「He is “Gone”」―ゴーンさんと日本の企業風土―と― [2018年12月05日(Wed)]
「He is “Gone”」 ―ゴーンさんと日本の企業風土― 世界的経営者で日産自動車、ルノー、三菱自動車のトップを務めたカルロス・ゴーンさんの逮捕に関わるニュースが連日、大きく報道されている。 三連休の最終日の11月25日夕刻、二人の息子が孫を連れて訪ねてきた。彼らの話題はもっぱらカルロス・ゴーンであった。 二人ともアメリカの大学で学んだこともあり「年収10億円なんてアメリカでは何ら問題はない。彼の実績からすれば年収50億円でも、話題になっても問題にはならない」という。しかし「逮捕容疑となった金融商品取引法違反は立派な犯罪行為であり、同情には及ばない」という点では私と意見が一致した。しかし「むしろゴーンさんが日本社会を知りすぎた結果の犯罪では」との私の見方に、息子たちが説明を求めてきた。 日本社会は横並びの意識が強く、突出した意見や立場は常に批判の対象にされるケースが多い。政治家の発言であっても、言葉狩りに近い反発がしばしば起きている。経済界でも、経済団体連合会(経団連)を中心に横並び意識が強く、突出した発言や行動は異論として排除、無視される傾向が強い。 ところで、10月中旬、日本経済新聞のコラム「大磯小磯」に「孫氏を経団連会長に」との記事が掲載された。「若手の企業人の間でももはや『サラリーマン経営者』をリーダーとみなさない傾向になってきた。そこに『孫氏を経団連会長に』との待望論につながる深層がある」として、ソフトバンクの孫正義氏を経団連会長に“推薦”する文脈になっている。しかし議論も反論もなく無視された。 経団連は、会長のもと18人もの副会長、その下に1名の事務総長が存在する世界でも珍しい異型の組織で、スピードある意思決定を求められる現在、時代を先取りする意思決定は不可能に近い。中西会長が一人奮闘しても経団連の抜本的な改革は不可能である。まさに名存実亡の組織といわざるを得ない。 株主の利益を最優先する米国流資本主義が猛烈な格差の拡大を招いているのに対し、「売り手よし、買手よし、世間よし」の伝統を持つ日本式経営では事業を通じた社会への貢献を重視し、いかに功績があろうと、あまりに突出した報酬は批判を浴び、会社の評価を下げる結果にもなりかねない。 ゴーン氏はそんな日本の社会風土を知り過ぎ、自分ひいては日産の評価が下がるのを恐れ隠蔽(いんぺい)に走ったのではないか。最高責任者として堂々と所信を述べ、欧米と比較して決して不当な報酬ではないと説明すれば、あるいは、この悲劇は起こらなかったかもしれない。 ただ、二万人の人員整理、大型工場の閉鎖、コストカッターとよばれる荒業でV字回復したものの、犠牲になった人を思えば、ただ一人10億円の報酬は果たして如何なものかとの日本社会の冷たい反応が予想できた故に、10億円の報酬を7億円にするなど、報酬の多くを隠蔽する結果になったり、その後、個人の投資損失を日産に付け替えするなど、違法の道に落ち入ったのではないだろうか。 最後に私がカルロス・ゴーンを「He is “ Gone”」ともじると、普段、私の駄洒落を軽蔑する息子たちも珍しく誉めてくれた。少し気を良くし、最も愛する「ゴン太」としばし戯れた後、ベットに滑り込んだ。 |