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日本財団会長 笹川陽平ブログ

写真:ハンセン病の現場から「アフリカ・ピグミー族」

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「世界銀行とメンタルヘルス」 [2016年07月20日(Wed)]
「世界銀行とメンタルヘルス」


今年の4月、世界銀行より、ワシントンDCでメンタルヘルスの会議を開催するので出席してほしいとの要請を受けた。

私は医者でもないし、ましてやメンタルヘルスについては無知同然なのでお断りしたところ、「あなたが取り組んでいるハンセン病制圧活動が世界で顕著な成績を上げているので、その方法を参考にしたい。是非出席してほしい」との再度の依頼を受け、出席することにした。

メンタルヘルスとは、精神面においる健康のことで、WHO(世界保健機関)は下記のとおり定義している。
「精神的健康とは、単に精神障害でないということではない。それは、一人一人が彼または彼女自らの可能性を実現し、人生における普通のストレスに対処でき、生産的にまた実り多く働くことができ、彼または彼女の共同体に貢献することができるという、十全にある状態である」とある。

下記の通り、簡単に説明はしたものの、参加者の態度を見ていると、私の話などとても参考になったようには見えなかった。

実は「あなた方がこの問題を真剣に解決したいのなら、溢れる情熱、どんな困難にも耐える忍耐力、それに成果が出るまで絶対にあきらめない継続性こそ必要であり、その覚悟はありますか?」と突っ込みたい衝動に駆られたが、不本意ながらきれい事で終わってしまった。国際会議の中には、会議を開催することに意義があり、実行とその成果の実現への情熱が伺えないケースが多々ある。

しかし当方は、売れない芸者のように、お声がかかると地の果てまでも出て行く軽薄さ。これは私の欠点と知りながら出掛けていく。治りそうもない生活習慣病なのでしょう。

下記、その時の発言です。

****************


世界銀行/世界保健機関共催
「影の外へ−メンタルヘルスをグローバルな開発の優先事項に」


2016年4月14日
於:米国・ワシントン


11メンタルヘルス会議で発表.JPG
メンタルヘルス会議で発表はしたが・・・


今回、主催者から、このシンポジウムへの出席のご依頼を受けた時、私はメンタルヘルスの専門家ではないのでこの場に不適切ではないかと思いました。しかし、私が長年携わってきたハンセン病へのアプローチを参考にしたいとのことだったので、自分の経験が役立てばと思い、出席させていただくことにしました。

私は40年以上にわたり、ハンセン病制圧活動に取り組んでおり、2003年からWHOのハンセン病制圧大使として活動しております。

ハンセン病は、古くから呪いや神の罰と恐れられ、世界各地で患者や回復者に対する隔離政策が行われていました。

19世紀後半、ハンセン病はある種のバクテリアによる感染症であることが判明し、20世紀後半には、投薬による有効な治療法が確立されました。

こうして、それまでのハンセン病に対する人々の認識は誤解であることが証明されたはずだったのですが、多くのハンセン病患者を抱える開発途上国を中心に、ハンセン病は未だに公衆衛生上の問題であり、病気に対する誤解や当事者への差別は続いています。

ハンセン病は、感染力の高い病気ではありません。生命を直接脅かす病気でもありません。その結果、差し迫った問題として顕在化せず、国によっては政策上の優先順位が低く、保健政策の中にきちんと位置づけられていません。加えて、ハンセン病の専門家はほとんどいません。

本日は、ハンセン病制圧のための私の3つのアプローチについてお話したいと思います。政治指導者に直接働きかけること、ハンセン病の普及啓発に努めること、コミュニティを巻き込むことです。

まず1つ目に、政治指導者に働きかけることは、ハンセン病の制圧に対してその国のコミットメントを取り付ける上での鍵になります。私はWHOハンセン病制圧大使として蔓延国を訪れ、政治指導者と面会するようにしています。ハンセン病の問題の深刻さを説明し、解決することの重要性を説いて、政策上の優先順位をより高めてもらうよう求めています。このアプローチが功を奏し、いくつかの蔓延国において、ハンセン病への対策の予算が増やされ、この問題に国を挙げて取り組んでもらえることにになった例もありました。

2つ目は、普及啓発に努めることです。私は、この病気が、「治ること」、「差別は不当であること」をより多くの人に知ってもらうことが重要であると考えています。メディアはその中心的な役割を担います。ハンセン病は多くの地域でタブー視され、メディアで大きく取り上げられることはほとんどありませんでした。言い換えれば、影に隠れていた問題だったのです。私はそこで、ハンセン病の回復者に対し彼らの経験や、彼らが苦しんできた差別や誤解についての話をしてもらえないかと働きかけるようにしています。彼らの経験が共有されることで、より多くの人たちがハンセン病について知ることにつながるからです。このように、私はハンセン病を影の中から影の外に導き出そうとしています。

3つ目のポイントは、地域を巻き込むことです。ハンセン病は、早期発見・早期治療が非常に重要です。ハンセン病の患者の中には、病気に関する基本的な情報を知らなかったり、病気に伴う差別の恐れなどから受診をためらう人たちもいます。それが結果として症状を悪化させてしまうこともあります。例えば、インドのある地域では、同じ地域に住むハンセン病経験者が中心となって自助グループを作っています。彼らは地域でハンセン病と疑われる症状の人がいたら、その人を適切な医療機関に紹介するという活動を行っています。彼らは医師でも医療スタッフでもありませんが、同じ経験者だからこそわかる初期症状にいち早く気づくことができ、治療に行くよう説得することもできます。このような地域に根ざした活動は、未治療の患者を早期に治療に結びつける上で大きな成果を上げています。私は、専門家であるか否かに関わらず、地域の人たちが協力することが、潜在的な患者の発見や治療、ケアにつながることを学びました。

本日は、ハンセン病の制圧における私のアプローチとして、政治指導者に直接訴えること、普及啓発活動を行うこと、コミュニティを巻き込むことについてご紹介させていただきました。中には、メンタルヘルスに通じることもあるかもしれません。私の話が少しでもお役に立てばと思います。

ありがとうございました。

「ローマ教皇とハンセン病発言」その3―国際会議の結論― [2016年07月15日(Fri)]
「ローマ教皇とハンセン病発言」その3
―国際会議の結論―


日本財団とローマ教皇庁との共催による「ハンセン病患者・回復者の尊厳の尊重とホリスティック・ケアに向けて」と題する国際会議は、6月9日〜10日の2日にわたってバチカンで開催され、45ヶ国から約250名の宗教指導者、国連人権理事会諮問委員、国際機関代表、医療関係者、法律家、NGO、そして回復者組織の代表たちが参加した。宗教指導者では、ローマ・カトリック教会、ユダヤ教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教が参加した。またハンセン病回復者は、インド、ブラジル、ガーナ、中国、韓国、フィリピン、コロンビア、日本からの参加があり、バチカンでは初めてのハンセン病に関する国際会議となった。

B会議終了後に参加者が大集合!.jpg
国際色豊かな参加者が集合


各国のハンセン病回復者からは苦難に満ちた人生が語られ、特に長島愛生園から参加された石田雅男さんの「残酷で悲惨な歴史を繰り返してはいけない」と静かに淡々と語る姿に、参加者から大きな拍手が起こった。

A参加者は石田さんの話に聞き入っていました。.jpg
参加者は静かに語りかける石田さんの話に聞き入っていました


2日目の最後に、議論や発言をもとに「結論と提言」が発表された。社会に残る偏見・差別により、いまだにハンセン病患者・回復者とその家族の人権が十分に確保されていないことが指摘され、偏見・差別の解消に向けて宗教界も重要な役割を果たすべきと明記され、偏見・差別を助長するような用語、特に「Leper」の使用は避けるべきとの提言がなされた。

6月12日の日曜日はサン・ピエトロ寺院広場で、「いつくしみの特別聖年」の教皇行事として開催された「病者と障がい者のための聖年」特別ミサが行われた。世界中からおよそ7万人の障害者、医療関係者、福祉関係者、キリスト教信者、一般参加者が集まり、ローマ教皇の話に熱心に耳を傾けていた。このミサでは、私や会議出席者、回復者たちは最上壇の特別席に座らせていただいただき、間近でミサに参加することができた。ミサの中で教皇様から「『病者と障がい者のための聖年』の一環としてローマでこのほど、ハンセン病を患った人々の治療のための国際会議が開かれた。感謝の念をもって開催者と参加者を歓迎し、この病気との闘いにおいて、実り多き取り組みが成されるよう切望する。」とのメッセージがあり、会場から大きな拍手がおこった。

数万人の参加者の中で、私は一人静かに教皇様の言葉を心にきざみ、12億人の信者の最高責任者が従来の発言を訂正し、「レパー」という差別用語ではなく「ハンセン病を患った人々」とおっしゃったそのお言葉に、密かに喜びをかみしめた。


以下はバチカンにおける私のスピーチです。

******************

国際シンポジウム

2016年6月9日
於:バチカン市国

ローマ教皇庁保健従事者評議会がこのシンポジウムを共催してくださることに対し、心から感謝しております。また、よきサマリア人財団、ラウル・フォレロー財団、マルタ騎士団の皆さまのご協力にも感謝申し上げます。

私は、実際にハンセン病を経験した人たちの言葉を聞かずしてこの問題を語ることはできないと思います。しかし、実際に彼らの言葉を聞くことができた人は多くはありません。本日、はるばるご参加くださり、その経験を共有いただける皆さまにも心からの感謝の意を表します。

まずはじめに、ローマ・カトリック教会がハンセン病に苦しむ人々のために果たしてきた役割について言及したいと思います。

これまで、多くの教会の方々がハンセン病患者の救済のために尽くしてこられました。その中には、19世紀に宣教師としてハワイ・モロカイ島に渡り、ハンセン病患者に奉仕された聖ダミアン神父や、その活動を評価され、ノーベル平和賞を受けられたマザーテレサもいらっしゃいます。

私自身は、マザーテレサにお会いする機会に恵まれたことがあります。私がインドでハンセン病患者のためのホームを訪ねたとき、マザーは自ら私を案内してくださいました。患者のため、神に祈りを捧げる彼女と共に祈ったことは、忘れられない思い出です。

二人で記念撮影.png
マザーテレサと筆者


私が旅してきた場所では、多くのハンセン病回復者の方々が、教会から受けた献身的なケアに心からの感謝の気持ちをお持ちでした。

私が会長を務める日本財団と、関連団体の笹川記念保健協力財団は、世界各地で行っている様々な人道的支援に加え、1960年代からハンセン病の制圧活動に取り組んできました。

1983年、私の父である笹川良一が教皇ヨハネ・パウロ2世聖下自らの執務室に招き入れてくださる栄誉をいただいた時、私も付き添いました。この謁見において、教皇は父を抱き締め、父のハンセン病制圧に向けた取り組みに深く感謝してくださり、引き続き努力するよう激励してくださいました。

法王と抱擁.png
ヨハネ・パウロ2世聖下と父


その後、1990年代に日本財団はハンセン病治療薬を世界中に無償配布することを決め、WHOや多くの方々のご尽力により、患者数の大幅減少を達成しました。

2003年に再び教皇ヨハネ・パウロ2世聖下に謁見する機会をいただいた私は、世界各国を回り、薬が届いていることを確認したこと、ハンセン病の患者数が大きく減ってきていることをご報告することができました。

薬によってハンセン病の患者数は減りました。このように医療面で改善が見られた一方、社会的な問題は変わりませんでした。多くの人々が、ハンセン病の差別とスティグマに苦しみ続けていたのです。

言い換えると、ハンセン病の回復者は、病気は治っているにもかかわらず、「ハンセン病元患者」としての烙印を押されたままでした。彼らは差別され、家族の元に戻れず、仕事への復帰もかなわず、患者だったときと変わらずにハンセン病療養所やコロニーで暮らす以外の術をもっていませんでした。

これは医療では解決できない、意識の問題です。

社会の意識の問題は、社会の中に根強く残ってしまっている、ハンセン病に対する差別的な意識のことです。それは、ハンセン病が未だに、遺伝病だとか神のたたりであるという誤った誤解に基づいていることが多くあります。

この誤解を解くため、日本財団では、社会の人々にハンセン病に関する正しい理解をもってもらうための活動を行っています。例えば、1月の世界ハンセン病の日に合わせ、2006年から毎年、社会からハンセン病の差別をなくすためのグローバル・アピールを発信しています。これは私たちが力を入れる啓発活動のひとつで、医学界やビジネス界、学術界など、様々な分野を牽引するリーダーの方々と共に行うことで、広く一般に届けようとしています。

2009年には、この活動に対し、ローマ教皇庁保健従事者評議会にご協力をいただきましたことに、あらためて感謝申し上げます。その時私たちは、世界の宗教指導者の方々と共に「ハンセン病における差別をなくし、癒しを開始しよう」というメッセージを発信しました。

このような活動は、ハンセン病についての誤解を正し、社会の人々にハンセン病についてもっと知ってもらうことを目指しています。私は、このことがハンセン病の差別とスティグマのない世界の実現への一歩となると信じています。

しかし、意識の問題にはもう1つあります。それは、ハンセン病を経験した人たち自身の意識の問題です。

私は、彼ら自身の多くもまた同様に、病気に対する誤解を持っていることに気づきました。彼らは、長い間差別を受けて暮らしてきたことで、社会に復帰することをあきらめてしまっていました。そして、さらなる差別への恐れから、自ら社会から隔絶して生きることを選択していました。彼らは、自分たちに人権があることにすら気づいていませんでした。

宗教指導者の方々は、多くの人の心や意識に触れる活動をされています。彼らの言葉は私たちに、思いやりの心を教え、勇気を与え、苦しみを癒し、そして私たち皆を一つにしてくださいます。

昨年、教皇フランシスコ聖下がバチカンで、ブラジルから訪れたハンセン病回復者の人々に謁見してくださいました。彼らはそれがいかに意義深く、報われる思いがしたかを語ってくれました。

本日は、教皇庁の格別のご配慮で、ローマ・カトリック教会を始め、様々な宗教に関わる方々がお越しくださっています。

私たちは、ハンセン病当事者に対する包括的なケアに関して議論し、ハンセン病の社会的差別をなくす必要性を共有するために集まりました。

そして本日ここに集まった回復者の皆さんはすでに自分たちの立場を社会に訴えるために力強く立ち上がった勇気ある人たちです。また、彼らは他の人たちを先導しようとしている指導者の皆さんです。

彼らと共に力を合わせることで、私たちはハンセン病患者や回復者の苦しみを軽減することができるでしょう。共に活動することで、私たちは、彼らが自らの尊厳を回復するお手伝いができるでしょう。

最後に、ハンセン病を克服した私の友人の言葉をご紹介したいと思います。彼は少年時代にハンセン病を患ったことでこの病気に苦しめられることになりました。その後、70年以上もの間ハンセン病療養所で暮らしています。現在89歳となった彼は、その経験を語る活動をしています。

彼はよく私に言うのです。

「自分はひどい差別を受けてきたが、私を差別した人たちを赦したいと思う。彼らを赦すことで、自分の人生は豊かなものになる。」

私は彼の言葉を聞いて、人間とはこんなにも強く、寛容になれるものかと思いました。勇気を振り絞り、差別に立ち向かい、自らの置かれた状況を変えるために立ち上がった多くの人たちがいます。彼はその一人です。

実際に差別にさらされ、苦しみを味わった患者や回復者の方たち自身が発する声は力強く響きます。彼らの声に耳を傾けることで、私たちは、何をなすべきかが見えてくるのではないでしょうか。

「ソフィア大学名誉博士」―ブルガリア最古の大学― [2016年07月01日(Fri)]
「ソフィア大学名誉博士」
―ブルガリア最古の大学―


余り晴れがましいことは私の性格に合わないのでブログで書くことはほとんどないが、このところ海外活動が多く、来週からアフリカのカメルーンでピグミーのハンセン病実態調査に入るためブログの種が不足してきてしまい、恥ずかしながら、表題の記事になってしまった。

この度、1888年に設置されたブルガリア最古のソフィア大学より名誉博士号を授与された。

1987年、未来の世界を担う修士・博士課程の優秀な学生に奨学金を提供する「笹川良一ヤングリーダー奨学金制度」を設置。現在は世界69大学に設置されているが、ソフィア大学は1992年に設置された大学のうちの一校である。

日本人のブルガリアに対するイメージは、ヨーグルトに美しい薔薇、引退した相撲力士くらいかも知れないが、約1400人が日本語を学んでおり、約450名の国費留学生、約800人のJICAで研修経験のある方々がおり、日本の伝統文化や武道の同好会もあると、小泉崇ブルガリア大使は教えて下さった。

私にとって嬉しいことは、この奨学金第一号を受けられたパシレフさんが、その後、年間100万本を生産するワイナリーの実業家として成功したのみならず、ブルガリアの政財界の有力者としても活躍されていることであった。

ソフィア滞在中は心を込めてアテンドして下さり、その上、写真のように、家宝である73年前、1943年産のワインを2本もプレゼントして下さった。学生時代の恩義を忘れず、その後、私のハンセン病との闘いに注視して下さり、名誉博士に推薦して下さったようだ。

DSC_1198.JPG
1943年産のワイン2本!


伝統ある大学での古式豊かな式典の様子はテレビで何回も放映されたと、在日本ブルガリア大使館から知らせをいただいた。

博士号授与の理由であるハンセン病について、10分間の映像の後、講演の機会をいただいた。既にヨーロッパではハンセン病は過去の話になっており、どのような過酷な歴史があったかは書物で若干知っている方がいる程度なので、映像に驚き、目頭を押さえる聴衆もいた。

以下、ハンセン病について比較的分かりやすく述べていますので、お読みいただければ幸甚です。

***************

「ソフィア大学名誉博士号授与式スピーチ」
―ハンセン病の病気と差別の制圧に向けた闘い―


2016年6月6日
於:ブルガリア・ソフィア大学


ハンセン病に関するレクチャーをさせていただく.jpg


この度は、ブルガリアで最古かつ最大の大学であるソフィア・聖クリメント・オフリドスキ大学から名誉博士号をいただくことができ、大変光栄に思います。また本日は、ハンセン病の制圧という私の生涯をかけた活動について、皆さまにお話しさせていただく機会をいただき、感謝申し上げます。

先ほどショートフィルムをご覧いただいたのは、この病気に苦しめられ、今もなお苦しんでいる人たちの現実を皆さまにご覧いただきたかったからです。映像にもありました通り、ハンセン病は何世紀にも亘り不治の病、神の罰などとされ、人々から恐れ嫌われてきました。

しかし1980年代になると、有効な治療法の確立により、ハンセン病は治るようになりました。簡単なことではないとはわかっていましたが、私はこの薬を、病気に苦しむ全ての人たちに届けることを決意しました。そして日本財団は、WHOと協力し、ハンセン病治療薬の無料配布を開始しました。

有効な薬を配るのですから、私たちはある一定の効果はすぐに現れるだろうと期待していました。しかし、多くの予期していなかった事態に遭遇しました。

例えば私は、世界には多くの人が薬の飲み方を知らないという事実を目の当たりにしました。それまで伝統医療薬しか飲んだことがないという人たちに対し、私は、まずブリスターパックと呼ばれる包装から錠剤を取り出し、水で飲み込むという薬の飲み方から教えなくてはならなりませんでした。

また、アフリカのある部族の人たちは食べ物を平等に分け合うという習慣があるため、配布された薬をも同じ村の人たちで分け合ってしまっていました。これでは当然、薬の効果は現れません。

また、無料なのに患者が薬を取りに来ないということもありました。痛みを伴う初期症状がないため、もしくは差別を恐れたためです。

薬を無料で配るだけでは効果的ではないということは明らかでした。私たちは、治療薬の配布に際し、その土地の習慣や文化なども考慮しなければならなかったのです。

このことを念頭に、より効果的に薬を患者に届けるために、私たちはWHOや各国の保健省、医療関係者、NGOなどと協力し、活動を続けました。

その結果、より多くの患者が病気を治療、治癒し、多くの蔓延国においてハンセン病患者の数は大きく減っていきました。私は、治療薬普及の成果が現れてきたことに、一種の達成感を感じ始めていました。

しかし、患者の数が減ったにも関わらず、私がハンセン病コロニーで目にした現実は、病気から回復した人たちの生活が治療前からあまり変わっていないということでした。彼らは治癒した後も、患者だったときと同じようにハンセン病療養所やコロニーで暮らし続けていました。そこは、草木も生えていないくぼ地のようなところで、外側からは単なる岩山にしか見えないような場所だったり、線路脇の土手のわずかな空間だったりしました。彼らはハンセン病を患ったときから、そのような場所に集まって暮らしていました。その場所と外の世界との境界に目に見える塀などは何もありません。しかし、まるでそこには目に見えない壁が立ちはだかっているかのように、彼らの住む場所とその外を行き来する人はいません。彼らはもう患者ではないのに、こうして「ハンセン病の元患者」として生活しつづけていました。

この状況を見て私は、私がそれまでハンセン病の差別やスティグマの問題を楽観視しすぎていたことに気づきました。私は単純に、病気を治すことは差別をなくすことにもつながるだろうと考えていました。しかし実際は、治癒してもなお、彼らは「元患者」から抜け出せていませんでした。これは特にハンセン病に顕著に見られる問題のように思います。

私は、ハンセン病の問題は医療の問題だけではないことに気づきました。それは私たちの意識の問題です。私は、この意識の問題にも取り組むことにしました。

ハンセン病の闘いについて話をするとき、私はよく、モーターバイクに例えて説明します。前輪は病気を治すための医療面のアプローチです。そして後輪は、スティグマと差別をなくすための社会面のアプローチを指します。この前輪、後輪が同時に動かなければ前に進まないモーターバイクのように、ハンセン病とその差別をなくすためには、医療面、社会面双方のアプローチを同時に進める必要があると、私は考えています。

後輪の差別の問題について取り組むにあたり、私は何から始めればいいのかわかりませんでした。医療面のアプローチのためには、WHOや保健省、医療専門家の方々と活動しましたが、社会面のアプローチには、新たな関係者を巻き込む必要があると感じました。

私はハンセン病の差別とスティグマの問題は人権問題であると感じました。それが、私が国際連合へ働きかけることにした理由でした。

私がジュネーブの国連人権高等弁務官事務所を初めて訪ねたのは2003年のことでした。そこで私が言われたことは、ハンセン病の問題についてそれまで誰も訴えてこなかったため、ハンセン病の差別の問題は人権問題として認識されていないということでした。

なぜそのようになってしまったのか、想像するのは難しくありませんでした――ハンセン病から治癒した人たちは、声をあげ、自らの人権を主張することをためらっていました。彼らは差別を恐れていたのです。彼らの多くは、自分たちに人権があることすら考えていなかったのかもしれません。ハンセン病から治癒したある人は、私にこう質問しました。

「本当に私たちに人権などあるのですか?」

私は、彼らの苦しみにこれ以上目をつむることはできませんでした。そして、このハンセン病の差別の問題を提起する必要があると思いました。

その後、この問題に注意を向けてもらうために、私はジュネーブを何度も訪れ、会議やポスターセッションなどを開催しました。この問題に対し、注目を集めようとしましたが、ことは簡単には運びませんでした。

しかし、私が人権委員会の小委員会で鮮明に覚えている瞬間があります。それは、私がハンセン病の回復者の人たち5人と会議に出席していたときのことでした。会議場で話をする機会に、私は自分が簡単に話した後、彼らのうちの一人の女性にマイクを譲ることにしました。インドから来た女性でした。

彼女は立ち上がり、「私はハンセン病でした」と言いました。

それまで、話半分に聞いていた会場中の人がその瞬間に振り向き、発言した彼女の顔を見ました。

その瞬間は、今でも忘れられない瞬間です。

そしてその瞬間は、私にとって、ハンセン病の差別の問題を人権問題として国連が初めて認識した瞬間だったように思います。

私の最初の国連訪問から7年、2010年にニューヨークの国連総会で、ハンセン病の患者と回復者、そしてその家族に対する差別撤廃の決議が採択されました。現在、加盟各国がこの決議の内容を実行に移そうと進めてくださっています。

社会的なアプローチを進める上で、私は、ハンセン病の差別やスティグマの問題をなくすには、当事者を巻き込むことが不可欠だと考えています。彼らに声をあげてもらうよう働きかけ、彼らの声を聞いてもらうことが重要なのだと思います。私が彼らの声を代弁することはできても、彼ら自身の声よりも説得力を持つことはないのだということに、私は経験を通じて気づきました。

ソフィアの後、私はバチカン市国でローマ教皇庁と共に、異なる宗教家、NGO、政府高官などとハンセン病回復者の包括的なケアと尊厳を考えるシンポジウムに参加する予定です。そのような時には必ず、回復者の声が直接、聴衆に届くよう、彼らを招待し、ご出席いただいています。

このような私の活動に対し、「ハンセン病は過去の問題ではないか、今さら取り組む必要はないのではないか」という人がいます。しかし私は、ハンセン病を考えることは、今まさに私たちがすべきことではないかと考えています。それは、ハンセン病を考えることが人間を考えることにつながるからです。ハンセン病の歴史は世界中で忘れ去られ、消されようとしている「負の歴史」として語られることが多いです。

しかし、ハンセン病の歴史は同時に、患者や回復者の方々が過酷な状況に置かれながらも、差別を乗り越えて生きてゆく、生命の輝きの歴史でもあります。名前を失い、故郷を失い、家族、友人をも失い、社会との関わりを断たれながらも、一人の人間として、生きようとしてきたその軌跡は、人間の強さと寛容さを私たちに教えてくれる、かけがえのない歴史でもあります。

だからこそ、ハンセン病を患った人たちの経験や記録を次世代に引き継ぐことで、人類がこの経験を忘れないようにしていくことが重要ではないでしょうか。彼らの声を次世代に届けていくこと。このことも、私の重要な仕事だと思い、ハンセン病の歴史保存の取り組みも進めています。

本日、この名誉ある学位をいただいたことで、皆さまより私のこれからの活動を後押ししていただけた想いがし、とても心強く感じております。

ありがとうございました。
「子どもの貧困対策プロジェクト」―全国100カ所50億円投下― [2016年06月10日(Fri)]
「子どもの貧困対策プロジェクト」
―全国100カ所50億円投下―


日本財団は、株式会社ベネッセホールディングス(以下、ベネッセ)をはじめとする各分野の第一人者とともに、子どもの貧困問題の有効な解決策を実証する「子どもの貧困対策プロジェクト」を開始し、その第一号拠点を埼玉県戸田市に開設することとなりました。

わが国の子どもの貧困率は、1980年代から一貫して上昇傾向にあり、今日では6人に1人の子どもが貧困状態にあるといわれております。こうした世帯で育つ子どもは、医療や食事、学習、進学等の面で極めて不利な状況に置かれ、将来も貧困から抜け出せない傾向があり、子どもの貧困問題への対応は喫緊の課題となっています。

日本財団は、特別養子縁組支援や児童養護施設出身者への奨学金設置、障害児への学習支援など、様々な「生きにくさ」を抱える子どもへの豊富な支援実績がございます。子どもの貧困問題については、この対策を新たな重点支援分野として掲げ、各分野の第一人者で構成するプロジェクトチームの立上げを進めてまいりました。昨年より、子どもの教育・生活分野で長年の実績と豊富な知見を有するベネッセを中心に、本プロジェクトチームでは子どもの貧困問題の有効な解決策の検討と具体化に取り組み、埼玉県戸田市にその第一号拠点を設置する運びとなりました。第一号拠点で、本事業の有効性を検証し、全国への展開を目指します。

以下、記者会見での私の挨拶です。

****************


2016年5月23日(月)
於:日本財団ビル2階


握手.JPG
ベネッセホールディングスの福原さんと


皆様ご承知のように、日本財団ではパラリンピックサポートセンターをはじめ、あらゆる分野の障がいを持った人たちへの支援を行っています。また、今は熊本の被災地でも懸命に努力していますが、災害救援活動や高齢者の支援は50年以上に亘ってやってきた組織です。しかし昨今、子どもの貧困問題についての報道が数多く取り上げられるようになりました。

子どもの貧困の状態は以前よりひどくなってきています。日本財団の調査によりますと、貧困を放置した時の経済的損失は一学年で2兆9千億円にもなります。障がいを持った子どもの問題に関しては以前から取り組んで参りましたが、「子どもの貧困問題」の解決というのは、まさしく国民的な関心事です。

極端な例を申し上げるのは如何かとは思いますが、日本財団の職員が面談をした折、将来何になりたいかということを聞いた時「うちは生活保護でお父さんも生きてきたから、僕も生活保護でいくんだよ」という答えが2、3あったと聞き、愕然としました。夢も希望も持てないで、その日暮らしの子どもたちが多数存在しているという非常に深刻な状況を改めて痛感し、これをどう解決するかを考えました。

私も長い人生を歩んで参りまして、子どもの頃を思い起こしました。私の場合ですが、学校が終わって帰り、お米屋さんや畳屋さんの前に行けば必ず中学1年生くらいから幼稚園の子どもたちが集まって遊びに耽っていました。生傷が絶えませんでしたが、足に擦り傷を作ると隣のおばさんが赤チンキを持ってきてすぐ塗ってくれたり、オキシドールを塗られて泡が吹いて痛いのを我慢した記憶もございます。遊んでいる子どもたちがちょっと遅くなると「早くおうちに帰りなさい」と近所のおばさんに叱られ、翌日にはまた集まって遊ぶという幼少期を過ごしました。

経済が成長し、非常に多様化した社会の中で、それぞれの家庭も個人も細分化をされてしまい、子どもたちにとっては今や学校と自宅、この2つにしか居場所がない時代になってきているのです。そういう意味でも第3の居場所を作る必要があるのではないかと思います。

第3の居場所というのはどういうところかと申しますと、コミュニティの中心になるような施設、居場所です。勉強を教えてもらったり、大学生のお兄さんたちとキャッチボールや縄跳びをしたり、鉄棒なども設置してちょっとした運動をしたり、「あそこに行けば仲間がいる」「お兄さんがいる」「話ができる」場所なのです。

もう少し夢を語らせて頂くと、今は老人も居場所がないのです。家庭の中に一日中いますと、奥様から大変なクレームが出るそうです。元気なご老人であれば、その第3の居場所に来て頂き、子どもたちに将棋や囲碁を教えたり昔話を聞かせてほしい。また、お母さんが夜働いていて食事が出来ないようなお子さんには食事も提供したいと考えています。近所の方々が食べ物などの届け物もしてくれるような、そしていただいた物に対して「ありがとう」という言葉が素直に言えるようになるといいですね。食事を通じて礼儀作法を覚えることもできるでしょうし、何よりも勉強もきちんとそこで教えてもらい宿題もできる。このような第3の居場所を作るというのが今回の「子どもサポートプロジェクト」といわれるものでございます。

昨年10月には政府そして経済界、メディアあるいは支援団体などからなる発起人が集まって「子どもの未来応援国民運動」という名の下に華々しくスタートしましたが、残念ながら未だに機能していません。政府もこの問題については深刻に受け止めていますが、依然動きはにぶいのです。

決して政府を批判する訳ではありません。大きい組織なので動き出すまでに時間がかかりますが、動き出せば大きく動いてくれると思っています。しかしその一方で、成熟した社会の中でそれぞれのニーズが多様化してきている今、民間の働きというものが行政でも大変重要視されるようになってきました。

そのような状況を踏まえ、我々はまず50億円の資金を使って全国100ヶ所の拠点を早急に作り上げることに致しました。それぞれの地方の特色を活かし、運営して下さる皆様の方針、方法論も取り入れて、画一的ではなく、地域にあった子どもサポートプロジェクトを作りたいと思っています。

この事業の共通のテーマは「未来の日本国を担う、そして世界に羽ばたく日本人を作る」ということです。そのチャンスを貧しくて生活が困難な家庭のお子さんたちにも平等に与える。これが国の基本であるべき姿だと考え、まずは民間レベルでスタートすることにいたしました。長い間、ベネッセホールディングスの福島さんとも話し合いを重ね、非常に専門的な幅広い知見をお持ちの福島様より「社としても大いに協力をしましょう」という大変力強いご協力を頂けることになりました。

この他に、今日は埼玉県戸田市の神保市長、特定非営利活動法人Learning for Allの李代表理事、そして慶應義塾大学 中室准教授もお見えになっています。我々の理想には十分には叶いませんが、神保市長が大変熱心でいらっしゃいますので、一号店は戸田市にお願いすることに致しました。神保市長自ら音頭を取って開所する場所も決まっていて、恐らく10月頃には完成すると思います。戸田市を拠点第一号として全国に呼び掛けてやっていきたいと考えております。

「子どもサポートプロジェクト」全国100ヶ所、50億円という資金を投入して、今申し上げたような子どもの居場所を作ると同時に、子どもに学校と家庭以外のところで様々なことを学ぶ機会を与え、そこで得た知識によって自分の将来を考え、自分がどういうことに向いているのだろうかということを探し当てることが、教育上大変重要なことだと思っております。

もう少しお話をさせて頂きますと、最近の若い皆様は一生懸命受験勉強をして希望の大学に入った後1割から2割は上級職を目指し、あるいは弁護士、会計士、建築家を目指して勉学に励まれる方がいらっしゃいますが、受験勉強から解放され2年間は遊んで過ごす人が大半で、3年生になってさぁ就職だ、どこに就職したらいいのだろうと迷ってしまいます。本来ならば子どもの時にその子の特徴が何であるかを見つけ出してあげて、「あなたは手が器用だから将来大工さんが向いていますよ」とか「君は非常に精密な絵を描けるのだから建築家になった方がいいのではないか」というような将来の道を探してあげるのも大変重要なことだと思うのです。

私はハンセン病の制圧活動で世界中を回っておりますが、途上国の子どもたちに「将来何になりたい?」と聞くと全員が手を上げます。そして、必ずお医者さん、看護婦さん、学校の先生と答えます。「どうして?」と聞くと「お父さんやお母さんを幸せにしたい」と、どんな山奥の子どもでも答えますが、日本でそういう声を聞く機会が非常に少なくなってきているということは誠に残念なことです。

まだ遅くはありませんし、やらなければならない仕事だと私たちは肝に銘じ、これから試行錯誤しながら只今申し上げた諸問題の解決のために活動を開始することを今日発表させて頂きました。ベネッセホールディングスの福原さんは100%我々の考えに同意をして下さいまして、一番大事な部分についてご協力を頂きました。

ありがとうございました。
「ハンセン病制圧活動記」その34―インドネシアの国旗― [2016年04月13日(Wed)]
「ハンセン病制圧活動記」その34
―インドネシアの国旗―


インドネシアはインド、ブラジルについで、世界で3番目にハンセン病患者の多い国である。3月13日〜17日までの5日間、シャカルタ、スラバヤ、東ジャワのマドゥラ島でハンセン病制圧活動に汗を流した。

2014年の東ジャワの患者数は4,116名で、インドネシア全体の10.68%を占める。その中でもマドゥラ島は2,000名と圧倒的に多い。ハンセン病は無痛なので、どうしても発見が遅れて手足等に障害が出るケースが多く発生する。そこでインドネシア政府は、マドゥラ島の全ての家庭で、家族同士が皮膚を相互チェックし合う運動を計画した。ハンセン病の初期は、体の一部に皮膚感覚のない『パッチ』といわれる白い斑点が生じる。この斑点のある人を見つけ、速やかに病院で診断を受けさせようとするものである。

我々は、ハンセン病回復者の全国組織である『ペルマータ』への支援も行っているが、インドネシアのハンセン病に対する偏見・差別は世界の例外ではなく厳しい。記念式典でブディノ副市長がわざわざ「笹川さんは回復者一人一人と握手していたでしょう。怖い病気でありません」と挨拶したところを見ると、まだまだハンセン病についての理解は進んでいないことがわかる。中央政府のニラ・ファリッド・モエロク保健大臣は、私と同行することを約束していながら、巡礼のためと言ってメッカに行ってしまった。途上国でよくあることで別に驚きもしないが、何とかこの運動を成功させ、全国展開したいものだと考えている。

ハンセン病啓発の素晴らしい歌と踊りも披露された。しかし残念ながら、最も深刻な低年齢者の感染を防ぐための子どもたちの参加がなかったことは、画竜点晴を欠くものであった。

インドネシアの国旗の話しを書くのに、つい本職の活動の話になってしまった。

世界の国旗についての権威者は知人の吹浦忠正氏である。東京オリンピックの国旗の係りをしていたそうだから年期が入っている。国旗にはそれぞれ故事来歴もあり、国によっては3〜4回変わることも珍しくないそうだ。私が政府代表を務めるミャンマーでも2〜3年前に国旗が変わった。

インドネシアの国旗の話を書くことになったのは、スラバヤのマジャパヒトホテルに泊まった折、部屋のテーブルにホテルの歴史のパンフレットがあったからだ。

このホテルは、コロニアル風で有名なシンガポールの「ラッフルズホテル」やミャンマーの「ストランドホテル」を開設したのと同じ人物で、植民地支配をしていたイギリス人やオランダ人が建設したのかと思っていたら、イラン人ビジネスマン、サーキーズ兄弟を先祖とする一族が建設したらしい。日本占領時代の一時期、「ホテル・ヤマト」と改名した時期もあったが、1945年、第二次世界大戦が終わり、その後オランダ占領軍が進駐してこのホテルにオランダ国旗を掲揚しようとしたところ、インドネシアの独立を熱望する人々がホテルの屋根に駆け上がり、オランダ国旗の青い部分を引きちぎって赤と白のインドネアシア国旗が誕生したそうだ。

オランダの国旗.png    インドネシアの国旗.png
オランダ(左側)とインドネシア(右側)の国旗


Iたまにはこういうホテルにも泊まります(視察のために致し方なくですが。。).jpg
コロニアル風ホテル、WHOの手配で1万円程でした
思ったより安くてホッ!


単純な国旗にまつわる逸話なのに、長々とした説明でお恥ずかしいことです。

以下は、東ジャワ州マドゥラ島で開催されたハンセン病制圧式典でのスピーチ要旨です。

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皆さまご存知の通り、ここインドネシアでは、WHOの定める人口1万人あたり1人未満という公衆衛生上のハンセン病の制圧目標を2000年に達成しています。それでも、この国家レベルでの制圧に甘んじることなく、その後15年以上の間、ハンセン病の蔓延地域を中心に積極的な活動を続けてくださっている大臣閣下はじめ、皆さまに深く敬意を表します。

私たちが次に目指すべきことは、このような蔓延地域をなくすことです。

ここ東ジャワ州マドゥラ島の4県では、年間2,000人のハンセン病患者が発見されていると聞いています。私の経験上、このような蔓延地域では、ハンセン病について知らない人が多いように思います。例えば、ハンセン病はどのような症状が出るか知らない人。治療を受ければ治るということを知らない人。治療が無料で受けられるということを知らない人。その結果、早期に適切な治療を受ける人が少なくなってしまうのです。

この度、インドネシア政府は、「コミュニティ参加型の活動(Community Participation Activity」を新たに打ち出しました。私は、これは非常に重要な取り組みであると思います。この活動によって、東ジャワの人々がハンセン病の知識を得ることができれば、患者の早期発見、早期治療にもつながります。ハンセン病は、初期症状が出た段階で発見ができれば適切な治療へとつなげることができます。これがハンセン病を完治させるための鍵です。

私が、ハンセン病の早期発見、早期治療が重要だと何度も強調して言うのにはもう1つの理由があります。

ハンセン病は、早く発見して治療しないと、後遺症として身体に障害が残ってしまうことがあります。そして、その障害によって患者は恐れられ差別されてしまうことがあるのです。皆さまご存知の通り、ハンセン病の差別の問題は根深く、簡単に解決することはできません。しかし、早期にハンセン病を発見し、治療を受け、ハンセン病に起因する障害を未然に防ぐことができれば、患者が差別される可能性をも大きく減らしていくことができます。

このコミュニティ参加型活動は、東ジャワ州だけでなく、南スラウェシと中央スラウェシにも広めていき、その後、全国に展開していくと伺っています。このインドネシア政府主導のイニシアティブを大いに歓迎します。まずは、この東ジャワでの活動が軌道に乗るよう、スカルウォ知事には、強いリーダーシップを発揮して進めていただきたいと思います。そして、ここでの成功がモデルとなり、インドネシア全土における大きな成果につながることを期待しています。

各市の市長の皆さま、そして各市保健局長および村長の皆さまの積極的な活動にも期待しております。皆さまには取り組むべき課題が他に多くあることは理解しておりますが、ぜひ、この機会にハンセン病への取り組みにも今一度力を入れていただきたく、ご協力をお願いします。

最後に、本日お集まりのマドゥラ島にお住まいの皆さま。この活動は、皆さまやご家族の健康のために非常に重要な取り組みです。皆さまの積極的な参加をお願いします。

「ミャンマーNLD経済委員会来日レセプション」―挨拶― [2016年03月18日(Fri)]
「ミャンマーNLD経済委員会来日レセプション」
―挨拶―


ミャンマーに関心のある多くの企業や投資家が参加してくれました。
以下、その時の挨拶です。

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2016年1月28日
於:帝国ホテル


ミャンマーNLD経済委員会歓迎レセプションで挨拶.jpg
ミャンマーの民族衣装をまとい挨拶


皆様こんばんは。
ご多用の中、沢山の方にお集まり頂きました事にまず御礼を申し上げます。

ご承知のように選挙でNLDが大勝しました。そして各国からの多くのお招きの要請がある中で、日本にだけ行って良いというアウンサンスーチー女史の特命を受けてMyo Myint団長始め経済委員会の皆様が日本を訪問してくださったという事は、大変嬉しいことであると同時に大きな責任を負っているという事になる訳でございます。

かつてアウンサンスーチー議長にお会いした折、日本の(ミャンマーへの)経済進出が大変遅いとお叱りを受けたことを今も鮮明に覚えています。私は「日本という国は出足は遅いけれども、マラソンに例えれば、必ず最後は勝つ大変強い国です」と申し上げましたところ、「マラソンが強いのは最近ではエチオピアです」と反論を受けました。

2011年に、ここにお座りの日本ミャンマー協会の渡邉秀央先生とティラワの経済開発の現場を見に行った時、現場はまだ野原でございました。これを本当にテインセイン大統領がおっしゃる「2015年までに形に出来る」のかという事については、麻生副総理とも「それは無理だろう」と語り合ったものです。

しかしながら、紆余曲折はございましたが、ティラワ開発は丸紅・住商・三菱商事の3社が管理会社になりまして、ミャンマーと組んで猛烈な勢いで努力をしていただいた結果、第一次計画はものの見事に成功されて、ほぼ一杯という状況でございます。直接雇用だけでも3万人という事でございますから、下請け・孫請けまで入れれば相当な雇用が確保できる、こういう状況になっており、日本は短距離も速くなったのだなと、私は改めて経済界の皆様のご努力に感謝申し上げたいと思っております。

新しいNLDのこれからの経済政策も、テインセイン大統領の引かれた民主化、そして経済発展の路線の上に乗って、さらに新しい政策もそこに加えていく事になる訳でございまして、そんなに大幅な政権交代による経済政策の変更という事はないと私は理解しております。

皆様、もう報道でご承知のように、スーチー議長は大統領とも国軍司令官ともお会いになり、円満な政権移行が順調に進んでいる訳でございまして、選挙前の報道、或いは選挙後の報道におきまして、多少の混乱が出るのではないかという世界のメディアの期待を見事に裏切りまして、素晴らしい政権移譲が進んでいるという事を皆様に報告したいと思います。

昨年、テインセイン大統領が日本にお見えになりました。日本ミャンマー協会との共催で大統領をお迎えした時、企業家の皆様の中には、まだ投資をすべきかどうか、多少迷っていらっしゃる方もいらしたものですから、「どうぞ遠慮なく参加してください。チャレンジしてください。そしてもし損失が出た時は私が全部責任を持ってお支払いします」という事を大統領の前で宣言いたしました。

その後渡邉先生や仙石先生のお力添えで、日本の企業が順調に進出して頂いている事は大変有難いことだと思っておりますが、今日お集まりの皆様の中で、まだミャンマーへの投資が心配だ。赤字が出たらどうしようという方がいらしたら手を挙げてください。私が支払いますから。今挙げないと払いませんよ。正直に。いないですか。Myo Myintさん、皆投資するらしいですよ。Myo Myintさん舞台に上がってください。もう一度聞きますから。これから皆様方に積極的に投資をしてもらいたいと思いますが、投資をしたくない人がいたら手を挙げてください。ゼロでしょう? 帰ったらスーチー議長に、日本に行って企業家や投資家が大勢集まった笹川さんのパーティーで、皆が投資をしますと約束しましたからとお伝えください。

という事で、もう皆様方弾みがついていらっしゃるので、今日は大いにお酒を飲んでください。ミャンマーは20世紀・21世紀にかけての最後のフロンティアですし、日本との関係も素晴らしい。アウンサン将軍が統一ミャンマーを作りたいという夢を持ちながら、実現半ばで32歳という若さでお亡くなりになった訳ですが、そのお嬢さまがアウンサン将軍の意思を継いで、ミャンマーの統一国家を作り、民主化を実現したい。パンロン会議の意思を継いで更に民主化を前進しようという事でございますので、どうか一つ、皆様方のお力添えを頂いて、日本とミャンマーの関係が更に濃密な関係になる事を私達は願っております。

今日は多くの人と名刺交換をして、今後の関係強化に役立てて下さい。
「日本財団在宅看護センター起業家育成事業修了式」―挨拶― [2016年03月09日(Wed)]
「日本財団在宅看護センター起業家育成事業修了式」
―挨拶―


日本財団と笹川記念保健協力財団は、喜多悦子理事長の指導で、全国に在宅看護センターの展開を実施中です。

以下は修了式での挨拶です。

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2016年1月27日
於:日本財団


集合写真A.JPG
終了証を手に、新たな旅立ち


9人の修了式ということで、何か「山奥の学校の修了式」というような印象を受けたのですが・・・勿論、冗談ですよ。

今日は日本の高齢化社会の中で皆様方の役割がいかに重要であるかということの大切な出発式典です。今回は2回目の修了式ですが、日本看護協会をはじめ多くの方々のご支援を頂き、素晴らしいカリキュラムを組んで頂きました。既に皆様方は看護の世界では一流の経験を持った方々ばかりでございますが、これからは日本が直面する介護の問題について、草分けとしての旅立ち、それぞれの地域で事業を展開して頂くわけでございます。

いつの時代でもそうでございますが、福澤諭吉は『文明論之概略』の中で、「世の中を改革する大きな力となるのは、はじめは少数の意見であり、少数の活動家である」と書かれています。まさしく今皆様方は、そういうお立場にいるわけです。

看護師として豊富な経験の上に、高齢化社会における最大の問題である在宅看護の指導者としてお働きを頂けるということは、大変有難いことです。在宅ケアがどうあるべきかということについては、皆様はもう十分に勉強されてきましたのでこれ以上は申し上げませんが、今まで病院その他にお勤めになってきた立場から、今度は自らが働きになりながら人を雇い、経営する立場に180度変わるわけです。様々なノウハウも必要ですし、新たな困難な問題に直面することもあろうかと思いますが、決して一人でお悩みになる必要はございません。私は若い時から沢山の事業をしてきた経験もございます。何かに悩まれたら、日本財団あるいは笹川記念保健協力財団にご相談下さい。

20年、30年後には数千人の皆様方の後輩ができるよう、日本財団は今後も努力してまいります。その一方で、これから皆様方が突き当たる悩みというのはそれぞれに違うわけで、ここで学んだことをご縁に、是非同期同士で相互連絡、情報の交換を十分やって頂きたいと思います。

日本財団、笹川記念保健協力財団は、一度ご縁があった皆様方とは緊密に連絡を取り合っていくことを行動哲学としています。例えば、私共は今までに47大学で奨学金制度をやっておりますが、全てにおいて、一度私たちとご縁ができたら卒業して「はいおしまい」ではなく、その後社会で働く中で結束を固め、より効果的に、そして社会にきちんとした影響力が持てるような存在になって頂くべく努力しています。

笹川記念保健協力財団が中国のお医者さんが日本で学ぶためのご支援をした折の話でございますが、まだ今のような時期ではありません。皆人民服を着た貧しい格好で、お化粧も何もなしでお見えになった時代から30年も続き、2,300人を超える方々が卒業されました。当時看護師さんを日本に呼んで欲しいと申し上げたのですが、当時は医療従事者だという意識がほとんどなく、お呼びするのに6年かかりました。ようやく当時看護師の高橋ミキ女史が頑張って下さいまして、5名が来日しました。その5名のうちの1名が、今の中国の看護師会の会長を務めていらっしゃいますし、そういう方々と私たちとの繋がりがいまだにあるわけです。

一つ例え話を申し上げましたが、そういうことで、勉学が修了したからもう関係ないということではございません。これから皆様方の事務所の設営その他費用につきましても、日本財団がきちんとフォローをしていくことをお約束致します。皆様方にはキラッと輝く、「さすが、笹川記念保健協力財団で勉強されてきた人たちは違うな」というところをお見せ頂きたい。

在宅看護は国家レベルで取り組んでいかなくてはいけない大きなテーマです。しかし、民間がリードオフマンとなって成功のモデルケースを作ることによって国がそれをフォローしていく。そういう形を作ることが望ましいし、また事実、そういう風に私たち日本財団、笹川記念保健協力財団は仕事をしてきました。

世の中には様々な課題が山積しております。これを全てが国の責任だ、行政の責任だと言ってしまえば楽な話ではございますが、できるところが率先して行動を起こし、モデルケースを作ることによって「あーこういう切り口でこうやればいいんだな」ということを理解して頂くことが大変重要だと思います。

今「地方創生、地方創生」という合言葉が飛び交っておりますが、具体的にはあまり進んでおりません。そこで私たちは、どこの県と一番手を組んだらいいか考え、人口の一番少ない鳥取県としっかりと手を結び、行政のできることと民間のアプローチでできることを融合させて活気ある鳥取県を作ってみようと。そうすることによって国の政策を引っ張り出そうと動き始めました。まずは成功例を作ってみることが大切だと思っています。

今から25年前、個室の老人ホームを長野と石川と島根、3箇所に作りました。その折に厚生労働省から「笹川さん、老人ホームが一人部屋になる時代なんて当分来ませんよ。そういう理想でおやりになってもなかなかうまくいかないと思いますけど」とご指導を受けました。当時は4人部屋、6人部屋、そして決められた時間に介護、下の世話をして、それ以外はほったらかし、部屋の中で寝るときも起きている時も同じ服装でいらっしゃいました。老人の中には大学の教授だった方、小学校の先生だった方もいらっしゃいます。それぞれのお立場で社会で活躍してきた方々であるにもかかわらず、幼児言葉で接遇している姿を見て、私は愕然と致しました。

しかしながら、長野県に作ったホームには1年間に3,000人を超える地方自治体の見学者が殺到し、そして「なるほどこういう風にやるんだ」と・・・我々の作った施設では、部屋の中では自由ですが、皆で食べる食堂に来るときにはちゃんとお化粧をして下さい。そして、靴下を履く時にはじーっと見ていて、どうしても履けない場合のみお手伝いをするけれども、できるだけ一人で履いていただきます。老人の残存機能を少しでも長く持たせるということが大変重要なことですから、時間がかかりますけれども皆さんが先に手を出してお手伝いをしないことに、視察に来られた方は驚かれたようです。

批判もたくさん受けましたが、3,000人も来て、お茶代が不足したから日本財団が何とか援助してくれということで、喜んでお茶代を差し上げたことは今も記憶に残っています。そういう方々ともいまだに勉強会をやり、そこから老人介護の問題について、日本を代表するような素晴らしい方々が生まれてきております。

皆様方の役割はそういう大きな日本の社会の変革の中に、在宅ケアという最も重要なところを開拓して頂くわけですが、今はまだこれがそのモデルだというのはありません。皆様方にこれからモデルを作って頂くわけです。

どうか大きな誇りを持ってチャレンジをして頂き、そして困ったことは日本財団、そして笹川記念保健協力財団に相談して下さい。私たちも真剣に皆様方のお悩みに答えたい、共同の責任があると思っておりますので、これからも我々との連絡を密にされ、それぞれの場所で成功をして頂くことを心から願っております。

本日は本当におめでとうございました。
「ミャンマーNLD経済委員会訪日団」 [2016年03月07日(Mon)]
「ミャンマーNLD経済委員会訪日団」


アウンサン・スーチー議長率いるNLD(国民民主連盟)の幹部が、政権移行期の多忙の中、外務省、財務省、日銀、証券取引所等々、財政金融制度を中心に勉強するため、日本財団の招待で来日された。

以下の私の挨拶です。

****************


2016年1月25日(月)
於:日本財団 AM9:30-11:00


今日は日本財団の活動の概略、そしてまた日本とお国にとの関係について若干の説明をさせて頂きたいと思います。

日本財団は60年の歴史がございます。日本の国が非常に成熟した民主主義国家であるという事は皆さんご承知の通りでございますが、成熟した国になればなるほど、社会の問題が複雑化していきます。そういう中で、国家が出来ないような仕事を、逆に私たち民間人がする役割も多くなってきています。

一番最初に私の失敗の話をいたします。日本にも高度成長の時期がございました。そういう中で、老人のための施設、或いは障害者の為の施設等々を、社会の要望に応えて郊外の静かな所に立派な建物を沢山建ててきました。その結果どうなったかと申しますと、都会でも農村部でも、コミュニティが全て元気な人たちばかりになってしまったわけです。そのため障害を持った人とか、お年寄りの方々に対する人々の思いやりや助け合いという豊かな感情や行動が薄れてしまった。社会を構成する人々、或いはコミュニティを構成する人々の中にはお年よりもいれば子供もいる。目の見えない方や耳の聞こえない人や様々な人で成り立っているという事を私達は少し忘れてしまったのです。そこで日本財団ではその反省に立ち、もう一度町の中にそういう障害を持った人とか病気の人とか、お年寄りも若い人も子供たちも一緒に生活するコミュニティを作る必要があると考えて活動しています。耳の聞こえない人に手話を言語として日本の法律で認めて頂く活動、或いは犯罪を犯した人が刑務所に入って、出てきた時、彼らが社会の一員として活動できるような職場を確保することなど、私たちがやらなくてはならない問題は沢山あります。特に最近は「貧しい家庭の子供たちの教育をどうするか」という事が国レベルでも議論されております。私達は「民が民を助ける」そういう社会システムを構築したいと考えております。全ての事を国家の責任にしてしまっても、国家が出来ることには限界があります。やはり国民が国民を助けるそういう社会を作るという事が大変重要だと考えております。

皆様方の指導者でいらっしゃいますアウンサンスーチー議長の父親は、ご承知のようにアウンサン将軍でいらっしゃいます。アウンサン将軍はミャンマーの統一国家と、独立した当時の言葉で「ビルマ」を作る為に生涯を送られた方でございます。アウンサン将軍は独立したミャンマーを作るために、日本の当時の若い軍人さんの協力をあおぎました。アウンサン将軍が1941年に、今のタイのバンコクで、ビルマ独立義勇軍というものを作られた時に、日本の南機関という軍人さんの集まりの鈴木大佐がこれにご協力し、ビルマ独立義勇軍が出来たのです。そしてこの鈴木さんたちにアウンサン将軍率いる30名の青年達が国家独立の為に戦いを開始されたのです。当時アウンサン将軍は若干28歳で日本の天皇陛下から勲章を受けられたという世界でも稀にみる人格・高潔な素晴らしい指導者として日本国からも評価をされた方でした。ご承知のように、日本はアメリカ・イギリスと戦争をして負けました。自分を指導してくれた鈴木大佐が戦争犯罪人として裁かれる事になった時に、アウンサン将軍が大反対し、この鈴木大佐はビルマの為に戦ってくれた人だという事でアメリカやイギリスと交渉して裁判にかけられること無く釈放されました。アウンサン将軍が指導を受けた恩義に対する感謝の気持ちが鈴木大佐を助けたのです。困った時に助け合うという精神は、私達はアウンサン将軍から教えられ、今、私たちがお国に支援するのもそういう歴史的な事があるからです。そしてこのアウンサン将軍の夢は統一されたビルマを作る事でした。ご承知のように、当時、今の少数民族武装勢力というのはイギリスを中心にこのビルマに対する戦いを挑んでいった訳です。1947年に統一されたビルマを実現するために、アウンサン将軍は有名なパンロン会議を開催され、ビルマの真の独立に向けた連帯と協力を要請したのがこのパンロン会議でございます。残念ながら32歳という若さで暗殺をされてしまったのです。その理由や背景はここでは時間がないので省略を致しますが、今、スーチー議長が最も重要な事としてこのミャンマーの真の統一、連邦国家の結成こそ最も重要な事だという発言をされておりますが、これはお父上であったアウンサン将軍が目指された連邦国家を作りたいという夢が実現しなかった事を、スーチー議長が今実現しようとしているのです。今回の旅行日程では、京都を訪問していただきますが、アウンサンスーチー議長は有名な京都大学で1年間日本語を勉強されました。親子2代に亘り、日本との大変深い関係にあるという事を簡単に皆様にご紹介を致しました。

私は今、そのアウンサン将軍が目指され、そしてスーチー議長が目指していらっしゃる国民和解、真の連邦国家建設のための少数民族の和解について日本の政府代表を勤めております。私はこの少数民族武装勢力との問題はミャンマーの国内問題であると考えておりますが、今後は皆様方との連携を良くして、この問題の解決についてご協力したいと思っております。スーチー議長の夢でございました全ての少数民族との全面和解という理想は実現しませんでしたが、半分の方々との停戦、そして政治協議が開催されておりますので、ぜひとも皆様方のご協力によって、このスーチー議長の夢、そして遠くはアウンサン将軍が描いた素晴らしい国家統一の為にお働きを頂き、また日本政府・日本国民も皆様に協力して素晴らしい平和国家・民主国家のミャンマーが達成されることに日本としてご協力していきたいと願っております。

私はもう一つ、ハンセン病「Leprosy」という病気を世界から無くしたいというのが終生の仕事の一つです。ミャンマーにも多くの患者さんがいらっしゃいます。そしてこの人たちを助けたいという思いから、当時の軍政の方々にお願いを致しました。軍政が良くない事は100人に聞けば100人がそう思います。だからといってその国で困っている人を助けないというのは、私は間違った考えだと思います。従いまして、世界中がミャンマーに経済制裁を掛けている中でも、私達はハンセン病の患者さんを一人でも助ける為に薬は全て無料で配布し、いまやミャンマーのハンセン病の患者さんは激減しました。

私はいかなる国が軍事政権であろうとも、或いは厳しい政治組織があろうとも、そこの国民の中に困っている人がいれば、これは人道的な立場で支援するのが正しいと考えております。私はそのハンセン病をミャンマーから無くすために最初のミャンマーとの関係が出来ました。その後、少数民族地域の子供の教育状態が悪いことを知り、それ以来、今までに様々な地域で既に370を超える小学校を建設しました。

その中で一つ皆様方に報告したい事がございます。私は山岳地帯ですとか少数民族の地域で学校建設・子供の教育問題を重点的にやって参りました。しかし私達はミャンマーの地図を広げてここと、ここと、ここに小学校を作るというようなことは一切やりませんでした。そうではなく、本当に自分たちの子供を教育する学校が必要だという村人のいる所を探して学校を作ってきました。村人の中から代表者が選ばれて、その人が日本財団との交渉し、「私は建設資材を集めます」、或いは「私は運動場を整備します」、或いは「整地や建設に労働力を提供します」という村人もおり、それぞれグループを作って協力してくれました。そのため村人は日本財団が学校を作ってくれたのではなくて、自分たちが汗をかいて自分たちの可愛い息子の為に、娘の為に学校を作ったのだ。村人たちは自分たちの学校だと誇りを持ってくれた。村人は民主主義がどういうものかは知りません。しかしながら彼らが学校を作る為に何回も会合を開いて責任者を決め、学校を作る役割分担をして作ったというこの過程は民主主義そのものではありませんか。私たちの作った370の学校の村人たちは民主主義という言葉は知らなくても自然に自分たちで実行してきたのです。もう一つ感動的な話は、そこで教えている先生方が、安月給の中から、もう一つ上の学校に行かせて将来のミャンマーの指導者にしたいという子供たちの為に、一人50円のお金を集めて奨学資金制度を作って協力してくださったのです。世界中でそんな先生はミャンマーだけです。ですから、日本財団は皆様方の困った所に応援するという考えではありません。ミャンマーの人たちが自主的に自分たちの問題を解決したいというお考えに私達は協力しているだけです。

私は少数民族の住んでいる山岳地帯にも随分入りました。正直言って、子供が病気になった時に行けるヘルスセンターとかヘルスポストまで、長い所では2日もかかる所があります。そこで私は考えて、ミャンマーには素晴らしい伝統医療というものがある事が分かっておりましたので、子供たちの熱を下げる、下痢を止める、風邪を治すというような初期治療が出来れば、ほとんどの病気がひどくならずに済むと考え、各村にこの十数種類の薬の入った箱を提供して参りました。その数は、ミャンマーは村が7万ありますが、2万を超える村に配布をしてきました。しかし、率直に申し上げて私の計画は現在上手く進んでおりません。何故ならば、薬箱を頂いた所が、薬を使ってしまった後に新しい薬をもらうことをしなかったのです。それはその薬箱を管理する人達に、私たちが政府と組んで、使い方と薬がなくなった時の手配の仕方をきちんと徹底した指導をしなかった、出来なかった事に欠陥があります。スーチー議長は貧しい人たちに対する配慮があります。私も全ての人が健康で幸せに生活する権利があると思っております。どうぞ全ての村々にこの薬箱が置かれ、子供が熱を出しても母親が安心できる熱を下げる薬がある。悪い水を飲んでお腹を壊しても、飲めば治る薬がある。そういう状況を是非皆様方の協力を頂いて、ミャンマー全土でどこに行っても薬があるという状況を作りたいとのです。今日は特にこの点について協力をお願いします。

また、ミャンマーでは障害者、障害を持った方が沢山いらっしゃいます。目の見えない人もいますし耳の聞こえない人もいます。身体障害者もいらっしゃいますが、こういう人はあまり今まで家庭から出ることもありませんでした。しかし、障害を持っていても、個々それぞれ素晴らしい能力を持っているのです。私達はこの障害者の全国組織を立ち上げ、素晴らしい人たちが活躍をはじめています。たとえば障害者の皆さんが舞台芸術をやって3日間で数千人の人が参加することもありました。障害者が自信を持って社会の中で活動できる組織を作ろうという事で、目の不自由なひとにはマッサージを教える事もやっていますし、障害者の皆さんを運ぶタクシーも始めています。日本政府は非常に高い立場からODAを使っての支援で問題解決にあたり、日本財団はグラスルーツから村人や貧しい人達を下から支える。そういう協力を行っています。

最後に少数民族地域ですが、これは日本政府から日本財団が依頼を受けまして、お米・油・塩・その他ランタンなどの生活の必需品を非常に困難な少数民族武装勢力地域に、ミャンマー政府の格別の協力を頂いて配布させて頂いているのは日本だけです。武装勢力の地域の人々の生活の悲惨さは、毎日の生活の中で、今も困難な状況が続いています。こういう方々に日本政府並びに日本財団は人道支援を続けて、もう既に53万人の方々に人道支援を行っております。

皆様の国の事は皆様方が一番良くご存知でいらっしゃいます。ぜひとも私達に色々な事を教えて頂きたいと思います。私は世界中を旅しておりますが、全ての問題点、そしてその解決の方法も現場に行かなければ分からないというのが私の行動哲学です。どんな山の中にも参りますので、問題があったら是非教えて頂きたい。共にその問題の解決の為に皆様方と協力をしていきたいというのが、日本財団の基本的な考えです。よく知らない人がここ日本財団ビルを訪ねられると、こういう冷暖房の効いた素晴らしい事務所ですから、私達は世界中から支援を要請する文書をみて判断をしているのだろうと思われる方がいらっしゃいますが、私達は決してそうではありません。私は1年の1/4、ここに並んでいる職員はほとんど世界中を回って、現場を見て、その問題点とその解決方法を探るという、あくまでも私達は現場に出かけて行って皆様方と話をして問題点を抽出し、その解決方法を探り解決するというのが日本財団のやり方です。

今後はお互いに協力して、ミャンマーの民主化の更なる発展と民生の向上、そして統一ミャンマー国家の実現に努力して参りましょう。
                                      
平成28年ボートレース新春市長会―挨拶― [2016年03月04日(Fri)]
平成28年ボートレース新春市長会
―挨拶―


ボートレースの主催者は地方自治体です。日本財団の活動資金は、法律に基いて売り上げの2.6%を地方自治体より頂いております。したがって、モーターボート競走を施行する地方自治体の市長さんたちは、日本財団にとって大切な方々なのです。

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2016年1月8日
於:ホテルグランパシフィック LE DAIBA


新年ご多忙のなか、多くの方にお集まりいただいたということは、これだけボートレースに皆様方が熱意を持ってあたっていただいている証左でございまして、心より敬意を表したいと思います。

5年前、年間売上8,400億円という危機的状況の中で、BOAT RACE振興会に小会長が就任しました。8,400億円を割ると、ボートレース存続の危機となる状況でした。当時内々に施行者の中には辞めさせていただきたいというところが何箇所もございました。

そこでボートレース業界は変化したわけでございます。ご存知のとおり、創業者を記念した由緒あるレースから「笹川賞」という名前を捨て、「総理大臣杯」という名前もほとんど使われなくなりました。変化するためには古いものを大胆に脱ぎ捨てるということが大切なことです。批判を恐れずに大胆にやってだめなら切腹しようという意気込みで、施行者協議会、BOAT RACE振興会、選手会、そして競走会が一致団結して活動してくれた結果、1兆円の大台を回復しました。

皆様方の日ごろの行政の仕事とボートレースの仕事は根本的に違います。従来の行政のあり方でボートレースの運営をしようとしてもうまくいきません。今では公営企業法の適用を多くの施行者が取り組んでくださり、政令指定都市である北九州市におかれても、2年後に適用していこうとしています。ボートレース場を行政の付属物という考え方を捨てていただいて、柔軟にかつ大胆に中央のBOAT RACE振興会あるいは競走会、選手会からの意向をスムーズに実行するための組織に変わっていただきたい。そのためにも地方公営企業法の全適用を全てのレース場で早急に実施していただきたいのです。

ボートレースが時代の変化に対応するためには、長く行政にいた人だけでは多様化するファンのニーズに対応できません。従いまして、いち早く地方公営企業法を適用し、行政の職員と違う異分野からそれぞれの専門知識を持った人たちを採用していただきたいと思います。

従来私たちが持っていなかった知見を持った人たちが入ることによってレース場は活性化され、新たな道が開けてきます。ボートレースを行政の付属物ではなく、独立した企業体として認めていただき、そこからあがる収益は独占的に首長さんの力で使っていただければいいのです。

そういう点については、ボートレースはまだ十分に機能していないと思います。ダーウィンの進化論の中で、強いものが生き残るわけではない。頭の良い人が生き残るわけでもない。社会の変化に対応した組織や人が生き残ると書いてあります。この変化の激しい時代の中で生き残るため、ボートレースは変化をしていかなければいけないわけです。

それと同時に、小会長が言われたように、動物有機体的な団結というのが笹川良一の時代はお題目として、みんなで協力しましょうということでしたが、今はお題目ではございません。皆様のボートレース場での場内売上は全体の約15%しかないのです。従いまして、他の競走場、他の施行者のお力を借りてお互いが助け合い、協力していく必要があります。まさしく運命共同体になってしまったわけです。運命共同体は60年 余り経ちますが、ようやくこれが身に染みて実体験として理解できるところに来たわけです。

ご承知のように、社会の変化が激しくなり、電話投票売上が4,000億円になり、まだまだ伸びると思われます。しかし、これに頼るのではなく、自場が存在する以上、少なくとも30km圏内においてはレース場を運営している皆さんに汗をかいていただいて、もう一度新しいお客様を掘り起こしていただく努力をしていただかなければいけません。全部中央が利益を稼いでいくと、24場が汗をかかなくなります。そういうことがあってはいけないので、30km圏内についてはみなさまに努力していただき、売上のパイを広げていただくことが重要です。

次に、レース場のダウンサイジングをお願いしたいと思います。大きい競走場の中にはシャッターを閉めた窓口が残っております。私たちがお客様の立場に立った場合、そういう場所に行った時どういう感情を持つでしょうか。今、企業の間で最大のテーマは、どのようにお客様に良い感情を持ってもらうかということが成長する大きな要因であるということです。いかに大衆の要望を汲み取って彼らの感情をよくするかが大切になります。

一つの例を申しあげます。明治大学という大学があります。昔は汗臭い男の学校でございました。その頃、受験者数が一番多いのは早稲田大学でございました。昨年は近畿大学がトップになりましたが、ここ数年来、ずっと明治大学です。受験生が来るのを見ていると、だいたい母親がついてきて、母親が大学のお手洗いに入り、出てきて「○○ちゃん、明治大学に決めなさい」と言うそうです。トイレを良くしただけでこれほど効果があるのです。しかも普通のトイレではないそうです。非常に小綺麗で、かつてのトイレではない化粧室というイメージに変えて、女性の人気度が1番になったようです。聖心女子大学でもなければ国際基督教大学でもないのです。ちょっとした工夫の成果なのです。ですから、皆様方のレース場の中にシャッターが閉まっているようなところがあれば、シャッターの代わりに素敵な絵を描くなど良くする方法を考え、そして、まずはお手洗いをきちんとしたものにしていただきたいと思います。今の人は我々の時代と違って清潔感に敏感な人たちです。

話しは変わりますが、年末の賞金王レースではたった1日で1,400人の電話投票の入会があったそうです。そのような20代〜40代前半のスマホ会員のお客様がレース場に来てがっかりしたということがあってはいけないわけです。皆様方が直接的にボートレース場の売上、お客様の動向などに関心を持っていただき、レース場に直接電話して聞くくらいの関心を示していただければ、レース場に勤める方々も「これだけ市長が力を入れてくれるのでは頑張らなければいけない」と自然に燃えていくのではないかと思います。

この念願の1兆円を達成された皆様のご熱意に心から敬意を表します。どうかボートレースに関心を示していただき、BOAT RACE振興会を中心に競走会、選手会、施行者協議会が一丸となり、この公営競技の売上の低迷の中、ボートレースだけがなぜ調子がいいのかと言われるようになっていきたいというのが、恐らく、皆様の願いでございます。

収益をあげたものは皆様がそれぞれの行政のなかで市民のために使ってもらえばよろしいわけで、とにかく売り上げというパイを大きくし、ボートレースに関与する全ての人が目的意識をはっきり持ち、中央団体との連絡を密にしてさらなる売上の増進に皆様と共に汗をかいていきたいと思います。
「ミャンマーの現状と将来」−講演− [2016年02月19日(Fri)]
「ミャンマーの現状と将来」
−講演−


B&G財団(ブルーシー・アンド・グリーンランド財団)は、亡父笹川良一が、今から43年余前(1973年)に設立した財団です。

当時、子供の教育は知育偏重で、ともすれば体育、徳育教育は無視されがちでした。亡父はこのことを危惧しており、「教育の弊害は今後100年は祟る(たたる、害をなすこと)」との思いでドイツに視察に行きました。

ドイツ・オリンピック委員会のアーベル・ベック専務理事の「ドイツでは各地方に小型の体育施設を作り、講習を受けた指導者のもと、子供の健全な成長のためにコミュニティーレベルの指導を行っている」との発言に触発され、1400億円の巨費を投じ、日本全国の各地の、ともすれば財政事情の悪い市・町・村に480箇所の海洋センター(体育館、プールを含む)を建設。また、子供たちに海や河川でのスポーツ教育を行ってきました。

施設のある市長、町長をはじめ、教育長の皆さんには、この財団の運営にはことのほか情熱的にご協力いただいています。
年一回の総会には800人を超える市長、副市長、教育長などが参加されました。

以下はそのときの私の講演です。

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「第8回B&G全国サミット」
2016年1月26日
於:笹川記念会館・国際会議場


大勢の皆さまにお集まりをいただき、ありがとうございます。私は、この未来を背負う青少年のためのB&Gの施設を通じて皆さま方とつながりを持たせていただいているということを大変嬉しく思っています。かつて、この施設をどこにつくるかということで、毎日6時間も7時間も議論をしたことを思い出します。

昨年はハンセン病の話をさせていただきましたが、今日は先ほどまで、別の会議場で安倍総理大臣をお迎えして、世界各国から集まっていただいた方たちと共に、世界のハンセン病なくす世界宣言書を採択してまいりました。

昨今、ミャンマーについては、日本でも報道はもとより国民レベルにおいても関心が高まっておりますので、若干の歴史的背景も振り返り、今のミャンマーがどういう状況か、またこれからどういうふうに変化していくのだろうかということにつきまして、多少でも皆さまのお役に立てればと思っております。

少数民族の武装勢力地域には、約70年間、政府側の人は入ったことがございません。というより入れなかったのです。従って、あの地域を少数民族の武装ゲリラにと共に歩いたという人は、私を含め、そうはいないのではないかと思います。

私は紛争の調停のために武装勢力地域、ミャンマーならびにタイの国境地域に3年間で51回、その多くは0泊3日での訪問でした。東京の自宅を夜の10時半に出て0時20分の飛行機に乗りますと、バンコクに朝の6時に着きます。そこで3時間待って飛行機を乗り換えてタイの奥地に入り武装勢力と会談。夕方の飛行機に乗ってバンコク経由で朝6時すぎに羽田に着き、そのまま事務所に行くというようなことを3週続けたこともございます。好きでやっていることですから自慢するようなことではございませんが、相当ハードなことには違いありません。

ミャンマー国軍との戦闘が続く少数民族の武装勢力は主に15の勢力がおり、それぞれ歴史的背景、文化的背景、あるいは言語も違います。通常国際的な紛争というと政府側と反政府側のように二つのグループの対立です。最近中東などではISグループ等やアルカイダというようなものも出てきて、複雑で非対称の戦闘になってきており、通常は敵がちゃんと見えるのですが、見えない戦争になってきています。

ミャンマーは非対称ではありますが、一応相手側の兵隊は見えるわけです。住んでいるところはタイのミャンマー国境近く、ラオスや中国、インドとも国境を接したところです。少数民族は山に囲まれた所に、平地にはビルマ族が住んでいます。少数民族の多くがどこから来たのかと申しますと、ほとんどは中国四川省、あるいは雲南省から流れ込んできた人たちが住み着いて長く生活をしてきたのです。

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実は、70年前に日本が戦争をした時、このミャンマーにも入りました。ここで日本は頑張ってミャンマーを解放したといわれております。その後、日本が撤退すると同時にイギリス軍入ってきてこの山岳地帯の少数民族を活用し、イギリスの植民地政策として分離政策をやったのです。そして少数民族の人たちに、戦争でビルマに勝てばお前たちを独立させてやるというような約束をしながら、イギリスは撤退してしまったわけです。その時ビルマで活躍していたのが、日本の南機関といわれた鈴木大佐たちです。亡くなってから少将になりましたが、彼がこのミャンマーを独立させようということで、30人のミャンマーの有志を選んで教育を施したんですね。そのリーダーがアウンサン将軍。今のスーチーさんのお父さんです。

アウンサン将軍は大変若いときからリーダーシップがあった人で、当時、日本で弱冠28歳で天皇から勲章を受けたという立派な指導者でした。話をはしょりますと、日本軍がイギリスに負けまして、先ほどの南機関の鈴木大佐を戦争犯罪人として首都のヤンゴンに連行するわけですが、そのときにアウンサン将軍が「これは間違っている。彼は無罪である」ということを主張してくださり、鈴木大佐は無事日本に帰国をしたという経過がございます。アウンサン将軍も日本の精神を持って、義理と人情をしっかりわきまえていたという立派な人です。外務大臣も務めたのですが、弱冠32歳で暗殺されました。史実は色々ございますが、私はイギリスの帝国主義の陰謀で、6人の閣僚と共に暗殺された。そしてこれはイギリスが仕掛けたことではないかと思っています。

この地域の人たちは、イギリスが支援してビルマ族と戦えば独立できると思っていた。ところがイギリスは撤退してしまった。第2次世界大戦までは、ここミャンマー全域はインドの属州としてイギリスの植民地だったのです。

ミャンマー国軍では、日本の銃剣道などが今なお行われています。ミャンマー国軍の軍歌うちの53曲は、実は、日本の歌をミャンマー語に直して歌っているというぐらいの親日国ですし、日本語教育も大変活発です。従ってアウンサンスーチー女史は「パパがつくった軍隊だ」と、一時期はこういう呼び方をしていたときもあるわけです。ただ、アウンサンスーチー女史は8歳のときに既に母親がインド大使でしたから、インドで学び、その後日本に参りまして京都大学で1年間勉強し、その後、イギリスのオックスフォードに行って哲学を勉強したという、大変高い学問を修めた女性で、先般の選挙で大勝をしたわけです。その彼女にとっては、これからどのような制度でミャンマーを導いていくかということが最大の問題です。

実は、私は1999年からにミャンマーの軍事政権のボスでありましたタン・シュエという元首に何度もお会いしています。当時、アメリカ大使館はミャンマーに行くことすら反対して「笹川さん、行かないでくれ。日本も含め、西側は非民主的な軍事政権に対する制裁を課しているのだから」と強く言われましたが、私自身は民間人ですから、誰が何と言おうとも、自分がやらなければならない仕事はやるということでミャンマーに人道支援をしてきましたが、冒頭お話ししたように、ハンセン病の制圧ということが第一目標だったからでした。

私は中国に対しては毛沢東時代から付き合いがありますし、ゴルバチョフの時代のロシアとも付き合いがあります。それは私の父の教えで、政治体制が違おうとも、そこの国民が困っているなら助けるべきだ。政府に支援するようなことはいけないが、困っている国民がいたら助けるのが当たり前じゃないか。こういうことで、私は特にこの少数民族、武装勢力の地域を中心に、当時からハンセン病は相当猖獗を極めていましたので、支援し、WHOの基準の『制圧』に成功しました。

本日は教育長の皆さんの出席も多いので、ミャンマーの学校についてご説明します。私は今まで、この少数民族の地域に370の小学校をつくってきました。通常国際社会、あるいは政府が学校をつくるということになると、地図を広げてこの地域が足らないからここに一つつくろうといくことで、お金を掛けてパッとつくると「学校できたよ。子どもたちよかったね」で、はい、さようならというようなことになるわけです。しかし、日本財団のつくる小学校はそのようなつくり方はいたしません。村人を集め、ここに本当に学校が必要かどうか、その熱意のほどを量ります。そして、勉強したい子供が何百人もいる。ぜひ小学校つくってほしいということになりましたら責任者を決めていただき、私たちは協力するのであって、あなた方の小学校なのですからあなた方村人は何ができますかと問います。するとまずこの学校建設のための責任者を決め、材木を切り出してくる係、あるいは小学校の土台をつくる係と、色々な人がお手伝いをしてくれるようになります。そのため、彼らは自分たちが汗水垂らしてつくった学校ですから「私たちの学校」だと。与えられた学校じゃないんですね。

多分、西側の国々が支援をすると、すぐに民主主義はこうあるべきだ、民主主義には基本的人権がある、自由が必要、平等が必要なんだと。このような『民主主義』を字も書けない人がたくさんいる中で上から目線で説いても理解できませんよね。私たちのやり方は、彼らに「民主主義とは何ぞや」ということを一度も語ったことはありません。しかし、小学校をつくる過程で、今申し上げたように、何回も会議を開き、責任者を決め、分担を決め、学校をつくる。その話し合いというのは民主主義そのものじゃないでしょうか。難しい言葉で観念的に説明するのではなく、実際の行動の中で知っていただくということが大変重要なことなのです。

残念ながらミャンマーの小学校には運動場がありません。ですから運動をしないんですね。それと、女性がある年齢になると学校に来なくなってしまう。それは、学校にトイレをつくるという習慣がなかったからです。我々はトイレをつくり、鍵も掛かるようにし、図書室もつくりました。そして、学校建設のために村人が提供してくれた労働時間を人件費に換算すると約70万円ほどになりますので、その70万円を村人に提供し、資金をどのように使うかも村人に決めていただきます。

例えば、大きな湖の中に浮いている浮島の小学校があるのですが、船を1艘購入し、観光船をつくって運行。その収益で学校の改装、図書室の充実などにあてたり、学校の先生の給料・・・先生の給料は大体1000円ぐらいですから、食べ物は村人から頂けますが、1000円では生活できないのですね。そこで70万円の資金を運用して先生に補助金を提供しているところもあります。エアワディ地区というところでは水面下で生活しているようなところですので、ちょっと台風がきたり大雨が降るとほとんど水没してしまうため船じゃないと移動できないような所なのですが、村人は学校ができたんだから橋を架けようっていうようなことで、村人総出で橋をつくったりと、本当に村人は学校建設に協力的です。

この間、私は大統領にぜひ表彰してほしいとお願いしたことがございます。このような過程でできた370の学校の先生方が、自分たちの子どもたちのために、安月給の中から1人1カ月50円ずつ集めて、子どもたちが上級学校に行くための奨学資金をつくったんです。私は世界中の学校を見てきておりますが、先生が自分の安い給料をためて、自分たちが選抜して、将来のミャンマーを背負う可能性がある子どもたちに奨学金を出すというのは世界でも稀なすばらしい制度です。これをテイン・セイン大統領に報告し、先生方に誇りを持って子どもたちを育てていただくためにもぜひ表彰してほしいとお願いしました。

ミャンマーは小乗仏教の国で、日本とちょっと違うのですね。小乗仏教というのはお坊さんの国で、約50万人お坊さんがいるのですが、この間の選挙に私は日本政府の選挙監視団団長として行ったのですが、お坊さんの投票風景がないので聞いてみましたところ、お坊さんはもう既に世俗を離れているから選挙権がないんですって。初めて知りました。

インド北東部の都市インパールで行われた有名なインパールの死の作戦のことはご存知の方も多いと思います。牟田口廉也中将が指揮して、この山岳地帯を上ってインパールに行くんですね。しかし、ここに行くための山脈の中で、何万という兵士が食糧不足と病気で死んだんです。死の街道だったんですね。食べ物がないので敵軍の英国兵から食糧を奪ってきて生きろというんですから、こんなむちゃくちゃな話ありませんね。

今ここに多くの遺骨が出てきております。私は日本政府代表をしておりますので、大統領に「できたら長い間この地でお世話になってきた日本の英霊を返還してほしい」とお願いしました。しかし「笹川さんの話なら何でも言うことを聞きますが、それだけは出来ないのです」とおっしゃるんですね。小乗仏教では死んだ人の遺骨というのは不浄なものなのだそうです。それをミャンマーの大統領が触ったなんていうだけでも大変な問題だと。

仕方がないので国軍司令官の所にお願いに行きました。国軍司令官に「あなたも軍人で、日本のことをよく知っている。先日日本に来ていただいたときは鈴木大佐の墓参りまでして下さいました。あなたから遺骨を返してほしい」と頼みましたが、「特殊な例だから大統領と相談しなければいけない」と、間接的にお断りされました。多分、向こうの担当は文化省ですから、文化省から私が返還を受けることになると思うのですが・・・。

日本では、今でも東日本大震災で死亡した遺体の捜査が続いていますが、ミャンマーでは焼いてしまったらあと灰にして全部捨ててしまうんですね。遺骨は不浄なものとされ、お墓もありません。同じ仏教でも小乗仏教と大乗仏教ではこれほどの差があるわけです。

4〜5年前の国際社会は、国連に行きましても、WHOに行きましても、国連人権理事会に行きましても、人権問題に対するミャンマーと北朝鮮への決議案の話ばかりでしたが、テイン・セイン大統領は、軍の出身ではありますが大変身ぎれいな清潔な方で、この4年10カ月ほどの間にほぼ民主化の基盤をつくられた。その代表的な一つは、報道関係の完全自由化を成し遂げたことです。報道関係が完全に自由化されていている国は、アジアでは二つしかありません。何処とどこでしょうか? 日本とミャンマーだけです。それ以外の国は報道規制、あるいは自主規制を行っていると噂されています。他に1000人近い政治犯といわれた人たちを釈放いたしました。

これに日本政府も対応して3000億円という日本のODA、いわゆる海外援助の返済されてないお金をゼロにいたしました。そして、パリでの債権国会議で、日本がリードして諸外国も債権を放棄していただき、世界銀行からも新しい融資が受けられる道筋をつけたのです。

ヤンゴンに近い所にティワラという所があります。ここは約2400ヘクタールという東京の山手線の内側の約半分ほどの広大な土地です。そこに中国、韓国、日本と、3カ国で工業団地を開いてほしいとの要望でしたが、日本ミャンマー協会の渡邉秀央会長(元代議士)や麻生外務大臣が大いに頑張りまして、日本が単独で行うことになりました。ぺんぺん草が生えておりましたが、たった3年間で第1次の工事は終わり、約3万人の直接雇用、そして孫請け会社まで入れますと約30万人の雇用を確保できそうだとのことです。

日本が戦後一番最初めにしたODAという海外支援が、鹿島建設が手がけたミャンマーのバルーチャンという発電所でした。あんな所によくダムをつくったなというような山奥です。私は武装勢力のゲリラに守られてそこまで行ったのですが、現地の人からは「よくぞ日本人が戻ってきてくれました。私たちは50年間、皆さんが来てくれるのを待ちに待って、一生懸命ない部品を作り、困難な中でも何とか発電を続けてきました」と、大いに歓迎してくれました。ピカピカに磨かれた発電所からは、今でもヤンゴンの電気の70パーセントがこの発電所から運ばれていているとのことでした。

話はそれますが、北朝鮮でも水豊、「水が豊か」と書くダムはいまだに動いて、北朝鮮の電気はここから運ばれているのです。これも全部日本がつくったものです。

ということで、ミャンマーの民主化は急速な勢いで進化しています。ASEAN10カ国会議の議長国もきちっと務め、西側社会からミャンマーが民主化に確実に進んだという評価を受けたのは、実はテイン・セイン大統領の手腕であったと、私は思っております。

メディアの方というのは疑い深い方々も多く、昨年、選挙が行われる前には、多分、不正選挙が行われるだろう。軍部がインチキをするのではないか。そのような疑いがあり私も日本の選挙監視団長として入ったわけですが、大変見事な選挙でした。詳しくは説明しませんが、私は開票の状況をずっと立ち会って見ていましたが、200票の投票を開くのに1時間ほどかかりました。投票箱の前にわれわれ監視団が並び、立候補した政党の責任者、その地区の責任者も立ち会っての開票でした。中には棄権票のような正しく投票してない票があると各政党の代表者を呼んで、これはこういうことで棄権票になります。皆さんいいですか? OKです、というように、1票ずつ丁寧に手続きを踏む非常に透明性の高い開票作業でした。国際メディアの中には、アウンサンスーチー女史の党が大勝したので軍に不穏な動きが出るのではと疑問視したところもありました。

スーチー女史は、憲法上、大統領にはなれません。なぜならば、憲法の中に、外国人の国籍を持つ者がいたら大統領にはないという規定があります。彼女は英国に2人の息子がいます。しかし、英国にいる2人の息子を、お母さんがミャンマーのために命を懸けるんだからあなた方2人はミャンマーの国籍になりなさい。住むのはイギリスのままで結構ですと言えば大統領になれるんです。ですから大統領になれないっていうのは間違った報道なんですね。なれるけども彼女はその方法は取らなかった。あるいはもっと他にウルトラCがあるかも知れませんが、今のところ分からないという状況です。

私は何回かお会いしていますが、スーチー女史は頑固一徹の人ですね。自分の言ったことは絶対に曲げない。そういう強烈な個性の持ち主ですが、選挙に大勝した後、非常に迅速な動きをして、まず国軍司令官と大統領に会った。そして、何よりも自分を十数年の長きにわたって刑務所に入れ、あるいは自宅軟禁したタン・シュエ元国家元首と会談をしました。その詳しい内容は分かっていませんが、一言だけ「私は過去のことは問いません」ということをおっしゃいました。

今のミャンマーの国軍はこのタン・シュエが育ててきた軍です。本来ならば、選挙に勝ったのですからタン・シュエを人権侵害その他で裁判所に引っ張りだすことも可能であるにもかかわらず「私は過去を問わない」との言葉は、千金の重みのある言葉だと思います。また「選挙に大勝したときには、敗者に対する心遣いをしなければいけない」とも言っています。彼女は通常、スピーチをするときに原稿を持ちません。オックスフォード大学で哲学を勉強しておりますので、非常に論理的で素晴らしい演説をする人です。敗者に対する心遣い、あるいは自分を罪に陥れた相手の最高責任者に対して過去を問いませんというセリフがどういう重みを持ってくるのか、これから皆さん方が、もうじき大統領の指名のための選挙が国会で始まりますので、興味を持って見ていただけるのではないかと思います。

そういう中で、日本財団はこのモーターボートのお金を使い、少数民族の武装勢力の所に物資を届けているわけです。米や油、砂糖、豆などです。私が6歳頃のとき、第2次世界大戦で日本は負けました。昭和20年の3月9日、10日の東京大空襲では東京だけで10万8000人が死にました。その後私は1カ月間、米を見たことがない生活をしました。電車の線路の下に生えているハコベというニワトリに食べさせる草を食べたこともありますし、米かすのぬかを焼いたパンを食べて生き延びたということもあります。そういう中で、ミャンマーは米が二毛作、三毛作できる所ですから、ミャンマーからの米が日本に入ってきて大変おいしくいただいた記憶が、私の幼児体験の中にもございます。

そういうことで、ミャンマー政府も入れない、海外からの援助も入れない。今も戦っている少数民族の地域に食糧を含め、人道支援活動を活発に行っているのは日本財団だけです。これは、ミャンマー政府の了解を得て、武装勢力とも話し合って運び込んでいるわけです。テイン・セイン大統領も、アウンサンスーチー女史も、全ての武装勢力と一遍に和解し、少数民族の地域は連邦制にして統一ミャンマーをつくりたいという悲願があったわけですが、半分の8つのグループとの停戦和解には成功しましたが、中国と国境を接するグループなど、あと7つのグループが残っています。

スーチー女史はこの政権を取った後、最も重要な政策は、もちろん経済が活性化して国民生活が豊かになることですが、自分の父親が目指した統一されたミャンマーのために少数民族武装勢力との和解を最も重視しなければいけないという姿勢に変化しています。

先ほど述べたように、昨年10月には8グループの少数民族武装勢力との停戦が実現しました。その停戦協議の署名式は、アメリカもイギリスもスイスもノルウェーも、どこも署名をさせてもらえませんでした。タイと中国とインドの3カ国は国境を接していますから当然ですが、それ以外で証人署名したのは日本国だけで、私は心を込めて署名しました。

また、スーチー政権は政権移行期でもあり、現在のところ海外への視察は一切禁止しておりまして、アメリカもイギリスも、いろいろな国が経済使節団を迎え入れ、アウンサンスーチー政権とのコネクションをつくりたいと模索する中、唯一今、日本財団の招待で経済使節団が日本に入ってきていて、各地を回って勉強しています。

このように、ミャンマーと日本との関係というのは大変緊密なものがあるわけです。日本の外交がこのような形で、一国の再建のために、民主化のために、世界的なレベルでの存在感を勝ち得たということはかつてないことです。これは安倍総理のいう『積極的平和外交』いう理念が、一つここに形になりつつあるということです。

このように、紛争国や貧困国の問題の解決には、政府や外務省が全て行うものではなく、私たちのような民間人が活動する場がたくさんあります。そういう力を総合的に政府が判断し、意思決定をして手分けしてやっていくということが、日本がこれから世界のために、いい意味での存在感のある『積極的平和外交』が展開できる一つのモデルケースが、このミャンマーで完成できるのではないかと思っております。

私自身もう77歳にもなりましたから、残された人生を世界のハンセン病をなくす、差別をなくす仕事と同時に、ミャンマーの全面停戦和解、そして政治協議、統一ミャンマー連邦をつくるために、汗を流したいと思っております。

ちょうど時間になりました。今日は硬い話であまり面白くはなかったと思うのですが、新聞の紙面は表面的な記事ばかりでございますので、ミャンマーについて、あえて難しい硬いテーマでお話させていただきました。

長時間お聞きいただきまして、ありがとうございました。
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