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笹川陽平(ささかわようへい)の国内外における活動の記録。このブログを通じて、私の毎日を覗いてみてください。

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「拝金国家・中国?」その1 [2010年09月06日(月)]

中国市場の株価動向


「拝金国家・中国?」その1


HSBC銀行が7月14日発表した東南アジアの富裕層調査の結果、中国の富裕層の平均年齢は36歳で、マレーシア43歳、台湾43歳、シンガポール44歳、香港48歳に比べ、圧倒的に若かった。

「これは、中国経済の成長が著しく、若者に多くのチャンスがあることを示しているが、熟考すべき点もある」と、金儲けのために投機に奔走する人々へ、中国のメディア「新京報」が7月24日付けで冷静に説明しているので紹介したい。

「まず市場の未成熟さが第一にある。

中国は現在、株や不動産は当然として、緑豆(りょくとう)、ゴマ、ショウガなどの農産品にまで投機熱が高まっている。欧米では株や不動産への投機で大もうけすることは珍しく、特に一晩でにわか成金になることはまれである。特に不動産では投資の機会が非常に少なく、投機はさらに難しくなる。

また株式市場では、一晩で儲けたり、インサイダー情報を通じて暴利をむさぼろうとしたりすることは荒唐無稽である。先進資本主義国の市場は非常に成熟しており、大きく変動するジェットコースター相場は少ない。このため幸運をあてに投機して成功するのは非常に難しい。

投機は一般大衆ができるものではなく、専門化のレベルが高く、多くの専門家を擁する機関がはじめてできるものだ。中国の株式市場のように、中学生から高齢者までが群がる状況は他国に例がない。そして、中国富裕層の平均年齢の低さは中国市場の若さと未成熟を示している。

次に管理の未成熟さがある。

欧米先進国もかつては現在の中国のような際どい株式投機や不動産投機を経験しており、「投機」という字が満天に飛び交っているような状況だった。こうした状況に対し、国の監督部門は即座に管理・監督制度を打ち出し、過度の投機を抑制し市場の安定的で健全な発展を確保しようとした。こうした制度により、一夜で金儲けをしようという心理や行動は思い通りにならなくなった。

拝金主義者の大半は投機の産物だ。社会が投機行為を放任すれば、まぐれ当たりする者が出てくるし、若者は容易に突き動かされ、盲目的な冒険主義に走る。その結果、投機により富を築く層が割合として多くなる傾向がある。富裕層の平均年齢の低さは、市場経済管理の未成熟さを現している。

香港、シンガポール、台湾はアジアの市場経済の比較的発展した地域だが、富裕層の平均年齢は40歳以上だ。ある統計によると、欧米や日本の富裕層の平均年齢はさらに高い。これら地区の市場システムの健全さや制度の完備、規範は、まぐれ当たりに頼る投機家を排除し、勤勉さや自身の聡明さがないと蓄財できないようにしている。このため40歳以前で富裕層に入るケースは非常に少ない。

富裕層の平均年齢が低すぎることは決して良いことではない。往々にして若者は投機心理をあおられ、まじめに努力せずに豊かになろうとするようになり、社会にとって必ずしも好ましい現象とはならない。40歳以前はまじめに学び、経験を積み重ねる段階であり、40歳以後にはじめて中身を伴った成功を収め、豊かになれる―。こうしたやり方は社会や国、家庭、そして自分自身にとっても堅実だと思われる」

と報じている。

中国における拝金主義の蔓延は学生にまで及び、官僚の汚職は厳しい統制下にもかかわらず増加の一途である。

「拝金国家・中国?」その2、その3で詳しくお伝えする。



(次回9月8日は、「拝金国家・中国?その2」です)
事業評価報告会・講評(要旨) [2010年09月05日(日)]


事業評価報告会・講評(要旨)


2010年9月2日
日本財団ビル2階


日本財団では、1995年から外部機関による助成事業の評価を実施してきました。また2004年からはR&D社の指導のもと、財団の監査グループが中心となり、これまでに33件の事業評価を実施しました。組織内に自らの評価部門がある財団というのは世界的にも稀なことであり、この取り組みは高く評価できます。

今日は監査グループとR&D社による評価報告が行われましたが、これらの結果は助成事業の担当者にフィードバックすることが大変重要です。助成金の入口と出口におけるそれぞれの視点の違いがわかることにより、事業担当者にとっては見えなかった問題点が見えてくるからです。

事業評価というのは独立性を保ち、行われなければなりません。事業の担当者にとっては評価結果に疑義があるかもしれませんが、先ずは結果を受け止め活かすことが大切です。 

その第一として、評価結果で指摘された問題点については助成団体と議論することです。今日の報告では、将来の方向性についての指摘が個別に出されましたが、それを踏まえて議論し、次につなげることで事業評価の意義が価値あるものになってきます。報告を受けただけで終わらせては本当の評価とは言えません。本当の評価とは、評価書に基づき議論を積み重ね、将来の方向性を確認し、実現していくことにあります。

今日は事業担当者以外の職員にも聞いていただきました。日本財団は新しいプログラムを開拓し、創造性豊かな事業展開に取り組んでいます。そのような意味で新規事業を立ち上げるにときには、この評価指標を頭に入れた上で戦略を立て、戦術を練ることです。

組織には創設期、成長期、そして成熟期があります。その過程において、皆さんの得た知識を加えていくことが重要です。この評価の指標は新しい事業で活かされなければなりません。監査グループとR&D社の皆さんは私たちにわかりやすいように噛み砕いて説明して下さいました。

有難うございました。
日中笹川医学奨学金制度・第33期研究者歓迎式典 [2010年09月04日(土)]


日中笹川医学奨学金制度・第33期研究者歓迎式典


日中笹川医学奨学金制度の第33期研究者30人が来日、歓迎式典が開催された。

この奨学金制度は日中両国の医学分野における協力関係の構築を目指し、1987年に始まった。以来23年間で2,128人の中国人医師らを研究生として日本の医療機関や大学で受け入れている。

日中医学協会の森亘会長は「インターネットの普及により昔に比べ両国の距離感は感じないだろうが、生活や文化の違いはある。共通点や相違点を理解してほしい」と話し、指導責任者を代表し挨拶した千葉県がんセンターの中川原章センター長は「日本人は恥ずかしがり屋だが親切だ」と研究だけでなく生活面で困ったことがあればすぐに相談することが大切だとアドバイスした。

研究生を代表し謝辞を述べた瀋婷(シンテイ・30歳)さんは、中国の医療技術には課題があるとした上で「日本の進んだ技術を学びたい」と明確な目標を述べた。

挨拶の様子は以下に記す。

*****************************


挨拶(要旨)


2010年9月2日
於:東京ガーデンパレス


研究生の皆さま、来日を心より歓迎申し上げます。

これまで挨拶された日本医師会、日本歯科医師会、日本薬剤師会、日本看護協会の皆さまは、日本の医学界の最高責任者の方々です。このような方々がお集まり下さったということは、偏に皆さまへの期待の表れです。11月には箱根で研修セミナーが行われます。そのとき皆さまとじっくりとお話ししたいと思います。

先ずは研究生を受け入れて下さる医療機関や大学、そして指導責任者の皆さま、長きにわたりご協力下さり、本当に有難うございます。このプログラムの成果は皆さまの愛情溢れるご指導の賜であると感謝申し上げます。

日本の医学界は中国の医学、医療の発展のために協力して下さり、23年間にわたり情熱溢れる指導を提供して下さいました。そして、日本で学んだ中国の奨学生の皆さまもその期待に応え、中国医学界の中堅幹部、あるいは最高指導者としてご活躍頂いております。

日中間は新しい関係の段階に入っております。私は今までに中国から1万人を超える各界の方々を日本に招へいしてきました。互いに良く知る努力を継続することが日中間の基本であると考えるからです。私たちは本当に中国のことを知っているのか。また中国の方は私たちのことを知っているのか。お互い、ほとんど知らないのが現実ではないでしょうか。

今、日本のことを中国の方々に知ってもらおうと日本の図書を100冊選び、中国語に翻訳・出版し、中国の知識人に読んでいただこうという計画を進め、すでに10冊発行しました。

中国の方々の日本人観というのは、今も70年くらい前のアメリカ人のルース・ベネディクトの著書「菊と刀」が基礎になっているということで、これはいかに日本からの情報発信が少ないかの良い例です。

8月に南京大学で出版のための記者会見を開催した時、はじめてこの事実を知りました。南京大学や南京の知識人は、日中間のわだかまりの重要な部分は南京が抱えていると言い、中国人は積極的に日本人との関係改善のためにひと肌もふた肌も脱がなければいけないし、過去のわだかまりを解消することが我々の責務だと公言されました。

日本人が持つ対中感情、また中国人が持つ対日感情というのは、いまだにステレオタイプのように感じます。

中国には「一つの山に二頭のトラは棲めない」ということわざがありますが、棲めるように努力することがこれからの日中間の未来にとって重要ですし、この二国間の協力なくして東南アジアの安定、さらには世界平和は望めません。思想や信条を超え、二国間が協力していくためにも、お互いに知る努力を継続することが重要です。

私たちは日本を知ってもらうために240万冊の日本の図書を中国の各大学の図書館に寄贈してきました。皆さまの研究機関や大学で寄付しても良い図書がありましたら、中国の学生の勉強のために活用させていただきますので、ぜひご提供下さい。

また、この9月から中国の日本語学科で使われる日本語を学ぶ教科書は革命的に変わります。日本語の勉強がしやすいように日中の専門家が作成した日本語教科書が正式に教育部で採用されたのです。

皆さまは中国における知識人の代表ですから、研究以外に等身大の日本を見ていただきたいと願っています。決して親日家になる必要はありません。知日家になってほしいのです。
9月3日(金) [2010年09月03日(金)]
9月3日(金)

 08:00 書類整理、決裁等

 09:30 ブルーシー・アンド・グリーンランド財団・広渡英治専務理事

 11:00 岩國哲人・元衆議院議員

 11:30 海洋政策研究財団・工藤栄介顧問

 12:00 公益・ボランティア支援グループ職員と昼食

 13:30 海洋グループ・審査説明

 14:00 外務省・藪中三十二顧問

 15:00 朝日新聞・取材

 15:30 作家・手嶋龍一氏

 16:30 東京財団・加藤秀樹理事長

 18:00 作家・工藤美代子女史


「チャド湖とアラル海」 [2010年09月03日(金)]

チャドのアチェベ(イメージ写真)


「アフリカ・チャド訪問」その3
―チャド湖とアラル海―


世界の最貧国の一つである内陸国・チャドの西部には、水ガメの役割を果たしてきたチャド湖があり、現在、消滅の危機に瀕している。

チャド湖はチャド、ニジェール、ナイジェリア、カメルーンの4ヶ国にまたがるアフリカ大陸中央部の湖で、周辺の国々に居住する2000万人以上の人々に水を供給してきただけに事態は深刻である。1960年代に比べ1990年代までに面積の45%を失い、なお減少を続け、21世紀には消滅するとも予想されている。

チャドの知識人が言うには、ナイジェリアがこの地域に移住を奨励し、周辺人口の増大が原因の一つで、関連諸国の経済事情・政情が不安定なことから有効な対策がとられていないのが実情と、顔を曇らせた。

かつて、中央アジアのカザフスタンに出張の折、アラル海の惨状を視察したことがある。

アラル海はカザフスタンとウズベキスタンにまたがる塩湖で、その大きさは確か九州ほどの面積であった。その源はパミール高原と天山山脈の融雪水がシルダリヤ川とアムダリヤ川を通じて流れ込み、豊富な水量で漁業が盛ん、年間5〜6万トンの漁獲量の時代もあった。現在は水量大激減と塩分濃度が高く、魚類をはじめ生物は絶滅した。

原因は1940年代よりスターリンが「自然改造計画」の一環として実施した綿花栽培のための灌漑や運河の建設により、シルダリヤ川、アムダリヤ川の流量激減にともなってアラル海の水量も激減した。

2003年時点では、1960年に比べアラル海の面積はたったの25%である。激しい時期は一晩で数十メートルもの湖岸線が遠のいていったため、退避しそこなった船の群れが打ち捨てられ、「船の墓場」といわれる光景は、私の脳裏に人間の環境破壊の凄まじさとして強烈な印象を焼き付けた。水量激減に伴う塩害は数百キロ離れた田畑にうっすらと白く散見された景色で、農作物への甚大な被害も推察できた。

2050年には世界の人口は100億人突破と予測されている。物事に原因のない結果はない。根本原因は主に発展途上国の人口増加である。計画産児もしくは何らかの人口抑制なくして根本的な地球環境の保全、温暖化対策はいうに及ばず、食料危機、貧困対策など、常に国際社会でテーマになる問題解決への道筋はないはずだ。

ローマクラブは1972年、「現在のままで人口増加や環境破壊が続けば、資源の枯渇や環境悪化によって100年以内に人類の成長は限界に達する」と警鐘を鳴らし、世界に衝撃を与えたことを我々は忘れてしまったのだろうか。現在、これを問題視する国際機関も政治指導者も存在しないことは不思議なことである。



(次回9月6日は、「拝金国家・中国?その1」です)
9月2日(木) [2010年09月02日(木)]

自らの活動を評価し新たな活動を創造する


9月2日(木)

 07:50 書類整理、決裁等

 09:30 日本レジャーチャンネル・藤川務代表取締役社長

 10:00 船の科学館・森田文憲理事長

 10:30 米日財団・詫摩武雄所長

 11:00 藤本和延・元笹川スポーツ財団常務理事

 13:30 日本財団・事業評価報告会

 14:45 前原誠司・国土交通大臣

 15:10 笹川平和財団・羽生次郎会長

 16:20 日本財団・事業評価報告会・講評

 18:00 ジャパンエコー社・原野城治代表取締役社長
「サモラノ農業大学、Jackeline Vilchezさんの死を悼んで」 [2010年09月02日(木)]

Jackeline Vilchezさん(最左)


「サモラノ農業大学、Jackeline Vilchezさんの死を悼んで」


日本財団の奨学事業の一つ、南米のホンジュラスにあるサモラノ・パンアメリカン農業大学を卒業し、ラオスの国際熱帯農業研究センター(CIAT)で研修していたReina Jackeline Vilchez Ochoaさん(ペルー出身、22歳女性)が、8月25日、ラオスで交通事故に遭い亡くなった。

Jackeline Vilchezさんは、2009年12月にサモラノ農業大学を卒業後、同大学とCIATによる選考を経て、卒業生2人と共にCIATが実施するキャッサバ農業普及プロジェクトの現場の一つであるラオス北部のルアン・プラバン県の農業学校で活動していた。

25日朝、学校に向かう途中、対向車線から来たトラックと衝突して死亡した。午後、事故の一報を受け、直ちに日本財団職員・間遠(まどお)登志郎を現地に派遣。CIAT、サモラノ農業大学らの関係者とともに対応に忙殺された。

困難を極めた遺体の移送だったが、関係者の献身的な努力により、ペルーのご家族のもとに搬送され、8月30日、無事葬儀が営まれた。

(事実経緯はHPに掲載  リンク先:http://www.nippon-foundation.or.jp/org/news/20100901-1.html

奨学修了生恒例となった日本財団訪問が12月に予定されていて、お会いすることを楽しみにしていただけに、深い悲しみで胸が締めつけられる思いです。関係者によると、彼女はしっかり者で、前日まで農業学校の生徒を率いてキャッサバ加工品流通と販売の市場調査を精力的に行っていたとのこと。

数多くの日本財団奨学生が世界で活動しているが、不慮の事故により亡くなったのは長い歴史の中でも初めてのことであり、海外での活動は危険が伴うとはいえ、本当に悲しい出来事です。

彼女は、サモラノ農業大学やラオスで積んだ経験を活かして、ペルーの山岳地帯の貧しい農民の生活向上に尽力することを夢見ていたという。

友人とともに優しく微笑む写真に言葉を失う。
ここに謹んでご冥福をお祈りします。
9月1日(水) [2010年09月01日(水)]

両国の相互理解の重要性を伝えた


9月1日(水)

 07:25 成田着 日本財団へ直行

 09:15 日本財団着
      書類整理、決裁、打合せ

 13:40 笹川記念保健協力財団・紀伊國献三理事長

 14:20 笹川平和財団・羽生次郎会長

 17:00 日中笹川医学奨学金制度 第33期研究者歓迎式典・挨拶
      於:東京ガーデンパレス
ハンセン病制圧活動 2010年7月 [2010年09月01日(水)]

ボゲナ保健大臣と民族衣装を着た筆者


「アフリカ・チャド訪問」その2
―ハンセン病制圧活動 2010年7月―


チャドは1997年に公衆衛生上の問題としてのハンセン病制圧(有病率が人口1万人あたり1人未満)を全国レベルでは達成しているが、スーダン国境に接する東部などでは未だに有病率が高く、新規患者の重度障害率も高い。

子供の新規患者が多いということも懸念される。背景にはチャド保健省の態勢の不備がある。ハンセン病を正しく診断できる医療施設が少なく、患者のデータの収集、伝達に正確さを欠き、担当者の人事異動も激しく、患者のモニタリングが不十分なために治療が途中で終わってしまうケースも少なくない。

そして根本的には、必要な人材、資金、物品が不足しているという報告が届いていたので、チャド政府のハンセン病対策に対するコミットメントを引き出す必要があると判断し、今回の訪問となった。

7月18日の午後、国の玄関としてはかなりささやかな首都・ンジャメナ空港に降り立った。空港ではボゲナ保健大臣、WHO(世界保健機関)チャド事務所代表のバリー博士、コンゴにあるWHOアフリカ地域事務所ハンセン病担当官のビデ博士が、小雨混じりの空を見上げ「雨と一緒に来る人は幸運を持ってくる人です」と、歓迎してくれた。

19日にボゲナ保健大臣を訪問。エイズやマラリアなどの対策と共にハンセン病対策にも力を注いでいただきたいこと、また、「ハンセン病は治る、薬は無料、回復者に社会復帰を」というメッセージを社会に広めてもらえるよう陳情。これに対し大臣は私の要請を快諾してくれるとともに、自分の父親の伯母がハンセン病であったと、勇気ある告白をしてくれた。

幸運なことにこの大伯母は家族の協力もあって、孤立することなく地域の中で(しかも裕福にまでなって)生涯を終えることができたこと。大臣の父親は2歳の時に孤児になったためこの伯母が母親代わり。つまり大臣にとってはこの大伯母は実質的に祖母であり、一緒に暮らしたこともあって、ハンセン病に対する十分な理解を持つことが出来たと話してくれた。

保健省を後にし、引き続き国会でシレック下院副議長と会談。政治家や出身地元の選挙民の人たちにハンセン病の正しい知識を伝えていただきたい。また、ハンセン病の医療・社会の両面の問題の解決に努力を願いたいと説明したところ、議会の委員会でハンセン病問題を取り上げることを検討すると約束してくれた上に、必要ならば関連法案を策定・提出することさえ考えるとの力強い発言であった。

識字率が50%以下でテレビも殆ど普及していない(電化率は人口の1.5%)この国では、情報の伝播はラジオや口コミに頼らざるを得ないが、将来のチャドの開発の道のりの中に、医療・社会両面のハンセン病対策をしっかりと位置付けて必要な手段を講ずると断言された。

再び保健省に戻り、ハンセン病担当官のムサ氏からチャドにおけるハンセン病対策に関する実務的ブリーフィングを受けた。

保健省は1992年に2000年までの制圧を目標にハンセン病対策プログラムを開始。当時の年間新規患者は8,582人、有病率は14.4人だったが、1997年には有病率を0.96人にまで減少させ、前倒しで全国レベルでの制圧を達成。2009年の新規患者は484人、有病率は0.54人。1992年からこれまでの治癒患者は2.5万人以上である。

ただ、東部・南部には未だ有病率が1〜2.75人と高い州が4州もあり、最も憂えるのは、新規患者の内の重度障害率が約17%と非常に高いこと(=早期発見されていない患者が多いことを示す;病気が治癒しても生活に支障をきたし、また、偏見・差別の対象になりやすい)、そして子供の新規患者も約9%と多いことである。

課題は、政情が不安定な地域での活動、遊牧民のフォロー、資源(人材、物資、資金)不足などが挙げられる。保健省のハンセン病対策の事業費の9割は、フランスのハンセン病NGOであるラウフ・フォレロー財団がカバーしているとのこと。同席していたWHOアフリカ地域事務所ハンセン病担当官のビデ博士は、こうした様々な課題を解決するのには新たなイニシアチブが必要であると指摘し、今後、具体的な対処作業に入ることになった。

翌日(20日)は、日帰りで日本外務省の旅行客立入禁止地域であるアベチュに向かった。朝7時過ぎに国連機で飛び立つ。上空から首都ンジャメナを眺めると殆どが平屋の建物で、私たちが泊まっているリビヤ資本の9階建てホテルが唯一の“高層”建物。私は数十カ国のアフリカ諸国を訪問しているが、どの国の首都にも10階建て以上のビルが10棟や20棟は建っている。ンジャメナのこの現実が、チャドが世界で4番目に貧しい国(国連開発計画 『人間開発報告書』のHuman Poverty Indexランキング)とされていることの一端をかいま見る思いだった。

飛行機は1時間40分ほどで約700キロ離れたチャド東部のワダイ州・アベチェに到着。国境を接するスーダンから約170km。ダルフール紛争難民が30万人以上押し寄せている地域であり、ハンセン病に対する偏見・差別も根強く、医療施設が十分に整っていないスーダン側からチャドに流入しているケースもあるため、1万人あたり2.73人と非常に高い有病率を示している。

ワダイ州のバジネ知事を表敬訪問した後、市内の地域病院を視察。病院の敷地内にはハンセン病回復者とその家族、合わせて436人が住み着いてコロニーを形成(全国に13ヶ所)しており、茅葺屋根で土壁のとんがり帽子状の簡素な小屋が狭い敷地にひしめき合っていた。


アチェベのコロニーを訪問


バジネ知事の説明によると、「コロニーの子供が外部の子供を向かい入れて非行問題が発生しているため、コロニーを7キロ離れた場所に移転する計画である。水が無い地域なので国連が井戸掘りを提案しており検討中である。保健所や小学校も作りたい」とのことだった。回復者代表は、病院前で開催された私たちの歓迎式典の挨拶の中で、「移住先が市場から離れていること、水の確保、住居の確保といった問題が解決するならば移転にやぶさかでない」と述べた。

移転予定地に行ってみると、そこは市街地からかなり離れた荒野のど真ん中。移住用住居としてレンガ造りの小さな家9戸が建っているだけである。当初は116戸を建てる予定であったが、途中で建設コストが上がったために計画は頓挫。井戸を掘っても水が出ない土地であるという話も耳にした。

どう考えても移住先としては不適当と思われる土地で、隔離といっても過言ではない場所。この移転話には、私に与えられていない情報、何か裏があることは明白である。

このような回復者コロニーの移転問題は、近年、世界各地で頻発しており、土地所有権、地域住民との関係、再開発といった問題により、回復者の意向や既得権が十分に尊重されずに、移住を半ば強制させられるケースが後を絶たない。私は、移住を迫られている回復者たちのこれからを考えると、後ろ髪を引かれる思いでアベチェを発ち、空路ンジャナメに戻った。

翌日は、午前中にンジャメナ市内のハベナ地区を訪問。30年ほど前にはハンセン病専門の保健センターがあり、回復者が周辺に住み着きコロニーを形成していた地域である。“ハベナ”は“見捨てられた土地”の意味。しかし、その後に一般の住民も流入してきて、今はこの地名も“彼らを愛する”の意味になる別の発音が使われている。

現在、この地区に住む障害を伴う回復者は89人で、その家族との合計は約980人。ハンセン病専門保健センターは、今では一般の保健センターになっている。

私がハベナに到着すると、太鼓、踊り、そして歌の盛大な歓迎式典で迎えてくれた。保健センターでは障害を治療中の回復者を激励。


ダンスや太鼓で訪問を迎え入れてくれた


ハベナを後にし、ンジャメナ市内にあるCARK(カトリック教会系のリハビリセンター)を訪問した。ここは、ハンセン病やその他の理由(紛争、交通事故、労働災害)で障害を持った人のための補助器具(義肢、松葉杖、車いす、靴など)を製造したりリハビリをするカトリック系のNGOが運営する施設で、政府のハンセン病対策プログラムとも連携して活動しているとのことであった。

午後はンジャナメの南方約20キロにあるコンドール市を訪問。ここでは、ラウフ・フォレロー財団の資金援助により、チャドのハンセン病支援NGOのASALT(チャド・ハンセン病患者連帯協会)が、回復者を対象とした社会経済自立支援事業を運営。午前中に訪問したハベナ地区の住民がバスでここまで来て20ヘクタールの土地で農作や羊の飼育をしており、生産物の殆どは自分達で消費するが、一部は販売をして現金収入を得ている。

将来的には、人材育成のための農業研修センターも設立したいと、計画は大きいが、アフリカの農業支援を25年にわたって行ってきた私の眼には、よほど情熱的で優れた農業科学者が指導しない限り、この農園は失敗に終わるだろう。

今回のチャド訪問は、ハンセン病の“公衆衛生上の問題としての制圧”の達成は単なる一里塚であり、制圧の維持と更なる患者数の削減、いかにして障害が発症する前に患者を発見するか、そして回復者が社会復帰をして尊厳ある人生を送るにはどうしたら良いかなど、“ハンセン病のない世界”への道のりが長く困難であることを認識させられ、そこに到達するためにはあふれる情熱と、どんな困難にも耐え忍び乗り越える強靭な忍耐力、そして、成功するまで決して諦めない継続性の必要を再認識する出張となった。



(次回9月3日は、「チャド湖とアラル海」です)
8月31日(火) [2010年08月31日(火)]

バレンバン・ハンセン病病院リハビリセンター訪問



8月31日(火)

 04:00 ホテル発
 
 06:30 ジャカルタ発 

 07:15 パレンバン着

 07:30 空港発

 08:30 スンガイ・クンダールハンセン病病院

 09:30 スンガイ・クンダールハンセン病コロニー訪問



 10:45 バス移動中にメディア(TEMPO)インタビュー

 11:30 南スマトラ県知事ヌロイン氏訪問

 12:10 パレンバンに地元メディア囲みインタビュー



 12:45 空港着

 14:15 パレンバン発

 15:00 ジャカルタ着

 16:40 ホテル着

 16:40 NISVAボランティア

 17:00 塩尻日本大使

 18;00 メディアインタビュー(TEMPO)

 19:15 ホテル発

 20:20 空港着
 
 22:00 ジャカルタ発
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