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女子プロゴルフ世界一「オチョア引退」 [2010年04月28日(Wed)]


女子プロゴルフ世界一「オチョア引退」


メキシコ出身。世界女子ゴルフランキング1位のロレーナ・オチョア選手(28歳)が突然の引退表明。理由は家族と過ごす時間を持つためと説明。

プロゴルファーは、アメリカを中心に世界中でほぼ毎週のように過酷な試合日程が組まれており、家族と過ごす時間は無いに等しい。昨年12月に結婚したオチョア選手は高額な賞金と名誉より家庭を愛し、家族の絆を優先した。その上「教育こそが価値判断を教えることができる」と自ら基金を設立し、故郷のグアダラハラに貧しい子供たちのための学校を建設した。(共同電)

すばらしいことであり、その決断に涙を禁じ得なかった。

世界のスポーツ選手や芸能人には、慈善活動にも熱心で、社会人としても尊敬の対象になっている人が多い。

グアダラハラは美人の産地としても有名で、50年前に訪問したことがある。その時、好奇心から教会の地下に入り込んだところ、途中で電気を消され、あやうく広大な教会の地下で遭難するところであった。

近年、ソレンスタム選手(スウェーデン)も引退し、世界の女子プロは二枚看板なしの時代となった。

家内と二人の夕食でオチョア選手が話題となった。

しんみりと老妻に

「私も遅まきながらオチョアに見習って、家族との時間をもう少し大切にしようと思う」

「あなた、それって風呂のフタよ。必要な時にいなくて必要のない時にいるものよね。子育てに忙しい必要な時期にはいなくて、四人の子供が巣立ち、私と二人だけになってから家庭の時間を大切になさりたいわけ?」

「そうだよ、いけないかい」

「あなたの年齢なら『亭主元気で留守がいい』が友人達の常識よ。女性は還暦を過ぎると急に亭主からの開放感に喜びを感じるものだそうよ」

「そうよって、お前もそうかい」

「そうはっきりでは失礼だけど。天下国家が生き甲斐のあなたが、今さら家庭の時間を大切にって、変よ」

心底は濡れ落葉や粗大ゴミの世話など真っ平御免といいたかったようで・・・

女性はリアリストであり、強かである。



(次回4月30日は、「インドにおけるハンセン病活動その1」です)
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コメント
道元は「客観的存在も客観的時間も存在せず、世界は吾有時(わがうじ)そのものであると禅師は云う。『尽界にあらゆる尽有は、つらなりながら時時なり。有時なるによりて吾有時なり』」と言っていますね。

 そうです、吾が「有時」です、ここを外したらいけませんね。

*寂滅現前じゃくめつげんぜんするの時に當て亦た現前の量あること無きを乃すなはち常樂と謂いふなり

 我々がスッタモンダスッタモンダして、生きたり死んだり、苦しんだり愛したりしているこの相対的な世界の中で寂滅が! ・・・ 「そこ」が「寂滅だというところ」だというわけ。

 「そこ」で寂滅が現前している。「そこ」で命も捉えていかなけりゃしょうがない訳だ。

 頭で考えて「何年生きてます」なんてそんなのは、五十年生きてる七十年生きてる八十年生きてるったって、言うだけのことでしょ。

 生きてるのはそれぞれが今!「今」を生きてるんだから。寂滅現前するときだ。

 寂滅現前する時に当たって、人間が考えるような、此れとこれを比べてこれをやったから楽しいとか、あれをやったら悲しいとかなんていうもんじゃ無い。そういう人間の思慮を離れている。

 そこが、嗚呼・・・、それぞれが手に入ると、すなわち、ここを常楽と言うんだ。


 我々は普段、何にも苦しみも悲しみも無いなんて人は無い。どんな人だってそれぞれ話を聞けば本当に死ぬほどの苦しみは胸の中にみんな持って生きてる。「語らざるは憂い無きに似たり」で、黙ってなにも言わないで居ると「あの人は何も悲しむことが無いのかな」と思うけれども、そんな人は無い。でも、そういう 苦しみの真っ只中にあってもそれを離れた世界というものが自覚できるんでしょう。

 そう思ってみんな一所懸命やって欲しいと思います。

Posted by: 夕焼け  at 2010年05月13日(Thu) 21:09

 空即是色、つまり認識を超えた世界のことですね。
いや、あの世が近きにありながら、この世で「存在の実相」が究められない。
 いや、この一生は何だったのでしょうね?

*二邊三際にへんさんざいを斷だんず

 二辺ということは対立、有無、増減という二元対立のこと。三際というのは過去、現在、未来。時間。それを断ず。それに関わりの無い世界。

 ・・・というけれど、実際にはみんなそういう世界で生きてるんですよね。
「今!」というときの「今」は、俺の「今」だって齋藤さんの「今」だって中村さんの「今」だって、そんなものはみんな今は今で「今」しか無いわけでしょ。

 「今日は昨日と明日の中間だ」ってのは・・・、我々が時間という考え方を作って、「昨日と明日の中間が今日で、今日の真ん中に居る」といっているだけだ。

 真ん中の「今」というのは何にも無い「今」だから。そこに、対立も何も無いわけだ。

 対立が起こるというのは同時に二つのものが起こって対立があるわけだけれども、同時に二つのものが起こるというのは有りえない訳だから、「同時に有る、無い」のというのは我々が頭の中で作ってるんじゃない? そうでしょ。

 「今だけ」というと、昔、ヒッピーというのが流行ってね、俺たちの人生は今だけだって言って何やってもいいって流行ったけど、「今」というのが永遠と同時にあるでしょ。永遠というのだって無いでしょ? 我々が永遠という時間を作っただけで、しかし、そうしなければ我々が相対的な世界で生きている生活も何も成り立たない。そういう中での生活だから、それはそれで認めていかなけりゃいけないけれど、実態というのは本当の命の実態はそうじゃ無いですよね。そこんところをみんな修行して自覚しなくちゃならないんだ。

Posted by: 夕焼け  at 2010年05月12日(Wed) 20:33

そのA
そこに湧き上がってくるのは、「今、こう感じ、こう思っている自分は、死ぬと感じも思いも一切ない、ただの『無』となってしまうのであろうか」という出口の見だせぬ喪失感であった。いまの私のことばでいえば、私の存在感でもあり実存でもあるものの失われることの恐怖であった。
 この恐怖は、今日でも昨日のように記憶しており、折りにふれ、回想し、親しい人には話しもし、メモや小文に託したりもしている。眼にする死だけでは古人の不浄観は生まれない。
 このような「死」による自己の完全な消滅は、恐らく科学的には事実であろう。従って「人間はこうなる」という客観的な説明をこれに彼此(ひし)付け加えることは、迷妄か虚偽だといわれても仕方ないところかも知れない。しかし、問題はそこにこそあるのではなかろうか。
 どんなに科学的に、人間の死=無を説明されたところで、子供の私が生の快適の中で突然感じた死の恐怖は、知識と経験だけで克服できるものではなかろう。今もつて私は、快適な日なたぼっこや、理髪店でのひげ剃りの最中などの折、ふと死の影を感ずることがある。
 その恐怖は実存的なものであり、生きている証拠でもあるのだから、無理に避けたり、はぐらかしたりすることは、生に対しても、死に対しても憶病な、不真面目な態度となってしまうであろう。
 この数十年間、私を支えてくれた仏教の答えは、定型化すけば、アッケないほど簡単である。
曰く「生死不二(しょうじふに)」、生も死も本来一つのものであって二つには分けられない。「生きている」ことは「死に向かっている」ことである。しかし、そのことは決して、生きることよりも死ぬことに眼を向けることではない。
 「いつ死んでも悔いのない」ように、一日一日を十分に生きることであろう。
「日々これ好日」である。死は考えるが恐れる余裕はない。
Posted by: 夕焼け  at 2010年05月11日(Tue) 09:37

その@
 金岡先生には、若い頃から随分と教えていただきました。
博学であり、レジュメの一項目で一時間半が終ってしまう。
 先生は、東大インド哲学科卒業、密教研究の道にすすんだ。
「生きている」ことは
「死に向かっている」ことである。しかし、そのことは決して、生きることよりも死ぬことに眼を向けることではない。
 「いつ死んでも悔いのない」ように、一日一日を十分に生きることであろう、と。

*私を支えた「生死不二」の教え   東洋大学名誉教授  金岡 秀友
いまの享楽的な世相にもかかわらず、死に対する想いが、老若を問わず浸透していると聞く。以前には余り見聞きしなかった中学生・高校生の自殺などは、もつと深くその真因を省察すべきところであろう。
 私自身の経験からふり返っても、「死」の自覚や恐怖は極めて古い。森鴎外が自分の性の内面史を辿って『ヰタ・セクスアリス』を書いたことはよく知られているが、それは六歳の時が始まりである。
事は異なるが、私の「死の自覚史」も数えの六歳から始まっている。
 葬式や遺体を自分の生やその終わり(死)と結びつけるには、六歳の私の理性も更に感性も発達発達は十分でなかった。
 その証拠に私の死の自覚や恐怖は、感覚的には逆に、もつとも快適な状態のとき、突如として私を訪れる。
私の風呂で温まったこの快適な皮膚感覚や血行は、死んだらどうなるのだろうか。土葬の遺体で見たように、人間の原形もとどめぬようになって、黄色いつぶを一面に浮かせた肉となってしまうのであろうか。
 しかし、これは第三者の遺体の記憶であって、私の肉体の遺体化した所への想像でも実感でもない。ただの知識にすぎないのであるから、何の恐怖も嫌悪も呼ばないことはいうまでもない。
 
Posted by: 夕焼け  at 2010年05月11日(Tue) 09:35

 昔、埼玉県都幾川村に柳瀬有禅老師を尋ねた。
師は、朝の看経、坐禅、そして提唱と作務と!
それが終わり、家の敷居をまたぎ、歩く姿に度肝を抜かれた。
 囚われのない、サッ サッと歩く姿に、小生の迷いは吸い取られてしまつた。
 そして山河大地は実に美しく見えた。

 本来、定年退職すれば晴れて自由人のはずである。
今まで閂の中の生活、習慣がとれず、自由人とはなれない。
 
*切處に於て無心なれば則ち種種差別の境界は自おのずから無なるべきなり

 一切処においてこちらが無心ならば境も無心だ。こっちが無心ならば何があっても境に捉われない。それに引きずられていかない。いくら悟って無心だと言っても苦しいこともあれば悲しいこともある。
 人間生きていれば、様々なことが向こうからちゃんとぶつかってくる。しかし、それに捉われない引きずられない。引きずられていくと神経衰弱になって終いにはおかしくなって、ビルから飛び降りたりしなくちゃならない。

 しかし、何が起ってきてもそれに引きずられなければ、無いのと同じ。
・・・無いのと同じという訳には中々いかないけれど、それに捉われ引きずられていかなければいい。自分を失わなければいい。

 自他不二の無心の世界、一切処において、嫌なことがあれば嫌なことで自他不二だ。

Posted by: 夕焼け  at 2010年05月10日(Mon) 20:06

芭蕉の俳句に
「この道や 行く人なしの 秋の暮れ」
 でしたか、ありますね。

 少なくとも、孤高の道を歩いているのでしょうか?
道元は『この』ということを強調していますね。
「この道」とは「この私の迷いの人生」ということである。
 そこに「行事」もあり、行住坐臥も「この道」であらざるなしです。
 定年退職では遅い?
いや、無門慧海禅師の「門よに入るものはこれ家珍にあらず
大道は無門・・・とね」

*請ふ有志の者の他の顰ひそみに效(ならう)こと莫れ

 本当に修行する心があって、「これは何だ」という疑問を真っ正直に・・・

 ・・・大概はねぇ、例えば、何でもそうだけど成長してくる過程で大人になりかかったときに俺はこういうことやっていいんだろうかと、あるいは職業に就く時でも、俺はどういう職業に就こうかと言うとき、自分の人生を大半考えるでしょ。でも、それをね、どっかへ忘れちゃうんですよ。
 ・・・職業に就いちゃうと職業の中でスッタモンダあるから。

 もう自分の生き方がどうとか人生がどうだとかなんてことはみんなどっかへ忘れて、そして歳をとってから、もう自分の死ぬことが目の前に来て・・・・

 本当はその疑問を持ったときに、その疑問を本当に真っ正直に自分で解決してないで、生きてきているから、死に損なってからああだこうだ言ってくるんでね、そんとき言って来たってもうそれは駄目なんだよね、言ったってわからないから。
 ・・・わからないというと変だな・・・兎に角みんなそれぞれが自分の考えを、固定観念を持ってきてるからねぇ!

『請う有志の者』はそういう志を強く長く持ってるもの。そういう人は他の顰にならうことなかれ。『顰』というのは「眉を寄せて顔をしかめること」と字引に書いてある。要するに他の言葉に流されたりするなということ。ね。人の後にひっついて行っちゃだめだということ。

 本当に修行するつもりがあったら自分で自分の道を自分の足で歩いていけということ。

Posted by: 夕焼け  at 2010年05月10日(Mon) 10:52

 定年退職して、自分の食事も妻に用意してもらう。
朝から晩まで、お〜いお茶・・・・・。

光陰虚しゅう過ごすことなかれ、無常迅速、とき人を待たずとね!
三島の龍沢寺の坐禅堂でしたか、「大疑堂」の看板!
これは白隠禅師の、自分とはこれ何ものぞと、疑って疑って・・・疑いぬくことが大切でしょう。
 そして、疑いになりきり、そして疑いを突き抜けること!

 存在の実相とは、このような生であり、このような相であり・・・
 ま、「日々是好日」これテーマですね。

*百年の光景能く幾時をか得る
 人生百年。沢庵禅師が「百年、三万六千日」なんて軸に書いてるけども、人生百年、夢の間だ。

 本当にそうですよね。あっという間ですよね。みんなだってそうでしょ?

 赤ん坊の時は、人生長いと思って、早く大人になって箪笥の上のものを取って食べようと思ったって、手が届かなくて、早く大人になろうって思ったけれど、三十になってみると過ぎた三十はあっという間だし、四十になってみると過ぎた四十はあっという間だし、五十、六十となっていけば行くほどあっという間だ。

 自分が生まれたときのことだって昨日の事のように覚えていそうなくらい早く過ぎてきちゃった。

 百年の光景、よく幾時をか得ん。

 その短い人生の中に、あと何年生きていられるんだ?とこう言っている訳。
だから、油断しないで!

 みんな、自分が言われているつもりで、一所懸命、油断ないように・・・油断ないようにって端から言われたって嘘だよね。自分で、そのことが自分の問題になっていれば、仕事も何も手につかなくなるけどもね。だって、そうでしょ。子供の時なにかに夢中になっていると、もう、親に言われようが何しようが手がつかないでしょ。夢中になってやってるでしょ。大人だって同じ。本当に自分が、自分の疑問と真っ正直に余計な事を考えないで取り組んだら、そしたら、否応なしに修業せざるを得なくなるから、やっちゃうけどね。ま、そういうことだと思います。
Posted by: 夕焼け  at 2010年05月09日(Sun) 21:12

老人になると不安が、しかも漠然とした不安であろう。
また一方で、雑念がとれて、記憶が鮮明となり、暖かき日向に胸が張り裂けるほどの感動が沸き上がる。
 では、「日々是好日」とは?

悲しみをや苦悩を否定するのではなく、悲しみや苦悩になりきることでは?

*みんな気軽に考えて、「雨が降っても太陽が出ても今日はいい日でございます」なんて言う。

 それでよけりゃ、それでいいけれどね。
 色々の事が起るでしょ?自分の奥さんが亡くなる人も居るし、親が亡くなる人、子供や孫が亡くなる人もいる。そういうことがあれば涙が出る。当然だ。
 
涙が出なかったらおかしい。
 しかし、それでも、それを日日是好日として受けとめられるのか、ということでしょう。

 我々が修行してきて、いくら俺がやろうが皆がやろうが、世界が変わるわけじゃ無い。世界は、みんながいくら修行したって矛盾ある世界は矛盾だらけの世界だ。苦しみとか楽しみとかあれば、愛するものがあれば憎むものもある。この矛盾だらけの世の中に暮らしていて、そうして居ながら「日日是れ好日」というように日暮らしが出来るのか?
Posted by: 夕焼け  at 2010年05月05日(Wed) 22:09

夫と妻、「一つのものも立場によって違ってくる」

*考えてみれば、この世界のあらゆるものが有の立場、肯定の立場から見れば「そのとおり」現実です。現実は否定できません。
 人間は人間だし、犬は犬、あんたはあんた。俺は俺。みんな、そのとおり!
 ひとつ一つが独立しています。

 しかし、逆の否定の立場から見れば、人間というのは独立した存在じゃない。みんなのお陰様で食って、その集積した五蘊の集まり物です。 一切の物が、そういう眼から見たら、それだけで永久に独立しているというものは何も無いのです。

 みんな仮に和合して、刻々に変化する。ロウソクだって風にゆらいで燃えて、どんどん短くなって遷り変っているわけです。空の立場です。
 しかし、現実にある一つひとつの物を、空の立場から見て「山は山にあらず」と言って見たって、別の物ではありません。おなじ一つのものを表現しているわけです。

 この宇宙のすべての物が、一切の事柄が皆、何かの原因と縁によって現れてきます。お釈迦様はその宇宙の法則を「因縁」という言葉であらわしてくれました。その因縁を離れて存在するものは一つも無いのです。

 俺が「夕焼けだ!」と言ったって、何処に夕焼けだが居るのか?「鼻」を取り出しても夕焼けだじゃ無いし、「手」を取っても夕焼けだじゃ無い。じゃ、「心」か?といっても、心は出しようが無い。心臓を取り出したら、もう何ももの言わない赤い肉の塊になってしまう。しかし、それらのどの一つも取り去るわけにいかないけれども、部品が整って、「これが夕焼けだ!」なんて、大きい顔をして生きているわけです。

皆それぞれ大手を振って生きているわけだけれども、じゃぁ、真実の「これが夕焼けだ」というものが何処にころがっているのか?
 すべては因縁に寄って生じるから、それを仏教的に言えば「空」だと言うけれど、現象としては、夕焼けだが居るわけで、だから「俺はここに居る」なんて言ってるけれども、一つのものを置いたって恁麼、不恁麼は生じるわけです。ものの見方の立場が違うだけで、一つのものも立場によって違ってくるのです。
Posted by: 夕焼け  at 2010年05月05日(Wed) 21:55

そのA
言葉を発する前に相手を判断する、ということを、おそらく私たちはごくごく自然にやっている。これは考えてみればかなりの特殊能力にも思える。言葉を選ぶ、というのとは、また違う頭の使い方だ。ふだん意識はしないけれど。
敬語をうまく使えない若い人、というのは、この判断能力を身につけ損ねてしまったのかもしれない。ファミリーレストランで若いアルバイトの子が、母親より先に入ってきた小学生に「何名さまですか、お煙草はお吸いになりますか」と馬鹿ていねいに訊いているのを見たときも、同じことを思った。
話すときには敬語だの丁寧語だのため口だのといろいろ種類があり、読み書きにはひらがな、カタカナ、漢字がある。日本語とはまったく複雑な言語であるなあと思うが、この複雑さは、私たちの思考にも関係するのだろうか。「私」も「ぼく」も「あたい」もおんなじIという人称を使い、ローマ字一種類しか読み書きせずにすむ人と、同じような思考回路があるとはどうしても思えないのだが。
もといつか、私たちの言葉から敬語がなくなったとしたら、私たちはもっと発語しやすくなるだろうか?
ものの考えかたも変わってくるのだろうか? あるいは、敬語を使う機会を持たない人というのは、敬語が今より普遍的だった世代とはすでに異なる考えかたをしているのだろうか。そんなことを考えると、不思議なような、こわいような気持ちになる。
Posted by: 夕焼け  at 2010年05月02日(Sun) 10:31

その@
「言葉を発する前に相手を判断する、ということを、おそらく私たちはごくごく自然にやっている」
 大凡、人間関係を分析すると「相対関係」「相関関係」「相即関係」と!
長年、夫婦をしていると、協力して問題解決に当たらなければならない。自然に排列や経歴の仕方、作られる物語も言葉を交わさなくても同じになってくる。
 会話が「ウン」「ソウ」ですみ、だからといつて相手の考えていることがわかつていないでもない。
 たぶん「即」という関係はそのようなものであろう。
「絶対差別」「絶対平等」という「即」という関係、「絶対矛盾の自己同一性」なる西田哲学
 「個」と「全体」の関係性、今の日本人のあり方は矛盾していますね。全体を阻却して個のみの世界、これはバーチャルでしかない。
 日本人は己がたつ地盤というものを忘れていますね。

*脳あるヒト 心ある人   (作家 角田 光代)
敬語と思考の関係は
近所のスーパーに毎日いっているのだが、あるときを境に、なんだかそこで買いものをするのがいやになった。居心地が悪く感じられるようになったのだ。何が原因だろうとひとり勝手に分析したところ、ある時期から、パートの中年女性が急増したのである。
彼女たちは、中学生の息子に話しかけるように接客をする。「お勘定が間違っているようですれど」と話しかけても、「間違ってるって言われちゃったあー」と、別のパートに言い、「間違ってるかなあ?」と私に訊く。もともとそういうスーパーだったのなら、急に居心地悪くなることはないのだが、その前まで、社員が丁寧語を使っていたから、その変化に無意識がついていけなかったのだろう。
相手の情報がまったくないまま向き合ったとき、私たちは敬語を使うべきか、ため口でかまわないのか、瞬時に判断しなければならない。この判断が間違うと、さっきのスーパーのように、どちらかが居心地悪い思いをする。
Posted by: 夕焼け  at 2010年05月02日(Sun) 10:31

訂正

「男と女が好きになり、家庭を造り子を産む。国は、家族の結合を担保するために、基本的には男と女の自然な営みを破壊する。その究めつけが扶養控除の廃止である」

「男と女が好きになり、家庭を造り子を産む。国は、家族の結合を担保するために、基本的には男と女の自然な営みを支援する扶養控除制度をとる。

 民主党は男女の基本的な結合を破壊する、その究めつけが扶養控除の廃止である。

小沢は市場原理主義を高らかに叫び、自己責任を訴えてきた。しかし、突如として国民に何の説明もなしに、今度は国の丸抱えの社会保障の名の下で財源なきバラマキ、家族解体と国家解体を推進する。
そしてその破壊活動は文化破壊にまで及ぶのである」
Posted by: 夕焼け  at 2010年05月02日(Sun) 09:35

 男と女の関係について、先に少々述べましたが、民主党政権の下で、いわゆる文化破壊が起きていることに気付いているのでしょうか?
「子供は社会で育てる」
 古くはカルタゴ、最近ではスターリンそしてポルポトがそのようにいった。
背景として、夫婦別姓で家族をバラバラにする、外国人により日本という国家を解体する。
 そして、親は子供の扶養義務を持たない。

 男と女が好きになり、家庭を造り子を産む。国は、家族の結合を担保するために、基本的には男と女の自然な営みを破壊する。その究めつけが扶養控除の廃止である。

世界の民法典を見ても、家族法は家族の結合を前提に作られている。社会的に独り立ちできない子供や老人の扶養の第一義的責任は家庭にある。国はそれを支援する。
 女は巣作りに励み、男は家の大黒柱となる。

 民法第5部の変質が民主党政権の下で進む。
独裁者であり数え切れない数の人間を虐殺し文化破壊したスターリンでありポルポトと同じ思想を持つ民主党である。

 小沢チルドレンの女性が国会で演説した。
「子供は生まれるところを選べない」だから、国が子供を家族から取り上げ育てるのであろうか。
 歴史や伝統を担う国民は邪魔であから抹殺するのであろうか。
 年寄りの男子は「濡れ落ち葉」などと、平和な文化的土壌が破壊されつつあることに気付くべきでしょうが、日本人は鈍感ですね。

 気とは働きである、空気が腐っている。
法華経の一乗仏の思想、本源的ないのちに生かされて生きる吾である。
 その自覚のハウツーは、「声聞」「独覚」「菩薩」である。

 ま、救いがたいところですね。
Posted by: 夕焼け  at 2010年05月02日(Sun) 09:19

会長にしてそのような目に合われるとはまことにお気の毒です。しかし、奥様のおっしゃる通り、会長のように天下国家を視野に活動して下さる方は、今の日本にとって欠かすことのできない貴重な存在です。是非、もうひと踏ん張りをお願いいたします。奥様も全く同じ心境ではないでしょうか?どこかの奥様とは違い、本当に我が国にとって会長の存在が欠かすことができないとお考えになり、自らの気持ちを抑えておられるはずです・・・・、私が今更言うまでもなく、会長ご自身が一番奥様の気持ちを理解されておられるはずですが。
Posted by: 小山正興  at 2010年05月02日(Sun) 07:04

お二人の会話が目に浮かびます。どうぞお元気で。いつまでも。
Posted by: 福田一郎  at 2010年05月02日(Sun) 07:01

そのA
平之丞は真剣にお石に打ち込み、妻に迎えたいと思うようになった。そのことがお石に伝えられると、お石は急に、琴で身を立てたいといい出して、鈴木家を去るのである。
平之丞がお石を忘れるまでにかなり長い時間がかかった。お石がいなくなってはじめて、彼女がどれほど無くてはならない存在だったかが分かったのである。「こんなに深く人の心にくいいりながら、あのようにみれんもなく去ってゆけるものだろうか」と平之丞は嘆息さえもらしたりした。
こうして二十数年経った。五十歳の平之丞は、偶然なことから池鯉鮒(ちりう)の町はずれの「八橋の古蹟」のあたりでお石とめぐりあうのである。
お石は平之丞を深く愛していた。しかし、十三の年に身の上を知り、重い科(とが)を受けた罪人の娘が平之丞の妻になっては、いつどこで夫に迷惑をかけるかもしれぬと思い至って、平之丞を好くことをあきらめ、代わりに文鎮をもらったのであった。「お好き申さない代わりに、あなたさまの大事にしていらっしゃる品を、生涯の守りに頂いて置きたかったのです。平之丞は呻(うめ)いた。そして、低頭するようなおもいで心のうちにこう呟(つぶや)くのである。「なんというひとすじな心だろう、愛する者の将来に万一のことがあってはならぬ。その惧(おそ)れひとつでお石は自分の幸福を捨てた、今は年も長(た)けたし情熱もむかしのようではない。すなおに苦しゅうございましたということができる。然しまだ世の波かぜにも触れず、ひたむきな愛情が生きのいのちであった頃、どのようなおもいで自分の幸福をあきらめたことだろう。――自分では気づかないが、男はつねにこういう女性の心に支えられているのだ。」
こういう女性の心を、わたしは「ふるさと」と呼びたいのである。お石は平凡な女性に見えた。しかし平之丞がいったん見る眼をちがえると、おどろくべき女性であることに気付いていくのである。
ずっと昔にこの小説を読んでから、女性を見る眼がすっかり変わってしまったような気がして、われながらびっくりしたことを、今もなおなつかしく思い出すのであるが、ふるさとというのは、たしかにそういうものなのであろう。
Posted by: 夕焼け  at 2010年04月30日(Fri) 18:50

その@
山本周五郎氏は、人間の実存を深く追求されていますね。
男はつねに、「お石」のような女性の心に支えられているのだ。

*ふるさと
ふるさとと女の愛
業といえば、「女の業は深い」という。悪い意味ばかりではない。愛する男のために自分の一生を捧げて悔いなかった女たちの生死の歴史が業の風となって吹き舞うような、独特の天地を生み出してきているのではないか。そういう大地の中から抜け出してきたような女性を見ると、男は、「かなわないな」と思う。どうにも抵抗できないのである。
山本周五郎は『日本婦道記』の中に「墨丸(すみまる)」という小説を書き、お石という女性を登場させている。お石は藩の重罪人の娘で孤児となり、五歳の年に鈴木平之丞の家へ引きとられてきた。色の黒い、みつともないような女の子であつた。その時、平之丞は十一歳である。
お石は十三歳の年の春、ふと平之丞の部屋に来て、彼が大事にしていた文鎮を貸してほしいといい、それを持って行った。
お石はやがて琴をある検校(けんぎょう)に学び、天稟(てんびん)を発揮しはじめる。「音楽をまなんで音を聞きわけることはやさしいが、音の前、音の後にあるものをつかむことはなかなかむつかしいのです。お石どのはすらすらとそれをつかみなさる」と検校が驚嘆するほどの域に達するのである。
十七歳になったお石は、平之丞の眼をみはらせるほど美しくなった。そして、人の着付かないところ、眼につかぬところで、すべて表面よりも陰にかくれたところで、緻密な丹念な心がよく生かされていることが平之丞に分かってきた。下女に代わって風呂場の掃除をしたり、竈(かまど)の火を焚いたり、下男と一緒に薪を作ったりすることは平之丞の母でさえ知らずにいた。料理も巧みで、粗末な材料からどんな高価なものかと思わせるようなものをこしらえたりした。ある時茶菓子に稗(ひえ)団子を作ったが、うまくて平之丞はお代わりさえした。しかしその稗は、百姓が抜き捨てたものを拾い集めて、自分で干し、自分で搗(つ)き、粉にひいて作ったものであった。
Posted by: 夕焼け  at 2010年04月30日(Fri) 18:48

そのD
とするならば、水はすなわち真竜(しんりゅう)の住むところであって、それはただ流れ落ちるのみではない。流れるのみだというのは、そのことばがすでに水を謗(そし)っているのである。だから、たとえば、水は流るるにあらずと無理にいわねばならぬのである。水は水のあるがままの姿でよいのである。水は水そのものであって、流れではないのである。一つの水の流るるをきわめ、流れざるを究むれば、あらゆる存在を究め尽すことも、たちまちにして成るのである。
 また、山にも、宝にかくれる山があり、沢(さわ)にかくれる山があり、空にかくれる山があり、山にかくれる山がある。そのかくれるところに山の山たる所以があることを学ぶべきである。
 古仏はいう、
 「山はこれ山、水はこれ水」
 と。そのいうところは、凡情のみるところの山を「これ山」というのではなく、仏祖がみるところの山を「これ山」だというのである。だからして、よく山をまなび究めるがよく、山をまなび究むれば山に教えられるところがあろう。そのような山水は、おのずからにして賢を生み、聖を成すのである。
 正法眼蔵  山水経
 この時、仁治元年十月十八日子の刻、 観音導利興聖宝林寺にありて衆に示す。

Posted by: 夕焼け  at 2010年04月30日(Fri) 14:53

そのC
〔水に住める聖者のこと〕
 また、むかしからの賢人・聖者のなかには、ときどき水に住んだものもある。水に住んでは、魚を釣るものがあり、人を釣るものがあり、まだ道(どう)をつるものがある。それらはみな、古来から水にあっての風流である。さらにすすんでは、自己を釣るものもあるであろう。また、釣りにつられることもあろうし、道につられることもあるであろう。
 むかし徳誠(とくじょう)和尚は、飄然として薬山(やくざん)をはなれ、華亭江(かていこう)に舟をうかべて住んだが、まもなくそこで賢聖を獲(え)たという。その間には、魚も釣ったであろう。人も釣ったであろう。水も釣ったであろう。また自分自身をも釣ったであろう。その人が徳誠(とくじょう)に遇(あ)うことができたのは、その人が徳誠であるからであり、徳誠がその人に逢ったのは、自分自身に逢ったのである。
 いったい、この世界に水があるというが、ただそれのみではない。また水の中にも世界があるのである。さらに、水の中がそうであるのみでなく、雲の中にも生き物の世界があり、風の中にも生き物の世界があり、火の中にも衆生の世界があり、地の中にも衆生の世界があり、全世界のなかに衆生の世界がある。あるいは、一茎(いっけい)の草の中にも衆生の世界があり、一振りの杖の中にも衆生の世界がある。そして、衆生の世界のあるところには、そこにまた、かならず仏祖の世界がある。そのような道理をよくよく聞いて学ぶがよい。
 
Posted by: 夕焼け  at 2010年04月30日(Fri) 14:53

そのB
  先生  山を見る   高村 光太郎
小柄な先生の質素な背びろ。
わりに大きなリュクサックは
先生の肩から背中に重く位置して
自ら荷ふものなる先生を分厚くする
右手の杖はまろい木の枝、
あみだにかぶつた防水帽はふるび、
もっと古びた先生の顔がその下にある。
半白の顎ひげは荒くこはいが
ここにたぐい稀なおだやかさが棲み、
ここにあるがままの安らかさが屯(たむろ)し、
およそ大袈裟ならざるもの、
世に魁偉奇妙ならざるもの、
ただ「今日は」といふ神さびた人面がある。
先生は帽子をとつて額の汗をふき、
帽子を杖の上に重ねて頭をあげ、
しずかに山を見るのである。
山を見る先生の眼に山の叡智がうつる。
山は先生をかこんで立ち、
真に見るものの見る眼をよろこぶ、
上州至仏山はまぶしいように瞬(またた)き、
この時うすい霧の遠近をつくって
山の陰影に先生をもてなす。
先生山を見る時
先生も亦山なのである。
Posted by: 夕焼け  at 2010年04月30日(Fri) 14:48

そのA
おとなしい、巣作り型の夫を若い妻は喜ぶが、もしかしてそれは同性愛ではないのか。
 男の愛は烈しく、強く、厳しく、気ままで、一人の人間にのみ向かわない。定着を嫌い、縛られることを好まない。ゆえに世間に出て烈しく戦い、烈しく愛し、その愛を万人に向けようとする。
「恋する人々のとはの国」とは、大ぜいの人々の幸せをまず優先させる。永遠の愛の国のことである。男はそれを思う。「青く輝きわたす天」鋼色の、青く研ぎ澄まされた蒼空は男の希望である。
 男は天を仰ぎ、天を凝視する。自分を動かしている天の意志を知ろうとする。女はそれを「山を見る」としか思わないのである。「鳥をごらんなさい。風のさなかでも巣をつくろっているじゃありませんか」という。人間は鳥ではない。
 しかし、そんな天のみを思う生き方は、たしかに現実的ではない。だから「ロマンツェロ」だという。非現実物語というのである。しかし、ロマンのない男など、はたして男であろうか。25歳にしてすでに定年退職のことを思い致し、できるだけ退職金の沢山出そうな会社に就職したいと思うことなど、男の考えることであろうか。
Posted by: 夕焼け  at 2010年04月30日(Fri) 14:25

その@
[ロマンツェロ]
きみにならびて野に立てば
風きららかに吹ききたり
柏ばやしをとどろかし
枯れ葉を雪にまろばしむ

「さびしや風のさなかにも
鳥はその巣をつくろはんに
ひとはつれなく瞳(まみ)すみて
山のみ見る」ときみはいふ

あゝさにあらずかの青く
かがやきわたす天にして
まてと恋するひとびとの
とはの国をば思へるを
                宮沢 賢治

 若い女性は、愛する人ができるとすぐに巣を作りたがる。それは子を産むためである。女は愛する者の子を宿したがる。生んで育てたいと思う。そのためには、せつせと巣作りに励む。マイホームを作りたがるのである。この頃の若い夫は、せっせとそれに協力する。その姿はほほえましい。美しいと思う。
 しかし、男は本来、巣作りせぬものである。男の帰ってゆくところは「寝ぐら」である。外に出て戦い、働き、疲れ果てて帰るところは「寝ぐら」なのである。疲れがいやされれば、男は再び外へ飛び出してゆく。戦うため、仕事をするためである。巣作りに協力するためではない。
 女は自分と、夫と、二人の間の子のための生活のみを思う。男は大ぜいの他者とのかかわりを思う。その生き方はまるで違っている。だからこそ、男と女との間にはいつも戦いがある。
 せっせと巣作りに協力し、会社は定時になるとさっさとやめて妻のもとに飛んで帰るという男は、もしかすると、もう男ではないのではないか。
 
Posted by: 夕焼け  at 2010年04月30日(Fri) 14:24

家内に貴会長ご夫妻の会話の話を聞かせましたところ、家内から貴会長の最後の感想部分、濡れ落ち葉、粗大ごみ云々につき、全く同感と言われてしまいました。
私も定年退職しまして約1年半ほどになり、お互いの居場所がそれぞれに出来つつあるかと思い話したところ、どうも家内はそういう認識まで未だ熟していなかった様で、主婦はそう言うものかなと改めて過去を振り返っています。
しかしながら、一方でお互い居場所を作るには時間がかかるかと思う反面、この家内の気持ちはずーっと変わらないj主婦の性みたいなものではとも思えます。
長く連れ添った妻ないし主婦の積年した思いは消えそうに無いのかとも思います。
昔見た外国の新聞に、妻が夫に貴方は昔そう言ったでしょうとなじっている場面があり、次いで夫がその記憶振りに驚いている場面があり、その後母親が小さな娘に、女性にとって「決して忘れないこと」が一番大切だと教えている4コマ漫画が出ていて、洋の東西変わらないものだと思ったことを思い起こしました。
しかし、今でも朝、昼、晩3食の支度等日常通りやっている妻を見ていますとあるいは口先だけのことだったのかと安心したりしています。
いずれが本心かは永遠の謎なのかも知れません。

Posted by: 清水 健司  at 2010年04月30日(Fri) 13:31

続きです。
そこで私の地震対策用の消火器と消火体制、つまり 「国で開発した携帯消火器を首都圏三千万人が持ち、そのとき即消防士となって逃げずに人海戦術で最寄の火災を初期消火する」 アイディアを説明すると、皆が成る程とガッテンしてくれます。

4月23日、東京の半蔵門のグランドアークホテルであった亀井静香金融大臣の講演会で、私が400人の聴衆の会場で上記のアイディアを大臣に説明してご意見を伺ったところ、それは素晴らしいアイディアです。あなたが言われるように、巨大地震が起き火災で東京が丸焼けになり日本が劣等国になったら普天間も日米協定もなくなりましょう。早速、その話を担当の中井ひろし国家公安委員長に伝えます、話してくれました。約400人の聴衆は私の説明と質問、それに大臣が話した6分間シーンとして聞いてくれましたね。

長くなってしまい済みません。去る4月2日に、秘書の星野さんに、近く上京して5日間ぐらい滞在する予定ですが、その間笹川会長さんにお会いしたい旨のお話しをしましたら、8日から海外に出る関係で日程が混んでいますので、次回上京のときにでも、とお話いただいております。

4月23日の産経の世論の文章を私も家内も一緒に読みました。そして考え方が似ている、気も合うだろうねと顔を見合わせて話しました。私の考えはHPやブログでお解りいただけると思います。

笹川会長さん、私と一度お会いしてください。きっと何かが始まると思います。坂本竜馬が勝海舟に合う時のような心境で、会長さんからのご連絡をお待ちしています。
Posted by: 沢田哲夫  at 2010年04月29日(Thu) 22:15

このブログを読んで会長さんに益々共感と親しみを感じます。

私もゴルフをしますので、オチョア選手はソレンスタム選手に次いで凄い選手が出てきたものだと驚いて見ていたものでした。殿堂入りよりも家庭生活が大事と、ナンバーワンのままの引退は天晴れです。

オチョアのゴルフの話を通しての奥さんとの会話は、私が天下国家を語り行動もし、それに家内が反応していろいろ話し合っている我が家、それに年令も70台と似ているところも大変親しみを感じるところです。

ただ、決定的に違うところは私は会長と違って貧乏人であるということです。
そのため、近づく首都直下地震による同時多発火災を初期消火して首都圏焼失・日本崩壊抑止するアイディアを持ち、それを政冶的に解決すべく行動していますが、金不足のため思うように力が発揮出来ずにいます。

折角のアイディアが生かされない内に、首都圏が巨大地震に襲われ、ハイチのように日本が崩壊してしまわない事を願いながら、それなりの行動をしています。

首都直下地震の同時多発火災対策用としての、スーパー・アイディアを書いた本 「〜大地震による火災が大発生したとき〜あなたは生きられますか」 を大量に出版し、各種マスメデアで宣伝をしていますが売れずに困っています。

どこかの、マスコミが取り上げてくれれば、それがキッカケとなって忽ち売れ始め、運動資金が生まれると思います。キッカケがほしいですね。

この頃頻繁に宮城県から上京して、総務省消防庁・東京消防庁・日本消火器工業会・マスコミ関係・国会議員会館等々を廻っていますが、そこで聞く話は、今の消防体制と消火器は通常の火災に対するもので、地震による同時多発火災には無力には全く近いと皆が告白される。
Posted by: 沢田哲夫  at 2010年04月29日(Thu) 20:08

そのC
先生が考案し、提供してくださった吸痰器は日に日に利用回数が増し、最後は日に数十回に及んだ。菅の喉への挿入は母にしかできなかった。これが無かったら家庭介護は続かなかったであろう。
末期には酸素ボンベが常用されたが、数十キロあるボンベの交換とバルブの開閉は力のいる作業だった。私がいないときには女手二人でやりぬいた。
床擦れや手足の擦れを防ぐ為のマットや枕のたぐいはありとあらゆる工夫がなされて、それらを駆使した姿勢変更のノウハウにより、床擦れは全く無かった。
昔の褌を利用したおむつカバーは見事なもので、その効果は絶大だったし、おむつ交換のときの手順や清潔に保つための努力は看護婦にも感動すら与えていた。
大川先生が運んできてくださるエレンタール(栄養物)は手作りの野菜スープなどと共に丁寧に調合し、自分の食事を忘れても規則的に与え続けた。
そんな介護を長年続けた老母の腕は男の様に筋肉がつき、指はごつごつになった。父に語りかけながら介護する母に答えが帰ってこなくなってきた頃、時折寂しそうな顔を見せたが、指や腰の痛みに耐えながら最後まで全く手を抜くことをしようとしなかった。
病弱であったにもかかわらず父の修行を助けつつ私たち子供を育て上げ、そして介護し抜いた母は強く、父とはまた違った偉大さを感じるのである。間もなく八十歳を迎えるがその年を感じさせないのは嬉しい。今までは父のための人生だったが、これからは少しでもゆったりと、のんびりと楽しんで生きていってほしいと思う。

精根を尽くし介護をしたまえる夫人の静けく優しき姿              大川 清先生 詠
(平成六年十一月 記)
Posted by: 夕焼け  at 2010年04月29日(Thu) 13:47

そのB

翌日病院へ行くと母が眼を真っ赤にして「睦子ちゃんがもう意識がないの、手を握ってあげて」と言った。小さく柔らかな手を握りながら、小声で激しくやり取りしている父母の声を耳にしたが、その内容は頭に入らなかった。
それから数日後、睦子は冷たくなって家に帰ってきた。栄養失調が原因で風邪をこじらせ高熱で脳炎になっていたのだという。
後から知ったことであるが、入院に至る前、父母は睦子を救う薬を手に入れるために家財を売り払うかどうかの選択に迫られていたのだった。その時、母の「赤子一人を救うため二人の子供を犠牲にするのですか」との言葉に父が思い止ったのだと言う。あの薄暗い部屋のなかで悄然と立っていた姿と、墓前でとめどもなく流した涙を思うにつけ、このような惨い決断をせざるをえなかった当時の状況を想像し、胸が痛み、そして改めて父母の凄さを感ずるのである。
悠美子が生まれた時「睦子の生まれかわりなの」と母は言った。それは自らを納得させる言葉だったのだろう。自分は犠牲になった妹睦子の命の半分を背負っているのだとの責任を感じるのである。
(平成六年七月  記)

母 芳枝のこと
父と母は一心同体だった。俗に言う仲のよい夫婦とは違うが、一対で大森曹玄が成り立っているようにすら思えた。喧嘩もしたが母は父を心底尊敬し、父は母を頼りにしていた。しかし晩年、大学に、禅道場に、講演にと国内外を奔走する父は「少しお休みになったら」という母を叱りつけ、それを聞こうとしなかった。その時休ませなかったことを母は今でも後悔している。そのことが家庭介護の道を選ばせたのかもしれない。
大川先生のご指導による母の父に対する介護は徹底していた。それを助ける由子も自分の家庭を犠牲にして頑張り抜いた。悠美子も多忙のなかを応援に来てくれた。
Posted by: 夕焼け  at 2010年04月29日(Thu) 13:45

そのA
嬉しかった。よく弾むその真白なボールは皆の注目を集め、同時に自分が急にスター的存在になったような気持になった。そのボールを宝物のように大切に使い、その後何年も何年も身の回りにあり、その感触は今でも手に残っている。
このような思い出はいくつもあるが、父母共に決して貧乏人の顔をせず、私たちに心の豊かさだけは保たせようと努めていたのであろう。子供の頃は栄養失調で夏負けしたことはあったが、心の貧困は味わうことなく育てられた。このことはそれからの人生にどれだけ影響を与えたことか計り知れないものがある。それをはっきりと自覚できたのは高校生になってからだろうか。
陽のふり注ぐ縁側から投げかけられた父の言葉に対して、私は「うん」と答えただけで、そのダンロップのボールで壁を相手にキャッチボールをはじめたのだった。
(平成五年九月 記)


弱音を吐いたのを見たことが無かったが、その父の涙を一度だけ見た。それは十数年前だったろうか。家族で墓参りに行ったときのことだった。墓は多摩霊園に大森本家のものと、父がつくった我が家のものとがある。そこには二歳になる前に亡くなった妹の睦子が地蔵としてまつられている。お菓子を墓前に供え、線香を立てながら突如父が涙を流しはじめた。「お父さんが悪かった、可哀相なことをした」と何度も繰り返しながら、読経のあいだも涙が頬を伝わっていた。それを見ながら母は「可哀相だったけれど運命だったのよね」とひとり言のように呟いた。
あれはたしか私が小学校二年の冬だった、学校から帰ってくると家には明かりがついていなかった。当時は二部授業だったので遅番だと帰りが夕方になる。「おかしいな」と思いつつ家のなかに入ると寒々とした薄暗い部屋の片隅に父が立っていた。私の姿を見ると「睦子が入院したよ、お母さんがついて行った。明日の朝、一緒に病院に行ってみよう」と努めて明るく言った。私は物凄く寂しくなって箪笥を背に座り込んだ。父はそのまま明りをつけようともせずしばらく立ちつくしていた。その情景は今でも鮮明に浮かんでくる。
Posted by: 夕焼け  at 2010年04月29日(Thu) 13:43

その@
 大森悠生氏が父母のことについて書いている。
夫婦の物語は、排列や経歴してどのような物語を作られるでしょうか?

野 球
陽の光りが心地よかった。高校の入試に合格し、久しぶりに気兼ねなく太陽を見た様な気がしていた。
「悠生は何になるんだい?」
庭でボールをもてあそぶ私に向って、縁側で胡坐姿で本を読んでいた父から突然こんな言葉が投げかけられた。今までそんな話をしたことがなかったので、キョトンとしていると「僕も自分も好きにやって来た。母さんにもずいぶん苦労を掛けた。悠生も自分の道を探して行くんだな。寺を継ぐ必要はない。この寺では食ってゆけないよ」と言って笑った。
戦後、私の中学時代ごろまではかなり貧乏暮らしをしていた。今思うに、その日の食べ物にも窮していたこともあって、病弱だった母は食欲がないといっては自分の食べ物を育ち盛りの私たち子供に食べさせていた。給食費の袋に現金の代りに、しばらく待ってくれという手紙を入れて持たされたこともあった。また、遠足用のカバンがなく、前日父母が夜なべをしてあり合わせの布を使って作ってくれたこともあった。
東中野に住んでから、父はときどき散歩に連れて行ってくれた。その時もそうであったが、家族連れで新宿の街を歩いた。とある蕎麦屋の入口のガラス戸のすきまから「ほら、見てごらん」と父が指さしたのはつい最近まで我家の床の間にあった甲冑だった。手放した甲冑を一目見たくてその蕎麦屋を探して歩いたのだろう。どことなく寂しげな父母の雰囲気を子供ながらに感じ、蕎麦の良い香りを嗅いだだけで、ねだる事もできず帰ってきたのだった。
それからだいぶ後になってからであるが、一枚の着物を作って貰って嬉しそうにしている母が台所に立った後、「空になった箪笥を一杯にしてやらなきゃなあ」とにこにこしながら言う父の言葉に「あっ」と心に響くものを感じた。戦後の苦難に耐え抜きながら禅の修業をしてきた父、そしてそれを支えてきた母の姿の一面をそこに見た思いがしたのだった。
遊び道具もなかった小学校高学年の頃、軟球のキャッチボールが流行したことがあった。ボールを持っている子は少なく、その友達と仲良くしないと遊び相手を失う。私もその一人で、放課後になるとボールを持っている相手を探した。そんな私の姿を父はいつ見ていたのだろうか。ある日、ダンロップ印の軟球を買ってきてくれた。
Posted by: 夕焼け  at 2010年04月29日(Thu) 13:40

いい話ですね。実にいい雰囲気ですね。単に遊び歩いて女房殿を顧みず、外で相手にされなくなり家庭復帰を口走り、体よく飯だけは与えてもらえ、一人寝の空間をかろうじて許されかねない小生。せめて天下国家の世界少しでも参加できたらよかったものをとこの期に及んで悔やむことしきり。 
Posted by: 田中一哉  at 2010年04月28日(Wed) 18:22

C〜Dの間の抜けているところの追加文章

 「それから高田では、『古事記』と『バ○ブル』の比較をされたが、話半ばに一青年が壇上に躍り上がり、渥美さんの脚にすがって泣き伏した。およそ講演に於いてかくまでの劇的情景を私は曽て見ない。因みに渥美さんの遺著『日本の生命』の中に「古事記とバ○ブルの比較」と題する一文が載せられ」
Posted by: 夕焼け  at 2010年04月28日(Wed) 15:58

そのF
彦根から名古屋に出て出雲大社の千家尊建氏の宅に一泊し、翌日熱田神宮にお詣りした。それから渥美さんが、まだ「寝覚めの床」を見たことがないというので中央線で帰ることにしました。多摩御陵にも詣でたいと浅川で下車し、もう遅かったのでその夜は多摩稜勤番所につとめる花松さんという私の禅友の家にお世話になりました。秋もたけて、うそ寒い晩でした。冴え冴えと月の光りがさしていましたが、渥美さんはいつまでも庭に出て月をながめていました。虫が知らすというのか、このように最後の整理を済まして東京に帰った数日後、長岡理和さんを訪問し、そこで渥美さんは狭心症で不帰の客となったのです。
あの玄宮園に夜もすがら別離の盃をかわしたことは今に無量の感慨であります。玄宮園は瀟湘八景を模した庭園であり、曽て井伊家の奥女中の居室であったという。渥美さんにとっては、こよなく懐かしい所だったのでしょう。まさに人生五十年、激浪の如きその一生の終焉を予期してか、後輩にのこす言々区々には悲しく、胸を刺すものがあり、私はついにおさえかね声を放って泣いたものでした。
(昭和三十九年一月  大森 曹玄)

Posted by: 夕焼け  at 2010年04月28日(Wed) 15:40

そのE
この大阪の講演の後、渥美さんは間もなく亡くなられたのですが、東北の旅に於いて、既に病魔は深く渥美さんを蝕んでいたのでした。講演がすむと、胃が痛いと言ってよく熊の胆をなめて居られたが、実は心臓が悪かったのだということは、死後に判ったことでした。大阪から帰る時いたく傷心の面持ちで、「君、僕の故郷へ一緒に行ってくれないか」と幾度も言われる。私は従って彦根城内の玄宮園に一夜を明かした。渥美さんにとっては、青年の頃出奔して以来のお国入りで、その夜は渥美さんの一生の思い出話を聞かされました。そして遺言だと言って、「僕が死んだら酒樽に入れて同志の者で火葬場に担いで行ってくれ。もう一つ、四斗樽の鏡をあけ柄杓を添えて、見送り人に誰彼を問わず一杯ずつ振舞ってくれ。焼いた骨灰は富士山から撒いてくれ。太平洋の波濤を睥んでいたいのだ」と言われた。この広大な、詩的ないかにも渥美さんらしい美しい遺言をそのまま実行すべく、私は渥美さんの死後、葬儀委員会に訴えたが、あまりに現実離れしているという理由でとうとう容れられずにしまった。その代わり、富士山の麓に渥美さんの歌碑を立てることを承諾させた。いま若狭の森にひっそりと立つあの渥美さんの魂の刻印の碑は、二十五歳の私が涙でかち取ったと言ってよいでしょう。歌は「富士を追い海原見ゆる裾野あたり、牛追うたつき夜々夢に入る」というのです。これも遺言と同時にきかされたものですが、静かな天地自然に抱かれて働く農民のあの平和な生活こそ、渥美さんの究極の希いであったのかも知れません。
Posted by: 夕焼け  at 2010年04月28日(Wed) 15:38

そのD
ていますが、あれはその旅行で聞いた渥美さんの講演を、私が丸暗記して筆記したものです。
東北の地をめぐりゆくうちに、渥美さんと遠藤氏と仲違いをしてしまいました。まあ烈火のような情の人で詩人肌の渥美さんと、理論家で智の人である遠藤氏と、それはいつかそうなる宿命だったのでしょう。渥美さんはそこで、東北で世話になった遠藤氏に報いるために、関西に講演会を持つべく大阪に赴き、電報で私を呼ばれました。私が講演会開催のための一切の準備に当たったわけです。さあ大阪の地ははじめてで全く不案内。この時はほとほと閉口しました。先ず警察に交渉すると、会場の承諾書を持参せよという。会場に行けば警察の許可証がいると、双方から突き放される。如何ともし難く、一応私は宿へもどって来た。宿というのは渥美さんのお弟子の、ある検事の家でした。渥美さんは主人と碁を打っている。悠々たるものですよ。そして私を見るなり、「仕事の途中で帰って来たのではないのか」と言われる。「途中でもどってくる奴があるか、敵に後ろを見せるようなものしゃないか」と一喝された。これが渥美流の教育の仕方ですよ。私は「いや一ぷくしに寄ったのです」ととぼけて、また出て行ったが、心中全く途方に暮れました。然しもはや退くことはならぬ。そこで一大勇猛心をふるって背水の陣を敷き、敢然会場側にぶっつかった。「警察は許可した。正式の許可証は後で届ける」こう言って強引に会場を借りてしまった。会場費を支払い、領収書を持って警察にゆき、やっと正式の許可証を手にした。看板屋に行ってポスターを注文したり、一切の準備を完了して揚々と引き返したが疲労が一時に突き上げてきましたね。これはしかしいい教訓になった。渥美さんは、困阨の間に処して断釆これを切り抜ける根性というものを教えてくれました。
Posted by: 夕焼け  at 2010年04月28日(Wed) 15:36

そのC
渥美さんは亡くなられる年、春から夏にかけて五十日、講演のため東北を旅行された。これは先月お話した遠藤友四郎氏の計画に因るものですが、私もずっとその間御一緒しました。私はその時が所謂処女講演で、二十五歳でした。国体論をぶったわけです。仙台を振り出しに石巻、一ノ関と廻ったのですが、そりゃひどい野次でしたよ。私は野次の静まる間を縫うようにして、ともかく言いたいことは悉く言って引き下がった。すると渥美さんが、「よく頑張った。もし途中で下りて来ようものなら思いきり殴り倒そうと思って居った」と、凄い気魄です。そして「僕は急ぎの用事をかかえて道を行く人々の足を止めさせ、街灯で講演を聞いて貰ったものだ。それに比べれば、この会場に来る人達ははじめから話を聴くつもりで来ているのではないか。どうすれば素直に聴いてくれるか工夫を要する・・・」と。まことにごもっともで、私も話の順序をとりかえたりして、おいおい野次をなくすことが出来るようになった。一方渥美さんの説得力はさすがで、あの野次連中、渥美さんが一たび壇上に立つや、忽ち圧倒されて沈黙する。不思議な力がある。それは決して話上手に尽きるものではない。国をおもい、人間を愛する心情か、至誠無私の天真と言うか。私は何度か実に驚くべきことを目撃しました。宮城県の若柳町で桃太郎の話をしたところ―渥美さんの「桃太郎」の由来についてはこの前お話しましたね。――医学博士と名乗る人が立ち上がって、「私は今日はじめて人間のほんとうの生き方を知りました」と感激された。青森ではほんの数分、ジャン・ヴァルジャンとダンテの『神曲』と、桃太郎の三者を比較して立体的な彫刻のような話をしましたよ。話が終わるや一老人が突如合掌し、経文を唱えて、退場する渥美さんの後姿を拝んでいるのです。
Posted by: 夕焼け  at 2010年04月28日(Wed) 15:25

そのB
私がお逢いした頃は、渥美さんの思想体系は更に壮大なものとなっていたようです。東西の文化を打って一丸とし、その上に新たな文明の創造をめざしたもので、偏狭な国家主義とはおよそ無縁のものでした。私の若い頃は、例の『改造』という雑誌が出版されたりして、社会改革運動が盛んな時代でした。私などもそうした機運の中にあって苦悩したのですが、どうしてもマルクスの理論では案んじ得ないものがありました。そのうちに遠藤友四郎という人が『皇室賛美論』という一書を著しました。これは日本における革新の原理は、天皇の大御心にあるという歴史的精神を述べたものでしたが、これに強く心を惹かれて著者遠藤氏を訪れたわけです。彼は高畠素之らと共に同志社を出た人ですが、もとアナーキストだったのです。この遠藤氏が渥美さんの指導を受けていた。そんなわけで私は渥美さんを知ることになったのです。
お互いに魂の共感があったのか、次第に親子のような熱い人間的結合の運命をたどることになりました。まことに感慨なきを得ぬ思い出です。

*嫋々として尺八の音が流れている。
渥美さんはしばらく瞑想する様子でしたが、「和尚はうちか、・・・いい境涯だなあ」と嗟嘆された。渥美さんの友人長岡理泉さんを訪ねた時のことです。私は聞いてみた。
「和尚とは誰ですか」
「横山雪堂だ」
この時はじめて横山先生にお目にかかる機縁が結ばれたのでした。当時横山先生は東洋大学の司書をされていましたが、渥美さんたちは先生のことを、和尚、和尚と呼んでいたようです。あとで横山先生にうかがったことですが、先生はお若い頃小石川辺の寺に、渥美さんと大川周明さんと三人で自炊生活をしていたようです。そのころ、渥美さんと大川周明さんはしょっちゅう天下国家を論じていたようです。横山先生は自分の頭の上の蠅もろくろく追えぬザマで、何が天下国家だというわけで、両人の議論が始まると毛布をかぶって坐禅をしたと言うことです。「俺は五十歳ぐらいになって、国家とか民族とかが全くわが一身のように考えられるようになった。しかし両人は早くから天下国家に深い関心を示した。それは俺は百姓のせがれ、渥美さんは、士分の出身だったからだろう」と、語られたことを覚えています。
Posted by: 夕焼け  at 2010年04月28日(Wed) 15:05

そのA
このように、生命を単に存在とみる価値観に立つと、生命とは食なり、力なり、性なり、という倒錯した考えが起こって来る。ここに唯愛史観、唯物史観、唯力史観といった倒錯的世界観が必然的に生まれる。西洋歴史は要するに、この三者の葛藤の跡だというのが渥美さんの西洋史観なのです。
渥美さんがこの「みこと」を中核としたいのちの自覚に到達したのは、京大を止めて、神戸の造船所の職工として働いていた頃らしい。その頃同僚が作業中に脚気衝心で急死したのに対し、会社はこれを放置し、至極冷淡な態度を示した。渥美さんはこれを非常に憤慨して、独りで葬式まで始末してやったという。こういうところに既に温情と勇気を持つ人間渥美勝の面目が躍如としています。葬儀を了えて残りの金が四十銭、渥美さんはそれをふところにして決然神戸を去って、一路東京に向ったわけです。品川に着いたときは、嚢中一物無く、あてどなくさまようた。非常に苦労されたようです。みそぎ教の教祖、井上正鉄を随分尊敬したらしく、その墓前にこもをかぶって一夜を明かしたこともしばしばあったそうです。
胸の中にはやみ難い伝道の思いが次第に高く燃え上がる。渥美さんは線路工夫や、人力車夫をやりながら、とうとう大正二年の春、須田町広瀬中佐の銅像の前で第一声を放った。やがて上野の山に、また須田町に、「桃太郎」の旗を突っ立て、路ゆく人にむかって昂然たる獅子吼をつづけた。その時一人の青年が旗持ちとして随伴する姿が見えた。これが、まだ学生時代の大川周明さんだったのです。
その頃、渥美さんが掲げた綱領は「清く、やさしく、強く、共に食い、共に働き、共に楽しみ、天地拓きて、宮柱太敷立て、永久に伸び、おのもおのもの命、果さな」というのでした。
桃太郎とは渥美さんにとっては”みこと”の典型、その実践の理想像であったのです。人でなしの鬼を征伐することは、本来の人間に立ちかえらせようとする自覚者の仕事である。そのために、犬・猿・雉子に相当するものが、仏教であり、キリスト教であり、マホメット教であるというわけです。
Posted by: 夕焼け  at 2010年04月28日(Wed) 15:03

その@
 小生のような平凡な人間は別にして、天下国家を生き甲斐として人士について!

*渥美さんは血も涙も多い人でした。日本人として高度の自覚を持った哲人であり、また詩人でした。私はこの人から実に強烈な影響を受けましたよ。やはり人生の師として忘れることのできない一人です。しかし渥美さんは「みな御同行」だと言って、先生と呼ばれることを極度に嫌いました。それはお若い頃傾倒した親鸞の教えによるものでしょうね。最近私は『世界と日本』という雑誌に渥美さんのことを思い出して書いておきましたからご覧ください。
渥美さんは明治十年から昭和三年まで生存され、五十二歳で独身のまま波乱の生涯に幕を閉じた。葬儀は団体葬として関係各団体、個人の共同主催という形で、日本青年館で執行されました。葬儀委員長は、頭山満翁でした。永田秀次郎、丸山鶴吉、大川周明、荒木貞夫等朝野の知名の士三十余名が委員となり、それは全く盛儀というものでした。
渥美さんは彦根の人、母堂は井伊家一族だということです。そういう血筋は争そえない。蓬頭垢衣、陋巷に居りながら、何となく高邁な気品のある相貌でした。一高から京大独法科に進まれたが、専攻の法律は一向に勉強せず、もっぱら哲学書や西洋史を読み漁り、結局四年間在学しながら卒業していないのです。早くから人生や社会の問題に心を寄せ、キリスト教、真宗、禅などを渉猟して、なお心安んぜず、深刻な思索を続けたようです。たまたま恋愛の苦悶から、心機一転するところがあり、折しも「古事記」の”みこと”の一語に触発されて従来の疑団が氷解したといいます。
“みこと”は御言であり、御事でもあり、また詔命であり、生命である。使命と言ってもよい。“みこと”は生命を使用に於いて価値づける自覚である。渥美さんの、この生命即使命という考えに、私は大いに啓発されるところがあったですね。このような生命適用の価値観を古事記の中から発掘して来たわけです。
西洋は一般に、生命を存在に於いて価値づける。生命を単に存在として考えれば、生命の安全のための食が第一条件になる。次にその安全を保障する力という条件が必要になる。更にその存在の継続のために性の問題が考えられる。
Posted by: 夕焼け  at 2010年04月28日(Wed) 15:01

わたしも同感です オチョアさんの育った環境がどんなものか興味があります
会長も家庭では私たちと同じ境遇とても親しみを感じます
これからも世のため人のためのご活躍をお祈りいたします
萩原義文
Posted by: 萩原義文  at 2010年04月28日(Wed) 12:40

オチョア選手の引退の理由に全面的に同感、感嘆しました。

また笹川会長と奥さまの会話にも同感です。我家も老妻と
同じような会話を致しております。子供たちも独立して孫5人
も大きくなり、上の孫が社会人になり、52年連れ添った老妻と第2の新婚時代をエンジョイしております。
Posted by: 高橋宏、首都大  at 2010年04月28日(Wed) 12:34

 暁烏敏と原谷とよとの間に交わされたおびただしい愛の手紙は、年月日から宛先の地名に至るまで細かに遺漏なく記して全集第三部第二巻の三百ページから五百五十九ページまで、実に二百六十ページにわたって全部収録されている。
全集刊行にあたったのは総子夫人と、秘書の野本女史の二人である。
この愛の記録を残らず活字にして後世に残した総子夫人の心の広さや優しさに驚歎せざるを得ない。
 八十歳になるという総子夫人は、うるおいに満ちた鈴を張ったような眼、若々しい肌、軽やかに走る身のこなしの優雅さ、暁烏師を想う心の深さ、夫人がかくも美しいのは、今もなお夫人のなかに、鮮烈に生きているからである。

 しかし、師の生き方は、常識人から見れば八方破れである。反倫理的である。「愛欲の広海に沈没(ちんもつ)し」という親鸞のことばは、この人のためにあるとさえ思える。
無明の闇にとざされ放しであるように見える。師は晩年失明して闇の世界にあつた。
 盲いてから花の香りを愛し、ことに、蘭の香りを深く愛したという。無明の闇は、闇のまま光りとなり、蘭の香りを発したのではあるまいか。

 人間の心の迷いを「漏」という。人間の体から漏れて出る。それも本人の自覚なしに漏れ出るから「漏」というのである。
 男の下着はびしょびしょと漏れ出すもので濡れているのだ、そんな男のどこがえらい?
しかし、とどめの一撃
「人間のすることでないのや 仏さまのことや」
Posted by: 夕焼け  at 2010年04月28日(Wed) 11:42

ダンナが好きな事をできるは 奥様あっての事。
奥様に感謝 感謝ですね!

小生も愚妻サンに感謝しながら自分のわがままな道を
歩いています。

今後とも御活躍ください!!   奥様に感謝しながら

                          -period-
Posted by: 団塊にこにこ  at 2010年04月28日(Wed) 10:56

失礼ながら,奥様のおっしゃるとおりとおもいます。某新聞社のアンケートでも、夫が定年後、一緒に旅行等したいの回答、女性は友人、男性は妻が1位でした。「ぬれ落ち葉」「おれも、おれも」は最も嫌われる定年亭主だそうです。先生は天下国家のためにも、まだまだ働いて下さい。不気味な『鳥」が飛び回っている日本です。先生のご活躍に期待しています。最後に,私は既に毎日が日曜日です。時々同好の士と旅行で留守にする、たまに夕食の支度をする、洗濯や布団干しを引き受けています。
Posted by: 岩瀬 操  at 2010年04月28日(Wed) 09:57