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日本財団会長 笹川陽平ブログ

写真:ハンセン病の現場から「アフリカ・ピグミー族」

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「国連人権理事会」―ハンセン病と人権― [2017年09月13日(Wed)]
「国連人権理事会」
―ハンセン病と人権―


ハンセン病制圧活動に従事して約40年。1995年〜2000年の5年間、日本財団ではハンセン病の特効薬であるMDT(多剤併用療法)を全世界に無料で配布した。WHOの調査によると、500〜700万人の患者に配布され、患者は劇的に減少。現在世界で発見される1年間の新規患者は約20万人にまで減少している。

しかし、病気から解放された人々の生活は、元患者として厳しい差別の対象となっていることには何ら変化はなかった。私は医療に重点をおいた活動だけでは不十分なことに気づき、遅まきながら、2003年に国連人権理事会(当時は委員会)に対し、ハンセン病患者・回復者とその家族への差別撤廃の活動を開始した。

いくつもの障害を多くの方々の協力で突破し、2010年には日本政府、外務省の努力で「ハンセン病患者・回復者とその家族に対する差別撤廃決議案」をニューヨークの国連総会で、全ての参加国193ヶ国の賛成で決議された。

その後日本財団は上記決議を受け、5大陸でシンポジウムやメディアを中心に啓発活動を活発に行ってきたが、更に専門家による調査を報告する特別報告者の任命についての決議が、第35回国連人権理事会で、ジュネーブの日本政府国連代表部・志野光子大使を中心に獅子奮迅の活躍で、当初悲観視されていた決議は無事可決された。

NGOである日本財団に与えられた発言時間は2分間である。急用で帰国を余儀なくされた私に替わって、伊藤京子が立派に役割を果たしてくれた。

2004年の国連人権委員会で、歴史上で初めて、ハンセン病問題を提起したスピーチと、今回のスピーチを掲載しました。

******************


※2004年スピーチ
第60回国連人権委員会

2004年3月
於:ジュネーブ


議長、本日ここでハンセン病と人権の問題について、お話させていただきます。
ハンセン病は、有効な治療をしないでいると身体に大きな障害を発生させる病気です。
したがって、大昔から人びとはハンセン病に対する恐怖心と嫌悪の情を持ち続けてきました。
そのため患者は隔離されてきました。
そして隔離は差別を生んできました。
その差別はハンセン病の患者を社会ののけ者としてきました。
ハンセン病患者は死ぬことよりつらい生を生きることになります。
家族はその一員に患者がいることを世間に知られることを恐れました。
患者たちは隠れた存在とされてきました。
そして見捨てられたのです。
現在、ハンセン病は治る病気になりました。
1980年代初期以降、1200万人の人が治癒しています。
116ヶ国で制圧が達成されました。
現在、世界の新たな患者数は60万人弱です。
しかし、議長、問題は残ります。
差別はいまだに社会に根強く残っています。
回復者はいまだに結婚することもできず、仕事も得られず、教育を受けることもできないでいます。
いまだに社会ののけ者として扱われます。
問題は巨大で世界的規模であります。
ハンセン病が危険な病気や遺伝する病気であると多くの人が思っています。
いまでも多くの人が(ハンセン病は)天から与えられた罰だと考えています。
ですからいまもなお数百万人が隔離状態で生活しています。
患者は家に戻ることができません。
家族には(患者は)存在しない者とされています。
昨年、私はWHOハンセン病制圧特別大使として、125日間、27ヶ国を訪問しました。
私はこの目で差別を見てきました。
議長、何故ハンセン病は今日まで人権問題として取り上げられなかったのでしょうか?
その理由は、ハンセン病患者が見捨てられた人たちだからです。
名前も身分も剥奪された人たちなのです。
自分の人権を取り戻すための声すらあげられないのです。
ただ黙ることしかできません。
ですから、私はいまみなさんの前で訴えています。
声をあげることができない人たちに対して注目をしてもらうためなのです。

議長、ハンセン病は人権問題です。
(国連人権)委員会メンバーにこの問題をなくすことに積極的に取り組んでいただきたい。
世界で調査を行い、解決法を考えていただきたい。
そして、ハンセン病に関わる人たちのために、差別のない世界の実現に向けて指針を提示していただきたいと思います。
ご清聴ありがとうございました。


※2017年スピーチ
国連人権理事会 第35部会

2017年6月
於:ジュネーブ


私たち日本財団が初めて、ハンセン病患者、回復者の差別の問題について注意を喚起するために、人権委員会において公式に訴えたのは2004年のことでした。ハンセン病とは、聖書の時代から人類が苦しめられてきた病気です。

以来、日本財団は日本政府他、関係者と共に協力しながら、ハンセン病患者、回復者とその家族の人権についてアドボカシー活動を続けています。2010年、国連総会においてハンセン病患者、回復者とその家族への差別撤廃の決議が採択されました。この決議と、同時に採択された原則とガイドライン(P&G)では、ハンセン病患者、回復者が尊厳と人権を有することが明記されています。このことは重要なマイルストーンでした。

しかしながら、このたび人権理事会に提出された調査委員会のレポートでは、原則とガイドラインで定められていることが完全に履行されるための各国政府の取り組みは、残念ながら十分な段階に達していないという懸念が報告されています。世界の多くの場所で、ハンセン病患者、回復者とその家族は今なお、人権の侵害に苦しめられ続けているということを、私は強調せざるをえません。この状況を正すために、各国政府と関係者は行動を起こすことが求められています。

したがって、私たちは、日本政府からこの第35部会人権理事会に提出されるハンセン病患者、回復者とその家族への差別撤廃の決議を強く支持します。

私たちは、加盟国政府がこの必要性を認識し、決議が本人権理事会において採択されることと確信しております。




「2017国連海洋会議」―本会議スピーチ― [2017年08月28日(Mon)]
「2017国連海洋会議」
―本会議スピーチ―


6月8日の世界海洋の日を中心に、国連では6月5日から9日まで、様々なイベントが行われた。

私の本来の願いである人類の生存にかかわる海洋問題について、ようやく国際社会での議論も出はじめ、今後の海洋の持続可能なあり方について、各国が真剣に関心を持ち始めたキックオフ・イベントと位置づけてもよいのではなかろうか。

今回私は5回のスピーチの機会をいただき、国連総会場では、国連における海洋の総括的管理の重要性とその仕組作りについての提案も行った。

日本での海に関する役所は9省庁11部局といわれ、縦割りの複雑な状況下にあったが、海洋基本法の成立と共に、海洋政策本部が統括することになった。国連においても海洋問題はさまざまな機関が、専門分野別に縦割り行政になっているのは日本と同じである。

海洋の「持続可能な安全」なくしては、人類の500年1000年後の生存は危ぶまれるとの危機感から、下記のような問題提起の発言をした。

***************


2017年6月9日
於:国連本会議場


A国連本会議場.JPG
国連本会議場でスピーチ


皆さん、こんにちは。このような機会を与えてくださったことに感謝いたします。

私たち日本財団は、長年に亘り、持続可能な海を実現するため取り組んでまいりました。私は、日本財団の会長として、これを実現するために、グローバルな取り組みの必要性を訴えてきました。しかし、喫緊の海洋危機に対して各国の取り組みは十分に対応出来ていないのが現状です。

2015年の国際海事機関International Maritime OrganizationIMOの第29回総会で、私は、多様な海の問題を解決するためには総合的な海洋管理を行うための新たな枠組みが必要だと提案しました。

本日、その具体的な枠組みとして私が国連に提案するのは、既存の機関をコーディネートする海洋管理に関する政府間パネルの設置です。このパネルは、国連事務総長を通じて国連総会に報告されます。このパネルは、持続可能な海にしていくために様々な分野の専門家からの意見を求め、明確な行動を起こします。そして、様々な団体、政府、そしてその他のステークホルダーのこれまでの努力を集結し、より大きなコレクティブ・インパクトを生み出すように努めます。

そして、私はこのパネルの設立・運営資金を確保するための海洋管理基金が設置されることをこの場で提案したいと思います。

世界の海はいま、一刻の猶予も許されない状態です。私たちは、具体的に動き出さなければなりません。海と人類の未来のために確実な一歩を踏み出しましょう。

この海洋管理のための政府間パネルの実現のために、皆さまの協力をいただけるのであれば、日本財団は努力を惜しみません。

ありがとうございました。

(注)このスピーチを受け、マルタ共和国やその他の国々から強い賛意がありました。私の夢である総合的海洋管理の国際的枠組作りの可能性が出てきました。更なる努力を続けて参ります。
「ミャンマー少数民族の現状について」―日本ミャンマー協会第6期総会講演― [2017年08月21日(Mon)]
「ミャンマー少数民族の現状について」
―日本ミャンマー協会第6期総会講演―


2017年6月27日
於:海運クラブ


 日本財団の笹川でございます。まずは現地のイメージがおわかりにくいと思いますのでNHKで放送された映像をごらんください。〈少数民族武装勢力の指導者と会談するために十数時間もかけて道なき道を行く場面や、ローソクの明かりしかない薄暗い中で、食事をとりながら交渉をしている様子が映し出されました。〉

 映像を見ていただき、少数民族武装勢力のいる地域がどういうものか、多少おわかりいただけたのではないかと思います。何分にも70年以上にわたる少数民族武装勢力側との戦いでございますので、和平に向けたミャンマー政府・国軍との交渉がそう簡単に進むわけではありません。私ども日本財団は1976年のタンシュエ政権時代からミャンマーに支援をしてきていますが、これまでに130億円に近い資金をさまざまな人道支援活動に投じてきました。

 渡邉会長から「経済発展のためのさまざまな支援については俺がやる、お前はもっと山の中に行って勉強してこい」と言われ、今日まで山岳地帯を中心にやっているわけでございます。少数民族武装勢力は大きく分けて15あります。ご案内の通り、少数民族武装勢力が住んでいるところは山岳地帯ですから、かつて世界最強の軍隊でありました英国軍も、この少数民族地域を何とか制覇しようと、相当な重火器をもって対処したのですが、相手は小銃しかないんですけれど山の上から攻撃されると弱いですね。何とかこれを制覇して山に登っていくと、彼らは次の後ろのもう少し高い山の上から攻撃する。この繰り返しで、結局英国軍は戦線から全面撤退しました。そのような困難な地域でございますから、ミャンマー国軍と雖もそう簡単には中に入れない。もちろん飛行機を使っての爆撃ならできますけれど、少数民族武装勢力も点々と住んでいるわけで、なかなか的確な攻撃をするのは難しい状況があります。

ミャンマー資料.png


笹川流で少数民族との信頼を醸成・獲得
 少数民族武装勢力地域と言いましても、ミャンマーと同化している地域、それから私たちがブラックエリアと呼んでいる完全に政府軍の入れない地域、これら二つの中間地域をグレイエリアというふうに3つに分けています。ブラックエリアは、幸い私たち日本財団だけは現地に入れるのですが、未だ国際機関やJICAも入れていません。私たちのチームでアイルランド人の紛争解決の専門家がおりますが、彼すらも西洋人ということでブラックエリアには入れません。

 私は現在和平担当の日本政府代表という立場でもありますので、軽々しい行動はとれませんけれど、以前はタイのインテリジェンスの許可を得て、タイ側からミャンマーに入国して武装勢力と会談することもたびたびありました。5年間でミャンマーを訪問したのは70回になりますが、訪問のほとんどは少数民族武装勢力との会談です。彼らは過去の経験談ばかりをしますけれど、それをじっと聞いてあげないと駄目なのです。お年寄りも多いのですが、何年の何月はどうだったということをはっきり記憶されていて、その話をだまって聞いてあげる。そこから信頼関係を醸成させていくというのが私流のやり方です。肩書や名刺を出したからすぐ率直な話ができる、というものでもありません。私のやり方は非常に泥臭いやり方です。とにかく回数を重ねて会う。彼らから見れば、少数民族である自分たちの地域以外の人はすべて敵と見做していますから、なんで日本人がこんなところに入って来たんだろう、翡翠鉱山でも狙いに来たのか、あるいは何かあくどい商売をしようと思って来たのか、という様に、すべては疑いの目で見るわけですから、私の立場と人間性を理解してもらうには、やはり回数を重ねて面談することで地道にやるしかありません。

 東京の家を夜の10時半に出まして、0時半の飛行機に乗りバンコクに朝5時に着いて、2時間待ってチェンマイまで行って、朝9時から夕方の5時半ぐらいまで彼らと会談をし、あるいは国境を越えて彼等の地域に入って会談をして、夜7時の飛行機に乗ってバンコクに戻りそこから10時半の飛行機で東京に到着するのが翌朝の6時というようなことを3週続けてやるというようなこともありました。そうすると、彼らの中で、どうもこの人は違うぞと、本当に我々のことを考えてくれている、と理解してくれるようになったわけですが、そこまでには大変な時間がかかりました。

第3国の和平交渉・仲介は日本の外交史上初の試み
 大きな視点から申し上げますと、日本の外交史上、まったく関係のない第3国に対しての仲介・和平交渉を日本が真剣に取り組んだ、という歴史はありません。日本の外交史上初めてのことですし、それだけに私の責任は非常に重いと思います。私は外交官ではありませんが、紛争解決とはこういうものだ、あるいは停戦をするにはまず武器を放棄しろ、武器を捨ててその上で交渉をしよう、というような紛争解決法は、アジアには適しておらないと考えております。いろいろ模索しながら努力を続けておりますが大切なことは、少数民族武装勢力の問題はミャンマーの内政問題として処理する、です。彼らから頼まれたことがあれば我々は直ちに協力支援し、政府側と少数民族武装勢力との間の調整をしてきました。困ったことはなんでも相談してください、手伝うことは何でもやります、という形で、私はどこまでも力ではなく話し合いで解決をさせたいと思っています。

 私たちは「15の少数民族武装勢力」と呼んでいるのですが、和平交渉を進めるにあたって非常に困難なことは、それぞれの民族の言葉が違う、伝統、歴史も違う、そして卓越したリーダーがいない。したがいまして話し合いをした後、その結果を皆が持ち帰りまして、山また山を越えて戻って行きます。 このため、次回会議をやる時は1か月後ということで間延びしてしまって、盛り上がった気分に乗って一気に交渉を纏め上げる、ということがなかなかできないのです。

 ご承知のようにテイン・セイン政権の時には、軍と政府と少数民族の交渉団とは意思疎通が非常にうまくいっていました。何度も交渉が決裂しましたけれど、その度に私が命の保証人になります、ということを言って武装勢力幹部を説得して交渉再開に持ち込んだこともありました。

少数民族側も分離独立を望んでいない
 今、日本財団は日本政府から資金を頂戴して停戦したカレン族の地域で復興事業を推進しております。我々は急速な勢いでこの事業をやっておりますので、停戦協定に未署名グループもやはり停戦をすれば住民に平和の果実が来るんだということを、しっかり見せようと鋭意努力しているわけです。このようにして、未署名グループに静かな圧力をかけているわけですが、このような地域に入れるのは手前味噌ではございますが現在のところ日本財団だけでございます。

 和平交渉に取り組んでいて気づいたことは、少数民族側も分離独立をしようと考えている人たちは一人もいないということです。やはり統一ミャンマーを作らなければいけないという、この一点についてはすべての人が、政府も軍も少数民族側も意見が一致しております。これが最大の希望であるわけです。

 この少数民族武装勢力の地域の中には、もともとは中国の四川省あるいは雲南省から山を下って来た人たちがいる地域があります。その当時重慶に蒋介石軍がいて、日本は蒋介石軍と戦ったわけですが、米英が重慶の蒋介石軍を助けるために、援蒋ルートを通じて救援物資あるいは武器弾薬を送り込んできたところがカチンを中心とした地域です。その後蒋介石軍は台湾に移動しましたけれど、その残留兵士たち、あるいは毛沢東の紅衛兵の残党が流れ込んできて住み着いたというような地域が実は3つほどあります。

 これらの地域は、ミャンマーではありますが、ワとかバローン、コーカンという地域です。この辺はゴールデントライアングルと呼ばれる麻薬の中心地でもあり、一種の無法地帯と言っては言いすぎかも知れませんが、言葉は中国語、通貨も元というような中国経済圏となっています。こことの交渉は国軍も当分やらないという方針です。

新政権発足後の和平交渉は停滞
 それ以外の少数民族武装勢力とも和平交渉を今やっていますが、軍とミャンマー政府と少数民族武装勢力の3者間の調整をする、というのは口で言うのは簡単なのですが、なかなか時間と労力がいるのです。先ほど言いましたように、テイン・セイン政権の時は軍と政府の間がうまくいっておりましたので、機微に触れた話し合いができたんですが、今のスー・チー政権になりまして、私が間に入ってお互いの紹介をして、名刺交換から交渉が始まるというような状態でした。本当に腹を割った話し合いというところまでは入りきれていないというのが現状です。

 率直に申し上げて、5月に第2回ピンロン会議(和平会議)を開催しましたけれど、これは一種のお祭りで、実際問題として和平交渉は進んでいない。というよりも、少数民族側から言うと、NLD政権になったことで、より多くの権利が獲得できるとの期待したことが大きな間違いであったということに、彼等は今ようやく気づき始めたところです。

日本への期待は非常に高い
 幸いなことに、ミャンマー政府・軍は和平の実現、そしてミャンマーの経済的発展、国力の増強は日本にお任せしたい、と思っております。アジアの親日国の中でも、圧倒的に最大の親日国はご承知のようにミャンマーです。ミャンマーだけは反日教育はまったくやってこないどころか、ミャンマー国軍の歌の54曲は日本の軍歌です。そのまま歌っております。国軍は日本語教育やっておりますが、たった6か月で軍艦マーチを全部日本語できっちり歌えるようになります。そのビデオを防衛省の幹部に見せ、軍艦マーチを3番まで歌える日本の自衛官は何人いるかと聞くと、まず一人もいないと言われました。ミャンマー国軍自体が南機関と呼ばれる人たちの努力によりできたものと言っても過言ではないと思います。ミャンマー国軍司令官が渡邉会長に案内されて、鈴木大佐(南機関の設立者)の墓参りに、わざわざ浜松までいかれたというぐらいです。

 私の活動には各国のインテリジェンスも注目しており、いい加減な話をするとこれがすぐもれて、和平交渉に影響を与えてもいけないと思っておりますので、どうしても歯切れが悪くなってしまいました。地図を見ていただければおわかりですが、南の方は中国の影響を受けておらず停戦を完全に実現していますけれど、上半分は中国の影響が非常に強いところで、中国を横目に見ながら交渉しなければいけないという、彼らにとっては苦渋の選択をどのようにして見つけていくかという困難さがあるわけです。そのため現在交渉は中断状態ではありますけれど、先ほど申し上げたように民族統一ということにはだれも反対をしていないという状況の中で、私の責任は何とかこの停戦和平実現を可能にすることであります。ありがたいことにKNUとの停戦合意書のサインは隣国でありますタイ、中国、インド、これらの国々は隣国ですから当然署名の資格があるわけですが、そのほかでは唯一日本だけが選ばれて停戦合意書に署名しました。長く仲介への関与を試みてきたイギリスあるいはスイス、ノルウェイというような国々はアメリカも含めて、停戦合意書に署名することができなかったという事実を見ましても、日本に対する期待が大変高いわけでございます。

ミャンマーでの日本企業の活躍が和平活動にも貢献する
 そういう意味では、皆さん方の日々の経済活動を通じてのミャンマーへの支援というものが、結果的には私の行っている和平活動にも大きなプラスとして跳ね返ってくるものです。どうかひとつ皆様方の現地での活動をより活発にしていただくことが日本に対する信頼をさらに高め、日本のプレゼンスは大きく発揮できる。こういう紛争の中で日本が指導的役割をもってプレゼンスを示しているのは、何度も言いますが日本の外交史上ないことです。どうか皆さんのご活躍によって、私がやっている活動の背中を押していただきたい、というのが今日の私のお願い事でございます。何とか統一ミャンマーを皆様方とともに実現をして、21世紀最後のフロンティア、ミャンマーのためにご尽力をいただきたいと思います。ありがとうございました。
「社会貢献支援財団」―表彰式― [2017年08月16日(Wed)]
「社会貢献支援財団」
―表彰式―


草の根で毎日、黙々と社会のために何の栄誉も期待せず活動されている方々が多くいらっしゃいます。世界の中で、日本社会が卓越した安心・安全を誇れるのは、それぞれの地域で無償の奉仕をされている皆さん方に支えられているといっても過言ではありません。特に自分自身の身の安全も返り見ず、人命救助のために身を捧げる方々のなんと多いことでしょう。

私自身がそのような場に遭遇した場合、身を挺することが出来るか否か。正直若干の不安があります。笹川良一は、このような方々に光を当てることによってより良い社会作りの模範になってもらいたいと、今から46年前(当時の名称は「日本顕彰会」)に設立されたのが表記の社会貢献支援財団です。

私の挨拶にありますように、安倍昭恵女史が先頭に立って年二度の表彰式典を行っています。下記は私の祝賀会での挨拶です。

*****************

―来賓祝辞―


2017年7月21日
於:帝国ホテル


受賞された皆様方には心からのお祝いと、感謝の誠を捧げたいと思います。

ただ今ご紹介頂きましたように、日本財団は社会貢献支援財団の意義を高く評価して全面的に支援させて頂いており、この財団の積極的な活動は誇りの一つでございます。

特に、公私ともにご多忙な安倍昭恵令夫人がこの財団の意義を深く理解してくださって会長へのご就任を賜り、ご自分の目で見てみたいという所には自ら足を運んでお調べも頂き、お話を伺って意思決定の中にも参画されていらっしゃいます。また、内館牧子選考委員長はじめとする選考委員の皆様方は大変厳密な審査を行っていただき、今日の表彰へという過程をたどっております。

全国には無償の行為と申しましょうか、自分を無にして人のため世のために尽くされている方が大変多くいらっしゃいます。今日表彰された方は、そのなかの極々一部の代表の方たちでございまして、皆様方の行為、そして活動については、深く感謝いたしております。

今回選に漏れた多くの方々も、それぞれの地域で、溢れるような情熱、どんな困難があっても続けていくのだという忍耐力、そして継続性をもってお仕事に当たって頂いております。このことが日本は最も安心・安全の社会であるという意識が世界に定着した原因ではなかろうかと思っています。

そういう無償の行為というのは、日本人が古くから培ってきた伝統だと思います。この素晴らしいDNAを、今後も将来を背負う日本の若い人たちに継承していただき、単に日本だけではなく、今回は世界で活躍しているかたも表彰されましたが、この伝統をさらに広げて頂き、政府では安倍総理をはじめ、積極的な平和外交というものを日本の外交の基本において、世界の隅々まで活動を広げて頂いておりますが、それに呼応するように、我々国民一人ひとりもそういう気持ちを持って、世界のそれぞれの国の片隅というと語弊があるかもしれませんが、ご活躍いただき、今日受賞された皆様方には先導者としてこれからの日本の若者たちに伝統を引き継いでいただきく役割を担っていただきたいと思います。

厳粛な儀式の中で紹介された一人ひとりのご活動に、本当に感動をいたしました。これからもどうぞお元気で、皆様方の活動をお続けいただきたいのと同時に、重ねて申し上げますが、若い人たちに是非引き継いて頂けるようご協力をお願いし、世界から尊敬される安心・安全で未来豊かな日本国になって頂く。その礎の一つとして社会貢献財団が存在し、発展し続けることを心から願っております。

あまり話が長くなりますと、皆様お疲れでございましょう。ますは一杯やりましょう。

今日は私たちに本当に素晴らしい感動と勇気を与えていただきました。今日ご出席いただいた来賓の皆様も、表彰された方々の行為を真似するというと語弊がありますが、後から付いていこうではありませんか。私も一番後ろから付いて参ります。

おめでとうございました!
「海の日」 [2017年08月14日(Mon)]
「海の日」


夏休み真っ盛りである。しかし気候温暖化のせいかことの他厳しい夏で、各地で集中豪雨が頻発しているが、体調に注意していただき、子どもたちにとって楽しい夏休みにして欲しいものである。

7月20日は世界唯一の「海の日」が祝日の日本。しかし、ハッピーマンデー制度で今年は7月17日が「海の日」となり、政府主催の「海と日本のプロジェクト」の総合開会式が、海運海事関係や子どもたちも参加して、晴海旅客ターミナルで開催された。

そこで思わぬ珍事があった。
総理大臣のメッセージの代読は通常、それなりの役職の方が壇上で読み上げるものだが、何と、女性司会者が壇上下の司会者席から読んだのである。各大臣のスピーチも型通りで、子どもたちへの話は皆無に等しかった。

そこで私は、即席で下記のような子供向けの挨拶をさせていただいた。

****************

「海と日本のプロジェクト」
―総合開会式 挨拶―

2017年7月17日
於:東京湾晴海客船ターミナル


ご紹介たまわりました日本財団の笹川と申します。よいこの皆さん、ようこそおいでくださいました。みなさんに「日本財団」といってもよくわからないと思いますが、2020年のオリンピック・パラリンピックでは、特に、障がいを持ったパラリンピックの選手を全面的に支援しています。また、オリンピック開催には9万人のボランティア活動をする人たちが必要ですが、そういう人たちを養成することも日本財団の仕事です。

皆さんのようにご両親に恵まれ、幸せな生活をされていらっしゃる方もいますが、不幸にして出来ない人もたくさんいます。また、難病に苦しみ、病気と闘っている子どもたちもいます。そういう人たちに勉強を教えたり、たとえ一時でも病院以外の施設で家族と一緒に楽しんでもらう。そのような活動もしている財団です。覚えておいてくださいね。

最近、北九州でも大雨が降りましたね。どうしてこんなに激しい雨が降るようになったんでしょうか。これも気候変動が原因といわれていますが、あまりにも地球上に人間が多くなりすぎ、たくさんのガソリンを使い、冷暖房を使用し、多くの熱を排出したため温度が上がってくるんですね。

南太平洋には小さな島がたくさんありますが、自分の住んでいる国自体が海の底に沈んでしまうという危険がある島もたくさんあります。海温が上がると魚がどんどん移動し、かつて沢山とれていたところでとれなくなったりしています。日本財団では世界中の学者と一緒に研究していますが、あと30年もすると日本の近くの海では、みなさんの好きなお魚がいなくなってきて食べられなくなることが心配されています。そんなことを想像できますか?

地球の三分の二は海です。海は、日本では「母なる海」といわれますが、それは全ての生き物が海の中から進化してきたからです。人間も何億年もかかって進化して今のような人間の姿になったといわれています。皆様方はお母さんが大好きで大切に思っているでしょう。それと同じように「母なる海」を大切にしてもらいたいのです。最近は皆さんの海に行く機会が少なくなってきているようですが、海は静かに悲鳴をあげて苦しんでいるのです。これ以上海を汚されたら魚が住めなくなりますよ。そんなことになると人間は生きていけませんよという悲しい声をあげているのですが、専門家の先生以外、誰も気がついていないのです。

世界の人口は70億人をこえましたが、日本は、先ほど大臣の先生方がお話しされたように、海がなければ生きていけない海洋国家なんですね。日本は世界でたった一国「海の日」が祝日となっている国です。お休みになっている国は世界194か国で日本だけなんですね。ただ少し残念なのは、海の日というのは7月20日と決まっていたのですが、少し昔に不景気なときがありまして、休みを増やして観光客を増やさないといけないということでハッピーマンデーと海の日をくっつけたんです。その時はそれでよかったんですが、今は外国からもお客さんがたくさん来る時代になり、もうハッピーマンデーは必要ないんです。ですから7月20日が海の日だと皆さん方や皆さん方の後輩にもちゃんと分かるようにしなければいけないと思います。来年の海の日はいつか、皆さん分からないでしょう。おじさんも分からない。それじゃいけない。世界で唯一海の日を祝日としている国ですから、これから国会議員の先生方にもお願いし、皆さん方の協力も得て海の日を7月20日に固定化したいと思っています。作るときは皆さん方のお父さんやお母さん、おじいさんやおばあさん、みんな署名してくれて海の日をつくったのです。ですから、もう一度皆さんの力を借りて、7月20日を海の日の祝日とし、日本はきれいな海を保ち、世界でもっとも海を大切にしている国になってほしいと思います。

海に関わる仕事というのもたくさんありますね。今日は皆さん方に大きな船に乗ってもらいますが、船を作る会社もたくさんあります。そして自動車会社やいろいろな機械を作っている会社は、作ったものを大型船に乗せて外国に輸出しています。そして食糧は、日本はたった40%しか作ることができないんですから、60%は外国から輸入して船で運ばれてきます。

そういうことで、海は私たちにとって大変大切なものです。皆さん方大きくなったら、造船会社で船をつくるとか、船に乗って外国に荷物を運ぶとか、あるいは外国に輸出できるような商品を作るとか、何らかの形で海に関わる仕事をしてほしいですね。今日は海のことを大いに勉強してください。

日本財団は日本政府と一緒に、今日から全国で1,500の海についてのプロジェクトを行い、150万人が参加する予定です。皆様方の仲間にも浜辺でゴミ拾いをお願いしています。海や浜辺のごみ問題も深刻です。みんなで協力し、お相撲さんたちも手伝ってくれて一緒にゴミを拾い、その後お相撲さんときれいになった浜辺で相撲をとる計画もあります。全国で40以上の地方のテレビ局がみんな協力参加してくれて、海のことをみんなに知ってもらおうという企画がたくさんテレビに出ます。是非テレビを見てくださいね。勉強になるテレビですから。お母さんはあまりテレビは見てはいけないというかも知れませんが、海の日のテレビだけは見てください。そして、今日は大いに楽しんでください。

ありがとう。
「忘れられた熱帯病」―ビル・ゲイツ、コフィー・アナンも参加― [2017年07月12日(Wed)]
「忘れられた熱帯病」
―ビル・ゲイツ、コフィー・アナンも参加―


最近、忘れられた熱帯病対策がWHO(世界保健機関)を中心に脚光を浴びてきた。

私はこの「忘れられた熱帯病」、英語では「Neglected Tropical Diseases」という言葉が好きではない。この病気で苦しむ患者たちは、一日たりとも忘れることなく病魔と闘っているのに、「忘れられた熱帯病」とは、WHOは勿論のこと、関係者がこれらの病気対策に努力してこなかっただけのことではないだろうか。

うがった見方かもしれないが、ハンセン病もこの集団に入る病気であるが、日本財団はこの病気に特化して40年以上も世界的レベルで活動し、各国政府関係者の懸命な努力もあって患者数は劇的に減少し、大きな成果をあげてきた。

マラリヤ、結核、エイズ等々、患者数の巨大な病気と闘う国際機関やNGOは数多く存在し懸命の努力をされてはいるが、ポリオを例外に、目立った成果は出ていない。しかし、ここにきて資金提供者や支援者に具体的成果を報告できるハンセン病の成果を参考にすることで「忘れられた熱帯病」についての対策気運が盛り上がってきたのではないかと言うのが「へそ曲がり」の私の見方である。

4月17日はWHO主催で「忘れられた熱帯病対策会議」があり、ビル・ゲイツやコフィー・アナン前国連事務総長も出席された。その席でWHOのマーガレット・チャン事務局長より「金メダル」を頂戴した。

D会合にはコフィ・アナン元国連事務総長やビル・ゲイツ氏も出席.jpg
会合にはコフィ・アナン元国連事務総長やビル・ゲイツ氏も出席

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チャン事務局長からーThe WHO Medalー を授与される


「忘れられた熱帯病」の対策枠組みが出来ても、実際に現場を駆け巡る責任者がいないと簡単には成功しないとの言外の意味も含めて、下記の通りのショート・スピーチをさせて頂いた。

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世界保健機関(WHO)ゴールドメダル授賞式


2017年4月19日
於:スイス・ジュネーブ


B受賞のスピーチの機会をいただいた.jpg
受賞のスピーチ


私は、マーガレット・チャン世界保健機関(WHO)事務局長の在任中にハンセン病制圧の達成を目指して活動してきましたが、ご承知のとおり、その目標にはわずかに届きませんでした。ですから本日、WHOから賞をいただけると伺い、よくて銀メダルだろうと思っていましたら、金メダルをいただけるということで驚いているところでございます。

この本日の栄誉と喜びを、共に活動していただいた方々一人ひとりと分かち合いたいと思います。

40年以上に亘り、日本財団とWHOは強固なパートナーシップを構築してきました。私たちはハンセン病抑制プログラムにおいて、WHOのメインドナーとして活動しております。私たちが、治療薬の無償配布の支援をしたことは、1990年代後半のハンセン病の新規患者数の減少に大きな役割を果たしました。現在ではノバルティスが無償配布を続けてくださっていることで、私たちもスティグマや差別の問題など、他の取り組みに資金を投入することが可能になっています。

そして、私は、ハンセン病はモーターサイクルに例えられると思い至りました。前輪が病気を治すという医療面のアプローチで、後輪がスティグマと差別をなくすという社会面のアプローチです。モーターサイクルは前輪と後輪がともに回らなければ前進することはできません。

このゴールドメダル受賞にあたり、WHOハンセン病制圧大使として、重要な変化をもたらすことにつながったと信じている3つの点についてお話ししたいと思います。

1つ目は、蔓延国の政治リーダーに直接働きかけ、コミットメントを取り付けることです。蔓延国に行くと、大統領をはじめとした政治リーダーが自国の状況についてほとんど知らないことに驚かされることがしばしばありました。ハンセン病はこの国にはないと言ったり、時代遅れの知識しか持ち合わせていなかったりするリーダーもいました。そこで、私は彼らにその国のハンセン病の状況を伝え、対策へのコミットメントをいただくよう求めました。ひとたび政治リーダーのコミットメントをいただくことで、その取り組みに一石を投じることができるということは、どの地域でもいえることです。

2つ目のポイントは、地元の新聞やラジオに加えて、人々が親しみを感じるポピュラーカルチャーを通じて、正しい理解を促進することです。地域によっては文字によるコミュニケーションが難しいこともあり、例えば寸劇や音楽、エンターテイメントなどを通じて、ハンセン病は治る、治療は無料、差別は不当だというメッセージを伝えることで、大きな効果を得られることがわかりました。

3つ目のポイントは、持続可能なイニシアティブを形成することです。私は、ハンセン病制圧大使として、政府、医療専門家、NGO、ヘルスワーカー、回復者組織やその他の関係者をまとめてきました。そうすることで、ハンセン病の回復者が声をあげ、その国の政府と関係を築くことを後押しすることの重要性に気づきました。このコミュニケーションは、ハンセン病回復者に対するエンパワメントになると同時に、政府からの持続可能なコミットメントにもつながります。

今朝の議論は、顧みられない熱帯病(Neglected Tropical Diseases:NTDs)の抑制あるいは制圧が、いかに貧困の連鎖を断ち切り、持続可能な発展を実現するために重要かということを考えさせられるものでした。

最後になりますが、マーガレット・チャンWHO事務局長の10年以上に亘るリーダーシップに敬意を表します。

C400人以上の参加者で埋め尽くされた会合.jpg
400人以上の参加者で埋め尽くされた会合


「ハンセン病のない世界のために」―病気と差別の制圧に向けての闘い― [2017年07月07日(Fri)]
「ハンセン病のない世界のために」
―病気と差別の制圧に向けての闘い―


今年の4月25日、ミネソタ大学より名誉博士号を授与された。
以下はその折のスピーチです。

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@基調講演を行なった.JPG
基調講演


只今ショートフィルムをご覧いただいたのは、この病気に苦しめられ、今もなお苦しんでいる人たちの現実を皆さまにご覧いただきたかったからです。映像にあった通り、ハンセン病は何世紀にも亘り不治の病、神の罰などとされ、人々に恐れ、嫌われてきました。

しかし1980年代になると、有効な治療法の確立により、ハンセン病は治るようになりました。簡単なことではないとはわかっていましたが、私はこの薬を、病気に苦しむ全ての人たちに届けることを決意しました。そして日本財団は、WHOと協力し、ハンセン病治療薬の無料配布を開始しました。

有効な薬を配るのですから、私たちはある一定の効果はすぐに現れるだろうと期待していました。しかし、多くの予期していなかった事態に遭遇しました。

当時私がどのようなことに直面したのか、いくつか例を申し上げます。

例えば私は、世界には多くの人が薬の飲み方を知らないという事実を目の当たりにしました。それまで伝統医療薬しか飲んだことがないという人たちに対し、私は、まずブリスターパックと呼ばれる包装から錠剤を取り出し、水で飲み込むという薬の飲み方から教えなくてはならなりませんでした。

また、アフリカのある部族の人たちは食べ物を平等に分け合うという習慣があるため、配布された薬をも同じ村の人たちで分け合ってしまっていました。これでは当然、薬の効果は現れません。

また、無料なのに患者が薬を取りに来ないということもありました。痛みを伴う初期症状がないため、もしくは差別を恐れたためです。

薬を無料で配るだけでは効果的ではないということは明らかでした。私たちは、治療薬の配布に際し、その土地の習慣や文化なども考慮しなければならなかったのです。

このことを念頭に、より効果的に薬を患者に届けるために、私たちはWHOや各国の保健省、医療関係者、NGOなどと協力し、活動を続けました。

その結果、より多くの患者が病気を治療、治癒し、多くの蔓延国においてハンセン病患者の数は大きく減っていきました。私は、治療薬普及の成果が現れてきたことに、一種の達成感を感じ始めていました。

しかし、患者の数が減ったにも関わらず、私がハンセン病コロニーで目にした現実は、病気から回復した人たちの生活が治療前からあまり変わっていないということでした。彼らは治癒した後も、患者だったときと同じようにハンセン病療養所やコロニーで暮らし続けていました。そこは、草木も生えていないくぼ地のようなところで、外側からは単なる岩山にしか見えないような場所だったり、線路脇の土手のわずかな空間だったりしました。彼らはハンセン病を患ったときから、そのような場所に集まって暮らしていました。その場所と外の世界との境界に目に見える塀などは何もありません。しかし、まるでそこには目に見えない壁が立ちはだかっているかのように、彼らの住む場所とその外を行き来する人はいません。彼らはもう患者ではないのに、こうして「ハンセン病の元患者」として生活しつづけていました。

この状況を見て私は、私がそれまでハンセン病の差別やスティグマの問題を楽観視しすぎていたことに気づきました。私は治療薬を世界中で広めることに忙しくしておりましたが、この病気には、より深刻な側面があると考えるようになりました。それは、ひとたびハンセン病を患った人は、治癒してもなお、差別やスティグマの対象となるということでした。

差別とスティグマは菌によって引き起こされるものではありません。これは、人々の意識の問題です。

私は、ハンセン病との闘いとは、モーターバイクに似ていると考えるようになりました。前輪は病気を治すための医療面のアプローチです。そして後輪は、スティグマと差別をなくすための社会面のアプローチを指します。この前輪、後輪が同時に動かなければ前に進まないモーターバイクのように、ハンセン病とその差別をなくすためには、医療面、社会面双方のアプローチを同時に進める必要があると、私は考えています。

後輪の差別の問題について取り組むにあたり、私は何から始めればいいのかわかりませんでした。しかし、ハンセン病の差別とスティグマの問題は明らかに人権問題であると感じました。そこで、国際連合へ働きかけることにしました。

私がジュネーブの国連人権高等弁務官事務所を初めて訪ねたのは2003年のことでした。そこで私が言われたことは、ハンセン病の差別の問題は人権問題として議論にあがったことがないということでした。あくまで病気として、他の病気同様、保健衛生の問題としてしか捉えられていなかったのです。

なぜそのようになってしまったのか、想像するのは難しくありませんでした――ハンセン病から治癒した人たちは、声をあげ、自らの人権を主張することをためらっていました。彼らは差別を恐れていたのです。彼らの多くは、自分たちに人権があるとすら考えていなかったのかもしれません。ハンセン病から治癒したある人は、私にこう質問しました。

「本当に私に人権などあるのですか?」

私は、彼らの苦しみにこれ以上目をつむることはできませんでした。そして、このハンセン病の差別の問題を提起する必要があると思いました。

その後、この問題に注意を向けてもらうために、私はジュネーブを何度も訪れ、会議や小さな写真展などを開催しました。

私が人権委員会の小委員会で鮮明に覚えている瞬間があります。それは、私がハンセン病の回復者の人たち5人と会議に出席していたときのことでした。会議場で話をする機会に、私は自分が簡単に話した後、彼らのうちの一人の女性にマイクを譲ることにしました。インドから来た女性でした。

彼女は立ち上がり、「私はハンセン病でした」と言いました。

それまで、話半分に聞いていた会場中の人がその瞬間に振り向き、発言した彼女の顔を見ました。

その瞬間は、今でも忘れられない瞬間です。

そしてその瞬間は、私にとって、ハンセン病の差別の問題を人権問題として国連が初めて認識した瞬間だったように思います。

私の最初の国連訪問から7年、2010年にニューヨークの国連総会で、ハンセン病の患者と回復者、そしてその家族に対する差別撤廃の決議が採択されました。

私たち日本財団は、この決議の実行のために、世界の状況を確認し、報告する民間レベルのタスクフォースを作りました。そこに人権問題の専門家として関わってくださっているのが、午前中にお話しいただく横田先生と、本会議を企画してくださったフレイ先生です。お2人には様々なアドバイスをいただき、非常に重要な役割を果たしていただいています。お2人のご尽力にあらためて感謝申し上げたいと思います。

社会的なアプローチを進める上で、私は、ハンセン病の差別やスティグマの問題をなくすには、当事者を巻き込むことが不可欠だと考えています。彼らに声をあげてもらうよう働きかけ、彼らの声を聞いてもらうことが重要なのだと思います。私が彼らの声を代弁することはできても、彼ら自身の声よりも説得力を持つことはないのだということに、私は経験を通じて気づきました。

ここまでお聞きになって、この病は遠い国の話だと感じられた方もいらっしゃるかもしれません。しかし、ハンセン病差別の問題は万国共通の問題であり、ここアメリカでも例外ではありません。

かつて全米のハンセン病患者や回復者は、三方を海に囲まれ、残る一方を断崖で遮断されたハワイ諸島モロカイ島のカラウパパ療養所と、有刺鉄線の高いサイクロンフェンスと2つの監視塔に囲まれたルイジアナ州のカーヴィル療養所に「収容」されていました。

私たちの活動に対し、「ハンセン病は過去の問題ではないか、今さら取り組む必要はないのではないか」という人がいます。しかし私は、ハンセン病を考えることは、今まさに私たちがすべきことではないかと考えています。それは、ハンセン病を考えることが人間を考えることにつながるからです。ハンセン病の歴史は世界中で忘れ去られ、消されようとしている「負の歴史」として語られることが多いです。

しかし、ハンセン病の歴史は同時に、患者や回復者の方々が過酷な状況に置かれながらも、差別を乗り越えて生きてゆく、生命の輝きの歴史でもあります。名前を失い、故郷を失い、家族、友人をも失い、社会との関わりを断たれながらも、一人の人間として、生きようとしてきたその軌跡は、人間の強さと寛容さを私たちに教えてくれる、かけがえのない歴史でもあります。

2009年にはローマ教皇ベネディクト16世によって、カラウパパの患者たちのケアに全身全霊を捧げたダミアン神父が、聖人の列に加えられました。さらに、同年オバマ大統領の署名によって「カラウパパ・メモリアル法」が成立し、カラウパパに収容された8000人全員の名を刻んだ記念碑が建立されることになりました。

このようにハンセン病を患った人たちの経験や記録を次世代に引き継ぐことで、人類がこの経験を忘れないようにしていくことが重要ではないでしょうか。彼らの声を次世代に届けていくこと。このことも、私の重要な仕事だと思い、ハンセン病の歴史保存の取り組みも進めています。

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副学長からDoctory Hood(学位フード)をかけていただいた

「ミネソタ大学」―名誉法学博士号― [2017年05月12日(Fri)]
「ミネソタ大学」
―名誉法学博士号―


ミネソタ大学は、ミネソタ州が正式にアメリカの32番目の州になる7年前の1851年に設置され、学生数は5万人を超え、ノーベル賞受賞者も24名と、シカゴ大学と双璧をなすアメリカの名門校の一つである。

ちょっと気恥ずかしい話ではあるが、私の国際的なハンセン病制圧活動(病気の制圧と差別撤廃運動)が評価され、4月25日、名誉法学博士号が授与された。

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副学長からDoctory Hood(学位フード)をかけていただく


下記は、学位授与式に先立って開催された「健康、スティグマと人権会議」の私の基調講演です。
(原文・英語)

ご笑覧ください。

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@基調講演を行なった.JPG
基調講演


コールマン学部長、フレイ教授、クラドック教授、皆さま。本日は、ハンセン病の制圧という私の生涯をかけた活動について、皆さまにお話しさせていただく機会をいただき、感謝申し上げます。

只今ショートフィルムをご覧いただいたのは、この病気に苦しめられ、今もなお苦しんでいる人たちの現実を皆さまにご覧いただきたかったからです。映像にあった通り、ハンセン病は何世紀にも亘り不治の病、神の罰などとされ、人々に恐れ、嫌われてきました。

しかし1980年代になると、有効な治療法の確立により、ハンセン病は治るようになりました。簡単なことではないとはわかっていましたが、私はこの薬を、病気に苦しむ全ての人たちに届けることを決意しました。そして日本財団は、WHOと協力し、ハンセン病治療薬の無料配布を開始しました。

有効な薬を配るのですから、私たちはある一定の効果はすぐに現れるだろうと期待していました。しかし、多くの予期していなかった事態に遭遇しました。

当時私がどのようなことに直面したのか、いくつか例を申し上げます。

例えば私は、世界には多くの人が薬の飲み方を知らないという事実を目の当たりにしました。それまで伝統医療薬しか飲んだことがないという人たちに対し、私は、まずブリスターパックと呼ばれる包装から錠剤を取り出し、水で飲み込むという薬の飲み方から教えなくてはならなりませんでした。

また、アフリカのある部族の人たちは食べ物を平等に分け合うという習慣があるため、配布された薬をも同じ村の人たちで分け合ってしまっていました。これでは当然、薬の効果は現れません。

また、無料なのに患者が薬を取りに来ないということもありました。痛みを伴う初期症状がないため、もしくは差別を恐れたためです。

薬を無料で配るだけでは効果的ではないということは明らかでした。私たちは、治療薬の配布に際し、その土地の習慣や文化なども考慮しなければならなかったのです。

このことを念頭に、より効果的に薬を患者に届けるために、私たちはWHOや各国の保健省、医療関係者、NGOなどと協力し、活動を続けました。

その結果、より多くの患者が病気を治療、治癒し、多くの蔓延国においてハンセン病患者の数は大きく減っていきました。私は、治療薬普及の成果が現れてきたことに、一種の達成感を感じ始めていました。

しかし、患者の数が減ったにも関わらず、私がハンセン病コロニーで目にした現実は、病気から回復した人たちの生活が治療前からあまり変わっていないということでした。彼らは治癒した後も、患者だったときと同じようにハンセン病療養所やコロニーで暮らし続けていました。そこは、草木も生えていないくぼ地のようなところで、外側からは単なる岩山にしか見えないような場所だったり、線路脇の土手のわずかな空間だったりしました。彼らはハンセン病を患ったときから、そのような場所に集まって暮らしていました。その場所と外の世界との境界に目に見える塀などは何もありません。しかし、まるでそこには目に見えない壁が立ちはだかっているかのように、彼らの住む場所とその外を行き来する人はいません。彼らはもう患者ではないのに、こうして「ハンセン病の元患者」として生活しつづけていました。

この状況を見て私は、私がそれまでハンセン病の差別やスティグマの問題を楽観視しすぎていたことに気づきました。私は治療薬を世界中で広めることに忙しくしておりましたが、この病気には、より深刻な側面があると考えるようになりました。それは、ひとたびハンセン病を患った人は、治癒してもなお、差別やスティグマの対象となるということでした。

差別とスティグマは菌によって引き起こされるものではありません。これは、人々の意識の問題です。

私は、ハンセン病との闘いとは、モーターバイクに似ていると考えるようになりました。前輪は病気を治すための医療面のアプローチです。そして後輪は、スティグマと差別をなくすための社会面のアプローチを指します。この前輪、後輪が同時に動かなければ前に進まないモーターバイクのように、ハンセン病とその差別をなくすためには、医療面、社会面双方のアプローチを同時に進める必要があると、私は考えています。

後輪の差別の問題について取り組むにあたり、私は何から始めればいいのかわかりませんでした。しかし、ハンセン病の差別とスティグマの問題は明らかに人権問題であると感じました。そこで、国際連合へ働きかけることにしました。

私がジュネーブの国連人権高等弁務官事務所を初めて訪ねたのは2003年のことでした。そこで私が言われたことは、ハンセン病の差別の問題は人権問題として議論にあがったことがないということでした。あくまで病気として、他の病気同様、保健衛生の問題としてしか捉えられていなかったのです。

なぜそのようになってしまったのか、想像するのは難しくありませんでした――ハンセン病から治癒した人たちは、声をあげ、自らの人権を主張することをためらっていました。彼らは差別を恐れていたのです。彼らの多くは、自分たちに人権があるとすら考えていなかったのかもしれません。ハンセン病から治癒したある人は、私にこう質問しました。

「本当に私に人権などあるのですか?」

私は、彼らの苦しみにこれ以上目をつむることはできませんでした。そして、このハンセン病の差別の問題を提起する必要があると思いました。

その後、この問題に注意を向けてもらうために、私はジュネーブを何度も訪れ、会議や小さな写真展などを開催しました。

私が人権委員会の小委員会で鮮明に覚えている瞬間があります。それは、私がハンセン病の回復者の人たち5人と会議に出席していたときのことでした。会議場で話をする機会に、私は自分が簡単に話した後、彼らのうちの一人の女性にマイクを譲ることにしました。インドから来た女性でした。

彼女は立ち上がり、「私はハンセン病でした」と言いました。

それまで、話半分に聞いていた会場中の人がその瞬間に振り向き、発言した彼女の顔を見ました。

その瞬間は、今でも忘れられない瞬間です。

そしてその瞬間は、私にとって、ハンセン病の差別の問題を人権問題として国連が初めて認識した瞬間だったように思います。

私の最初の国連訪問から7年、2010年にニューヨークの国連総会で、ハンセン病の患者と回復者、そしてその家族に対する差別撤廃の決議が採択されました。

私たち日本財団は、この決議の実行のために、世界の状況を確認し、報告する民間レベルのタスクフォースを作りました。そこに人権問題の専門家として関わってくださっているのが、午前中にお話しいただく横田先生と、本会議を企画してくださったフレイ先生です。お2人には様々なアドバイスをいただき、非常に重要な役割を果たしていただいています。お2人のご尽力にあらためて感謝申し上げたいと思います。

社会的なアプローチを進める上で、私は、ハンセン病の差別やスティグマの問題をなくすには、当事者を巻き込むことが不可欠だと考えています。彼らに声をあげてもらうよう働きかけ、彼らの声を聞いてもらうことが重要なのだと思います。私が彼らの声を代弁することはできても、彼ら自身の声よりも説得力を持つことはないのだということに、私は経験を通じて気づきました。

ここまでお聞きになって、この病は遠い国の話だと感じられた方もいらっしゃるかもしれません。しかし、ハンセン病差別の問題は万国共通の問題であり、ここアメリカでも例外ではありません。

かつて全米のハンセン病患者や回復者は、三方を海に囲まれ、残る一方を断崖で遮断されたハワイ諸島モロカイ島のカラウパパ療養所と、有刺鉄線の高いサイクロンフェンスと2つの監視塔に囲まれたルイジアナ州のカーヴィル療養所に「収容」されていました。

本日、奥さまと共にこの会議に参加している私たちの友人であるホセ・ラミレスも、かつてカーヴィルに住んでいました。彼は自分の経験をもとにハンセン病と人権について深い考えを持ち、回復者として患者や回復者のためのアドボカシーをしています。彼の言葉は経験者だからこそ語ることができる重みのあるもので、これまでアメリカ国内だけでなく、世界中でハンセン病のアドボカシー活動を牽引してきました。後ほど、彼の話を楽しみにしたいと思います。

私たちの活動に対し、「ハンセン病は過去の問題ではないか、今さら取り組む必要はないのではないか」という人がいます。しかし私は、ハンセン病を考えることは、今まさに私たちがすべきことではないかと考えています。それは、ハンセン病を考えることが人間を考えることにつながるからです。ハンセン病の歴史は世界中で忘れ去られ、消されようとしている「負の歴史」として語られることが多いです。

しかし、ハンセン病の歴史は同時に、患者や回復者の方々が過酷な状況に置かれながらも、差別を乗り越えて生きてゆく、生命の輝きの歴史でもあります。名前を失い、故郷を失い、家族、友人をも失い、社会との関わりを断たれながらも、一人の人間として、生きようとしてきたその軌跡は、人間の強さと寛容さを私たちに教えてくれる、かけがえのない歴史でもあります。

2009年にはローマ教皇ベネディクト16世によって、カラウパパの患者たちのケアに全身全霊を捧げたダミアン神父が、聖人の列に加えられました。さらに、同年オバマ大統領の署名によって「カラウパパ・メモリアル法」が成立し、カラウパパに収容された8000人全員の名を刻んだ記念碑が建立されることになりました。

このようにハンセン病を患った人たちの経験や記録を次世代に引き継ぐことで、人類がこの経験を忘れないようにしていくことが重要ではないでしょうか。彼らの声を次世代に届けていくこと。このことも、私の重要な仕事だと思い、ハンセン病の歴史保存の取り組みも進めています。

ご静聴いただきありがとうございました。


「職員への新年度挨拶」 [2017年04月24日(Mon)]
「職員への新年度挨拶」

2017年4月3日


新年度なので、一言挨拶します。私自身は、職員の皆さんとできるだけ接触をして、話を伺い、私の考えも述べたいということで、極力コミュニケーションをとり、風通しをよくするということが一番大切なのではないかと思い努力をしていますが、まだ十分とは言い切れません。

我々の組織は、100人弱の職員と30人ほどの嘱託の方々と非常に少ない人数で仕事をしています。何千人、何万人になればやり方も変わり、ある意味やりやすくなりますが、この程度の人数というのは人事管理を含めて大変難しいものがあります。逆に言えば、その中に、お互いの人間関係というものがより深く生まれてくるわけで、やり方によっては大変おもしろい、ユニークな組織にすることができるのではないでしょうか。

人間が存在する限り、いつの時代も社会課題は存在します。言葉だけで実行がなければ、問題解決にはならないでしょう。私たちとは関係ないと無視することも可能です。しかし、多くの社会課題をどのように解決していくか、これこそが日本財団に与えられた使命ではないでしょうか。

国家は1,100兆円という膨大な財政赤字を抱えております。皆さん一人一人で約870万の借金を背負っていると同じことになります。少子高齢化は今日始まった問題ではありません。私は30年前に日本大学の人口問題の先生が発表された論文を読んだことがあります。日本がこういう人口動態になることが30年前から分かっていながら、昨日、今日に起こった問題ではないにもかかわらず、口を開けば少子高齢化とその課題が流行り言葉のように報道され、これでは誰もが日本の将来を悲観的に考え、本格的な具体策は進みません。

今日、明日あるいは今年1年、3年先のことは政府も行政も考えていますが、10年、20年あるいは30年という単位で物事を考えている組織は日本にありません。日本財団は未来志向の立場にたち、ハンセン病を例に挙げると、40年継続して取り組んでいます。海洋問題は今や世界の喫緊の問題として注目を集めるようになってきました。日本財団が30年前から世界各地で取り組んできた人材養成が、諸問題に対処する体制の整備に大きく寄与することになるでしょう。

日本財団がこのように長いスパンで物事を見て活動する組織であることを、皆さんに理解していただきたいと思います。政治家、行政、学者、文化人、そしてメディアの皆さんに集まっていただき、提示された社会課題についての議論を進め、集約ができたところで日本財団が実行に移します。

今や社会課題は、政府も省庁、NPOも単独では解決不可能な時代になりました。そのため、日本財団は社会課題をまずは調査し、その上で専門家や関係者に集まっていただき、問題を洗い出し、方向性が出たら実行していく。これを「日本財団という方法」と説明しています。

私たちは人間臭い仕事をやっています。人と人との接触の中で仕事をやっていくわけですから、売り上げを幾らに上げなければならないとか、経費を幾ら節減しなければならない、あるいは四半期や3ヶ月ごとに会社の利益を発表しなければならないなどといった、数字の目標設定は余り必要とされていません。皆さんは、そうした職場の中で何を目的に仕事をしていくか、自分自身が考えなければなりません。ここにお集まりの皆さん一人一人は日本財団の財産です。それ以外には、何もありません。

日々、問題意識を持ってどのように仕事に取り組むか、常に好奇心を持って物事を見て、何をしなければいけないのか、どういう手法でこれを解決するのか、そうしたことを皆さん一人一人に常々、考えていただきたいと思っています。

日本財団の仕事は、かつては各地からきた援助申請書を審査して支援するという時期が長くありました。しかし、今やそこから脱皮して、我々が考え、我々がこの国のために、あるいは困っている人たちのために何ができるか、主体的に考え、活動する方向に変わってきています。

日本財団がイノベーションの中心になって問題を提起し、具体的に社会課題を解決してゆくことで、皆さん自身の仕事の成果が目に見えるようになります。報告や相談、連絡は組織である以上当然ですが、大きな組織の中の歯車の一つではなく、一人一人が独立した立場で、若い人たちが自由に仕事ができる、風通しの良い柔軟な文化を持った組織になるよう日本財団の舵を取っています。近年、日本財団は、皆さんが思っていらっしゃる以上に評価される存在になりました。地方の人から少し雲の上の存在だと思われていることも事実です。しかし、これに甘んじてはいけません。

やはりこのような仕事ですから、私たちは常に謙虚でなければいけませんし、人間対人間のお付き合いが中心なので、私たちには目配り、気配り、心配りのできる感情豊かな感性が求められています。どうぞ皆さんは、世界でもユニークな、チャレンジングな未来志向の組織で働いているという自覚を持って、仕事に邁進をして下さい。

まずは、一人一人の人間形成、そして常に飽くなき好奇心を持って社会課題を発掘していただき、それをなし遂げていくことで、政府あるいは行政、そして市民社会の皆さんから信頼され、日本財団に相談に行けば何か方法を見つけてくれる、力を貸してくれるという、頼りがいのある、信頼のおける、透明性と説明責任が果たされる組織として皆でやっていこうではありませんか。どうぞ、よろしくお願いします。

「ちょっといい話」その75―教皇のハンセン病発言― [2017年02月20日(Mon)]
「ちょっといい話」その75
―教皇のハンセン病発言―


世界のカトリック教徒12億人を擁する教皇庁の第266代フランシスコ教皇は、教皇庁組織の改革に意欲的に取り組んでおられる。

しかし、その過程で3回ほど失言をされた。
1回目は「出世主義はハンセン病」、2回目は「ご機嫌取りは教皇制度のハンセン病」、3回目は「小児性愛はカトリック教会に伝染しているハンセン病」というものであった。

その度に「ハンセン病を悪い喩(たと)えに使わないでください」との書簡をお送りしたが、返書を見る限り、教皇は私の書簡をお読みになっていないと直感した。そのため作戦を変更し、日本財団とバチカンとの共催で、ハンセン病についての国際会議を提案したところ、快諾を得て、昨年6月、バチカン教皇庁で国際会議が開催された。

結論の一つとして、ハンセン病を悪い喩えに使わないことが勧告に盛り込まれた。

さて、今年の世界ハンセン病デーへのバチカンのメッセージに注目していたところ、1月29日(日曜日)の一般ミサで、教皇は以下の通り諭された。

「本日、私たちは『世界ハンセン病の日』をお祝いいたします。この病気は減っているものの、いまだ最も恐れられており、貧しく、社会から無視された人に襲い掛かっています。この病気と、それがもたらす差別と闘うことは重要です。私は、この病気の治療や、ハンセン病患者、回復者の社会的な再統合に関わっているすべての人々に理解を促したい。」

教皇の失言が、私の小さな闘いの成果としてこのスピーチに現れたとしたら、少しうれしい気分です。

前日の世界ハンセン病デーには、ピーター・タークソン枢機卿の名で、下記の通りのメッセージが発せられた。

「ハンセン病の犠牲者たちには居場所と結束、そして正義こそ必要」

タークソン枢機卿は「この病気に対する恐怖は、人類の歴史の中で最も恐れられているもののひとつであり、そこには理由などありません。地域社会全体においてこの病理についての知識が欠如しているが故に、治癒した人たちが排除され、治癒した人たち自身もまた、長いあいだ耐えてきた病気の苦しみと差別により、彼らの中にある尊厳、身体に傷はあっても決して奪われることのない尊厳を、失ってしまっているのです。彼らの“ために”、そして何よりも、ハンセン病の犠牲者である彼らに“寄り添い”、彼らが自分たちの居場所、結束、正義を見つけられるよう、私たちはさらに深く関わっていかなければならないのです。」とおっしゃった。

「ハンセン病の撲滅とハンセン病患者・回復者、その家族の社会への再統合:まだ成し遂げられていない課題」

バチカン市国「人間の統合的発展に奉仕するための省」長官ピーター・タークソン枢機卿

効果的な薬物療法が開発され、そして、カトリック教会を筆頭に多数の国内および国際的な施設や機関において過去数十年間にわたって実施されてきた世界レベルでの大規模な取り組みは、一般にらい病として知られるハンセン病に対して非常に大きな打撃を及ぼしました。1985年の時点で、世界にはまだ500万を超える数のハンセン病患者が存在していましたが、現在、新たにハンセン病に罹る患者の数は年間約20万人となっています。しかし、なすべきことはまだたくさんあります。

その点については、昨年6月、当時のローマ教皇庁保健従事者評議会が主催したシンポジウム「ハンセン病患者・回復者の尊厳の尊重とホリスティック(総合的な)ケアへ向けて(Towards Holistic Care for People with Hansen’s Disease Respectful of their Dignity)」の終盤で焦点が当てられましたが、ハンセン病をめぐって今も残るスティグマと同様に、新たなハンセン病患者の発生はたとえ1人であっても望ましくありません。また、すべての無関心と同様に、ハンセン病患者を差別する法律は、どのようなものであっても存在してはなりません。マルタ騎士団、ラウル・フォレロ財団、善きサマリア人財団からの支援を受け、日本財団・笹川記念保健協力財団と協力して推進されたイニシアチブの枠組みの中で、その役割を考えると、すべての宗教の指導者がそれぞれの教え、著書、演説においてハンセン病患者に対する差別の撤廃に貢献することが重要であるという点がさらに強調されました。一方、その後、11月にソウルで開催されたハンセン病世界フォーラム(World Forum on hanseniasis)の場で世界保健機関も強調していたように、治療中だけでなく治療終了後も、患者の心身のケアを確保することが必要です。

加えて、すべての国において、家族、仕事、学校、スポーツなどに関連してハンセン病患者を直接的あるいは間接的に差別している政策を変え、ハンセン病患者に関わる実施計画を各国政府が確実に展開すべく、私たち全員があらゆるレベルにおいて明確な態度を表明しなければなりません。

最後に、新しい医薬品を開発するために科学研究を強化し、早期診断の可能性を高めるためにより優れた診断装置を備えることが基本です。

実際のところ、新しい患者のほとんどは、ハンセン病の感染が永久的な障害を引き起こし、成人や少年少女に生涯を通して影響を及ぼすことが明確となっている場合のみ確認されています。一方で、特に人里離れた地方では、治療を完了させるのに必要な支援を確保するのが難しかったり、いったん開始した薬物治療を続けることの重要性を患者自身が理解できない、あるいは治療の継続を優先するのが難しかったりすることがあります。

しかし、治療だけでは十分ではありません。ハンセン病から治癒した人が、家族、地域社会、学校、職場といった元の社会機構の中へ最大限可能な限り復帰できるようにすることが大切です。

様々な状況下でいまだにほぼ実現不可能となっている社会復帰のプロセスを促進し、そのプロセスに貢献するためには、ハンセン病回復者たち同士の連携をさらに支援し、奨励していく必要があります。同時に、回復者たちとともに、例えばインド、ブラジル、ガーナなどではすでに行われていますが、ハンセン病患者・回復者を理解し、受け入れ、そして相互扶助と真の兄弟愛を育むための豊かな土壌を提供できるような本当の家族になれるコミュニティが広がるよう、促進していく必要があるでしょう。

マルコによる福音書の第1章で語られている、ハンセン病に罹った男をイエス・キリストが癒した話について考えてみましょう。イエスが「深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、“よろしい。清くなれ”と言われると、たちまちらい病は去り、その人は清くなった。イエスは言われた。“誰にも、何も話さないように気をつけなさい。ただ行って、祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい”」。

つまり、イエスは、男の全身を癒しただけでなく、癒した男に対し、完全なる社会復帰、「人間の共同体」への復帰を宣言できる人のところへ行くよう呼びかけたのです。

おそらく、昔と同様に今日も、ハンセン病の特徴が出た人やハンセン病患者のために働く人々にとって、この点が克服すべき最大の障壁でしょう。この病気が残す明白な後遺症である身体的な障害は、今日においてもいまだに烙印と見なされています。この病気に対する恐怖は、人類の歴史の中で最も恐れられているもののひとつであり、そこには理由などありません。地域社会全体においてこの病理についての知識が欠如しているが故に、治癒した人たちが排除され、治癒した人たち自身もまた、長いあいだ耐えてきた病気の苦しみと差別により、彼らの中にある尊厳、身体に傷はあっても決して奪われることのない尊厳を、失ってしまっているのです。彼らの“ために”、そして何よりも、ハンセン病の犠牲者である彼らに“寄り添い”、彼らが自分たちの居場所、結束、正義を見つけられるよう、私たちはさらに深く関わっていかなければならないのです。

なお、「ハンセン病とローマ教皇」のブログは、2013年6月26日2014年8月4日2016年2月8日に掲載しておりますので、ご興味の向きはご笑覧ください。

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