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東日本大震災から5カ月 B [2011年08月23日(Tue)]
8/20、玉テレホールで行われた『被災地根浜からの報告』に行った。

久しぶりに高渕眞吾さんとお話しした。
9年前の台風被害のとき、一緒に被災された方の支援活動をした。
高渕さんは今回も震災の直後から、毎週、支援物資を送り続けておられる。

根浜で、漁業と民宿をされている前川さん夫妻。
「立っていられない地震。地震がきたら津波がくると頭に入っていた。
防潮堤の水門を閉め、3隻の船を沖に出し、15分で高台に避難した。
津波情報は、最初、実際よりとても低いという情報だった。
きちんとした情報をどうしたら流せるのか。」
「災害は、こないことはない、くるんです。
どこに逃げるのか、日頃から考えておいて。生きていくために。
川沿いに波はくる。どこに逃げるか、考えておく。」
前川さんは、今回の震災で、娘さんを亡くされた。
「津波てんでんこ、という言葉がある。
自分の命を自分で守る。
みんなを守るとは、自分を守ること。
今回、動けないお年寄りとその家の人が3組亡くなった。
避難訓練はしていたが、そういう場合どうするかが考えられていなかった。
根浜では、小学校は校長先生の指示で屋上に逃げていたが、中学生がそこでは危ないから高台に逃げた方がいいと考えて、小学生を連れて逃げた。
その後、小学校の屋上には波が来た。
中学生と先生が考えて行動したことで、子どもたちは、ひとりも犠牲にならなかった。」

石本さん夫妻。
「地震のとき、すぐに漁師さんたちが、エンジンをフル回転させて船を沖に出すのを見て、大変だと思った。」
「(まち中にいた奥さんは)近くのパトカー無線で津波を知った。
どうしていいかわからず、車で海の近くにある自宅に帰ろうとした。
すれ違う車の中に、驚いた様子で激しくクラクションを鳴らして危険を知らせてくれる人がいたので、自分は、危険な海に向かおうとしているのだと気がついた。
非常時に、とっさに人は家に帰ろうと考える。」

旅館のお女将さんと娘さん、岩崎さん親子。
「津波訓練を年3回していたので、お客さんと従業員は一旦、無事避難した。
83才のお母さんは、ひとりでは、2階から降りられなかった。
地震から15分くらいで津波がくると認識していた。
のんびりしている近所の人を促して、建物や電柱など倒壊しそうなもののない高台に避難した。
無事、高台に避難した後、いろいろな事情があって、自宅に戻ってしまった従業員3人が犠牲になった。
絶対に帰ってはいけないと言っておけば。」

高渕さん
「こちらでも9年前、台風と高潮で被害が出たとき、危険を伝える車のスピーカーの音量を、夜間の迷惑を考えて下げてしまった。
日頃から、災害時のことを考えておかなければ。」

猪木さん
「さっき根浜の方と話していて聞いたが、ハザードマップを過信してはいけない。
気象庁発表の3倍くらいだと考えておくべきだそうだ。」

根浜のみなさん
「支援物資を送っていただいたことに大変感謝している。
送っていただいた物資を持って、仮説住宅にバラバラになった地域住民を訪ねて渡していったことで、地域住民をつなぐことができた。
ありがたかった。」

「根浜に今、必要なのは、人が来て、休める場所。
話し合える場所。愚痴を言える場所。
そんな場所を、どこか高台につくりたいと思っている。」

「玉島からの支援物資とお手紙に励まされ、なんとか気持ちを立て直して、今までやってこれた。
いつまでも頼ってるだけでなく、自分の力で立ち上がろうと思う。
みんな、仮設住宅で、息をひそめるように暮らしている。
そんなときに、親戚でもない方が、遠い地で自分たちを思ってくれているということが、力になる。
わがままを言わせてもらえるなら、これからも思いを寄せてもらえたら、風のように、空のように。」

玉島の根浜復興支援実行委員会では、高橋秀先生デザインのTシャツをつくり、販売の一部を、根浜に直接届けることにしている。
東日本大震災から5カ月 A [2011年08月23日(Tue)]
東日本大震災により被災された方々が暮らす避難所の様子をテレビで知った。

水も食料も十分になく、トイレは水が流れず、衛生状態が心配だと医師が話していた。
うちには、2才になる孫がいるので、小さな子どもを抱えた親の苦労や妊婦さんたちのことが気がかりだった。

そんなとき、ツイッターで、母子疎開支援ネットワーク「hahako」http://hinanshien.blog.shinobi.jp/という活動があることを知り、
家族と話し避難を受け入れることにし、3月末に情報を掲載した。


○母子、妊婦さんのホームステイ受け入れます

街なかの便利なところではありませんが、
空いている部屋を使っていただくことができます。
水周りは母屋のわたしたちと共用ですが、
建て増し部分の1階8畳、2階6畳、8畳が空いています。

車で10分くらいのところに、花田助産院というベテランの助産師さんがおられるので、通常のお産は安心だと思います。
娘が2年前にお産したので、お産と新生児に必要なものは、いろいろあります。

家族は、わたしたち夫婦と娘と孫(2才)と犬と猫です。
夫は、介護の仕事で、交代勤務です。
わたしは、NPOの仕事なので、出たり居たりです。
娘は日中仕事で、孫は保育園です。
暮らし方は、割と自由な感じで、ちょっとエコ志向です。

車があれば便利ですが、なくてもわたしたちでできる部分はサポートします。

落ち着かれるまで、居ていただいて大丈夫です。
ゆっくりしてください。


親戚でも友人でもない、会ったこともない方としばらく一緒に暮らすこと、
初めてのことなので、不安もあったけど、思い切って一歩踏み出してみた。

しばらくして、知り合いから避難受け入れ希望の連絡があったが、
猫アレルギーということで、うちには猫がいるので、見合わせられることになった。

その後、ほかに連絡はなく、あまり希望はないのかなぁと思っていた6月末、
「3歳と1歳の子どもがいます。 少しでも子ども達の被曝量を減らしたいと思い、母子疎開先を探していたら、こちらを拝見させていただきました。福島や宮城などとは違い罹災証明などはありませんが、受け入れてもらうことは出来ますか。 期間は1ヶ月を予定してます。 よろしくお願いします。」というメールが来た。

日々の生活に不自由されている方を想定していたので、普通に生活されている関東の方の避難依頼に最初少し驚いたが、関東の放射線量などの情報は知っていたので、受け入れをすることにした。

7月初めから3週間のホームステイだった。
子どもたちはすぐに仲良くなり、いつも一緒に遊び、おもちゃを取り合い、けんかし、一緒にご飯を食べて、泣いて、笑って、にぎやかな日々だった。
お母さんはマイペースで、同じくマイペースなわたしと、うまく同居した。

彼女は、地元の市民による学習会に参加して、放射能の影響について知り、
日々の暮らしで子どもたちの被曝に気をつけるようになったそうだ。
けれども、そのような知識をもっている人たちは、まわりにいなくて、
少しでも放射能の心配について話すと、神経質だと受け取られるので、ほとんど話ができないと言っていた。

彼女が、週刊誌の放射能の記事を読んでいたとき、話してくれた。
「子どもたちに健康被害の出ているチェルノブイリのことを知って、とても心配している。子どもが大好きだけど、3人目を授かるのはあきらめようかと思う。」って。

一緒に暮らしてみて、彼女がていねいに子育てを楽しんでいることに感心していた。
子どもが大好きなのも、よくわかった。
公園で遊んでいると、知らない子どもが彼女の手を引っ張って遊んでいて、いつの間にか子どもの数が増えていて、彼女がニコニコしていた。


彼女の暮らす地域は、放射能防御プロジェクトの発表によると、
サンプリングの土の放射線量が、チェルノブイリの第4区分、汚染区域にあたる。
東日本大震災から5カ月 @ [2011年08月23日(Tue)]
3月11日の東日本大震災からもうすぐ半年、久しぶりにブログを書いてみようと思った。

今年1月、わたしは、思い切って初めて仙台を訪ねた。
市民活動を通して出会った大事なひと加藤哲夫さんが、中野民夫さんとワークショップについて対談される場に参加するために。

仙台の街は、大きな都市であり、ユニークな活動を育んでいて、とても興味深かった。
ブックカフェ「火星の庭」、
イタリアの薬物依存更生施設でつくられているワインがさりげなく出てくるイタリアンレストラン「IL CUORE」、
相手にあったバックナンバーをすすめてくれて、ミニコミ誌も自分でつくっている「ビッグイシュー」販売員の鈴木太さん、
様々な切り口で、市民活動が地域の公共の担い手として活躍することを応援している「せんだい・みやぎNPOセンター」の現場、
などなど。

そして、その「せんだい・みやぎNPOセンター」から、当時、事務局長(現代表理事)の紅邑晶子さんを、講師として倉敷にお招きする日の前日に起こったのが、3月11日の東日本大震災だった。

報道される地震と津波に襲われた東北の惨状、息をつめてテレビ画面を見つめた。
動揺する気持ちを抑え込んで、予定事業の変更についての事務連絡、調整に追われた。

3月12日開催予定であった「倉敷NPOフォーラム」は、急きょ、「NPO座談会」となった。
前日夜になって、内容の変更と参加のお願いを連絡したにも関わらず、たくさんのNPO関係者に集まっていただき、市民活動がもっと活躍するためのしくみについて、つっこんだ話し合いができた。
参加された方から、「この内容は、NPOフォーラムそのものだ」という感想も聞かれた。

その後、しばらくは、活動に追われた。

3月を乗り切って、4月になり、ようやく一息ついた頃、ふとまわりを見まわすと、いつもと変わらないのどかな風景、人々の営み。被災地とあまりに違う状況が同時に存在している社会に、落ち着かない気持ち、夢の中にいるような、どこか虚しさを感じた。

そして、震災と同時に起こった東京電力福島第一原子力発電所の事故。

震災翌日には、市民活動関係者から、「メルトダウン」という言葉が耳に入ってきた。
テレビ報道は津波の被害についての情報がほとんどで、東電や政府の原発事故についての記者会見は、手短かに伝えられるだけだった。

何が起きているのかわからない危機感を抱えて、わたしは、ツイッターを情報収集の中心手段とした。
地震直後から、ツイッター、ユーチューブなどソーシャルメディアを使って、NPO関係者、ジャーナリスト、研究者など各分野の専門家が、東電や政府とは違う情報を活発に発信し、まだ一部ではあるが、多くの市民がそこからいろいろなことを知っていった。

東電と政府の発表は、当初、深刻な状況ではないと伝えていたが、一部のジャーナリストや研究者が事実を追求していき、しばらくたってから、徐々に、深刻さを増していった。
その間、避けられたはずなのに、事実を伝えられず被曝をさせられた住民。

政府まかせでは、子どもたちを放射能の被曝から守れないと考えた市民による活動が、今、各地で生まれている。

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