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笹川 陽平
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「川端康成と笹川良一の見えない糸」 [2010年10月04日(Mon)]


「川端康成と笹川良一の見えない糸」


川端康成は日本を代表する文豪である。伊豆の踊子、雪国、眠れる美女、千羽鶴、山の音など、新感覚派として「日本の美」を表現した作品が多く、日本人の心情の本質を繊細に描いたとして1968年にノーベル文学賞を受賞した。

川端は幼くして父母を亡くす。祖父・三又郎、祖母・カネと共に大阪府三島郡豊川村(現在の茨木市)に移り、1906年、豊川尋常小学校で造り酒屋の長男・笹川良一と同級生となった。祖父同士が囲碁仲間であったため、より親交を深めていったようだ。

川端は1899年6月14日生まれ。笹川は1899年5月4日生まれで、1カ月ほど笹川が年上である。

1917年、川端は志を持って上京。1920年、21歳で東京帝国大学(現在の東大)文学部に入学している。

21歳当時の笹川はパイロットを志し、陸軍の岐阜県各務原(カガミハラ)飛行第二連隊に入隊。1925年には豊川村の村会議員に当選して政治活動を始めており、株式やコメ相場で一財産を築いた時期である。

両人は大阪と東京、しかも異なった方向に励んでおり、交流は一時途絶えてしまったのかも知れない。川端から笹川への書簡は1961年(62歳)に川端夫人から桜鯛の贈り物の礼状、1970年5月には本人(71歳)から贈り物への簡単な礼状しか存在しない。

日本財団には川端の「大海」と書かれた墨書が掲げられているだけで、他に書簡などな見当たらない。多分あったと思われるが、なんらかの事情で紛失したものと思われる。笹川は筆まめだったので、1985年に開館した大阪府茨木市立川端康成文学館に存在するかも知れないが未調査である。

川端は何故か、1971年の東京都知事選挙で、美濃部亮吉の対抗馬として立候補した元警視総監・秦野章氏を支援。度々笹川を訪問していたようであるが選挙は敗北。翌年の1972年4月16日、逗子マリーナのマンションでガス自殺された。

笹川がハンセン病に関心を持ち、内外のハンセン病施設への慰問、さまざまな援助活動をしたことはよく知られている。川端もハンセン病患者で作家志望の北条民雄(1914年〜1937年、23歳で死亡)の親身な相談相手となり、北条の作家への志望を叶えるべく協力・指導したことは、作家・高山文彦氏の力作「火花―北条民雄の生涯」(角川文庫)に詳しい。

以下、高山氏のこの作品を参考にさせて戴く。

北条は1934年、20歳でハンセン病を患い、東京都下の全生病院(現在の多磨全生園)で隔離生活を余儀なくされる中、最初の作品「童貞記」が院内の機関紙「山櫻」1936年7月号に掲載された。同年8月、思い立って最初の手紙を川端に書き、川端より好意的な返書を受ける。

早速、作品「間木老人」の原稿を川端に送り、川端の斡旋で雑誌「文学界」に掲載される。その後、北条はハンセン病の自己体験に基づく名作「いのちの初夜」で第二回文学界賞を受賞する。勿論、師と仰ぐ川端の尽力があってのことである。当初、北条は「最初の一夜」の題で原稿を送ったところ、川端の手で「いのちの初夜」と改題され「文学界」に掲載され話題になった。

当時はハンセン病患者の書いたものを手にしただけで感染するとか、死人の骨からも感染すると恐れられていた時代である。北条に対する優しいまなざしと、ハンセン病に対する剛胆な考えは、川端自身の少年期の不遇な家庭環境の影響からかも知れない。

1937年12月5日、北条の死去の知らせを受け、多忙の中、午後には武蔵野の面影濃い多磨全生園にわざわざ弔問に訪れている。

この時川端は38歳。名作「雪国」を出版し、既に小説家として名声を博していた。

そのころの笹川は刑事裁判に巻き込まれ、後で無罪になるものの、法廷での闘争に多くの時間を取られていた。裁判は無罪で終わり、40歳には「大和号」でヨ−ロッパに旅立った。43歳で衆議院議員に当選。46歳でA級戦犯容疑者として巣鴨拘置所に入獄。現存する1961年の川端夫人からの桜鯛の礼状の時期はモーターボート競走の草創期であり、巣鴨の戦犯の釈放運動に奔走していた時代であった。

少なくとも1961年頃には川端と笹川は旧交を温めていたわけで、その頃、川端の住居は鎌倉で、東京の笹川事務所で会っていたと思われる。この頃、川端は日本近代文学館建設の資金集めに奔走。笹川は支援を快諾したが、井上靖が反対していて困ったと、詫びに見えたと聞いたことがある。

「川端さんようこそ。お元気そうですね」

「何とかやっております」

多弁な笹川の近況報告の中で、ハンセン病療養所の慰問や激励支援の話は当然出たものと思われる。

「僕も若い時分にハンセン病を患った若い作家の世話をしたこともあり、あなたもご存じの多磨全生園にも行きましたよ」

と寡黙な川端も話したに相違ない。

これは私のあくまでも推察ではあるが、どこかの時点で二人の間でハンセン病が話題になったことは間違いない。

父の意志を継いで、私は一年の三分の一近くを世界のハンセン病制圧と患者・回復者・その家族の差別撤廃のために働いている。

北条民雄の最初の作品「童貞記」が全生病院の機関紙「山櫻」に掲載されたことはすでに述べた。以後、全生病院は多磨全生園と名前が変わり、その後、機関紙「山櫻」は「多磨」の名前でハンセン病回復者の機関紙として続いている。私は世界のハンセン病制圧活動の報告をしばしば機関誌「多磨」に投稿し、掲載していただいている。

ハンセン病とのかかわりを通じ、川端康成、笹川良一、北条民雄、笹川陽平と、見えない糸で繋がっているように思えてならないこのごろである。


(次回10月6日は、「ゲンナジー・ヤナーエフ死去」です)
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