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コモンビートの中心から代表が叫ぶ!りじちょーブログ更新中!

特別なことじゃないダイバーシティ&インクルージョンの日常を切り取るNPO法人コモンビートりじちょー安達亮のブログです。平日は毎日更新しています!


平成最後のりじちょーブログ [2019年04月26日(Fri)]
ただ使いたいだけでタイトルつけたでしょ?

はい、そうです(笑)。

平日に書いているブログなので、今日が平成最後となるわけです。だからといって、何が変わるかというと、何も変わらないわけで。

平成から令和へと時代は変わるわけで、何やら新しいことが始まる予感がするとかしないとか。僕としては、時代は日々の連続だから、あんまし元号が変わるのはピンと来なかったりするし、所詮、誰かが決めたもの。日々の連続が、週になり月になり年になり時代になる。ただそれだけのこと。

であれば、自分の生きる時代は、自分で作ればいいし、日々を大切に生きることが、自分に何よりも課せられていることなのだと思う。

新しい時代の始まり。呼び方や意味を問うよりも、どう生きるかの中身の方がよっぽど問われてる。

では、「平成最後の」りじちょーブログでした!「令和最初の」りじちょーブログも楽しみにお待ちくださいー!
共通体験でつながるコミュニティ [2019年04月25日(Thu)]
コモンビートが上演しているミュージカル作品はひとつだけ。だけど、作品を演じるキャストは毎回違う。この設定がどうやら良い効果を生んでいるようだ。

15年の活動の中で、約6000人のキャストがステージに上がってきたわけだが、同じ作品を演じているからこそ、みんな同じミュージカルソングを歌え、同じダンスナンバーを踊れる。

そういう意味では、15年前のキャストも、直近のキャストもミュージカルを「共通の言語」にしてすぐ仲良くなれる。すぐ繋がっていく。

従来の「コミュニティ」って地域において、地縁によって結びついていることが多いけど、コモンビートの場合は、まったく地域や土地に紐付かず、「ミュージカルに出たことがある」という共通体験によって紐付いていく。

これが今の時代に求められているコミュニティのひとつの形ではないだろうか。

東日本大地震後に、復興支援の一環で、石巻市でもミュージカルプログラムを実施した。これまでに3回実施して、地元市民たちが数多く参加して、新しいコミュニティが生まれている。

キャスト参加者から寄せられた言葉で印象に残っている話がある。

津波で家や物が流されたと同時に、コミュニティも流された。その後、引っ越したり仮設住宅に住んだりして新生活が始まり、新しいコミュニティも生まれたが、さらに引っ越したり、仮設住宅がなくなれば、また新しいコミュニティをつくらなきゃならない。それは大変なこと。そういう意味では、コモンビートのミュージカルによってもたらされるコミュニティは、共通体験という形でずっと心に残るからなくなったりしない。それはとてもありがたいことだ」

コモンビートが目指すビジョンにはコミュニティづくりは明文化されていないが、活動が生み出すものとして「共通体験のコミュニティ」があり、これが実はいろんなセーフティネットになっているんじゃないかなと思う。人々つながりあって、顔の見える関係であればあるほど、何かあった時に思い合えるはずだ。

これはSNSなどのインターネット空間で形成されるような、会ったことのない(匿名性のある)人たちとのコミュニティとも違って、顔の見える関係でリアルな感動体験で人と人が結ばれているコミュニティは、健全で強いと思う。

多様な価値観を認め合える社会づくりを掲げながらも、自分たちが生み出している付加価値にもしっかりと着目して、それも含めて社会にどんどん良い力を還元できるように頑張っていきたい。
独り占めしない [2019年04月24日(Wed)]
共有するのって大事だなーって思う。お金も時間も知識も経験も感動も「独り占めしない」て感覚でとらえられたらいいなと思う。
自分の人生は一回しかないからこそ、みんなからのおすそ分けをいただいて、自分の人生も誰かにおすそ分けできるなら、どんどん共有してお互いに豊かになってたら良いと思う。

溜め込むよりも、オープンにして、共有してったほうが、きっと巡りがよくなって、いいループが生まれるはずだし。

自分の考えを共有することも、相手にとっては価値が高いことだったりする。自分を表現することって実は「共有」なのだし、そうやって意見や考えを重ねていくことも、独り占めせずに相手と一緒に生きていくために、必要なことだと思う。

こうやってブログを毎日書いているのも、自分の考えてることが、誰かの人生を豊かにするきっかけになるかもしれないと、頭の片隅で思っているから。自分の頭の中だけで独り占めしないで、みんなと共有してみているわけだ。

インターネットやSNSによって、この辺りは容易に共有できるようになってきていると思うので、ぜひいろんな考えを混ぜあって、いければいいなと思う。
自分のために使われる時間 [2019年04月23日(Tue)]
あるワークショップで、プレゼンをした人に対してお手紙(感想)を書く時間がある。

自分が行ったプレゼンに対して、メンバーが自分に宛てて手紙を書いてくれているその時間は、自分のために時間を使ってくれていることなわけだ。

自分に対して誰かが時間を使ってくれるって、とっても贅沢なことだ。日々の生活の中で、時間にしてみたらそんな時間あまり訪れないのではないのでしょうか。

だからこそ、なんだかその手紙を書いてもらってる時間は、小っ恥ずかしく、何をして待ってたら良いかわからなくなる(笑)。

こういう時間が世の中にはもっと増えるといいなと思う。

誰かのために使う時間。

自分の時間は何に使われているのか、もっと問いかけて、自分のためにまず時間を使って、そしてさらに周りにも目を向けていけると、いいんだろうな。人生は有限で、時間は命なんだからこそ、もっとじっくり「時間」を見つめ直したい。そして、自分のために時間を使ってくれることに対して感謝を忘れないようにしたい。
同じと違うを混ぜるんじゃない。違うと違うを混ぜるんだ。 [2019年04月22日(Mon)]
先日、視覚障がいのある友人と話す機会があった。目が見えないという「違い」が浮き彫りになる子ども時代から、目が見えないことが気にならないくらい変な(多様な)友だちができた大学時代を経て、気持ち的に変化があったという。

多様な中にいるほうが、自分の違いが目立たずに、普通に扱ってもらえたことが良かったとのこと。だから、世の中がもっと混ざって、多様になってくれたら良いと願っていた。

これにはハッとした。

気づけば自分は、周りと「違わない」というマジョリティの一部になっていた。「違う」というマイノリティのために混ざったほうが良いとか、響きあった方が良いとか言っていた気がする。

そうじゃない。

本来必要とされていることは、みんな「違ってる」ことを前提に、「違い」と「違い」を混ぜることで、「違わない」と「違う」を混ぜることをやろうとしているんじゃない。

つまり、ダイバーシティ&インクルージョンは、マジョリティとマイノリティを混ぜることじゃない。「違いそのもの同士を混ぜること」だ。

そんな本質を何気ない会話の中で教えてくれた仲間に感謝だ。
「当事者」ver.2.0 [2019年04月19日(Fri)]
昨日、green drinks shibuya というイベントに参加してきた。テーマは「ダイバーシティ&インクルージョンの現在地」というもの。

障がいや病気、ジェンダーやLGBTQなどなどのテーマをもとに活動する団体や企業からプレゼンがありました。

その中で何度も登場したのが「当事者」という言葉。この言葉すごく難しくないですか?

ダイバーシティ&インクルージョンって、違いを認めて活かし合うことを言うから、垣根を超えて混ざり合っていくようなイメージ。

「当事者」かそうでないかって、そこで自分ごとと他人ごとを分けてしまう感じがして、いつもモヤっとする。そりゃ「当事者」は存在するんだけど、そこを超えていく必要性からするとなんか違和感。障がい当事者とかLGBTQ当事者って言えば対象はわかりやすいけど、そうじゃない人にも「当事者」はいるはずなのに、なんか限定的になりすぎるというか。

この社会に生きる、今の時代に生きる自分としての「当事者」感があるし、そういう意味の「当事者」感で繋がっていかないと、インクルージョンまでいけないんじゃないかなと。

みんな違いがあるけど、それを前提としてどんな社会をつくっていく「当事者」感がもっともっと出てくるといいよね。当事者バージョン2.0というか。

イベントでは「多様性は地続き」という言葉が印象的だった。自分にできることは限られてるけど、常に自分ごとに「違い」をとらえられたときに、少しずつ社会がよくなるんじゃないかな。
価値の再認識 [2019年04月18日(Thu)]
ノートルダム大聖堂が火災で焼失したニュースがよく流れている。世界遺産だし、もともと価値高いものだったけど、そのニュースに世界中から惜しむ声が聞こえてくる。再建に向けて寄付金もどんどん集まっているそうだ。

既に世界遺産として認められているから、価値は織り込み済みだけど、無くなって始めてその価値を改めて理解することもあるはずだ。自分自身も焼失前のノートルダム大聖堂を観ておけばよかったと思う反面、変な話だが、消失後のノートルダム大聖堂の姿も観てみたい。そういう意味ではその価値はあまり変わらないのかもしれない。むしろ今回のことがあって、価値は高まるだろう。

組織にとっての「ビジョンやミッション」もなんか似ているなと思った。存在することが当たり前な状況から、「もしなかったら」「もしなくなったら」と考えてみる。なくても活動は続いていくだろうし、また新しいビジョンやミッションが再設置されるだろう。

価値は目に見えるものではなく、きっと人の心に宿っているもの。その価値は組織が保っているわけではなく、周りの人たちが保っているのだ。自分たちの組織がなくなっても続く、ビジョンやミッションという価値に、本当の価値を見出して活動していきたい。
ずっと続けて書いていると [2019年04月17日(Wed)]
ブログを続けて書いていると、気づけば書くのが重くなり、うまく書けなくなる。

最初は「誰にも読まれてなくてもいいや」って始めたから等身大に自分の言葉で書けていた。

それがなんだか今は人の反応を気にしたり、いい内容にしようと思ってしまったりで、力が入ってしまって自分の言葉で書けない。

野球でいう「スランプ」のように、打席には立てるけど、ボールも打てるけど、ヒットにならない。

「続けなきゃ」と「認められたい」が同居し始めて、ちょっと面倒くさい。

気の抜けた、普段の自分で、普通の人として、発信し続けたい。

いったん気持ちリセットして、また新たに始めよう。

未知との遭遇を歓迎しよう [2019年04月16日(Tue)]
人生で出会う人の数が多ければ多いほど、「違い」と出会った数が多いということだ。

自分の力で出会える人の数って限界がある。日々の生活の中での新しい人との出会いって、実はそんなにあるもんじゃない。

毎日いろんな人と、いろんな違いと「すれ違っている」けど、それだけじゃ関係性が生まれるわけじゃない。ちゃんとしゃべって、ちゃんとつながりあって始めて、出会えたことになる。

コモンビートのミュージカルプログラムは、多くの人との出会いを生み、対話をする機会と一緒にひとつの目標に向かう経験を生み出す。自分の価値観で生きていたら、絶対につながらないような人たちと、出会ってしまう。そして、深いつながりが生まれていく。

違いと出会った経験が多ければ多いほど、新しい違いと出会った時に対応できる幅が広くなるはずだ。まだ対応できないと思ったら、次回に回せばよい。まだ自分が未熟なだけなんだから。

未知との遭遇を歓迎しながら、少しずつ少しずつ幅を広げていく。諦めずに一歩一歩。
「違いがあること」を前提にする [2019年04月15日(Mon)]
時代は移り変わる。それぞれの時代を生きる人たちにそれぞれの価値観があるわけで、子どもから大人になったら世の中は変化を遂げているわけだ。

人格形成された時の時代と、その後の時代には違いがあるし、自分よりも年上の人と年下の人でも違う。でも共存して生きている。世代だけじゃなく、いろんな人と一緒に生きている。

そこに「違いがある」という前提はあるのだろうか。

人間誰しも違いがあるはずだけど、時に「相手も同じ考えだろう」とか「普通こうだから」とか「常識的にはこうだよね」とか、「同じである」ことを前提にしてしまっていなかろうか。

相手のことをわかろうとする、理解しようとする努力はし続けなくてはいけないが、自分の心の中や頭の中を100パーセント完全にわかってもらうことは無理だ。というかあり得ない。

必ずギャップがあるんだということ、必ず違いがあるんだという「前提」を忘れないようにしないと、それをカバーする配慮や工夫、気遣いが生まれてこない。

「違い」を前提とすること。
「違い」から考えること。
「違い」を楽しむこと。

今の世の中にとても必要な力だと思う。
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