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日本財団会長 笹川陽平ブログ

写真:ハンセン病の現場から「アフリカ・ピグミー族」

leprosy.jp
resize.png日本財団はハンセン病の差別撤廃を訴える応援メッセージサイト「THINK NOW ハンセン病」を開設。皆様からのメッセージを随時募集・配信しています。
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「葬儀の話」その2 [2015年07月08日(Wed)]
「葬儀の話」その2


一昨日の葬儀の話の続きです。

昔、田中角栄先生の刎剄の友(生死を共にする親しい友)に小佐野賢治という実業家がいた。山梨の貧農の倅が刻苦勉励(こっくべんれい)して『国際興業』なる会社で大資産家となり、堀田伯爵家の娘で学習院卒業の美女を妻にするまでになった。

帝国ホテルの筆頭株主で、箱根の富士屋ホテルのオーナーでもあり、花巻温泉の旅館やホテルはほとんど彼の所有となって話題になったこともある。政商ともいわれ、ロッキード事件では有罪になり、今日でいうところのM&A(企業買収)の先駆者でもあった。

彼は晩年『博善社』なる葬儀会社の経営権を取得した。今でこそ葬儀社も多くなり価格競争が激しくなっていると聞くが、当時、東京においてはほぼ独占的な葬儀社で、高収益、高利益の会社であったという。数十社を傘下に収めた小佐野賢治オーナーではあるが、なによりも博善社の事業報告を楽しみにしており、月の取扱件数、売上高利益に顔をほころばせていたという。

しかし、博善社の経営権を取得した直後から本人の健康は勿論のこと、不幸な出来事や嫌な出来事が連続して起こり、さすがの吝嗇家(りんしょくか→けち)も気持ちが悪くなり、ある人に経営権を譲ってしまった。人の不幸を喜ぶ態度に神の戒めがあったのだろうか。

これは譲られた本人から直接聞いた話であるが、この人とはその後交際もなく、博善社がどうなったのかもわからない。

葬儀社といえば、江田三郎元社会党書記長は、不遇のある時期、神戸で葬儀社をされていた事があり、同情した笹川良一は「懸命にお客?を紹介してくれた」と、息子の江田五月議員から聞いたことがある。私は父からこの話を聞いたことはなく、江田三郎先生と父との交流も知らなかったので、小さな驚きではあった。

今までの「葬儀の話」関係のブログは以下の通りです。
2007年1月15日 「遺影」
2011年7月4日 「日・中葬儀事情」その1
2011年7月 6日 「日・中葬儀事情」その2
2015年6月15日 「葬式でストリップ」―中国の話―
2015年6月29日 「葬儀の話」その1

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7月7日(火) [2015年07月07日(Tue)]
7月7日(火)

5:30 デニス・ブレア笹川平和財団米国(SPF-USA)会長と朝食

6:00 ホテル発

6:30 空港着

7:15 ヤンゴン発

8:10 ネピドー着

9:30 ミン・アウン・フライン国軍司令官(面談時間70分)

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筆者から左へ国軍司令官、ブレア会長、岩崎参与

11:30 ソー・テイン大統領府大臣(面談時間30分)

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ソー・テイン大臣(中央)とブレア会長

12:30 ブレア会長、岩崎茂防衛大臣政策参与、丸山市郎日本大使館公使らとの昼食

14:00 テイン・セイン大統領(面談時間70分)

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大統領とはわずか3日ぶりの再会となった

15:30 ティン・エイ選挙管理委員長(面談時間15分)

エイ選挙管理委員長と.jpg
エイ選挙管理委員長と

選挙管理委員長との面談にはたくさんの委員も参加してくださった.jpg
選挙管理委員長との面談にはたくさんの委員も参加してくださった

16:20 ネピドー発

18:00 ヤンゴン着

19:00 フラ・マン・シュエ ミャンマーピースセンター(MPC)上級顧問らとの夕食会
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「ミャンマー、スリランカ出張」 [2015年07月06日(Mon)]
「ミャンマー、スリランカ出張」


今日からミャンマー、スリランカに出張いたします。

ミャンマーでは、大統領をはじめ、要人との会談。
スリランカは、新しく就任されたマイトリーパーラ・シリセーナ大統領からの招待です。

帰国は10日の予定です。
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「葬儀の話」その1―私の葬儀― [2015年07月06日(Mon)]
「葬儀の話」その1
―私の葬儀―


休日に妻の運転で外出すると、京王線の踏切で停止することが多くなった。

かつてはこんなに長く遮断機が下りていることはなかった。上り下りが通過したので遮断機が上がるかと思うと、また上り電車がやってくる。この踏切で停止無しで通過することはまずない。

今まで気づかなかったが、踏切で停止している間に左側を見ると葬儀社の看板があり、さまざまな祭壇や通夜の食事の写真などが掲載されている。老妻はここでニヤリとして「あなた、どれにする」というのが決まり文句になってきた。「お前の方が先かも知れんぞ」と返すと、「だって、それではあなたが気の毒でしょう。私なしで生活していけるの?」とたたみかけてくる。婦唱夫随の時代とはいえ、あまり気分の良い話題ではない。そのたびに帰路の道筋を変えろというのだが頑固一徹譲らない。そのため、最近は踏切が近づく前に目をつぶって寝たふりをする。

私は可能ならば直葬(通夜も葬式もなく直接焼き場に行く)で、戒名もお経も必要なしと考えている。導師もお経もなく、たった一人であの世に行く自信はある。願わくば枕もとに真紅のバラ(花言葉は『愛と情熱』)一輪置いてくれれば充分である。家族だけでの直葬で、葬儀終了後に関係者に伝えるのが理想である。雑誌『選択』の社長をされていた湯浅正己さんは家族だけの葬儀で、しばらくたってから知らされた。他人に迷惑をかけない立派な所作であった。

しかし、中には通夜、葬儀、本葬、偲ぶ会までされる方もいる。葬儀は盛夏や寒さ厳しき日が多く、参加して体調を崩す人も多い。これでは命懸けで浮世の義理を果たすことになる。松下幸之助氏は、長生きの秘訣は義理を欠くことだとおっしゃっていた。

日本財団の尾形理事長は「直葬などできるわけがありませんよ」と言う。「化けて出るぞ」と言うと、「お待ちしております」と返されてしまった。困ったことである。

死んでも世間体を気にしなければならないとは残念至極ある。いっそのこと、葬式の司会から喪主挨拶まで、全て私が事前にテープに入れておこうかとも考えている。

例えば
「本日は、故・笹川陽平さんの葬儀にご出席下さり、誠にありがとうございます。私は司会の笹川陽平です。どうぞよろしくお願いします。
それでは亡くなった笹川陽平さん、ご挨拶をどうぞ!!」

「笹川陽平でございます。姿を隠してご挨拶する無礼をご容赦下さい。それにしましても浮世の義理とは申せ、こんなに大勢お集まり下さり恐縮しております。でも、死ぬほど恥ずかしいので、いや、死んでしまったのですが、絶対に私の死に顔は見ないでください。私は一人ひっそりと旅発ちたいと願っておりました。しかし折角お集り下さったのですから、私の悪口を徹底的に肴にして遠慮なく大酒を飲んで酔っ払って下さい。万一私を褒めた人には、罰ゲームで1回につきコップ1杯の酒を飲ませて下さい。私はいくら悪口を言われても決してこの世には戻ってきません。又、皆さんをお迎に来ることもありませんのでご安心下さい。

ご参会の皆さんには、今しばらく憂き世で、日本の将来をどうするのか・・・
 世界の中の日本の立ち位置は?
 少子高齢化の具体的対策は?
 1000兆円を超える財政赤字の削減方法は?
 地方創生の具体的方法論は?
等々、大いに汗をかいて活躍して下さい。

お別れに、生前、死ぬよりも嫌いだった歌を一曲歌います。
『男の背中』です。

作曲・作曲 中山大三郎
『男の肩と背中には むかしの影がゆれている
 恋も涙も悲しみも だれにも言えない傷あとも
 ゆらゆらゆらとまり木ゆれて グラスの底に明日をみる
 おまえはそんな男の姿 気付かないけど

 男の胸のおくのおく その時々の夢がある
 過去も未来もぼんやりと 忘れてしまうときがある
 ゆらゆらゆらタバコのけむり 見つめて愛にゆれながら
 おまえのあまいかおりの中で 休む日もある
 ゆらゆらゆらとまり木ゆれて グラスの底に明日をみる
 おまえはそんな男の姿 気付かないけど』

それでは皆さん、お先に失礼します。さようなら。」
とやりたいものだと、真面目に考えているところである。

お涙頂戴の葬式など真っ平ご免。褒め言葉も厳禁。酒を飲みながらの悪口だけの簡素な葬式を希望。天気は雨・雪の場合及び気温13C以下と27°C以上の場合も弔問はご遠慮でどうでしょう。何分、皆様の健康が第一だからです。津川雅彦の映画『寝ずの番』のように、愉快にやってもらいたいものです。

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7月4日(土) [2015年07月04日(Sat)]
7月4日(土)

12:55 日本財団着

13:10 日本財団発

14:00 ミャンマー テイン・セイン大統領 安倍総理と会談・同席 於:赤阪・迎賓館

15:05 日本財団着

19:00 テイン・セイン大統領 歓迎レセプション

乾杯で挨拶
IMG_7337.JPG


IMG_7365-1.jpg


21:55 帰宅
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7月3日(金) [2015年07月03日(Fri)]
7月3日(金)

7:25 財団着
    書類整理、打合せ

19:00 安倍総理主催 メコン流域5ヶ国首脳晩餐会 於:総理公邸
    (ベトナム、ラオス、カンボジア、タイ、ミャンマー)
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「日英兵士の和解」―ビルマ戦線― [2015年07月03日(Fri)]
「日英兵士の和解」
―ビルマ戦線―


私のブログは報道関係者から「大切な情報なのに、いつもトラック競技でいえば一周遅れですね」と笑われる。ものぐさと遅筆の性癖のためである。

6月7日、毎日新聞の小倉孝保欧州総局長が一面と四面全てを使って書かれた『ひるまぬ和解大使』と題した記事が掲載された。

戦後、ビルマ戦線で虐待を受けたと対日憎悪に固まる強硬反日団体の一つであったビルマ戦線生き残りの兵士たちの集まりに単独乗り込み、日英兵士の和解に半生をかけ、7年前に88歳で亡くなった平久保正男さんの特集記事である。

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6月7日 毎日新聞朝刊


紙面には限りがあり、掲載できなかったであろう事柄で、私の知るところを補遺としてここに記しておきたい。

当時、日本政府は1998年の天皇皇后両陛下の訪英を視野に入れていたか否かは承知していないが、この強硬反日団体の存在に困惑しているところであった。勿論、平久保さんはそんなこととは別に、純粋な気持ちで和解のために誠心誠意汗を流しておられた。

1985年、私は日英交流の大切さから『グレイトブリテン・ササカワ財団』(以後ササカワ財団)を設立。ロンドンに本部を置いて活動していた。ある日、平久保さんより日英兵士の和解のための交流事業についての協力・支援の申し出を受けた。

この財団の当時のスタッフであった井上美津子さん(旧姓 渡辺)と、1991年から引き継いだ仙石節子さん(元トルコ大使夫人)のお二人は、情熱と誠心を持って英国ビルマ戦線退役軍人の日本招待に努力され、親切この上ない『おもてなし』が彼らの反日感情を薄める効果を発揮してくれた影の功労者であったことは確かである。

最初のグループは、1989年に12名が来日した。ほとんどが70歳以上の高齢者で、会談の折、「私たちは日本を憎んで反日で死ぬことを共通の目的としていた。私たちを虐待した日本兵が暮らす日本を訪れるなんて考えてもいなかった。帰国すれば必ず仲間はずれにされるでしょう。しかし、極東裁判で日本兵の多くが法廷で裁きを受けたことを来日して初めて知った」と語り、また、捕虜として施設に隔離された軍人の間では、おかゆや木の根を食べさせられ、屈辱に満ちた悲惨な扱いであったと思っている人が多くいると言い、「しかし、日本兵も食糧難から我々と同じ食事であったことを聞き、このことは帰国したら正確に仲間に伝えたいと思う」と語っていた。

93.11.10 英国元軍人.jpg
1993年11月 財団を訪ねて下さった
手前左が筆者 若い!


当時の日本ビルマ戦線生き残りの全ビルマ戦友会団体連合会は、確か3万6000人余りのメンバーであったと記憶するが、彼等は真心をこめ、大歓迎で迎い入れてくれた。1回で終わりかと思っていたら、訪日の報告を聞いた元兵士たちが次々に来日を希望され、1995年までに5回、78名が日本の土を踏むことになった。また、日本側からも1992年と1994年、二度にわたり27名の日本ビルマ戦友会員が英国を訪問した。

1995年には高齢による体調不良者が2〜3名も出て、1名は聖路加国際病院に入院させるほど重病で最悪の事態も覚悟したが、日本ビルマ戦友会と仙石節子さんの献身的なお世話で1週間ほどで無事退院、帰国された。

第1回の訪日時、英国元兵士一行は元日本兵と共に靖国神社を参拝してくれた。以降、毎回靖国神社を参拝するのが恒例となった。お世話をしてくれた仙石節子さんは、後年、「あの時は嬉しくて涙が止まらなかった」と、しみじみと語ったものである。

その後英国側より、残っている元兵士は85歳以上の高齢になり、長旅は難しくなった。目的は十分達成された。好意に感謝する旨の連絡を受け、この相互訪問交流プログラムは終了した。

日英兵士記念撮影.jpg
1995年、最後の訪日団との記念撮影
二列目右から4人目が平久保氏、前列左端が仙石夫人


1994年の訪英プログラムでは、バーミンガムにおいて、英国元兵士が日の丸の旗を掲げ、日本元兵士がユニオンジャック(英国国旗)を掲げて行進したが、ヤジ一つ飛ばず、拍手で歓迎を受けたとの帰国報告を受け、この交流プログラムの成功を確信した。

そこで、この交流プログラムの記念に何かを残そうとササカワ財団で話題となり、日英両国のビルマ戦線の書籍を日本側の書籍・資料は日本で、英国側は英国で収集することになり、英国のロンドン大学東洋・アフリカ研究所の図書館に『ビルマ作戦記念文庫』として寄贈した。

ビルマ作戦記念文庫 英文書籍.jpg
英文書籍


また、『ビルマ作戦日本語書籍目録』をササカワ財団の助成金で東京事務所が協力して作成・出版した。その中には全ビルマ戦友会会員から寄付された関係書籍も多数あった。英国側の協力も得て、靖国神社偕行文庫にはほぼ同量の書籍・資料と、全ビルマ戦友団体連合会から提供された資料も含めて『ビルマ作戦記念文庫』が開設され、今もいつでも閲覧できるよう保管されている。

ビルマ作戦記念文庫 日本語書籍.jpg
日本語書籍


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ビルマ作戦日本語書籍目録


後年、英国大使を務められた林 貞行大使は、「笹川さん、日英間のトゲを除いてくださり有難う」と、わざわざお礼においでになったことも懐かしい思い出となった。

既に多くのビルマ戦元兵士は亡くなられた。私は現在、日本政府代表としてミャンマーの真の統一のため、60年以上にわたり闘ってきたミャンマー国軍と主な16の少数民族武装勢力との和解達成に汗を流している。

何かのご縁であるろうか。英国元兵士の厳しかった顔、満面の微笑みを浮かべた顔、日本人元兵士の助けを借りて歩行された人等、さまざまな場面を断片的に思い出しながら、ミャンマー(ビルマ)での活動を静かに展開しているところである。

○日英ビルマ戦退役軍人招待訪問交流事業

☆グレイトブリテン・ササカワ財団(GBSF)、日本財団(NF)
*1989年 第1回訪日 英国ビルマ戦退役軍人 12名 助成金額:960万円
*1990年 第2回訪日 英国ビルマ戦退役軍人 12名 助成金額:960万円
*1991年 第3回訪日 英国ビルマ戦退役軍人 12名 助成金額:710万円
*1992年 第1回訪英 日本ビルマ戦友会会員 15名 助成金額:760万円
*1993年 第4回訪日 英国ビルマ戦退役軍人 12名 助成金額:800万円
*1994年 第2回訪英 日本ビルマ戦友会会員 12名 助成金額:650万円
*1995年 第5回訪日 英国ビルマ戦退役軍人 30名 助成金額:
                 (NF)2000万円、(GBSF)700万円
総助成金額:7540万円
計延べ英国ビルマ戦退役軍人78名訪日 日本ビルマ戦友会会員27名訪英

開催期間:
第1回訪日: 1989年11月3日〜14日
第2回訪日: 1990年10月31日〜11月10日
第3回訪日: 1991年11月1日〜14日
第1回訪英: 1992年9月18日〜30日
第4回訪日: 1993年11月1日〜12日
第2回訪英: 1994年
第5回訪日: 1995年11月4日〜15日
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7月2日(木) [2015年07月02日(Thu)]
7月2日(木)

7:25 財団着

9:30 東 徹日本中小型造船工業会会長

10:00 佐藤雄二 海上保安庁長官

10:30 田中伸男 笹川平和財団理事長

14:00 「海でつながるプロジェクト」記者会見

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記者会見で挨拶

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今日も沢山の人が出席してくれました

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記念撮影




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7月1日(水) [2015年07月01日(Wed)]
7月1日(水)

7:30 財団着

8:20 語り場「NPO信頼認証制度」事業打合せ

9:00 辞令交付

9:15 東 博史 在ポルトガル大使

9:30 「日本円卓会議」事業打合せ

10:00 柳井俊二 国際海洋法裁判所判事

11:40 修繕・年度内案件事業打合せ

13:00 国際関係事業打合せ

14:00 中島基善 日本舶用工業会会長

14:30 村ア 勉 日本鉄道車両輸出組合専務理事

14:50 伊勢崎賢治 東京外国語大学大学院教授

15:00 ドメニコ・ジョルジ 駐日イタリア大使

16:00 片野坂真哉 ANAホールディングス社長
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「国連でのロビー活動」その2―ハンセン病と障害― [2015年07月01日(Wed)]
「国連でのロビー活動」その2
―ハンセン病と障害―


ハンセン病の障害者は、エチオピアや日本財団が支援するインド、インドネシア、ブラジルを除くと世界的には未組織状態であり、日本財団と笹川記念保健協力財団は、一カ国でも多く組織化したいと努力をしているところである。

この度『障害者インターナショナル』のアビディ会長より、「ハンセン病の障害者も『障害者インターナショナル』に加盟しないか」との暖かい協力の申し出をいただいた。

第8回国連障害者権利条約締結国会議がニューヨークの国連本部で開催中に、ロビー活動を兼ね、初めての会議を開催した。

以下は私のスピーチです。

******************

第8回国連障害者権利条約締約国会議サイドイベント
「ハンセン病と障害〜Voices of People Affected by Leprosy」


2015年6月10日
於:ニューヨーク国連本部


本日は、ハンセン病と障害というテーマで初めてイベントを開催することができることを嬉しく思っております。

会場には約100人が出席.JPG
約100人の方が出席してくださった


このサイドイベントを通じて、障害者とハンセン病患者・回復者それぞれの声を結集し、互いに連携を深める可能性を見出すための貴重な機会となることを願っています。

私が「障害者インターナショナル」(Disabled People’s International:DPI)のグローバルチェアのアビディさん(Mr. Javed Abidi)と出会ったのは3年前、私たちがハンセン病の人権に関するシンポジウムをインドで開催した際に、アビディさんが参加してくださったことがきっかけでした。

冒頭のビデオでもありました通り、ハンセン病は人類の歴史の中で最も過酷な差別を伴う病気として知られています。今は治療法も確立されており、確実に治る病気となりました。しかし、治療をせずに放っておくと症状が進行し、手足や顔などに障害を負うことがあります。このような障害が原因で、長い間、業病あるいは天刑病などと誤解され、人々に恐れられてきました。

ハンセン病回復者の中には、病気の後遺症として負った重い障害により、様々な場面で社会活動に参加できない人々がいます。また、十分な教育を受けられない人もいます。就職できない人も多く、なかには物乞いで生計を立てることを余儀なくされる人もいます。

私は世界保健機関(World Health Organization:WHO)からハンセン病制圧大使、日本政府からハンセン病人権啓発大使を拝命し、ハンセン病に伴う差別の撤廃やハンセン病患者・回復者の生活の向上のための活動に取り組んでいます。

インドでの会議はアビディさんが初めて参加したハンセン病の会議でした。彼は、その会議の場で、「原因は何であれ障害を負った者同士、共に何かできるのではないか」と、DPIとしてハンセン病患者・回復者と障害者との連携を強化することを強く提案してくださいました。

アビディさんからの提案は非常に心強く、たとえ状況は違っても、DPIが目指すものとハンセン病の問題について取り組む私たちが目指すものは非常に近いということを再認識することとなりました。

ハンセン病コミュニティも障害コミュニティも、誰も疎外されることのないインクルーシブな社会をつくっていくことを目標にしています。その目標に向かって、私たちは各国政府の政策改善や当事者の生活改善のための活動に取り組み、成果を上げてきました。

それぞれのグループの人権に対する活動に関していえば、障害者については、2006年に国連総会で「障害者権利条約」が採択され、ハンセン病については、2010年に国連総会で「ハンセン病差別撤廃決議」が採択されました。

こうした大きな前進を遂げて以来、障害者もハンセン病患者・回復者も、徐々に政策の改善が見られるようになりました。しかし、世界中の当事者の方々の生活に目を向けてみると、真にインクルーシブな社会を実現するためには、まだまだ長い道のりが続いています。

昨年、DPIと日本財団は、障害者とハンセン病患者・回復者との連携を強化する事業を新たに立ち上げました。詳しくは後ほどお話があると思いますが、例えばインドでは、アビディさんとインドのハンセン病当事者団体の創設者であるゴパールさんのイニシアティブのもと、互いの活動に協働して取り組む可能性を探りはじめています。インドの例のように、これまで別々に活動していた障害者とハンセン病患者・回復者が連携していくことを見据えて動きはじめた国もあれば、エチオピアのように、DPI加盟団体である障害者団体とハンセン病患者・回復者の団体の連携がすでに進んでいる国もあります。

一方、そもそも当事者団体がない国もあります。ハンセン病患者・回復者の声を社会に届けるためには、今後、当事者団体の設立が検討されるべきでしょう。


国によって状況は異なりますので、皆さまには、それぞれの国の状況にあった解決策を模索していただきたいと思います。その際、障害の原因を限定せず、障害当事者とハンセン病当事者が連携できれば、互いの人権についての主張をより大きなものにしていけるかもしれません。

このイベントが障害当事者とハンセン病当事者の協力関係構築のきっかけとなれば大変嬉しく思います。

最後に、このイベントの開催をサポートしてくださった国連の皆さま、エチオピア、日本、フィリピン政府代表部の皆さま、このようなすばらしい機会を用意してくださったDPI会長はじめスタッフの皆さま、会議期間のお忙しい中ご参加くださった会場の皆さまに心より感謝申し上げます。そして、この会場に足を運んでくださり、貴重な声をお聞かせくださるハンセン病回復者であり、私のよき友人でもあるラミレスさんとゴパールさんに厚く御礼を申し上げます。
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