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日中医学協会設立30周年記念―特別講演― [2016年01月22日(Fri)]

日中医学協会設立30周年記念
―特別講演―


日中医学協会では、中国全土より選ばれた笹川日中医学奨学生を日本全国の医科大学及び医学研究所で養成してきた。30年間、2,300名もの日本で学んだ医師は、今や現代中国の医学界を背負う中心的役割を果たしている。この間の日本財団からの支援金は94億円の巨費であった。

そこで、30周年を記念し、創設以来のエピソードの一部を紹介するスピーチをさせて頂いた。掲載が大幅に遅れたことはご寛恕願いたい。


****************


2015年10月30日
於:学士会館


182.JPG


私は医学の専門家ではありませんが、日中医学協会における笹川奨学金制度が相当大きな役割を果たしてきたということについて、お話をさせていただきます。

日中医学協会誕生時のことですが、当時癌研究会にいらっしゃった黒川敏郎先生(東北大学総長・文化勲章)と、日本薬剤師協会の会長もなさいました石館守三先生(初代東京大学薬学部部長)のお二人が私の事務所にお越しになり、これからの日・中交流のため、特に、政治と関わりのない分野で両国の国民の基本的な生活条件である健康をつかさどる医学の分野で交流をしたいというお話がございました。大変遠慮がちに、何とか6、7名、できれば10名の奨学生を受け入れたいというお話でした。

私は「中国という大国を相手に具体的な成果を上げるためには、相当大きな人数が必要です。また、長期的な展望で戦略的な思考を以てことに当たらないと難しいのではないか」などと、若気の至りで、二人の大先生を前にしてお話しさせていただいたことを思い出します。

お二人共困惑した様子でいらっしゃいましたが、お帰りになってからスタッフの皆さんと相談し、私の申し上げた100人規模で考えてみましょうと言うことで笹川医学奨学金制度がスタートをしました。

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最初の中国の保健省・陳敏章部長(大臣)との会談には、私と笹川記念保健協力財団会長の紀伊国献三先生が参り、そこで私は2つの条件を提示しました。一つは、優秀な学生や医者を北京や上海に偏らず、中国全土から出していただきたいということ。もう一つは、医療のあらゆる分野から出していただきたいということの2つの条件でした。勿論、陳敏章先生は快諾されました。残念ながら当時はまだ看護婦、看護師の役割は理解が得られておらず、日本で教育するということについては時間がかかりましたが、6、7年経って看護婦の奨学生も受け入れることが出来るようになりました。現在の中国の看護師会の会長はこのときの第一期生です。

日本にいらっしゃっていただく以上、しっかり成果をあげたいということで、まず中国側で試験をやっていただき、その後1年間、長春において合宿形式で日本語の勉強をしていただきました。そこでは日本語を覚えるだけでなく、日本の社会的な習慣も含め、すぐに生活に慣れるようにということまでも配慮して準備をしていただきました。当時の中国の奨学金制度はごく一部のところにしかありませんでしたので、本当に優秀な方々が来日して下さり、日本にとってもいい時期だったのではないかと思っています。

文化摩擦、文化交流の難しい場面もございました。「とにかくわからない事は何でも聞いて下さい。異文化交流するのですから何でも結構です。不愉快な思いをされることがあるかも知れませんが、それはひょっとして誤解だったということもありますので、黙っていては理解できません」と申し上げていました。ある時、お昼に松花堂弁当を出しましたら、中国の方にとっては冷や飯を食わされたということで、「これは犬や猫しか食べないもので、箱は立派だけれども、我々を侮辱しているのではないかと言っている」という話が漏れ聞こえて参りまして、次からはご飯だけは温かいものを出すようにしました。

日本の先生方は、奨学生の受け入れをお願いした時、一人として拒否される事はありませんでした。本当にありがたいことだと思っております。東京、大阪など大都市の大学だけではなくて、日本全国津々浦々、北海道から沖縄に至るまでの各大学で勉強していただきました。また、その地方独特の文化も吸収し、日本の地方文化や日常生活における日本人の様子も知っていただきたいと欲張りなプログラムを考えていただきました。

奨学生の方々は各地方で本当によく勉強されていましたし、それぞれの地域で歓迎され尊敬も受けていたため、主任教官や他の先生方がいろいろなプレゼントをされたようです。ところが、日本側から見ると、奨学生たちがその贈物を本当に喜ばれているのかわからないという話がございました。よく調べてみますと、中国では贈物を頂いたときに「ありがとうとございます」と一回だけ言うのが習慣だそうです。日本では家に帰って着てみて、大変良かったとか、何遍でもお礼を言う習慣があるのに、中国の方が一遍しかお礼を言わないのは、本当に喜ばれたのかどうかわからないという疑問を主任教官の先生や関係者が持たれたようでございます。しかし、中国では二度も三度も言うともっと下さいという催促の意味だそうであることもわかってまいりました。

記録には残っていないことですが、1年間日本で勉強するというのは実に大変なことで、特に主任教官の先生の忙しさは半端ではありませんでした。奨学生から見れば、主任教官の先生が本当に私のことを考えて下さっているのだろうか、もっとゆっくり先生とお話しする時間が欲しいとか、他に生活に対する悩みもあったようです。それをしっかり受け止めてくださったのが阿部さんという日中医学協会の女性で、「日中医学協会の母」ともいわれた方です。随時電話をしては今の状況等はどうですかと聞いていらっしゃいました。こういうサポートしてくださったかたがいらっしゃったから1人の脱落者もなく、この奨学金制度は中国の政府からも高い評価があり、成功したのでしょう。

一度だけ悲しいことがございました。大晦日に交通事故で亡くなられた方がお一人いらっしゃいましたが、本当に手厚い配慮をしていただきました。北京の郊外に住む軍医の方で、正月明けに私が北京のご自宅に弔問にお邪魔をしましてお詫びを申し上げましたが、中国の方々には、逆に良くここまで面倒見てくれたと感謝されました。

SARS(重症急性呼吸器症候群)の流行の時には、奨学生のO.B.の方々が第一線で活躍してくれて、温家宝首相より感謝の談話があったということです。あるいは、四川の大震災でも皆様大いに活躍をして下さったとも伺っております。

中国の諺で「一年穀物を植える、十年木を植える、百年人を育てる」というのがあります。まだ三十年少々しか経っていないのですが、もう数百年分の人が育ったのではないかと思われる位、奨学生の皆様は中国医学会の錚々たるメンバーに成長なさいました。これこそ人を育てることの大切さ、また喜び、人生そのものの喜びを私自身、感じさせていただいたわけでございます。

日・中・韓の三国は時代によっては緊張する時もございました。「歴史を鏡として未来に進もう」という言葉がよく中国の為政者から出て参りましたが、私は「歴史を鏡とする」という言葉だけでは不足です。これは日・中間の近代史の一部を切り取って「歴史を鏡とする」という意味に日本人は捉えます。日・中を2000年という歴史で見れば、おだやかな二国間関係であったといえます。世界史の中で2000年も続いた二国間関係は日・中間だけで、地政学的にも離れ難い隣国なのです。

国家レベルで日中間が常に友好状態であるとは限りません。しかし経済的には相互依存は年々深まっております。これを配慮すれば、多少のトラブルが出たとしても2000年の長い歴史に立って少しおおらかな気持ちで対応すればいいのです。民族的な愛国心で騒ぎ立てれば必ず不幸を招くというのは、世界の歴史が証明していることです。

日中医学協会は、これまで人々の健康を守るという最も大切なことを果たしてきました。協会30年を機に、これからも日・中間の人々の健康を維持するためさらに大きく飛躍すると共に、政治の世界とは離れて、日・中だけではなくてアジアの社会に羽ばたけるような、そういう日中医学協会であって欲しいと思います。と同時に、中国衛生部とのパートナーシップをさらに強化していただきたいとの期待を込め、この30年間の皆様方の努力に心から感謝を申し上げますとともにお祝いを申し上げ、新たな30年に向かって発展されることを心から祈念をいたします。
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コメント
23日土曜日の読売新聞の二面を見ました。TPP審議に影響という記事です。
Posted by: no name  at 2016年01月24日(Sun) 16:47


軍医の方が亡くなられた訃報の内容を読みました。
追悼の意を。

やたら鼻と口が冷えますが、ワシントンは豪雪中でした。

冷たいものを食べさせるのは中国では無礼にあたるのですね。
Posted by: 匿名  at 2016年01月23日(Sat) 15:22

笹川さま

いつも臨場感あるお写真、深い記事 有り難うございます。
以前のスピーチでも、ぜひ読ませていただきたいです(^-^)

『北京や上海に偏らず、中国全土から出していただきたい』
『医療のあらゆる分野から出していただきたい』
なんてステキな条件でしょう。
若い頃から、大胆でスピーディな決断で 善行を重ねていらしたのですね…

『民族的な愛国心で騒ぎ立てれば必ず不幸を招くというのは、世界の歴史が証明していること』
完全に同じ思いを持っています。
そして、美しいものを美しいと言えて、正しいことを堂々と正しいと言える。
このような世であってほしいです。
Posted by: apprentice  at 2016年01月22日(Fri) 23:12

立派な講演ですね。私も27歳から3年間オーストリーの政府の奨学金を頂きウイーン音楽大学で勉強させていただいたことがあります。さらに 1985年、東ドイツの交換教授として1年招かれました。解放3年前でしたが本当の世界の姿を見たと思います。
これらが今のピアノパラリンピック運動につながっていると思います。さまざまな形で社会から恩恵を受けたもののご恩返しとしての義務だと思っています。
きっと中国のお医者さんがたも分野は違うとはいえ同じ感謝を覚えておられるでしょう。
迫田時雄
NPO国際障碍者ピアノフェスティバル委員会 会長。
http://www.cipfd.com/jpn/
Posted by: 迫田 時雄  at 2016年01月22日(Fri) 09:33

簡にして要を得た短い挨拶で、これまでの素晴らしい活動をの歴史を
教えて頂きました。使われたお金は今後数百年にわたって生き続けると期待されます。感激しました。
Posted by: 清川佑二  at 2016年01月22日(Fri) 09:10