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日本財団会長 笹川陽平ブログ

写真:ハンセン病の現場から「アフリカ・ピグミー族」

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「ASEAN障害者芸術祭」 [2014年12月12日(Fri)]
「ASEAN障害者芸術祭」
―ミャンマーで開催―


日本財団では、さまざまな障害者が社会の中で健常者と共に分け隔てなく生活できる環境を作ることを目指して活動している。

例えば、各国のろう者への奨学金制度、手話辞書の作成、手話を言語とすることを法律化する運動、国連防災計画の中に障害者対策を追加させる活動等々、多義にわたる。

残念ながら、途上国の障害者は社会との接触が少なく自宅に閉じ籠りがちである。しかし、少数ではあるが、身体的障害を克服して素晴らしい舞台芸術を発表している方々もいる。大野修一の発案で、アセアンの障害者の芸術祭をラオス、カンボジア、ベトナムに続き、今回はミャンマーで行った。

アセアン加盟国10ヶ国から約60名、開催国ミャンマーからは約90名が参加した。ミャンマー福祉省は、この芸術祭を2014年アセアン・サミットの公式サイドイベントとして扱い、花を添えてくれた。

ASEAN各国から約60人を招聘.JPG
ASEAN各国から約60人を招聘


大会名誉総裁の安倍昭恵女史は急な選挙で出席はかなわなかったが、会は大盛況で、毎回出席している甲州ろうわ太鼓の演技には、驚きと共に大きな拍手をいただいた。

会場はほぼ満席!.JPG
会場は満席!


障害者芸術祭は今後もアセアン各国を巡回し、いずれ日本でも開催したいと考えている。

以下は日本財団主催、障害者芸術祭の趣旨説明を含む挨拶です。

********************


2014年12月3日
於:ミャンマー・ネピドー


皆さま、本日は、ASEAN障害者芸術祭にようこそお越しくださいました。ASEAN各国からお越しの芸術家の皆さまをはじめ、すべての参加者の皆さまを心より歓迎いたします。本芸術祭の名誉総裁には、安倍昭恵首相夫人にご就任いただいています。安倍夫人は障害者福祉に大変造詣が深く、この芸術祭への参加を大変楽しみにしていらっしゃいました。本日は公務により、ご出席がかなわず大変残念ですが、メッセージが届いておりますので、後ほど代読でご紹介いたします。

さて、本日は国際障害者デーです。この記念すべき重要な日に芸術祭を開催できることを大変嬉しく思います。本日、12月3日は、1992年に国連総会において、障害者の基本的な権利に対する注意を喚起するために国際障害者デーとして制定されました。これまでの歴史の中で、障害者は、高等教育を受けたり、就職をしたりするなどの機会に制限があり、十分な社会参加ができずにいました。彼らは長い間、社会から疎外されてきたため、彼ら自身もこのような状況を当然のことと思ってきました。

しかし、この困難な状況を打開しようとする障害者自身の固い決意と様々なグループによる取り組みによって、障害者が社会参加するための扉が徐々に開き始めました。日本財団は20年以上にわたり、主にアジアの様々な団体と協力し、障害者が社会参加できる機会の提供に力を入れてきました。たとえば、高等教育を受けるための奨学金、手話辞書の作成、障害者に関わる法制度の構築支援、障害者のネットワークの構築などを通じて、障害者の社会参加の促進に貢献できるよう取り組んできました。日本財団はこうした長年の支援活動を通じて、障害者の持つ可能性を実感してきました。同時に、このことを広く社会に訴えることの必要性を感じてきました。

そこで、障害者の持つ可能性やパワーを、直に感じていただきたいと考え、障害者芸術祭を開催するに至りました。昨年はじめてミャンマーで開催した芸術祭では、3日間で延べ4900人の来場者を迎え、ミャンマー国内から選ばれた障害者が舞台芸術や造形芸術を披露しました。目が不自由な芸術家、耳が不自由な太鼓演奏者、そして、車いすのダンサーがスポットライトを浴びながら、素晴らしいパフォーマンスを見せてくれました。才能と自信に満ち溢れた彼らの姿は多くの人々に感動を与えてくれました。私も彼らの演技や作品を目の当たりにし、胸が熱くなる思いがしました。

様々な演技が披露された.JPG
美しい演技が次々披露され


さて、ここで、私は「ミャンマー自立生活協会」(Myanmar Independent Living Initiative:MILI)という3人の障害者によって設立されたNGOについて紹介したいと思います。彼らは、障害者のトレーニングをはじめとする様々な活動を展開しながら、障害者自身が限界と諦めていた壁を乗り越える手助けをすることを使命と課しています。日本財団は2011年以来、MILIとともに障害者のトレーニングプログラムやリーダー養成事業などを実施してきました。昨年のミャンマーでの障害者芸術祭はMILIとミャンマー社会福祉省の多大な尽力により、成功することができました。今年の芸術祭の運営にもMILIが非常に貢献してくれています。

さて、今年も日本から「甲州ろうあ太鼓」のメンバーが駆けつけています。昨年同様、パワフルで感動的な演奏をしてくれることでしょう。

日本財団は、これまでにラオス、ベトナム、カンボジアにおいてもASEAN障害者芸術祭を開催してきました。私はこの芸術祭を通じて、ASEAN各国の障害者が自信を持ち、彼らの家族がその活躍に喜びと誇りを感じていただけることを願っています。近年、ASEAN各国が障害者の権利に関する取り組みを進めていることは大変歓迎すべきことで、今後も継続した取り組みをお願いしたいと思います。各国政府が障害者の声を反映し、障害者が社会参加できる環境を整えるための施策をつくり、社会は互いに多様性を受け入れ、インクルーシブな社会の実現を目指そうという認識が広がることを期待しています。
「ハンセン病と人権」―国際シンポジウム― [2014年12月08日(Mon)]
「ハンセン病と人権」
―国際シンポジウム―


10月26日〜11月5日までモロッコ、スペイン、ポルトガル、11月8日から14日までタイ、ミャンマー、11月17日〜25日までインド、11月28日〜30日までタイ、12月1日〜5日までミャンマーと海外出張が続き、その上、東京での短い滞在中には北極海航路国際セミナーや日本財団・国連法務部海洋法課(DOALOS)総会(50ヶ国参加)などもあり、下手な英語でスピーチをするための練習等で、誠にあわただしい毎日だった。

下記のスピーチ(原文・英語)は、多くの関係者の協力を得て2010年、国連総会で加盟193カ国、全ての賛成を得て決議された『ハンセン病患者・回復者とその家族への差別撤廃』」の決議案とその原則とガイドラインを各国政府に実行してもらうため、世界五大陸で行っている第4回目となる国際会議を、今年は中東地域のモロッコで開催した時のものです。

ちなみに第1回はブラジル、第2回はインド、第3回はエチオピアで行われ、最終回はジュネーブ(スイス)で来年開催する予定です。

モロッコでは、人権国際シンポジウムと同時に、医療面の専門家である各国のハンセン病プログラム・マネジー会議も開催しました。この時のスピーチもあわせて掲載しました。

長文になり、読者の皆さまには申し訳ないことであります。

*********************

第4回ハンセン病と人権国際シンポジウム


2014年10月28日
於:モロッコ・ラバト


28日 シンポジウム参加者たち.JPG
シンポジウム参加者


本日は各国政府、国連、NGO、その他の国際機関、人権専門家、回復者のリーダーの皆さまにお集りいただき、ありがとうございます。日頃からハンセン病制圧活動のために多大なるご尽力をくださっているモロッコ保健省の皆さま、WHO関係者の皆さまに心より感謝申し上げます。また、潘基文国連事務総長、ダライ・ラマ法王からはハンセン病を取り巻く差別の問題に対して心強いメッセージをいただき、厚く御礼申し上げます。

今回は第4回目のハンセン病と人権国際シンポジウムです。
ハンセン病は人類の歴史の中で最も誤解され、差別を受けてきた病気のひとつとして知られています。何世紀にもわたり、世界各地で、ハンセン病患者・回復者は故郷を追われ、人里離れた村や島に隔離されていました。そして、その差別はハンセン病患者・回復者本人だけではなく彼らの家族にまで及びました。

1980年代になると、多剤併用療法(Multidrug therapy:MDT)という有効な治療法が開発され、1990年代後半からは、世界中どこでも無料で薬が手に入るようになり、多くの人々が病気から解放されました。また、早期発見・早期治療が的確に行われれば、障害が出る前に病気を治すことができるようになりました。このように医療面では突破口が見つかったにも関わらず、長い間、ハンセン病患者・回復者を苦しめているスティグマや差別は残ったままです。

私は40年以上にわたり、ハンセン病制圧活動で世界各地に足を運ぶ中で、多くのハンセン病患者・回復者に出会いました。社会のひどい差別を恐れてコロニーを離れることを拒む人々。ハンセン病を患っているということが明らかになってしまったことで、仕事を失ったり、離婚を余儀なくされてしまった人々。差別に苦しむ人々の人生はどれ一つとして同じものはありません。しかし、彼らの過酷な苦しみは世界各国に共通する深刻な問題です。

私はこうした社会の不正と闘わないわけにはいかないと強く感じました。そこで2003年、私はハンセン病を取り巻く人権問題について、国連人権高等弁務官事務所に訴える決意をしたのです。各国政府やNGO、関係者の皆さまの粘り強く、誠意あるご協力により、7年の歳月を経て、2010年12月、「ハンセン病差別撤廃決議」が国連総会の総意をもって採択されました。この国連決議は、ハンセン病との闘いにおいて非常に大きな一歩でした。国際社会はこの時はじめて、ハンセン病患者・回復者の見過ごされてきた人権問題や彼らに対するスティグマや差別をなくすことの重要性について認識したのです。さらに重要なことは、この国連決議により、ハンセン病患者・回復者が他の人々と同様に自分にも基本的な人権があることを自覚できたことでした。

本決議は、各国政府等に対し、「ハンセン病差別撤廃決議」と原則及びガイドラインに十分な考慮を払うことを求めています。原則はハンセン病患者・回復者が病気を理由に差別されることなく、人としての尊厳と基本的人権・自由を有することを謳っています。そして、ガイドラインは各国の取り組むべき具体的な指針を示しています。例えば、差別的な法律や制度の撤廃や出版物から差別的な表現を取り除くことなどです。

しかし、国連決議には法的拘束力がありません。国連決議と原則及びガイドラインは、実際に社会の中で適用されなければ何の意味も持たないのです。つまり、現状は何も変わらず、ハンセン病患者・回復者に対するスティグマや差別はそのまま残り、彼らは厳しい差別に苦しみ続けることになってしまうのです。

そこで、私は国連決議と原則及びガイドラインを各国政府、政策立案者やその他の関係者に広く浸透させ、社会の中で確実に適用されることを目的に、世界の5つの地域において「ハンセン病と人権国際シンポジウム」を開催するに至りました。すでにブラジル、インド、エチオピアにおいてシンポジウムを開催しました。ブラジル会議の後、国際ワーキンググループが発足し、各国で原則及びガイドラインを実行してもらうための具体的な行動計画を練っているところです。

ハンセン病患者・回復者を取り巻く多くの問題は、社会のハンセン病に対する誤解や無知に起因しています。ここ、中東地域においても、ハンセン病は未だに恐怖の対象となっています。ハンセン病は感染率の高い病気であるから、彼らを排除しなければならないという誤った認識をしている人もいます。

では、どのようにすれば、差別のない社会をつくることができるのでしょうか。原則及びガイドラインにも明記されていますが、ハンセン病患者・回復者やその家族の人権や尊厳を尊重するためには、各国政府がNGO、市民社会、メディア、ビジネスセクターなど様々なステークホルダーとの連携を通じて、政策立案や行動計画の作成に取り組み、社会の認識を変えていくことが不可欠です。先ほど申し上げたように、現在、国際ワーキンググループがこのモデルとなり得る行動計画を策定中です。この地域においては特に、女性の役割と歴史保存をより重要な課題と捉え、この後のセッションで取り上げます。こうしたことについて、モロッコ政府がコミットメントをくだされば、今までにないような大きな一歩を踏み出せることでしょう。

スピーチ風景.JPG


このシンポジウムで闊達な議論がなされることで、中東地域における具体的な取り組みがはじまる契機となることを願っています。

*********************

ハンセン病プログラム・マネージャー会議


2014年10月29日
於:モロッコ・ラバト


各国保健省プログラム・マネージャーの皆さま、WHO関係者の皆さま、そして、ハンセン病問題に取り組む関係者の皆さまのご尽力にあらためて感謝申し上げます。

私は40年以上にわたり、ハンセン病制圧活動に取り組んでまいりましたが、ここ20年の公衆衛生上のハンセン病制圧における世界的な改善には目を見張るものがあります。WHOが1991年に「患者登録数が人口1万人当たり1人未満となること」という明確な目標を掲げて以来、各国は、目標達成のために綿密な計画を立て、これに沿って関係者の力を結集し、ハンセン病の制圧に向けて尽力されました。

言うまでもなく、ここWHO東地中海地域事務所(EMRO)もハンセン病制圧に向けて多大な貢献をしてくださいました。モロッコでは、1980年以降、ハンセン病患者は指定病院ではなく、地元の診療所で治療を受けられるようになり、また、新規患者発見のための家庭訪問が実施されるようになったと聞いています。患者を減らすだけではなく、早期発見・早期治療のための様々な新規プログラムを政策の中に組み込んでくださっているモロッコ保健省の皆さまに感謝申し上げます。また、ハンセン病患者・回復者に寄り添って活動をしてくださっているプログラム・マネージャーの皆さまに御礼申し上げます。

このような成功例は、ハンセン病と闘うすべての国においても多くあることと思います。こうした努力の結果、ハンセン病の制圧は、世界各国で劇的に進展しました。そして今、ハンセン病未制圧国はブラジルを残すのみとなりました。

しかし、目標に向かって懸命に努力をしていた国でさえ、一度、制圧目標を達成してしまうと関係者の意識が低下してしまうことが往々にしてあります。また、ハンセン病に関する予算や人材が減らされ、他の疾病に比べて相対的にハンセン病の優先順位が低下してしまいます。私はこのような状況にならざるを得ないことも理解しております。しかし、そのことにより、関係者がハンセン病との闘いの本質的な意義も低下してしまったと誤解されることを懸念しています。
ハンセン病患者・回復者は病気との苦しい闘いだけではなく、差別という精神的な苦しみを抱えているため、今後も新規患者を早期発見・早期治療をしていくことが重要だと考えています。ハンセン病制圧活動の主な目的は、感染の予防、患者の発見及び治療、障害の予防だけではなく、差別との闘いという重要な目的があります。

ご存知の通り、ハンセン病は様々な複雑な問題が絡み合っています。多くの国々で、ハンセン病患者・回復者は病気だけではなく、スティグマや差別に苦しんでいます。私は、長年にわたるハンセン病制圧活動を通じて、声をあげることでさらなる差別を受けることを恐れ、沈黙をしたまま、治療を受けることさえできずにいる多くの患者を目の当たりにしてきました。スティグマや差別をなくす多大な努力がされてきたにも関わらず、未だに世界中で多くの人々が一度ハンセン病に罹ると、社会的にも経済的にもコミュニティから孤立をしています。

新規患者の早期発見・早期治療が的確に行われることで、差別を受ける人々の数は減ってきましたが、スティグマが完全になくなるにはまだ時間がかかるでしょう。

プログラム・マネージャーの皆さまは、ハンセン病を取り巻く医療面と社会面の双方の問題の解決に多大な貢献をしてくださっています。皆さまのこれまでのご尽力に敬意を表しますとともに、引き続き、固い決意をもって活動を続けてくださることを期待しています。

私たちは、今、共通の目標を達成するために一人ひとりの責任を再確認するために、ここに集まりました。皆さまの努力と熱意をもって、ハンセン病とそれに伴う差別という苦しみが軽減されていくことを心から願っています。


「脚光を浴びる北極海航路」―国際セミナー― [2014年12月05日(Fri)]
「脚光を浴びる北極海航路」
―国際セミナー―


北極海航路の開発が脚光を浴びている。地球温暖化により急速に北極海の氷が解け始め、不可能とされていた船舶の航行が可能なってきたからである。

1990年、ノルウェーの外務大臣が日本財団においでになり、チャレンジングな北極海の夢の航路開発を共同研究しようと提案され、私は即座に了解した。

研究は私が委員長として、ノルウェー、ロシア、日本の科学者や専門家によって10年間にわたり続けられ、横浜からロシアのムルマンスク港までの実証実験も行った。

当時は北極海の氷海域が今日のように大幅に縮小するとは考えられないことであった。しかし、今や現実なものとなった。

日本の関係者にその実情を理解してほしいと考え、国際セミナーを開催した。

以下はその時のスピーチの要約です。

―北極海航路の利活用に向けた国際セミナーin 東京―


2014年11月7日
於:ホテルオークラ


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海洋政策研究財団と日本財団の共催による北極海航路の利活用に関する国際セミナーは今年で2回目となります。今回もロシア、ノルウェー、デンマーク、韓国、中国の北極海航路に関する専門家及び海事産業関係者の皆様に多数お集まり頂きました。日本政府の菅沼健一北極担当大使、そして駐日ノルウェー王国大使館臨時代理大使ビョーン・ミットゥン氏にもご列席頂きました。これほど多くの方が御参加くださるということは、会議を主催する者にとりましてこの上ない喜びでございます。

また、北極海に対する関心がこれほど高いということも、日本にとってありがたいことです。先程司会者から紹介がございました通り、1990年代の初め、当時のノルウェーの外務大臣が突然、私の事務所を訪問され、北極海航路の可能性についてお互いに勉強しないかというお話をいただきました。ご承知のように、ノルウェーは北極や南極等の極地研究について世界最高水準の専門的知見を有する国でございます。私はすぐに「チャレンジする事は良いことだからやりましょう」とお応えしました。その後、ロシアの専門機関も参加し、本日お見えで、当時北海道大学の教授であられた北川先生が中心となって約10年間にわたり北極海航路の研究を行いました。

その研究の結果、北極海航路を商業利用することは技術的には可能であるとの結論を出しました。実際に横浜からムルマンスクまで船舶を航行させた経験もございまして、大変うまくいきました。当時、ノルウェーのオスロでまとめの会議を開催したのですが、一番多く参加されたのがスエズ運河の関係者だったことに驚きました。彼らからすると商売敵が出てきたという認識のようでしたが、「これは先の話で、可能性について研究しただけです」と慰めたことを覚えておりますが、こんなに早く北極海航路の本格利用というものが現実味を帯びてくるとは想像もしていませんでした。その後国際社会は、ロシアを中心にしまして大きく北極海の活用という方向に舵が取られてきております。

我々は北極海航路という新たな海の恩恵に預かろうとしているわけでございますが、それにはやはり相応の責任と貢献を果たしていかなければなりません。この件につきましては様々な国際会議等で問題提起されてきましたが、北極海という特殊性のためか効果的な対策が進んでいるとはいえない状況にあるのではないでしょうか。

そこで私は、昨年のこのシンポジウムでも申し上げましたが、日本財団並びに海洋政策研究財団は3つの分野で協力あるいは参加していきたいと表明いたしました。

1つ目は、商業利用の促進として、この利活用に関するセミナー等を開催することです。北極海航路の両端、つまりヨーロッパとアジアの海事関係者や企業が、今まで北極海航路の商業利用について話し合う場がございませんでしたので、そういう機会をぜひ作りたいという思いがございます。今年もロシア、ノルウェー、デンマークからキーパソンの方がお見えになっておりますので、コーヒーブレイクの時、あるいはレセプション等で幅広く意見交換をしていただければ、我々主催者としては1つ目的を達成したことになるのではないかと思っております。

2つ目は、北極海の総合的海洋管理を推進するために、海洋政策研究財団と共に包括的なガバナンス体制の構築を目指した調査研究を行います。ご存知の通り、海洋管理という点については、北極は南極と大きく異なります。北極には資源開発や環境保護等の様々な利害調整の枠組みがいまだ存在しておりません。さらに北極沿岸国が有する領域主権や管轄権の存在を前提に議論を進めなければいけないという難しい状況にあります。ですから、日本財団や海洋政策研究財団のような民間組織が、主導できる分野においては積極的に主導し、その打開策を図っていくべきだと考えています。

3つ目の支援でございますが、北極海という閉ざされた海に対する科学的調査をしっかり行うことが非常に重要だと考えております。万が一でも環境汚染につながる事故が発生すれば、北極海の生態系に与える影響は計り知れないものになるでしょう。そういう意味でも、国際共同研究用観測船を保有し、研究を積み重ねることで科学的知見を蓄積する仕組みが必要ではないかと考えております。日本は北極評議会のオブザーバー国であるわけですから、各国の研究者が活用できるような国際研究のプラットフォームとして、日本の役割として、観測船を建造する必要があるのではないかと考えております。この点については然るべき提言を日本政府に行い、ぜひ実現していきたいという熱い希望を持っております。

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世界の新たな大動脈となりうる北極海を航行ルートとして利活用していくことは勿論ですが、海洋管理や科学調査という面においても、我々は責任と貢献を果たしていかなければなりません。科学的調査の実施、管理体制の構築、そして利用の促進、この3つの分野を有機的に繋ぐことが北極海航路という海の国際公共財を適切かつ持続的に利用するために必要であると考えておりますので、この分野において、日本財団並びに海洋政策研究財団は引き続き協力してまいりたいと願っております。

既に多くの船舶が北極海航路を航海しておりますし、それぞれの国が専門的な知見を有しているかと思いますが、日本は若干の遅れをとっていることは否めません。しかし、1990年の初めに日本が既にノルウェーやロシアと協力して北極海の開発に挑戦したという実績があり、その際の報告書が日本語やロシア語で発表されていますので、今一度それをご覧いただきたと思います。

皆様には本日のシンポジウムを通じてさらに深い理解をいただきたいと思います。また、海外からお見えの皆様との意見交換を通じ、日本がさらに北極海の国際的な開発へ貢献できればと願っております。

どうぞ豊かな議論が行われ、多くの方々との交流の場になることを願って開会の挨拶とさせていただきます。
「笹川記念保健協力財団設立40周年記念講演」―40年のいくつかのエピソード― [2014年11月26日(Wed)]
「笹川記念保健協力財団設立40周年記念講演」
―40年のいくつかのエピソード―


2014年10月17日
於:日本財団・大会議室


講演.JPG


笹川記念保健協力財団と日本財団は混然一体として仕事をやってまいりましたので、どちらがどうということではございませんが、先ほど紀伊國先生がお話しされましたように、この組織には人格的にも専門分野においても本当に優れた方々が集まって下さった。そういう方々のご協力をいただいて仕事がなし得たということで、組織というものも立場ということも重要ではございますが、大事な仕事をなし得る時というのは、最終的にはやっぱり人間と人間の交わりで、そこに本当の信頼関係が確立されているかどうかということで決まっていくのではないかと思っております。

今日お見えのほとんどの方々はご指導ご協力をいただい方々ばかりですので非常に話しにくいのですが、今日は特別の機会でございますので喜んでつたない話をさせて頂きます。私には時系列的にきちっとお話ができる才能がございませんが、皆さま方がご存じないようなエピソードをお話することによって、財団の40年をご理解いただければと思います。

私は単にこの笹川記念保健協力財団が40年を経過したという意味よりも、40年間でなし得たことの内容の深さ、そして拡がりというものを評価すべきではなかろうかと思いますので、そういう中でいくつかの話をさせていただきたいと思います。

中国が経済的に大変困難な時期、今の経済成長が始まっていない天安門事件の前から、中国のお医者さんを日本に連れてきて教育しようということを決めたわけで、先ほど初代理事長・館守三先生のお話がありましたが、最初は7人位から始めようということでございましたが、100人ぐらいで行わなければ白髪三千丈の国とは対等に交わりができないのではないかと考え、その時私は2つの事をお願いしました。

一つは、優秀な学生は北京、上海に偏っていました。そうではなく、中国全土から派遣していただきたい。また、あらゆる医学の分野から派遣していただきたいとお願いしましたが、これには2つの問題がありました。

一つは、どうしてもチベットから人が選ばれないんです。それは日本語のレベル、あるいは医学のレベルが低く、チベットだけがどうしても残ってしまったのですが、やっとまあまあの方が1人選ばれました。ところがなかなか引き受け手がいらっしゃらない。しかし、信州大学が、外科の方でございますけれども、受け入れて下さいました。

その方は日本に着いてから一切ご馳走を食べませんでした。チベットという厳しい場所で生活してきておりますので、1年たって国に帰った時、今の日本での食生活をやっていたら体が持たないと思うからということで、大変質素な食べ物に終始されたということを伺っております。残念ながら1年でございますから、手術を行うまでにはならず立ち合いをするという程度でしたが、帰国して1年有余たって主任教官をチベットに迎え入れて下さった時には、チベットではもうすでに名医の誉れ高い外科医として、1日20人ぐらい手術をしていたそうですから、やっぱり数をやると腕が上がるんだなと、私は素人なりに思ったわけでございます。

また私は看護師を呼びたいと思っておましたが、こちらも実現には7年かかりました。中国では、天安門事件前までは病院内での看護師の立場はきわめて低く、7年もかかってしまったわけです。当時、日本の看護師会の高橋さんという看護師さんが、もう亡くなられましたけれども、情熱を持って担当してくださいまして、今や、中国には立派な看護師協会が出来るまでになりました。

現在までに来日した中国人医師は2,200人を超えました。ありがたいことに、日中医学協会の献身的なご努力もあり、北は北海道の札幌医大から南は沖縄まで、全ての医科大学、そして国立研究所が受け入れてくださり、立派な教育だけでなく、日本の地方文化の理解への努力もして下さいました。私たちも、受け入れていただくためにはしっかりとした日本語教育が必要だと考え、長春医科大学で10カ月の日本語教育ならびに日本での生活というものがきちっとできる常識まで教えたわけでございます。当時中国はまだ国際的には孤立しておりましたから、海外留学の窓口はほんのわずかでしたので、医学分野の優秀な方々がほとんど全員日本に来てくれました。

今、中国の医学界の中堅より上は、ほとんど笹川奨学生といわれる方々です。当初、日本に着いた時は全員人民服でございました。しかしある時、私が中国を訪問して卒業生と食事をし、遅くなりましたので私の乗って来たマイクロバスで送ろうと思いましたら、全員自家用車を持っていましたので驚いてしまいました。(笑)

時代の変化というものを肌で感じたわけですが、日本の各医科大学はどこも受け入れを拒否することもなく、先ほど名前が出ました日中医学協会の阿部さんは『中国人医師の母』と言われるぐらい、お一人お一人に電話をし、主任教官とうまく行っているかどうか、研究テーマがうまく行っているかどうかと、細かい配慮をしてくださいました。単にお金を出して奨学生を呼ぶというだけのことならばどこでもできることでございますけれども、このような配慮が大変重要なことで、今も、この日中医学協会の先生方には中国に行っていただき、同窓会の皆さんを激励し、シンポジウムを開き、彼らのネットワークをきちっと作っていただいています。SARSが発生した時にも、第一線で活躍したのはほとんど笹川奨学生であったということで、本当に素晴らしい仕事をしていただいたと感謝しております。

当時、中国の留学生は、海外に出ますとほとんどが国に帰らなかったのです。経済発展した今では帰るようになりましたが、笹川奨学生は、天安門事件の時に3人の方がアメリカに脱出した以外は全員国に戻ったということで、中国政府にとりましても大変大きな力になってくれたと高く評価されています。財団、そして日中医学協会には、歴史に残る大きな仕事をしていただいたと思っております。

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チェルノブイリの原発事故の時には、私が直接ゴルバチョフ大統領から「何とか助けてほしい」との依頼を受けました。ちょうど5年が経過した頃でございましたが、ご承知のとおり、日露関係、当時は日ソ関係は断絶状態でございました。政経一致政策というのは日本の外交政策でございまして、経済と政治は一体で、北方領土の問題が解決しない、日ソ平和条約が調印されない以上、あらゆる交流はしないということでございました。唯一漁業の協定のみをやるという段階での依頼でございまして、これを大規模に取り組もうとした時には、やはり日本政府から私の所に注文が入りました。「日ソ関係は政経一致政策を取っている中で、財団がそのような大規模な支援活動をするのはいかがなものか」ということでございました。今までどこにも話したことはないのですが、私は私の一存で「人道支援には国境も無ければルールも無い。人道支援をすることについて異論があるならば公開討論をいたしましょう」と言いましたら、そこでけりがついたわけでございます。

その後の日本政府の対応は良くありませんで、我々のこのチェルノブイリの協力を窓口にして、実は政経一致政策を放棄してしまったのです。そしてロシアに良い所だけ経済援助で取られてしまって、肝心の平和条約も北方四島も返ってこないという間違った方向に行ったのは誠に残念なことでございます。

チェルノブイリの支援に関しては、重松先生、そして今日おいで下さった長瀧先生の大変なご努力で、長崎、広島で使っている機器よりもっと最新のものを作ろうじゃないか。日本の最新鋭の技術を駆使した医療機械でなければいけないということで、特に長瀧先生の甲状腺の器械は、私は正直言って高価で夜も寝られない時があったのを今白状いたしますが、素晴らしい機械ができました。

緊急を要する仕事ですので、ゴルバチョフ大統領が来日の際に飛行機を持って来てほしいと依頼しました。そうしましたら、ロシアにはアントノフという戦車も運べるような世界最大の軍用機があるんですね。先般の東日本大震災で、日本財団はメルセデスベンツ社から特殊車両をたくさん頂きましたが、それを運んだのはやはりアントノフでございました。しかし、この飛行機が成田空港に入るのが大問題でございまして、成田の飛行場の管理は国土交通省でございますが、民間飛行場に軍用機が降りた例がないから駄目だと言うんですね。例がないなら作ったらいいじゃないですかって言ったんですけれども、これがまあ、押したり引いたりの騒動でございましたけれども、結果的には受け入れていただきました。診療車5台に医薬品を詰めて運びました。その後は、これもあまり表には出ていませんが、アエロフロート、ソ連の国営の航空会社が数十回にわたって無料で運んでくれました。これには財団の槇女史を中心に、大変な努力をしていただきました。槇さん、60数回行かれましたかね、チェルノブイリには? 結局、10年間のチェルノブイリの費用は40億円を超えてしまいました。

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最新鋭の医療機械と医薬品を満載した車がアントノフに積まれ、一路ソ連(当時)へ


診療をはじめた頃は、長崎・広島の例からいって、多分、白血病と甲状腺異常だろうということで、この2つの対策を立てようということでしたが、結果的には白血病は2例か3例ぐらいしかなく、ピカドンの熱線被ばくと、低線量による長期にわたる被爆の差ということだったんでしょうか。しかしこの長瀧先生の先見の明で、当時0歳から10歳までの子どもたちの非常に詳細な甲状腺の調査というものが、その後の東日本の福島第1原発で活用されることになるわけでございます。

結論を言えば、車の走行距離は地球を90周回ったほど走りまわり、村々を回って精密なデータを集めていただき、その時多分、私の推測で延べ400人近いソ連の人たちを日本で教育していただきました。しかしその当時は旧ソ連でございまして、途中で国が3つに分かれ、このウクライナとロシアが大変仲が悪くて再契約をするについて調印するのを拒否するというんですね。ロシア、ウクライナ、ベラルーシ3カ国と我々との契約なんですけれども、同じテーブルに着きたくないという強硬なウクライナの発言があって困ったんですけれども、結果的には財団とロシア、そして財団とウクライナ、そしてベラルーシという、個別の契約によって再度動き出すという形になったわけでございます。

その時現場で中心になってくれた方が、今、放射線の世界で第一級の人たちになっているわけです。その中心が山下俊一先生。まだ当時は若うございましたけれども、現地で活躍してくださいました。その後、福島原発事故が起こって日本政府が全然対応がないものですから我々が動こうということで、3.11から6カ月後に国際放射線、放射線と健康リスクについての国際会議を福島に乗り込んでこれを行ったわけでございます。

当時の新聞をひも解いてみますと、非常にセンセーショナルな記事がほとんどで、今思うと驚くような記事が多いというか、専門的知見もない科学者と言われる方々が住民を恐怖のどん底に陥れるような論評を書いておりまして、あの時の科学者、あるいは医学者というのは今どうしていらっしゃるのでしょうか。非常に残念なことでした。

山下先生には本当にご苦労をおかけしました。当時は先生の人格を傷付けるような発言が徹底してなされていまして、私も電話したりして一生懸命支えようとしたのですが、WHOで働いた経験もあり、国際経験も豊かな先生のお考えは微動だにせず、「私はきちっと仕事をしますから、笹川さんご心配なく」と言っていただきました。強靭な精神力で福島に乗り込んで仕事をされ、今や福島で尊敬される第一人者になっておられるというのは大変うれしい事ではございますが、その間の心の葛藤というものは相当なものであったろう推察するわけでございます。

そういうことで、我々はさまざまな仕事を一緒にやってまいりましたが、ハンセン病につきましては、先ほど紀伊國先生からお話がありましたが、多くの先人の後を継いで、私は少しお手伝いをしているというか、素人の観点からちょっと違った戦略と戦術というのを立てたに過ぎないわけで、全ては先ほどご紹介いただきました笹川記念保健協力財団にご協力いただいた40名の方々から頂いた知識であり経験であり、助言をどのように生かしてきたかというだけのことでございます。

ただ旧約聖書の昔からある古い病気ではございますが、医学的には薬も開発され無料で配布されているわけですから、けりをつけなければいけないと思うんですが、その中に人間の心の問題である偏見や差別という問題が複雑に絡み合ってきているわけでございます。

私はダライ・ラマ師とお話しした時「インドからハンセン病の乞食をゼロにするための闘いをやりたい」と話しましたら、彼は「そんなことは出来るわけがない」と断言されました。しかし、出来るか出来ないかはやってみないと分からない話で、やはり第一歩を踏み出すということが大切だと思っております。

お陰さまで、この春にはダライ・ラマ師が私と一緒にハンセン病の回復者の村に行ってくださり、今後の著作権による印税を、私どもの財団に全額寄付してくださるという大変ありがたいお話にまで発展をしてきておりますけれども、まだまだ我々の闘いは緒に就いたばかりでございます。多くの皆さん方のお力を頂かないと物事は前に進まないわけでございますので、今後とも、皆様方のご指導をいただきたいと思っております。

私は今から40年前、日野原先生からオスラー博士の『平静の心』という本を頂きました。医学を志した方はほとんど読んでいるだろうと思われる素晴らしい本で、私は医者でもないのですが、好奇心が人一倍強いのでたびたび読んでおります。日野原先生も大変尊敬をなさっていらっしゃいました。世界にオスラー協会というのがあるそうでございます。

その本の中の1つが、私の現在の仕事をやる上で大変大きな力になっております。そこの所だけ引いて来ました。どういうことを言っているかといいますと、重大な危機に直面した時にどのように判断するかということで、常に沈着冷静でなければいけない。そして特に感情に動かされるような判断をしてはいけない。そして何事にも動ぜず、毅然とした態度で判断しなければいけない。そういう精神を常に持つようにするべきだということが書かれていて、これは医者のために言った言葉なんですけれども万人に通じる言葉で、私も重大な危機をたくさん経験してきましたけれども、この本があったお陰で乗り切れたと思える、私にとって大変大切な本でございます。

その中にゲーテの言葉も引用されておりまして、「もし今、私自身に優れた点があるとすれば、それは先人により与えられたものである」。要するに、私の今日あるのはこの40人の、紀伊國先生が紹介された先人の方々より与えられたものが今の私であり、これをまたどうやって次に引き継いでいくかということが大変重要であるということでございます。

もう一つ、テニスンの詩も引用されております。「私は私が出会った全ての方々の一部である」という言葉で、何をするにも先人たちとの交わりの中で得たものですから、人生は謙虚に、与えられた仕事を通じて人生を全うするということが最も大事なことではないかと思っているわけでございます。

笹川記念保健協力財団では、これから喜多新理事長の下で新しい取り組みが始まっています。我々が日野原先生と組んで予防医学を始めた頃には、血圧計すら医者以外は持ってはいけないという時代だったんです。そういう中で予防医学を実践するために、さまざまな教育的なパンフレットを日本の地方自治体に配布してまいりました。そしてまた、その中でこれからの終末医療、特に癌患者に対峙するホスピスナース養成は今も続いておりまして、すでに3,400人の方々が日本中で第一線で活躍しております。第1期生をお迎えした時には「ホスピスナースって何だ? そんなものが何の役に立つんだ」と言われ、確か24人の内ほとんどの方が働いている病院を退職して参画をして下さいました。ということは、大先生がたくさんいらっしゃるので恐縮でございますが、終末医療に対する医師の意識というのは大変低かったのです。今もまだ低いのではないかと思うのですが、このオスラーの本の中にも出てくるんですが「医師は患者を診なさい」と言っているんです。当たり前のことですね。ところが医師は病気を診ちゃうんです。今はパソコンばかりを見ていて患者さんの顔は全然見ない医師もいるということですが。(笑)

こういう世の中だからこそ看護師の役割というものが大変重要でございます。90%近い人が終末は自宅で過ごしたいという統計データも出ております。最後の看取りは病院ではなくて自宅でという方向に変えていかなければいけないわけで、喜多理事長は、在宅のための看護センターを全国に作り、出来るだけ患者さんのいる近くで看護師を中心としたチームが働けるようにしていこうと努力されています。これから起業をされる看護師は、単にお医者さんの指示に従って行動していた今までと違い、自主的に事業家として飛び立っていただこうということで、一生懸命喜多先生に教育をしていただいているところです。

日本財団では、この人たちの事務所の開設から事業費まで含め、一貫して支援していきたいと考えております。過疎地においても在宅ケアが充実して受けられるような全国的な拡がり持ったシステム構築を目指し、シェイクスピアの言葉ではありませんが「終わり良ければ全て良し」、人生の素晴らしい終わり方ができるような体制を整えていこうというのが喜多理事長の新しい意欲的なお考えでございます。私たち日本財団もご一緒に仕事をさせていただけるということは、石館先生の言葉である『光栄な義務』だと思っております。

ありがとうございました。

「第10回 アジア海上保安長官級会合」 [2014年11月17日(Mon)]
「第10回 アジア海上保安長官級会合」


今から10数年前の日本の海上保安庁は、領海内の保安警備に懸命で、海外に目を向ける余裕がなかった。

国連加盟国は現在154ヶ国であるが海は一つであり、特に日本の生命線といわれるマラッカ・シンガポール海峡の航行安全のための諸設備は、40数年にわたり日本財団が支援してきたものである。

その人脈を生かし、近隣諸国との人的交流の重要性を当時の荒井正吾海上保安庁長官(現在、奈良県知事)に説明して長官級会合の開催を進言したところ、快諾され、第1回目会合は荒井正吾長官のもとで開催された。

今回は10回目で、横浜で開催することになった。参加国は16ヶ国と1地域(香港)で、長官級(各国によって名称が異なる)の出席者は14ヶ国1地域と盛大であった。筆者にとって、日本財団が行ってきた10年間の支援・協力には感慨深いものがある。

今回の会合では、ご多忙の中、予想外の官邸訪問が実現し、安倍首相より国際法に基づく海洋秩序と安全向上の話があり、中国、韓国の代表も神妙に聞き入っていた。一枚の写真は10万語にまさる説得力があるといわれる。参加者は安倍首相との会談と記念写真で、帰国したら首相、大統領に報告できると、喜びもひとしおであった。

総理官邸での記念撮影.JPG


安倍総理挨拶.JPG


以下、開会式でのスピーチである。

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2014年9月30日
於:横浜パシフィコ


私は、みなさまがアジアの海上保安機関の連携を強化するために、アジア各国からご参集いただいたことを、心より歓迎いたします。

日本財団は、1999年、東京ではじめてアジア海賊対策実務者会議を開催しました。その会合は、アジアの海上保安機関が共通の課題である海賊に対し、協力して取り組む可能性を模索するために開催されました。そして、この会議と、それに続く一連の会議がきっかけとなり、2004年の第1回長官級会合を開催いたしました。

第1回長官級会合では、海賊という共通の課題に対し、参加国を中心に活発な議論がなされ、効果的に対処するための基本的な枠組みが提案されました。1999年からこの取り組みをサポートしてきた私たちにとって、この会合が発展し、現在ではアジアの海における協力体制の核となっていることを、たいへん誇りに思います。

長官級会合は、アジア地域の急速な経済の発展や人口の増加とともに重要性を高めました。その結果、海賊問題以外に、捜索救助、環境保全、自然災害、不法活動、人材育成などにも議論の対象を広げてきました。

近年は、長官級会合の5本の柱で以下のような議論もなされております。限りある資源を搾取する違法漁業者に対し、海上保安機関が協力して対処する必要性。海上交通や輸送量の増加によって引き起こされる海洋環境汚染に対し、地域で協力して対処する必要性。そして、大規模な津波のような自然災害への備えや対応を強化するため、海上保安機関がこれまで以上に協力する必要性です。

しかしながら、長官級会合を通して様々な取り組みがなされているにも関わらず、差し迫った課題は次々に表出しています。今後、どのような課題に直面するか容易に予想できません。しかし、一国だけでは解決できない複雑な課題が増えている現在、今後も長官級会合を通じてアジアの国々が連携する重要性が高まっていくことは確かです。

私は、国同士の連携をより効果的かつ持続的にするには、人と人とのつながりが重要だと思います。その考えの下、日本財団は、世界海事機関(WMU)をはじめとした著名な機関と海の世界の人づくりを行っております。これまでに海上保安官を含め128カ国1,000人以上を育て、人と人とのつながり作りをしてきました。今では、かつて共に勉学に励んだ仲間達が、アジアおよび世界での海のネットワークを構築するのに重要な役割を果たしている例もあります。

現在、日本財団は新しい人材育成プログラムを検討しております。海上で発生する国際的な課題への対処は喫緊のテーマであり、技術面だけではなく、総合的に政策面からも適切に対応できる各国の海上保安官を育成する英語の大学院大学の設置を考えております。そこでは、アジアの海上保安官も育成するとともに、さらに強固なアジアのネットワークの構築を目指します。日本財団は、アジアの海上保安機関の協力体制のさらなる強化のために、これからも人材育成の面から長官級会合をサポートしてまいりたいと思います。私は、アジアの海上保安の協力体制を強化することによって、安全で豊かな海を次世代に引き継ぐことができると信じております。
「国際法曹協会」―法の支配賞・受賞― [2014年10月29日(Wed)]
「国際法曹協会」
―法の支配賞・受賞―


弁護士のオリンピックとも呼ばれる国際法曹協会の年次総会が、アジアで初めて、天皇・皇后両陛下ご臨席のもと、10月19日から世界130ヵ国から5千人以上の参加者を得て東京国際フォーラムで開催された。

国際法曹協会は、日本弁護士連合会を初め、世界約200の弁護士会と3万人以上の弁護士が会員になっている。人権擁護、法の支配と司法の独立等が活動の主たる目的で、その発言は国際社会で大きな影響力を持っている。

開会式で安倍首相は「『法の支配』は普遍的で、その根底には深い人類愛がある」と挨拶されて喝采された。

私は今大会で長年に亘るハンセン病との闘いが評価され、日本人では唯一人、「法の支配賞」を授与された。

以下は受賞の際のスピーチです。

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2014年10月23日
於:東京国際フォーラム
原文・英語


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このたびは、栄誉ある賞をいただき大変光栄に存じます。国際法曹協会の皆さまには、このような素晴らしい機会をいただき心より感謝申し上げます。

安倍首相は開会のご挨拶で「『法の支配』という考え方は普遍的であり、その根底には深い人類愛がある」とお話されました。この言葉を聞き、国際法曹協会から「法の支配賞」を受賞するにあたり、同じ目的を推進している者の一人として、この賞に恥じないために、さらに邁進すべく、この賞が意味する義務を果たすことに一層の責任を感じています。

国際法曹協会のレイノルズ会長をはじめ協会関係者の皆さまに、ここ東京でお目にかかれたことを嬉しく思います。前回お会いしたのは、2013年1月にロンドンで国際法曹協会の皆さまと日本財団がハンセン病を取り巻く差別撤廃を訴えるための第8回グローバル・アピールを発信したときでした。

国際法曹協会と日本財団は、ハンセン病に関わる差別的な法律の存在に注意を喚起し、世界中のハンセン病患者・回復者の人権を回復するために協力し合い、この問題を訴えました。また、私たちは世界人権宣言が謳う基本的人権の尊重に基づき、ハンセン病患者・回復者の人権を尊重することを各国政府に訴えることを誓いました。世界の法律の専門家の声として、国際法曹協会が世界のハンセン病との闘いに賛同してくださったことは非常に意義深いことであります。

ハンセン病は人類の歴史上、最も誤解され、スティグマ(社会的烙印)や差別を伴う病気の一つです。治療をしないままでいると、皮膚が変色し、顔や手足が変形するなど目に見える障害が現れます。原因不明の病として、多くの人々がハンセン病は業病あるいは神の罰によるものであると信じてきました。

ハンセン病が感染病であるということが分かると、世界各国で、さらなる感染を防ぐために隔離政策が強化されました。ハンセン病患者は家族から引き離され、隔離された島や村に追いやられ、二度と故郷の地を踏むことができませんでした。

1980年代にMDTという治療法が確立すると、ハンセン病との闘いは大きく前進しました。早期発見・早期治療が的確に行われれば、目に見える障害を防ぐことができるようになりました。さらに、1991年にWHOはハンセン病患者を人口1万人に1人未満という公衆衛生上の制圧目標を掲げました。この明確な目標に向かって、各国政府、NGO、他のステークホルダーが一致団結し、ハンセン病蔓延国の数は激減し、今では、ハンセン病未制圧国はブラジルのみになりました。

私はこのような医療面における劇的な進展により、ハンセン病に対する人々の見方が変わり、不要な隔離はなくなり、ハンセン病患者・回復者は社会の中で正当な立場を取り戻せるのではないかと期待していました。しかしながら、私が様々な国で目の当たりにした現実はまったく違う状況でした。療養所の目に見える壁はなくなりましたが、差別という目に見えない壁が彼らの前に立ちはだかり続けていたのです。ハンセン病患者・回復者は、私たちにとっては当たり前のことである就学、就職、公共交通機関の利用、ホテルやレストランなどの施設の利用などを制限されているのです。

このような差別を助長しているのは、様々な差別的な法律や条例が残っているからです。古い法律や条例の中に差別的なものが残っていることで、ハンセン病患者・回復者とその家族に対する偏見や差別が助長されています。

医療面においていかに進展があったとしても、差別やスティグマの問題が解決に向かわないことに私は失望しました。そこで2003年、ハンセン病患者・回復者が直面している問題について、人権問題として国際社会に訴えることにしたのです。

多くの関係者からご支援をいただき、国連機関にこの問題を繰り返し訴えました。その結果、2010年12月21日、国連総会で、ハンセン病患者・回復者とその家族に対する差別撤廃の決議が採択されました。

国際社会がハンセン病患者・回復者を取り巻く問題を人権侵害であると認めたことは歴史的な第一歩でした。同時に、ハンセン病患者・回復者にとっても、自分たちの活動をより強化していく上での礎となりました。

このような前進にも関わらず、古い差別法による不正な事象が完全になくなったわけではありません。ほんの数年前、インドで2人の男性が市民選挙に出馬して当選しましたが、ハンセン病に罹っているという理由でその当選が無効になりました。ハンセン病患者は市民選挙に出馬できず、公職に就けないという古い行政の条例に基づいたものでした。この出来事を通じて、たとえ正義に反することであったとしても、法律は法律なのだということを改めて思い知らされ、私にとっても辛い経験となりました。

しかし、希望が絶たれてしまったと思われていた後も、驚くべきことにこの2人の候補者はあきらめなかったのです。この2人の男性とハンセン病患者・回復者のコミュニティの人々は、様々な団体などの協力を得て、ハンセン病患者・回復者の社会参加を訴えました。政府の委員会は彼らの訴えに応え、ハンセン病患者・回復者が置かれている状況について理解を深めるために、ハンセン病のコロニーや病院に足を運び、彼らの話に耳を傾けました。その後、この委員会は差別的な条例を直ちに修正するように勧告しました。

そして、ついに2012年12月、このハンセン病患者・回復者に対する差別的な条例が廃止されました。このことは、ハンセン病患者・回復者が困難な課題に直面した際に、彼ら自身が問題を克服できるという可能性を社会に示す指標となりました。

私はこの受賞の喜びを、差別やスティグマを撤廃するために闘い、社会における自分たちの正当な立場について声をあげてきた勇気あるハンセン病患者・回復者の皆さま、そして、ハンセン病の治療や啓発活動に携わり、たゆまぬ努力を続けてくださっている皆さまとともに分かち合いたいと思います。

世界のハンセン病と闘うメンバーの一員として、私は今申し上げた多くの関係者の方々とともにこの受賞を喜び、そして、世界からハンセン病とそれに伴うスティグマや差別の苦しみを取り除く決意を新たにしたいと思います。

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「福島放射線国際専門家会議」その1―放射線と健康リスク― [2014年10月06日(Mon)]
「福島放射線国際専門家会議」その1
―放射線と健康リスク―


少し報告が遅れてしまったが、9月8日と9日の二日間、日本財団主催による「放射線と健康リスクを超えて〜復興とレジリエンスに向けて」と題する会議が、外国の一流の専門家が参加し、笹川記念保健協力財団、福島県立医科大学、長崎大学の協力を得て、福島ビューホテルで開催された。

今回の会議は、原発の是非について議論する会議ではなく、原発より放出された低線量放射線状況下における健康リスクと、これに関連した社会的・心理的問題について分析し、解決の方策について議論する会議であった。

「放射線と健康リスクを超えて〜復興とレジリエンスに向けて」というタイトルが示しているように、震災・原発事故後3年が経過した福島の被災地の現状は、2014年8月現在、127,471名(県内 80,322名、県外 47,149名)の避難者がいまだ存在している。これら避難生活者の問題をはじめ、解決すべき問題について内外の専門家の知見を共有し、今後の復興とレジリエンスに向けた方策を考えるのが趣旨であり、日本はもとより、広く世界の人々に福島の現状を正しく理解していただくため、会議は日本語、英語でユーストリームを通じて同時放映された。

以下は私の発言要旨です。

********************


2014年9月8日
於:福島ビューホテル


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この会議に国際機関や政府機関、研究機関、地域の公衆衛生や医療サービスを行っている医療機関の代表の方々にお集まりいただいたのは、放射線と健康リスクを超えて、福島のレジリエンスと復興について議論するという共通の目的のためです。

2011年3月11日、東日本地域は前例のない大地震と津波に襲われました。さらに、福島第一原子力発電所での事故が引き起こされ、福島では15万人以上という多くの人々がこの地を離れることを余儀なくされました。そして当然のように、当時放出された放射線物質による健康リスクに関して、人々は強い懸念を抱いていました。流言蜚語(無責任な噂、デマ)が飛び交い、不安を煽るようなメディアやインターネットの情報により、社会は混乱に陥りました。

このような時期、日本財団と笹川記念保健協力財団は、10年間にわたりチェルノブイリ原発事故で人道支援活動を行い、その時にご協力をいただいた放射線と健康リスク分野の専門家をはじめ、世界各地の専門家の方々のご協力を得て、福島県立医科大学とともに第1回福島国際専門家会議を開催しました。

短い開催周知期間であったにもかかわらず、国内外から放射線と健康リスク分野の40名以上の専門家の方々が私たちの呼びかけに応えてくださいました。そして、福島県立医科大学のご協力により、第1回会議は成功裡に終わりました。

震災からわずか6カ月後という時期でしたが、専門家の方々が集まり、放射線が健康に与える影響について科学的な根拠に基づいて検討され、会議終了の殺気立つ記者会見では、被災住民はもとより、世界中の人々に正しい現状を報道していただきたいと、外国人専門家と共に無制限時間の記者会見(実際は3時間半)も行いました。これにより放射線と健康リスクについての理解増進に、ささやかながら寄与出来たと考えています。

議論の結果と提言は日本政府に提出されました。それらの資料は日英の2カ国語で作成され、誰でもオンラインで自由にアクセスできるようにしました。

第1回の会議以来、国内外の多くの方々が活動に携わり貢献されてこられました。福島県立医科大学では、福島の住民の健康を見守るための県民健康調査を続けています。また、福島県は、県民健康調査に関する報告書を定期的に発行しています。さらに、様々な国際機関や放射線の専門家、科学者の方々が福島の現状についての調査、分析を続けています。福島の状況に関する報告書を発行している組織もありますし、福島の復興のために、地域の方々が問題や課題を洗い出す対話の場を設ける活動をしている組織もあります。

このような状況を鑑み、私たちは、今、多様な活動に携わっている専門家の方々が一堂に会する場を設けることは、時宜を得ているのではないかと感じました。本会議の特徴は、専門家の議論に加えて、原発事故の影響を受けた地域の住民の方や臨床医、保健師の方々に議論に参加していただくパネルを設けたことです。このように地域の方々の生の声を聞くことにより、この原発事故が精神的、心理的な面にどのような影響を及ぼしているかについても、より理解を深めることができるのではないかと思います。

本会議を通じて、国内外の専門家の皆さまが様々な情報を共有・分析し、多角的に福島の現状について議論してくださり、その過程を通じて、福島の復興とレジリエンスが確かなものになることを期待しております。今回のシンポジウムでも、議論の結果と提言を日本政府に提出し、それらの資料を日英2カ国語で作成した上で、国内外の人々からオンラインで広くアクセスできるようにします。

*「レジリエンス」とは微妙な意味を持った言葉で、ガバナンスと同様に正確な日本語訳が出来ない。「精神的回復力」「復元力」というような意味で、震災以降「困難な状況にもかかわらず、しなやかに適応して生き伸びる力」という意味で使われているらしい。政府も様々な取り組みの中で使っているが、私個人的としてはあまり賛成しかねる言葉ではある。
「アメリカ・カナダ大学連合日本研究センター」 [2014年10月01日(Wed)]
「アメリカ・カナダ大学連合日本研究センター」


横浜にあるアメリカ・カナダ大学連合日本研究センターは、秀れた日本研究者に日本での研究の機会を提供している。

彼らの日本語能力は、近頃の若者より秀でているかもしれない。美しく上手な手書きの手紙には感心させられる。語学が不得手な私にとって、外国人と日本語で会話できるのは愉快なことである。

以下は日本財団で提供している奨学金授与式での挨拶要旨です。

2014年9月16日
於:日本財団


日本財団は世界中で様々な人道的な活動を展開しています。特に未来を背負う若い方々に学問の機会を提供することが、私たちの大変重要な事業の一つになっています。これからの未来、若い方々に自国はもとより世界で活躍していただくために、小学校から大学、大学院、あるいは修士・博士課程まで、様々なプログラムを展開しています。

例えば世界の69の大学の修士・博士課程に奨学金を設置し、そこからは既に1万4千人の素晴らしい卒業生が生まれ、世界で活躍されています。ご承知のように、昨今のようなグローバリゼーションの時代では国の利益を考えるだけでなく、地球規模で世界というものを見据えて考えながら自分の国はどうなるのかということを考えなければならず、そういう人材を育てたいと努力しています。

皆様方は大変素晴らしい日本の研究をされていて、内容を拝見して驚きました。私たち日本人でも通常の学問を修めただけではわからないような内容の研究をされているわけです。皆様方ご承知のように、サミュエル・ハンティントンは『文明の衝突』の中で、数ある文明の中で、日本の文明を独立した文明としてとらえています。かつては中国、或いは韓国からの影響もありましたが、その後独自の文明を確立してきたということです。普通はもっと広い地域、ヨーロッパやイスラムなど、国家を超えた広い地域にまたがった文明をいいますが、日本という小さな一つの国だけで独立した文明が存在している。そのユニークな国・日本に興味を持っていただいたということを、大いに歓迎いたします。

かつて英国の憲政学者バヂェットが政治に対する言葉の中で、権力と権威の分離が理想と説いておられましたが、まさしく日本では天皇という権威と、かつての武家社会が担っていた権力が別になっている。ヨーロッパでは権力と権威、両方を握った人が、アレキサンダー大王やナポレオン皇帝であり、中国もそうでした。日本ではなぜこのようになったのか。私にも良くはわかりませんが、素晴らしいシステムです。

文化、芸術の分野をとってみても多種多様なものがございます。歌舞伎や能は勿論のこと、文楽のように人形を使う芸術や浄瑠璃、長唄、小唄、清元、茶道、香道の世界や生け花など、又武道も様々で、柔道、剣道、空手、なぎなた、相撲など、ユニークなものがあります。

私も世界中に旅をしますが、一つの駅ごとにお土産に買うお菓子が全国津々浦々全て違う。こんなにお菓子の種類が多いのは日本ぐらいです。私は75歳の後期高齢者ですが、未だに初めて食べるお菓子が地方にはまだまだたくさんあります。

四季がはっきりしていて山は緑に覆われ、水は大変きれいに流れています。四季折々に多種多様な花が咲き、それを見るのも楽しみの一つです。さまざまな神社に根ざした祭りも色々な種類がありますが、祭りの種類も日本が突出しています。そして、日本は一つの国で、ほぼ単一民族が生活しており、人種の対立、宗教の対立というものが存在しません。

このように日本はさまざまなユニークな特徴のある国です。そういう国に興味を持って頂いて英文で表現していただくのはありがたいことですし、日本財団が皆様方の研究をサポートできることは、嬉しく誇り高いことです。

日本財団の財政も厳しい中ですが、来年から援助を二倍に増やし、さらに充実した奨学金制度にしていきたいと思っています。

改めまして、皆様方が我々の奨学支援をお受け下さることに感謝を申し上げ、ご一緒に仕事ができるということを誇りに思っております。

―奨学生リスト―


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ウィリアム・キャロル
性別・年齢:男・27歳
所   属:シカゴ大学大学院 映画・メディア学研究科/博士課程
研究テーマ:日本の大衆映画

ロバート・デルグレコ
性別・年齢:男・30歳
所   属:オハイオ州立大学大学院 東アジア言語・文学研究科/博士課程
研究テーマ:在日韓国人文学

アーロン・ジャスニー
性別・年齢:男・26歳
所   属:ワシントン大学セントルイス校大学院 東アジア言語・文化研究科/博士課程
研究テーマ:明治・大正期における日本風景論

ダニエレ・ラウロ
性別・年齢:男・29歳
所   属:ノースカロライナ大学大学院 アジア史研究科/博士課程
研究テーマ:徳川政権初期の政治儀式の役割

カイル・ピーターズ
性別・年齢:男・28歳
所   属:シカゴ大学大学院 東アジア言語・文明研究科/博士課程
研究テーマ:近代日本の美学理論とその歴史的発展

ジェームス・シンプソン
性別・年齢:男・32歳
所   属:ボストン大学大学院 政治学研究科/博士課程
研究テーマ:アジアにおける核抑止論

パリデ・ストルティーニ
性別・年齢:男・29歳
所   属:シカゴ大学神学校大学院 宗教史研究科/博士課程
研究テーマ:明治期の仏教におけるキリスト教や西洋文化の影響

メリッサ・ヴァンワイク
性別・年齢:女・28歳
所   属:ミシガン大学大学院 アジア言語・文化研究科/博士課程
研究テーマ:江戸時代の歌舞伎芸能 (出雲阿国について)

ジャスティン・ウィルソン
性別・年齢:男・28歳
所   属:カリフォルニア大学ロサンゼルス校大学院 歴史学研究科/博士課程
研究テーマ:戦後詩人、田村隆一と詩誌「荒地」 (占領下の詩作と政治運動の関係)

ティモシー・ヤング
性別・年齢:男・33歳
所   属:スタンフォード大学大学院 日本文学研究科/博士課程
研究テーマ:明治期の文学と印刷文化、新聞の役割

「未来のエジソンを育てよう!」―異才発掘プロジェクト― [2014年09月12日(Fri)]
「未来のエジソンを育てよう!」
―異才発掘プロジェクト―


日本財団の職員には、与えられた職場での仕事以外に職員が組織横断的にチームを組んで新規プロジェクトを発掘して事業化する仕事もある。

異才発掘プロジェクトチームは、沢渡一登を中心に、東京大学先端科学研究センターと共同で未来のエジソン発掘プロジェクト、正式には「異才発掘プロジェクト(ROCKET)」をスタートした。

4月11日、朝日新聞にこのニュースが掲載されると大反響となり、全国からの問い合わせが殺到することとなった。

8月5日、第1回の説明会を東大・駒場で開催したところ、300名の父兄で満席となり、関心の高さに驚かされた。8月29日には再度東大・駒場での説明会を実施、全国各地でも行うことになった。

話題になった朝日新聞と当日の私のスピーチを掲載します。
20〜30年後、「このプロジェクトは失敗に終わった。なぜなら凡才は天才を育てる能力がなかったからだ」といわれないよう、沢渡チームの活躍を期待したい。

****************

異才発掘プロジェクト説明会
―挨拶要旨―


8月5日(火)午前10時
於:東京大学先端科学研究センターENEOSホール


会場風景.JPG


ご紹介を受けました日本財団の笹川陽平でございます。
本日は多くの皆様にお集り頂き、ありがとうございます。

世情ではよく子供の教育問題が議論されますが、批判的な論調が多いようです。しかし、そういう社会を作ってきたのは我々の世代であり、それを批判するばかりでは如何なものかと思っております。

日本財団は、日本のみならず世界中で、障害を持った人や様々な人に対して人材育成プログラムの支援を展開しておりますが、次の世代を担う日本人をきちっと育てあげることが私たち世代の責任だと思っております。批判してばかりでは、世の中、何も変わらないのです。

私は今まで、世界中の多くの教育現場を見てきました。小学校の現場を見ておりますと、知識を教え体力を養い、その上にその子供たちの一番優れた点は何か。その才能を伸ばし、できれば得意な分野の職業につけてやりたいという、その子の個性を伸ばしてやるというのが教育の基本なのです。

ところが日本はどうかといいますと、国語も算数も理科も図画・工作も音楽も体操も、みんな出来なければならない。そういう教育をしてきたわけで、戦後の高度経済発展のためにはそういった画一的な人材教育が役立ったのは事実でございますが、時代はすでに大きく変化してきております。

私は個人の才能を十二分に発揮してもらう、そういう社会に変えていかなければならないと思っております。そういう意味におきまして、今日お集り頂いた方々のお子様方は、個性豊かでユニークな才能をお持ちの可能性が十二分にあるということです。

日本人は集団生活が好きですから、集団生活の中の枠にはめ込もうとする考え方があります。日本の文化的な土壌でもあるわけで、歌舞伎も、お能も、茶道も華道もすべてそうですが、形から入り、形を決めてその中でやっていくというのは日本の長い伝統文化ですので、個性豊かであることは、そういう文化の中ではマイナスだと言われる状況が長く続いてきたわけです。

しかし、現代のようにスピードの速いイノベーションの時代においては、画一的な教育のもと、鋳型の中で育てられた子供だけでは、日本のイノベーションは起こり得ません。そして、そこが東大の中邑(なかむら)先生と私の意見が一致したわけです。

私たちは中邑先生と共に『異才発掘プロジェクト』の中で、特色ある個性ある子供たちが、のびのびと自分の持っている本来の才能を十二分に発揮できる教育の場を作っていかなければならないと思っております。

できることなら、将来は全寮制にして、きちっとお預かりさせていただきたいと思っています。個性豊かな子供たちですので、集団生活になじめないということも理解していますが、それぞれの子供たちの個性を理解した看護師をはじめとした専門家によって、その子の生活スタイルを尊重しながら教育もきちんとしていくというユニークな学校、教育機関を作っていく必要があり、作りたいというのが私の夢です。

日本の国というのは、やって見せないと変わらないというところがあります。

今から20年前、これからの老齢化社会を考える上で、老人の尊厳を認める老人ホームが必要だと考え、一人部屋の老人ホームを提唱したところ、厚生労働省からお叱りを受けました。日本の社会ではあり得ないことだと言われましたが、それでもとにかくやってみようということで、全国に3か所、島根県、富山県、長野県に一人部屋の老人ホームを作りました。

昔、高等学校の校長先生だった方、社会的地位が高かった方に、介護をして下さる方が幼児言葉で話しをするなんていうことはもっての他で、きちんとした日本語で話しかけることもお願いしました。すると、全国から多くの関係者が視察に見え、茶菓子代の費用が不足するほど話題となりました。

今はどうでしょうか。一人一人独立してきちんと生活していくとう姿が当たり前になってきております。ですから、まず民間でやって見せ、うまくいけば国が真似をしてやっていくという方式を取らざるを得ないわけです。

多くのご父兄の皆様が、才能豊かなお子様をお持ちになりながら、その才能を十分発揮できる教育環境が整っていないということで悩んでおられることが、このたび立ち上げたこの小さなプロジェクトに寄せられた手紙や電話で、その関心の深さに正直、驚かされました。皆様方の優れたお子様に合った教育機関、学校を作ること。とにかくいち早くそういう教育の場を作らなければならないということを、今、強く感じております。

そういう趣旨でございますので、最初、どの程度の数のお子様をお預かりできるかわかりませんが、皆様方のご期待に添えるよう、新しい教育システムを日本の中に導入する、今日はその第一歩の日であると確信しております。皆様方におかれましても、日本財団と東大先端研の事業にご関心を持ち続けていただき、世論の声を大きくしていただきたいと思います。

資源に乏しく優れた人材がすべてであるという日本にあって、国造りの基本である優れた才能のある子供たちの教育に欠陥があったということは社会問題でもあります。プロジェクトが成功するよう努力してまいりますので、重ねてご支援をお願いいたします。

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「ノーマン・ボーローグ博士生誕100周年」―記念シンポジウム― [2014年08月11日(Mon)]
「ノーマン・ボーローグ博士生誕100周年」
―記念シンポジウム―


笹川アフリカ協会(SAA)主催によるノーマン・ボーローグ博士(インド・パキスタンの緑の革命を指導してノーベル平和賞を受賞)の生誕100周年記念シンポジウムがアフリカのウガンダ南東部の都市ジンジャで、7月10日、11日の二日間開催された。

笹川アフリカ協会は、1986年、ノーマン・ボーローグ博士、ジミー・カーター元米国大統領、日本財団初代会長の笹川良一が共同で設立した協会である。ボーローグ博士は晩年の20年間、SAA理事長としてアフリカの農業問題と闘い続けた。

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設立以来『笹川グローバル2000』(SG2000)農業プログラムをサブサハラ14カ国で展開。各国のパートナーと協力しながら、零細農家に対して高収量品種の導入や高生産性農法の活用を奨励することで生産性と収益性の向上を目指しており、現在は、ケニア人のルース・オニャンゴ会長の強いリーダージップのもと、エチオピア、ナイジェリア、マリ、ウガンダの4カ国で重点的に活動を行っている。

世界広しといえども、28年間もアフリカの零細農民を相手に活動してきた団体は他にない。特に近年、宮本正顕常務理事の努力により世界的に評価は高まり、ビル・ゲイツ財団、JICA、ナイジェリア政府、ドイツからの支援金もあり、更に支援を申し出てくれている団体や国があるものの、しっかりとした成果を出すためにはこれ以上急激な組織拡大は望ましくないとのことでお断りしている状態だと、宮本正顕さんは話してくれた。誠にうらやましい限りであり、又、設立当初から関与してきた私にとっても誇らしいことである。

このシンポジウムにはエドワード・セカンディ副大統領、モーゼス・アリ第2副首相、トレス・プチャナヤンディ農業大臣をはじめとするウガンダ閣僚、ボーローグ博士の娘ジーニー・ボーローグ氏と孫のジュリー・ボーローグ氏、ソグロ元ベニン大統領、藤田順三在ウガンダ日本国大使、ウガンダ政府関係者、国際NGO、大学、農業関連企業、ジンジャ周辺地区の農家、学生、青年海外協力隊ウガンダ隊員が参加した。

ウガンダの農業問題に関するパネル・ディスカッションでは、シンポジウムに参加している農家、学生からの質疑応答が活発に行われた。「農家の技術を向上させるために、農業を学校の必修科目にするべきか?」というセンションでは、マチョワ・クリストファー・モガル君(15歳)より、「農業をもっと楽しくするべきだ。農業を楽しむことで、農業にそれほど誇りを感じていなかった将来の世代が、農業に献身するのではないか?もっと農家のモチベーションを上げる仕組みを作れば、ウガンダ農業は発展するはずだ」という意見が出された。

さらに「農家の収入向上のために、どのように農業をファミリービジネスとして促進させればよいか?」というセッションでは、青年海外協力隊の神崎志穂さんが、米の普及による農業収入向上の可能性とそれに係る人材育成の重要性について発表。同じく青年海外協力隊の平野裕士さんは、活動している村の農業組合メンバーとマンゴージャム作りを始めたが、農家がジャム作りを通して食品加工だけでなく、それを売るためのマーケティングやジャムを作る際の衛生管理についても学ことができると発表した。

日本においては、農業も高齢化と共に後継ぎ問題が深刻であるが、若者が農業を誇りに思い、その可能性について議論する場の必要性を痛感した。

会議の休憩時間にボーローグ博士の娘であるジーニーさんと、孫娘のジュリーさんと挨拶を交わした。「父はミネソタの貧しい農家に生まれたの。大学時代はレスリングの選手として活躍したけど、大リーグのシカゴカブスの二塁手になることが夢だったらしいの。控え目な人で、自慢話はしないで一生懸命働く、とても倫理観の強い人だったわ。いつも私たちに教育の大切さを話し、死ぬまで教えることを忘れなかった。父の仕事で南米に何回も同行したけど、飛行場ではいつもDairy Queen(デイリー・クイーン)を探し歩いてアイスクリームを食べるのが楽しみだったみたい。確か死の二日前だったと思うの。癌の治療が終わって病院から帰って来て、突然「最大の問題はアフリカだ」と。晩年の父の頭の中は常に『アフリカ』だった。忘れもしない。死の6時間前に「Take it to the farmers」(その技術を農民の元へ)と言ったの。それが今回のシンポジウムのテーマになったことを、きっと父も喜んでいるでしょう」と語ってくれた。

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ボーローグ博士の娘さんとお孫さん


ノーマン・ボーローグ博士は、私に多くのことを教えてくれた恩師である。常に「Never give up」、あきらめるなと、叱咤激励してくれた。ヒューストンで病魔に勝てないことを悟ったノーマン・ボーローグ博士が笹川アフリカ協会会長を辞任され、その感謝の慰労会を親しい関係者とご家族で行った折、私は不覚にも感極まって、生まれて初めて人前で号泣したことも遠い昔のように思い出される。

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ボーローグ博士とご一緒した時間は筆者の宝物


葬儀での挨拶、そして今日のスピーチも、多くの方々から感銘を受けたとのお誉めの言葉を頂いた。私の下手なスピーチを補って余り有るスピーチの内容であった。

私のスピーチは、武部恭枝女史の指導のもと、小澤直、渡辺桂子、ヴィッキー本多、田中麻里などの若手が長時間の議論を通じ言葉を選んで作り上げた文章で、日本財団にスピーチライティングチームが存在することは、私の海外活動にとって今や不可欠の存在である。

10〜15分のスピーチの作成に1ヶ月近くの時間をかけて作成する担当者の労に感謝したい。

以下はそのスピーチです。残念ながら原文の英語からの翻訳なので、若干ニュアンスは違うかもしれない。

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ボーローグ・レガシー・シンポジウム
―挨拶要旨―


2014年7月10日
於:ウガンダ・ジンジャ


本日は、ノーベル賞受賞者であり、2009年に天国に旅立たれる最期の日まで笹川アフリカ協会(Sasakawa Africa Association: SAA)の会長を務められた、故ノーマン・ボーローグ博士の生誕100周年記念シンポジウムで皆さまにお目にかかることができ、大変光栄に思います。また、博士の最愛の娘であるジーニーさん、孫娘のジュリーさんもこの会場に駆けつけてくだったことを心より嬉しく思います。

ボーローグ博士と私の出会いは、30 年前に遡ります。ちょうどエチオピアを中心としたアフリカ各国が未曾有の大飢饉に見舞われていた時でした。当時、この飢饉に対し、世界各国がアフリカに食糧を届けました。「世界は一家、人類は皆兄弟姉妹」を基本理念とする私たち日本財団も、アフリカの人々を家族の一員と考え、苦境に陥ったアフリカの兄弟姉妹のために緊急食糧支援を行いました。しかし、このような支援は一時的に人々の空腹を満たすことができても、長期的な解決策にはなり得ないことは明らかでした。そこで、この出来事をきっかけに、私たちは、アフリカが抱える食糧問題を根本から解決するためのプロジェクトを立ち上げることを決意したのです。

この決意のもと、当時の日本財団会長であった私の亡き父、笹川良一と私は1986年にSAAを設立し、ボーローグ博士、そして、ジミー・カーター元米大統領に、私たちのプロジェクトへの協力をお願いしました。カーター元大統領はすぐに申し出を受け入れてくださいましたが、当時73歳だったボーローグ博士は「私はもう引退した身で、新しいことを始めるには年を取り過ぎています。」と躊躇されました。私の父は「私のほうがあなたより13歳も年上です。アフリカへの農業支援は、今からはじめても遅いくらいです。ですから、さっそく明日から一緒に始めましょう!」と説得しました。こうして、私たちのアフリカでのプロジェクトが始まり、飢餓という人類が抱える最も難しい課題のひとつに取り組むことになったのです。

アフリカでは、緊急な対応が必要とされる課題が山積していました。はじめに、農民たちに農業の基本を教える必要がありました。また、当時、多くのアフリカの国々で脆弱であった政府の農業普及サービスを強化していくこと、アフリカ各国政府が農業開発政策の優先順位を高めていくことが必要でした。これらは、本当に気が重くなるような難題でしたが、強い使命感を持ったボーローグ博士は、それらの難題に立ち向かっていったのです。彼は、どんな時も怖気づいたり、途中で投げ出したりすることはありませんでした。彼は、どんな困難な状況においても、いつも笑顔で「ヨウヘイ、諦めてはいけないよ!」と語りかけてくれたのです。

ボーローグ博士の生きる姿勢は、癌を患われてからの晩年になっても変わることはありませんでした。ご自身の身体が病に蝕まれている時でさえ、彼はアフリカの人々のことを最優先に考えていました。ある現場視察の後、ボーローグ博士がひどく咳込んだことがありました。私たちは、彼に出張を早めに切り上げて休むように言いましたが、「私がいるべき場所はフィールドだ」と、病気などものともせず、私たちの心配をよそに、強い闘士さながら、次の目的地に出かけていきました。

ボーローグ博士がSAAを率いてくださった20年の間に、ササカワ・グローバル2000はアフリカ14か国でプロジェクトを展開しました。私たちと一緒に仕事をした農業普及員はこれまでに数万人に達し、そのうち4000名を超える農業普及員をアフリカの大学20校において育成しました。また、私たちのプログラムを通じて、何百万人もの小規模農家の方々との「触れ合い」がありました。

私がここで申し上げた「触れ合い」というのは、アフリカの農民の心や魂に影響を与えるほどの深く、濃い「触れ合い」があったという意味です。ボーローグ博士は、アフリカの小規模農民の潜在能力を信じていました。彼の貢献は、耕運や植え付けの技術の指導という域を超えていました。彼は、農民に寄り添い、現場で共に汗を流すことで、食糧の増産を可能にしただけでなく、農民の心に「自信」という種を植えたのでした。この人道的なアプローチは、ボーローグ博士と共に働く全ての人々にとって、共通の価値観となり、SAAという組織の基盤として引き継がれていきました。

現在、SAAは、アフリカ諸国を中心に様々な国籍の職員で構成されたとてもダイナミックな組織に成長しました。オニャンゴ会長のリーダーシップの下、女性スタッフの数も増えてきています。現在の重点4か国、エチオピア、マリ、ナイジェリア、そしてウガンダにおいて、ノーマン・ボーローグ・スピリットを継承し、多くの開発パートナーと共に、アフリカにおける持続可能な農業の発展に貢献するため、尽力しています。

「Take it to the farmer」というボーローグ博士の言葉を私たちの指針として胸に刻み、この偉人が切り開いてきた道を共に歩み続けていきましょう。「Never give up」というボーローグ・スピリットに基づき、アフリカの農民に寄り添い、彼らの生活を向上させるというコミットメントを再確認し、共に取り組んでいきましょう。そして、子どもたちが空腹のまま眠りにつくことがないように、共に汗を流していきましょう。

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*日本財団ライティングチームの名作ですので、当時の弔辞を再録します。

ノーマン・ボーローグ博士 弔辞


2009年10月10日
於:テキサス州A&M大学


早いもので、博士とアフリカの農業開発に取り組み始めて四半世紀が経ちました。「食糧難に苦しむアフリカの人々の空腹を少しでも満たせてあげたい。」父と私は、当時70歳のあなたに無理を承知で協力を要請したところ、快く引き受けてくださいました。以来、あなたはアフリカの農民やその子どもたちのためであれば、いかに多忙であろうと最優先で取り組んでこられました。

Bill、Jean、あなたの父親はあなたたち家族を心より愛していました。そしてあなたの父親はアフリカの農民たちを想い、幸せを願っていました。マラウィで肺炎寸前まで体調を崩したときも、そしてガンに侵されていたときも、自分の心配よりアフリカの農民たちの幸せを考え、行動していました。そして驚くことには、その時のようにどんな苦境に立たされようと、決して苦しいとか辛いとか弱音を吐くことはありませんでした。むしろ困難を正面から受け入れ、それを乗り越えるモチベーションを生きる糧にしているようにさえ見えました。

 博士は可能な限り現地を訪れ、農民と一緒に汗をかきながら優しく丁寧に手ほどきする一方、カントリーディレクターには厳しい姿勢で指導に当たられていました。そして年に一度の収穫祭で、農民たちが歓喜のダンスをしているときに見せる幸せに満ちた博士の笑顔を、私は忘れることができません。

「アフリカの子供たちが空腹を抱えたまま眠りにつかないように・・・。」博士がよく口にしていたその想いを胸に走り続けたその成果は、単に農民やその子どもたちの空腹を満たすだけのものではありませんでした。

Norman、あなたはアフリカの農民の心に、「夢」という、土壌を耕しました。
Norman、あなたはアフリカの農民の心に、「希望」という、種を植えました。
Norman、あなたはアフリカの農民の心に、「情熱」という、水と太陽を注ぎました。
そしてNorman、あなたはアフリカの農民の心に、「自信」という作物を実らせたのです。

あなたは決してあきらめなかった・・・。

私も、あなたがアフリカの人々のために活動を始めた時と同じ70歳になりました。
「アフリカに緑の革命を・・・。」私は、あなたの夢そして我々の夢をボーローグスピリットを継ぐ同志(指導者、学者・研究者、農民)とともに、最後まで追い続けます。
絶対にあきらめません。
ボーローグ博士、どうか安らかにお休み下さい。



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