでインドネシア政府は、マドゥラ島の全ての家庭で、家族同士が皮膚を相互チェックし合う運動を計画した。ハンセン病の初期は、体の一部に皮膚感覚のない『パッチ』といわれる白い斑点が生じる。この斑点のある人を見つけ、速やかに病院で診断を受けさせようとするものである。

我々は、ハンセン病回復者の全国組織である『ペルマータ』への支援も行っているが、インドネシアのハンセン病に対する偏見・差別は世界の例外ではなく厳しい。記念式典でブディノ副市長がわざわざ「笹川さんは回復者一人一人と握手していたでしょう。怖い病気でありません」と挨拶したところを見ると、まだまだハンセン病についての理解は進んでいないことがわかる。中央政府のニラ・ファリッド・モエロク保健大臣は、私と同行することを約束していながら、巡礼のためと言ってメッカに行ってしまった。途上国でよくあることで別に驚きもしないが、何とかこの運動を成功させ、全国展開したいものだと考えている。

ハンセン病啓発の素晴らしい歌と踊りも披露された。しかし残念ながら、最も深刻な低年齢者の感染を防ぐための子どもたちの参加がなかったことは、画竜点晴を欠くものであった。

インドネシアの国旗の話しを書くのに、つい本職の活動の話になってしまった。

世界の国旗についての権威者は知人の吹浦忠正氏である。東京オリンピックの国旗の係りをしていたそうだから年期が入っている。国旗にはそれぞれ故事来歴もあり、国によっては3〜4回変わることも珍しくないそうだ。私が政府代表を務めるミャンマーでも2〜3年前に国旗が変わった。

インドネシアの国旗の話を書くことになったのは、スラバヤのマジャパヒトホテルに泊まった折、部屋のテーブルにホテルの歴史のパンフレットがあったからだ。

このホテルは、コロニアル風で有名なシンガポールの「ラッフルズホテル」やミャンマーの「ストランドホテル」を開設したのと同じ人物で、植民地支配をしていたイギリス人やオランダ人が建設したのかと思っていたら、イラン人ビジネスマン、サーキーズ兄弟を先祖とする一族が建設したらしい。日本占領時代の一時期、「ホテル・ヤマト」と改名した時期もあったが、1945年、第二次世界大戦が終わり、その後オランダ占領軍が進駐してこのホテルにオランダ国旗を掲揚しようとしたところ、インドネシアの独立を熱望する人々がホテルの屋根に駆け上がり、オランダ国旗の青い部分を引きちぎって赤と白のインドネアシア国旗が誕生したそうだ。

オランダの国旗.png    インドネシアの国旗.png
オランダ(左側)とインドネシア(右側)の国旗


Iたまにはこういうホテルにも泊まります(視察のために致し方なくですが。。).jpg
コロニアル風ホテル、WHOの手配で1万円程でした
思ったより安くてホッ!


単純な国旗にまつわる逸話なのに、長々とした説明でお恥ずかしいことです。

以下は、東ジャワ州マドゥラ島で開催されたハンセン病制圧式典でのスピーチ要旨です。

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皆さまご存知の通り、ここインドネシアでは、WHOの定める人口1万人あたり1人未満という公衆衛生上のハンセン病の制圧目標を2000年に達成しています。それでも、この国家レベルでの制圧に甘んじることなく、その後15年以上の間、ハンセン病の蔓延地域を中心に積極的な活動を続けてくださっている大臣閣下はじめ、皆さまに深く敬意を表します。

私たちが次に目指すべきことは、このような蔓延地域をなくすことです。

ここ東ジャワ州マドゥラ島の4県では、年間2,000人のハンセン病患者が発見されていると聞いています。私の経験上、このような蔓延地域では、ハンセン病について知らない人が多いように思います。例えば、ハンセン病はどのような症状が出るか知らない人。治療を受ければ治るということを知らない人。治療が無料で受けられるということを知らない人。その結果、早期に適切な治療を受ける人が少なくなってしまうのです。

この度、インドネシア政府は、「コミュニティ参加型の活動(Community Participation Activity」を新たに打ち出しました。私は、これは非常に重要な取り組みであると思います。この活動によって、東ジャワの人々がハンセン病の知識を得ることができれば、患者の早期発見、早期治療にもつながります。ハンセン病は、初期症状が出た段階で発見ができれば適切な治療へとつなげることができます。これがハンセン病を完治させるための鍵です。

私が、ハンセン病の早期発見、早期治療が重要だと何度も強調して言うのにはもう1つの理由があります。

ハンセン病は、早く発見して治療しないと、後遺症として身体に障害が残ってしまうことがあります。そして、その障害によって患者は恐れられ差別されてしまうことがあるのです。皆さまご存知の通り、ハンセン病の差別の問題は根深く、簡単に解決することはできません。しかし、早期にハンセン病を発見し、治療を受け、ハンセン病に起因する障害を未然に防ぐことができれば、患者が差別される可能性をも大きく減らしていくことができます。

このコミュニティ参加型活動は、東ジャワ州だけでなく、南スラウェシと中央スラウェシにも広めていき、その後、全国に展開していくと伺っています。このインドネシア政府主導のイニシアティブを大いに歓迎します。まずは、この東ジャワでの活動が軌道に乗るよう、スカルウォ知事には、強いリーダーシップを発揮して進めていただきたいと思います。そして、ここでの成功がモデルとなり、インドネシア全土における大きな成果につながることを期待しています。

各市の市長の皆さま、そして各市保健局長および村長の皆さまの積極的な活動にも期待しております。皆さまには取り組むべき課題が他に多くあることは理解しておりますが、ぜひ、この機会にハンセン病への取り組みにも今一度力を入れていただきたく、ご協力をお願いします。

最後に、本日お集まりのマドゥラ島にお住まいの皆さま。この活動は、皆さまやご家族の健康のために非常に重要な取り組みです。皆さまの積極的な参加をお願いします。

「ミャンマーNLD経済委員会来日レセプション」―挨拶― [2016年03月18日(Fri)]
「ミャンマーNLD経済委員会来日レセプション」
―挨拶―


ミャンマーに関心のある多くの企業や投資家が参加してくれました。
以下、その時の挨拶です。

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2016年1月28日
於:帝国ホテル


ミャンマーNLD経済委員会歓迎レセプションで挨拶.jpg
ミャンマーの民族衣装をまとい挨拶


皆様こんばんは。
ご多用の中、沢山の方にお集まり頂きました事にまず御礼を申し上げます。

ご承知のように選挙でNLDが大勝しました。そして各国からの多くのお招きの要請がある中で、日本にだけ行って良いというアウンサンスーチー女史の特命を受けてMyo Myint団長始め経済委員会の皆様が日本を訪問してくださったという事は、大変嬉しいことであると同時に大きな責任を負っているという事になる訳でございます。

かつてアウンサンスーチー議長にお会いした折、日本の(ミャンマーへの)経済進出が大変遅いとお叱りを受けたことを今も鮮明に覚えています。私は「日本という国は出足は遅いけれども、マラソンに例えれば、必ず最後は勝つ大変強い国です」と申し上げましたところ、「マラソンが強いのは最近ではエチオピアです」と反論を受けました。

2011年に、ここにお座りの日本ミャンマー協会の渡邉秀央先生とティラワの経済開発の現場を見に行った時、現場はまだ野原でございました。これを本当にテインセイン大統領がおっしゃる「2015年までに形に出来る」のかという事については、麻生副総理とも「それは無理だろう」と語り合ったものです。

しかしながら、紆余曲折はございましたが、ティラワ開発は丸紅・住商・三菱商事の3社が管理会社になりまして、ミャンマーと組んで猛烈な勢いで努力をしていただいた結果、第一次計画はものの見事に成功されて、ほぼ一杯という状況でございます。直接雇用だけでも3万人という事でございますから、下請け・孫請けまで入れれば相当な雇用が確保できる、こういう状況になっており、日本は短距離も速くなったのだなと、私は改めて経済界の皆様のご努力に感謝申し上げたいと思っております。

新しいNLDのこれからの経済政策も、テインセイン大統領の引かれた民主化、そして経済発展の路線の上に乗って、さらに新しい政策もそこに加えていく事になる訳でございまして、そんなに大幅な政権交代による経済政策の変更という事はないと私は理解しております。

皆様、もう報道でご承知のように、スーチー議長は大統領とも国軍司令官ともお会いになり、円満な政権移行が順調に進んでいる訳でございまして、選挙前の報道、或いは選挙後の報道におきまして、多少の混乱が出るのではないかという世界のメディアの期待を見事に裏切りまして、素晴らしい政権移譲が進んでいるという事を皆様に報告したいと思います。

昨年、テインセイン大統領が日本にお見えになりました。日本ミャンマー協会との共催で大統領をお迎えした時、企業家の皆様の中には、まだ投資をすべきかどうか、多少迷っていらっしゃる方もいらしたものですから、「どうぞ遠慮なく参加してください。チャレンジしてください。そしてもし損失が出た時は私が全部責任を持ってお支払いします」という事を大統領の前で宣言いたしました。

その後渡邉先生や仙石先生のお力添えで、日本の企業が順調に進出して頂いている事は大変有難いことだと思っておりますが、今日お集まりの皆様の中で、まだミャンマーへの投資が心配だ。赤字が出たらどうしようという方がいらしたら手を挙げてください。私が支払いますから。今挙げないと払いませんよ。正直に。いないですか。Myo Myintさん、皆投資するらしいですよ。Myo Myintさん舞台に上がってください。もう一度聞きますから。これから皆様方に積極的に投資をしてもらいたいと思いますが、投資をしたくない人がいたら手を挙げてください。ゼロでしょう? 帰ったらスーチー議長に、日本に行って企業家や投資家が大勢集まった笹川さんのパーティーで、皆が投資をしますと約束しましたからとお伝えください。

という事で、もう皆様方弾みがついていらっしゃるので、今日は大いにお酒を飲んでください。ミャンマーは20世紀・21世紀にかけての最後のフロンティアですし、日本との関係も素晴らしい。アウンサン将軍が統一ミャンマーを作りたいという夢を持ちながら、実現半ばで32歳という若さでお亡くなりになった訳ですが、そのお嬢さまがアウンサン将軍の意思を継いで、ミャンマーの統一国家を作り、民主化を実現したい。パンロン会議の意思を継いで更に民主化を前進しようという事でございますので、どうか一つ、皆様方のお力添えを頂いて、日本とミャンマーの関係が更に濃密な関係になる事を私達は願っております。

今日は多くの人と名刺交換をして、今後の関係強化に役立てて下さい。
「日本財団在宅看護センター起業家育成事業修了式」―挨拶― [2016年03月09日(Wed)]
「日本財団在宅看護センター起業家育成事業修了式」
―挨拶―


日本財団と笹川記念保健協力財団は、喜多悦子理事長の指導で、全国に在宅看護センターの展開を実施中です。

以下は修了式での挨拶です。

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2016年1月27日
於:日本財団


集合写真A.JPG
終了証を手に、新たな旅立ち


9人の修了式ということで、何か「山奥の学校の修了式」というような印象を受けたのですが・・・勿論、冗談ですよ。

今日は日本の高齢化社会の中で皆様方の役割がいかに重要であるかということの大切な出発式典です。今回は2回目の修了式ですが、日本看護協会をはじめ多くの方々のご支援を頂き、素晴らしいカリキュラムを組んで頂きました。既に皆様方は看護の世界では一流の経験を持った方々ばかりでございますが、これからは日本が直面する介護の問題について、草分けとしての旅立ち、それぞれの地域で事業を展開して頂くわけでございます。

いつの時代でもそうでございますが、福澤諭吉は『文明論之概略』の中で、「世の中を改革する大きな力となるのは、はじめは少数の意見であり、少数の活動家である」と書かれています。まさしく今皆様方は、そういうお立場にいるわけです。

看護師として豊富な経験の上に、高齢化社会における最大の問題である在宅看護の指導者としてお働きを頂けるということは、大変有難いことです。在宅ケアがどうあるべきかということについては、皆様はもう十分に勉強されてきましたのでこれ以上は申し上げませんが、今まで病院その他にお勤めになってきた立場から、今度は自らが働きになりながら人を雇い、経営する立場に180度変わるわけです。様々なノウハウも必要ですし、新たな困難な問題に直面することもあろうかと思いますが、決して一人でお悩みになる必要はございません。私は若い時から沢山の事業をしてきた経験もございます。何かに悩まれたら、日本財団あるいは笹川記念保健協力財団にご相談下さい。

20年、30年後には数千人の皆様方の後輩ができるよう、日本財団は今後も努力してまいります。その一方で、これから皆様方が突き当たる悩みというのはそれぞれに違うわけで、ここで学んだことをご縁に、是非同期同士で相互連絡、情報の交換を十分やって頂きたいと思います。

日本財団、笹川記念保健協力財団は、一度ご縁があった皆様方とは緊密に連絡を取り合っていくことを行動哲学としています。例えば、私共は今までに47大学で奨学金制度をやっておりますが、全てにおいて、一度私たちとご縁ができたら卒業して「はいおしまい」ではなく、その後社会で働く中で結束を固め、より効果的に、そして社会にきちんとした影響力が持てるような存在になって頂くべく努力しています。

笹川記念保健協力財団が中国のお医者さんが日本で学ぶためのご支援をした折の話でございますが、まだ今のような時期ではありません。皆人民服を着た貧しい格好で、お化粧も何もなしでお見えになった時代から30年も続き、2,300人を超える方々が卒業されました。当時看護師さんを日本に呼んで欲しいと申し上げたのですが、当時は医療従事者だという意識がほとんどなく、お呼びするのに6年かかりました。ようやく当時看護師の高橋ミキ女史が頑張って下さいまして、5名が来日しました。その5名のうちの1名が、今の中国の看護師会の会長を務めていらっしゃいますし、そういう方々と私たちとの繋がりがいまだにあるわけです。

一つ例え話を申し上げましたが、そういうことで、勉学が修了したからもう関係ないということではございません。これから皆様方の事務所の設営その他費用につきましても、日本財団がきちんとフォローをしていくことをお約束致します。皆様方にはキラッと輝く、「さすが、笹川記念保健協力財団で勉強されてきた人たちは違うな」というところをお見せ頂きたい。

在宅看護は国家レベルで取り組んでいかなくてはいけない大きなテーマです。しかし、民間がリードオフマンとなって成功のモデルケースを作ることによって国がそれをフォローしていく。そういう形を作ることが望ましいし、また事実、そういう風に私たち日本財団、笹川記念保健協力財団は仕事をしてきました。

世の中には様々な課題が山積しております。これを全てが国の責任だ、行政の責任だと言ってしまえば楽な話ではございますが、できるところが率先して行動を起こし、モデルケースを作ることによって「あーこういう切り口でこうやればいいんだな」ということを理解して頂くことが大変重要だと思います。

今「地方創生、地方創生」という合言葉が飛び交っておりますが、具体的にはあまり進んでおりません。そこで私たちは、どこの県と一番手を組んだらいいか考え、人口の一番少ない鳥取県としっかりと手を結び、行政のできることと民間のアプローチでできることを融合させて活気ある鳥取県を作ってみようと。そうすることによって国の政策を引っ張り出そうと動き始めました。まずは成功例を作ってみることが大切だと思っています。

今から25年前、個室の老人ホームを長野と石川と島根、3箇所に作りました。その折に厚生労働省から「笹川さん、老人ホームが一人部屋になる時代なんて当分来ませんよ。そういう理想でおやりになってもなかなかうまくいかないと思いますけど」とご指導を受けました。当時は4人部屋、6人部屋、そして決められた時間に介護、下の世話をして、それ以外はほったらかし、部屋の中で寝るときも起きている時も同じ服装でいらっしゃいました。老人の中には大学の教授だった方、小学校の先生だった方もいらっしゃいます。それぞれのお立場で社会で活躍してきた方々であるにもかかわらず、幼児言葉で接遇している姿を見て、私は愕然と致しました。

しかしながら、長野県に作ったホームには1年間に3,000人を超える地方自治体の見学者が殺到し、そして「なるほどこういう風にやるんだ」と・・・我々の作った施設では、部屋の中では自由ですが、皆で食べる食堂に来るときにはちゃんとお化粧をして下さい。そして、靴下を履く時にはじーっと見ていて、どうしても履けない場合のみお手伝いをするけれども、できるだけ一人で履いていただきます。老人の残存機能を少しでも長く持たせるということが大変重要なことですから、時間がかかりますけれども皆さんが先に手を出してお手伝いをしないことに、視察に来られた方は驚かれたようです。

批判もたくさん受けましたが、3,000人も来て、お茶代が不足したから日本財団が何とか援助してくれということで、喜んでお茶代を差し上げたことは今も記憶に残っています。そういう方々ともいまだに勉強会をやり、そこから老人介護の問題について、日本を代表するような素晴らしい方々が生まれてきております。

皆様方の役割はそういう大きな日本の社会の変革の中に、在宅ケアという最も重要なところを開拓して頂くわけですが、今はまだこれがそのモデルだというのはありません。皆様方にこれからモデルを作って頂くわけです。

どうか大きな誇りを持ってチャレンジをして頂き、そして困ったことは日本財団、そして笹川記念保健協力財団に相談して下さい。私たちも真剣に皆様方のお悩みに答えたい、共同の責任があると思っておりますので、これからも我々との連絡を密にされ、それぞれの場所で成功をして頂くことを心から願っております。

本日は本当におめでとうございました。
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