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笹川陽平(ささかわようへい)の国内外における活動の記録。このブログを通じて、私の毎日を覗いてみてください。

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「中国・梁光烈国防部長 表敬・会談」 [2010年06月18日(Fri)]


「中国・梁光烈国防部長 表敬・会談」


今年で10回目となる日中佐官級交流プログラムのため北京を訪問。梁光烈国防部長(日本でいう防衛相)と意見を交わした。

梁部長とは昨年6月の交流プログラムのときもお会いしており、中国側としても民間による防衛交流には関心が高く、この交流の継続を期待しているようだ。

今回の会談時間は70分。その要旨は以下に記すが、私の質問した北朝鮮問題やゲーツ国防長官の提案した米中軍事交流の拒否問題に、梁部長は軍人出身らしく率直な見解を示された。

表敬訪問は、通常、当たり障りのない話題が中心で、あくまでも表敬とするのが礼儀だが、私は民間人であるし、率直に質問した。


********************************


会談(要旨)


2010年6月11日
於:八一大楼


<梁部長>
昨年6月、笹川会長が訪中されたときに同じ会議室で会談した。笹川会長は多くの中国の指導者と会談し、両国の友好交流に尽力している。とくに防衛交流における多大な貢献には感謝している。

この佐官級交流団による相互訪問は10年間、順調に推進されてきており、このプロジェクトは防衛交流の重要な活動の一つで、国防部長として高く評価している。過去10年間の経験を総括し、将来の発展を検討。両国の防衛交流を引き続き推進したい。

<笹川>
どこの国でも政府間の軍人交流は、政治的に問題が出てくると中断せざるを得ないというのが国家間の防衛交流の宿命です。この防衛交流が実施されている間、政府間では日中間の防衛交流がストップしたことがありましたが、このチャネルだけはいかしていこうという双方のご理解によって続けられたことを思い出します。

民間団体が間に入るという一つのクッションを上手く使うことにより、防衛交流が継続されてきたことは、日中両国の一つの素晴らしい知恵だと思っています。

特に単なる軍事交流ではなく、お互いの国の社会や経済、文化、歴史、そして何よりも人々の生活に直接触れてお互いの国の国民を良く知るプログラムになっていることを高く評価したいと思います。

中国から訪日いただいた多くの方が等身大の日本を見学することによって、訪日前と後での感想は相当違ったようですし、日本側の自衛隊も頭で描いていた中国と実際に中国を体験した後では大きく違っているようで、これは防衛交流に大きく役立っています。

<梁部長>
日中防衛交流プロジェクトを高く評価する。若手将校の交流は両国の防衛交流にとって重要だからです。そして、着実に両国の防衛交流を推進してきたからです。

日中両国の防衛関係について話したい。

中日両国は友好な隣国であり、その関係は2000年の歴史がある。そして1972年の中日国交正常化以来、両国の関係はさらに発展してきた。指導者交流も緊密になり、各分野での交流、協力により多くの成果を収めている。国際・地域間問題については、意思疎通が図られている。

両国の貿易分野での成果も大きくなっている。国交正常化のときの貿易額は11億ドルであったが、2008年は2663億ドルになった。昨年は金融危機により減少したものの、2321億ドルに達している。また昨年の両国間における人的往来は550万人で、姉妹都市は245組ある。以上の数字は両国関係の発展を示すものだ。

中日関係は良好な関係を保っており、先に温家宝首相が訪日、各界の指導者と意見交換し、多くの合意に達している。中国は日本との関係を重視している。そして、指導者は共通認識のもと敏感な問題を解決、政治的な信頼を深めている。

防衛交流は重要で確実に発展している。その特徴は次の3点だ。

1つはハイレベルの交流が定期的に行われていることで、大臣、幕僚レベルでの交流、陸・海・空軍司令官による相互訪問を実施し、実務レベルでの交流は深化している。私は昨年11月に訪日、北沢防衛相と会談した。そのときは陸・海・空軍の基地、装備を視察、装備の近代化、技術の先進、管理の正確さにはとても感心した。

2つ目は、防衛対話のシステム化だ。両国はこのプラットホームを通じて関心事項について率直に対話できるようになった。

3つ目は、各分野での交流が多様化したことだ。艦艇の相互訪問、佐官級交流、軍事留学などを実施している。海上連絡システムの交流、協力についても検討している。

防衛交流は時どきの政治の影響を受けている。そのため民間の協力が必要となる。ここ数年間、中国戦略学会と笹川日中友好基金のもと、防衛交流は活発になってきた。中国側は両国の防衛交流を重視しており、この交流プロジェクトに対し2つの要望がある。1つは継続させたいこと。もう一つは将来の視点に立って発展させたいことだ。

中日友好の継承者である皆さまには、防衛交流に努力してほしい。皆さまにはこの訪中で多くの人民解放軍の将校、学者と会っていただき、客観的に中国の国防、そして経済発展を見ていただきたい。中国は平和発展路線を堅持し、防衛方針を打ち出している。温家宝首相が訪日したときに強調したように、中日は敵対するのではなく、パートナーである。温家宝首相の談話を踏襲し、防衛交流を発展させたい。

<笹川>
日中間に関する見解を伺った。

軍事の役割は2国間問題とともに、世界的に2つの問題がある。

イラン制裁への協力に賛意を表すとともに、ソマリア沖への艦艇の派遣によって海賊への大きな抑止力に貴国の艦隊が役割を果たしていることを高く評価したい。

近隣に不安定な北朝鮮が存在し、政治指導部も大きな変化があったようだ。長年の生活の苦労からくる軍人の精神的な疲労も極度に高まっている感じがする。この中で中国が北朝鮮に対して国際社会の一員としての役割を果たす努力をされていることは理解している。

しかし、北朝鮮の政府というよりも末端の軍人による極度の疲労状態と緊張状態があるため、偶発的な紛争が発生する可能性があると思う。北朝鮮の現状、あるいは彼らの軍人としての態度はどのようなものか。

<梁部長>
はっきり判断することは難しい。

昨年、北朝鮮を訪問し、次いで日本を訪問したときに鳩山首相は私に質問した。それは「中国と北朝鮮は歴史的に友好関係にあるのは承知している。北朝鮮は主権国家であるので、中国は内政干渉しないのか」というものだ。

北朝鮮の政治体制は他国とは異なる。金正日は69歳になっている。中国は北朝鮮の核開発問題に対して核兵器を保有することに反対している。そして朝鮮半島の情勢を安定させたい。

六カ国協議でもそのように意見している。朝鮮半島の緊張が高まらないように努力している。中国は米・韓・日との間で朝鮮半島の安定が重要との立場から行動している。

最近、中国と北朝鮮との国境で中国の民間人が3人殺害された事件が発生した。この事件に対しては抗議し、事件は解決したので、中北両国の友好関係には影響しない。

<笹川>
軍事的にも偶発的な事件は起こらないし、社会的、経済的には困難だが、当面は心配ないとの見解か。

<梁部長>
微妙な問題だ。それは予想できないことだ。
中国と北朝鮮の国境線は川であり、上陸することで主権侵略になる。両国では一つの協議があり、民間人への攻撃はしないことになっている。

<笹川>
日中軍事交流の重要性を指摘されたことは、その通りだ。しかし、中国にとって最も重要な二国間は米国であろう。米国が台湾に武器を輸出した問題はある。ゲーツ国防長官からの軍事交流の申し出を中国が拒否したとの報道があったが、当面は交流しないということか。

<梁部長>
拒否したのではない。タイミングの問題であり、タイミングが良ければゲーツ国防長官の来訪を歓迎する。中米の国防大臣による相互訪問の扉は閉じない。

<笹川>
日本は島国だ。海の問題として中国海軍が最近、非常に元気が良いように思う。それに対し、日本国民は神経が過敏になっている。東シナ海の安定について見解を伺いたい。

<梁部長>
中国海軍の東シナ海での行動は正常な訓練である。メディアが大げさなだけだ。日本のメディアには客観的に中国海軍の訓練を報道し、誤解させないようにお願いしたい。中国海軍の訓練は内海で行っており、海洋法条約に違反していない。自衛隊は中国海軍の行動を監視しないよう願いたい。中国も日本の海を監視しない。



(次回6月21日は、「笹川陽平 全裸写真」です)


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その3
・・・・・ 
 紀元前一一四年、漢の武帝は南に大軍をさしむけた。伏波将軍、路博徳は柳州・桂陽からいまの柳江を南下する。予章郡から送られた一隊と越人投降者の部隊は桂江をくだる。
そしてもう一つは、はるか雲南・貴州のほうへ迂回して、四川の罪人と夜郎(いまの雲南省昆明付近)の兵とをひきいて、東へ東へと&#29250;&#29249;江(ショウカコウ)をくだらせた。
 この大河は全長六百キロにも及び、今日では上流から南盤江(雲南)→紅水河(貴州・広西の境)と名をかえ、途中で柳江と桂江とを合わせ、ついには「西江」と呼ばれる大河となつて、広州デルタに出る。
 かつて漢が東越を滅ぼしたころ、唐蒙という漢人が南越王の趙他に招かれ、その席で四川産の枸醤(クコのジャム)をご馳走になつた。そのさい、この&#29250;&#29249;江が雲南・貴州さらには四川へも通じる連絡路であることを、趙他から教えられたそうだ。
 いっぽう張騫(チョウケン)が大夏(アフガンの北)に使いしたおり、かの地で四川の錦織りや竹細工を見せられて、「これはどこから来るのか」と尋ねたところ、身毒(天竺=インド)を通って輸入されるのだという。そこで張騫はシルクロードを通らずとも、雲南→身毒(天竺=インド)→大夏という南回の路線があるはずだと考えて、その意見を武帝に進言した。それを聞いた武帝は、しきりに雲南に兵をくり出して、路線を探索させた。新ルートを開くという目的は達せられなかつろたが、副産物として、&#29250;&#29249;江が広東に通じることがわかったのであった。(『史記』「西南夷列伝」)このたびは、実際に軍を動かして、その川筋をたしかめようとしたのだ。
 漢の大軍に攻められ南越の城は焼かれ、越人の多くは伏波将軍に投降した。&#29250;&#29249;江をくだつた軍は戦いには遅れたが、長い水路の行軍によつて、南のはての大動脈が、はじめて世に知られるようになつた。
 いまこの大河の両岸は、イ族し白族(雲南)、布依族と苗族(貴州)・壮族(広西)など、あまたの少数民族の居住地である。イ族はチベット系であるが、その他はかつての越人し夜郎国の人々の末孫であろう。漢は南越を平定したのち、それから南にかけて九つの郡を置き、ついにトンキンデルタにまで進出することになった。
Posted by: 夕焼け  at 2010年07月08日(Thu) 17:00

その2
やがて、趙他は南の三郡をあわせて、「南越の武帝」と称し、天子をまねた儀仗を整えて独立したが、漢の高祖は北方の平定に忙しくて、南のはてまでは、とうてい手が及ばない。長沙の人びとが心配して、南越に武器や農具となる鉄材を売るまいときめたが、南越は逆に長沙郡の南境に侵入しておびやかす。さらに西南辺境にいた駱越を配下におさめ、ついには今日のベトナム境内にも兵をくり出した。 
 漢の武帝は南越を懐柔しようとして、趙他の原籍にその親の塚をたて、陸賈(リクコ)を使者としてつかわした。すると趙他は、
Posted by: 夕焼け  at 2010年07月08日(Thu) 16:44

その1
 中国の覇権主義的体質は、今も変わらない。
日本人はほんにおおらかである。

*越人が華南に建てた小王国、いわゆる「百越」のうちで、五代九十三年も続いたのが南越であった。南越は今日の広州近郊ま番禺に本拠をおいたが、その酋長となつたのは、じつは北方の漢人である。
 北から福建・広東に入るには、険阻な大山脈を越えなければならないが、長沙から西南へ進むのは、さほどむずかしいことではない。湘江をさかのぼって丘陵地帯を越えると、今日の桂林や柳州あたりの平地に出る。いま、湘桂鉄路の通っているコースである。だから秦漢のころ、すでにこのあたりには漢人が移り住み、現地の住民(それも越人と呼ばれた)と雑居していた。秦の始皇帝はさの末年に、この地に桂林・南海(いまの広東)・象郡(広東広西の海岸よりの地方)の三郡治を置き、罪人や流民を移住させた。北方で陳勝や呉広が農民一揆をひきいて立ったころ、南海部の将校であった任囂(ジンゴウ)が、部下の趙佗(チヨウタ)を病床に呼んで遺言した。
「番禺(今日の広州)は険阻な山を背にし、南海は東西数千里にもわたる平野じゃ。すでにかなりの中国人が移住していた、我らに協力してくれる。国を立てることもできよう。おぬしをおいては、まともに話せる者もおらぬゆえ、おぬしに郡の軍政を任せよう」
Posted by: 夕焼け  at 2010年07月08日(Thu) 16:36

その2
袁紹との戦いのさい、袁紹が陣頭で「閹官(エンカン)の余孑(ジョゲッ、宦官の子孫のできそこない)と曹操を罵ったのだが、ひどく頭にこたえたという。また曹操の父曹嵩は、銭五百万で官を買い、太尉(三公の一つ)となつたほどで、宦官の祖とする一族がいかに巨大な資財を貯えたかがよくわかる。
これらの墓のうちには「銅縷(ドウル)玉衣」といって、玉の小板を銅線で縫いあわせた衣を着たしかばねもあり、金銀の装飾品も(盗掘されたにかかわらず)残っている。まこと豪勢なものである。しかし門閥の格からいうと、弘農の揚氏や汝南の袁氏などの名門とは、とても肩を並べられないランクに属していたと思われる。

 さてこれらの墓を作ったのは、近隣から傭われた職人や農奴たちであるが、そのうちには草隷(章草とも。隷書のくずし書き)を書けたものがいて、煉瓦の端に署名や月日・短いメモなどを刻みつけている。その一つにいう、
 人は謂う、壁作は楽しと、
 作壁は正に独り苦しきものよ。
 却(されど)も来たり却(されど)も行きて壁を作る、
 反ってこれ皇天を怒らす。壁長(かしら)契(きざ)む。

これば苦役に従った人民の呪いの声である。
また「但(ただ) 汝の属(なかま)を摶(う)たんのみ。倉天すなわち死せんか」と読める短文もある。
 これこそ十余年後に蜂起する黄巾の一揆の先ぶれであり、時すでに黄巾張角らの説く反逆の声が、このあたりの人民の心底をゆり動かしていたのではないか。
Posted by: 夕焼け  at 2010年07月05日(Mon) 16:49

その1
 中国は、濁流のことく世界を呑み込んでいる。
一面、恐れられ、一面嫌われている。
 国内では高学歴者が無職や低賃金労働と長時間労働に苦しんでいる。
 中国のインフレとバブル経済は、貧富の差の拡大は社会の安定を根底から揺さぶる。
 
 一方日本では、政権政党の幹事長への権限集中の問題
独裁的に権限を集中させ、箇所付け問題は国会を形骸化し党独裁へと、全体主義へとひた走る。
ナチとは「国家社会主義」のことであり、政権はその臭いがぷんぷんする。
 曹操の祖父である曹騰(ソウトウ)のように、違法の巨額の金を集める某政党の幹事長である。
 違法献金は奥澤の大御殿、蓄財のための莫大な不動産購入である。
 どこかの政党は、この構造的問題に封印し、議会の同義的責任追求を放棄してしまつた。

 某政党はクリーンを売り物にしたが、いまや手は不正な金で汚れきっている。
 民衆の怨念は、生活の悪化から、税金詐取の巨悪に怒るところだが某政党の騙しにものの見事に乗っている。

 *河南省開封の南に亳(ハク)県の県城がある。それは秦・漢のころ「&#35673;(ショウ)と呼ばれた所で、曹操は「沛国の&#35673;の人」であるといわれている。一九七七年に、亳県の近郊の南北五キロ、東西三、四キロに及ぶ広い田園地帯から、数多くの曹氏一族の墓が見つかった。(雑誌『文物』一九七八年八月)中でも、百メートルを隔てて南北あい対する石造りと煉瓦造りの二つの大墓が注目を集めた。その一つは、曹操の祖父にあたる曹騰(ソウトウ)の墓、もう一つは曹操の父、曹嵩(ソウスウ)の墓である。(騰は宦官=カンガンであったから子がなく、嵩は養子である)
 『後漢書』「宦官列伝」によると、「曹騰は後漢の順帝のお側付きとなり、中常侍に昇官し、桓帝のころ特進して費亭侯となつた」
とある。『三国志魏書』「武帝(曹操)紀」を見ると養子の嵩は太尉にまでなつたが、その出身を明らかでない」とのべている。見つかった墓のうちには、曹騰の従兄曹褒(ソウホウ)、その子の曹識、識の弟曹胤(ソウイン)などの墓があって、この地の豪族としての面子を飾りたてたようすがしのばれるが、じつは曹操にとっては、祖父が宦官であったのは不名誉なことであった。
Posted by: 夕焼け  at 2010年07月05日(Mon) 16:48

その3
新が滅びて後漢の光武帝が即位すると間もなく、紀元三二年に高句麗は後漢に使者を送って朝貢した。だが玄菟郡はいつしか高句麗の支配下に併合されてしまつた。後漢の末には、高句麗はさらに楽浪郡を襲って太守の妻子を連れ去り、そのために漢人の植民地の中心は、しだいに南の「帯方」へと移らざるをえなかつた。後漢が滅びて魏の時代になると、高句麗はしばしば遼東郡に攻撃をかけ、魏の将軍&#27596;兵倹(カンキュウケン)が苦戦に苦戦を重ねて、ようやく高句麗王位宮の軍を破り、その勢力の浸透をくいとた(紀元二四四年)高句麗はついに紀元三一三年に、楽浪郡治を攻めて手中におさめた。漢いらい五百年続いたこの郡治は、ここに幕をとじた。楽浪郡治のあとからは「不而(=不耐)校尉」と書いた封泥(手紙の封印)や、漢人女性の使ったらしい化粧箱、わりと質素な陶器・銅器などが出土している。旧植民地の漢人は、しだいに土着の人びとと混血して、目立たぬ存在となつたことだろう。
 四世紀のころ、高句麗は部族連合体の形を脱して古代王権国家の形を整えはじめ、広開土王・長寿王の二代(四世紀末〜五世紀初)に最も強大となり、東満州から朝鮮北半部を傘下に収めるようになった。それは当時、西方から鮮卑人の慕容氏が内モンゴルを越えて東進してきたため、その鋭鋒をさけて、力を朝鮮半島に向けたからであった。
Posted by: 夕焼け  at 2010年07月04日(Sun) 12:05

その2
そのさい王莽は、玄菟郡の高句麗をまるで子飼いの部民のように考えて出撃を命じ、厳尤の軍と合流させようとした。ところが高句麗は、よけいな苦労を背負いたくない。郡の漢人役人の言うことをきかず、徴用された兵士はかつてに逃亡して反抗した。遼西郡の大尹(太守、長官)田譚(デンタン)がそれを追ったが、逆に高句麗王の&#39478;(スウ)に捕らえられて殺された。当地の事情に明るい厳尤は、
 「貉人がいうことをきかぬのは、いまに始まったことではござりませぬ。たとへ高句麗王に異心ありとも、いまのところは、手先の州郡に命じて懐柔するのがよろしかろう。むやみに罪名を着せて討伐すれば、ほんとうに叛くやもしれず、そうなれば、隣の扶余族にも同調する者が出ましょう。いま我われは匈奴だけでも手いっぱい。それに扶余・&#28618;・貉まで反乱せば、大憂となりまする」(『漢書』「王莽伝中」)と進言した。
 だが王莽は言うことをきかない。むりに厳尤に討伐を命じたが、この男もむだな損害を受けたくなかつた。そこでいつわって高句麗王の&#39478;を幕下に招き、すきを見て斬り殺した。その首を長安に送ると、王莽は大いに喜んで、れいのこどく詔勅を宣示した。
「さきに命じて猛将を遣わし、共に天の罰を行う・・・・今年(壬申の年)、刑は東方にあり・・・・虜&#39478;を捕らえて斬り、東域を平定す。余ははなはだこれを嘉(よみ)す、高句麗の名を改めて下句麗とせよ」
 こういう男にかぎって「名称」にこだわるものだ、下句麗と改称して相手を圧倒したつもりであろうが、じつはこの詐りにみちた弾圧が、長く後世にしこりを残すこととなつたのだ。
 
Posted by: 夕焼け  at 2010年07月04日(Sun) 12:05

その1
現在の朝鮮半島問題、分断された韓国は世界でも抜きん出た情報大国に発展した。
現在の戦いは情報戦争であり、その戦いは熾烈を極める。
 過去の歴史わ見れば、朝鮮族と漢民族は一筋縄ではいかない。
ルーピイ集団は経験不足、人間の熾烈な戦いをしらない、大人子供の集団である。
 
 分断された東西ドイツの統合については、それを恐れたフランスとイギリスである。
統合へのバーターとして、ドイツマルクを捨てることを約束させ、ドイツの強大化に枠をはめ、ユーロの導入へと進んだ。
 いまや、ユーロの中心はドイツとなり、ドイツつぶしのためイギリスはヘッジファンドを活用する。米国は格付け機関を活用し協業したのである。
 ユーロの将来は混沌としているが、ギリシャ救済はドイツの国益がかかっているのである。
今又、ドイツは第二次30年戦争を戦っているのである。

 戦前とよく似ている、日本の富国政策は次第に英米の金融資本に席巻される。
それを擁護する御用政府と御用役人、昭和維新とはそのような背景があったのであろう。
 それにいても、ルーピイなどこかの総理である、円が高いのは日本への信頼が高いと、国民を騙す。

 今や、ヨーロッパにおいても米国においても、日本の存在はない。
円が高いのは、ルーピイ政権の金融政策と国際通貨戦争の逃避地でしかない。
 イソップ童話の「獣と鳥」の戦いにおける「こうもり」のような存在の日本である。
どこかの総理は、間抜けで自分のバカさが全然見えていない。
 見えないから、なかったこととなる、これぞ狗の生きる道である。
日本では不思議なことに、大人が子供の会話をしている、そして子供に敬語をつれて話ししている。
 米国のレストランの看板「狗と子供は来店おことわり」と!

日本人は今や「狗」であり「子供」である、どこかの総理はその自覚もないから恐ろしい。

*王莽の「新」の始建国四年(紀元一二年)のことだが、十二人の将軍に命じて、東から西に至る長城国境を越えて、いっせいに塞外に出撃させた。じつさいは兵糧輸送が間に合わず、人夫の徴発にあけくれて天下を騒がすだけに終わったのだが、そのとき討&#28618;(トウワイ)将軍厳尤(ゲンユウ)が漁陽郡(いまの北京北方の密雲県)から遼河の上流にむかって出撃した。
 
Posted by: 夕焼け  at 2010年07月04日(Sun) 12:03

 戦争終結の「玉音放送」の「耐え難きを耐え 忍び難きを忍ぶ・・・・」、これは国民に対する天皇のお言葉である。
 その、言葉は山本玄峰の草稿だといわれる。

 さて天皇は国民をどのように慈しんでおられたか?

後に、侍従のメモ・・松岡が白鳥が・・・・
何ゆえ天皇は靖国に祭られている「英霊」の参拝の取りやめたのか?

 (中国の首脳は日本の首脳を恫喝する、これでは親友とはほど遠い、中国人を国土内に招き入れれば、歴史的には植民地化することが多い、日本の為政者には警戒心なしである)

親友とは? (阿難の問いに対してブツタが答えた)

一 与え難きを与う。

一 作(な)し難きを作す。

一 忍び難きを忍ぶ。

一 密事を語(つ)ぐ。

一 密事を他に向かって語らず。

一 苦に遭うも捨てず。

一 貧賎たるも軽んぜず。

 この七を具うるものを親友と那すと。
友にもいろいろあり、結局次第に進んで古人を友とするに至る。之を尚友という(孟子・尽心)
Posted by: 夕焼け  at 2010年07月02日(Fri) 21:15

その3
蘇武は天を仰いで歯をくいしばつた。李陵は続けていう。
「人生は朝露のごとし、と申すではないか。何ゆえに久しくわが身を苦しめなさるや。陵も初め降りし頃は、忽忽(コツコツ、心がおちつかない)として狂わんばかりでござった。漢に背きし痛みに加えて、老母も保宮(宮中の監獄)に繋がれぬとの風の便り。そなたの投降を拒む心は、陵とて同じこと。されど陛下(武帝)は春秋(よわい)高く、法令に常なきありさま。罪なくして一家皆殺しのめにあいし大臣らも、数十家に及ぶ。これでは安危のほど知れがたし。そなたが誰が為に、筋をお立てなさるのじゃ」(『漢書』「蘇武伝」)
 だが蘇武は゜わしは、かねてより異郷で死ぬるが本望と思い定めてござる。たつて投降を迫られるならば、今日の歓談を一生の思い出にして、そなたの目前で、自害してお目にかけよう」という。李陵は涙を呑んで別れた。のち李陵は、妻(匈奴の娘)を代わりにやつて、羊数十頭を蘇武のもとへ送りとどけたそうだ。
 数年のうち、李陵はふたたび蘇武をたずねた。「国境に配置した斥候のしらせによれば、漢の辺境の太守以下、吏民らすべて白衣を着て『皇帝崩御』と申しておるよし」と伝えた。蘇武は南を伏しおがんで号泣したそうである。
 彼にとって、武帝は漢人のシンボルであった。その采配がどんなに乱脈に流れようとも、べつにシンボルに傷をつけるものではなかつたのであろう。
 それにしても、この十余年間に、砂と石の原野に散った数十万の精霊を思うとき、「人生は朝露のごとし」という漢代の人の口ぐせが、格段の重みをもって現代でも生きているではないか。
Posted by: 夕焼け  at 2010年07月01日(Thu) 12:14

その2
「単于、ますます蘇武を降さんと欲し、武を幽して大窖(タイコウ、大きい土穴)の中に置き、絶えて飲食せしめず。武は臥せて雪と旃毛(センモウ、旗飾りの毛)をかみ、あわせてこれを咽(の)み、数日死せず。匈奴はこれを神がかりの人なりと思い、蘇武を北海のほとり、人なき処にうつす。牡羊を牧せしめて、もし乳を出ださば帰るを得んと言う。・・・蘇武、野鼠の去せし草の実を掘りて食らう」(『漢書』「蘇武伝」)
「北海」とは、いまのバイカル湖であろう。草の実と羊の肉だけで、寒さと飢えをしのぐ幾冬がすぎた。李陵は人づてにその噂を聞いていたが、何となく心が重くて、たずねかねていた。
 十年の年月が流れた。単于が思い出したように、李陵を北海のほとりにつかわした。李陵は心づくしの酒食を馬に乗せて、はてしない草原をはせ、とうとう蘇武を探しあてた。蘇武はかつての面影もないほどにやつれはてている。李陵は都の消息を伝えて言った。
 「そなたの兄上は、陛下の供奉をつとめておられたが、輦(レン)の柄が柱に触れたかどで、不敬の罪に問われて自殺。弟どのは后土祠(地の神)の祭礼のおり宦官と舟を争って宮中の馬を溺死させたかどで、やはり自殺なされた。母君はすでに他界なされ、お若かりし夫人も、はや再婚なされたそうじゃ」
Posted by: 夕焼け  at 2010年07月01日(Thu) 12:14

その1

「人生は朝露のごとし」これは李陵の言葉である。
蘇武にとつては武帝は漢人のシンボルであつた。その采配がどんなに乱脈に流れようとも、べつにシンボルを傷つけるものではなかったのであろう。
 今、漢人のシンボルとしての毛沢東が脳裏に浮かぶ。
武帝と毛沢東が重なって見えてくる。数千万人の農民を飢え死にさせ、取り上げた穀物を輸出しその代金で核兵器を開発した。
そして、チベットを侵略し、今、インド洋への進出ルートとなつている。
台湾は宋の時代に漁民が住み着いたりしていたが、一度も中国の領土となつたことはないのに、一つの中国を主張し併合を企てる。
 武帝の覇権意識と、今の中国の覇権意識の重なりは漢人に流れるDNAであろうか?
もしそうであるなら、我々は国の安全を図るため、意識的・計画的に海軍力・空軍力を強化しなければならないであろう。
 海を守ることが自国を守ることになる。
台湾海峡の中国の内海化は絶対に防がなければならないのであろう。

 沖縄の戦略的重要性は、益々重くなる。

*むかしから軍事行政の官を「司馬」と呼んだが、武帝は国境に、文字通り馬を司どるために「司馬」の官をおき、年功ある将軍をその職に任じた。
 だが冷戦は、おたがいの不信をつのらせる。漢が西域諸国と通じて、匈奴を封じこめようとすればするほど匈奴は警戒心わ深め、漢の使者を抑留して帰さない。そのうち、単于が死んだ。新しい単于は「漢の天子は、わが丈人(しゅうと)なり」と言って恭順をよそおい、抑留していた漢の使者を送り帰したので、その返礼使として、紀元前一〇〇年、中郎将、蘇武が派遣された。その翌年、李陵が悪戦苦闘のすえ匈奴に投降した。はしなくも蘇武・李陵というかつての旧友どうしが、敵中で再開することとなつたのだ。
 蘇武が匈奴入りをしてまもなく、匈奴のなかにまぎれこんでいた漢人が、副使の張勝とひそかに連絡して、単于に対して謀反を起こそうとした。蘇武は荒くれ者の志願者を百人ほど供につれていたが、そのなかに血気にはやる浪人がいて、斬り込みの計画に加わった。あわやという瀬戸際で計画がバレで、漢の副使をはじめ主謀者たちが殺され、蘇武もそれに連座しそうになつた。だが蘇武は「わしわ殺せば和親は敗れる。匈奴の禍がはじまることになろうぞ」とうそぶいて、頑として投降をこばんだ。
 
Posted by: 夕焼け  at 2010年07月01日(Thu) 12:12

 今、朝鮮半島の情勢が風雲急を告げている。
日米安保の抑止力のほころびが、台湾における大陸勢力の影響力の拡大に繋がったり、あるいは、北朝鮮による韓国への挑発の原因となつているのであろう。
 つまり日米同盟の弱体化と相関をなしているのであろう。

 元来、大陸から突出した半島は、大陸勢力と海洋勢力の影響力のぶつかるところである。
 現状の朝鮮半島は突き詰めて言えば干渉地帯というべきであろう。
 どちらかの勢力が後退すれば、どちらかの勢力の影響力が拡大する。
 その意味から、中国・ロシアは、北朝鮮の行為を擁護することになる。
 パワーバランスからいえば、大陸に面する島嶼である台湾が中国の影響力に入ることは、大きなパワーバランスの変化を意味している。

 米国のパワーの衰退しても頼らなければならない日本
東アジアの現状から近き未来を予測すれば、日本は嫌でも独自の防衛力の強化と集団自衛の道に一歩踏み出すことにならなければ、中国の属領となることは必定である。

 また、北朝鮮の政権交代と、日米安保の脆弱化から、北朝鮮の軍事行動の可能性は捨てきれない。
 問題は、北朝鮮領内に米韓軍が反撃し、北朝鮮領内に侵入したとき、中国軍の参戦の可能性の必然がある。

 参戦の阻止には、歴史的に中国が植民していた地域まで侵入しなければ参戦を防止できるかも知れない。
 もしそうだとしても、北朝鮮の核施設は歴史的に中国の植民していた地域内に集中し、核を取り除くことが困難である。
 ここのところが、重要な問題であろう。
日本の安全に関わる問題、当然として日本は、この戦いに大きく貢献しなければならい。
 なぜなら、戦争終結後の日本の安全に大きく影響するからであり、台湾の命運にも関わるからである。

 この推理は、中国の覇権という野望が下敷きにあることを忘れてはならないのである。
Posted by: 夕焼け  at 2010年06月30日(Wed) 09:19

その3

しかし、この段階でもまだ、試掘に進まない日本は中国にとってはこの上なく与しやすい相手だ。東シナ海問題はすでに片づいたとの中国の解釈もこのような日本の姿勢から生じているのだ。
中国の実質的支配は日本海にも広がりつつある。北朝鮮の最北の港、羅津の50年にわたる租借権の入手がそれである。北朝鮮を事実上の経済的植民地とすることで、中国は初めて日本海への出口を得た。彼らは必ず日本海を自国の内海としようとするだろう。自らを海洋国家と定義する中国は一大シーパワーとなり、真っ正面から日米を分断し、日本の孤立化をはかってくるだろう。
その種の近未来の展開に、日本の打つ手はひとつ、歴史に学ぶことだ。中国との対立の中で国家としての基盤を確立した遠い祖先の智慧と勇気を想い起してほしい。先人たちは中国との緊張や対立から逃げることなく真っ正面から立ち向かい、すばらしい国家と文明を作りあげてきた。
国家は経済によって滅びるものでも、たった一度の敗戦によって滅びるものでもない。指導者が対立を恐れ自信を喪失するとき、国民は支柱を失い、国家は確実に滅びていく。だからこそ、いま、中国との対立を恐ることも、逃げることも、現実から目をそらすことも、してはならない。日本を守る証し、あるいは象徴として、小泉首相は8月15日、全き形で靖国参拝を果たしてほしい。そうして初めて国家の基盤が堅固ならしめた首相として歴史に名を残すことになる。

 政党および議員・議員候補に靖国参拝するかしないか聞くことにより、日本国議員の資格要件としたいものである。
 どこかの国の首相や法相にも聞きたい。
それにより、内閣信任・不信任を決めたいものである。
 何故かといえば、この問題は日本国にとつての根幹に関わる問題だからである。
Posted by: 夕焼け  at 2010年06月29日(Tue) 10:05

その2

1939年、ナチス・ドイツのポーランド侵攻を受けて英国政府が対独戦に踏み切ったとき、英国の銀行家たちがこぞって反対した事実は、フランスを筆頭にEU各国が中国への武器輸出禁止の解除に向けて奔走し、日本の一部の財界人が小泉純一郎首相ら政府要人の靖国参拝に反対する姿を連想させる。
だが、すさまじくも過酷な農民支配、反政府勢力の弾圧によって辛うじて保っている中国共産党一党支配の体質は、内部矛盾が噴出し対外膨張主義に転じて失敗したナチス・ドイツ同様、やがて中国が露骨な対外膨張政策に転ずる可能性を示す。
その兆しはすでに随所に見られる。18年間続く異常な軍事費の増加がそのひとつだ。9億の農民を国連の規定する極貧層の状態に放置する一方で、中国共産党は多額の軍事予算を最新鋭の武器、装備の購入に当ててきた。また対中武器輸出の最先端を走るロシアと冷戦の再来を想起させる対米対立軸を構築中である。
中露両国の米国との対立の構図は上海協力機構の規模拡大にも顕著である。加盟国とオブザーバー諸国を一見すれば、同機構がユーラシア大陸における中国支配の確立を意味するのは明らかだ。昨年7月の同機構の首脳会談で中央アジアからの米軍基地撤退を求めたように、上海協力機構は米国支配を牽制する戦略的拠点となりつつある。
新たな冷戦の兆しは、海洋、とりわけ日本周辺海域での中国の膨張ももたらしている。8月5日、日本の新聞各紙は中国側が東シナ海の日中中間線付近の白樺(中国名・春曉)ガス田で、中国が「すでに全面的な生産段階に入った」と報じた。3日後、右の報道は否定されたが、日本の海で中国がいつでも全面的な生産開始に踏み切ることができる現実は変わらない。
Posted by: 夕焼け  at 2010年06月29日(Tue) 10:04

その1

 櫻井氏の昔の論文である。
政治家は歴史観をもつて、日本国家の安全と繁栄のために戦略を立ててほしい。
 民衆が反対と言えば、消費税を引っ込める、どこかの政党と首相である。
 これでは、「相」の資格なしである。
それに、中国迎合するどこかの政党である。
口では安保の深化を放言し、行動は中国に擦り寄る。
 中国人に対するビザ発給緩和も、国民の危惧を解消しないまま突き進む。

 おかしなおかしな日本人である。
議会は名誉の獲得に血眼である。国を壊しても、子供手当て、農家の所得保障、高速道路の無償化、ガソリンの暫定税率廃止とくるから、日本人は地獄をまっしぐら、その案内人が名誉を我が物とするために、ルーピイを演じている。


靖国参拝 国守る証し
                        櫻井 よしこ
日本の国家としての成り立ちは、キリスト教文化圏のヨーロッパがイスラム教圏と対峙する形で誕生したように、中国と対峙する形で始まった。倭人と呼ばれる人々が日本人となったのは、ほかでもない、中国に対する自己防衛の必要からだったと、岡田英弘氏は『日本史の誕生』(弓立社)で指摘する。
日本は建国当初から、中国という厄介な国との対峙を運命づけられていたこと、同じ構図が現在も続くことを、この国の指導者はひとときも忘れてはならない。現在、中国の手法はより洗練され、多層的に展開されつつあるが、日本人はいまこそ、先人の智慧を学び中国の対外政策の真実を見抜かなければならない。
共産党の一党支配が続く中国は、ヒトラー政権の下のナチス・ドイツと酷似すると指摘される。たとえば両国は、一政党が集中的に政治権力を握るなか、経済だけは開かれた形を採る。両国はまた、東アジア共同体あるいは生存圏という考え方で、自国の権益および覇権の拡大に集中する。さらに両国は各々「ひとつの中国」政策に基づいて台湾の軍事的併合も辞さず、あるいは、「ひとつの民族、ひとつの言語、ひとつの国家」政策に基づいてオーストリア併合に走った。
市場経済の形をとっているだけに財界人はその政治体制のもたらす危険に気づくよりも、眼前の経済的利益に魅きつけられやすい。
Posted by: 夕焼け  at 2010年06月29日(Tue) 09:54

その2

*遠征軍の中に、若い将校班超が加わっていた。トルファンとハミを漢人におさえられると、匈奴は南への出入り口を封じられたことになり、「右腕を切られた」ほどの痛みを覚えたらしい。車師―伊吾―楼蘭を結ぶと三角形をなし、それは酒泉と敦煌の二郡を守るたいせつな外郭となる。そこで匈奴側では、しきりに楼蘭に斥候を出して楼蘭王を味方につなぎ止めようとした。後漢の和帝の時代は、漢人の西域経営が(前漢の武帝の頃についで)二度目の輝かしいピークを迎えた時である。班氏三兄弟は傑物ぞろいで、兄の班固は『漢書』をあらわし、妹の班召はその欠を補い、そして班超は「西域都護」に任じられて、さきの遠征によつて開かれた成果を固めることとなつた。
 班超は、わずか三十余人の部下をひきいて、&#37167;善(ゼンゼン、のちの楼蘭王国)に赴いたが、オアシスに近づいてみると、大勢の匈奴の使者が先に到着して、オアシスの中に宿営している。
 彼は、
「虎穴に入らずんば、虎子を得ず」
という、名文句をはいて部下を励まし、匈奴の営舎に夜襲をかけた。「まさか」と思っていた匈奴の使節団は、泡をくって北に逃げさった。さきに伊吾をおさえられ、今また楼蘭を失った匈奴は、もはや西方に出てくることはできない。物資を調達するのも思うにまかせない。匈奴は「右腕を断たれた」といって残念がったそうである。
Posted by: 夕焼け  at 2010年06月28日(Mon) 14:23

その1

 班超は「虎穴に入らずんば、虎子を得ず」と、有名な言葉を吐いている。
 さて、どこかの国の宰相は、高らかに消費税10%と宣言した。
 ところが、虎の迫力に恐れをなして、声もでないありさまである。
 日米安保を散々もてあそび、もはや修復不可能にしてしまつた某政党の政権である。

 そして、また日米同盟の深化と、ルーピイな虚言を発する。

 前総理は「永田町の謎の鳥」であったが、現総理もいかんなく謎の鳥を発揮しはじめた。
 その鳥は国民から見れば「ウソ」であり「ヌエ」である。
アメリカや沖縄から見れば「チキン」であり、中国からみれば「カモ」であり、ヨーロッパからみれば「アホ」なのであろう。

 消費税増税は「ウソ」、5%上げても国税に対する貢献は2%に届かずである。
 問題はデフレ解消が先、増税はそれからが経済を知るものの常識である。
 「子供手当て」は建設国債よりも劣悪、何も残らない子供たちの税金の前借である。
 しかも、親が子供に無断で借りたものであるから、子供が大人になったときの怒りは恐ろしい。

 親子の断絶のための政権がしかけた「トロイの木馬」のようである。
国家破壊のしたたかな戦略なのであろう。

 それでも騙される民衆とは、救いがたいものである。

Posted by: 夕焼け  at 2010年06月28日(Mon) 14:21

 村上氏の小説『1Q84』なるもの、これは文学としてはすこぶる出来がわるい。
 登場人物は「ルーピイ」、つまり仮想世界の人間のようである。つまりは、今の日本人のようである。
 本来、現実逃避の日本人の真相、時代、社会というものを、日本語で描くことにより、我々の存在の空虚の本質を追求してほしいものである。
 なぜ、日本人は現実逃避し「ルーピイ」なる政党・指導者を選ぶのか?
ギリシャの民衆主義の教訓が生かされていない日本である。
 歴史の教訓に随えば、民衆主義→名誉主義→独裁主義に進む。
 すでに日本の民主主義は死んでいる。
日本国という国家の礎となる国民はいない。
 いるのは、魂の抜けた、ルーピイを支持する、腑抜けである。

この点、中国人はどこまでも現実的であり、文学も立派に成立する。

*『史記』の記録を見ると、「万里の長城」の原形は、戦国時代の末には、すでに点点と構築されていたことがわかる。それをつないだのが、ほかならぬ秦の始皇帝であつた。
「始皇帝、蒙恬(モウテン)をして十万の衆をひきいて北の匈奴を撃ち、ことごとく河南の地(黄河南岸の陝西高原)を収め、黄河に因いて塞をつくる。・・・・・山険にそい渓谷を斬りうがち、繕治すべき所はこれを治め、臨&#27950;(陝西省西端)より遼東に至るまで、一万里にわたる」(『史記』「匈奴列伝」)
 それにしても、一万里(四千余キロ)の長城を作って胡人の侵入を防ぐ、という壮大な計画の裏では、「十万の衆」と、それに欠員、食糧を補給する数十万の人民の汗血が、朔北の荒山の土にしみこんだわけである。
 孟姜女は、新婚後まもないころ、長城の工事に徴用された夫のあとを追って、南から北へと苦しい旅を続ける。
山麓の老婆から、夫らしき男の消息を聞いて、北風吹きすさぶ土城のもとにたどりつくと、すでに夫し死んでいた。
孟姜女の悲涙の声が山谷にこだますると、土城の一角がはらはらと崩れて、夫の白骨が現れたそうだ。これは後世の物語だが、こんな事実は当時いくらでもあったかもしれない。
「命令を出したのはむかしの皇帝です。だが壮大な長城を築いたのは人民ですよ」と中国の人は言う。
まさにそのこおりであろう。それにしても、「万里の長城」によつて外敵の侵入を防ぐというでっかい着想は、島国のわれわれの思考をはるかに超えている。
Posted by: 夕焼け  at 2010年06月27日(Sun) 17:42

その2

「唐いらいの古刹応運寺に泊まった。ほかに仏寺五十余があり、マ二教の寺院もある。住民は白い泥作りの家に住んでいるが、上流の人たちは、築地(ついぢ)の塀と門とをかまえた家に住み、男たちは長衣に帯をしめて端を垂らし、長靴をはき、女たちは高いマゲをゆつて、カンザシやクシで髪を飾っている」
 ちなみにキルギス族は、どこをどう通ったものやら、今日ではパミール高原の東と北の渓谷に、十戸二十戸という小集団を組んで放牧を続けている。
 「むかし我らがウイグルを滅ぼし、北の草原に覇をとなえたものだ」と胸をはり、今また、漢人は同化と資源獲得のためウイグル人の土地を取り上げ、発展権なる漢人の論理おしとおす。

 それが見えない、ルーピイなどこかの国の総理である。
それをG8で口にするとはお目出度い人である。
 この国の民衆は「ルーピイ」な最高責任者を選ぶことにたけているようである。
 世界の笑いものであることに気付いていない。
一度騙されても懲りず、二度までも!
Posted by: 夕焼け  at 2010年06月27日(Sun) 12:04

その1

 漢民族によるチベット・ウイグル人・・・の同化政策、そして人権弾圧である。
 中国の暴力装置である公安警察、武装警察、人民解放軍を出動させての、かの地の強制的な略奪である。
 今開かれている、G8で、かの国の総理大臣の某が中国をサミットに招待すると提案したそうである。
 見事にメンバーから黙殺された。

 全体主義者の中国に、G8に参加する資格要件があるはずもなし。
 どこかの国の全体主義者である総理の深層心理の中に、暴力を駆使する野望が潜んでいるのであろう。
 このような政治集団に絶対的権力を与えればどうなるが、背筋が寒くなる。

 *トルファン・オアシスは、いの人口十三万人を擁する。熱風は強いが、天山東部の渓谷の水を引き、井戸を地下でつないで水を確保している。
六世紀に、蘭州出身の&#40628;氏(キクシ)がここに「高昌王国」を建てたが、唐の太宗はこれを破って「西安都護府」をおき、約八十キロ北方ケムサルり「北庭都護府」と並んで、天山の南路と北路ににらみをきかせてきた。
 ウイグル族は、唐の衰退したあと、ここ西州を確保した。そして河西回廊の「甘州ウイグル」とも同じ仲間であったことから、その協力を得て紀元八六六年に「ウイグル王国」を建設した。彼らは農耕の民と化してオアシスを固め、多民族の間を往来してきた経験と語学を力とを発揮して、シルクロードののど元を抑える拠点とした。今日残る高昌故城は、東西千四百メートル、南北千五百メートルに及ぶ大きなもので、長安城をまねて&#40628;氏が築いたものだという。そのあとにウイグル王国が入りこんで、十二世紀にジンギス可汗の西征軍に荒らされるまで、繁栄をつづけた。今日、新疆省全部が「ウイグル自治区」と呼ばれることからわかるように、ウイグル族はトルファンを拠点として、西へ南へと広がったものである。
 北宋のころ(九八一年)王延徳を団長とする使節が久しぶりにウイグル王国をおとずれ、次のように報告した。
Posted by: 夕焼け  at 2010年06月27日(Sun) 11:57

その2
「商賈中家以上は、おむね破産し、民は偸み、甘食好衣して、畜蔵の産業を事とせず。されど県官には塩鉄・緡銭のこともあり、費用ますます饒(ゆたか)なり」(『史記』「平準書」)といって、彼らの功績を認めいる。

 さて、現代中国は大陸国家・海洋国家という、人類史上に例を見ない覇権国家を目指している。
これも、経済発展があってのことであろう。
中国も少子高齢社会に突入の前夜である。
 中国の為政者は理性的判断をして欲しい。

 た、日本のことであるが、膨大な財政赤字により国が沈没しそうである。
現状の日本人は、役人の味方すると、敵意をむき出して反撃するほど嫌われている。
 役人は地位や名誉をひっけらかし、確たる仕事していないことが原因であろう。
 上記の例のように、財政再建には法家的官僚の手腕が必要であろう。
 国家公務員上級試験合格者とゆう優秀な人材とその後のジョブローテーションによる人材育成システムである。
 エリート意識は育成されるが、中身が伴っていないのであろう。
 橋本内閣当時から中央官庁を見てきたが、官僚は叩かれ続けている。
 役人が本当に仕事しなければ、国民は救われないのである。
 どうすれば、役人は国民に信頼されるのか?
またね国民はどのような役人であれば信頼・尊敬するのであろうか?
デフレを解消し、産業を活性化し、国民負担の上昇を無駄にしないで財政を健全化して欲しいものである。

 国民を騙す政治家よりも騙される国民が悪いのである。
Posted by: 夕焼け  at 2010年06月26日(Sat) 15:23

その1
 武帝は、国家の総力をあげて、騎馬民族の力をうちくだき、漢という農業国の平安を守ろうとした。紀元前一二七年、前一二四年、前一二三年、前一一九年と、休むひまもなく大軍をくり出し、衛青・霍去病・李広利らの奮戦によつて、匈奴の兵馬を殺傷し、しだいに彼らを陰山の北、ゴビ砂漠の北辺に押し出した。同時に匈奴と西域、匈奴と西羌(&#31037;連山、黄河河源の地にいたチベット人)との連絡を絶つため、西方にも遠征軍をくり出した。いまの蘭州から西へ屯田兵の駐屯地を伸ばし、金城→武威→張掖→酒泉→敦煌の各郡を設けていった。前一一〇年には、楼蘭と車師をうち、遠く大宛国までをくだして、ようやく西域から匈奴騎馬兵の影をなくすのに成功した。

 しかも漢もたいへんな損害をうけた。たとえば元狩四年(紀元前一一九年)に衛青・霍去病が何度目かの遠征から疲れはてて戻ってきたが、
「漢の軍馬死するもの十余万匹、・・・・この時、財乏しくして、戦士すこぶる禄を得ず」「このころ山東、河災を被り、歳に及んで登らざること数年、人あるいはあい食むこと、方一二千里なり」(『史記』「平準書」)
というありさまであった。その苦難を切りぬけて財政をやりくりしたのは、法家官僚である。
 紀元前一二四年には、金持ちが金を出して爵位わ買う、罰金を払って免罪してもらうなどの便法で国庫の急をまかなつた。また、前一二一年には、関東の食糧ょ西に運ぶため、鄭当時の采配のもとで汾河渠と渭水渠という大運河を開いた。桑弘羊・孔僅・鄭当時などは、もと下級事務の吏であったり、商人の出であったりで、現場のからくりや実務に明るい。彼らが塩・鉄の私営を禁じ、おもな土地に塩官・鉄官を置いて官営専売を強行したのだが、違反者の取締りも実に厳しかった。おまけに緡銭令を公布して、金持ちの過大な田宅や舟車にまで税金を課し、違反した場合には、財産も使用人も没収して「官」に納めてしまうことになつた。
司馬遷は、こうした政策が、役人の品格を傷つけ、人民に実直な生業への熱意を失わせた、と嘆くのだが、その半面では、
Posted by: 夕焼け  at 2010年06月26日(Sat) 15:22

 八つの正しい道のうち、正しい見方が最も貴い。
(正見、正思、正語、正行、正命、正精進、正念、正定)

 正しい考え方はより清らかで正しい国の運営における総ての端緒である。無知こそが一切の悪の根元である。正しい見方を養い、国はこの世の総ての現象は変化してゆくものであることを知らねばならない。正しい見方を持つということは、因果の法則を認識するということである。
 邪な考え、邪な目的、邪な言動、国家運営、邪な努力、注意は、国家の認識、救済も歪んだものとなす。
 というのは国の総ての行為、言葉、考えはこのように邪しまな見方によって生まれ実現されるからである。総ての意思的行為、願望、決意、一切の活動は結局不快な、厭悪すべき、益のない苦痛となつて返ってくる。何故なのか?
その国の考えが邪だからである。

 しかし、正しい、というだけでは十分ではない。赤ん坊は正しいかもしれないが、彼は正しさを認識しているわけではない。
 精進する国に価するものはどのようなものなのだろうか?
それは、何が理性的に可能で何が不可能がを熟知していることである。
Posted by: 夕焼け  at 2010年06月25日(Fri) 17:14

 戦国の末、いまの北京地区にあった燕の国は東北に勢力を伸ばし、遼東―真番―朝鮮の鴨緑江に至る要所に塞を築いていた。その燕が秦に滅ぼされ、漢がまた秦にかわる。高祖のころ、燕王に封じられた盧綰(ロワン)が反乱をおこして敗れ、匈奴に逃げたが、その部将の衛満が、燕の亡命者たちを引きつれ、ついに王倹城(いまのピョンヤン)に本拠を構えて独立した。これが「衛氏朝鮮」であって、孫の衛右渠(ウキョ)に至るまで、三代百余年にわたって、朝鮮半島の北部をおさえた。
 漢の武帝は、水陸両方から朝鮮へ向けて遠征軍を派遣した。楼船将軍の楊僕は、斉から水軍五万をつれて渤海を渡った。いまの遼東半島の先端―そこは老鉄山の頂上から西方を望むと、千波万波のかなたに陸地が望まれる。山東の煙台あたりであろう。その間には廟島群島が介在するから、島づたいにいまの旅大市へ渡り、あとは海岸ぞいに東進すれば、わりと安全に朝鮮大同江の河口に達することができる。楊僕が通ったのは、たぶんこの水路であろう。いっぽう陸軍は、いうまでもなく遼東郡をへて鴨緑江の下流を渡り、南下したのであった。
 ところが衛右渠は城を堅守して降らない。おまけに漢の水軍と陸軍との気が合わず、お互いに疑って中傷しあうありさま。ようやく紀元前一〇八年になって、王倹城がおちた。
 武帝は朝鮮に楽浪郡以下の四郡を置いて、役人を派遣した。だが水陸両軍の将軍は、いずれも不手際の責を負うて罰せられたそうだ。司馬遷は、
「両軍ともに辱(はじ)ありて、将師に侯とりなしもなし」と嘆いている。
当初から難産した「楽浪郡」は、一時は漢人の最東端の植民地として栄えたが、けつきょくは、その末路もまた哀れであった。植民地がやっかいな重荷し化するのは、むかしも近代も同じことである。「覇権」をもって他の民族に臨むことの誤りを、むかしからの長い歴史がいやというほど警告しているのだが、「超大国」には今でもそれがわからない。

 さて、二十一世紀の新帝国主義、それを最も露骨にしているのが中国である。
 中国のインド洋・太平洋への進出、資源獲得のための軍備の大増強である。
 中国の発展権なる覇権主義は、誠に困ったものである。
Posted by: 夕焼け  at 2010年06月25日(Fri) 15:25

 今日のベトナム人は、南越や酪越の人々の子孫である。南越を越南と言い換えたのであった。インドシナ固有の言葉では、修飾成分を名詞のあとにつけた。越←南という言い方は、それにならったのであろう。
微側・微貮は、今日でも独立運動の英雄として、ベトナム人の景仰するところであって、彼らは心底のどこかで、漢人をよそから来る侵入だと感じとつている。さの半面では、漢の郡治設定、馬援の鎮撫いらい、生活の面では、二千年にわたって漢人文明の影響を受けてきた。その屈折した心情が、今日の中国〜越南(ベトナム)の関係に、影をおとしている。
「国境紛争」のニュースを聞くたびに、馬援のことを思い出す。

 *「男児は、まさに野辺に死して、馬革をもつて屍をつつみて還るべし。なんぞよく寝台に在りて、児女子の手中に死せんや」(『後漢書』「馬援伝」)と。
軍隊の一日の行程は、ふつう二十五キロ程度であった。(四十キロというのは最もきつい強行軍である)
馬援は、河西回廊からベトナムに赴き、六年後に洛陽に戻り、またもや北や西の国境に出撃した。その行程は五千キロにも及ぶはずである。あの時代に、騎兵と歩兵をまじえた大軍が、よくもその行軍に堪えたものである。彼は、「ひげもかみも明らかに、眉目は画のごとし」と評された美男子であったが、老境に達しても、気力だれはいつこうに衰えなかつた。

東アジアは古代〜現代に至るまで、漢民族の覇権の影がつきまとう。
日本が有史以来独立を保てたのは、海に囲まれていたこと、日本人の叡智がそれを可能としたのであろう。
 科学技術の発達、グローバル化した現代においては、古代よりも日本の独立を担保することはより困難なことである。

 日本人は、意識的・計画的に自国の安全と発展を考える必要が有る。
 自分の国は自分達で守るためにも憲法改正は絶対必要である。

 あのベトナム戦争終結においても、米国は中国と妥協したではないか。
Posted by: 夕焼け  at 2010年06月25日(Fri) 10:16

その2

 漢人の駱民統治が平穏無事に進んだわけではない。武帝が南方九郡を置いたのは、紀元前一一一年のことだが、それから約百五十年たって、後漢の光武帝のころ、ベトナムで大きな反乱が起こった。駱将の娘、微側と微貮の姉妹が、当時の交趾郡の太守、蘇定の締めつけに怒って、兵を上げたのである。
 「交趾の女子、微側および女弟微貮反して、その郡を攻め没(ほろ)ぼす。九真・日南・合浦の蛮夷みなこれに応じ、嶺外(広東と広西)の六十余城を寇略す。側、自ら立って王となる」(『後漢書』馬援列伝)
 漢は勇名高い馬援を伏波将軍に任じて、大軍を南に送った。馬援は合浦から海岸ぞいに南下し、浪泊(今のホンゲイ)に上陸した。その後約三年の間に、将兵十人のうち四、五人の戦病死を出すというありさま、ずいぶん苦戦をかさねたが、やうやく紀元後四三年に、姉妹をうち滅ぼした。
 だがこの反乱は、ベトナムのがわからみれば、最初の「独立戦争」なのである。のちベトナム人は元朝の南征部隊を押し返し、また明朝の支配をはねのけて「独立」した。
中越両国の間には、歴史的にいろいろな抗争があった。今日、中国とベトナムは緊密な同盟国ではあるが、それでも、ホーチィミン主席のなくなったあと、ベトナム政府が領土内の華僑を追い出したことから、「中越戦争」が起こった。民族間の「和平共存」とは、ほんとにむずかしいこのである。
Posted by: 夕焼け  at 2010年06月23日(Wed) 14:15

その一
 東アジアと漢民族の膨張
今、台湾が中国に呑みこまれようとしている。
南砂列島の領有権問題やら、東シナ海の領有権問題
その領有を担保するための、中国の軍備大増強である。
 そこ根拠は、自国の「発展権」という覇権主義である。

 日米安保は東アジアの公共財であるというが、民主党政権はその抑止力を瓦解させてしまつた。
 この同盟は、非対称の双務契約である。
日本が世界で名誉ある地位を欲するなら、この同盟を純然たる双務契約にすることであろう。
 この双務性を担保するには、集団的自衛権、憲法改正が必要である。
 残念ながら、日本人の見識はゼロである。

*北ベトナムの原住民は、大まかにいつて二つに分けられるだろう。大昔のころから、インドネシア・ポリネシアの方から渡ってきた人たちが、海辺の低地をさけて丘陵地帯に入りこみ、山林を焼いてイモを植えるという「焼畑耕作」を営んでいた。もう一つは、デルタの低地で米を作っていた人たちである。
『史記』の注に引用してある「広州記」という書物に、次のような解説が見えている。「交趾に駱田あり、潮水の上下を仰ぎみて、その田に植えて食す。・・・」
 いまのベトナム語では、田の間の通水溝をラク(lach)という。「駱田」の駱がそれにあたる。

Posted by: 夕焼け  at 2010年06月23日(Wed) 14:14

 本来の漢民族の領土は現在の三割程度のものであろう。

チベット、モンゴル、ウイグルなどは漢民族のものではない。
 それを、強制的に囲い込み、漢人を入植させる。
中華文明というものは、大鍋に様々な具を投げ込みごった煮のようなものであろう。

*秦の始皇帝は四方に遠征軍を出し、漢人を移住させて、その「天下」を現実的なものに化していった。国内統一戦争で働いた軍隊の主力は、徴用された農民であった。農業の生産が落ちる。そこで内戦が終わった後の辺境の開拓には、「罪を犯した役人」「商人」「金持ちにかかえられた奴隷。そのうちから娘むこに取り立てられる者」を徴発して派遣し、屯田兵としてその地に移住させた。
 陝西北部の黄河沿岸不毛の地、華南の炎熱の地がそれである。

 秦代の辺境開拓によって、北や南の漢人の植民地が確固たる根をおろしたとは言えない。なにしろ広大な新天地のことだから、開拓移民として定着しえた者は、原住民のなかに埋没してしまうほどの数でしかなかつた。
だがそれが、百余年後の漢代辺境開拓の踏み石となつた。

 さて、現状の中国、第二列島線までは中国の内海と主張し覇権的行動をとり除々に日本領土を侵食する。
 韓国の竹島や対馬への侵食は同じ行為である。
政治家は「外国人地方参政権」「夫婦別姓」と、国の背骨を破壊する。
 「子供手当て」にうつつを抜かす子供日本人である。

 チベットやウイグルでおきたことが、日本列島周辺において巧妙に行われている。
「強兵政策」なき日本である。
 平気でいられる、日本人は精神病にかかっているのでは?
Posted by: 夕焼け  at 2010年06月21日(Mon) 14:43

 中国の高官の発言で思うこと。

 たくらんだ嘘をつくのは、悪しきことがらから解き放たれない。ふざけた嘘であっても嘘をつくことがないよう努めなければならない。それし同じように、何事をなし、何事を話し何事を考えようと、その行い、言葉、考えを良く顧みなくてはならない。もし何かをしたいとき、それが自国あるいは他国に害をあたえないかどうかを良く顧みなくてはならない。
誤った行為は多くの苦しみを生み、苦しみを深くする。もし反省しそれが不自然なものだと知れば、中止すべきである。
 慈愛の心を深めよ。それが悩みを消滅させる。他国の幸せを喜ぶ心を深めよ。それが反感を消滅させる。
平衡のとれた落着いた心を深めよ。それが謙悪を消滅させる。
 国家存在の堕落に深く思いをいたせ。それが覇権的欲望を消滅させる。
物事の移ろい易さを深く認識せよ。それが己惚れをなくさせる。

 適宜な事をなし、堅固な意志と常に目覚めた心を持つものが富をうる。
 人に与えるものが友を持つ。真実で正しく、忍耐強く、寛大さのある誠実な運営に努める国は、将来に不安がない。

 貧困は悲しみを生む。しかし貧困を取り除くことが必ずしも幸せを生むとは限らない。
 高い生活水準ではなく高い文化水準が幸を与えるのだ。

健康は最高の贈り物、満ち足りた心は一番の財産、信頼が最高の関係である。
  
Posted by: 夕焼け  at 2010年06月21日(Mon) 11:02

笹川様
 日中佐官級交流が笹川様達の尽力によって継続していることが賞賛に値します。正式な訪問では見られない、訪れられないような軍事拠点の見学も可能なようですし、こうした腹蔵ない交流が、今後とも進展することを願っています。
 また、国防部長との間のお話も興味深いものです。正式な記録に残ってしまう国家機関間の交流ですと、ここまでの話はできないか、しても記録自体を残せないでしょう。
 是非、これからも本交流を積極的にお進めいただきたいものです。
Posted by: 橋本 靖明  at 2010年06月18日(Fri) 10:38