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「ベルゲン:ハンセン病の原点を考える」 [2011年01月10日(Mon)]

ハンセン氏の研究室


「ベルゲン:ハンセン病の原点を考える」

国立療養所多磨全生園:多磨1月号

WHOハンセン病制圧特別大使 笹川陽平


2010年9月、ノルウェー第二の都市ベルゲンを訪れました。ノルウェー南西の沿岸地方にあるベルゲンは、静かなフィヨルドに面して広がる天然の良港で、13世紀にはハンザ同盟の四大重要都市として、干しダラなどの海産物交易で栄えました。

私が今回ベルゲンを訪れたのは、ここがハンセン病の近代史に重要な位置を占める場所であるからです。たまたまお隣のスウェーデンで、「スカンジナビア・ニッポン笹川財団」の創立25周年を祝う催しがあり、その機会を利用してベルゲンまで足を伸ばすことができました。

ベルゲンは、1856年に世界で最初にハンセン病の患者登録を始め、1873年にゲルハール・ヘンリック・アルマウェル・ハンセンが、「らい桿菌」を発見した地でもあります。この発見により、ハンセン病は神の罰でもなく、遺伝病でもなく、感染症であることが判明したのです。また、爾来この病気をハンセン病と呼ぶようにもなったのです。

ノルウェーにおいて、ハンセン病は西暦1000年ごろにアイルランドから入ってきたといわれます。既に他のヨーロッパ諸国では1500年ころまでにハンセン病患者が激減していたが、不思議なことにノルウェーでは西部の海岸沿いで1800年ごろから患者数が増え、広まりを見せました。その患者たちは、貧しい漁民や農民であったといわれます。

私が訪れたベルゲン市が運営するハンセン病博物館は、聖ヨルゲンス病院という1411年に建てられた病院の中にありました。何回かの火災で焼失した建物は1754年に建て直され、現在の博物館になっています。この病院はそもそもハンセン病患者を収容するために建てられましたが、その後患者数の減少により、1600年代には一般病院となり、再度患者数の増加によって1820年からハンセン病専門病院とされました。1840年代には最大で179人の患者を擁しました。最後に入所を許されたのは1896年に入所した患者で、1900年には43人の患者がおり、1930年にはそれが5人となり、1946年に最後の患者が亡くなってそのハンセン病病院としての務めを終えました。

病院のたたずまいは、町中の閑静な場所にあり、清潔なこじんまりした木造建物に教会が寄り添っています。質素な二人部屋の病室には小さなベッドと共用の机と椅子が窓際にひとつずつ置かれ、明るい日差しが小さな窓からさしこんで居心地よくできています。患者はそれぞれの食事を自分で料理することが決まりだったそうで、一階にある台所は食事時になると大騒ぎだったといいます。

10人のハンセン病患者に祝福を与えるイエス・キリスト像が祭壇の壁に描かれた教会は、患者だけでなく一般の住民にも開放され、1891年までは患者たちも、外出して町を歩き、小さな病院の畑でできた野菜を売ったり、ものを買ったりすることは許されていたそうです。その後も政府の手厚い保護のもとで患者たちの生活は保障されており、物乞いなどはまったくなかったそうです。

ノルウェー政府は、患者数が激増した19世紀、この病気に政策上の高い優先順位をつけて取り組みました。

1830年のノルウェー議会の決議で、新たなハンセン病患者のための公立病院の建設が決まりました。また、ハンセン病の研究のための研究助成金の制度もでき、これを受けて研究を始めたのが、ベルゲン出身の医師ダニエル・コルネリウス・ダニエルセン(Daniel Cornelius Danielssen)とオスロ出身のカール・ウィルヘルム・ベック(Carl Wilhelm Boeck)です。聖ヨルゲンス病院を研究場所としたダニエルセンは、「らい学の父」といわれ、ベックとともに「らいについて(Om Spedalskhed )」という本を1847年に出版します。これはハンセン病が正確には何であるのかを生物学的に分析した研究書です。

そして、ダニエルセンの娘むこであったハンセンが1873年にらい桿菌を発見したのです。ただ、ダニエルセンは、ハンセン病を遺伝病であると考えていました。ハンセンはその義父の仮説に異論を最初から唱えていたといいます。1857年にベルゲンに280床のベッド数をもつ第一ハンセン病院(Leprosaria No.1)ができ、ハンセンは1868年にここで医師として勤務を始めました。

ベルゲンで私が訪れたもうひとつの場所は国立公文書館のベルゲン支部でした。ここには、1856年に国王令によって始まった全国らい患者登録(Norwegian Leprosy Register) の文書がそのまま残されています。これは特定の病気を登録する制度として世界で初めてのものでした。この年に登録されたのは合計2858症例で、人口一万人につき20人以上の比率でした。

そしてベルゲン地区では1856年に北ベルゲンの人口2500人の村で3.5%(87人)が患者だったという記録が残っています(一万人に約350人)。これに先立ち1854年にはらい対策医療主任(Chief Medical Officer for Leprosy)が任命されました。ノルウェーのすべての地域のすべての医者が自分の地域のハンセン病症例を登録することが義務付けられ、患者の名前、住所、出生地、家族構成、病気にかかった時期、住所の移動などまで克明にらい対策医療主任に届けることになっていました。このデータによって、ハンセン病の疫学的な研究が随分助けられたといいます。

この登録制度はユネスコの世界記憶遺産事業Memory of the Worldとして登録されています。ここにはそのほかにも興味深い資料が残っており、日本の医学者との1923年の連絡の記録なども残っています。1909年にはベルゲンでハンセン病国際会議があり、日本から北里柴三郎など数名の研究者の参加があった記録も残っています。

先の第一ハンセン病院の建物は今も残り、ベルゲン大学の公衆衛生学部が間借りしています。同大学教授で、ノルウェーの出生登録(Medical Birth Registry of Norway)の責任者を努められたロレンツ・イルゲンス(Lorentz M. Irgens)教授は、ハンセン病の研究者でもあり、私も父良一と共に出席した、1981年にノルウェーのヤイロで開かれたハンセン病の疫学に関する国際学会に、興味深い論文を発表されています。そこで教授は、ノルウェーにおけるハンセン病の流行の要因が栄養不良や貧困、ノルウェーの沿岸部特有のミズゴケ(sphagnum)の影響などであり得ることをあげ、また、1900年代になって急激に数が減少したのは、人々が物質的に豊かになり、栄養状態がよくなったからという理由をあげています。

第一病院の最後の患者は1973年に死去し、ノルウェー全体では、1950年代に発見された兄弟と妹の3人の患者が2002年に死去してハンセン病の歴史が終わったそうです。

同教授の案内で、建物内に昔のまま保存されているハンセン博士の研究室を訪ねました。さまざまな標本、人面マスク、顕微鏡、検体の入ったビンや書籍でいっぱいの棚に囲まれた部屋の大きなデスクの椅子に座らせていただき、往時をしのびました。

聞くところによればハンセン博士は、らい桿菌の発見後もそれをサポートする証拠を探すことに苦労し、義理の父も含む多くの研究者から批判されて苦しい日々を過ごしたといいます。彼は1875年にはらい対策医療主任となり、1879年には、本人の承諾なしに女性のハンセン病患者にほかの患者からとった腫瘍を接種した人体実験の罪で告発されました。これは、患者の権利が法廷で論議されたはじめてのケースでした。これによりハンセン博士は第一病院の医師を退任させられましたが、らい対策医療主任の仕事は1912年に亡くなるまで続けました。

聖ヨルゲンス病院は2003年に展示内容の大幅な変更を行い、ノルウェーにおける患者の名前を一般に公表する展示を始めましたが、その責任者で現在はベルゲン市博物館全体の展示主任であるシガード・サンドモ(Sigurd Sandmo)氏によると、今は裕福なノルウェーにも貧しい過去がある、ハンセン病もそして患者の人生もノルウェーの歴史の一部である、忘れられた過去を再発見する、というのがこのコンセプトであるそうです。そしてここでは、記録に残るすべてのハンセン病患者8231名の実名をパネルにして展示しています。ノルウェーでは、患者はすべてが実名を使い、名前を変えた人はいなかったそうです。

サンドモ氏によれば、ノルウェーでは、他の国に見られるようなスティグマや差別はあまり見られず、むしろ地方の村などでは、ハンセン病患者を特別扱いせず、コミュニティーも家族も患者を見捨てることはなかったといいます。

イルゲンス教授には疫学者としての意見を聞いてみました。私が、「北方の寒い地域では患者が早くいなくなり、南方の暖かい地域ではいまだに多くの新患が見られる。らい菌そのものに違いがあるのだろうか?」と問うと、教授は、「重要な質問だ。らいの感染については、最近進んでいる遺伝子研究やDNA研究などの分野でしっかり研究してみることが必要だと思う」と述べられ、MDT(多剤併用療法)に対する耐性菌の出現の可能性についても「まず不可避だろう、いまからこれも研究を進めることが重要だ」との意見でした。

らい桿菌の発見から140年あまりが過ぎた今、MDT治療薬もありながら、ハンセン病はいまだに地上からなくなっていません。残すところ、ブラジルと東チモールだけがWHOの制圧基準を達成していませんが、達成を果たしたところでもインドやインドネシアのように多数の新患が発見される国がまだ残ります。そして、感染経路もはっきりと判明はしていません。

もっとも発症率の低い病気といわれながら、いまだに病気になる人々がいるという謎をどう解いたらよいのでしょうか? なぜ、北方では患者が消えたのか、なぜ南方ではまだ患者が多く発生するのか、遺伝子研究、DNA研究をさらに進め 耐性菌が発生した場合の対応策も進めなければなりません。19世紀にダニエルセンやハンセンのような献身的な研究者が果たした病気解明の役割には大きなものがありました。そして、21世紀の現在も、この病気を解明するための研究は続けられなければなりません。

一方で、ハンセン病患者、回復者、その家族に対する差別と社会に残るスティグマの問題も早急な解決が必要です。幸いなことに、去る9月30日に国連人権理事会において、日本国提案による「ハンセン病の差別なくすために原則とガイドライン」案が全会一致で可決されました。この「原則とガイドライン」を加盟国政府が遵守し、ハンセン病患者、回復者、その家族の社会的復権に力を尽くすことが求められています。

私は世界中でハンセン病対策はオートバイの両輪だと説明しています。前輪は医学的問題、後輪は社会的差別の問題です。念願だった国連人権理事会の決議も採択されました。次はニューヨークの国連総会での決議も得るべく努力を続けます。世界的にはようやくオートバイが走れる環境が整いつつあります。さらなる努力を続けて参ります。
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コメント
とても魅力的な記事でした。
また遊びに来ます!!
Posted by: 履歴書の添え状  at 2014年06月04日(Wed) 13:35

昨夏、笹川会長に米国ヘレンケラーへの推薦状をご執筆いただき、現在、同組織のタンザニアのプログラムでボランティアをしております者です。その節は、大変お世話になり、どうもありがとうございました。

こちらでは、日本財団から支援された援助資金が最前線の現場まで行き届き、着実な成果を挙げている事を、日々確認しております。いずれまた、報告させていただきます。

ブログ、大変勉強になりました。

>本人の承諾なしに女性のハンセン病患者にほかの患者か>らとった腫瘍を接種した人体実験の罪で告発

医学にとって必要不可欠な人体実験(故笹川良一氏へのハンセン病ワクチン接種等)は多いですが、ハンセン氏のこの時代の研究も必要不可欠なものであったと想像します。事前にハンセン病患者の同意を得ることが疎かにされたのは事実でしょうが、当時、そのような研究上のルールはなかったようですし、今調べてみたら、この女性には結局無害であったようですし、何らかの陰謀により失脚させられたのかな、などと想像してしまいました。

駄文失礼いたしました。

Posted by: AT  at 2011年01月10日(Mon) 18:36