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写真:ハンセン病の現場から「アフリカ・ピグミー族」

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「ノーマン・ボーローグ博士生誕100周年」―記念シンポジウム― [2014年08月11日(Mon)]
「ノーマン・ボーローグ博士生誕100周年」
―記念シンポジウム―


笹川アフリカ協会(SAA)主催によるノーマン・ボーローグ博士(インド・パキスタンの緑の革命を指導してノーベル平和賞を受賞)の生誕100周年記念シンポジウムがアフリカのウガンダ南東部の都市ジンジャで、7月10日、11日の二日間開催された。

笹川アフリカ協会は、1986年、ノーマン・ボーローグ博士、ジミー・カーター元米国大統領、日本財団初代会長の笹川良一が共同で設立した協会である。ボーローグ博士は晩年の20年間、SAA理事長としてアフリカの農業問題と闘い続けた。

1989.8 笹川・カーター・ボーローグ.jpg


設立以来『笹川グローバル2000』(SG2000)農業プログラムをサブサハラ14カ国で展開。各国のパートナーと協力しながら、零細農家に対して高収量品種の導入や高生産性農法の活用を奨励することで生産性と収益性の向上を目指しており、現在は、ケニア人のルース・オニャンゴ会長の強いリーダージップのもと、エチオピア、ナイジェリア、マリ、ウガンダの4カ国で重点的に活動を行っている。

世界広しといえども、28年間もアフリカの零細農民を相手に活動してきた団体は他にない。特に近年、宮本正顕常務理事の努力により世界的に評価は高まり、ビル・ゲイツ財団、JICA、ナイジェリア政府、ドイツからの支援金もあり、更に支援を申し出てくれている団体や国があるものの、しっかりとした成果を出すためにはこれ以上急激な組織拡大は望ましくないとのことでお断りしている状態だと、宮本正顕さんは話してくれた。誠にうらやましい限りであり、又、設立当初から関与してきた私にとっても誇らしいことである。

このシンポジウムにはエドワード・セカンディ副大統領、モーゼス・アリ第2副首相、トレス・プチャナヤンディ農業大臣をはじめとするウガンダ閣僚、ボーローグ博士の娘ジーニー・ボーローグ氏と孫のジュリー・ボーローグ氏、ソグロ元ベニン大統領、藤田順三在ウガンダ日本国大使、ウガンダ政府関係者、国際NGO、大学、農業関連企業、ジンジャ周辺地区の農家、学生、青年海外協力隊ウガンダ隊員が参加した。

ウガンダの農業問題に関するパネル・ディスカッションでは、シンポジウムに参加している農家、学生からの質疑応答が活発に行われた。「農家の技術を向上させるために、農業を学校の必修科目にするべきか?」というセンションでは、マチョワ・クリストファー・モガル君(15歳)より、「農業をもっと楽しくするべきだ。農業を楽しむことで、農業にそれほど誇りを感じていなかった将来の世代が、農業に献身するのではないか?もっと農家のモチベーションを上げる仕組みを作れば、ウガンダ農業は発展するはずだ」という意見が出された。

さらに「農家の収入向上のために、どのように農業をファミリービジネスとして促進させればよいか?」というセッションでは、青年海外協力隊の神崎志穂さんが、米の普及による農業収入向上の可能性とそれに係る人材育成の重要性について発表。同じく青年海外協力隊の平野裕士さんは、活動している村の農業組合メンバーとマンゴージャム作りを始めたが、農家がジャム作りを通して食品加工だけでなく、それを売るためのマーケティングやジャムを作る際の衛生管理についても学ことができると発表した。

日本においては、農業も高齢化と共に後継ぎ問題が深刻であるが、若者が農業を誇りに思い、その可能性について議論する場の必要性を痛感した。

会議の休憩時間にボーローグ博士の娘であるジーニーさんと、孫娘のジュリーさんと挨拶を交わした。「父はミネソタの貧しい農家に生まれたの。大学時代はレスリングの選手として活躍したけど、大リーグのシカゴカブスの二塁手になることが夢だったらしいの。控え目な人で、自慢話はしないで一生懸命働く、とても倫理観の強い人だったわ。いつも私たちに教育の大切さを話し、死ぬまで教えることを忘れなかった。父の仕事で南米に何回も同行したけど、飛行場ではいつもDairy Queen(デイリー・クイーン)を探し歩いてアイスクリームを食べるのが楽しみだったみたい。確か死の二日前だったと思うの。癌の治療が終わって病院から帰って来て、突然「最大の問題はアフリカだ」と。晩年の父の頭の中は常に『アフリカ』だった。忘れもしない。死の6時間前に「Take it to the farmers」(その技術を農民の元へ)と言ったの。それが今回のシンポジウムのテーマになったことを、きっと父も喜んでいるでしょう」と語ってくれた。

ボーローグ博士の娘さんとお孫さん.JPG
ボーローグ博士の娘さんとお孫さん


ノーマン・ボーローグ博士は、私に多くのことを教えてくれた恩師である。常に「Never give up」、あきらめるなと、叱咤激励してくれた。ヒューストンで病魔に勝てないことを悟ったノーマン・ボーローグ博士が笹川アフリカ協会会長を辞任され、その感謝の慰労会を親しい関係者とご家族で行った折、私は不覚にも感極まって、生まれて初めて人前で号泣したことも遠い昔のように思い出される。

2000.8 ボーローグ博士.jpg
ボーローグ博士とご一緒した時間は筆者の宝物


葬儀での挨拶、そして今日のスピーチも、多くの方々から感銘を受けたとのお誉めの言葉を頂いた。私の下手なスピーチを補って余り有るスピーチの内容であった。

私のスピーチは、武部恭枝女史の指導のもと、小澤直、渡辺桂子、ヴィッキー本多、田中麻里などの若手が長時間の議論を通じ言葉を選んで作り上げた文章で、日本財団にスピーチライティングチームが存在することは、私の海外活動にとって今や不可欠の存在である。

10〜15分のスピーチの作成に1ヶ月近くの時間をかけて作成する担当者の労に感謝したい。

以下はそのスピーチです。残念ながら原文の英語からの翻訳なので、若干ニュアンスは違うかもしれない。

*************************


ボーローグ・レガシー・シンポジウム
―挨拶要旨―


2014年7月10日
於:ウガンダ・ジンジャ


本日は、ノーベル賞受賞者であり、2009年に天国に旅立たれる最期の日まで笹川アフリカ協会(Sasakawa Africa Association: SAA)の会長を務められた、故ノーマン・ボーローグ博士の生誕100周年記念シンポジウムで皆さまにお目にかかることができ、大変光栄に思います。また、博士の最愛の娘であるジーニーさん、孫娘のジュリーさんもこの会場に駆けつけてくだったことを心より嬉しく思います。

ボーローグ博士と私の出会いは、30 年前に遡ります。ちょうどエチオピアを中心としたアフリカ各国が未曾有の大飢饉に見舞われていた時でした。当時、この飢饉に対し、世界各国がアフリカに食糧を届けました。「世界は一家、人類は皆兄弟姉妹」を基本理念とする私たち日本財団も、アフリカの人々を家族の一員と考え、苦境に陥ったアフリカの兄弟姉妹のために緊急食糧支援を行いました。しかし、このような支援は一時的に人々の空腹を満たすことができても、長期的な解決策にはなり得ないことは明らかでした。そこで、この出来事をきっかけに、私たちは、アフリカが抱える食糧問題を根本から解決するためのプロジェクトを立ち上げることを決意したのです。

この決意のもと、当時の日本財団会長であった私の亡き父、笹川良一と私は1986年にSAAを設立し、ボーローグ博士、そして、ジミー・カーター元米大統領に、私たちのプロジェクトへの協力をお願いしました。カーター元大統領はすぐに申し出を受け入れてくださいましたが、当時73歳だったボーローグ博士は「私はもう引退した身で、新しいことを始めるには年を取り過ぎています。」と躊躇されました。私の父は「私のほうがあなたより13歳も年上です。アフリカへの農業支援は、今からはじめても遅いくらいです。ですから、さっそく明日から一緒に始めましょう!」と説得しました。こうして、私たちのアフリカでのプロジェクトが始まり、飢餓という人類が抱える最も難しい課題のひとつに取り組むことになったのです。

アフリカでは、緊急な対応が必要とされる課題が山積していました。はじめに、農民たちに農業の基本を教える必要がありました。また、当時、多くのアフリカの国々で脆弱であった政府の農業普及サービスを強化していくこと、アフリカ各国政府が農業開発政策の優先順位を高めていくことが必要でした。これらは、本当に気が重くなるような難題でしたが、強い使命感を持ったボーローグ博士は、それらの難題に立ち向かっていったのです。彼は、どんな時も怖気づいたり、途中で投げ出したりすることはありませんでした。彼は、どんな困難な状況においても、いつも笑顔で「ヨウヘイ、諦めてはいけないよ!」と語りかけてくれたのです。

ボーローグ博士の生きる姿勢は、癌を患われてからの晩年になっても変わることはありませんでした。ご自身の身体が病に蝕まれている時でさえ、彼はアフリカの人々のことを最優先に考えていました。ある現場視察の後、ボーローグ博士がひどく咳込んだことがありました。私たちは、彼に出張を早めに切り上げて休むように言いましたが、「私がいるべき場所はフィールドだ」と、病気などものともせず、私たちの心配をよそに、強い闘士さながら、次の目的地に出かけていきました。

ボーローグ博士がSAAを率いてくださった20年の間に、ササカワ・グローバル2000はアフリカ14か国でプロジェクトを展開しました。私たちと一緒に仕事をした農業普及員はこれまでに数万人に達し、そのうち4000名を超える農業普及員をアフリカの大学20校において育成しました。また、私たちのプログラムを通じて、何百万人もの小規模農家の方々との「触れ合い」がありました。

私がここで申し上げた「触れ合い」というのは、アフリカの農民の心や魂に影響を与えるほどの深く、濃い「触れ合い」があったという意味です。ボーローグ博士は、アフリカの小規模農民の潜在能力を信じていました。彼の貢献は、耕運や植え付けの技術の指導という域を超えていました。彼は、農民に寄り添い、現場で共に汗を流すことで、食糧の増産を可能にしただけでなく、農民の心に「自信」という種を植えたのでした。この人道的なアプローチは、ボーローグ博士と共に働く全ての人々にとって、共通の価値観となり、SAAという組織の基盤として引き継がれていきました。

現在、SAAは、アフリカ諸国を中心に様々な国籍の職員で構成されたとてもダイナミックな組織に成長しました。オニャンゴ会長のリーダーシップの下、女性スタッフの数も増えてきています。現在の重点4か国、エチオピア、マリ、ナイジェリア、そしてウガンダにおいて、ノーマン・ボーローグ・スピリットを継承し、多くの開発パートナーと共に、アフリカにおける持続可能な農業の発展に貢献するため、尽力しています。

「Take it to the farmer」というボーローグ博士の言葉を私たちの指針として胸に刻み、この偉人が切り開いてきた道を共に歩み続けていきましょう。「Never give up」というボーローグ・スピリットに基づき、アフリカの農民に寄り添い、彼らの生活を向上させるというコミットメントを再確認し、共に取り組んでいきましょう。そして、子どもたちが空腹のまま眠りにつくことがないように、共に汗を流していきましょう。

********************


*日本財団ライティングチームの名作ですので、当時の弔辞を再録します。

ノーマン・ボーローグ博士 弔辞


2009年10月10日
於:テキサス州A&M大学


早いもので、博士とアフリカの農業開発に取り組み始めて四半世紀が経ちました。「食糧難に苦しむアフリカの人々の空腹を少しでも満たせてあげたい。」父と私は、当時70歳のあなたに無理を承知で協力を要請したところ、快く引き受けてくださいました。以来、あなたはアフリカの農民やその子どもたちのためであれば、いかに多忙であろうと最優先で取り組んでこられました。

Bill、Jean、あなたの父親はあなたたち家族を心より愛していました。そしてあなたの父親はアフリカの農民たちを想い、幸せを願っていました。マラウィで肺炎寸前まで体調を崩したときも、そしてガンに侵されていたときも、自分の心配よりアフリカの農民たちの幸せを考え、行動していました。そして驚くことには、その時のようにどんな苦境に立たされようと、決して苦しいとか辛いとか弱音を吐くことはありませんでした。むしろ困難を正面から受け入れ、それを乗り越えるモチベーションを生きる糧にしているようにさえ見えました。

 博士は可能な限り現地を訪れ、農民と一緒に汗をかきながら優しく丁寧に手ほどきする一方、カントリーディレクターには厳しい姿勢で指導に当たられていました。そして年に一度の収穫祭で、農民たちが歓喜のダンスをしているときに見せる幸せに満ちた博士の笑顔を、私は忘れることができません。

「アフリカの子供たちが空腹を抱えたまま眠りにつかないように・・・。」博士がよく口にしていたその想いを胸に走り続けたその成果は、単に農民やその子どもたちの空腹を満たすだけのものではありませんでした。

Norman、あなたはアフリカの農民の心に、「夢」という、土壌を耕しました。
Norman、あなたはアフリカの農民の心に、「希望」という、種を植えました。
Norman、あなたはアフリカの農民の心に、「情熱」という、水と太陽を注ぎました。
そしてNorman、あなたはアフリカの農民の心に、「自信」という作物を実らせたのです。

あなたは決してあきらめなかった・・・。

私も、あなたがアフリカの人々のために活動を始めた時と同じ70歳になりました。
「アフリカに緑の革命を・・・。」私は、あなたの夢そして我々の夢をボーローグスピリットを継ぐ同志(指導者、学者・研究者、農民)とともに、最後まで追い続けます。
絶対にあきらめません。
ボーローグ博士、どうか安らかにお休み下さい。



「日本財団在宅看護センター」―起業家育成事業― [2014年08月08日(Fri)]
「日本財団在宅看護センター」
―起業家育成事業―


九州赤十字看護大学の学長を務められ、昨年、笹川記念保健協力財団の理事長に就任された喜多悦子氏は、人生最後の仕事の一つとして、看護師の起業家育成こそ高齢化社会において最も重要な社会的課題であると考えられ、日本全国に在宅看護センターを配置すべく、この度、日本財団と協力して看護師の起業家育成事業を開始した。

以下はその開校式での挨拶です。

―開講式 挨拶要旨―


2014年6月2日
於:日本財団


世の中は常に変化していますが、それにどのように対応していくかが重要です。私たち笹川記念保健協力財団と日本財団は、医療の在り方について、常に先進的なチャレンジをしてきました。

最初は日野原先生ご指導のもと、予防医療を目的とした「ライフプランニングセンター」を立ち上げました。病気になってからでは遅い。ここにおられる方がまだ生まれていらっしゃらない頃です。その頃は、血圧計も聴診器も医師しか扱えませんでした。

病気にならないためにはどうしたら良いかを、ライフプランニングセンターを中心に発信してきました。現在、生活習慣病と呼ばれる病気は、当時は成人病と表現されていました。成人病というと、成人になれば誰もがかかると勘違いする。生活習慣病へと変わったのはここ4、5年の話で、変えるまでに20年以上かかりました。

近頃は食生活の変化もあり、癌が非常に増えてきました。しかし、癌患者に対するケアというのが大変遅れていましたので、終末医療にタッチできる看護師さん、いわゆるホスピスナースを養成しようではないかことで研修制度を立ち上げました。今や緩和ケアなんて当たり前ですが、当時はまったくありませんでした。日本財団と笹川記念保健協力財団は、看護師協会と組んで認定看護師ということから始め、現在までに全国で3400人を養成してきました。

忘れもしません、第1回目は確か24人。このビルに来て頂きました。2、3人の方を除いて全員、病院を退職して来られました。「そんなものを勉強して何になる」、そんな時代でした。それでも終末医療に命を捧げたいという志のある人達が全国から来てくれました。私どももその熱意に報いようと、寮を作ったりして協力し、今も年1回、ここに集まって勉強会を続けております。

ご承知のように、今の医療は技術偏重の時代で、とにかく技術、技術で、医者が患者との間に人間的な触れ合いを作れない。医者はパソコンばかり見て、患者さんの顔を見ないでしゃべるのです。医療は医師と患者が心と心が通う人間関係を築いた上で行われないといけない。そういう医療が変わってしまった。ですから我々は、医師も終末医療についてもっと勉強してほしい考え、遅まきながら、自治医大などで終末医療の課程を作りました。皆さんのような看護師さんの志に比べて、医師は技術、技術の世界になって、患者との人間的な触れ合いを忘れてしまった。極端な話、今や医師が患者さんに対して上手に説明する言葉すら知らない人がいっぱいいるのです。

今から20、30年前は、癌になった患者さんにどのように説明するか、医師はみんなとても悩んだのです。「この人はしっかりしているから全部言っても大丈夫だろうか」「奥さんにそっと話そうか」などと、とても悩みました。今は患者の性格や家庭環境も知らず「あなた癌ですわ」と言う。こういった現在の医療をどう思いますか?

世論調査をみれば、8割9割の人が自宅で終末を迎えたいと願っています。病院の中で、スパゲッティーじゃないけど、いっぱい管をぶら下げられて・・・。そういう方法を望まれる方もいるかもしれませんが、終末は家でという希望が強いわけですから、やはり病院から自宅中心に移していかなければ国民の要望には応えられません。

在宅看護センターの起業家を目指す皆さんにお集まりいただき、第一回の研修会をスタートする今日は、歴史的な日だと思っています。今まで看護師さんはお医者さんに従属して言われたことをやるというお立場だったと思います。これからは、そういう看護師さんの立場が変わり、自ら在宅のケアを中心的にやっていく皆さんは、主役に躍り出るのです。

日本の長い看護の歴史の中で、多分、皆さんが医療の主役になるのは初めての出来事です。志のある皆さんの小さな今日の種が、10年、20年後に花開くよう願っています。看護師の皆さんが起業して、事業として成り立つ形で、かゆい所に手が届く、本当に患者さんと触れ合い、患者をケアしている家族のみなさんの信頼を得て、人生の最後を家の中でおくれる日が来ることを願っています。

終わりよければすべてよし。どんな困難な人生も終末がよければ素晴らしい人生です。栄誉栄華を極め億万のお金を貯め込んでも、終末が寂しければその人生はやはり悔いの残る人生になってしまいます。素晴らしい終末をおくってもらうためにお金は要りません。皆さま方の愛で、皆さん方の志によって多くの人が、本人はもとより家族も、終末をよくやって頂いた、ありがたいと思っていただけるような心の通った医療に日本を変えていく。今日はその出発点です。

日本財団は、単に皆様方に教育を受けて頂く為の協力だけではありません。皆様方には、ここで勉強して経営者として立派な知識を身に付けていただかなくてはなりません。人も雇わなくてはなりませんが、人を雇うって結構難しいのです。自分で働いた方が早いですからね。人を使ってやるというのは苦労を背負うことにもなりますが、これをやらなければならないのです。面倒でもここで勉強して頂いて、晴れて起業する時には日本財団が支援します。事務所を借りるというのなら事務所の費用も、あるいは看護をしたい人を数人預かって面倒みるような施設も含めて、私たちは皆さんと信頼関係を作り、最後まで支援させていただきます。

事業資金を銀行で借りるには保証人が必要になります。借りた金は返さないと怒られます。日本財団は返さなくても私が首になるだけで済みます。これは冗談です。心配いりませんから大船に乗った気持ちで勉強に励んでください。

笹川記念保健協力財団理事長の喜多悦子先生は、自分の長い看護生活の集大成にしようと、熱意に燃えて頑張っておられます。

何よりも皆さんは第一期生です。在宅看護のための組織作りは、皆さん方のこれからの人生の誇りとなることです。みんなが協力します。一緒に頑張りましょう。

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開会式後の懇親会で記念撮影
成功を祈って!
WANA(西アジア・北アフリカ)フォーラム―スピーチ― [2014年08月06日(Wed)]
WANA(西アジア・北アフリカ)フォーラム
―スピーチ―


WANAフォーラムは、西アジア・北アフリカ地域の経済・環境・エネルギー・教育・社会問題などを、各国の政治指導者、国際機関代表者、学者、研究者、市民社会代表者など幅広い分野を代表する知的指導者が国を越えて知的対話を行う場で、チェコのハヴェル大統領と私が、過去17年間にわたり、共にプラハで行ってきた国際知的対話のプラットフォーム「フォーラム2000」のアラブ版である。

「フォーラム2000」を通じて友人となったヨルダン王国のハッサン・ビン・タラール王子と私が協力して、アラブ諸国、トルコ、イラン、イラクや南アジアに至る国々の知的指導者を招へいして国際会議をヨルダンの首都アンマンで開催してきた。ハッサン王子は、「ローマクラブ」理事長、「人権問題に関する独立委員会事務局」理事長などの要職にあり、中東を代表する賢人として名高い人である。

WANAフォーラムは2009年に第1回を行い、今年は第6回目の会議となった。各回のテーマは以下のとおりである。

第1回 人間の安全保障            参加人数70名
第2回 国境をまたがる課題とその解決に向けて 参加人数130名
第3回 変化しつつあるWANA地域      参加人数61名
第4回 アイデンティティの課題        参加人数123名
第5回 住み慣れた環境を追われた人々     参加人数83名
第6回 司法へのアクセス向上         参加人数196名

毎回20ヶ国ほどの国々からの参加があり、会議は様々な共通課題を取り上げ、盛会ではあったが、具体的成果には到達しておらず、アラブの春は何処へやらで、市民社会の未成熟なWANA地域の混乱は拡大傾向にさえあり、当分収まる気配はない。

この会議の評価は、唯一、今まで存在しなかった各国の知的リーダーの国境を超えたネットワークが出来たことかもしれない。

日本財団が協力機関ということもあり、私たちはWANA地域が直面する経済、環境、エネルギー、市民社会などの諸問題について、日本や東南アジアの例を紹介することにも力を注いだ。過去の会議にはわれわれが紹介したインドネシア、マレーシア、フィリピンなどの知的指導者の参加もあり、日本からは日本政府代表を務められた有馬龍夫大使のご指導を得ながら、西村六善大使、米倉誠一郎一橋大学教授、恒川恵市政策研究学院大学副学長、菊池努青山学院大学教授が、ご多忙の中、発言のため参加して下さった。
厚く御礼申し上げたい。

以下、筆者のスピーチです。

************************


日本財団会長 笹川陽平
2014年6月11日
於:ヨルダン・アンマン


11日 WANAフォーラム開会式.JPG
開会式で挨拶


本日は、第6回西アジア・北アフリカ(West Asia North Africa:WANA)フォーラムでご挨拶をさせていたただけることを大変光栄に思います。はじめに、このフォーラムのホストであるハッサン殿下、アハマド・マンゴー博士、そしてエリカ・ハーパー博士をはじめとするワーキンググループのメンバーの皆さまのご尽力に心より敬意を表します。また、それぞれの国や地域の重要な課題に対し、日々研究を進めてくださっているワーキンググループの皆さまにあらためて感謝申し上げます。

私は殿下と長年にわたり親交を深める中で、WANA地域の平和で安定的な発展に対する殿下の熱い想いを幾度となく伺い、その確かなビジョン、情熱、揺らぐことのない志に大変感銘を受けてきました。

WANA地域に目を向けてみますと、ここが社会的、経済的、政治的、そして自然環境の側面から見ても、世界の中でも極めて重要な地域の一つであるということを痛感します。
しかし、長年の紛争やそれに続く暴動は、人間の安全保障を脅かし、政情不安を煽り、WANA地域に困難な課題をもたらしています。このフォーラムが、WANA地域の成長を妨げ、人々の生活を困難にしている様々な問題に、WANA地域の関係者が取り組むための対話の場を築いてきた経緯は評価すべきことであり、まさに、ハッサン殿下の先見性によるものであると思います。

今年のフォーラムのテーマは「リーガル・エンパワメント」です。世界中の何十億人もの人々が法の保護の外に追いやられていると言われており、WANA地域も例外ではありません。法の支配からの排除は、経済発展や人材育成に弊害をもたらし、さらには、インクルーシブな社会の構築への道を閉ざしてしまうでしょう。

私がこれまで行ってきた人道支援活動においても、このような暗い現実に何度も直面してまいりました。社会や法の保護から置き去りにされた人々。貧困にあえぎ、基本的な権利があることを意識していない人々。そのような人々の中でもハンセン病患者・回復者についてお話したいと思います。

ハンセン病は人類の歴史の中で、誤解され、偏見の対象となってきた病気です。治療をしないまま放置しておくと、顔や手足などに目に見える変形が生じることもあるため、人々に恐怖の念を抱かせました。また、神の罰や祟りであるとも思われてきました。そして、多くの国々では、ハンセン病患者が家族から引き離されて孤島や遠隔地に隔離されてきました。

何世紀にもわたり、ハンセン病患者・回復者は法の保護の外で生きることを余儀なくされ、公共サービスにアクセスすることもなく、彼ら自身の人権を意識することもなく、そして、貧困から脱却することもありませんでした。

最近になってようやく、ハンセン病患者・回復者を取り巻く状況が改善されるようになりました。その背景には、国際機関、政府、NGO、そして、ハンセン病回復者自身など様々な関係者の協力がありました。

こうした関係者との取り組みの中でも「リーガル・エンパワメント」がもたらした成果は顕著なものでした。多くの国々でハンセン病に対する差別法が撤廃されました。さらに、世界中の様々な国々において、ハンセン病回復者が自らのための組織を設立し、法の下に平等な権利を持つ市民であると認識されるようになるための活動をしています。彼らの努力により、ハンセン病患者・回復者が公共施設や社会的リソースを利用できるようになるなど具体的な成果へとつながりました。そして、最も重要なのは、ハンセン病患者・回復者が自ら声を上げ、社会に発信できるようになったことです。

しかし、真の意味でのインクルーシブな社会を実現していくためには、多くの人々の意識を変えるという努力を同時に進めていかなければなりません。私は、公正を欠いた行為が長年の慣習と伝統に根深く結びついているという社会を多く見てまいりました。それはあまりにも根深いため、意識の高い人ですら、このような現実に気づいていないのです。本日のフォーラムでは、ぜひ、こうした視点も検討の対象に含めていただければと思います。

WANA地域において、様々な分野のリーダー的立場にある皆さまが、個人や自国の利益に捉われず、この地域全体のより良い未来を追求するために、忌憚なく議論することができるこのような機会は大変意義深いものです。

WANAフォーラムが、今後WANA地域の発展と人々の明るい未来に貢献することを期待しています。

「第67回世界保健機関(WHO)総会」 [2014年06月30日(Mon)]
「第67回世界保健機関(WHO)総会」


毎年、5月のWHO総会には出席している。30年前にハルフダン・マーラー事務総長(当時)が、アルマータ(カザフスタン)宣言で、『全ての人に健康を』を主張された。

それをサポートするため、世界各地で活躍する公衆衛生保健について活動する団体を表彰する『笹川健康賞』を創設した。この賞の特徴は、賞金は受賞者に与えるのではなく、その活動に使用することになっていることである。

総会でのスピーチは恒例となっているが、それよりも私にとって大切な仕事は、総会に集まってくる各国の保健大臣や保健省幹部、また、各国の選挙で選出された世界6地域のWHOの地域事務局長やWHO本部の幹部職員などとハンセン病対策について効率的にじっくりと話し合い出来る絶好の機会なのである。以前は笹川記念保健協力財団の紀伊国献三会長が代役を務めてくれていた時期もあったが、今はそうはいかなくなってしまった。そのため、日本ではゴールデンウィークといわれる5月のジュネーブ訪問は定例化してしまった。

今年のWHOでの面談者を列挙してみた。

5月20日
10:00 モロッコ アブデラブマネ・マアルーフィ保健省感染症局長
11:00 WHO南東アジア地域事務所 プーナム・シン事務局長
16:00 アンゴラ ホセ・ヴァン・ドゥネム保健大臣
17:00 フィリピン エンリケ・オナ保健大臣
19:00 ジュネーブ日本代表部 小田部陽一大使

5月21日(水)
12:30 世界看護師協会 シャミアン会長との昼食
15:00 WHO西太平洋地域 シン事務局長
15:30 ミャンマー ペ・テン•キン保健大臣
16:00 ブラジル ジャーバス保健副大臣
16:30 タンザニア ラシッド保健大臣
    ザンジバル ドゥニ保健大臣

5月22日(木)
11:00 WHOアフリカ地域  サンボ事務局長
11:30 コンゴ民主共和国 ヌンビ保健大臣
11:45 モザンビーク マングエレ保健大臣
12:45 WHO マーガレット・チャン事務総長
    WHO 中谷比呂樹感染症局長
14:00 WHOアメリカ地域 エティエネ事務局長
15:00 WHO中東地域 アルワン事務局長
16:00 中国衛生部 張 勇 副局長
18:15 スリランカ代表団

******************

「第30回笹川健康賞授賞式・第67回WHO総会」
―スピーチ―


2014年5月22日
於:スイス・ジュネーブ


笹川健康賞授賞式にてスピーチ.JPG
笹川健康賞授賞式にてスピーチ


笹川健康賞は、WHOが掲げる「すべての人に健康を」という大義に賛同して1984年に設立されました。この30年間、本賞はプライマリ・ヘルスケアの分野において、ユニーク且つ革新的な活動を評価するというミッションを追求してきました。本賞が同分野におけるさらなる発展に寄与することを願っています。

笹川健康賞の趣旨を理解し、厳正・中立な選考をくださった選考委員の皆さまに心より感謝の意を表します。

本年は「Leprosy Control Foundation, Incorporated/Dominican Institute of Dermatology and Skin Surgery “Dr. Hubert Bogaert Diaz”:IDCP」が、ドミニカ共和国におけるハンセン病罹患率を減少させるという50年間の偉大な業績を評価され、今年の笹川健康賞を受賞されました。

IDCPは治療サービスにおける地方分権化を進め、コミュニティの参加を奨励しました。これにより、医療費が削減され、地方における意志決定を促進させ、さらには治療に従事する人々がより重要な役割を担うようになり、ハンセン病の早期発見・早期治療につながりました。
WHOハンセン病制圧大使として、長年にわたり、世界的なハンセン病との闘いに多大な貢献をされてきたIDCPに心より感謝申し上げます。

近年のIDCPの活動は多岐にわたっており、ハンセン病治療サービスに加え、皮膚疾患や感染症に対する総合的で専門的な治療を提供しています。彼らの最新の取り組みは「Embrace of Solidarity」というパイロットプロジェクトです。このプロジェクトは、既存の小児治療サービスの対象を広げ、病気の種類による治療格差を削減することで、様々な種類の皮膚病を患った子どもたちに対する小児治療の普及向上を目的としています。私は、この笹川健康賞の賞金が、彼らの取り組みを一層前進させてくれることを大変嬉しく思います。

この度、特に弱い立場に置かれている人々に対して、半世紀以上にわたり、質の高い医療を提供してこられた団体を支援できることに誇らしく思います。

今後も笹川健康賞を通じて、世界中で活躍する素晴らしい団体を支援できることを願っています。


「ちょっといい話」その41―デニス・ブレア海軍大将 笹川平和財団USA会長へ― [2014年04月28日(Mon)]
「ちょっといい話」その41
―デニス・ブレア海軍大将 笹川平和財団USA会長へ―


デニス・ブレア元米国国家情報長官、元太平洋軍事司令官海軍大将は、5月より笹川平和財団U.S.A(ワシントン)の会長に就任する。

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デニス・ブレア提督


4月14日にご夫妻で来日され、安倍首相、小野寺防衛大臣、統合幕僚長などと会談。また、日本財団、日本記者クラブで講演。かつて3年間横須賀に滞在されたこともあり、夫妻とも知日派である。

笹川平和財団は日本財団の姉妹財団で、日米の多様なオピニオンリーダーの交流をはじめ、日米が協力して世界の諸問題の解決に貢献できる基盤作りを目指して活動している。

大将は「財団を、日米関係を扱う最良のシンクタンクにするため全力を尽くしたい」と、筆者に抱負を述べてくれた。

米国における知日派はアーミテージ、ハムレ、ナイの各氏が良く知られているが、人材は極めて限られている。この層を厚くするためには見識、知見、人脈を有する米国人有力指導者で、積極的に協力してくださる人材の出現が待望されていた。笹川平和財団・羽生会長の尽力によりこの人事が実現したことは、これからの日米関係をより幅広くより強固にするための英断であった。

デニス・ブレア海軍大将の略歴は下記の通り。
2009年1月から2010年5月まで、米国家情報長官(DNI)として16の国家情報機関を統合し、50億ドル規模の予算を執行し、大統領、議会、そして戦地の作戦部隊に対して情報支援を行った。米海軍で34年間活動し、米軍最大の戦闘部隊である米国太平洋軍司令部の司令官を務めた後、2002年に退役。米海軍では、大西洋および太平洋艦隊の誘導ミサイル駆逐艦に従事し、キティ・ホーク空母打撃群を指揮した。また、統合参謀本部の事務局長、国家安全保障会議(NSC)における予算や政策担当の役職等も務めた。

米国海軍士官学校で教育を受け、ローズ奨学生としてオックスフォード大学で歴史学と言語学の修士号を取得。米国の防衛殊勲章および、国家情報業務に貢献した者に与えられる勲章を複数授与された他、日本、タイ、韓国、豪州、フィリピン、台湾を含む外国政府からも勲章を授与されている。
「日本人としての誇り」その2―講演― [2014年02月26日(Wed)]
「日本人としての誇り」その2
―講 演―


「第6回B&G全国サミット」
於:笹川記念会館・国際会議場


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世界は日本をどう見ているか。BBC放送が3年に1回行う調査では、世界百数十カ国の中で最も平和で安定した国は日本という結果が出ています。これまでに世界125カ国を訪れてみて、日本ほど四季が明確で、はげ山がない国はまずありません。山紫水明と言いますが、20世紀後半の世界の大問題である水問題ひとつをとっても、中国などは水がなくて、地下水を掘っても公害の水で飲めないということで、南の揚子江の水を黄河流域に流し込むことまでやっていますが、全然足りません。日本のように、ちょっと山に入れば手ですくって水が飲めるような国はありません。

日本には1000年もの昔に女性が書いた源氏物語を筆頭に、多くの小説や書き物があります。1000年前のヨーロッパは手で物を食べていました。その時代に日本人は箸を使って食べ、上流階級の人は詩歌を歌い和歌を作って恋愛をしていたんです。知的水準が高いのです。

人口が100万を超えた江戸の街には、近年、世界の人が望む、環境を重んじた循環社会が既にできていました。町民と言われる人たちは権力を持たないものの、歌舞伎や人形浄瑠璃を楽しみ、お伊勢参りをし、自由闊達な生活ができる環境があったんです。

ビクトリア王朝で活躍した英国の憲政学者ウォルター・バジョットは、国の理想的な体制は権力と権威を分離することが望ましいと言っています。そういう国はどこにあるんでしょうか。日本でしょう。天皇家は権威はお持ちになるが、権力は将軍家が持ち、権威と権力を分離したのです。英国の学者が言う素晴らしい制度が日本の中に、知らず知らずに誕生していたのです。

マーチン・ルーサーキングは黒人の人権運動でノーベル平和賞をもらいましたが、アメリカの人種差別はいまだに深刻な問題です。世界から人種差別をやめようという提案を国際会議で初めて行ったのは日本なのです。第1次世界大戦後のパリ講和会議・国際連盟委員会で提案し、議長をしていたウィルソン米大統領の拒否で通りませんでしたが、人類の普遍的原理である人種差別撤廃決議まで出した日本が、誇るべき外交成果を言わないまま、従軍慰安婦問題に翻弄されているは姿は情けない気がします。

サミュエル・ハンチントンは日本を世界の八大文明の一つに位置付けました。かつて中国から影響を受けたものの、それを消化しながら独自の文明を作ってきたのです。中国の近代化の関係で言えば、日本はマルクス、レーニンをはじめ、社会主義の文献の多くを日本語に翻訳していました。しかし中国にそういう言葉はなく、日本語を取り込んで今の中国共産党理論を作ったのです。中国の学生に「中華人民共和国」の中で中国語はどれかと聞くと、バカなことを聞いているなっていう顔をしますが、中華以外、人民も、共和も、国も日本語です。労働者、資本家、経営者、企業、賃金、芸術、文化、哲学・・・。中国で使われている約1400を超える社会科学系の言葉は、全部日本語です。中国は日本から言葉を輸入して今の共産主義体制を作り上げたとも言えるでしょう。

こういう話をほとんどの人は知りません。ですから私たちは、先人たちが築いてきた歴史や輝かしい文化を、きちっと次の世代に伝えていく必要があるのです。誇りを持つことと傲慢になることは別です。日本人は、謙虚で秩序ある国民性に立って、2000年の長い歴史を身に付け誇りを持つことが大切です。

国語教育の中に英語を取り入れるとか言っています。グローバリゼーションの時代、英語も必要ですが、日本のことを知らなかったら何もしゃべれない。勉強していないから外国人から聞かれても答えようがなく、「日本は特殊な国です」って逃げているうちに、「日本特殊論」が近年まで日本の位置付けになってしまった。これは学者や外交官の責任です。

日本は今、アベノミクスで経済が栄えようとしていますが、ここにも日本の特徴があります。世界で100年以上続いている企業はそれほどありません。アメリカでも100もないでしょう。マイスター制度、いわゆる匠の世界のあるドイツでも約2000と言われています。ところが日本には100年を超える企業が5万社もあります。自らの仕事に誇りを持ち、創業者の伝統を生かしながら社会の変化に対応してきたのです。

多分、韓国ではゼロでしょう。韓国は両班(ヤンバン)といって軍人か役人、この二つを目指します。それ以外の職業は下賤なものされ、有名な料理屋もお金が貯まれば息子を海外に留学させ、運動神経のいい子にはゴルフを教え、プロにするために店をたたんで家族ぐるみで海外に出て行く。中国、韓国人の多くは次に産まれてくる時には他の国がいいと言います。これに対し日本人は90パーセント以上が次に産まれてくる時も日本がいいと言いながら、自らの国に誇りを持っていないのは残念であり、不思議なことです。

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江戸時代末期から明治時代初期にかけて日本を訪れた欧米人の手記や書簡を掲載したベストセラー、渡辺京ニ氏の『逝きし世の面影』を読むと、いかに多くの外国人が日本を絶賛しているかがわかります。東京から日光に抜け福島、秋田、青森を通ってアイヌまで旅をしたイザベラバードという女性は、日本の田園風景の素晴らしさ、貧しいながらも礼儀正しい、いつも笑いを持った国民は珍しいと書いています。相対性原理を発見したアインシュタインも日本を絶賛しています。黒船で最初に伊豆に来たハリスは「こんなに笑顔を持って、子どもを大切にする国を見たことがない。こういう国に西洋の文化を入れていいのだろうか」と日記の中に悩みを書き遺しています。

先般、産経新聞の正論誌に載った慶応大学生、山本みずきさんの「18歳の宣戦布告国家観なき若者に次ぐ」が評判を呼びました。高校1年生で福岡県から選ばれ大使としてマレーシアに行った時、『君が代』を知らず、恥ずかしい思いをしたということを書いています。アメリカでは学校の教室には必ず星条旗を置き、いたずらをすれば星条旗を持たせて「もう二度としません」と約束させています。

国旗や国歌は思想、信条を超えて存在する普遍的なものです。軍国主義と関係するとかしないとか、そんな議論をしているのは、世界広しといえども日本だけです。だから日本の常識は世界の非常識と言われるのです。どうか次代を担う日本の子どもたちが自信と誇りを持つよう、きちっとした教育、しつけをしていただきたい。日本人の顔をした無国籍の子どもを増やしてはなりません。

宗教争い、民族紛争のない国を世界の中から探してみてください。ほとんどないのは日本だけです。権威と権力が分離した普遍的な政治体制を持つ国も日本を除いてほとんどありません。世界には193の国連加盟国がありますが、私は自信を持って、日本は世界一素晴らしい国だと言えます。
(了)

(注)
戦後、日本の教育がGHQの深謀遠慮によってどのように捻じ曲げられたか。
占領文書250万ページを読破した高橋史朗著『日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと』(致知出版社 1890円)は一読に値する。

ご興味の向きはどうぞ。

「日本人としての誇り」その1―講演― [2014年02月24日(Mon)]
「日本人としての誇り」その1
―講 演―


「第6回B&G全国サミット」
於:笹川記念会館・国際会議場


B&G(ブルーシー・アンド・グリーンランド)財団の第6回サミットが1月30日、東京・三田の笹川記念会館に、財団の支援で体育館やプールなど「海洋センター」を持つ全国390自治体から首長や教育長ら650人が出席して開かれた。冒頭、「日本人の誇り」と題して講演の機会を得た。

以下、2回に分け、講演要旨を掲載させていただく。
ご批判、ご意見をいただければ幸いです。

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昨日までインドネシアでハンセン病の制圧活動をしておりました。主にパプア島での活動でしたが、島の半分は独立国のパプアニューギニアで、あとの半分がインドネシア領になっています。特にビアク島やその周辺は激しい戦闘で2万人近くの日本兵がほとんど全滅したところです。洞窟に入ってみますと、秋田県とか岡山県から、出征の時に奥さんが身ごもっておられたのでしょうか。そういう人のお嬢さんが成人して、見たこともない父親のために自分や家族の写真を慰霊塔に供えられており、涙なしに見ることはできませんでした。戦争に対する評価はさまざまですが、日本自身がもっときちんと見直していく必要があるのではないか。

海外を回っていますと、自然と日本に思いをいたすわけですが、素晴らしい国に生を受けているにも関わらず、それがどのぐらいすごいか、日本人自身はほとんど知らないわけです。とりわけ青少年が知らないことに対し、後期高齢者の1人として重い責任を感じます。

先般、小野田寛郎さんが91歳で亡くなりました。未来を担う子どもたちのために余生を過ごしたいとのことで、日本財団もお手伝いをさせていただき、B&G財団の子供たちのためにも多大なご協力をいただきました。日本人としての誇りを持ち、この国を世界の中で十分な役割を果たす国家にしていかなければならないと最期まで働かれました。

歴史が断絶した国は世界で日本しかありません。歴史というものは、良いにつけ悪いにつけ、語り継がれなければならないわけですが、戦後の民主主義教育の中では「戦前は悪、戦後は善」、「江戸時代は封建時代」としか教えませんでした。誤った考えや行動は、世界のどの国にもあり、日本だけの問題ではありません。なのに日本は戦後長くGHQの指導の下、自虐史観、自らを貶める考えを徹底的に受けてきたわけです。メディアの韓国、中国報道などを見ると、その残滓が今も続いているのがお分かりいただけると思います。

そういう中で台湾やフィリピン、マレーシア、インドネシア、ベトナム、ラオス、カンボジア、ミャンマー、インドといった国々は、ことのほか親日的です。日本の敗戦という厳粛な事実の中でアジアがどのように蘇ったか、ある意味でそれは二百数十万に上る日本兵の犠牲によって達成されたわけです。

第2次世界大戦の正式な名称は大東亜戦争です。福沢諭吉の脱亜入欧、率先してヨーロッパの知識・制度を取り入れて日本を近代化し、これを基に遅れているアジアを引き上げていく壮大な構想でした。しかし大東亜戦争の名称はGHQの厳しい検閲で消され、幼稚園の遊戯大会で飾られた万国旗の中の日本の旗も黒く塗りつぶされる有様でした。

GHQに厳しく検閲された当時の日本の新聞は、アメリカのメリーランド大学のブランゲコレクションに保存されています。日本財団はこれをマイクロフィルム化してきましたが、メディアに対する弾圧は半端ではありませんでした。当時は新聞をはじめとしたメディアが使用する紙はGHQの割り当てだったので、逆らうような批判的な記事は書けなかったのです。

日本は石油の80%以上を海外から輸入しなければやっていけませんでした。ところがアメリカは、日本に石油を輸出してはいけないというルールを作って日本を締め上げ、排日移民法で日本人移民を苦しめ、学校にも行かせない、土地も買わせない。日本が生きるためにはやむにやまれぬ戦争だったのです。戦争が悪であるのは間違いありませんが、GHQの最高司令官だったマッカーサー元帥も帰国後、アメリカの議会で「日本は自衛のために戦いをせざるを得なかった」と証言しています。

大東亜戦争前のアジアの国々はどうだったか。フィリピンはアメリカ、マレーシア、シンガポール、ミャンマー、インドはイギリス、ベトナム、ラオス、カンボジアはフランス、インドネシアはオランダの植民地でした。これらの国々は大東亜戦争の後、独立を勝ち取りました。その多くに日本軍人の協力がありました。

先般、安倍総理がインドに行かれました。インドと日本は100年の長きにわたる幅広い交流があります。皆さんがよく召し上がるカレーライスは、ビバリーボースというインドの革命家が日本に亡命して新宿にある中村屋という果物屋さんに匿われ、そこのお嬢さんと結婚して、日本人にカレーはどうかということで日本風のカレーが始まったわけです。

インド独立には、日本人が重要な役割を果たしています。日本が大東亜戦争でシンガポールまで攻め落とした時、英国側で働いていたというか徴用されていたインド人5万人が捕虜になりました。彼らに食料を与え、面倒を見たのが若干32歳の藤原岩市という日本兵でした。インテリジェンス活動が主だった人物ですが、5万人の捕虜をスタジアムに集め「あなたたちはこれからインド解放のために戦わなければならない」と大演説を行いました。そして、ドイツにいたインド独立運動の指導者チャンドラ・ボースを潜水艦でシンガポールに移し、彼を長に5万人のインド独立軍ができたわけです。それが今のインド国軍です。

チャンドラ・ボースは「インド解放のために無駄な死に方をしてはいけない」という日本軍の反対を押し切ってインパール作戦にも参加しました。日本は負け、参加したインド兵はニューデリーやカルカッタで英国の軍事裁判にかけられるわけです。しかしネルーやマハトマ・ガンジーが「裁判は不当」と立ち上がり、彼らを釈放させるとともにイギリスを撤退させ、独立を勝ち取るわけです。藤原岩市なければインド独立はなかったと言っても過言ではありません。

インドネシアはどうでしょうか。日本がオランダを追い出し、負けたところに再びオランダが進軍してきた時、日本軍人や民間人約250人が祖国に帰らずスカルノを助け、インドネシアの独立が実現したわけです。

今、私が政府代表として武装勢力と政府側の交渉の一助をしておりますミャンマーの建国の父と言われ、アウンサン・スー・チー女史の父親であるアウンサン将軍も、当時ビルマといったミャンマーの独立のために日本の訓練を受けています。日本敗戦後、南機関と言われる約30人の将兵がミャンマー人の若き兵士を教育してイギリスとの戦争を戦い抜き、独立を勝ち取ったわけです。ミャンマーの陸軍士官学校では今も30を越える日本の軍歌がミャンマー語で歌われ、軍艦マーチは現在も彼らの最も得意とする音楽の一つ、「匍匐前進」(ほふくぜんしん)などの言葉も残っています。

先ほど申し上げたパプアニューギニア。これはオーストラリアが占領していたわけですが、日本の敗戦後、柴田さんという日本軍の中尉が、パプアニューギニアの国父と言われているマイケル・ソマレ首相の右腕としてオーストラリアと戦いました。その後、国が独立、初の選挙にマイケル・ソマレが立候補した時に助けたのがB&G財団生みの親である笹川良一です。ソマレは伝記の中で「良一は自分の親父みたいな人だった」、「この名誉ある名前をいただいて、息子にマイケル・ソマレ・リョウイチの名を付けた」と書いています。

台湾の蒋介石は「恨みに対し恩を持って報いたい」と日本兵を無傷で返してくれました。台湾に移動する時、軍を強化しないと共産主義に負ける、ということで日本に協力要請があり、岡村寧次大将を中心に使節団が入りました。メンバーの一人で私のはるか先輩でもあった富田大佐は「共産党の赤に対して白で対峙する」と言って「パイ」という名前で現地に入り、現在の台湾軍を創設した人として大きな足跡を残しています。

それでは中国大陸はどうだったか。「国父」とまで言われる孫文の日本、ハワイ、香港での亡命生活の面倒をみた人に梅屋庄吉がいます。香港で写真屋から活動写真、映画館の経営で億の金を残し、孫文の活動を全面的に支え、仲人もしました。日中国交40周年事業として上海で梅屋庄吉展をやる計画になっていたのですが、現下の状況で中止になったのは残念です。

昭和24年か25年のことですが、毛沢東から日本の旧陸軍の人たちに「われわれが作った共産中国が本当に機能しているか見学して助言がほしい」という声が掛かり、一行25、6人が、香港まではパスポート、さらに密入国同然で大陸に入り、毛沢東が手配した飛行機1機に乗って1カ月間にわたって中国全土を視察したことがあります。一行は視察後、毛沢東の自宅に招待を受けました。横には周恩来も彭徳懐元師もいました。最年少者は陸軍士官学校を出る前に終戦になった当時29歳、現在は89歳の清水さんという方で、この時の資料が私どもの手元にあります。

それによると、視察団の団長はこの席で「とんでもない国になってしまった。毛沢東さん、あんた悪い。共産主義では、これからの中国はあり得ない。私はあなたのやり方に大反対だ」と言ったんですね。これに対し毛沢東は「ありがとう、ありがとう」と言いながら笑顔で話を聞いた。中国人もこれくらい腹は太かったんですね。それに比べ昨今の状況は少し情けない気もします。

「歴史にifはない」と言いますが、大東亜戦争という日本の戦いがなければ、アジアの国すべてが独立を達成するということはあり得なかったと思います。いまだにインドネシアはオランダ領、フィリピンはアメリカの植民地、ベトナム、ラオス、カンボジアはフランス領、インド、ミャンマーは英国領だったかもしれません。

アジアは今や、世界で最も発展する可能性のある地域として注目されていますが、国づくりを初歩から助け、十数年前、アメリカの投資家ジョージ・ソロスが仕掛けたタイのバーツ売りでアジアの通貨が大混乱してすべて下落する中、買い支えをやったのも日本です。これによって、今日のアジアの経済発展があるのです。

皆さんは佐藤栄作元首相は沖縄返還でノーベル平和賞を受けたと信じておられると思います。それも一部ではありますが、アジアの平和と安定のために貢献したというのが一番の趣旨です。

私の話を聞いていただいて、日ごろの新聞報道などと相当違った感想をお持ちになったと思いますが、今、アジアの国の多くは「日本よ、今一度われわれの兄貴分として、世界のために、アジアの代表として存在感を示してほしい」と願っています。

(次回に続く)

「第9回グローバル・アピール」―ハンセン病に対するスティグマと差別の撤廃― [2014年02月17日(Mon)]
「第9回グローバル・アピール」
―ハンセン病に対するスティグマと差別の撤廃―


毎年1月の最後の日曜日は「世界ハンセン病の日」。世界各国でハンセン病の正しい知識の普及とスティグマ(社会的烙印)や差別のない社会を目指して啓発活動が行われる。

この日のために筆者は毎年、世界の指導者、国際的な有力団体の協力を得て「グローバル・アピール」を発表してきた。今年は各国にある国家人権機関39ヶ国の協力を得て、インドネシアのジャカルタから世界に発表した。

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人権委員、ハンセン病回復者たちと共に「グローバル・アピール」を読み上げる


インドネシアはインド、ブラジルに次ぐ世界3番目に患者の多い国である。多島国家であるこの国で、島々に根強く残るスティグマや差別の実態を、今回、東半分が独立国家パプアニューギニアであるところの西半分、インドネシアのパプア州やビアク島で、実際にこの目で確認することができた。

障害の重い回復者は「恥ずかしい病気」だと誤解しており、ほとんど自宅から出ることもなく生活している様子であった。このことは別の機会に報告させていただく。

以下は「グローバル・アピール」での筆者のスピーチです。

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第9回グローバル・アピール
日本財団会長 笹川陽平


2014年1月27日
於:インドネシア・ジャカルタ


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式典でスピーチ


ハンセン病の差別撤廃を世界に発信するグローバル・アピールは、今年で9回目を迎えることとなりました。今年は各国の国家人権機関の皆さまと、ここインドネシアにおいてグローバル・アピールを発信できることを大変嬉しく思います。

ハンセン病は最も誤解され、最も深刻な差別を伴う病気の一つです。非常に残念なことに、病気が完治するようになった今なお、社会とハンセン病患者・回復者の間にはスティグマや差別という高くて厚い壁が立ちはだかっています。この壁は、ハンセン病患者・回復者とその家族をコミュニティから排除し、教育・雇用・結婚などの機会を制限し、彼らの希望、夢、そして、尊厳を奪っています。

私たちは、ハンセン病を取り巻く根深い差別の問題を広く世界に訴えるために、2006年にグローバル・アピールの実施を開始しました。これまでノーベル平和賞受賞者、世界のリーダー、世界医師会、国際法曹協会等にアピールいただいておりますが、毎年のアピールの根底には「ハンセン病患者・回復者の尊厳と人権の回復」という共通の目的があります。

このイニシアチブと並行して、私たちは国連にもアプローチをしてまいりました。2003年、私は国連人権高等弁務官事務所にハンセン病を取り巻く問題を人権侵害問題として取り上げるよう働きかけました。関係者の皆さまの多大なるご協力により、7年の歳月を経て、2010年12月、「ハンセン患者・回復者及びその家族への差別撤廃決議」およびその原則とガイドラインが国連総会の総意をもって採択されました。国連決議は、ハンセン病患者・回復者とその家族が病気を理由に差別されることなく、人としての尊厳と基本的人権・自由を有することを謳っています。この時、国際社会においてはじめて、ハンセン病患者・回復者の見過ごされてきた人権問題や彼らに対するスティグマや差別を根絶することの重要性が議論されました。そして、これまでハンセン病患者・回復者が参画することが困難であった教育、選挙という基本的な権利を保障する明確なガイドラインが示されました。

このような前向きな動きがあるにも関わらず、日常において、社会のスティグマや差別に直面する人々の生活はなかなか変わりません。ここインドネシアでも、ハンセン病患者・回復者と社会を隔てる高くて厚い壁が立ちはだかっています。多くのハンセン病患者・回復者が病気を理由に解雇されたり、コミュニティから排除されたりという経験をし、基本的な社会・経済活動を行うことさえ不可能な状況に直面しています。

こうした状況に対応するために、ここインドネシアではPerMaTaという当事者団体がハンセン病患者・回復者とその家族の人権回復を推進するために精力的に活動しています。しかし、2007年にPerMaTaが設立された当時は、基本的な権利・自由であるはずの公共施設で会合を開催することさえ困難でした。彼らがホテルで会合をしようとした際、ホテル側から「他のお客様のご迷惑になりますので」と追い出されるという出来事がありました。日本においても、かつてハンセン病回復者がホテルなどの公共施設の入館を拒否されたり、控えさせられたり、という出来事が起こったことがありました。これらの例は、いかにハンセン病患者・回復者への偏見と差別が世界中の至るところに存在しているかという証拠であります。そして、これがハンセン病が長い間、社会の差別の対象から解放されない根深い問題としている要因なのです。

メンバーの大変な努力の甲斐もあり、PerMaTaのイニシアチブは、コミュニティにおけるハンセン病患者・回復者とその家族に対する態度や認識を変えつつあります。しかし、社会全体の認識を変えるには、様々な社会セクターからより多くの人々の努力を必要とするでしょう。

私たちは本日ここに集まり、第9回のグローバル・アピールを発信することになりました。今回は、世界各国の国家人権機関が私たちの呼びかけにご賛同くださり、ハンセン病患者・回復者に対する人権侵害について、世界中にアピールしていきます。

国家人権機関は、ハンセン病患者・回復者とその家族の人権を守り、促進すること、彼らが直面する様々な人権侵害を調査し、政府に進言すること、国内関係者や市民社会と協力して継続的な啓発活動と一般向けのキャンペーンも行うことなど、重要な役割を担う強力なパートナーとなってくれるでしょう。非常に心強いことに、国家人権機関は既にNGOや政府と協力し、世界中の多くの国で活動を行っています。ここインドネシアでも国家人権委員会はPerMaTaと協力し、ハンセン病を取り巻くスティグマや差別に対する啓発のために様々なキャンペーンを実施していると伺っています。

私はこうしたイニシアチブが、さらに世界中に広がっていくことを心より期待しています。変化を起こすには、長い時間と多大な努力を要しますが、固い決意を持った人々が集まれば、ハンセン病患者・回復者を社会から隔離している高くて、厚い壁を壊し、ハンセン病患者・回復者に対するスティグマや差別のない社会を築くことができると確信しております。

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以下は発表場所と協力者のリストです。

第1回  2006 インド(デリー)     ノーベル平和賞5名を含む国家元首
第2回  2007 フィリピン(マニラ)   各国で活躍するハンセン病回復者
第3回  2008 ロンドン(イギリス)   世界主要人権団体
第4回  2009 ロンドン(イギリス)   世界主要宗教指導者
第5回  2010 インド(デリー)     世界的大企業の代表
第6回  2011 中国(北京)       世界110大学の学長
第7回  2012 ブラジル(サンパウロ)  世界医師会および50カ国の医師会
第8回  2013 ロンドン(イギリス)   国際法曹協会および40カ国、1地域から46の法曹協会
第9回  2014 インドネシア(ジャカルタ)世界39カ国の国家人権機関


「ミャンマー障害者芸術祭」 [2013年12月25日(Wed)]
「ミャンマー障害者芸術祭」


ミャンマーで初めての『障害者芸術祭』を三日間開催した。

日本財団は大野修一の指導のもと、ベトナム、ラオス、カンボジアなどで障害者芸術祭を開催しているが、ミャンマーでは初めてのことである。

ミャンマーでも障害者は家に引きこもりがちで、社会の見る目も一般的に冷たい。何とかして彼らをもっと社会に引っ張り出そうというのが大野の考えで、障害者の全国組織化と組織の自立のための障害者専門のタクシー会社の設立を目論んでいるところである。

何はともあれ、朝9時から夜11時まで、三日間とも満員の観客で大いに盛り上がり、障害者は勿論、その家族までもが明るく陽気に自信を取り戻した感のある意義ある芸術祭であった。

場内は満員の大盛況.JPG
場内は満員の大盛況


以下はその際のスピーチです。

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2013年10月17日
於:ミャンマー・ヤンゴン


ソウ・マウン大統領府付大臣、ブルネイ、カンボジア、インドネシア、ラオス、マレーシア、タイ、米国、日本の各国大使の皆さま、ご来場の皆さま、本日は、ミャンマー障害者芸術祭にお越し下さいまして、誠にありがとうございます。多くの皆さまにお目にかかることができ、大変嬉しく思います。
皆さま、本日は、ミャンマー障害者芸術祭にようこそお越しくださいました。

これから3日間、皆さんはこれまで経験したことのないような新たな気付きを得ることでしょう。この芸術祭では、目の見えない画家、耳が聞こえない太鼓演奏者、そして車いすのダンサーがスポットライトを浴びながら、素晴らしいパフォーマンスを披露します。皆さんはこの不可能に思えるようなことをなぜ彼らが成し遂げることができたのか不思議に思うかもしれません。彼らが本当にそのようなパフォーマンスをできるのかと疑問に思うかもしれませんが、彼らは見事に成し遂げてくれるでしょう。それは、彼らが自らの限界を決めず、障害という困難に立ち向かうための勇気と信念を兼ね備えているからです。

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生き生きと踊り!

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歌う!


これまで、障害者は、多くの国々において、支援や施しを受ける側と決めつけられてきました。彼らに可能性が有る無しに関わらず、障害があるというだけで、社会は自動的に能力の限界を決めつけ、学校教育や職業訓練、就職といった機会を諦めるということが暗黙とされてきました。

しかし、ここ何年かの間に、障害者による団体や障害者のための団体が世界中で設立されてきました。例えば、日本財団はアジアにおいて、自らの限界を超えて挑戦しようとするような視覚、聴覚、身体などの様々な障害者団体を支援してきました。私たちは、いくつものプロジェクトを通じて、障害者が知識やスキルを習得したりするだけではなく、彼らが自信を持って自分のことは自分で決めたり、自分の可能性を発揮することが何よりも重要であることをあらためて認識しました。

日本財団は、ここミャンマーにおいて、3人の若い障害者によって2011年に設立された「ミャンマー自立生活協会」(Myanmar Independent Living Initiative:MILI)というNGOを支援しています。MILIの成功はチャリティではなく、彼らの勇気と信念によってもたらされたものです。彼らにとって転機となったのは、日本のリーダーシップトレーニングに参加した経験です。その時、彼らは、障害者も適切な配慮を受ければ、自立した生活を送ることができるということを実感しました。そして、学校教育や職業訓練、就職における平等な機会が与えられれば、障害者も与えられる側から与える側になれるということを確信したのです。MILIの若いリーダーは、他の障害者の可能性を見出し、自らが限界と諦めていた壁を乗り越える手助けをすることこそ、自分たちの使命であると目覚めました。そして、日本財団は彼らの活動を支えてきました。

MILIは現在、ミャンマー国内に支部をつくるために、新たな活動を担う障害者のトレーニングに取り組んでいます。また、彼らは企業や様々な分野の組織に対する周知啓発を通じて、障害者に対して、新たな認識を持ってもらうためのワークショップを開催しています。さらに、MILIはこの芸術祭を通じて、ミャンマーはもちろん、世界の障害者に働きかけようとしています。

日本財団はこのような芸術祭をすでにラオス、ベトナム、カンボジアで開催してきました。私たちはこの芸術祭を通じて、障害者が自信を持ち、障害を持った子供たちが希望を持ち、さらには社会の障害者に対する認識が変わっていくことを期待しています。

来年、ミャンマーは東南アジア諸国連合(ASEAN)サミットのホスト国を務めます。そのASEANサミットの公式イベントとして、ASEAN各国から障害のある芸術家たちが一堂に会する芸術祭が開催され、これに日本財団が支援をさせていただくことになっています。私はASEANサミットでの障害者芸術祭が、ASEAN諸国の人々が障害者の才能をきちんと認識するための貴重な機会となると確信しています。

皆さんは、これから3日間の芸術祭でミャンマーの障害者の隠れた才能に触れ、驚かれることでしょう。私はこの芸術祭が来年のASEANサミットに向けての布石となり、AEAN地域の指導者に衝撃を与えてくれることを期待しています。

さて、本日は、日本からもろうあ太鼓のグループが駆けつけています。
彼らは熱気溢れるパワフルな演奏を披露してくれることでしょう。

日本からは甲州ろうあ太鼓が演技を披露、喝采を浴びる.JPG
甲州ろうあ太鼓が演技を披露


私はこの3日間の芸術祭が、私たちが互いの多様性を受入れ、インクルーシブ、且つバリアフリーな社会の実現を目指す機会になると信じています。そして、老若男女に加えて、健常者も障害者も、誰もが自らの可能性を発揮し、社会の中で平等に機会を得られるようになることを期待しています。
そのために、ミャンマー政府が障害者の声に耳を傾け、施策に反映しようとしていることは非常に素晴らしいスタートであると私は思います。

多くの障害者団体の声が反映され、皆が平等に参画できる、多様性に富んだ社会の実現を目指そうという認識が、社会の中に広がっていくことを願っています。

「国際防災の日記念 障害者と防災シンポジウム」 [2013年12月18日(Wed)]
「国際防災の日記念 障害者と防災シンポジウム」
―誰もが住みやすいまちづくりに向けて―


2015年、仙台で開催される『第3回国連世界防災会議』において、障害者や要援護者が災害から身を守る方法もマニュアル化してほしいとの願いから、今回の会議を主催した。

驚くことに、今まで国連世界防災会議で障害者や要援護者についての議論はなかったという。

以下はその時の即席スピーチです。

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2013年10月29日(火)
於 岩手県陸前高田市 キャピタルホテル1000


マルガレータ・ワルストロム国連事務総長特別代表 キャラクターと共に (2).jpg


日本財団は福祉と防災は重要なテーマとして取り組んでいることもあり、本日、こうしてシンポジウムを開催できることを心より嬉しく思います。

日本財団の多岐にわたる活動のなかで、福祉分野においては健常者、障害者が分け隔てなくイコールパートナーとして活躍できるコミュニティー作りを目指しており、災害支援分野においては阪神淡路大震災以降、東日本大震災を含め29回の災害時に復旧支援に出動するなど、復興と再建を目指して様々な取り組みを行っています。

私たちが住む地球そのものが生命体であり、生き物です。そのため災害はいつどこで起こるか分かりません。こんな例を聞いたことがあります。カナダ人女性が日本での留学を決めた際、ご両親から「日本は地震が多いから気をつけなさい」と言われたそうです。お嬢さんは「留学先は最も地震が少なくて安全な神戸だから安心して」と答えたそうですが、その2週間後に大震災が発生してしまったそうです。また、約29年前に東京大学地震研究所の先生が富士山噴火を予測され、大変な騒ぎになりました。その先生は退官後、日本で一番安全と言われていた仙台に移住したとのことですが、なんと引っ越してから6ヶ月後に地震が起きたのです。災害は誰にも予測できず、忘れた頃にやってくるものです。

だからこそ、いつ災害が起こっても対処できるように、普段から対策を練っておく必要があります。そこで、対策となるとまずは食料や当面の生活に必要なものを揃えることを思いつきます。これまではそれが一般的であり、一時的な危機から自分の身を守るためには、必要十分な備えと言えるのかもしれません。しかし、今後の防災対策には障害者や要援護者への配慮を組み込まねばなりません。大変残念なことに、東日本大震災では健常者に比べて障害者は倍以上の方が犠牲になったという悲しい事実がありました。これまで災害時における障害者や要援護者への救済策の議論があまりにも不十分であったことの代償とも言えるかもしれません。

同じ事を繰り返さないためにも、健常者のみならず障害者や要援護者を含めて災害から身を守る方法を探していかねばなりません。2015年に仙台で開催される第3回国連世界防災会議では、東日本大震災の教訓をもとに、あらゆる立場に配慮した防災行動計画を検討していただきたいと思います。そして、災害時だけでなく日常の生活において、老人や障害者への心配りが有事の行動に繋がります。誰もが他人を思いやり自然に行動できるコミュニティーを築くことこそ、東日本大震災の一番の教訓であると思っております。
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