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日本財団会長 笹川陽平ブログ

写真:ハンセン病の現場から「アフリカ・ピグミー族」

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resize.png日本財団はハンセン病の差別撤廃を訴える応援メッセージサイト「THINK NOW ハンセン病」を開設。皆様からのメッセージを随時募集・配信しています。
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「闇の奥 コンゴ」―エチオピア、コンゴ民主共和国出張― [2015年04月01日(Wed)]
「闇の奥 コンゴ」
―エチオピア、コンゴ民主共和国出張―


明日からハンセン病制圧活動のため、アフリカのエチオピア、コンゴ民主共和国に出張いたします。

エチオピアではハンセン病回復者協会の協力を得て、地方でも活動いたします。

コンゴ民主共和国に行くと言うと、西洋人はびっくりされます。しかも4度目の訪問というと、目が点になります。アフリカに若干でも興味のある人は、ジョセフ・コンラッド(ポーランド生まれのイギリス人作家)の名作『闇の奥』を読んでいるからでしょう。

コンゴ民主共和国(当時はベルギー領)の最奥部で働く象牙採取人クルツが音信を絶った。船乗りマーロウはクルツの救出に向かうが、そこは死と闇の恐怖を秘めた原始の大密林があった・・・。

今回、コンゴ川を船で奥地まで入りたかったが、治安上、不可能でした。

今だ紛争地も多く、都市部の治安も良くありません。しかし、そこにはハンセン病に悩む人たちが多く生活しているという現実があるのです。

私は理性より体が先に動いてしまうのです。今回も同行者の安全確保を最優先に、私が望む治安の悪い地域への訪問はあきらめ、比較的安全なピグミー族の居住地を訪問し、状況視察と対策を考えたいと思います。それでも小型機で野原に離着陸するリスクが伴います。

帰国は12日の予定です。

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「進化しながらたえず前進を」―新年度にあたり、日本財団が目指すもの― [2015年04月01日(Wed)]
「進化しながらたえず前進を」
―新年度にあたり、日本財団が目指すもの―


日本財団ロゴ.jpg
日本財団のロゴマーク


日本財団は風通しが良く、一人ひとりが自分で考え、目指したことが実現できる素晴らしい組織ではないでしょうか。若い職員が自信を持って仕事をし、興味ある仕事を通じて社会課題の解決につなげ、ソーシャルイノベーションのハブとなる。私は日本財団をそんな自由闊達で、しかも強靭な組織にしていきたいと考えています。

そのためには「変化」が必要です。ダーウィンは進化論の中で「強いものが生き残るのではない。賢いものが生き残るのでもない。変化するものだけが生き残る」と言っています。これは人にも組織にも、言うまでもなく、日本財団にも言えることです。

かつて私は、日本財団は単に他団体に助成するだけでは不十分で、自ら社会課題を発掘し、挑戦・解決していく必要性を信じて活動を開始しました。当時は一般的に助成財団が自主事業を行うことは常識外のことと思われており、色々な反発や批判を受けたことを懐かしく思い出します。しかし、今や世界でもユニークな助成と自主事業を共に行う財団として評価されるようになりました。

変化するには時に批判と痛みを伴いますが、変化は前進であり、変化を求めないのは後退の始まりなのです。「変化、変化、また変化」は私自身のキーワードでもあります。変化を求め行動を起こすには好奇心と知識が欠かせません。好奇心がなければ新しいニュースに出合っても無関心のまま通り過ぎてしまいます。何が社会の課題かに気が回らないのです。知識も然り。「知識は行動を起こすための手段にすぎない」といった言い方もありますが、知識に基づかない行動より、知識を踏まえた行動の方が優れているのは言うまでもありません。

そのためにも多くの本を読んでください。日常役に立たない、あるいは興味をそそられない本を積極的に選ぶよう心掛けてください。そのような本を読むことで、これまで気付かなかった視点でモノを見ることができるようになり、新たな発想が生まれてくるのです。批判する人より、勇気を持って「批判される人」になって下さい。

日本財団にはモーターボートレースの売り上げの2.6パーセント、300億円近いお金が交付金として入ってきます。このお金はモーターボートファンのお金で、いわばファンからお預かりしたお金ですから、1円の無駄使いも許されませんし、より効果的に活用するにはどうしたらよいかを常に真剣に考える必要があります。そして、この組織を最大限に生かすことで、わが国は勿論、世界的にも非常にユニークな組織体として一層、付加価値の高い仕事を追求していこうではありませんか。

一般的に、どこかからの助成金を得ると、さまざまな制約が出てきます。時には魂まで売らなければならないこともあるかも知れません。日本財団にその活動の基になる大きなお金があるということは、自主性の担保にもなり、こんなに有難いシステムはありません。

しかし、われわれがソーシャルイノベーションのハブとしてさらに活動を広げるためには、モーターボートからいただくお金とは別に、今後10年程度でさらに同程度の事業費を確保していきたいものです。

国の財政が悪化し公費の効率的な運用が叫ばれる中で、日本財団には既に160億円に上る政府の復興資金や40億円の預保納付金、あるいはミャンマー民主化に関連して100億円の国費を引き受けて活動を始めています。背景には日本財団を使えば効率的で迅速な仕事ができるといった信頼があるからではないでしょうか。「日本財団の手法」に対する行政の信頼が増すほど、国の資金をより効果的に活用する道が拓けます。官民連携と申しましょうか、民が官の仕事を効率的に補完することができるのです。

もう一つ、日本財団が新たに強化すべきは「企業との連携」です。日本財団は東日本大震災被災地で大胆かつスピーディーな活動を展開して、多くの方から賛同を得ました。さらなるうねりを社会に起こし、ソーシャルイノベーションの輪を広げていくには、企業との連携が欠かせません。企業をサポートすることによって日本の社会をよくしていくという方法です。16億円に上る「キリン基金」プロジェクトや多くの企業と協力して既に多くの成功実績もあります。

現在、社会課題の解決に向けた素晴らしいアイデアが、グループを越えいくつも出てきています。例えば「特別養子縁組」。子供を育てるのは家庭の温かさが必要で、行政が子供たちを預かっている現状は間違っています。特別養子縁組や里親制度を確立・強化することで「子育ては施設から家庭へ」を合言葉に、施設が預かる子供をゼロにすることこそ目指すべき方向だと思います。

学校教育の中で、飛びぬけた才能を持つが故に人とのコミュニケーションができず不登校になる子供を対象にした「異才発掘プロジェクト」も、日本の教育制度に対する我々の挑戦です。これからの社会でイノベーションを起こすのは、特殊な分野で特別な才能を持った子供たちです。そういう人材が教育の中で片隅に置かれている現状は大変残念なことで、将来は専門の教育機関の整備も必要になるでしょう。

この他、文楽の人形浄瑠璃復興や神社の再生、鎮守の森の復興に向けた植林、さらに刑務所出所者の社会への受け入れ、聴覚障害者の手話を言語として認める法律の制定、銀行の収入として処理されている休眠口座の社会課題への活用など多くの取り組みが進行しています。

福島第一原発事故でも、事故発生半年後の2011年9月、世界的放射線専門家42人を福島に集めて国際会議を開催しました。チェルノブイリ事故(1986年)後の10年間、日本財団は詳細な科学的データを蓄積しており、こうした経験を基に、その当時から私は除染に1ミリシーベルトの基準を設けるのは間違いであり、放射線の内部被ばくはほとんどゼロ、外部被ばくについてもそれほど心配することはないといった論陣を張りました。

しかし大震災直後は一種のパニック状態で、甲状腺異常で10万人の死亡者が出るなど、荒唐無稽な話を声高にする人もいました。3年が経過した14年秋、同様の会議を開催した結果、被害は極めて限定的で内部被ばくはゼロ、外部被ばくもほとんどないに等しいことが、WHO(世界保健機関)やIAEA(国際原子力機関)、国連の放射線防護委員会のメンバーによって確認され、放射線汚染問題は今後のどうあるべきか政府に提言を出すこともできました。福島原発事故は放射線による直接被害より、避難先での健康障害や家庭崩壊など“二次被害”の方がはるかに深刻なのです。

現在、日本財団の知名度は国民の約30%といわれています。活動内容まで知っている人は7%程度です。日本財団が何をしているのか知って頂くためには、まだまだ努力をしていかなければなりません。政治や行政ではできない多面的な問題を整理し、解決への糸口を見つけ、なによりも成功例を積み重ね、日本財団の存在を高めていこうではありませんか。知名度が高くなれば良いというわけではありませんが、知名度を上げていくこともやはり大切です。

日本財団の新しい手法が広く共有されることで、国や地方、企業、さらには国民の間に日本財団に相談すれば何か良い知恵が出てくるー。そんな信頼を得る財団にしたいというのが私の願いです。社会の動きに敏感に反応し、あらゆることに好奇心と問題意識を持って立ち向かうユニークな組織。知恵と行動を両輪に24時間365日、プロフェッショナルとして失敗を恐れず、たえず進化しながら前進しましょう。

福祉車両のマーク.jpg
福祉車両のマーク
今日も元気に日本中で活躍しています

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3月31日(火) [2015年03月31日(Tue)]
3月31日(火)

7:35 財団着

9:00 国連防災世界会議 成果報告

9:30 渡邉一利 笹川スポーツ財団常務理事、中村健治 日本科学協会常務理事

10:00 理事会

11:10 玄 秀盛 日本駆け込み寺代表

11:30 山田滝雄 外務省南東アジア部長

12:00 関 晃典 日本ミャンマー協会専務理事

13:00 グローバルアピール打合せ

13:40 福祉車両事業打合せ

14:00 グレイトブリテン・ササカワ財団・審査会

17:15 菅 義偉 官房長官
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3月30日(月) [2015年03月30日(Mon)]
3月30日(月)

7:35 財団着

8:00 語り場

9:00 語り場

12:00 渡邉秀央 日本ミャンマー協会会長

13:05 武部恭枝 プライムコーポレーション社長

13:30 引間俊雄 海技大学校校長

14:00 語り場

15:00 語り場

16:00 高村正彦 自民党副総裁

17:30 日本・フィリピン友好特別委員会総会
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「笹川陽平の短所(欠点)は?」 [2015年03月30日(Mon)]
「笹川陽平の短所(欠点)は?」


人間、誰しも長所と短所がある。それぞれの人の見方によっては長所が短所になることもある。

人格円満、性格温厚と評判の人でも、優柔不断で決断することが苦手で事態を悪化させる場合もある。そのため長所と思われる人の良さが短所となることもある。また、社会的に評判のいい人でも、付き合いを重ねると底意地の悪さが見える時もあり、人の性格を表面的な事象で判断することは避けたいものである。

私は食べ物で不味いと言ったことはない。又、どんなハードスケジュールの海外出張でも疲れたと言ったことがない。自惚れではないが、短所は少ない方だと自負?している。しかし自負すること自体が短所であることはあきらかである。

日本財団の職員に何が短所かと聞けば、たちどころに100は思いつくだろうが、多分、言わないだろう。かといって日本財団職員がゴマすりかと云えば、そうではない。論争もあれば反論の妥当性に私が従う場合も多々ある。組織の長になると、おだてられることはあっても短所を指摘されることはまずない。だから常に謙虚で自省こそ必要と挙々服膺(けんけんふくよう―胸中に明記して忘れずに守ること)しようと努力しているつもりなのだが・・・。

私の同居者(正しくは妻)なら、自分のことは棚に上げて、たちどころに私の短所を、少なくとも1000は指摘するだろう。というより、私の短所探しが趣味ではないかと感じる今日この頃である。したがって、君子危うきに近寄らずで、自宅では書斎を中心に寡黙な生活となっている。

職員には日頃「利巧な者が生き残るのではない。強い者が生き残るのでもない。人も組織も社会の変化に対応できなければ生き残れない!! 従って、人も組織も変化!! 変化!!」と偉そうにハッパをかけている破れ太鼓のような存在である。これでは職員に申し訳ないなぁ!!と、密かに反省しているのは、誰も知らない私のささやかな長所であろうか。

外国の会社の面接試験で「君の短所(欠点)は何か」と問われ、「私の短所は、何が自分の短所なのか分からないところが短所です」と答え、めでたく試験に合格したとの話を聞いたことがある。しかし、私がこのように答えたら、読者からは「笹川は認知症が始まったらしい」と思われるのがおちだろう。

―76歳の迷える老羊―
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3月28日(土) [2015年03月28日(Sat)]
3月28日(土)

9:36 東京発

11:07 仙台着

11:15 仙台発

12:30 女川着

13:00 女川フューチャーセンター(New Day 基金事業)竣工式 挨拶

女川フューチャーセンター.JPG
女川フューチャーセンター

落成式典テープカット.JPG
落成式典でテープカット.

落成式典.JPG
落成式典

落成記念式典にてあいさつ.JPG
式典で挨拶


14:50 雄勝着

15:00 葉山神社上棟式 挨拶

曵綱の儀.JPG
曵綱の儀

槌打ちの儀.JPG
槌打ちの儀

散餅・散銭の儀.JPG
散餅・散銭の儀.

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神楽本納

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踊り手の方と

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巫女さんと


16:00 雄勝発

17:40 仙台駅着

18:19 仙台発

19:52 東京着

21:00 自宅着
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「ハンセン病制圧活動記」その25―スペイン・ポルトガル訪問記― [2015年03月27日(Fri)]
「ハンセン病制圧活動記」その25
―スペイン・ポルトガル訪問記―


菊池恵楓園機関誌『菊池野』
2015年3月号


2014年11月1日から3日まで、スペインとポルトガルのハンセン病療養所を訪問した。現在、これらの国々をはじめヨーロッパの国々において、ハンセン病の新規患者はアフリカなどからの移民が年間数名発見されるほかは見つかっておらず、日本と同様、かつてハンセン病患者が集められた病院や療養所で高齢の回復者が静かに余生を送っている。これまでノルウェー、ロシア、ウクライナ、ルーマニアなどを訪れ、回復者の減少に伴う療養所の将来構想や、かつての隔離の象徴である建物や人々の声をどのように残して行くかに取り組む様子を視察してきた。今回の訪問も、それぞれの療養所の過去と現在、そして未来への展望を見つめる機会となった。

スペイン東部、地中海に面するバレンシアから南へ車を2時間弱ほど走らせたところに、フォンティーイェスハンセン病療養所があった。地中海沿岸らしい温暖な気候で、10月でも日中の気温は20度を超え過ごしやすい。空気と水がきれいで風がよく通る場所を選んで建設されたという療養所は、周りを山に囲まれた谷にあり敷地面積は70万平方メートルと広大。オレンジの屋根と白い壁が鮮やかなメインの療養施設と、かつての面影を残す古い建物が混在し、まるで中世ヨーロッパのお城に迷い込んだかのような錯覚に陥る。1909年、当時社会で孤立し助けを必要としていたハンセン病患者を気の毒に思ったイエズス会の神父と敬虔なカトリック信者である弁護士によって設立され、1920年代、周囲の村人が農作物に影響があると恐れたことから四方を覆う全長3kmの壁が建設されたが、すぐに誤解は解け、この療養所は村人たちの主な就職先となる。入院患者が最も多かったのは1940年代で438名が暮らし、教会や劇場、パン屋に大工、美容院に庭師など生活の全てが所内に揃っていたという。現在は使われなくなった建物も多く、回復者の数は35人。設立当初から続くハンセン病研究所としての機能は残り、ヨーロッパ随一のものとして名高く、医療関係者の研修も多く受け入れている。スペインで毎年見つかる15-55人の新規患者(南アメリカや北アフリカからの移民か、スペイン国外に長く滞在していた人)の診断・治療も行う。一般の病院や老人ホームとしての役割も兼ね備える。さらに、1989年からは海外への支援活動をはじめ、インドやブラジルでのプロジェクトも展開している。

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フォンティーイェス・ハンセン病療養所

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全長3キロの壁を臨む


到着すると、ラモン・トレナー・ガリンド所長ほか、フォンティーイェスの幹部が揃って出迎えてくれた。まず、療養所内の小聖堂で40名ほどの回復者やその家族、職員に交じってミサにあずかったあと、日当たりの良い廊下で入所者の皆さんと交流した。68歳のガルシアさんという元気な男性は、スペイン南部のアルメリアという港町出身で、若い時は船乗りをしており、療養所には8年前から住んでいる。サッカーを見るのが楽しみの一つで、ひいきのチームはバルセロナだという。また、76歳の女性は16歳で発症、フォンティーイェスに入所、ここで結婚し、子どもも孫もたくさんいるという。病気になったときは家族と別れるのが悲しくてたくさん泣いたけれど、今はとても幸せ、いつでも外に出て戻ってこられるしね、と笑顔を見せた。ヤシの木と手入れされた芝生が心地よい中庭では女性たちが車いすを寄せ合って井戸端会議に興じていた。性能の良さそうなピンクの車いすに乗ったマルムエラさんという80歳の女性は、「30歳の時にハンセン病を発症して療養所にやってきた。7人の子宝に恵まれたが、自分が39歳の時娘を亡くしたときはとても悲しかった。今は天国で生きている旦那を想いながら、友達とのお喋りを楽しみに暮らしているのよ」と穏やかに話した。

その後、研究ラボ、研修施設、教会などの施設に案内された。世界各国のハンセン病に関する資料を収集している図書館へは、多くのハンセン病研究者が国内外から訪れるという。国際事業担当のエドゥアルドさんは、イタリア、ギリシャ、ルーマニア、ポルトガルなど他国においてもハンセン病に関する歴史遺産の状況を調査し、連携の可能性を探りたいとの意欲を見せた。

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図書館で貴重な資料を見せてもらう


療養所の職員はフォンティーイェスが果たす多面的な役割―高齢回復者の終の棲家、ハンセン病の歴史を保存し、次世代に伝えるためのセンター、豊富な経験と知識をもとに進められるスペイン国外の蔓延国への支援―に大変誇りを持っているようだった。早い時代から単に患者を社会から隔離するのではなく、患者の人間性に配慮して活動を進め、尊厳を持って生きていけるような生活の場、すなわち一つの村落共同体をつくりあげてきたフォンティーイェス。最終的に社会に復帰させるという創立者の意思を引き継ぎ、カトリック協議の弱者救済・社会奉仕の精神を原点に進めてきたこの療養所は、世界的に見ても稀有であり、ハンセン病問題のこれからを考えるにあたって重要な場所であることは間違いない。

フォンティーイェスの訪問を終えた後、バレンシアから飛行機で1時間半ほどの距離にあるポルトガルの首都リスボンに向かった。2003年に訪れた国立ハンセン病療養所ロヴィスコ・パイスを再訪するためである。リスボンから車で北に2時間で、世界遺産として有名なコインブラ大学がある街に辿り着く。コインブラからさらに西へ1時間ほど、海に向けて走ったところに療養所がある。

ロヴィスコ・パイスハンセン病療養所へは、1947年、ポルトガルで初めて、そして唯一のハンセン病専門病院兼療養所として設立された。200万メートルの広大な敷地を持ち、自給自足できる環境が整い、病院以外に住居や教会などの生活に必要な施設が揃っていた。入所者数のピークは1959年から60年頃で、およそ1,000名。何らかの理由で入居できない患者に対しては、療養所から監視員が派遣されたという。ポルトガルでは、1970年代後半から80年頃まで患者は強制隔離が義務付けられていた。またここは、ハンセン病研究センターとしての側面も強く、医学的研究が進んだ施設として知られ、国内初の形成外科手術もここで行われた。1996年に最後の患者が完治し、現在はハンセン病患者の治療は行わず、国内最大のリハビリセンターとして、脳に損傷を負った人などを年間約400人受け入れている。

10年前に訪れた際のスナップ写真を手に、高齢の回復者が暮らす病室を回った。最初に案内された最新の機材を備えた現代的なセンターに比べ、こちらは清潔ではあるが年季の入った建物である。40人いた回復者は現在、男性7名、女性5名の合計12名で、最年少は75歳、最年長は93歳である。前回訪れた際、ヨーロッパで最後に発見された新規患者である男性に出会っていた。畑仕事を生き甲斐にしており、再会を約束して太陽電池で動く腕時計をプレゼントしたのだが、数年前に70歳で亡くなったと聞かされた。ちょうどおやつ時だったため、女性3名、男性3名が食堂で介助を受けながらお茶を飲んでいたが、皆認知症が進み、会話は難しかった。ただ、私の持っていた写真に10年前の自分を見つけたある回復者は嬉しそうに頷いてくれたので、「お互い年を取りましたね。どうぞお元気で暮らしてくださいね」と一生懸命話しかけた。車椅子に座り廊下で窓に向かってずっと外を眺めている男性、見慣れぬ人種の訪問者に不思議そうな顔をする男性。障害の残る手に刻まれた深いしわは、ここが確かにかつてハンセン病療養所だったこと、そしてそれがもうすぐその役目を終えようとしていることを物語っていた。

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10年前の写真を喜んでくれた女性


回復者との交流を終えた後、2つの印象的な施設に案内された。1つは、非常に珍しいV字型の古い教会。教会は普通、司祭が立つ祭壇があり、その手前に会衆が座る椅子が並ぶが、この教会は、Vの字の2辺が交わる部分に祭壇を設け、その前に4〜5列のみベンチが並び、両辺にあたる部分にいる人々がどちらからでも祭壇が見えるようになっている。これは、男女が交わらないように同時にミサに参加できる工夫で、片方の辺は男性用、もう片方は女性用、祭壇近くのベンチは療養所職員用に割り当てられたという。日本と同様、子どもができないように男女の患者を分ける風習があったことがわかる。それでも産まれた子どもはどうなっていたのか。そのヒントが続いて案内された古く朽ち果てた独特のコンクリート造りの平屋建ての建物に隠されていた。50畳ほどあっただろうか、電気は通っておらず、夕方近くだったために中は薄暗い。部屋の天井は高く、木枠にはまったガラス窓で3つの部分に区切られていた。ガラスには、直径3cmほどの穴が無数に空いている。療養所の職員は、この場所はかつて入所していた患者の親とその子どもが対面できる場所だった、子どもはこの近くで育てられ、教会関係の人が自立するまで育て、時々ここで親とガラス越しに対面したのだと説明する。

ハンセン病患者から産まれた子どもは親に育てさせてはならない。これはかつて世界のあちこちで常識であり、かつてポルトガルの植民地だったブラジルや、マレーシアなどの国においても、産まれて数日で両親と生き別れた二世の「元」子どもたちが肉親を探す取り組みをNGOが支援している。ポルトガルでもそのような悲劇があったのか。現地の職員の口からは詳細を聞くことはできなかったが、ちょうど今年の6月にある現地の雑誌に、証言を交えたこのような特集記事があったのを見つけていた。「ガラスで仕切られた壁のこちらとあちらに、木製のベンチが並べられ、何かが始まるのを待ちわびる人々が座っている。ドアが開き、よそ行きの格好をした子どもたちが入ってくる。子どもたちは、ガラスの向こうに自分の親を見つけて指差す。親がそうしたいというそぶりを見つけると、子どもたちを連れてきた大人が子どもを抱きあげ、ガラスの方に近づける。ガラス越しに親子が手を重ね、キスをする。親が、ガラスに空いた穴に向かって、ご飯は食べてる?良い子にしてる?元気なの?と必死に話しかける。子どもが全ての質問にうん、と答える。面会時間が終わって、子どもたちはまた大人に連れられて帰っていく。住む場所は2マイルしか離れていないのに、とても遠く離れているようだった―」現在4、50代になった二世の記憶は、目の前の使われなくなった建物の状況と全く一致していた。ここでどれだけの親子が、胸が張り裂けそうな時間を過ごしていたのだろうかと、雨が降り肌寒くなってきた建物の中でしばし思いを巡らせた。

インド建国の父、マハトマ・ガンジーはかつて、ハンセン病病院の開所式に招待された際それを断り、「この病院が閉鎖される時、扉の鍵を掛けるために出席します」と言ったという逸話が残っている。ガンジーの言葉が、スペインやポルトガルのような先進諸国から順に、現実のものとなりつつある。これは医療関係者をはじめとする多くの人々の努力の結晶であり、歓迎されるべきものである一方、世界各地のハンセン病療養所で起こったことをどのように次の世代に伝えていくかを考えることが急務となっている。多くの人々の証言を集め、建物を保存し、世界に共有していくことに、我々もできる限りの手伝いをしたいと改めて感じた。
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3月25日(水) [2015年03月25日(Wed)]
3月25日(水)

7:35 財団着

9:00 「電話リレーサービス」事業打合せ

14:00 上山信一 慶應義塾大学教授

16:15 羽生次郎 笹川平和財団会長

16:30 三谷泰久 海上保安庁装備技術部部長

17:00 福田峰之 衆議院議員
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「ハンセン病制圧活動記」その24―コロンビア訪問記― [2015年03月25日(Wed)]
「ハンセン病制圧活動記」その24
―コロンビア訪問記―


私のハンセン病制圧活動記は全国13カ所のハンセン病療養所の機関誌に掲載しております。したがって、療養所の事情で今回のように掲載が大幅に遅れることもあります。読者の皆様にはご迷惑をおかけ致しますがご寛恕下さい。

松丘保養園機関誌『甲田の裾』
2015年月号


少し時はさかのぼるが、2013年12月22日から24日まで、コロンビア共和国を初めて訪れた。南米大陸の最北西端に位置し、パナマ、ベネズエラ、ブラジル、ペルー及びエクアドルと国境を接し、北はカリブ海、西は太平洋に面する。人口4,600万人、国土面積は日本の約3倍の114万平方キロメートル、公用語はスペイン語で主な宗教はカトリック、主要産業は言わずと知れたコーヒーをはじめとする農業と、世界の産出量の90%を占めるエメラルドほか、鉱物資源の埋蔵量も豊富である。赤道地帯にあり四季はないが、アンデス山脈が国をまたぎ、気候は高度や地形によって大きく異なり、高湿の密林や熱帯性平野から高地の万年雪まで幅広い。

かつてこの国でもハンセン病患者が強制隔離されていたが、その地域が1963年に一つの自治体として独立し、過去の記憶を失わせることなく発展の道を模索している。アグア・デ・ディオスである。ハンセン病が不治の病であった時代、特に19世紀後半から20世紀初頭にかけて、隔離を目的とした病院や療養所などの施設が日本をはじめ世界各地に作られた。しかし研究が進みハンセン病が治る病になったため、近年これらの施設が転換・閉鎖の傾向にあり、貴重な歴史的建造物が失われようとしている。また、そこで暮らした人々は高齢化が進み、口述記録の保存も最終段階に来ている。ハンセン病の歴史から学び、同じ過ちを二度と繰り返さないようにしなければならない。2012年には笹川記念保健協力財団により、日本の国立ハンセン病資料館で同じ意識を共有するフィリピン、マレーシア、ブラジル、台湾の当事者が集まる国際ワークショップも開催された。アグア・デ・ディオスも回復者やその家族が、様々な方法で歴史保存に取り組んでいた。

首都ボゴタは高度2,600メートル、平均気温16度。涼しく過ごしやすいが、酸素濃度は東京の4分の3程度である。翌朝、ホテルのロビーに一人の回復者男性が私を迎えにきてくれた。ハイメ・モリーナ・ギャルソンさん、67歳。2010年、インドのプネでハンセン病の国際会議で出会って以来である。アグア・デ・ディオスで「コルソハンセン」というハンセン病回復者の尊厳回復、啓発活動、収入向上活動などに取り組むNGOを運営している。しばし再会を喜び合った後、さっそく車に乗り込んで、アグア・デ・ディオス向けて出発した。クリスマスを前にどこか浮かれて行き交う人々の横で、警官が目を光らせ、鉄格子で守られた商店が並んでいるのを見ると、治安の悪さを実感する。海抜400メートルのアグア・デ・ディオスに向けて、霧濃い道を下り続ける。霧が晴れると、そこは一面に牧草地が広がっていた。国土の半分が密林、3分の1が牧草地、残りは農地が占め、人が住む村落・市街地は全体の1%以下であり、総じて緑豊かな国だと言える。ボゴタを発って約2時間半、「アグア・デ・ディオス」の看板が見え、そこから15分ほどでかつてハンセン病患者が隔離されていた施設のある町の中心部に辿り着いた。

コロンビアに現存するハンセン病療養所は二ヶ所。一つはコントラタシオン、一つはここアグア・デ・ディオスである。1864年、各県にハンセン病療養所を作ることを決定する法令が出された。アグア・デ・ディオスもその場所の一つとして選ばれ、1870年頃、最初に約40人の患者達が送り込まれた。当時そこは荒地で人の住むような環境ではなく、患者達は自分達の力で小屋を建てて、何とか生活を始めたという。最初の病院であるサン・ラファエロ病院が建てられたのは、1880年ごろ、入植から10年以上が経ってからだった。アグア・デ・ディオスに入るには首都ボゴタから流れ落ちる急流の川を渡らなければならない。1872年この川に、現在コロンビアの国家遺産になっている「嘆きの橋」が作られた。名前の由来は、ハンセン病患者がここで家族に最後の別れを告げ、アグア・デ・ディオスに向かっていったからである。この橋が出来るまでは、7~8人を籠に乗せて、両岸に吊るされたロープでまるでやっかいものの荷物のように運んでいたというのだから言葉がない。

ハイメさんとこの橋を渡った。橋は老朽化しており、昨年新しく現代的な橋が数十メートル先に完成しているのが望める。足下に流れる水はボゴタからの生活用水が流れており真っ黒で、「コロンビアで一番汚い川ですよ」とハイメさんが苦笑する。1961年、ハンセン病隔離法が廃止されるまでに、約6,000人から7,000人がここを渡ってアグア・デ・ディオスにやってきたと言う。中にはベネズエラなど、他の国から来た人もいるらしい。ひとたびアグア・デ・ディオスに来ると、国民に与えられる身分証明書は剥奪され、ここでしか通用しない身分証が割り当てられた。ハンセン病療養所域内通貨も存在していた。域内通貨はハンセン病患者が触れたお金を他の人に触らせないことと、住民の自由な移動を制限する目的があった。アグア・デ・ディオスが隔離療養所であった時代は、4メートルの鉄条網で囲われ、常に脱走者防止のため見張りが国から派遣されていたという。

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ハイメ氏(中央)、そのご家族と橋を渡る


アグア・デ・ディオスの現在の人口は約13,000人。うち、85%がハンセン病回復者とその家族である。街にハンセン病関係の資料館が4ヶ所あり、1つ目は、ハイメさんが運営する、コルソハンセンの事務所に併設された資料館。隔離時代の写真や当時の資料が展示されていたほか、当時10歳のエマさんという女の子の古く黄ばんだ身分証があったが、彼女は今も元気で、10歳当時の写真の面影をもって私を出迎えてくれた。娘のアナさんはコルソハンセンのスタッフとして働いていた。2つ目の資料館は、作曲家ルイス・カルボ(1882〜1945)の遺品を集めたもの。彼は34歳でハンセン病に罹患し、アグア・デ・ディオスに移り住んで、一心不乱に作曲活動を行ったその姿は「楽譜の労働者」と称されており、コロンビアでは有名な音楽家である。3つ目の資料館は、イタリア人のルイス・バリエラ神父(1875-1923)記念館で、ハンセン病の回復者のシスターが暮らす(現在は7名)、世界にも例を見ない修道院の中にある。バリエラ神父は1894年、19歳でアグア・デ・ディオスに到着。ハンセン病の子ども達の教育のために尽力し、子供の患者たちと共用した金管楽器や、施設を作るために「コロンビア国民につき1セント」の寄付を求めた手紙などが残されていた。4つ目の資料館は、国立療養所が運営する資料館で、コロンビアにおけるハンセン病の歴史を人類学的視点から見学者に伝えることを目的とし、病気に関する正しい知識の提供に取り組んでいる。倉庫には大量の医療カルテが保管されており、最古のものは1903年。カルテには逃亡記録も残されており、労働、罰金、収監の刑があったという。かつての刑務所は残されているが取り壊すべきという話があり、資料館のスタッフは貴重な歴史的施設を残すために努力中とのことであったが、未整理の資料は多く、劣化が進んでおり、貴重な資料は消滅する可能性すらあった。4つのどの資料館も、アグア・デ・ディオスの歴史を失わせず、どのように後世に伝えて行くか、関係者の努力と資金不足の現状に複雑な思いの見学であった。
市内にある療養所では、回復者全員に挨拶をして回った。暮らしているのはみな高齢者で、さながら老人ホームのよう。サン・ビセンテ女性療養所では、入所者が手工芸品を作ったり、テレビを見たり、訪問してくる家族としゃべったりしながら過ごしており、ボヤカ男性療養所では、入所者が集会所でチェスなどのテーブルゲームに興じていた。自分で作ったという詩を情感たっぷり読み上げてくれた人、手作りの可愛らしいキリンの置物をプレゼントしてくれた人、自分で手入れしているという盆栽のような植物を自慢げに披露してくれた人など趣味の世界で充実した日々を過している回復者に出会った。世界のハンセン病患者や回復者、その子孫の中には、素晴らしい才能を持った人が多くいるが、ルイス・カルボや北条民雄のように世に知られている例は稀で、作者不明だったり、倉庫のような場所に眠っていたり、日の目を見ない作品も多い。ロシアのハンセン病病院にも、回復者が描いた素晴らしい絵があった。このような貴重な作品は、捨てられることなく保存されてほしいと願う。

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コルソハンセンの事務所の資料館

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エマさん(身分証を手に)


面会したホルヘ・ベタンクール市長は両親が回復者で、40歳前後と非常に若い。「ハンセン病の歴史は人類の汚点であり、アグア・デ・ディオスが絶望の街から希望の街に変わったことはコロンビアが誇れる歴史であり、是非とも世界に情報発信していってほしい、貴重な財産である関係資料を保存してほしい」とお願いした。

実際には今なお、アグア・デ・ディオス出身というだけで差別されたり、経済発展も他の街より遅れていたりするなど、難しい現実もある。歴史を残し、それを街の発展にどのようにつなげていけるか、希望の街としてのアグア・デ・ディオスがどのように今後存在していくのか、全てはこの街の住民の肩にかかっている。
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3月24日(火) [2015年03月24日(Tue)]
3月24日(火)

7:30 財団着

8:40 広渡英治 日本吟剣詩舞振興会専務理事

9:00 矢田次男 弁護士

10:00 理事会

11:20 遠藤容弘 日本ゲートボール連合専務理事

13:30 西尾雄志 Gakuvo代表

14:00 藤原保幸 伊丹市長

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藤原保幸伊丹市長より、東日本大震災支援金としてご寄付をいただきました


14:30 Hassan Wirajuda インドネシア元外務大臣

15:30 青木晋也 チェンマイ総領事

16:00 日系スカラーシップ報告会

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元気いっぱい、日系スカラーのみなさん


17:30 レセプション

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