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「笹川記念保健協力財団設立40周年記念講演」―40年のいくつかのエピソード― [2014年11月26日(Wed)]
「笹川記念保健協力財団設立40周年記念講演」
―40年のいくつかのエピソード―


2014年10月17日
於:日本財団・大会議室


講演.JPG


笹川記念保健協力財団と日本財団は混然一体として仕事をやってまいりましたので、どちらがどうということではございませんが、先ほど紀伊國先生がお話しされましたように、この組織には人格的にも専門分野においても本当に優れた方々が集まって下さった。そういう方々のご協力をいただいて仕事がなし得たということで、組織というものも立場ということも重要ではございますが、大事な仕事をなし得る時というのは、最終的にはやっぱり人間と人間の交わりで、そこに本当の信頼関係が確立されているかどうかということで決まっていくのではないかと思っております。

今日お見えのほとんどの方々はご指導ご協力をいただい方々ばかりですので非常に話しにくいのですが、今日は特別の機会でございますので喜んでつたない話をさせて頂きます。私には時系列的にきちっとお話ができる才能がございませんが、皆さま方がご存じないようなエピソードをお話することによって、財団の40年をご理解いただければと思います。

私は単にこの笹川記念保健協力財団が40年を経過したという意味よりも、40年間でなし得たことの内容の深さ、そして拡がりというものを評価すべきではなかろうかと思いますので、そういう中でいくつかの話をさせていただきたいと思います。

中国が経済的に大変困難な時期、今の経済成長が始まっていない天安門事件の前から、中国のお医者さんを日本に連れてきて教育しようということを決めたわけで、先ほど初代理事長・館守三先生のお話がありましたが、最初は7人位から始めようということでございましたが、100人ぐらいで行わなければ白髪三千丈の国とは対等に交わりができないのではないかと考え、その時私は2つの事をお願いしました。

一つは、優秀な学生は北京、上海に偏っていました。そうではなく、中国全土から派遣していただきたい。また、あらゆる医学の分野から派遣していただきたいとお願いしましたが、これには2つの問題がありました。

一つは、どうしてもチベットから人が選ばれないんです。それは日本語のレベル、あるいは医学のレベルが低く、チベットだけがどうしても残ってしまったのですが、やっとまあまあの方が1人選ばれました。ところがなかなか引き受け手がいらっしゃらない。しかし、信州大学が、外科の方でございますけれども、受け入れて下さいました。

その方は日本に着いてから一切ご馳走を食べませんでした。チベットという厳しい場所で生活してきておりますので、1年たって国に帰った時、今の日本での食生活をやっていたら体が持たないと思うからということで、大変質素な食べ物に終始されたということを伺っております。残念ながら1年でございますから、手術を行うまでにはならず立ち合いをするという程度でしたが、帰国して1年有余たって主任教官をチベットに迎え入れて下さった時には、チベットではもうすでに名医の誉れ高い外科医として、1日20人ぐらい手術をしていたそうですから、やっぱり数をやると腕が上がるんだなと、私は素人なりに思ったわけでございます。

また私は看護師を呼びたいと思っておましたが、こちらも実現には7年かかりました。中国では、天安門事件前までは病院内での看護師の立場はきわめて低く、7年もかかってしまったわけです。当時、日本の看護師会の高橋さんという看護師さんが、もう亡くなられましたけれども、情熱を持って担当してくださいまして、今や、中国には立派な看護師協会が出来るまでになりました。

現在までに来日した中国人医師は2,200人を超えました。ありがたいことに、日中医学協会の献身的なご努力もあり、北は北海道の札幌医大から南は沖縄まで、全ての医科大学、そして国立研究所が受け入れてくださり、立派な教育だけでなく、日本の地方文化の理解への努力もして下さいました。私たちも、受け入れていただくためにはしっかりとした日本語教育が必要だと考え、長春医科大学で10カ月の日本語教育ならびに日本での生活というものがきちっとできる常識まで教えたわけでございます。当時中国はまだ国際的には孤立しておりましたから、海外留学の窓口はほんのわずかでしたので、医学分野の優秀な方々がほとんど全員日本に来てくれました。

今、中国の医学界の中堅より上は、ほとんど笹川奨学生といわれる方々です。当初、日本に着いた時は全員人民服でございました。しかしある時、私が中国を訪問して卒業生と食事をし、遅くなりましたので私の乗って来たマイクロバスで送ろうと思いましたら、全員自家用車を持っていましたので驚いてしまいました。(笑)

時代の変化というものを肌で感じたわけですが、日本の各医科大学はどこも受け入れを拒否することもなく、先ほど名前が出ました日中医学協会の阿部さんは『中国人医師の母』と言われるぐらい、お一人お一人に電話をし、主任教官とうまく行っているかどうか、研究テーマがうまく行っているかどうかと、細かい配慮をしてくださいました。単にお金を出して奨学生を呼ぶというだけのことならばどこでもできることでございますけれども、このような配慮が大変重要なことで、今も、この日中医学協会の先生方には中国に行っていただき、同窓会の皆さんを激励し、シンポジウムを開き、彼らのネットワークをきちっと作っていただいています。SARSが発生した時にも、第一線で活躍したのはほとんど笹川奨学生であったということで、本当に素晴らしい仕事をしていただいたと感謝しております。

当時、中国の留学生は、海外に出ますとほとんどが国に帰らなかったのです。経済発展した今では帰るようになりましたが、笹川奨学生は、天安門事件の時に3人の方がアメリカに脱出した以外は全員国に戻ったということで、中国政府にとりましても大変大きな力になってくれたと高く評価されています。財団、そして日中医学協会には、歴史に残る大きな仕事をしていただいたと思っております。

風景.JPG


チェルノブイリの原発事故の時には、私が直接ゴルバチョフ大統領から「何とか助けてほしい」との依頼を受けました。ちょうど5年が経過した頃でございましたが、ご承知のとおり、日露関係、当時は日ソ関係は断絶状態でございました。政経一致政策というのは日本の外交政策でございまして、経済と政治は一体で、北方領土の問題が解決しない、日ソ平和条約が調印されない以上、あらゆる交流はしないということでございました。唯一漁業の協定のみをやるという段階での依頼でございまして、これを大規模に取り組もうとした時には、やはり日本政府から私の所に注文が入りました。「日ソ関係は政経一致政策を取っている中で、財団がそのような大規模な支援活動をするのはいかがなものか」ということでございました。今までどこにも話したことはないのですが、私は私の一存で「人道支援には国境も無ければルールも無い。人道支援をすることについて異論があるならば公開討論をいたしましょう」と言いましたら、そこでけりがついたわけでございます。

その後の日本政府の対応は良くありませんで、我々のこのチェルノブイリの協力を窓口にして、実は政経一致政策を放棄してしまったのです。そしてロシアに良い所だけ経済援助で取られてしまって、肝心の平和条約も北方四島も返ってこないという間違った方向に行ったのは誠に残念なことでございます。

チェルノブイリの支援に関しては、重松先生、そして今日おいで下さった長瀧先生の大変なご努力で、長崎、広島で使っている機器よりもっと最新のものを作ろうじゃないか。日本の最新鋭の技術を駆使した医療機械でなければいけないということで、特に長瀧先生の甲状腺の器械は、私は正直言って高価で夜も寝られない時があったのを今白状いたしますが、素晴らしい機械ができました。

緊急を要する仕事ですので、ゴルバチョフ大統領が来日の際に飛行機を持って来てほしいと依頼しました。そうしましたら、ロシアにはアントノフという戦車も運べるような世界最大の軍用機があるんですね。先般の東日本大震災で、日本財団はメルセデスベンツ社から特殊車両をたくさん頂きましたが、それを運んだのはやはりアントノフでございました。しかし、この飛行機が成田空港に入るのが大問題でございまして、成田の飛行場の管理は国土交通省でございますが、民間飛行場に軍用機が降りた例がないから駄目だと言うんですね。例がないなら作ったらいいじゃないですかって言ったんですけれども、これがまあ、押したり引いたりの騒動でございましたけれども、結果的には受け入れていただきました。診療車5台に医薬品を詰めて運びました。その後は、これもあまり表には出ていませんが、アエロフロート、ソ連の国営の航空会社が数十回にわたって無料で運んでくれました。これには財団の槇女史を中心に、大変な努力をしていただきました。槇さん、60数回行かれましたかね、チェルノブイリには? 結局、10年間のチェルノブイリの費用は40億円を超えてしまいました。

無題.jpg
最新鋭の医療機械と医薬品を満載した車がアントノフに積まれ、一路ソ連(当時)へ


診療をはじめた頃は、長崎・広島の例からいって、多分、白血病と甲状腺異常だろうということで、この2つの対策を立てようということでしたが、結果的には白血病は2例か3例ぐらいしかなく、ピカドンの熱線被ばくと、低線量による長期にわたる被爆の差ということだったんでしょうか。しかしこの長瀧先生の先見の明で、当時0歳から10歳までの子どもたちの非常に詳細な甲状腺の調査というものが、その後の東日本の福島第1原発で活用されることになるわけでございます。

結論を言えば、車の走行距離は地球を90周回ったほど走りまわり、村々を回って精密なデータを集めていただき、その時多分、私の推測で延べ400人近いソ連の人たちを日本で教育していただきました。しかしその当時は旧ソ連でございまして、途中で国が3つに分かれ、このウクライナとロシアが大変仲が悪くて再契約をするについて調印するのを拒否するというんですね。ロシア、ウクライナ、ベラルーシ3カ国と我々との契約なんですけれども、同じテーブルに着きたくないという強硬なウクライナの発言があって困ったんですけれども、結果的には財団とロシア、そして財団とウクライナ、そしてベラルーシという、個別の契約によって再度動き出すという形になったわけでございます。

その時現場で中心になってくれた方が、今、放射線の世界で第一級の人たちになっているわけです。その中心が山下俊一先生。まだ当時は若うございましたけれども、現地で活躍してくださいました。その後、福島原発事故が起こって日本政府が全然対応がないものですから我々が動こうということで、3.11から6カ月後に国際放射線、放射線と健康リスクについての国際会議を福島に乗り込んでこれを行ったわけでございます。

当時の新聞をひも解いてみますと、非常にセンセーショナルな記事がほとんどで、今思うと驚くような記事が多いというか、専門的知見もない科学者と言われる方々が住民を恐怖のどん底に陥れるような論評を書いておりまして、あの時の科学者、あるいは医学者というのは今どうしていらっしゃるのでしょうか。非常に残念なことでした。

山下先生には本当にご苦労をおかけしました。当時は先生の人格を傷付けるような発言が徹底してなされていまして、私も電話したりして一生懸命支えようとしたのですが、WHOで働いた経験もあり、国際経験も豊かな先生のお考えは微動だにせず、「私はきちっと仕事をしますから、笹川さんご心配なく」と言っていただきました。強靭な精神力で福島に乗り込んで仕事をされ、今や福島で尊敬される第一人者になっておられるというのは大変うれしい事ではございますが、その間の心の葛藤というものは相当なものであったろう推察するわけでございます。

そういうことで、我々はさまざまな仕事を一緒にやってまいりましたが、ハンセン病につきましては、先ほど紀伊國先生からお話がありましたが、多くの先人の後を継いで、私は少しお手伝いをしているというか、素人の観点からちょっと違った戦略と戦術というのを立てたに過ぎないわけで、全ては先ほどご紹介いただきました笹川記念保健協力財団にご協力いただいた40名の方々から頂いた知識であり経験であり、助言をどのように生かしてきたかというだけのことでございます。

ただ旧約聖書の昔からある古い病気ではございますが、医学的には薬も開発され無料で配布されているわけですから、けりをつけなければいけないと思うんですが、その中に人間の心の問題である偏見や差別という問題が複雑に絡み合ってきているわけでございます。

私はダライ・ラマ師とお話しした時「インドからハンセン病の乞食をゼロにするための闘いをやりたい」と話しましたら、彼は「そんなことは出来るわけがない」と断言されました。しかし、出来るか出来ないかはやってみないと分からない話で、やはり第一歩を踏み出すということが大切だと思っております。

お陰さまで、この春にはダライ・ラマ師が私と一緒にハンセン病の回復者の村に行ってくださり、今後の著作権による印税を、私どもの財団に全額寄付してくださるという大変ありがたいお話にまで発展をしてきておりますけれども、まだまだ我々の闘いは緒に就いたばかりでございます。多くの皆さん方のお力を頂かないと物事は前に進まないわけでございますので、今後とも、皆様方のご指導をいただきたいと思っております。

私は今から40年前、日野原先生からオスラー博士の『平静の心』という本を頂きました。医学を志した方はほとんど読んでいるだろうと思われる素晴らしい本で、私は医者でもないのですが、好奇心が人一倍強いのでたびたび読んでおります。日野原先生も大変尊敬をなさっていらっしゃいました。世界にオスラー協会というのがあるそうでございます。

その本の中の1つが、私の現在の仕事をやる上で大変大きな力になっております。そこの所だけ引いて来ました。どういうことを言っているかといいますと、重大な危機に直面した時にどのように判断するかということで、常に沈着冷静でなければいけない。そして特に感情に動かされるような判断をしてはいけない。そして何事にも動ぜず、毅然とした態度で判断しなければいけない。そういう精神を常に持つようにするべきだということが書かれていて、これは医者のために言った言葉なんですけれども万人に通じる言葉で、私も重大な危機をたくさん経験してきましたけれども、この本があったお陰で乗り切れたと思える、私にとって大変大切な本でございます。

その中にゲーテの言葉も引用されておりまして、「もし今、私自身に優れた点があるとすれば、それは先人により与えられたものである」。要するに、私の今日あるのはこの40人の、紀伊國先生が紹介された先人の方々より与えられたものが今の私であり、これをまたどうやって次に引き継いでいくかということが大変重要であるということでございます。

もう一つ、テニスンの詩も引用されております。「私は私が出会った全ての方々の一部である」という言葉で、何をするにも先人たちとの交わりの中で得たものですから、人生は謙虚に、与えられた仕事を通じて人生を全うするということが最も大事なことではないかと思っているわけでございます。

笹川記念保健協力財団では、これから喜多新理事長の下で新しい取り組みが始まっています。我々が日野原先生と組んで予防医学を始めた頃には、血圧計すら医者以外は持ってはいけないという時代だったんです。そういう中で予防医学を実践するために、さまざまな教育的なパンフレットを日本の地方自治体に配布してまいりました。そしてまた、その中でこれからの終末医療、特に癌患者に対峙するホスピスナース養成は今も続いておりまして、すでに3,400人の方々が日本中で第一線で活躍しております。第1期生をお迎えした時には「ホスピスナースって何だ? そんなものが何の役に立つんだ」と言われ、確か24人の内ほとんどの方が働いている病院を退職して参画をして下さいました。ということは、大先生がたくさんいらっしゃるので恐縮でございますが、終末医療に対する医師の意識というのは大変低かったのです。今もまだ低いのではないかと思うのですが、このオスラーの本の中にも出てくるんですが「医師は患者を診なさい」と言っているんです。当たり前のことですね。ところが医師は病気を診ちゃうんです。今はパソコンばかりを見ていて患者さんの顔は全然見ない医師もいるということですが。(笑)

こういう世の中だからこそ看護師の役割というものが大変重要でございます。90%近い人が終末は自宅で過ごしたいという統計データも出ております。最後の看取りは病院ではなくて自宅でという方向に変えていかなければいけないわけで、喜多理事長は、在宅のための看護センターを全国に作り、出来るだけ患者さんのいる近くで看護師を中心としたチームが働けるようにしていこうと努力されています。これから起業をされる看護師は、単にお医者さんの指示に従って行動していた今までと違い、自主的に事業家として飛び立っていただこうということで、一生懸命喜多先生に教育をしていただいているところです。

日本財団では、この人たちの事務所の開設から事業費まで含め、一貫して支援していきたいと考えております。過疎地においても在宅ケアが充実して受けられるような全国的な拡がり持ったシステム構築を目指し、シェイクスピアの言葉ではありませんが「終わり良ければ全て良し」、人生の素晴らしい終わり方ができるような体制を整えていこうというのが喜多理事長の新しい意欲的なお考えでございます。私たち日本財団もご一緒に仕事をさせていただけるということは、石館先生の言葉である『光栄な義務』だと思っております。

ありがとうございました。

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11月25日(火) [2014年11月25日(Tue)]
11月25日(火)

7:00 デリーより、成田空港着

8:30 自宅着

13:20 財団着

13:40 日本吟剣詩舞振興会『新年号』対談 VS 菅原通雄会長

15:00 天城 一 社会貢献支援財団専務理事

15:30 WMU奨学生・帰国報告

16:00 「日本財団経営戦略」会議打合せ

16:30 鳥井啓一 日本財団参与

17:00 武見敬三 参議院議員
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11月24日(月) [2014年11月24日(Mon)]
11月24日(月)

7:30 朝食

13:00 関係者と昼食

16:15 モディ首相
innr_yohei_2411.jpg
モディ首相と

17:00 ハンセン病回復者協会のナルサッパ会長らと打ち合わせ

18:00 空港着

21:00 デリー発、成田空港へ
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11月23日(日) [2014年11月23日(Sun)]
11月23日(日)

7:30 朝食

13:00 関係者と昼食

19:00 関係者と夕食
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11月22日(土) [2014年11月22日(Sat)]
11月22日(土)

7:30 朝食

12:30 APAL会長のナルサッパ氏らと昼食

15:00 国会テレビ・スタジオインタビュー

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国会テレビのスタジオにてインタビューを受ける


19:30 関係者と夕食
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11月21日(金) [2014年11月21日(Fri)]
11月21日(金)

7:30 朝食

9:00 WHOインド・ハンセン病中間評価報告会

WHO報告会でのあいさつ.JPG
WHO報告会で挨拶


14:30 ダライ・ラマ法王

ダライ・ラマ法王と3月以来の再会.JPG
ダライ・ラマ法王とは3月以来の再会


15:30 障害者インターナショナル(DPI) アビディ会長

アビディ氏らとのミーティング.JPG
アビディ氏らとのミーティング


18:00 ロヴ・ヴェルマ保健次官、メナブデWHOインド代表

保健次官(中央)とWHO代表(右)らとのミーティング.JPG
保健次官(中央)、WHO代表(右)らとのミーティング


19:30 八木毅 在インド日本国特命全権大使主催夕食会

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「中国の腐敗」―高級官僚の自殺― [2014年11月21日(Fri)]
「中国の腐敗」
―高級官僚の自殺―


10月24日、中国共産党の重要会議である中央委員会第4回全体会議(4中全会)は、法に基づく統治の強化を盛り込んだコミュニケを採択して閉幕した。習近平指導部は『反腐敗』運動で成果を上げたとして、次の新たな改革の旗印に『法治』を掲げることになった。

『反腐敗』運動ではハエも虎も退治すると広言し、7月末、前党政治局常務委員の実力者・周永康氏の『重大な規律違反』が立件され、公表された。周永康氏なる『虎退治』に、市民たちは党剥奪の上刑事責任追及は当然と考えていたが、結局、処分は見送りとなってしまった。

この2年間で18万人余りを処分をした汚職調査を実行したのは、残念ながら警察などの司法機関ではなく、共産党の機関であった。これを見ても、今後、4中全会の法に基づく統治が行われるか否か、はなはだ疑問である。

11月5日の産経新聞は、一面で『中国高官相次ぐ自殺』との見出しで、今年自殺した高官12名の名前と肩書きを掲載した。紙面のスペースの都合でこの程度になってしまったのかもしれない。

以下は、テンセントブログから引用した。

*************


中国の党と政府機関、国有企業、事業団体の党員幹部の失踪、海外逃亡、自殺の統計

広 東 省:失踪790人 逃亡1240人(省課長クラス以上逃亡466人) 自殺  74人
河 南 省:失踪512人 逃亡 854人(省課長クラス以上逃亡319人) 自殺 145人
福 建 省:失踪414人 逃亡 586人(省課長クラス以上逃亡316人) 自殺  72人
遼 寧 省:失踪318人 逃亡 403人(省課長クラス以上逃亡204人) 自殺 112人
江 蘇 省:失踪316人 逃亡 227人(省課長クラス以上逃亡117人) 自殺  42人
北 京 市:失踪112人 逃亡 442人(省課長クラス以上逃亡 97人) 自殺  44人
上 海 市:失踪187人 逃亡 354人(省課長クラス以上逃亡127人) 自殺  51人
天 津 市:失踪 60人 逃亡 182人(省課長クラス以上逃亡 45人) 自殺  17人
重 慶 市:失踪160人 逃亡 226人(省課長クラス以上逃亡 86人) 自殺  27人
河 北 省:失踪249人 逃亡 240人(省課長クラス以上逃亡117人) 自殺  70人
山 西 省:失踪240人 逃亡 281人(省課長クラス以上逃亡162人) 自殺 102人
内モンゴル:失踪 52人 逃亡  38人(省課長クラス以上逃亡 26人) 自殺   5人
吉 林 省:失踪162人 逃亡 125人(省課長クラス以上逃亡142人) 自殺  29人
黒龍江省 :失踪277人 逃亡 176人(省課長クラス以上逃亡190人) 自殺  30人
浙 江 省:失踪280人 逃亡 246人(省課長クラス以上逃亡142人) 自死殺人37人
安 徽 省:失踪164人 逃亡 147人(省課長クラス以上逃亡 67人) 自死殺人51人
江 西 省:失踪 86人 逃亡 141人(省課長クラス以上逃亡 41人) 自死殺人31人
山 東 省:失踪263人 逃亡 307人(省課長クラス以上逃亡116人) 自殺  43人
湖 北 省:失踪281人 逃亡 375人(省課長クラス以上逃亡 71人) 自殺  36人
湖 南 省:失踪314人 逃亡 282人(省課長クラス以上逃亡 80人) 自殺  40人
広   西:失踪175人 逃亡 174人(省課長クラス以上逃亡 75人) 自殺  28人
海 南 省:失踪 82人 逃亡 110人(省課長クラス以上逃亡 83人) 自殺  14人
四 川 省:失踪265人 逃亡 190人(省課長クラス以上逃亡117人) 自殺  29人
雲 南 省:失踪119人 逃亡 335人(省課長クラス以上逃亡166人) 自殺  35人
貴 州 省:失踪116人 逃亡  87人(省課長クラス以上逃亡 52人) 自殺  12人
チベット :失踪 16人 逃亡  22人(省課長クラス以上逃亡 14人) 自殺   0人
陝 西 省:失踪215人 逃亡 246人(省課長クラス以上逃亡182人) 自殺  43人
甘 粛 省:失踪 22人 逃亡  28人(省課長クラス以上逃亡 21人) 自殺   0人
青 海 省:失踪 47人 逃亡  39人(省課長クラス以上逃亡 37人) 自殺   0人
寧   夏:失踪 37人 逃亡  44人(省課長クラス以上逃亡 28人) 自殺   2人
新   疆:失踪117人 逃亡 224人(省課長クラス以上逃亡202人) 自殺  31人

*************


さすが『汚職は文化』の中国である。安土桃山時代の大盗賊『石川五右衛門』の有名な辞世の句は「石川や 浜の真砂(まさご)は尽くるとも 世の盗人の種は尽くまじ 』です。この石川五右衛門も、昨今の中国の状況を知ったらさぞ目を丸くしたことだろう。
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11月20日(木) [2014年11月20日(Thu)]
11月20日(木)

8:00 朝食

13:00 関係者との昼食

15:30 月刊誌Civil Society インタビュー

16:30 ダライ・ラマ ササカワ奨学金設立記者会見

記者会見
B記者会見.JPG


A記者会見.JPG


17:45 ハンセン病議員連盟フォーラム

議員連盟フォーラム.JPG
ハンセン病議員連盟フォーラム


19:30 関係者との夕食
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11月19日(水) [2014年11月19日(Wed)]
11月19日(水)

7:30 ホテル発

8:00 スリ・サン・セワ・クシュ・アシュラム(ハンセン病コロニー)

Dコロニーで歓迎の音楽.JPG
歓迎の音楽

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コロニーには66人が生活している


9:00 コロニーの人々が物乞いで生計を立てている場所を視察

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ハンセン病のコロニーから物乞いへ行くところに同行させていただいた

無題.jpg
生きて行くために必要なことではあるが
ハンセン病回復者が物乞いをしない世界にすることが私の願いである

Eコロニーのリーダーたちと.JPG
コロニーのリーダーたちと


11:00 APLA(ハンセン病回復者協会)メンバーと昼食

12:00 ファイザーバードからラクナウへ移動(車移動約2時間)

14:00 ラクナウ着

15:00 ラム・ナイク州知事

F州知事はハンセン病に深い理解がある.JPG
ラム・ナイク州知事はハンセン病に対し深い理解を示してくれた

G州知事とAPAL.JPG
ラム・ナイク州知事とAPAL


17:00 関係者と夕食

19:30 ラクナウ空港着

20:50 ラクナウ発

22:00 デリー着

23:00 ホテル着
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「中国の小話」その45―中国の国家宣伝のキャッチフレーズ― [2014年11月19日(Wed)]
「中国の小話」その45
―中国の国家宣伝の歴史―


北京の天安門広場には「世界人民大団結万歳」「中華人民共和国万歳」のスローガンが掲げられ、街頭でもその時その時のスローガンが目に飛び込んでくる。この65年の間、これらの政治的キャッチフレーズは中国人民の生活の奥深くにまでしみ渡り、影響を与えてきた。

時代背景が色濃く反映された中国のスローガンを年代別に並べてみた。

1949年 中国人民が立ち上がった
    1949年10月1日、毛沢東が天安門楼上で中華人民共和国の成立を宣
    言した文句。

1949年,中国人民站起来了.jpg
毛沢東が天安門楼上で中華人民共和国の成立を宣言


1950年 抗米援朝、保家衛国
    1950年6月に朝鮮戦争が勃発。アメリカ第7艦隊が台湾海峡に出動す
    ると、中国の国民大衆は台湾朝鮮侵略反対運動委員会を組織、中国
    人民志願軍を派遣して朝鮮戦争に参加。

1951年 断固として反革命分子を鎮圧しょう
    1950年10月、毛沢東は全国規模で国民党政権の残党に対する反革命
    鎮圧運動を開始。これは毛沢東が政権を取ったあと初めておこなわ
    れた弾圧で、標的にされた旧国民党政権の残党は、階級敵人と呼ば
    れた。反革命鎮圧運動は一年間続き、弾圧された人は何百万人にの
    ぼった。新しく共産党支配下に組み込まれた地域では、これと並行
    して土地改革も実施。地主や富農層などが処刑され、群衆による暴
    行、自殺などによって、約300万人の命が失われたと言われる。

1952年 三反五反運動
    建国初期に全国規模で展開された政治的な動員と運動。
    三反:汚職・浪費・官僚主義反対運動。
    五反:贈賄・脱税・国家資材の横領・手抜きと材料のごまかし・経
       済情報の窃盗反対運動。

1953年 総路線は我々の活動を灯す灯台だ
    中国共産党中央は、1952年末から「過渡期の総路線」の計画を開始
    し、1953年9月、建国4周年を迎え、「国の社会主義工業化を少しず
    つ実現させ、さらに農業、手工業、資本主義工商業に対して国によ
    る社会主義改造を進める」というもの。毛沢東は12月、中央宣伝部
    による総路線の学習や宣伝に関する要綱を審査して、「この総路線
    はわれわれの活動の灯台である。さまざまな活動はこの総路線なし
    では行うことができない。もし行えば右翼化や左翼化の間違いを犯
    すであろう」と述べた。その後「総路線はわれわれの活動の灯台
    だ!」「総路線万歳!」などのスローガンが「大躍進」運動終了時
    まで、流行した。

1954年 必ず台湾を解放する
    1953年の朝鮮休戦、1954年のインドシナ休戦を受け,毛沢東は再び
    「台湾解放」を発令。1954年9月、人民解放軍は金門・馬祖への激
    しい砲撃を開始した。「第一次台湾海峡危機」

1955年 合作化の道を歩もう
    1955年7月31日、毛沢東は共産党中央会議で「農業合作化(集団
    化)問題に関して」という報告を行った。第一次5カ年計画期
    (1953〜1957年)において、中国は工業化および農業などの社会主
    義改造の達成を目標として掲げた。既に1950年代初めより農業生産
    における集団化が徐々に進んでいたが、1955年の毛沢東の指導強化
    により、集団化は急速に進むことになった。

1956年 百花斉放、百家争鳴
    1956年から1957年に中国で行われた政治運動。中国語では百花運動
    とも呼ばれる。「共産党に対する批判を歓迎する」という主旨の内
    容であり、これを受けて国民は様々な意見を発表したものの、百花
    運動の方針は間もなく撤回され、共産党を批判した者はその後の反
    右派闘争で激しく弾圧された。

1957年 大躍進万歳 三年で英国を超え、五年で米国に追い付こう
    大躍進政策:1958年からが施行した農業・工業の大増産政策。毛沢
    東は数年間で経済的にアメリカ合衆国・イギリスを追い越すことを
    夢見て実施した。結果は中国経済の大混乱と数千万人の餓死者を出
    す大失敗に終わり、毛沢東は生涯でただ一度の自己批判を行った。
    毛沢東に代わって劉少奇、ケ小平などが修正主義的路線による経済
    再建を目指すが、権力奪還を企図する毛沢東の動きがこの後の文化
    大革命を引き起こすことになる。

1958年 やはり人民公社がいい
    1958年8月上旬、毛沢東は河北、河南、山東などを視察。「人民公
    社」の特長について総括し、「一に大きいこと、二に公であるこ
    と」と語った。「やはり人民公社という名前がすばらしい」。この
    ニュースが報道されると、全国各地の人々が「人民公社」という名
    称を模倣した。1960年代以降「人民公社はすばらしい」「人民公社
    万歳」といったフレーズは農村社会主義所有制や末端プロレタリア
    階級による政権基盤を強固なものにする典型的なスローガンとなっ
    た。

1962年 階級闘争を絶対に忘れるな
    1966年からの文化大革命は、1962年9月の中国共産党第8期10中全
    会における毛沢東の「絶対に階級と階級闘争を忘れてはならない」
    との指示から出発したとされる。 
    1962年1月の中共中央拡大工作会議で、ついに毛沢東は大躍進運動
    の失敗を認めて自己批判を行った。毛沢東は依然として中国共産党
    主席の地位にいたが、影響力は後退し、劉少奇、ケ小平などが実権
    を握るようになった。劉少奇は政治運動や思想闘争を後回しにして
    生産と生活向上を重視する政策を採り、1963年から1965年にかけて
    中国経済は目覚しい回復を見せていた。

1963年 雷鋒同志に学ぼう
    1963年3月5日、毛沢東主席は瀋陽のある部隊で殉職した英雄戦士・
    雷鋒同志のために「雷鋒同志に学べ」という言葉を「人民日報」に
    発表した。この後、「雷鋒に学べ運動」が全国で広範に展開され、3
    月5日が「雷鋒に学ぶ日」となった。

1964年 工業は大慶に学び、農業は大寨に学ぼう
    大寨は中国山西省昔陽県大寨鎮に位置する村。大慶は1959年に黒龍
    江省で中国最大の油田が発見され「大慶油田」と命名。自力更生の
    スローガンとして1964年 毛沢東により提唱された「農業は大寨に
    学べ、工業は大慶に学べ」というスローガンのもと、工業化や集団
    農業の模範として中国政府による政治宣伝活動に用いられた。

1966年 牛鬼蛇神を一掃しよう
    1966年6月1日、「人民日報」は「すべての牛鬼蛇神を一掃せよ」と
    いう社説を掲載。大衆の集団的暴力行為を煽ぎ、文化大革命がスタ
    ート。

1967年 革命無罪、造反有理
    中国の文化大革命で、紅衛兵や労働者が劉少奇の支配下におかれた
    党や政府機関に対する奪権闘争のなかで使ったスローガン。

1968年 広い天地に、未来がある
    1966に始まった紅衛兵運動と武力闘争年を収束させるため、1968年
    12 月22日の『人民日報』で、毛沢東は「若者たちは貧しい農民か
    ら再教育を受ける必要がある」、「広い天地に未来がある」と、都
    市に住む中学生・高校生などは農村に行って働かなければならな
    い」という、いわゆる下放運動が始まった。この運動は1968 年か
    らおよそ 10 年間に亘り行われた。

1974年 批林批孔の闘争を徹底しよう
    1970年代前半、文化大革命のさなかに中国で展開された林彪と孔子
    を批判する運動のこと。孔子および孔子が説いた儒教、そして儒教
    を復活させようとする者とされた林彪が激しい批判の矢面に立たさ
    れた。批林批孔を通じて、当時の実力者であった周恩来を失脚させ
    ようとする目論みがあったとされている。

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批林批孔の闘争を徹底しよう


1976年 四人組を打倒しょう
    党中央政治局のメンバーだった毛沢東側近の王洪文、張春橋、江青
    (毛沢東夫人)、姚文元の4人を指す。1976年9月9日に毛沢東が死去
    した後に失脚し、特別法廷で死刑や終身刑などの判決を受けた。

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四人組を打倒しょう


1978年 思想を解放し、真実を求めよう
    1978年末からの改革・開放路線は様々な風波に揺さぶられた。ケ小
    平は歴史的な転換にあたってその風波を予測し、「十分な思想的準
    備が不可欠だ」と強調。「思想の解放」「実事求是」を強調した。

1978年 改革開放
    ケ小平の指導体制の下、1978年12月に開催された中国共産党第十
    一期中央委員会第三回全体会議で提出され、その後開始された中国
    国内体制の改革および対外開放政策のこと。

1980年 一人っ子がいい
    1978年から人口計画生育(計画出産)政策が公布され、1980年から
    政府は「今世紀末の人口を12億人以下に留め、四つの近代化実現」
    のためとして、「夫婦一組に子供一人」を提唱した。一人っ子政策
    の全面実施から30年が経ち、ついに見直しの局面を迎えた。

1982年 経済の4倍増を実現しょう
    ケ小平の提案をもとに、1982年9月の第12回党大会で胡耀邦総書記
    が2000年に工農業総生産額を4倍にするという近代化目標を決め
    た。

1984年 時は金、効率は命
    「時は金、効率は命」と書かれた大看板が広東省深せん特区の蛇口
    工業区の大通り交差点に掲げられ、全国に衝撃を与えた。「最も良
    く知られ、国民に最も大きな影響を与えたスローガン」と称えられ
    た。

1987年 一つの中心、二つの基本点
    1987年の十三全大会で提起された党の基本路線である。
    一つの中心とは、経済建設を中心とすること。
    二つの基本点とは @四つの基本原則、A改革開放。

1989年 安定が一切を圧倒する
    1989年6月の天安門事件以降、各種社会問題が複雑化、深刻化し、
    当局の強い危機感がある中、ケ小平が安定重視の基本方針を強調
    し、あらゆる分野での安定、とりわけ政治的安定が強調 された。

1992年 発展こそ至上命題
    ケ小平が1992年の南方講話で、安定成長論を退け、高度成長を呼び
    かけた言葉。「経済の安定的、協調的発展には留意すべきだが、安
    定も協調も相対的であり、絶対的なものではない。発展こそが硬い
    道理である」と述べたことに由来する。

1992年 中国の特色ある社会主義市場経済を建設しょう
    1992年10月に開かれた第13期中央委員大会で江沢民は『改革・開放
    と現代化建設のテンポを早め、中国の特色をもつ社会主義事業のさ
    らなる勝利をからとろう』と題する報告を行った。大会は「中国経
    済体制改革の目標は社会主義市場経済体制を確立することである」
    と明確に宣言。

1997年 国有企業は三年で難局から脱出しょう
    計画経済システムの産物である国有企業改革は、1978年以降さまざ
    まな試みがなされてきたが、1997年の第15回党大会以後、自由化、
    活性化など、一連の改革を行った。朱鎔基総理は、超大型国有企業
    500社の税引き前利益が全中国の税引き前利益の85%を占め、その
    赤字率が10%、すなわち赤字企業が50社にすぎないことを根拠にし
    て、3年以内に大多数の国有赤字企業を苦境から脱出させることを公
    約している。

2000年 三つの代表を強調しよう
    2000年2月、江沢民氏が広東省を視察後に唱えた指導思想。
    1.先進的生産力の発展要求.
    2、先進的文化の進路。
    3.広範な人民の根本的利益を代表するのが中国共産党であるとして
      いる。

2004年 調和のとれた社会を建設しょう
    改革開放政策によって中国社会に出現した格差拡大、環境汚染問題
    出したスローガン。今でもこの言葉は頻繁に使われている。

2006年 八つの恥八つの栄誉
    胡錦濤総書記が国民に提唱した文明的な国家建設を樹立するための
    道徳紀律の通称。
    祖国を熱愛するのは栄光、祖国に危害を加えるのは恥辱。
    人民に奉仕するのは栄光、人民に背くのは恥辱。
    科学を尊重するのは栄光、愚昧無知なのは恥辱。
    団結互助は栄光、私利私欲に走るは恥辱。
    勤勉労働は栄光、安逸を貪るのは恥辱。
    誠実に信用を守は栄光、道義を忘れるは恥辱。
    法律を遵守は栄光、法規を破るは恥辱。
    刻苦奮闘するは栄光、贅沢と淫乱を貪るは恥辱。

2007年 科学的発展観を強調しょう
    2007年10月の第17回党大会で、胡錦濤総書記の主導で党規約「総
    綱」のなかに記されたスローガン。経済と社会、環境などの調和を
    はかりつつ持続可能な均衡発展を目指す路線を意味する。

2009年 成長を保ち、民生を守り、安定を維持しょう
    2008年のリーマンショックに起因する世界経済の減速、国際金融市
    場の動揺等で外部環境が悪化する中、中国は経済の安定成長、民生
    の改善、物価の安定という目標を打ち出した。

2013年 中国の夢を実現しょう
    2012年に習近平氏が発表した思想。「中華民族の偉大なる復興」を
    掲げ、中国共産党第十八回全国代表大会より中国共産党の統治理念
    としている。

2014年 虎と蠅は一緒に叩こう
    腐敗(汚職・不正)を一掃する。中国政府は蔓延する腐敗に対し、
    大きな腐敗(虎=高級幹部によるもの)とちっぽけな腐敗(ハエ=
    一般大衆による もの)を同時に叩こうとしている。習近平氏は党総
    書記に就任して以来「ハエもトラも叩く」と宣言し、軍のトップ経
    験者 や大物政治家らの汚職摘発を政権の最大のテーマとしている。


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