「日・中葬儀事情」その2 [2011年07月06日(Wed)]
壮大な桂林の山河 こんな所で眠りたい? 「日・中葬儀事情」その2 中国の伝統的モラルは、「孝悌」(こうてい:父母に孝行し、兄によく従うこと)を重んじることである。 最近は「厚養薄葬」という言葉が流行りである。死んだ後の豪華なお葬式、墓、供養よりも、生きているうちに親に豊かな生活を享受させる「養」こそ「孝悌」の真髄だというのである。 このような考え方は唐突に出てきたものではなく、昨今の中国の役人や富豪たちが、亡くなった親のために執り行う豪華な葬式に対する批判として現れた一面もあるようだ。 古代の中国人は死後の埋葬を重視していた。秦の始皇帝の兵馬俑に囲まれた山のような墓とまでは行かなくとも、仁徳天皇陵に遜色しない歴代帝王の豪華な陵墓は随所にある。この現象は漢・魏の時代が最も盛んで、王族だけではなく、豪族、富商たちも競い合って葬式と陵墓作りに財産を投入した。 ところが、これが国の財政収入に影を落とすほどの大問題になった。東漢の皇帝たちは相次いで「薄葬」を提唱し、自らも実践した。魏の始祖曹操に至っては、「薄葬令」(墓作りの簡素化令)まで出して、死んだ人のために無駄金を使うことを禁じた。近年、河南省の安陽で発掘され、曹操の墓だと確定されたお墓も、帝王の身分に見合わぬ質素なものだった。 しかし、古代帝王たちの美徳は今日の人たちに必ずしもうまく継承されていないようだ。 経済的に豊かになると、金持ちたちはどうしても亡くなった親のために豪華な墓を作りたくなる。しかし、中国の土地は国有であり、広大な陵墓作りは不可能。そこで、かわりに豪華な葬式を行うことになる。特に役人の場合は「権力」と「人間関係」を駆使し、生前親に十分孝行を尽くせなかった償いとして埋葬前の豪華な葬式を行うようになった。 中華人民共和国建国後で、自分が死んだ後は墓も作らず、遺灰を祖国の大地にまいてほしいという遺言を残した人物は周恩来が最初だと記憶している。彼は「墓さえも作らなかった偉人」として国民の評価も高かった。 その真似をしようとしてか、地位の高い人物が祖国の名山、大川、海に、あるいは自分の生まれ故郷の大地と小川に散骨せよと格好いい遺言を残す人が増えた。殆どは生前に一定の地位を得た官僚たちである。 ところで、これが実は豪華なお葬式よりもずっと大変な一大行事なのである。 東北地方出身で、北京の中央省庁の局長クラスの官僚が亡くなった。遺言は「生まれた県の川に遺灰をまいてほしい」というものだった。しかし、いざ散骨日になると、これが大変な騒ぎとなる。 遺灰を入れた骨壷を抱えた未亡人とその子女たちを省庁が調達した黒塗りの専用車で空港まで送る。遺族のほかに、生前の勤務先を代表して指導部の者も飛行機に同乗し、故人を故郷の省まで送る。 飛行機が故郷の空港に着くと、そこには省の指導者、出身県の指導者が待ち受けている。空港から出身県までの長い距離を先導車つきの車列が疾走。出身県の地元では盛大な行事が行われる。沿路には物珍しげに見物する農民の人だかりができる。県長はじめ、県の人事、交通、衛生、放送局やテレビの取材班、その上、教育(故郷の子弟たちにすれば、模範になる人物が帰郷した)部門の人たちまで揃う。 選ばれた散骨地に着く。これだけの郷党の前だから余計威勢を張り、一気にではなく、いかにも厳かに川に散布する。幸い、故人を偲ぶ会は亡くなった直後に北京で開催されたので、散骨式の前後に故郷で開催する労は免れたが、ご遺族や中央からの一行の招宴は必ずつき物である。故人の生家、勉強した学校、ついでに地方の名勝も見学しながら、故人を偲ぶことも流儀になっている。そのご暫く滞在し、一行を地方の中心都市に送り、そこからまた飛行場まで送るのが礼儀なのである。 いやはや大変なことである。 |