「日野原重明先生」―ご逝去― [2017年07月21日(Fri)]
「日野原重明先生」 ―ご逝去― 私が日野原先生との面識を得てご指導を賜って約50年になる。報道の通り、先生は7月18日、ご自宅でご家族に看取られながら天国へ召された。 先生との最初の出会いは、笹川良一が箱根で脳血栓で倒れた折、偶然近くで会議に参加されていた先生が駆けつけてくださり治療を受けたのが最初であった。勿論、先生と笹川良一は旧知の間柄であった。 先生は、これからの医療は教育的予防医学が大切で、その活動拠点として『ライフプランニングセンター』の設立を計画され、協力させていただき、活動を開始した。1973年4月の創設以来44年、今も三田の笹川記念会館の11階に、久代登志男先生指導のもと、『人間ドック』は盛況を極めている。 この『人間ドック』なる言葉は日野原先生の造語で、船舶は2〜3年に一度、安全性確認のために地上に引き上げて検査することから、人間も同じように検査すべしと『人間ドック』との造語を作られた。 当時は血圧計も聴診器も医師専用で、看護師は使用を認められていない時代であった。先生はよく「医者が心電図を見ているのは稀なことであり、それよりも、一日何十人もの心電図を計測する検査技師の判断の方が秀れている。さまざまな検査技師の充実も大切なことだ」とおっしゃったり、「成人病との名前はおかしなことだ。これは過度の酒やタバコ、乱れた食生活等、悪い生活習慣の蓄積からなる病気なので『生活習慣病』というべきだ」と関係諸機関を説得され、『生活習慣病』が定着し、『成人病』は死語となった。 先生はジョンズ・ホプキンズ大学医学部の内科教授、ウイリアム・オスラー博士を尊敬されていた。私が30代の頃、先生は優しい眼差しで、医者でもないのに「人生の参考になりますよ」と、オスラー博士講演集『平静の心』日野原重明訳(医学書院出版)をサイン入りで手渡してくださった。私の本棚の中央に、いつも私を戒めるように鎮座している。先生の文化勲章受賞記念パーティーの挨拶でも、私は先生とオスラーの『平静の心』について話しをさせていただいた。 この本は医学書といより人間如何に生きるべきかという哲学書か人生訓の本のようで、「我々の存在は、人生から何かを与えられるためにあるのではなく、自らが出来ることを『人生に』与えるためにあるのだ」との名言もあり、先生は訳者序において「医療の世界に働くものにとってこの本は聖書のような存在で、一般人までがこれを愛読しました」と述べ、「私が今日の仕事に全力投球できる力を与えてくれたのは、この本に示されたオスラーの言葉である」と書かれている。 オスラーは、医師を志す者は医学の勉強だけでなく科学、哲学、文学などの人文教育も大切だと説いています」と言って、正に先生は音楽を愛し、演奏し、人間の命の輪廻をつづった『葉っぱのフレディ』では、脚本だけでなく自ら舞台でも演じられ、詩を書き、著作多数、平和と人類愛の講演、晩年は書道展も開催された。39歳で米国に留学。先進的な臨床学に深く感銘を受けられ、生涯現役臨床医としてウイリアム・オスラー博士の思想と行動を実践された。 ちなみに、オスラー博士は1849年生まれ。1919年没。70年の人生であった。 先生とは独立型のホスピスの建設、ホスピスナース3692名の養成、メメント・モリ(死を想え)の全国講演旅行、それに私の終生の仕事となったハンセン病制圧活動の拠点となった『笹川記念保健協力財団』は、初代東京大学薬学部部長でハンセン病の特効薬・プロミンの合成に成功された石館守三先生、日野原重明先生、笹川良一の三人によって設立されたが、最初の設立資金は若輩の私に提供せよとの命令に従った。 日野原先生は会議の居眠りの名人でもあった。会議の冒頭挨拶後、しばらくして眠りに入られ、会議終了挨拶では、まるで議論を全て聞いておられたように総括され、その名人芸には何時も感心させられたものである。 石館守三先生、笹川良一、日野原重明先生、奇しくも三人とも7月18日が命日となった。 ご冥福をお祈りします。 |