作法には疎いのですが抹茶をよくいただきます。
お茶を飲みながらの雑談で、面白い意見が飛び交いました。
茶の湯については、礼儀作法などがカッチリしすぎて息が詰まるという意見があります。もっと自由に美味しく飲みたいと・・・。
これは美についても同じではないでしょうか。
茶碗の歪み
ミロのヴィーナスの足りなさ
仏像の色の剥げ具合
眼に見える完璧さより、少しズレた物を美しく感じます。
狙って仕上げたのではなく自然とそうなったものが落ち着くのでしょうか。
そう考えるとズレ具合を知るためにカッチリで囲い、真っ直ぐの線を教えるのが礼儀作法なのかもしれません。
たしかに、好き勝手に何かをして一流のものになるなら天才です。
この基準を武術に当てはめてみると・・・
@茶の振る舞いは剣の一閃
茶道におけるおもてなしの中で、作法から外れた(良い意味で)振る舞いは、分かる人だけが分かるものなのかもしれません。
型から外れた斬撃に対処できるか試されているのに似ているでしょうか。
A型が基準
型稽古自体を前出のカッチリ、真っ直ぐと捉えれば、手に入れたいものはその先にあるはずです。すると、型が即「強さ」「実戦」に結びつかないのも分かってきます。
型によって作られた身体は、型の動作を離れても自然と動き出すはずです。
この意見を読んだ武友の意見を紹介します。
揺らがない足場があるからこそ大暴れが出来る。
「型から離れ型に戻り」を繰り返し「型を忘れて型で動く」ようになりたいベーシックを身につけた後に個性は滲み出すもので、型が万能、作法のみが大事となれば形骸化、なのかもしれません。
茶も美も武にしても、その目が肥え身体が反応するようになれば、達者、達人に近づけるのではないでしょうか。