「武原はん 幻のパリ公演と大佛次郎」 [2008年07月02日(Wed)]
![]() 「武原はん 幻のパリ公演と大佛次郎」 WHO総会出席と国連人権理事会へ日本政府が提案する「ハンセン病患者・回復者及びその家族に対する差別撤廃決議」提出に係わる各国代表部との事前折衝終了後、パリで笹川日仏財団・冨永重厚理事長と食事を共にした。 冨永氏については5月16日のブログで紹介したところ大好評で、「笹川さんの知り合いには面白い人がいますね」と、私まで褒められた気分になった。 調子に乗って冨永氏の苦労話をもう一つ披露する。 1983年春、冨永氏が日本興業銀行パリ支店長の時代、知人より「武原はんが是非一度、パリで舞ってみたいと言っている」との相談を受けた。 人に親切がモットーの冨永氏。送られてきた武原はんの代表作、男に捨てられた寂しい女心を舞う地唄『雪』のビデオをフランス演劇界の大物、『天井桟敷の人々』のバチスト役で世界的に知られるジャン=ルイ・バローに見せたところ即OK。シャンゼリーのルノー・バロー劇場の提供とフランス側の実行委員長を承諾した。 帰国の折、喜び勇んではんさんに報告したところ、哲学者・谷川徹三氏が同席のところで、意外や、喜びながらも「私は多くの方々のお世話になっており、その方々のご了承を得なければ」と中山素平(日本興業銀行)、円城寺次郎(日本経済新聞)等の名前を上げたという。 当時、武原はんは財界のアイドルであった。現代風のアイドルの軽さではなく、日本訳の通り『偶像・聖像』である。その美しく気品に満ちた舞姿は多くの財界人の憧れの的であり、武原はん、60歳をすぎても『女』との伝説を作った。 私は若い頃、富士銀行頭取の岩佐凱実氏のお供で、六本木交差点を渋谷に向かって左折した少し先の左側。まわりをビルに囲まれた閑静な一画でたった一回、はんさんとご一緒したことがある。 さて問題は、なぜ80歳の武原はんが急にパリで舞いたいと言い出したかである。 私の仮説は、武原はんは、愛する大佛次郎の鎮魂のため、誰にも相談することなくパリでの舞いを思いついたのではなかろうか? 私は武原はんの大勢の取巻きの中に大佛次郎がいることを小耳に挟んだことがある。丁度、大佛次郎の未完の大作『天皇の世紀』全十冊を読了。次いでパリ・コミューンに材を取る『パリ燃ゆ』を読書中に感じた、私の第六感である。 1983年、武原はんが「パリで舞いたい」と冨永氏に連絡してきたのは、大佛次郎逝去(1973年)からちょうど10年。武原はん80歳の時である。さらに詳しいことが知りたくて冨永氏に連絡したところ、FAXで「はんさんの健康上の理由で中止となったが、私(冨永氏)が考えるに、谷川徹三、中山素平を中心に、財界の有力者が参加した後援会まで組織したのに、どうも単なる健康上の理由ではなさそうだ。中山素平は冨永氏に『男の嫉妬はもの凄い。この判断(公演中止)は実に難しかった』と、当時部下の私に頭を下げた。武原はんを巡って財界お歴々のそれぞれの思い、やっかみ、嫉妬が裏にあったらしい」とのこと。 まさにアイドル(偶像・聖像)を巡る争いに発展したのである。冨永氏のレポートの最後は 「かねて聞いてみたいと願っていた一つの不躾な質問を谷川徹三氏にした。 『はんさんの心を占めていた本当の男は誰ですか?』 谷川先生、ちょっと考えて 『大佛次郎だろう』」 これで私の疑問は腑に落ちた。第六感は当たりであった。 ちなみに『パリ燃ゆ』の出版は1964年、大佛次郎67歳、武原はん61歳の時である。 |











