『機密情報は誰のものか』 “〜ウィキリークスを追う”
[2012年04月01日(Sun)]
『機密情報は誰のものか』 “〜ウィキリークスを追う”
制作:NHK 2010
放映:2010年12月29日
アメリカ政府によって「国家の敵」とされたのはウィキリークスだが、インターネットでウィキリークスを検索するとウィキペディアが出てくる。そしてクリックすると、「注意:ウィキリークスは、百科事典プロジェクト・ウィキペディアを運営しているウィキメディア財団とは全く関連ありません。Wikipedia:ウィキリークスとウィキペディアは関係ありません もご覧ください。」という注意書きが出てくる。その名前から、混同されることも少なくないようである。
Wikiとは、「情報の集積に便利なウェブ・プログラムの形態。一般のウェブサイトと同様に閲覧できるほか、誰でも手軽に内容を追加・編集でき、編集過程の全バージョンが保存される」ことを意味するが、元々はハワイの現地語で「素早い」という意味を持ち、そこからヒントを得て命名されたのが「Wikipedia ウィキペディア」である。そして現在は、そのソフトウェアやシステムを利用して作成された文書の集まり全体を“wiki”と呼ぶようになっている。関係ないがwikiupといえば、アメリカ先住民が一時しのぎに建てる小屋を指す。
ウィキリークスはオーストラリア出身の元ハッカー、ジュリアン・ポール・アサンジュによって創設された内部告発された情報をインターネット上で公開するという組織である。すでに2009年頃から世界中のメディアで取り上げられ、アサンジュ(またはアサンジと呼ばれる男性)が、スウェーデン女性への暴行容疑でロンドンにいるところを逮捕されたこともすでによく知られたことである。彼は10代の頃からハッカーとして有名であり、NASAのシステムに侵入し機能停止に追い込んだことすらある。ウィキリークスが公表した情報は世界の秩序に大きな波紋と疑問を投げかけた。あまりに知らないことが多すぎるのではないか。その不信感は政府や大企業など社会的に大きな権力を持つ組織や個人に向けられることになり、それを伝えないメディアへの不信へとつながっていく。
番組はNHKが1ヶ月以上かけてアサンジュ氏に取材の申し込み、成功したインタビューをベースにしたものである。アサンジュ氏はウィキリークスを立ち上げた理由の1つとして、「知らないことが多すぎる」ということだった。ハッカーとして知った多くの機密は隠しておいてはいけないことばかりだという。ウィキリークスが公表した外交文書や機密情報の多くが、一般市民には衝撃的なものであった。最大の影響を受けたのはアイスランドという国家そのものだった。金融危機がおこり国内の大手の銀行複数が危険な状態に陥った。これらの銀行に対する政府の支援の内幕をウィキリークスがウェブ上で公開すると、インターネット普及率世界1位のアイスランドでは、大波乱を巻き起こした。政府に対する国民の怒りは過去に類を見ないものと行ってもよい。結果として国の体質そのものが変わろうとしている。一番良い例は、内部告発者を保護する法律が国会に提出され更に世界中どの国にもある「公務員の守秘義務」すらなくそうという動きにつながっている。
さらにウィキリークスは文書だけではなく、映像を公開しはじめた。そして「マニング上等兵」事件が起こったのである。情報分析官であるブラッドレー・マニング上等兵はイラクで次々に起こるアメリカ兵による民間人への誤射誤爆、時には無差別な攻撃などの情報をウィキリークスに提供したのである。この映像がウェブ上で公開され、アメリカ国内ではイラクへの派兵・駐留を今すぐやめるようにデモが起こったほどである。こうして、世界中のできごとに関して、多くの人がこれまで見えなかった部分を見ることになった。こうして提供された情報によって、イラクで殺害されたイギリス“The Guardian”紙のカメラマンと取材助手他現地人数名が殺害され、二人の子供が大けがをした事件に大手メディアがアメリカ政府へ情報公開をせまり、そしてウィキリークスを支援する形になっていった。実際にすでに多くのジャーナリストや報道機関が協力関係にあるといわれる。
このインタビューの後、アサンジュ氏は暴行容疑での逮捕となる。こう考えると、アサンジュ氏とウィキリークスは強大な権力に抵抗するヒーローのようである一方で、彼らの行動は間違っていると考える人々もいる。機密というのは国家や組織の枢機にかかわる極秘ものであり、これが外部に漏れれば多くの生命や財産を失うことになるものを指す。そして、これはすべて公的なもののみを指す。こうしたものが外部に漏れないようにしなければ、自国民の生命の安全が確保できない事につながる。国益・国民益を損なうものであれば、情報の機密性を維持する必要があると考えることができる。そういった意味でも組織が大きければ大きいほど、漏洩した情報によっては多くの人命に危機が迫る場合があることになる。つまり、公表すれば悪用される危険性が常に伴うため、機密に関する管理はどのような組織でも最高レベルの管理体制を維持することに力を注ぐのである。
裏を返せば、「臭いものに蓋」も可能であり、「なかったことにする」事も可能になる。権力の魔力と人間の性なのか、「ヤバイ」ことをすることが必須条件のようになっている。1市民である私の目から見れば「知られて困ることは最初からしなければ良い」と思うのだが、そうは問屋が卸さないというのが「社会的人間」が形成する「人間社会」の1つの習性ということなのだろう。
機密…に限らず、「情報」とは誰のものなのかという問題は常に私たちについてまわる。昨今ソーシャルネットワークサービスの発展と躍進が国家の構造、組織、社会体制すら変えようとしている。身近な話しをすれば、大学生諸君はご両親の収入がどれほどのものなのか知っているだろうか?そして自分の学費は全部含めていくらかかっているのか考えてみたことがあるだろうか。こうした身近な情報にこそ注意を払う必要があるが、目新しく興味を引く情報ばかりが手のひらサイズの端末に放り込まれてそればかりに気をとられてしまう。「理解・認識」されて初めて情報となるという前提条件を理解して、ウィキリークスはその部分の究極を追求したのかどうかということに1つの論点があるといえる。本当に必要な情報とはいったい何であろうかという事が問われる。
私たちは日常的に「スクープ」情報が大好きである。それがスキャンダラスなものであればよりそうであるが、問題はその「質」である。番組を見て、何を提起しようとしているのかをあれこれ考えてみた。詳しくウィキリークスの件に触れれば、公共放送としては「国益」に資する報道活動を行う必要があるという前提で見ると…諸刃の剣となって自らの存在意義に疑問を懐かれることにつながる。一方で世界最大規模のテレビ局として考えると、盛り込まれていた情報とその編集は非常に質が高い。海外で評価の高いドキュメンタリーと充分並べられるレベルのものを作ることができるのもNHKである。どのような情報でもそうなのだが、どのような情報を何の目的で、いつ、どれほどの量、どれほどの質をもって、何を媒体(メディア)として発信するのかで、その効果、影響力は大きく変わってしまうのだ。話題になっている時に、アサンジュ氏がちょうど逮捕された直後に放映したことで人の関心は高かったはずである。情報の質もそれなりに高かったのだが、「いったい何を提起しようとしているのか」が見えにくい部分があった。ウィキリークスの価値を認める人々と認めない人々の意見が採り上げられたのであって、そこからどこへわれわれが向かっていくのかは「自分で考えてください」という「議題を提起する」という所に落ち着いたというところだろうか。
2012年、民主党が政権をとってから、そして東日本大震災から、日本では隠されてきた情報がまるでゆで卵の皮をむくように表に出るようになってきた。一方で一切見えない情報がある点も事実である。沖縄の基地のけん、消費税の件、なぜ地上波デジタル化だったのかその本当の意味など、見えない情報がたくさんある。その真相に迫っているのがウィキリークスの持つ情報の中にあるのかもしれない。国益が国民益であるか否か、機密情報とまでいかなくても情報とは誰のものであろうか?
制作:NHK 2010
放映:2010年12月29日
アメリカ政府によって「国家の敵」とされたのはウィキリークスだが、インターネットでウィキリークスを検索するとウィキペディアが出てくる。そしてクリックすると、「注意:ウィキリークスは、百科事典プロジェクト・ウィキペディアを運営しているウィキメディア財団とは全く関連ありません。Wikipedia:ウィキリークスとウィキペディアは関係ありません もご覧ください。」という注意書きが出てくる。その名前から、混同されることも少なくないようである。
Wikiとは、「情報の集積に便利なウェブ・プログラムの形態。一般のウェブサイトと同様に閲覧できるほか、誰でも手軽に内容を追加・編集でき、編集過程の全バージョンが保存される」ことを意味するが、元々はハワイの現地語で「素早い」という意味を持ち、そこからヒントを得て命名されたのが「Wikipedia ウィキペディア」である。そして現在は、そのソフトウェアやシステムを利用して作成された文書の集まり全体を“wiki”と呼ぶようになっている。関係ないがwikiupといえば、アメリカ先住民が一時しのぎに建てる小屋を指す。
ウィキリークスはオーストラリア出身の元ハッカー、ジュリアン・ポール・アサンジュによって創設された内部告発された情報をインターネット上で公開するという組織である。すでに2009年頃から世界中のメディアで取り上げられ、アサンジュ(またはアサンジと呼ばれる男性)が、スウェーデン女性への暴行容疑でロンドンにいるところを逮捕されたこともすでによく知られたことである。彼は10代の頃からハッカーとして有名であり、NASAのシステムに侵入し機能停止に追い込んだことすらある。ウィキリークスが公表した情報は世界の秩序に大きな波紋と疑問を投げかけた。あまりに知らないことが多すぎるのではないか。その不信感は政府や大企業など社会的に大きな権力を持つ組織や個人に向けられることになり、それを伝えないメディアへの不信へとつながっていく。
番組はNHKが1ヶ月以上かけてアサンジュ氏に取材の申し込み、成功したインタビューをベースにしたものである。アサンジュ氏はウィキリークスを立ち上げた理由の1つとして、「知らないことが多すぎる」ということだった。ハッカーとして知った多くの機密は隠しておいてはいけないことばかりだという。ウィキリークスが公表した外交文書や機密情報の多くが、一般市民には衝撃的なものであった。最大の影響を受けたのはアイスランドという国家そのものだった。金融危機がおこり国内の大手の銀行複数が危険な状態に陥った。これらの銀行に対する政府の支援の内幕をウィキリークスがウェブ上で公開すると、インターネット普及率世界1位のアイスランドでは、大波乱を巻き起こした。政府に対する国民の怒りは過去に類を見ないものと行ってもよい。結果として国の体質そのものが変わろうとしている。一番良い例は、内部告発者を保護する法律が国会に提出され更に世界中どの国にもある「公務員の守秘義務」すらなくそうという動きにつながっている。
さらにウィキリークスは文書だけではなく、映像を公開しはじめた。そして「マニング上等兵」事件が起こったのである。情報分析官であるブラッドレー・マニング上等兵はイラクで次々に起こるアメリカ兵による民間人への誤射誤爆、時には無差別な攻撃などの情報をウィキリークスに提供したのである。この映像がウェブ上で公開され、アメリカ国内ではイラクへの派兵・駐留を今すぐやめるようにデモが起こったほどである。こうして、世界中のできごとに関して、多くの人がこれまで見えなかった部分を見ることになった。こうして提供された情報によって、イラクで殺害されたイギリス“The Guardian”紙のカメラマンと取材助手他現地人数名が殺害され、二人の子供が大けがをした事件に大手メディアがアメリカ政府へ情報公開をせまり、そしてウィキリークスを支援する形になっていった。実際にすでに多くのジャーナリストや報道機関が協力関係にあるといわれる。
このインタビューの後、アサンジュ氏は暴行容疑での逮捕となる。こう考えると、アサンジュ氏とウィキリークスは強大な権力に抵抗するヒーローのようである一方で、彼らの行動は間違っていると考える人々もいる。機密というのは国家や組織の枢機にかかわる極秘ものであり、これが外部に漏れれば多くの生命や財産を失うことになるものを指す。そして、これはすべて公的なもののみを指す。こうしたものが外部に漏れないようにしなければ、自国民の生命の安全が確保できない事につながる。国益・国民益を損なうものであれば、情報の機密性を維持する必要があると考えることができる。そういった意味でも組織が大きければ大きいほど、漏洩した情報によっては多くの人命に危機が迫る場合があることになる。つまり、公表すれば悪用される危険性が常に伴うため、機密に関する管理はどのような組織でも最高レベルの管理体制を維持することに力を注ぐのである。
裏を返せば、「臭いものに蓋」も可能であり、「なかったことにする」事も可能になる。権力の魔力と人間の性なのか、「ヤバイ」ことをすることが必須条件のようになっている。1市民である私の目から見れば「知られて困ることは最初からしなければ良い」と思うのだが、そうは問屋が卸さないというのが「社会的人間」が形成する「人間社会」の1つの習性ということなのだろう。
機密…に限らず、「情報」とは誰のものなのかという問題は常に私たちについてまわる。昨今ソーシャルネットワークサービスの発展と躍進が国家の構造、組織、社会体制すら変えようとしている。身近な話しをすれば、大学生諸君はご両親の収入がどれほどのものなのか知っているだろうか?そして自分の学費は全部含めていくらかかっているのか考えてみたことがあるだろうか。こうした身近な情報にこそ注意を払う必要があるが、目新しく興味を引く情報ばかりが手のひらサイズの端末に放り込まれてそればかりに気をとられてしまう。「理解・認識」されて初めて情報となるという前提条件を理解して、ウィキリークスはその部分の究極を追求したのかどうかということに1つの論点があるといえる。本当に必要な情報とはいったい何であろうかという事が問われる。
私たちは日常的に「スクープ」情報が大好きである。それがスキャンダラスなものであればよりそうであるが、問題はその「質」である。番組を見て、何を提起しようとしているのかをあれこれ考えてみた。詳しくウィキリークスの件に触れれば、公共放送としては「国益」に資する報道活動を行う必要があるという前提で見ると…諸刃の剣となって自らの存在意義に疑問を懐かれることにつながる。一方で世界最大規模のテレビ局として考えると、盛り込まれていた情報とその編集は非常に質が高い。海外で評価の高いドキュメンタリーと充分並べられるレベルのものを作ることができるのもNHKである。どのような情報でもそうなのだが、どのような情報を何の目的で、いつ、どれほどの量、どれほどの質をもって、何を媒体(メディア)として発信するのかで、その効果、影響力は大きく変わってしまうのだ。話題になっている時に、アサンジュ氏がちょうど逮捕された直後に放映したことで人の関心は高かったはずである。情報の質もそれなりに高かったのだが、「いったい何を提起しようとしているのか」が見えにくい部分があった。ウィキリークスの価値を認める人々と認めない人々の意見が採り上げられたのであって、そこからどこへわれわれが向かっていくのかは「自分で考えてください」という「議題を提起する」という所に落ち着いたというところだろうか。
2012年、民主党が政権をとってから、そして東日本大震災から、日本では隠されてきた情報がまるでゆで卵の皮をむくように表に出るようになってきた。一方で一切見えない情報がある点も事実である。沖縄の基地のけん、消費税の件、なぜ地上波デジタル化だったのかその本当の意味など、見えない情報がたくさんある。その真相に迫っているのがウィキリークスの持つ情報の中にあるのかもしれない。国益が国民益であるか否か、機密情報とまでいかなくても情報とは誰のものであろうか?



