CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
BLOG 笹川陽平プロフィール 笹川陽平バイオグラフィー

日本財団会長 笹川陽平ブログ

写真:ハンセン病の現場から「アフリカ・ピグミー族」

« 掲載紙・誌 | Main | たばこ1箱千円»
leprosy.jp
resize.png日本財団はハンセン病の差別撤廃を訴える応援メッセージサイト「THINK NOW ハンセン病」を開設。皆様からのメッセージを随時募集・配信しています。
Google
<< 2016年09月 >>
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
プロフィール

笹川 陽平さんの画像
笹川 陽平
プロフィール
ブログ
カテゴリアーカイブ
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
リンク集
http://blog.canpan.info/sasakawa/index1_0.rdf
http://blog.canpan.info/sasakawa/index2_0.xml
「視覚障害者世界大会」 [2016年09月28日(Wed)]
「視覚障害者世界大会」


世界盲人連合と国際視覚障害者教育協議会との初めての合同総会が8月22日、フロリダ州のオーランドで開催され、世界盲人連合の会長である英国貴族院のコリン・マーケンジー・ロウ卿からのお誘いを受け、スピーチの機会を得た。

ロウ卿は、1942年にスコットランドのエディンバラで生まれ、3歳で全盲となられた。世界盲人連合の会長として盲人を含む障害者の権利について積極的に活動され、特に盲人の教育分野では、テクノロジーを利用して晴眼の生徒と同じ学校で学べる野心的な活動をモーリシャスとバングラディシュでパイロット事業として開始するために努力をされておられる。

今回、過去30年におよぶ日本財団の視覚障害者に対する教育支援の実績から、インクルーシブな社会の実現に向けて話をするようにとの要請があった。

フロリダではこの会議の2ヶ月前に米国史上最悪の銃撃事件が発生し49人が死亡、53人が負傷した事件があり、世界から参集する参加者に影響はないか心配していたが、128ヵ国841名の参加者は、白杖一本を頼りに開催場所のローゼンセンターホテルに集合。無用の危惧であったことに、内心胸をなでおろした。

C128カ国から約841人もの関係者が集った.JPG
128カ国から約841人もの関係者が集った


数十匹の盲導犬も主人を助けるために忠実に活動していた。盲導犬は他の盲導犬がいても興味を示さず、鳴き声を出すこともなく主人の傍に長時間、身動き一つせず座っているのには、大いに感心させられるだけでなく、深い感動すら覚えたものである。

G会場のあちこちで盲導犬を見かける.JPG
会場のあちこちに静かに主人を待つ盲導犬が


日本の盲導犬の育成には、日本財団でも1974年から取り組んできた。効率的な運営で1頭でも多く提供したいと願い9法人の大同団結を試みたが、力不足で失敗に終わった。その間の盲導犬育成団体への支援金総額は2億7432万9000円であった。平成11年には有識者による「盲導犬に関する調査」の報告書を発行しているので、ご興味のある方は日本財団に請求してください。その後、アイメイト協会を除く8グループが全国盲導犬施設連合会を結成し、一人でも多くの盲人に盲導犬を提供するために活動されている。しかし今もまだ需要を100%満足させるまでには至っていない。

話が逸れたが、ホテルの中は日本より少し長い白杖を頼りに大胆に大股で歩く人、弱視の方を先頭に4〜5人が前の人の肩に手を置いてグループで歩く人たちが行き交っていたが、お互いがぶつからないのが不思議であった。食堂はビュッフェスタイルだったが、ホテルの従業員のサービスは秀れており、白杖の方が入って来ると手を取ってテーブルに案内し、メニューを説明して盲人の注文通りの料理を皿にとってテーブルに並べるのである。驚いたことに、盲人はまるで晴眼者のようにきれいに食べる。筆者よりも美しく食事をする姿に、思わず姿勢を正してしまった。

11.JPG
ホテル内を長い白杖を頼りに大股で歩く人々


世界各地から複雑な経路を辿って集まってきた盲人たちの姿を見ると、各国の指導者として、幾多の困難を乗り越え時代を担う若者の盲人のためにより良い環境を作りたいとの情熱には、正直なところ、頭(こうべ)をたれるより方法がなかった。

旧知の全盲の堀内よしみさんは、タイ・チェンマイから100kmも離れた所から来たそうで、「舗装道路もなく、雨季にはドロ道で足を取られて大変よ!!」と、元気一杯である。彼女はそこで移動図書館を含む二つの図書館や子供たちに読み書きや計算を教える教育センターを運営している。タイ語、英語はネイティブといわれるほど素晴らしく、いつも笑顔で快活である。彼女の強靭な精神力はどのように身につけたのだろうか。筆者は彼女に逢うたびに己の努力の足りなさに反省させられる。「そろそろ日本に帰って活躍されては」と水を向けると「四国の母はもう諦めていますから心配要りません」と、ケラケラと快活に大きく口を開いて笑った。障害者支援を目的の一つにしている日本財団ではあるが、いつも障害者の方々に教えられ、励まされることが多い。

Cと.JPG
タイで移動図書館を運営する堀内氏


以下は筆者のスピーチです。

*****************


2016年8月22日
米国フロリダ州オークランド


@.JPG
開会式にてスピーチ


皆さま、おはようございます。この度は世界盲人連合(World Blind Union: WBU)および国際視覚障害者教育協議会(International Council for Education of People with Visual Impairment :ICEVI)の合同会議にお招きいただき光栄です。ロウ卿、 ホルト会長をはじめ主催者の皆さま、本日お集まりの皆さまの前でお話しする機会をいただいたことを心より嬉しく思います。

これから数日に亘り、WBUとICEVIはそれぞれの経験を共有し合い、重要な課題について議論されると伺っています。この機会に、日本財団の活動をご紹介させていただけることを感謝いたします。

私が会長を務める日本財団は、日本の民間非営利組織です。私たちは設立以来50年以上に亘り、日本国内だけでなく世界中で活動を行っております。

私たちのビジョンは、多様性を尊重し、誰もが積極的な役割を果たすことができるインクルーシブな社会を実現することです。そのために様々なプロジェクトを行っています。その中で私は、特に開発途上国で、多くの子どもや若者たちが様々な理由で、適切な教育を受けられないでいる状況を目の当たりにしてきました。障害があることを理由に、適切な教育を受けられないでいる人たちもいます。私たちの目標は、そのような若者たちに教育へのアクセスを提供することです。

日本財団が最初に視覚障害者に対する教育支援を始めたのは、1980年代、米国にあるオーバーブルック盲学校に基金を設置したことがきっかけでした。この基金を通じて、視覚障害者の高等教育推進の重要性を力強く説いていらっしゃるラリー・キャンベル博士とお仕事をさせていただくようになりました。

当時、視覚障害者の教育支援は、特に東南アジアの開発途上国において、高等教育よりも初等・中等教育支援に集中していました。

私たちは、ラリーとの議論の中で、この初等・中等教育に加え、高等教育への支援も必要とされる時期に来たと合意しました。こうして、1990年代後半から、ICEVIとの高等教育支援プロジェクトが始まったのです。

日本財団とICEVIの共同プロジェクトは、ASEAN地域の6カ国で、視覚障害のある若者に高等教育を受ける機会を提供するものです。これまで1,500人を超える学生たちに高等教育機関で学ぶ機会を提供してきました。

そこで、このプロジェクトがどのように実施されているかご紹介させてください。まず、私たちは大学に対して、視覚障害のある学生を受け入れることへの理解を促します。また、彼らに視覚障害のある学生のニーズを受け入れる体制を整えていただくように働きかけます。具体的には、彼らが入学試験を受験する際の配慮、入学後に勉学に集中できるようにするための適切な支援を提案します。

ここで重要なことは、教職員側の理解を得ることです。また、学生側も、授業を理解するのに必要なスキルを身に付ける必要があります。この点を考慮し、このプロジェクトでは、サポートセンターを設置し、教職員と学生双方に対して必要なワークショップやトレーニングを実施しています。教職員と学生はサポートセンターに気軽に立ち寄り、アドバイスを受けることができます。

近年、私たちは、学生が卒業後、彼らのキャリア形成を助けるための就職支援にも力を入れています。ご存知の通り、ICEVIはこの分野に尽力しています。私たちは、多くの学生が仕事を見つけたとの報告を受け、大変嬉しく思っております。

いくつかの国において、私たちは教育省と連携し、視覚障害学生が高等教育を受けるための政策づくりにも関わっています。こうした活動が実を結び、視覚障害学生の高等教育への進学率と就職率が大きく改善しました。

このような変化がもたらされたのは、彼らを勇気づけた先生や家族のサポートに加え、彼らが高い向上心を持ち、自らの能力を信じていたからだと思います。

私たちは、彼らの人生に変化をもたらしたいという思いでこのプロジェクトをはじめました。そして、私たちが目指していた方向に近づいてきていることは、大変喜ばしいことです。

本日の午後のワークショップでは、このプロジェクトに参加したカンボジア、ベトナム、ミャンマー、ラオス、日本の5カ国の人たちが、それぞれの経験を語ってくれることになっています。彼らは、後に続く若者たちが自信を持って、自分の潜在的な能力を発揮し、目標を達成できるよう働きかけることができるロール・モデルであるといえます。

ここまでICEVIと日本財団が実施してきたプロジェクトについてお話してきました。ここでもう1つ、日本財団が取り組んでいる障害者の方々の生命に関わる重要なテーマについてお話させてください。

皆さまは、5年前に日本を襲った東日本大震災と津波の災害のことを覚えていらっしゃるかもしれません。この時、多くの尊い命が失われましたが、残念なことに、障害者の死亡率は犠牲者全体の死亡率の約2倍にも上っていたことがその後の調査で判明しました。障害者に多くの犠牲者が出てしまった要因の1つとして、これまで防災計画の策定や実施に障害当事者が参加していなかったことが挙げられます。

2015年、被災地である仙台で第3回国連防災会議が開催されました。私は、この会議には、障害者が参加することの必要性を痛感しました。なぜなら、防災計画を考える上で、障害者の防災計画を当事者の視点を含めて考えることは非常に重要なことだからです。

それまで、国連が開催する防災会議では、障害者は重要なステークホルダーとして参加できませんでした。この震災後、私は、彼らがこの会議で発言力を持って議論に参加できるよう国連に提案をしました。日本財団は、視覚・聴覚障害者や車椅子利用者たちが会議に参加しやすくなるようなアクセシビリティを確保するための支援を行いました。

こうして、多くの障害者の方々がこの会議に参加し、重要な役割を果たすという画期的な結果につながりました。

私は、政策策定の場において彼らが声をあげ、彼らの個別のニーズを伝えることが重要だと考えています。このことは、よりインクルーシブな社会の実現のための一歩となるでしょう。

本日は、本会議のセッションやワークショップでの活発な議論を通して、皆さまの活動について、より多くの学びを得ることを楽しみにしています。

この素晴らしい機会をくださったロウ卿、ホルトさんにあらためて感謝申し上げます。そして、長年の友人であるラリーさんはじめ、私たちのプロジェクトに参加してくださった全ての皆さまに御礼を申し上げます。

ありがとうございました。
「アフリカ開発会議」その2―笹川アフリカ協会― [2016年09月14日(Wed)]
「アフリカ開発会議」その2
―笹川アフリカ協会―


ケニアでの日本政府主催の第6回アフリカ開発会議開催中に、同じ会場で「笹川アフリカ協会設立30周年記念シンポジウム」を開催した。

超ご多忙の中、安倍総理の祝辞スピーチ、アフリカ開発銀行のアデシナ総裁の30分にわたる基調講演、今年92歳になられるジミー・カーター元アメリカ大統領からも書簡をいただき、関係者一同、次の30年に向かって決意を新たにしたところである。

概略を説明したい。
1984年、エチオピアを中心に大規模な飢饉が発生した。日本財団はロンドンで食料を調達して緊急支援を行った。しかしこれは臨時的な処置で、「魚を与えるより、釣り方を教えよ」との考えから、ジミー・カーター元アメリカ大統領、インド・パキスタンでの食料増産でノーベル平和賞を受賞されたノーマン・ボーローグ博士、そして笹川良一と私は、ジュネーブでアフリカの農業支援について斯界の専門家に集まっていただき議論した。
 
侃侃諤諤(かんかんがくがく―遠慮することなく議論すること)の議論は結論が出ず、痺れを切らした笹川良一は、「百の議論も必要だが、困っている農民ために一日も早く実行することが大切ではないか」と発言。衆議一決、早速行動することになった。

カーター元大統領が調達した航空機で、スーダン、タンザニア、ザンビア、ガーナの4ヵ国を、確か数日間で訪問した。アメリカがリビアのカダフィー国家元首を暗殺するために首都トリポリをピンポイント攻撃した直後だったので、ロンドンからの我々の航空機は危険回避のために航空機番号を変更し、6人の機関銃を装備した大統領の警護官と共に地中海を横断した。この緊張した旅は、今は懐かしい思い出である。

ガーナでは、我々の到着の1週間前にアメリカCIAが7〜8人逮捕されて反米感情が高まる中でのジェリー・ローリングス大統領との会談となった。海岸べりの小さな城の三階の会見場で、迷彩服に長靴、サングラス姿で我々を威嚇するように足を組んで座る大統領の前のテーブルには、一冊の武器についての専門雑誌があるだけで、一輪の花も一枚の絵画もなく、誠に殺風景な国家元首との会談場所であった。

ローリングス大統領は、待っていましたとばかりに事前に準備をしていたテレビカメラを前に反米演説を始めた。しばらくの間、通訳を通じて話を聞いていた父・笹川良一は突然立ち上がり、「私たちは君を助けに来たのではない。貧しい農民たちが生活に困難を極めているから助けに来たのだ!! 勘違いするな!!」と大声で叫んだ。

驚いたローリングス大統領は足組をやめ、サングラスをはずしてしげしげと父を見た後、「折角だから昼食を共にしたい」と予定外の発言となり、テレビカメラの前のアジ演説はどこえやら、穏やかな昼食会となった。

ローリングス主催 昼食会.png
急遽設定された昼食会はなごやかな雰囲気で・・・
右端、サングラスをかけたローリングス大統領


後日、ローリングス氏は私と面談した際、「あの時は父親に叱られたような気持ちだった」と述懐していた。彼はガーナの地方豪族の女性と英国人との混血の子で、大統領になったので英国にいる父親に面談に行ったところ、拒否された悲しい過去を持っていたのだった。今も機会あるごとに旧交を温めている。

もう一つのエピソードは、笹川アフリカ協会の常務理事・宮本正顕とジェトロ・アジア経済研究所の平野克己理事の二人は、笹川アフリカ協会創業当時、ローリングス夫人の信頼を得ていたことから、何と!大統領夫妻の寝室に入り電気器具の修理をしたのである。世界広しといえども、大統領夫妻の寝室に外国人が入った例はあるまい。万一、ローリングスが突然帰宅したら、二人は間違いなく理由の如何を問わず射殺されていただろうと話題にすると、二人とも首をすくめて「その話は内密に」と言うのが常であった。

ある年、農民の収穫祭にローリングス大統領、カーター元大統領、ノーマン・ボーローグ博士、それに父と私が参加したことがある。ローリングス大統領はカーター元大統領を前に、「アメリカは愚かな大統領を失った。しかし、世界は素晴らしいアメリカの元大統領を得た」と演説したものである。温厚なカーター元大統領は、ただだまって苦笑いされていた。

以下は、笹川アフリカ協会設立30周年の安倍総理のスピーチと私のスピーチ要旨です。

*********************


2016年8月27日
於:ケニア・ナイロビ


笹川陽平会長、本日はお招きいただきまして、心より光栄に存じます。
アフリカ諸国の多くが農業振興に力を注ぐ今日、振り返って、SAA(笹川アフリカ協会)が示した先駆性、努力には、誠に偉大なものがあったと思います。

アフリカではかつて、単一作物を輸出用につくることが、すなわち農業だという理解が、ごく普通だったという風に承知をしております。それに対しSAAは、農業を強くしてこそ民生は安定すると、早くから説いてこられました。 ロープを畑に張り渡し、真っ直ぐな線をつくって種をまく、そんなやり方を広める実践から始められたそうですね。

今までに18か国で活動され、本年30周年を迎えられました。心よりお祝いを申し上げますとともに、ルース・オニヤンゴ教授には、SAAを率いてこられた御尽力に、日本国民を代表して、深く敬意を表します。

創設者の笹川良一先代会長は、きっとアフリカのどこかで、草葉の陰で、目を細めておられることでしょう。存命なら102歳になっていたはずの「緑の革命」の父、ノーマン・ボーローグ博士も、先代会長と肩を叩きあって、本日の集まりを見ておいでかもしれないと思います。

1980年代に、アフリカを襲った飢饉の悲惨さは、私の瞼に焼きついています。 当時87歳だった先代会長、72歳だったボーローグ博士が、惨状を見て、矢も楯もたまらず動き出しました。2人の先達にあった、世の人の不幸を、我が事と思う感性の瑞々しさに、私は、胸打たれるものを覚えます。しかも笹川現会長や、オニヤンゴ教授が、仕事を引き継ぎ、充実に次ぐ充実を行い、活動にあたられてこられました。

農民一人ひとりを強くし、賢くして、自立させること。種を植えてから市場に適正な価格で売るまで、一つながりの「バリュー・チェーン」を育てなければならないこと。政府を巻き込み、専門家の教育を進めることが、同時に必要だということ。一貫してそれらの大切さを説き、実行されたのが、SAAの活動でありました。あたかもそれは、TICAD本年のモチーフ「クオリティ・アンド・エンパワーメント」を20年以上先取りし、実地に移されていたのだと思います。畏敬の念を深くいたします。

「あらゆる新技術は、すべて農民の手に」と言って、ボーローグ博士は息を引き取られたと伺っております。その言葉に忠実に、今もエチオピア、マリ、ナイジェリア、そしてウガンダで続けておられるSAAの御努力。「未来に食を」の営みがさらなる実を結び、花を開かせることを信じて疑いません。

皆様の今までの活動に改めて敬意を表し、そして皆様の活動によって多くの人々がより豊かに、そして希望を見ることができることを祈念いたしまして、私の御挨拶とさせていただきたいと思います。
ありがとうございました。

**********************

「笹川陽平スピーチ要旨」
―農業を通じた社会保障・雇用への貢献
アフリカにおける笹川アフリカ協会の30年―


私たちがSasakawa Global 2000プログラムを始めたのは、1984年にエチオピアを中心としたアフリカ各国を襲った大飢饉に対して、緊急食糧援助をおこなったことがきっかけでした。空腹で目を開けていることがやっとというような子供たちを目の当たりにし、私は少しでも早く、できる限り多くの食糧を届けたいと思いました。

しかし食糧援助は一時的には人々の空腹を満たすことができますが、あくまで緊急的な支援です。アフリカが抱える食糧問題を改善するには、零細農家による食糧増産を手助けすることが必要だと強く思いました。私はこの考えに賛同してくれたボーローグ博士とカーター元大統領の協力を得て1986年に笹川アフリカ協会を設立しました。SG2000プロジェクトとして知られている笹川グローバル2000は、今までアフリカの14ヶ国において実施され、今年で30年の節目を迎えます。

アフリカの零細農家の生活の質を向上させるために、私たちが特に力を入れてきたのは農家を指導する人材の育成です。まずSG2000のプログラムの中核を担ってきた農業普及員のトレーニングについてお話させていただきます。SG2000では農業省の農業普及員を教育し、彼らを通じて必要な知識や技術を農家に定着させる方法を行ってきました。普及員は畑へ出て、農民と共に汗を流してくれました。その中で信頼関係を築き、効果的な農法を浸透させることに尽力してくれました。普及員の大変な努力と真摯な姿勢があったからこそ、プログラムが成果を上げることができたのだと思います。

そして彼らにさらに活躍してもらうために、私たちは情熱のある普及員の能力強化を行う講座をアフリカ各国の大学に設置しました。この講座からは、23年間で24大学の協力を得て、6,000名に近い優秀な普及員が現場に輩出されています。このように顕著な成果を上げているキャパシティ・ビルディングの活動は、今後も続けていく予定です。

零細農家の方々の生活の向上を図るためにもう一つ行っていることは、彼らの活動の多角化に対する支援です。作物を育てるだけでなく、収穫後にそれを加工し、付加価値をつけてマーケットで販売することによって、彼らがより高い収入を得られるような取り組みも行っています。

特に個々の農家を組織化したFBO (Farmer Based Organization)の機能を強化する活動を積極的に行っています。例えば種子や肥料の共同購入を集団で行い、収穫物を共同で販売することです。

また個人で所有するには高価な農業機械を、仕事を求める若者のグループに提供し、そのグループがトウモロコシの脱粒・製粉や米の脱穀・精米などのサービスを提供することによって、若者や女性に新たな職場で働くチャンスが生まれています。

近年アフリカの若者たちは、より高い収入を求めて農村を離れ、都市部に移り住むような傾向もあるようです。しかし、都市部には十分な雇用の機会もなく、若者の失業率の高さが深刻な問題になっています。農業への新しいアプローチを導入することで、農業がアフリカの未来を担う多くの若者をひきつけ、バリューチェーンが強化されることが望まれます。

SAAが設立された30年前には、アフリカ全体で農業が今ほど重要視されていませんでしたが、現在では多くの国々が発展と経済成長のために農業が重要であることを認識しています。各国のリーダーの皆さまには、これまで以上に自国の農業政策へのコミットメントを積極的に示しその可能性を広げていただきたいと思います。

最後に、これまで、多くのアドバイスをくださり、共に汗を流してくださった農学者の皆様、どんなときでも農民と近くに寄り添い、彼らの生活向上のため来る日も来る日も仕事に励まれた農業普及員の皆様、アフリカの明るい未来のために普及員を鼓舞し、共に闘ってきたSAAのルース・オニヤンゴ会長を始めディレクターたちやスタッフ、そして我々のプロジェクトを信頼し、協力を申し出てくださったドナーの皆様にも、心から感謝申し上げます。さらにこの後、アフリカ開発銀行と笹川アフリカ協会の間で覚書が調印されます。私たちの活動に経験豊富で情熱を持ったパートナーが加わってくださることについても喜ばしく思っております。

本日のシンポジウムでは、笹川アフリカ協会の30周年記念であると同時に、「変わりゆくアフリカの農業」というテーマで世界中の素晴らしいパネリストをお招きして零細農家の抱える課題について議論します。シンポジウムでの活発な議論や新しいアイデアが、笹川アフリカ協会の新たな30年に向かって一つの道筋を示してくれることを期待しています。

ありがとうございました。

「手話言語法の制定」―手話を広める知事会設立へ― [2016年09月02日(Fri)]
「手話言語法の制定」
―手話を広める知事会設立へ―


日本財団では「手話言語法の制定」に向けて、全日本ろうあ連盟の石野富志三郎理事長をはじめ、連盟の皆さんと協力して悲願実現に向けて努力しているところである。

全日本ろうあ連盟の努力で「手話言語法の制定」を国に求める意見書は、国内全て、1,788の地方議会で採択されている。又、50の自治体でも手話言語に係わる条例が制定されている。昨年は石野富志三郎理事長と共に全国から集まった2,000人のろう者の先頭に立ち、衆議院、参議院へ請願デモを行ったことは2015年9月28日のブログで報告した通りであるが、パラリンピックを契機に、インクルーシブな社会を作るべきなのに、国会議員にはその意欲がない。これだけ全国的に機運が盛り上がっているのに、いまだ議員連盟すら存在しない。国会議員の動きは鈍く、障がい者の社会参画への意識も薄いといわざるを得ない。

驚くことに、ろう学校では手話を十分使えない先生方も大勢いると聞く。1936年、鳩山由起夫氏の祖父・鳩山一郎文部大臣がろう者に対し、読唇法といって健常者の話す唇を見て理解しろとの教育方法の残滓が今も残っているのである。

ここにきて、心ある各県の知事が立ち上がってくださった。7月21日に衆議院第一会館大会議室で「手話を広げる知事の会」設立総会が開かれ、手話条例を最初に制定した平井伸治鳥取県知事が代表発起人に就任された。我々の悲願達成に力強い援軍の誕生である。

それにしても1億総活躍時代と華々しい政策の中で、IT時代で障がい者が社会参画する機会の増加でタックスペイヤーになる可能性が大いにあるのに、政治家の関心が薄いのは残念至極ではある。

しかし、あきらめない心を持って努力を継続し、「手話言語法の制定」実現への願いを込めて記念講演をさせていただいた。


***************


2016年7月21日
於:参議院議員会館講堂


unnamed.jpg
「手話は言語」の団扇を持って講演しました


ご紹介を頂きました日本財団の笹川です。

昨年8月、石野会長を含め全国から2000人を超える有志が集まってくださり、衆議院、参議院で請願デモをやりましたね。私も参加させていただきました。その時は各党の政治家から「頑張ってください」という声を頂きました。

私はこれをまともに受取り、政治家がすぐ動いてくれると思っていましたが、誠に残念ながら、手話言語法を制定するための議員連盟すら出来ていません。ただ単に「一票が欲しい」「当選したいために顔を売るだけ」という政治家が多いのです。

そういう中で、知事の皆様方、特に鳥取県の平井知事が日本で最初に条例を制定して下さり、各市町村レベル全ての議会が賛同してくれました。それを受け、全国手話を広める知事の会が平井知事を代表にして設立されたことに深く敬意を表します。

そもそも私が障がい者問題に関わり始めたきっかけは、40年以上に渡って世界中のハンセン病をなくす活動を続けてきたことにあります。先週もアフリカのカメルーンという国のジャングル奥深くまで入りました。そういうところに住む人にもハンセン病の障がいがあり、偏見と差別に苦しんでいるのです。その中で、私は世界中の障がい者の生活の現状を見聞きし、「これこそ日本財団がやらなければならない仕事である」「障がい者の方々が健常者と共に生活できる社会を創ることが私たちの使命である」と考えて活動に参加させていただいております。来月にはアメリカ・フロリダ州で開かれる世界盲人連合の大会でも基調講演をさせていただきますし、国連の場でも障がい者問題に対して活発に活動させていただいています。

2020年には東京でオリンピックが開催されます。ロンドン・オリンピック・パラリンピックではパラリンピックが大成功し、「今後のオリンピックは、パラリンピックの成功なくして成功はなし」といわれる時代になりましたが、残念ながら日本の動きは大変鈍かったのです。

少し宣伝になりますが、私は「日本財団パラリンピックサポートセンター」を立ち上げ、財団ビルに全ての競技団体に入っていただきました。既にとても活発に活動を始めています。パラリンピックにろう者は含まれていませんが、パラリンピックの意義するところは何かを少し説明させていただきたいと思います。

何のためにパラリンピックを日本でやるのか。皆さん考えてみてください。先般、私は2020年を目指してUNESCOの事務局長と契約を交わしてきました。スポーツだけではありません。手話で歌を歌うろう者もいらっしゃいます。楽器を操り、それにあわせてダンスを踊るろう者もいらっしゃいます。障がい者の中にはそのように素晴らしい才能を持った人たちがいらっしゃるわけで、障がい者が常に国や公的機関からの支援によって生活をしているのだという一般国民の常識は変えなければいけません。障がい者の方々が目標を持って社会に尽くしているという事実が既に存在しているのです。

先頃、私たちは文京区に小さなレストランを開設するための支援を行いました。全てろう者がやっています。立派なメニューに指を差すと、ちゃんとうなずいて料理が出てきます。わからないことがあれば、ちょっと書けば、相手もそこに答えを書いてくれ、何の不自由もありません。

私はその2020年を目指して、何故パラリンピックに力を注ぐのでしょうか。ちょっと難しい言葉で恐縮ですが、2020年以後にインクルーシブな社会を創りたいからです。日本が世界の先頭に立って、障がいのある人もない人も、全ての人が共に生活できる社会を創るということです。

障がいがあっても、健常者より優れた才能を持った人はたくさんいます。障がい者は行政からの支援だけで生きているのではありません。世界には大成功している障がい者の企業家もいらっしゃいます。このような方々に日本に集まっていただき、健常者よりも障がい者がはるかに優れた点もたくさんあるのだということを見ていただき、2020年のパラリンピックを契機に障がい者や健常者という言葉すらない社会を創ることが東京オリンピック・パラリンピックのレガシーだと考えています。

そういう意識を、今日お集まりの知事の皆様がお持ちであることは大変心強いことではありますが、残念ながら、ここ議員会館にいらっしゃる国会議員の皆様には全くその意識がない。これをどのようにしてこれから攻めていったらいいのか。それは、協力しない人には一票を入れないようにしなければいけないのです。

既にお隣の韓国でも手話言語法が出来ました。世界中で動いているにもかかわらず、日本の国は動いていません。石野理事長をはじめとして連盟の皆さんが日夜努力に努力を重ねてきて、やっと知事会の皆様方が声を上げてくださったことは大変心強いことで、他の国ではこんな団結した組織はありません。しかし、請願デモまでやらなければ法律を作れないような国もありません。日本が「先進国だ、民主主義の国だ」などといっているのは政治家だけです。社会課題を自ら見つけ出し、解決していくのが国会議員の仕事なのです。

ということで少しアジ演説が過ぎましたが、どうか一つ皆さんと力を合わせて手話言語の法律を作りましょう。世界には手話を憲法で定めている国もたくさんあります。法律で定めている国は36カ国もあります。

少子高齢化といわれていますが、次代を担う大切なろう者のお子さん方の現状を見ますと、本当に残念に思います。世界の中でも日本は後進国です。手話で教えられる先生方はいったい何人いるのでしょうか。まず子供の教育のために、手話できちっと教育が出来る先生の養成をしないで次代を担う日本の若者をどうやって育てるのでしょうか。

このような問題も含め、新しい日本を作るためには、そして障がい者が社会の中で生き生きと生活できる環境を作るためには、法律制定も大事ですが、2020年のパラリンピックを契機として、国民一人ひとりがインクルーシブな社会を作っていくために今から動かなければ遅いのです。

今回、平井知事を中心に知事の皆様が立ち上がってくださったことは本当に力強いことです。どうか一つお集まりの皆様方と共に、パラリンピックのレガシーとして、まず手話を言語として認めていただき、2020年以降、「障がい者」「健常者」そういう言葉もない、全て日本国民として平等な生活が出来る、そういう国にしようではありませんか。

ありがとうございました。

「少年剣道大会」 [2016年08月26日(Fri)]
「少年剣道大会」


全日本剣道道場連盟主催で、毎年全国各地で勝ち抜いた少年少女剣士約2,000名が武道の聖地・日本武道館に集結し、大会を行っている。日本財団はこの大会を支援している関係で挨拶の機会をいただいた。

全国にある剣道場は町の中にあるところも多いが、個人の敷地の中で剣道を趣味とした父親が子供や孫の心身の鍛錬のために作り、広く町の子供達に開放された道場も多い。礼に始まり、礼に終わる少年少女が剣道衣に面をつけて「しない」を持った姿はすがすがしい。近年、少女の選手が増加しているのもすばらしいことである。

ご臨席を賜った名誉総裁の三笠宮瑤子女王殿下は、原稿なしでスピーチをされる。剣道五段の腕前であるが、五段のテストは厳しく、二度失敗の上三度目に合格したと、自らのスピーチで述べられていた。

日本剣道連盟の福本修二専務理事は、剣道はオリンピック種目には入らないと断言されていた。柔道や空手などの日本古来の心身鍛錬の武道が、オリンピック種目になってから単なるスポーツとしての勝負にこだわり、美しさを失ってしまったという。けだし名言であり、私も支持したい。

ただ一つ残念なことは、この大会で数回注意したのだが、選手たちが国家「君が代」が歌えないというか、声が出ないのである。世界中、国歌斉唱は老若男女、子供たちまで大きな声を出して歌う。先般、森喜朗オリンピック組織委員長が選手壮行会で「声を出して歌いなさい」と苦言を述べられたが、正論であろう。

以下はショートスピーチです。

**************


2016年7月26日
於:日本武道館


51zenkoku2.jpg


私は毎年、この大会に来ることを楽しみにしています。今日の皆さん方の輝いた目、そして鍛えられた体、皆さん方の素晴らしい鍛錬の成果をここに見せて頂き、私は皆さん方に負けないように頑張れという激励をもらえるような気がするのです。あとで鏡を見て下さい。皆さん方は本当に素晴らしい顔をしています。「僕ってこんなにいい男なのか」「私はこんなに輝いているのか」と必ず思うはずです。

日々の訓練は大変だと思いますが、我慢して粘り強く続けるということはとても大切なことです。少し難しい言葉ですが「記憶の美化作用」という言葉があります。辛く、厳しい訓練に耐え抜いたことが、大人になると楽しい思い出に変わるのです。人は武道を通じて心と体を鍛えることができます。武道は素晴らしいものです。その中でも特に、剣道は世界一だと思います。皆さん、よくぞ剣道を選んで下さいました。剣道をやることを誇りに思ってください。この憧れの武道館に座った感じはいかがでしょうか。きっと大人になった時に「あぁ、あそこに座ったな」と懐かしい良い思い出に変わることでしょう。皆さんには我慢して、剣道を一生懸命続けて頂きたいと思います。

多くのご両親をはじめ、先生、ご出席の皆様方、どうか我が子、我が教え子だけでなく、剣道の素晴らしさを周りの方々にも伝え、広めて頂けると大変有難いです。

心身ともに健全に、こんなに素晴らしい子供たちが育っていることは、道場主、あるいは道場の運営に日夜尽力して下さっている関係者のおかげで感謝申し上げますと同時に、これからも宜しくお願いいたします。そして、1年間手塩に掛けてこの大会を作り上げて下さった道場連盟の関係者の皆様にも厚く御礼を申し上げます。

今日は大いに日頃の鍛錬を発揮して頂きたいと思います。
今日ここに来られた皆さん、おめでとう!

conv0001.jpg
連盟の弁論大会最優秀賞者に対し、記念品の胴を贈呈


「海の日のイベント」―人材育成の国際会議― [2016年08月24日(Wed)]
「海の日のイベント」
―人材育成の国際会議―


日本は海洋国家である。

私は「海に守られた日本」から「海を守る日本へ」を提唱し、海洋基本法の制定にもささやかな貢献をしてきた。しかし残念ながら、国民の海の大切さへの理解にはまだまだ足りない。

日本財団は「海の日」を中心に、「海と日本プロジェクト」を全国で125のプロジェクトを実施。1,500のイベントを通じて100万人の参加者を目標に、関係団体や企業と共に海の啓発活動を行っている。

学校教育の中で海に関する記述の増加を要望しているが、文科省の動きは鈍い。メディアも世界中の陸上での事件や、例外的に海難事故は早刻報道されるが、世界人口100億人の到来も指呼の間になった今日、静かに進む海の環境悪化の深刻な状況は人類の生存にかかわる重大問題であるにも関わらず、なかなか人々の注目を集めることはできていない。

変化の激しい時代、政治家をはじめあらゆる分野の指導者は「よりよき環境を次世代へ」というが、海の問題は数百年あるいは千年単位で考えなければならない問題であると憂慮している。生命体としての地球の中で、海の環境悪化は人類の死滅を意味するのである。

日本財団は、牛歩ではあるが、海のあらゆる問題についての人材養成に懸命に取り組んでいく所存である。

下記は海の人材育成に関する国際会議でのスピーチです。

****************

「海の人材育成に関する国際シンポジウム」


2016年7月19日
於:ザ・キャピトルホテル東急


DSC_1515.jpg


皆さま、「海の世界の人材育成」に関するシンポジウムにお越し頂き、ありがとうございます。本日はレメンゲサウ大統領、トン(前)大統領をはじめ、海洋問題に携わるリーダーの皆さまがその知識や経験を共有するために世界中から集まってくださいました。心から歓迎の意を表します。

総合海洋政策本部及び国土交通省と共に、このシンポジウムを開催できることを光栄に思います。そしてこの場を借りて、The Nature Conservancy(TNC)(海洋環境問題のNGO)の協力に心より感謝申し上げます。

現在、世界の海を見渡してみますと、さまざまな問題が確実に深刻さを増して迫ってきています。気候変動は海洋環境の大きな変化を引き起こしつつあり、海水の酸性化は食物連鎖や海洋生物の繁殖に大きな打撃を与えています。海洋生物資源の乱獲はとどまる兆しを見せず、海底資源や世界の海の3分の2の面積を占める公海の利用においても各国がしのぎを削る状況が続いています。

これらの問題が放置されれば、人類の生存そのものがいずれ脅かされる危機さえ予測されます。私たちは人類誕生から何百万年もの間、海と共に生きてきました。私たちは海にもっと注意を払うべきです。この海を、次世代に、そして千年、一万年と、持続可能な形で未来の人類に残していくことを考えられるし、考えるべきです。

例えば海に迫る危機の例として、気候変動による海水面の上昇が挙げられます。トン(前)大統領やレメンゲサウ大統領は自国から世界に向けて、その危機に対する警告を発してきた指導者です。

海水面の上昇のような問題は、複雑な原因が絡み合って発生しており、一国や単独の組織の力では到底解決に導くことができません。海流の変化を知り、気候や外的要因が海水へ与える影響を知ることはもちろん、上昇に対処するための法律の整備や政策の立案に至るまで、多くの専門分野の知見が必要です。

また、地域住民や行政、漁業者、研究者、国際機関や、NGOなど、様々な立場にいるステークホルダーが協力して取り組むことも求められるでしょう。

人類の生存に関わる海に迫る危機に対応するためには、私たち人間がそのための“キャパシティ”を高めることが重要だと考えます。

求められるキャパシティは多岐にわたります。時には海で実際に起きている現象について分析、理解することが求められます。科学技術に加えて、海に起きている異変に柔軟に対応する適応力を身につけることも必要です。既存の対処法では打開できない状況にはイノベーションを起こす新しい発想力が求められるかも知れません。住民や研究者、行政、NGO、市民社会などによる分野横断的なコミュニケーションが解決を促すでしょう。何より困難に負けずに危機に立ち向かう強い意志は問題解決に不可欠だと思います。

それらの多様なキャパシティを高め、問題に応じて組み合わせなければ、海に迫る危機的な状況に立ち向かうことはできないと私は考えています。

この度日本財団は、TNCと協力して人材養成の先進事例に関する調査を行いました。その結果、世界中に現状の打破につながるような優れた事例があることがわかってきました。持続可能な海洋管理への取り組みや、多様なステークホルダーを巻き込んだ地域のユニークな事例など多岐にわたっています。しかし、各地で行われる優れた事例を共有し、連携を図るような試みについては限定的であることも分かりました。

それぞれの活動は各地で成果を上げられており、私たちがその知見を共有することが共に海の危機に対処するためには重要です。

本日のシンポジウムは、注目すべき取り組みを推進してこられた方々にお集まりいただいています。これはいわば、海に関わる人材養成の多様な取り組みを集めた、持続可能な海を目指す世界初のショーケースと言えるかも知れません。

参加者の皆さまには、ここでの議論で得たことを所属する組織や地域で応用できることはないか、そしてお互いに連携し協力できることがないかを積極的に議論していただきたいと考えています。

さらに、皆さまにはその議論の結果を一般の人々に分かりやすく伝え、私たちの懸念を広く共有してもらう役割も担っていただきたいと思います。

本日のシンポジウムが海の危機に立ち向かうロードマップを示す場になることを期待しています。

ありがとうございました。


「海と日本プロジェクト総合開会式」 [2016年08月22日(Mon)]
「海と日本プロジェクト総合開会式」


7月18日、「海の日」の祝日を記念し、日本財団は「海と日本プロジェクト」を立上げ、全国で125のプロジェクトを開始。国土交通省の強力なバックアップのもと、関係団体や企業と共に1500のイベントを通じて100万人の参加者を目標に、7月19日から9月初旬まで、幅広い啓発活動を実施している。

この総合開会式には安倍首相の出席も予定されていたが、所用で急遽欠席となったことは画竜点晴を欠いたが、関係者はもとより、多くの小学生、中学生が参加してくれたので、子供たちに向けて即席で話をさせていただいた。

*****************


2016年7月18日(月)
於:東京港晴海ふ頭 晴海客船ターミナル


総合開会式での笹川会長あいさつ1.JPG
総合開会式で挨拶


ご紹介賜りました日本財団の笹川でございます。
今日は海に関係する多くのみなさんにお集まりをいただきました。特に小学校、中学校の学生諸君が集まってくれたことは、私たちにとって大変嬉しいことです。

今日は「海の日」、祭日でございますけれども、世界で「海の日」が休みになっている国は、実は日本だけなんです。
どうしてでしょうか?
みんなで考えてみましょう。

日本は島国で海に囲まれています。みなさん方が毎日生活していく上で、海がないと生きていけないことを知っていますか?

なぜかと言うと、食べ物の60%は外国から輸入しています。日本だけで生きていこうとすると人口の40%近くしか生きられません。あとは全部外国から輸入しているんです。

日本の多くの造船会社が船を作って世界へ売っています。今日いらしていただいている三井OSKという世界でもとても大きい船会社が、今日は特別に乗ってもらおうと、自動車運搬船がそこに横付けされています。私は2,000台くらい積むのかなと思っていましたが、なんと6,000台も入るそうです。これをみなさんに見ていただきたいし、日本が誇る帆船も来ていますから、それもぜひ見ていただきたいと思います。

モノを輸出するための船をつくり、その船で自動車やさまざまな工業品を外国に売り、そしてそのお金で食糧を買って私たちは生活をしているんです。パンの原料の小麦はほとんど外国からの輸入品です。牛や豚や鳥を飼っていますが、その餌もみんな外国から来ているんです。

今世界で最も長生きの国は日本です。魚が健康にいいといわれて、これが世界中に広がってしまい、広がることはいいのですが、世界中で魚のとりっこが始まっています。日本財団と外国の研究者が一緒に研究をしていますが、あと30年もしますと、みなさんが40歳か50歳くらいになるころには、日本の近くの海の魚は半分近くに減ってしまう可能性があります。魚がいなくなったら、どうしましょうか?

海は静かできれいに見えますが、世界の人口が70億人を超え、世界の工場や生活排水が海に流れ込み、だんだん汚れてきています。

また、さまざまな理由で温度が上がってきて、毎年暑くなってきています。私は山の中に小さな家があるのですが、海抜1300メートルくらいの場所にも蚊が来るようになってきました。

北極海の氷が溶け、海面が上がってきて、南太平洋のキリバスという国は、いずれ水の中に沈んでしまうという危険が迫っています。

海は何も言いませんが、このような大きな変化が起きていますから、そのままにしておくと、何千年か何万年か後には人間が住めない地球になる可能性すらあります。

みなさんにもっと海に興味を持っていただきたいのです。今日は船に乗っていただいて、「よし、船をつくる人になろう」とか、「船を動かす人になろう」とか、「横浜のような大きな港で大きなコンテナを動かして船に積んだり下ろしたりする仕事をしよう」とか、あるいは「海の中で魚が減るのならそれをなんとかする研究者になりたい」という気持ちになってくれたら嬉しいですね。

総合開会式での笹川会長あいさつ4.JPG


そのために日本全国で125のプロジェクトを立ち上げました。あまり海のことを学校で教えてくださらないので、海の日を記念して、これから毎年、みなさんに海のことに興味を持つ人になっていただきたいという思いで、こういう取り組みを始めたわけです。

私たち日本が70年もの長い間平和でいられたのは、海に守られてきたからです。そして美味しい魚を食べて世界一の長寿国になりました。しかし今は世界中の国で魚をとるようになってきましたし、争いも海の上で起こるようになってきました。これからは海を守る日本にならなくてはいけませんし、「海に守られた日本」から、「海を守る日本」へ、そして「世界の海を守る日本」へと変わっていかなければいけません。その活動をみなさま方にお願いしたいと思います。

今日は多くの海事産業の関係者のみなさんが多く集まって、若い人たち、子供たちに海のことをもっと深く理解していただこうと力を合わせて盛り上げています。今日一日、どうぞ楽しんでください。

多くの関係者のみなさんのご理解とご努力で、この海の日を記念するプロジェクトがこれから毎年大いに盛んになることを期待しております。

今日はお集まりいただき、ありがとうございました。
「世界銀行とメンタルヘルス」 [2016年07月20日(Wed)]
「世界銀行とメンタルヘルス」


今年の4月、世界銀行より、ワシントンDCでメンタルヘルスの会議を開催するので出席してほしいとの要請を受けた。

私は医者でもないし、ましてやメンタルヘルスについては無知同然なのでお断りしたところ、「あなたが取り組んでいるハンセン病制圧活動が世界で顕著な成績を上げているので、その方法を参考にしたい。是非出席してほしい」との再度の依頼を受け、出席することにした。

メンタルヘルスとは、精神面においる健康のことで、WHO(世界保健機関)は下記のとおり定義している。
「精神的健康とは、単に精神障害でないということではない。それは、一人一人が彼または彼女自らの可能性を実現し、人生における普通のストレスに対処でき、生産的にまた実り多く働くことができ、彼または彼女の共同体に貢献することができるという、十全にある状態である」とある。

下記の通り、簡単に説明はしたものの、参加者の態度を見ていると、私の話などとても参考になったようには見えなかった。

実は「あなた方がこの問題を真剣に解決したいのなら、溢れる情熱、どんな困難にも耐える忍耐力、それに成果が出るまで絶対にあきらめない継続性こそ必要であり、その覚悟はありますか?」と突っ込みたい衝動に駆られたが、不本意ながらきれい事で終わってしまった。国際会議の中には、会議を開催することに意義があり、実行とその成果の実現への情熱が伺えないケースが多々ある。

しかし当方は、売れない芸者のように、お声がかかると地の果てまでも出て行く軽薄さ。これは私の欠点と知りながら出掛けていく。治りそうもない生活習慣病なのでしょう。

下記、その時の発言です。

****************


世界銀行/世界保健機関共催
「影の外へ−メンタルヘルスをグローバルな開発の優先事項に」


2016年4月14日
於:米国・ワシントン


11メンタルヘルス会議で発表.JPG
メンタルヘルス会議で発表はしたが・・・


今回、主催者から、このシンポジウムへの出席のご依頼を受けた時、私はメンタルヘルスの専門家ではないのでこの場に不適切ではないかと思いました。しかし、私が長年携わってきたハンセン病へのアプローチを参考にしたいとのことだったので、自分の経験が役立てばと思い、出席させていただくことにしました。

私は40年以上にわたり、ハンセン病制圧活動に取り組んでおり、2003年からWHOのハンセン病制圧大使として活動しております。

ハンセン病は、古くから呪いや神の罰と恐れられ、世界各地で患者や回復者に対する隔離政策が行われていました。

19世紀後半、ハンセン病はある種のバクテリアによる感染症であることが判明し、20世紀後半には、投薬による有効な治療法が確立されました。

こうして、それまでのハンセン病に対する人々の認識は誤解であることが証明されたはずだったのですが、多くのハンセン病患者を抱える開発途上国を中心に、ハンセン病は未だに公衆衛生上の問題であり、病気に対する誤解や当事者への差別は続いています。

ハンセン病は、感染力の高い病気ではありません。生命を直接脅かす病気でもありません。その結果、差し迫った問題として顕在化せず、国によっては政策上の優先順位が低く、保健政策の中にきちんと位置づけられていません。加えて、ハンセン病の専門家はほとんどいません。

本日は、ハンセン病制圧のための私の3つのアプローチについてお話したいと思います。政治指導者に直接働きかけること、ハンセン病の普及啓発に努めること、コミュニティを巻き込むことです。

まず1つ目に、政治指導者に働きかけることは、ハンセン病の制圧に対してその国のコミットメントを取り付ける上での鍵になります。私はWHOハンセン病制圧大使として蔓延国を訪れ、政治指導者と面会するようにしています。ハンセン病の問題の深刻さを説明し、解決することの重要性を説いて、政策上の優先順位をより高めてもらうよう求めています。このアプローチが功を奏し、いくつかの蔓延国において、ハンセン病への対策の予算が増やされ、この問題に国を挙げて取り組んでもらえることにになった例もありました。

2つ目は、普及啓発に努めることです。私は、この病気が、「治ること」、「差別は不当であること」をより多くの人に知ってもらうことが重要であると考えています。メディアはその中心的な役割を担います。ハンセン病は多くの地域でタブー視され、メディアで大きく取り上げられることはほとんどありませんでした。言い換えれば、影に隠れていた問題だったのです。私はそこで、ハンセン病の回復者に対し彼らの経験や、彼らが苦しんできた差別や誤解についての話をしてもらえないかと働きかけるようにしています。彼らの経験が共有されることで、より多くの人たちがハンセン病について知ることにつながるからです。このように、私はハンセン病を影の中から影の外に導き出そうとしています。

3つ目のポイントは、地域を巻き込むことです。ハンセン病は、早期発見・早期治療が非常に重要です。ハンセン病の患者の中には、病気に関する基本的な情報を知らなかったり、病気に伴う差別の恐れなどから受診をためらう人たちもいます。それが結果として症状を悪化させてしまうこともあります。例えば、インドのある地域では、同じ地域に住むハンセン病経験者が中心となって自助グループを作っています。彼らは地域でハンセン病と疑われる症状の人がいたら、その人を適切な医療機関に紹介するという活動を行っています。彼らは医師でも医療スタッフでもありませんが、同じ経験者だからこそわかる初期症状にいち早く気づくことができ、治療に行くよう説得することもできます。このような地域に根ざした活動は、未治療の患者を早期に治療に結びつける上で大きな成果を上げています。私は、専門家であるか否かに関わらず、地域の人たちが協力することが、潜在的な患者の発見や治療、ケアにつながることを学びました。

本日は、ハンセン病の制圧における私のアプローチとして、政治指導者に直接訴えること、普及啓発活動を行うこと、コミュニティを巻き込むことについてご紹介させていただきました。中には、メンタルヘルスに通じることもあるかもしれません。私の話が少しでもお役に立てばと思います。

ありがとうございました。

「ローマ教皇とハンセン病発言」その3―国際会議の結論― [2016年07月15日(Fri)]
「ローマ教皇とハンセン病発言」その3
―国際会議の結論―


日本財団とローマ教皇庁との共催による「ハンセン病患者・回復者の尊厳の尊重とホリスティック・ケアに向けて」と題する国際会議は、6月9日〜10日の2日にわたってバチカンで開催され、45ヶ国から約250名の宗教指導者、国連人権理事会諮問委員、国際機関代表、医療関係者、法律家、NGO、そして回復者組織の代表たちが参加した。宗教指導者では、ローマ・カトリック教会、ユダヤ教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教が参加した。またハンセン病回復者は、インド、ブラジル、ガーナ、中国、韓国、フィリピン、コロンビア、日本からの参加があり、バチカンでは初めてのハンセン病に関する国際会議となった。

B会議終了後に参加者が大集合!.jpg
国際色豊かな参加者が集合


各国のハンセン病回復者からは苦難に満ちた人生が語られ、特に長島愛生園から参加された石田雅男さんの「残酷で悲惨な歴史を繰り返してはいけない」と静かに淡々と語る姿に、参加者から大きな拍手が起こった。

A参加者は石田さんの話に聞き入っていました。.jpg
参加者は静かに語りかける石田さんの話に聞き入っていました


2日目の最後に、議論や発言をもとに「結論と提言」が発表された。社会に残る偏見・差別により、いまだにハンセン病患者・回復者とその家族の人権が十分に確保されていないことが指摘され、偏見・差別の解消に向けて宗教界も重要な役割を果たすべきと明記され、偏見・差別を助長するような用語、特に「Leper」の使用は避けるべきとの提言がなされた。

6月12日の日曜日はサン・ピエトロ寺院広場で、「いつくしみの特別聖年」の教皇行事として開催された「病者と障がい者のための聖年」特別ミサが行われた。世界中からおよそ7万人の障害者、医療関係者、福祉関係者、キリスト教信者、一般参加者が集まり、ローマ教皇の話に熱心に耳を傾けていた。このミサでは、私や会議出席者、回復者たちは最上壇の特別席に座らせていただいただき、間近でミサに参加することができた。ミサの中で教皇様から「『病者と障がい者のための聖年』の一環としてローマでこのほど、ハンセン病を患った人々の治療のための国際会議が開かれた。感謝の念をもって開催者と参加者を歓迎し、この病気との闘いにおいて、実り多き取り組みが成されるよう切望する。」とのメッセージがあり、会場から大きな拍手がおこった。

数万人の参加者の中で、私は一人静かに教皇様の言葉を心にきざみ、12億人の信者の最高責任者が従来の発言を訂正し、「レパー」という差別用語ではなく「ハンセン病を患った人々」とおっしゃったそのお言葉に、密かに喜びをかみしめた。


以下はバチカンにおける私のスピーチです。

******************

国際シンポジウム

2016年6月9日
於:バチカン市国

ローマ教皇庁保健従事者評議会がこのシンポジウムを共催してくださることに対し、心から感謝しております。また、よきサマリア人財団、ラウル・フォレロー財団、マルタ騎士団の皆さまのご協力にも感謝申し上げます。

私は、実際にハンセン病を経験した人たちの言葉を聞かずしてこの問題を語ることはできないと思います。しかし、実際に彼らの言葉を聞くことができた人は多くはありません。本日、はるばるご参加くださり、その経験を共有いただける皆さまにも心からの感謝の意を表します。

まずはじめに、ローマ・カトリック教会がハンセン病に苦しむ人々のために果たしてきた役割について言及したいと思います。

これまで、多くの教会の方々がハンセン病患者の救済のために尽くしてこられました。その中には、19世紀に宣教師としてハワイ・モロカイ島に渡り、ハンセン病患者に奉仕された聖ダミアン神父や、その活動を評価され、ノーベル平和賞を受けられたマザーテレサもいらっしゃいます。

私自身は、マザーテレサにお会いする機会に恵まれたことがあります。私がインドでハンセン病患者のためのホームを訪ねたとき、マザーは自ら私を案内してくださいました。患者のため、神に祈りを捧げる彼女と共に祈ったことは、忘れられない思い出です。

二人で記念撮影.png
マザーテレサと筆者


私が旅してきた場所では、多くのハンセン病回復者の方々が、教会から受けた献身的なケアに心からの感謝の気持ちをお持ちでした。

私が会長を務める日本財団と、関連団体の笹川記念保健協力財団は、世界各地で行っている様々な人道的支援に加え、1960年代からハンセン病の制圧活動に取り組んできました。

1983年、私の父である笹川良一が教皇ヨハネ・パウロ2世聖下自らの執務室に招き入れてくださる栄誉をいただいた時、私も付き添いました。この謁見において、教皇は父を抱き締め、父のハンセン病制圧に向けた取り組みに深く感謝してくださり、引き続き努力するよう激励してくださいました。

法王と抱擁.png
ヨハネ・パウロ2世聖下と父


その後、1990年代に日本財団はハンセン病治療薬を世界中に無償配布することを決め、WHOや多くの方々のご尽力により、患者数の大幅減少を達成しました。

2003年に再び教皇ヨハネ・パウロ2世聖下に謁見する機会をいただいた私は、世界各国を回り、薬が届いていることを確認したこと、ハンセン病の患者数が大きく減ってきていることをご報告することができました。

薬によってハンセン病の患者数は減りました。このように医療面で改善が見られた一方、社会的な問題は変わりませんでした。多くの人々が、ハンセン病の差別とスティグマに苦しみ続けていたのです。

言い換えると、ハンセン病の回復者は、病気は治っているにもかかわらず、「ハンセン病元患者」としての烙印を押されたままでした。彼らは差別され、家族の元に戻れず、仕事への復帰もかなわず、患者だったときと変わらずにハンセン病療養所やコロニーで暮らす以外の術をもっていませんでした。

これは医療では解決できない、意識の問題です。

社会の意識の問題は、社会の中に根強く残ってしまっている、ハンセン病に対する差別的な意識のことです。それは、ハンセン病が未だに、遺伝病だとか神のたたりであるという誤った誤解に基づいていることが多くあります。

この誤解を解くため、日本財団では、社会の人々にハンセン病に関する正しい理解をもってもらうための活動を行っています。例えば、1月の世界ハンセン病の日に合わせ、2006年から毎年、社会からハンセン病の差別をなくすためのグローバル・アピールを発信しています。これは私たちが力を入れる啓発活動のひとつで、医学界やビジネス界、学術界など、様々な分野を牽引するリーダーの方々と共に行うことで、広く一般に届けようとしています。

2009年には、この活動に対し、ローマ教皇庁保健従事者評議会にご協力をいただきましたことに、あらためて感謝申し上げます。その時私たちは、世界の宗教指導者の方々と共に「ハンセン病における差別をなくし、癒しを開始しよう」というメッセージを発信しました。

このような活動は、ハンセン病についての誤解を正し、社会の人々にハンセン病についてもっと知ってもらうことを目指しています。私は、このことがハンセン病の差別とスティグマのない世界の実現への一歩となると信じています。

しかし、意識の問題にはもう1つあります。それは、ハンセン病を経験した人たち自身の意識の問題です。

私は、彼ら自身の多くもまた同様に、病気に対する誤解を持っていることに気づきました。彼らは、長い間差別を受けて暮らしてきたことで、社会に復帰することをあきらめてしまっていました。そして、さらなる差別への恐れから、自ら社会から隔絶して生きることを選択していました。彼らは、自分たちに人権があることにすら気づいていませんでした。

宗教指導者の方々は、多くの人の心や意識に触れる活動をされています。彼らの言葉は私たちに、思いやりの心を教え、勇気を与え、苦しみを癒し、そして私たち皆を一つにしてくださいます。

昨年、教皇フランシスコ聖下がバチカンで、ブラジルから訪れたハンセン病回復者の人々に謁見してくださいました。彼らはそれがいかに意義深く、報われる思いがしたかを語ってくれました。

本日は、教皇庁の格別のご配慮で、ローマ・カトリック教会を始め、様々な宗教に関わる方々がお越しくださっています。

私たちは、ハンセン病当事者に対する包括的なケアに関して議論し、ハンセン病の社会的差別をなくす必要性を共有するために集まりました。

そして本日ここに集まった回復者の皆さんはすでに自分たちの立場を社会に訴えるために力強く立ち上がった勇気ある人たちです。また、彼らは他の人たちを先導しようとしている指導者の皆さんです。

彼らと共に力を合わせることで、私たちはハンセン病患者や回復者の苦しみを軽減することができるでしょう。共に活動することで、私たちは、彼らが自らの尊厳を回復するお手伝いができるでしょう。

最後に、ハンセン病を克服した私の友人の言葉をご紹介したいと思います。彼は少年時代にハンセン病を患ったことでこの病気に苦しめられることになりました。その後、70年以上もの間ハンセン病療養所で暮らしています。現在89歳となった彼は、その経験を語る活動をしています。

彼はよく私に言うのです。

「自分はひどい差別を受けてきたが、私を差別した人たちを赦したいと思う。彼らを赦すことで、自分の人生は豊かなものになる。」

私は彼の言葉を聞いて、人間とはこんなにも強く、寛容になれるものかと思いました。勇気を振り絞り、差別に立ち向かい、自らの置かれた状況を変えるために立ち上がった多くの人たちがいます。彼はその一人です。

実際に差別にさらされ、苦しみを味わった患者や回復者の方たち自身が発する声は力強く響きます。彼らの声に耳を傾けることで、私たちは、何をなすべきかが見えてくるのではないでしょうか。

「ソフィア大学名誉博士」―ブルガリア最古の大学― [2016年07月01日(Fri)]
「ソフィア大学名誉博士」
―ブルガリア最古の大学―


余り晴れがましいことは私の性格に合わないのでブログで書くことはほとんどないが、このところ海外活動が多く、来週からアフリカのカメルーンでピグミーのハンセン病実態調査に入るためブログの種が不足してきてしまい、恥ずかしながら、表題の記事になってしまった。

この度、1888年に設置されたブルガリア最古のソフィア大学より名誉博士号を授与された。

1987年、未来の世界を担う修士・博士課程の優秀な学生に奨学金を提供する「笹川良一ヤングリーダー奨学金制度」を設置。現在は世界69大学に設置されているが、ソフィア大学は1992年に設置された大学のうちの一校である。

日本人のブルガリアに対するイメージは、ヨーグルトに美しい薔薇、引退した相撲力士くらいかも知れないが、約1400人が日本語を学んでおり、約450名の国費留学生、約800人のJICAで研修経験のある方々がおり、日本の伝統文化や武道の同好会もあると、小泉崇ブルガリア大使は教えて下さった。

私にとって嬉しいことは、この奨学金第一号を受けられたパシレフさんが、その後、年間100万本を生産するワイナリーの実業家として成功したのみならず、ブルガリアの政財界の有力者としても活躍されていることであった。

ソフィア滞在中は心を込めてアテンドして下さり、その上、写真のように、家宝である73年前、1943年産のワインを2本もプレゼントして下さった。学生時代の恩義を忘れず、その後、私のハンセン病との闘いに注視して下さり、名誉博士に推薦して下さったようだ。

DSC_1198.JPG
1943年産のワイン2本!


伝統ある大学での古式豊かな式典の様子はテレビで何回も放映されたと、在日本ブルガリア大使館から知らせをいただいた。

博士号授与の理由であるハンセン病について、10分間の映像の後、講演の機会をいただいた。既にヨーロッパではハンセン病は過去の話になっており、どのような過酷な歴史があったかは書物で若干知っている方がいる程度なので、映像に驚き、目頭を押さえる聴衆もいた。

以下、ハンセン病について比較的分かりやすく述べていますので、お読みいただければ幸甚です。

***************

「ソフィア大学名誉博士号授与式スピーチ」
―ハンセン病の病気と差別の制圧に向けた闘い―


2016年6月6日
於:ブルガリア・ソフィア大学


ハンセン病に関するレクチャーをさせていただく.jpg


この度は、ブルガリアで最古かつ最大の大学であるソフィア・聖クリメント・オフリドスキ大学から名誉博士号をいただくことができ、大変光栄に思います。また本日は、ハンセン病の制圧という私の生涯をかけた活動について、皆さまにお話しさせていただく機会をいただき、感謝申し上げます。

先ほどショートフィルムをご覧いただいたのは、この病気に苦しめられ、今もなお苦しんでいる人たちの現実を皆さまにご覧いただきたかったからです。映像にもありました通り、ハンセン病は何世紀にも亘り不治の病、神の罰などとされ、人々から恐れ嫌われてきました。

しかし1980年代になると、有効な治療法の確立により、ハンセン病は治るようになりました。簡単なことではないとはわかっていましたが、私はこの薬を、病気に苦しむ全ての人たちに届けることを決意しました。そして日本財団は、WHOと協力し、ハンセン病治療薬の無料配布を開始しました。

有効な薬を配るのですから、私たちはある一定の効果はすぐに現れるだろうと期待していました。しかし、多くの予期していなかった事態に遭遇しました。

例えば私は、世界には多くの人が薬の飲み方を知らないという事実を目の当たりにしました。それまで伝統医療薬しか飲んだことがないという人たちに対し、私は、まずブリスターパックと呼ばれる包装から錠剤を取り出し、水で飲み込むという薬の飲み方から教えなくてはならなりませんでした。

また、アフリカのある部族の人たちは食べ物を平等に分け合うという習慣があるため、配布された薬をも同じ村の人たちで分け合ってしまっていました。これでは当然、薬の効果は現れません。

また、無料なのに患者が薬を取りに来ないということもありました。痛みを伴う初期症状がないため、もしくは差別を恐れたためです。

薬を無料で配るだけでは効果的ではないということは明らかでした。私たちは、治療薬の配布に際し、その土地の習慣や文化なども考慮しなければならなかったのです。

このことを念頭に、より効果的に薬を患者に届けるために、私たちはWHOや各国の保健省、医療関係者、NGOなどと協力し、活動を続けました。

その結果、より多くの患者が病気を治療、治癒し、多くの蔓延国においてハンセン病患者の数は大きく減っていきました。私は、治療薬普及の成果が現れてきたことに、一種の達成感を感じ始めていました。

しかし、患者の数が減ったにも関わらず、私がハンセン病コロニーで目にした現実は、病気から回復した人たちの生活が治療前からあまり変わっていないということでした。彼らは治癒した後も、患者だったときと同じようにハンセン病療養所やコロニーで暮らし続けていました。そこは、草木も生えていないくぼ地のようなところで、外側からは単なる岩山にしか見えないような場所だったり、線路脇の土手のわずかな空間だったりしました。彼らはハンセン病を患ったときから、そのような場所に集まって暮らしていました。その場所と外の世界との境界に目に見える塀などは何もありません。しかし、まるでそこには目に見えない壁が立ちはだかっているかのように、彼らの住む場所とその外を行き来する人はいません。彼らはもう患者ではないのに、こうして「ハンセン病の元患者」として生活しつづけていました。

この状況を見て私は、私がそれまでハンセン病の差別やスティグマの問題を楽観視しすぎていたことに気づきました。私は単純に、病気を治すことは差別をなくすことにもつながるだろうと考えていました。しかし実際は、治癒してもなお、彼らは「元患者」から抜け出せていませんでした。これは特にハンセン病に顕著に見られる問題のように思います。

私は、ハンセン病の問題は医療の問題だけではないことに気づきました。それは私たちの意識の問題です。私は、この意識の問題にも取り組むことにしました。

ハンセン病の闘いについて話をするとき、私はよく、モーターバイクに例えて説明します。前輪は病気を治すための医療面のアプローチです。そして後輪は、スティグマと差別をなくすための社会面のアプローチを指します。この前輪、後輪が同時に動かなければ前に進まないモーターバイクのように、ハンセン病とその差別をなくすためには、医療面、社会面双方のアプローチを同時に進める必要があると、私は考えています。

後輪の差別の問題について取り組むにあたり、私は何から始めればいいのかわかりませんでした。医療面のアプローチのためには、WHOや保健省、医療専門家の方々と活動しましたが、社会面のアプローチには、新たな関係者を巻き込む必要があると感じました。

私はハンセン病の差別とスティグマの問題は人権問題であると感じました。それが、私が国際連合へ働きかけることにした理由でした。

私がジュネーブの国連人権高等弁務官事務所を初めて訪ねたのは2003年のことでした。そこで私が言われたことは、ハンセン病の問題についてそれまで誰も訴えてこなかったため、ハンセン病の差別の問題は人権問題として認識されていないということでした。

なぜそのようになってしまったのか、想像するのは難しくありませんでした――ハンセン病から治癒した人たちは、声をあげ、自らの人権を主張することをためらっていました。彼らは差別を恐れていたのです。彼らの多くは、自分たちに人権があることすら考えていなかったのかもしれません。ハンセン病から治癒したある人は、私にこう質問しました。

「本当に私たちに人権などあるのですか?」

私は、彼らの苦しみにこれ以上目をつむることはできませんでした。そして、このハンセン病の差別の問題を提起する必要があると思いました。

その後、この問題に注意を向けてもらうために、私はジュネーブを何度も訪れ、会議やポスターセッションなどを開催しました。この問題に対し、注目を集めようとしましたが、ことは簡単には運びませんでした。

しかし、私が人権委員会の小委員会で鮮明に覚えている瞬間があります。それは、私がハンセン病の回復者の人たち5人と会議に出席していたときのことでした。会議場で話をする機会に、私は自分が簡単に話した後、彼らのうちの一人の女性にマイクを譲ることにしました。インドから来た女性でした。

彼女は立ち上がり、「私はハンセン病でした」と言いました。

それまで、話半分に聞いていた会場中の人がその瞬間に振り向き、発言した彼女の顔を見ました。

その瞬間は、今でも忘れられない瞬間です。

そしてその瞬間は、私にとって、ハンセン病の差別の問題を人権問題として国連が初めて認識した瞬間だったように思います。

私の最初の国連訪問から7年、2010年にニューヨークの国連総会で、ハンセン病の患者と回復者、そしてその家族に対する差別撤廃の決議が採択されました。現在、加盟各国がこの決議の内容を実行に移そうと進めてくださっています。

社会的なアプローチを進める上で、私は、ハンセン病の差別やスティグマの問題をなくすには、当事者を巻き込むことが不可欠だと考えています。彼らに声をあげてもらうよう働きかけ、彼らの声を聞いてもらうことが重要なのだと思います。私が彼らの声を代弁することはできても、彼ら自身の声よりも説得力を持つことはないのだということに、私は経験を通じて気づきました。

ソフィアの後、私はバチカン市国でローマ教皇庁と共に、異なる宗教家、NGO、政府高官などとハンセン病回復者の包括的なケアと尊厳を考えるシンポジウムに参加する予定です。そのような時には必ず、回復者の声が直接、聴衆に届くよう、彼らを招待し、ご出席いただいています。

このような私の活動に対し、「ハンセン病は過去の問題ではないか、今さら取り組む必要はないのではないか」という人がいます。しかし私は、ハンセン病を考えることは、今まさに私たちがすべきことではないかと考えています。それは、ハンセン病を考えることが人間を考えることにつながるからです。ハンセン病の歴史は世界中で忘れ去られ、消されようとしている「負の歴史」として語られることが多いです。

しかし、ハンセン病の歴史は同時に、患者や回復者の方々が過酷な状況に置かれながらも、差別を乗り越えて生きてゆく、生命の輝きの歴史でもあります。名前を失い、故郷を失い、家族、友人をも失い、社会との関わりを断たれながらも、一人の人間として、生きようとしてきたその軌跡は、人間の強さと寛容さを私たちに教えてくれる、かけがえのない歴史でもあります。

だからこそ、ハンセン病を患った人たちの経験や記録を次世代に引き継ぐことで、人類がこの経験を忘れないようにしていくことが重要ではないでしょうか。彼らの声を次世代に届けていくこと。このことも、私の重要な仕事だと思い、ハンセン病の歴史保存の取り組みも進めています。

本日、この名誉ある学位をいただいたことで、皆さまより私のこれからの活動を後押ししていただけた想いがし、とても心強く感じております。

ありがとうございました。
「子どもの貧困対策プロジェクト」―全国100カ所50億円投下― [2016年06月10日(Fri)]
「子どもの貧困対策プロジェクト」
―全国100カ所50億円投下―


日本財団は、株式会社ベネッセホールディングス(以下、ベネッセ)をはじめとする各分野の第一人者とともに、子どもの貧困問題の有効な解決策を実証する「子どもの貧困対策プロジェクト」を開始し、その第一号拠点を埼玉県戸田市に開設することとなりました。

わが国の子どもの貧困率は、1980年代から一貫して上昇傾向にあり、今日では6人に1人の子どもが貧困状態にあるといわれております。こうした世帯で育つ子どもは、医療や食事、学習、進学等の面で極めて不利な状況に置かれ、将来も貧困から抜け出せない傾向があり、子どもの貧困問題への対応は喫緊の課題となっています。

日本財団は、特別養子縁組支援や児童養護施設出身者への奨学金設置、障害児への学習支援など、様々な「生きにくさ」を抱える子どもへの豊富な支援実績がございます。子どもの貧困問題については、この対策を新たな重点支援分野として掲げ、各分野の第一人者で構成するプロジェクトチームの立上げを進めてまいりました。昨年より、子どもの教育・生活分野で長年の実績と豊富な知見を有するベネッセを中心に、本プロジェクトチームでは子どもの貧困問題の有効な解決策の検討と具体化に取り組み、埼玉県戸田市にその第一号拠点を設置する運びとなりました。第一号拠点で、本事業の有効性を検証し、全国への展開を目指します。

以下、記者会見での私の挨拶です。

****************


2016年5月23日(月)
於:日本財団ビル2階


握手.JPG
ベネッセホールディングスの福原さんと


皆様ご承知のように、日本財団ではパラリンピックサポートセンターをはじめ、あらゆる分野の障がいを持った人たちへの支援を行っています。また、今は熊本の被災地でも懸命に努力していますが、災害救援活動や高齢者の支援は50年以上に亘ってやってきた組織です。しかし昨今、子どもの貧困問題についての報道が数多く取り上げられるようになりました。

子どもの貧困の状態は以前よりひどくなってきています。日本財団の調査によりますと、貧困を放置した時の経済的損失は一学年で2兆9千億円にもなります。障がいを持った子どもの問題に関しては以前から取り組んで参りましたが、「子どもの貧困問題」の解決というのは、まさしく国民的な関心事です。

極端な例を申し上げるのは如何かとは思いますが、日本財団の職員が面談をした折、将来何になりたいかということを聞いた時「うちは生活保護でお父さんも生きてきたから、僕も生活保護でいくんだよ」という答えが2、3あったと聞き、愕然としました。夢も希望も持てないで、その日暮らしの子どもたちが多数存在しているという非常に深刻な状況を改めて痛感し、これをどう解決するかを考えました。

私も長い人生を歩んで参りまして、子どもの頃を思い起こしました。私の場合ですが、学校が終わって帰り、お米屋さんや畳屋さんの前に行けば必ず中学1年生くらいから幼稚園の子どもたちが集まって遊びに耽っていました。生傷が絶えませんでしたが、足に擦り傷を作ると隣のおばさんが赤チンキを持ってきてすぐ塗ってくれたり、オキシドールを塗られて泡が吹いて痛いのを我慢した記憶もございます。遊んでいる子どもたちがちょっと遅くなると「早くおうちに帰りなさい」と近所のおばさんに叱られ、翌日にはまた集まって遊ぶという幼少期を過ごしました。

経済が成長し、非常に多様化した社会の中で、それぞれの家庭も個人も細分化をされてしまい、子どもたちにとっては今や学校と自宅、この2つにしか居場所がない時代になってきているのです。そういう意味でも第3の居場所を作る必要があるのではないかと思います。

第3の居場所というのはどういうところかと申しますと、コミュニティの中心になるような施設、居場所です。勉強を教えてもらったり、大学生のお兄さんたちとキャッチボールや縄跳びをしたり、鉄棒なども設置してちょっとした運動をしたり、「あそこに行けば仲間がいる」「お兄さんがいる」「話ができる」場所なのです。

もう少し夢を語らせて頂くと、今は老人も居場所がないのです。家庭の中に一日中いますと、奥様から大変なクレームが出るそうです。元気なご老人であれば、その第3の居場所に来て頂き、子どもたちに将棋や囲碁を教えたり昔話を聞かせてほしい。また、お母さんが夜働いていて食事が出来ないようなお子さんには食事も提供したいと考えています。近所の方々が食べ物などの届け物もしてくれるような、そしていただいた物に対して「ありがとう」という言葉が素直に言えるようになるといいですね。食事を通じて礼儀作法を覚えることもできるでしょうし、何よりも勉強もきちんとそこで教えてもらい宿題もできる。このような第3の居場所を作るというのが今回の「子どもサポートプロジェクト」といわれるものでございます。

昨年10月には政府そして経済界、メディアあるいは支援団体などからなる発起人が集まって「子どもの未来応援国民運動」という名の下に華々しくスタートしましたが、残念ながら未だに機能していません。政府もこの問題については深刻に受け止めていますが、依然動きはにぶいのです。

決して政府を批判する訳ではありません。大きい組織なので動き出すまでに時間がかかりますが、動き出せば大きく動いてくれると思っています。しかしその一方で、成熟した社会の中でそれぞれのニーズが多様化してきている今、民間の働きというものが行政でも大変重要視されるようになってきました。

そのような状況を踏まえ、我々はまず50億円の資金を使って全国100ヶ所の拠点を早急に作り上げることに致しました。それぞれの地方の特色を活かし、運営して下さる皆様の方針、方法論も取り入れて、画一的ではなく、地域にあった子どもサポートプロジェクトを作りたいと思っています。

この事業の共通のテーマは「未来の日本国を担う、そして世界に羽ばたく日本人を作る」ということです。そのチャンスを貧しくて生活が困難な家庭のお子さんたちにも平等に与える。これが国の基本であるべき姿だと考え、まずは民間レベルでスタートすることにいたしました。長い間、ベネッセホールディングスの福島さんとも話し合いを重ね、非常に専門的な幅広い知見をお持ちの福島様より「社としても大いに協力をしましょう」という大変力強いご協力を頂けることになりました。

この他に、今日は埼玉県戸田市の神保市長、特定非営利活動法人Learning for Allの李代表理事、そして慶應義塾大学 中室准教授もお見えになっています。我々の理想には十分には叶いませんが、神保市長が大変熱心でいらっしゃいますので、一号店は戸田市にお願いすることに致しました。神保市長自ら音頭を取って開所する場所も決まっていて、恐らく10月頃には完成すると思います。戸田市を拠点第一号として全国に呼び掛けてやっていきたいと考えております。

「子どもサポートプロジェクト」全国100ヶ所、50億円という資金を投入して、今申し上げたような子どもの居場所を作ると同時に、子どもに学校と家庭以外のところで様々なことを学ぶ機会を与え、そこで得た知識によって自分の将来を考え、自分がどういうことに向いているのだろうかということを探し当てることが、教育上大変重要なことだと思っております。

もう少しお話をさせて頂きますと、最近の若い皆様は一生懸命受験勉強をして希望の大学に入った後1割から2割は上級職を目指し、あるいは弁護士、会計士、建築家を目指して勉学に励まれる方がいらっしゃいますが、受験勉強から解放され2年間は遊んで過ごす人が大半で、3年生になってさぁ就職だ、どこに就職したらいいのだろうと迷ってしまいます。本来ならば子どもの時にその子の特徴が何であるかを見つけ出してあげて、「あなたは手が器用だから将来大工さんが向いていますよ」とか「君は非常に精密な絵を描けるのだから建築家になった方がいいのではないか」というような将来の道を探してあげるのも大変重要なことだと思うのです。

私はハンセン病の制圧活動で世界中を回っておりますが、途上国の子どもたちに「将来何になりたい?」と聞くと全員が手を上げます。そして、必ずお医者さん、看護婦さん、学校の先生と答えます。「どうして?」と聞くと「お父さんやお母さんを幸せにしたい」と、どんな山奥の子どもでも答えますが、日本でそういう声を聞く機会が非常に少なくなってきているということは誠に残念なことです。

まだ遅くはありませんし、やらなければならない仕事だと私たちは肝に銘じ、これから試行錯誤しながら只今申し上げた諸問題の解決のために活動を開始することを今日発表させて頂きました。ベネッセホールディングスの福原さんは100%我々の考えに同意をして下さいまして、一番大事な部分についてご協力を頂きました。

ありがとうございました。
| 次へ