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少数民族・ムルシ族 [2010年08月20日(Fri)]


大きなお皿を口にはめたムルシ族


「エチオピア訪問」その6
―少数民族・ムルシ族―


エチオピアの首都・アジスアベバから9人乗りの軽飛行機で800km南部のオモ渓谷に住む少数民族・ムルシ族(約5000人)とハマル族(約30,000人)の村を訪問した。

エチオピアで「ササカワ・グローバル2000」の名称で貧しい農民に食糧増産の農業指導を開始して24年。メレス首相の農業への理解もあって、プロジェクトは大いに成功。慢性的な食糧不足から解放され、1997年、「今日、ケニアに向けて食糧輸出船第1号が出航した」との感動的な書簡を頂戴した。

しかしその後、南部では豊作でありながら北部では旱魃で飢餓が発生したことがある。サブサハラ諸国では、一、二本の幹線道路以外、日本のような道路と呼べる道は存在しないといっても過言ではない。特に雨期の激しい降雨は簡単に道路を破壊。泥水は道路を遮断して通行止めとなることも多い。したがって、同じ国内でありながら、南部の食糧を北部へ輸送することが困難で、飛行機からの食糧投下以外に方法がなく、被害を拡大してしまう結果となる。

軽飛行機で南部の主要都市・ジンカまで約1時間半。眼下に見える田畑は雨期の恩恵を受けて川や湖の水量は十分。豊作が期待できそうだ。

飛行場とは名ばかりの草原に無事着陸。日本語で「こんにちは」「名前は?」と、四、五人の男性が寄ってくる。秘境の入口であるジンカの町のイメージはすっ飛び、落胆この上ない。

迎えの四輪駆動で移動開始。ドライバーのブルハンの親切な説明を聞きながら、オモ川流域に広がるマゴ国立公園を横断する。

象、ライオン、チーター、キリンなども生息するというが、ケニアのマサイマラやタンザニアのンゴロンゴロ国立公園と異なり見通しが悪く、道路脇に出でてくる若干の猿やインパラのような動物と鳥を数種類を見ただけだった。恐ろしい眠り病のツェツェバエの生息地と聞きびっくり。降車することなくマゴ国立公園を通過。

約2時間で特徴ある写真のような女性が生活する40〜50人の村に到着。目的地の村は更に先だが、ガイドのジョセフが「銃声が聞こえたので危険」と判断。急遽、この一族の集団を見学することになってしまった。

ムルシ族は気が荒く戦闘的な部族で、午後は稗(ひえ)ととうもろこしで製造した75度の強烈な酒を呷って男女とも微睡む習慣がある。当初の訪問予定地ではすでに酒が入り、ソ連製カラシニコフの発砲音が聞こえたとのことで訪問中止となったわけである。

この一族の集団はかなり観光客に馴れているようで、「写真を写せ」と老若男女が前後左右から強引に擦り寄ってくる。写真一枚に値段があるようで、写すたびにガイドのジョセフが紙幣を渡している。

カメラ担当の富永夏子が自然体の被写体をとシャッターを切ると、目撃した住民が「ブル、ブル」と手を出してくる。ブルとはエチオピアの通貨のこと。日本円で、男性グループは70円、女性35円、子供14円の撮影料と、かなりの高額であり、観光ずれしていることがわかる。

ムルシ族の女性は、唇に「デヴィニヤ」と呼ばれる土器で作った皿をはめ込む。数百年前、奴隷として捕えられ新大陸に送られた悲しい歴史があり、自分を醜く見せることにより商品価値を無くし、捕えられないようにしたことが始まりだと言われているが、現在では大きな皿をつけているほど美しい女性とされ、結婚する時の結納に交わされる牛の数も多くなるという。

写真のように顔の大きさほどの皿をはめている女性もおり、通常男性の前では外さないことになっているが、皿を外した唇はまるで七面長の顎のようにしわしわで、醜い形となる。皿が歯に接触するためか、前歯の上下二本つづを抜いている女性が多い。

男性は前歯の上一本か二本を抜いている人が多い。サブサハラでは前歯の間が空いている、いわゆるスキッ歯の状態の人は幸運との言い伝えがある。日本では死後水で唇を濡らす習慣があるが、サブサハラでは死人に水を流し込む習慣があり、生前に前歯を抜くことがあるようだ。

ササカワ・アフリカ協会のチャド出身のデボラは、サブサハラの農業大学の人材養成プログラムの責任者で、すでに1300人余の人材養成に成功した熱い情熱の持つ主で、その上、紳士。日本人妻との間に可愛い娘が一人いる。彼は前歯が一本スキッ歯になっており、アフリカでは幸運の持ち主といわれている。

「日本で歯医者に行くと、スキッ歯の所に義歯を入れてやるとうるさくて困る。スキッ歯は幸運の印だよと説明すると、医者は不思議そうな顔をする」と言うと、デボラはスキッ歯をあらわに、人なつっこい顔で大いに笑う。

ムルシ族が気性の荒いことはすでに述べたが、同行の笹川アフリカ協会の横山陽子は、ムルシ族の女性にいきなり両手でシャツを広げられ胸をのぞかれるハプニングもあった。

ムルシ族の男たちは、常食の稗(ひえ:ソルガム)の収穫後、「ドンガ」という2メートルほどの杖で他の村人と戦う「スティックファイト」と呼ばれる習慣があり、この戦いに勝利することは一族の尊敬を集め、また、自分の好みの女性を娶るチャンスでもある。

しかし、現在は簡単にロシア製カラシニコフが手に入り一発で絶命してしまうが、今でも「スティックファイト」が行われているのか、残念ながら聞き洩らした。





(次回8月23日は、「少数民族・ハマル族を訪ねて」です)
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コメント
 大森老師は『大慧書』を提唱したとき、当時の大平外務大臣のことを「腐った冬瓜」と言われた記憶がある。

大森老師は、
 昭和四十一年(1966)3/7、山王ホテルでベトナム前元首ハン・カクスウ氏に会う。
7/28、チ・クアン師と会見の為再びベトナムへ飛び立っている。
昭和43年(1968)9/22、ベトナム、サイゴンへ。この年も、ベトナムとの交流多し。

 小生は老師から直接にベトナム和平工作の話を聞く機会があつた、当時、南北ベトナム統一に精魂傾けておられたようである。

 北ベトナムは大乗仏教の国でありチ・クアン師に対する民衆の信頼があつい。
 そこで、チ・クアン師の擁立工作が始まったということである。

 大平外務大臣は、すこぶる決断力と見識に欠けていたのであろう。
 米国に追従するだけで、政策というものがない。
高橋ベトナム大使など、本国への報告は米軍の情報に限られたいたという。

 それに、米国の核のトランジションの問題、最近まで日本国民に隠し続けていた。
 実のところは、大平氏は国民に説明するチャンスがあったのにそれをする勇気が無かったのであろう。

 そのような優柔不断な大平氏を「腐った冬瓜」と表現したのであろう。

 少なくとも、今、当時のことを回想するとそのように思えるのである。
Posted by: 夕焼け  at 2010年08月22日(Sun) 15:22

その4
井々先師のいわゆる八紘一宇の真精神とは何であろうか。それは一部固陋の徒の解するような民族主義でもなければ、また世の進歩的と称する似而文化人の曲解するようなジンゴイズムでは決してない。いわば世界精神を、日本の古語で表現したものに他ならない。
禅的に言えば、這箇漸である。一即一切、一切即一のことである。釈尊はこれを、一指を天に上げ、一指を地に垂れて、天上天下唯我独尊と喝破している。
これを教相的に言えば、因縁性空、因果無人、共存共生持ちつ持たれつの理想社会のことである。言葉は符牒であるから何と言い換えてもよい。けれども八紘一宇という言葉に盛られた内容そのものは、古今を通じて最高無二の指導の原理と言ってよいであろう。
第二次世界大戦の時には四つのブロックに分かれていた世界はいまでは二つの陣営の対立となっている。第三次対戦の有無はさておいて、やがて原子力の媒介によって一つの世界を現出するに至るであろう。即ち世界は明らかに統一の方向に進みつつあるといえる。しからばその統一世界の指導原理は何であろうか。精拙和尚を地下より請じ来って、稽首してこれに問え。
(昭和二十九年九月)
Posted by: 夕焼け  at 2010年08月22日(Sun) 09:37

その3
「わたしは大臣にも大将にも随分沢山会ったが、一人として八紘一宇ということを正しく理解したものが居らなかった。これではいかんと思った。そこでこれから半歳の間に、全国民に八紘一宇の本当の精神を叩き込んでおく必要がある。それが日本再起の根源をなすものだ。君は国士だ。今は安閑として坐禅などしている時ではない是非それをやってくれ。わしも病気が癒ったら必ず君と一緒にやる。それまでの間是非やっていてくれ!」
そう言いながら、私の手を固く握られた。私は黙ってコックリと肯いただけだった。涙が滂沱として何も言えなかったのである。それから十年、いまでもあの時の感激は絶対に色あせていない。
先師のこのいやはての言葉は果たして迷であるか、悟りであるか、私はこれを知らない。けれども私にとっては絶対のものとしていつまでも「高枝の払著するが如くに」私の心を打っている。先師の遷化の前日、ふるえる手で遺草をものしている。
「個純瞞漢六十九年覓精得拙虚空喫&#39002;」と。
元来先師は豪快にして瀟酒、竹を割ったような男らしさの中に、低徊去る能はざる情味を蔵していた。けれども一面あの荒削りの粗野な風貌に似合わぬ縦横の才気があった。峨山和尚の侍者をしていた頃のこと、峨山和尚から講座の前になると必ず講本の下読みを命じられる。仕方なく読むとやがて講座のとき峨山和尚はその通りに読んで、「・・・というのじゃげな、エイ、猪才の小才子が!」
と必ず言ったそうである。これが身の毛もよだつほど嫌だったと自ら述懐していたこともある位で恐らく常にここに彫琢を験していたものと思う。
ところがこの遺草には、その才気が全くなく、訥々誠実の風が現れている。正に「精を覓め」つくした結果に得た「拙」とでもいうべきで、見るものをして思わず粛然たらしめる。全くよく精拙元浄の真骨頂を現している。
それと同じように私の聞いた最後の言葉は一見俗語に似て実はこれまた青峨禅の血滴々である。
Posted by: 夕焼け  at 2010年08月22日(Sun) 09:36

その2
来る十月二日は先師精拙和尚が遷化されてから、丁度九年目の忌辰に当たる。毎年のことながらこの日が近くなると、私の心は傷みにうずく思いがする。
その年の八月十五日、日本は初めての敗戦の経験をさせられたのであるが、その日まで張り切って徹底抗戦を主張してきた私は、大詔が降ってもなお諦め切れずにその主張の貫徹を策したのであった。けれども大勢は如何とも致し難く、計画は尽く挫折してしまった。思い余った私は、9月の半ば非常な困難を排して遙々と京都に下り、先師の門を叩いたのである。
ところが、先師は恰かも重病で面会は不可能とのことだったので、何がしかの見舞い金を包んで差出し、トボトボと帰りかけた。山門の近くまで来ると、隠侍が追っかけてきて「東京の大森さんなら、老師が是非会いたいそうです」という。先師は床の上に小さな机を持ち出し、それに体を凭せかけて私の入ってくるのを待っていたが、私の顔を見るやいなやいきなり、世界はこれからどうなると思うか、日本はどうすればいいか、軍備はもう再び持たされないと思うが無防備でどうやってゆくか等々、矢つぎ早に質問された。
実は、私のほうで今後の方針の指示を仰ぐべく、遙々京都までやって来たのである。いま質問されたようなことがハッキリと判るくらいなら何も京都まで来る必要がないではないか。けれども師の点検に対して「判りません」では済まされない。私は坐り直して入室したときのような気持で、誠心を傾け尽くして必死に応答した。
すると、先師は侍者を呼び、「ウイスキーを出せ、一番上等のを!」と、何回か出しなおさせた末にオールド・バーを運ばせた。侍者がグラスを添えて出すと、
「金杯を持って来い」と言ってこれも取換えさせた。そして私を近くへ招き、不自由な体で自ら酌をされた。私がグッと飲み乾すと、「わしも飲むのだが、こういう体で飲めんから独りで済まんがもう一杯!」と、立てつづけに二、三杯酌をされた。
飲みおえて金杯をお返しすると、やおら「自分はこう思う」と言って、日本や世界の将来についての見通しを縷々として述べられた。そして最後にこう言われた。
Posted by: 夕焼け  at 2010年08月22日(Sun) 09:36

その1
「現在は簡単にロシア製カラシニコフが手に入り一発で絶命してしまうが、今でも「スティックファイト」が行われているのか、残念ながら聞き洩らした」

 ヨーロッパは中世一千年を経ることにより、奴隷制を廃止し、騎士道を完成させた。
 戦争は、相手を殺戮することが目的ではない、少なくとも第一次世界大戦までこの考え方が生きていた。

 第二次世界大戦は、米国の圧倒的な力のもとに、戦争というものが変化した。
 戦争とは総力戦であり、人間は殺戮の対象となる。
ライシャワーは、広島の原爆の殺戮能力を世界に知らしめたことは世界に対する多大な貢献という。
 そこまで、核兵器の抑止力を言うのであれば、自国に投下し証明するのがスジというものであろう。
 それに、大量殺戮に加えて、敗戦相手を未来永劫マインドコントロールする仕組みを作ったことである。

 このハマル族にも文明の波が押し寄せ、もはや騎士道は通用しなくなつているのであろう。
 二十一世紀は種の絶滅の世紀だといわれている、弱肉強食の時代、新帝国主義の時代に突入しつつある現在である。

 日本人が理想として世界観から益々と世界はかけ離れつつある。

*八紘一宇の禅  ――精拙元浄禅師のこと                 大森曹玄
私がはじめて峨翁老漢に相見し参禅したのは、大正十四年、東京牛込の明徳会であった。室内は型の如く無字のせんさくから始まった。一年二年三年四年、何としても許さない。いや、許さないのではない。
「わたしの方はそれで透してもいいが、お前の方はそれで良いのか?」というのだから手のつけようがない。「履歴取りの雲水なら、何ぼか公案の型も教えておいてやらねばなるまいが、居士の君にはその必要はあるまい」ともいうのだ。
「わたしのようなものでも、初関をブチ抜いたときには、嬉しくて嬉しくて、曹源池の周囲を一晩中踊り回ったものだ」と、いわれる。
こうして漸く八年、カ地一声とはいえないまでも、どうやら蚤のきんたまほどの小歓喜を得て「一声居士」となった次第である。
Posted by: 夕焼け  at 2010年08月22日(Sun) 09:33

様々な文化があり、同時に現代という時間の中で得るもの失われるものもあるのだなと、読んでいて大変かんがえさせられ、また勉強になりました。大変なたびとおもいますが、お体に気をつけて頑張ってください。たくさんのかたにお薬や先生の思いがどとどきますように。
Posted by: さかもと未明  at 2010年08月21日(Sat) 00:39

小さな島で生活しています。笹川様のブログを読むたびに、自分の悩みが小さく思われます。「まだ頑張れる」「もっと頑張れる」という元気がわいてきます。笹川さまもお体にきをつけて...
今日は高校野球の準決勝です。平和な日々を送れることに感謝しています。
Posted by: katuko  at 2010年08月20日(Fri) 11:05