CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
中嶋れん(日本共産党 宮城県議会議員)のブログ
宮城県議会 環境生活農林水産委員。
      障がい児・者福祉調査特別委員会 副委員長。
      「脱原発をめざす宮城県議の会」副会長。
シエルの会(自閉症児の親の会)会長。
原発問題住民運動宮城県連絡センター 世話人。
東日本大震災復旧・復興支援みやぎ県民センター事務局次長。
青森県むつ市大畑町生まれ。青森高校、東北大学理学部物理学科卒。
« 「いじめ・不登校等調査特別委員会」が専門家からご意見を伺いました | Main | 宮城県が震災孤独死の定義を見直し―日本共産党の質問が動かしました »
プロフィール

中嶋廉のブログさんの画像
中嶋廉のブログ
プロフィール
ブログ
カテゴリアーカイブ
リンク集
最新コメント
QRコード
日本共産党は、民間企業に何を期待し、何を約束するか(不破哲三氏の講演記録)[2016年04月14日(Thu)]
日本共産党は、民間企業に何を期待し、何を約束するか
不破 哲三
雑誌『前衛』(1999年2月号)より
 
 1998年12月4日、高井伸夫法律事務所主催の年末講演会で日本共産党の不破哲三委員長(当時)が、上記テーマの講演をおこないました。高井事務所は、企業の顧問弁護士として人事労務の代理業務をおこなっている事務所です。講演会には、東証一部上場の企業経営者や人事労務担当者など四百人近くが参加し、熱心にメモをとる姿やしきりにうなずく姿がめだちました。
 不破委員長の講演終了後には、「現状分析には、ほぼ同感だ」「怖いものみたさできたが、民主的改革を国民多数の意思で、という話は初めて聞いた」「従来いだいていた共産党のイメージとは違うと思った」などの感想がだされました。
 以下は、不破委員長の講演の全文です(本誌掲載にあたり、不破委員長が、若干の整理・加筆をおこないました)。
________________________________________
一 演題のいわれ
 みなさん、こんにちは。
 いま、私がこの講師になって驚かれたというご紹介がありましたが、私もたいへん驚いております。(笑い)
 ひとつは、頼まれたのがおととしの十二月なんですね。この会合はいつもそうなのかもしれませんが、だいたい来年の話ではなく再来年の話を、しかも十二月の話を二年前に持ってこられたというのは、私としても初めてのことでありまして(笑い)、もちろんそんな先まで日程が詰まってはいませんから、一も二もなくお引き受けしたのです。これがひとつの驚きです。
 それから、二カ月ほど前でしたか、高井さんがお見えになって、演題はこう決めたといわれるんです。何かと聞きましたら、「日本共産党は、民間企業に何を期待し、何を約束するか」と(笑い)。これも私、こういう話はやったことがありませんから、おもしろいテーマだと思い、そのままお引き受けしました。このふたつが、今日の会合にうかがう前に私が驚いたことであります。
 なかなか大きな問題で、どういう角度からお話ししたらいいかを考えたんですが、私たちが、日本の社会、日本の政治、日本の経済というものを、どのように改革したいと思っているのか、そのことをお話しし、私たちの考えを聞いていただいて、そこから期待とかお約束とかいうものも――あとでそれなりにいいますけれども――汲み取っていただければと考えまして、少しそういう大づかみな話をさせていただきたいと思います。

二 私たちの日本社会・改革論
 私たちが、社会や政治、経済の改革を考えるとき、そこには大きくいって特徴がふたつあります。
 ひとつは、世の中というものは、いっぺんでがらっと変わるものではなくて、段階を追うように一歩一歩変わってゆくものだということです。
 どんな改革でも、国民のみなさんの間でその条件が熟して、この改革が必要だということになって、それで初めて前へすすむことができます。
 そのように考えている政党ですから、私たちは、社会の「段階的改革論」者といいましょうか、「段階的な発展論」者といいましょうか、そういう立場で、戦前から筋をとおしてきました。
 もうひとつは、その段階――階段にたとえてみますと、その一段一段ですが、そこを上がるのは誰かというと、私たち日本共産党が勝手に上がるわけではないんですね。
 「国民が主人公」という主権在民の国ですから、この階段を上がるのがいいのか悪いのかということについて、われわれは提案をいたしますが、実際に階段をその意思で上がるのは国民のみなさんです。どんな場合でも、国の主権者であり、主人公である国民のみなさんの多数の意思で階段を上がる。かりに上がったら失敗だったという場合も、下りるときには多数の意思で下りる。
 どんな改革も国民多数の意思でやるということ、社会科学の用語で「革命」という言葉を使いますと、これは、「多数者革命」ということになります。
 このふたつの点、階段を上がるように社会を一段一段変えてゆくということと、その階段のどんな一段も、国民の多数の合意でやるということ。これが、私たちのいわば信条といいましょうか、私たちの日本改革論のいちばんの基本なんですね。

三 いま目の前にあるのはどんな階段か
 では、いま日本共産党は、日本の社会はどんな階段を目の前にしていると考えているのかというと、これは社会主義の階段ではないのです。
 私たち、このごろよく「ソフト」といわれますが、そういわれるようになってから「ソフト」な話をしはじめたわけではありません(笑い)。実は、三十数年前に、党の綱領というものを決めるとき、ずいぶん議論がありました。「すぐ社会主義への改革だ」という意見もあったんですが、そうではないんだということで決めたのが、いまの綱領です。その改革の中身を私たちは「資本主義の枠内での民主的な改革」と呼び、この言葉でいまの日本社会が直面している改革というものをとらえています。
 実をいいますと、世界に共産党という名前の党はずいぶんあって、ヨーロッパの資本主義国にも、他の資本主義国にも、大きい党、小さい党、いろいろあるんですが、当面の改革の問題を、「資本主義の枠内の民主的な改革」として、そこまできちんと性格づけてとらえている党は、わりあい少ないんです。
 ソ連があって、その影響が強かったころは、「改革」といえば、まず何をおいても社会主義だ、そこまでゆかなくても国有化だ、という考えが各国でかなり流行(はやり)ました。しかし私たちは、そのなかでも、三十数年前から、この立場でずっと通してきました。
 ですから、外国のいろいろな党と交流しますと、ある時期までは私たちの自主独立の立場に非常に興味があり、ソ連とも中国とも論争したりたたかったりしてきた党ということで、私たちのところに話を聞きにきたものですが、かなり交流がすすみますと、こんどは、「資本主義の枠内での民主的な改革」とは、いったい何をやろうとしているんだ、というところに、興味・関心が向けられてきました。ヨーロッパの人たち、アメリカの人たち、そのなかには共産党の人もいれば、そうでない人もいるのですが、たいへん強い関心でした。
 私たちは、そうした考え方に立っているということを、まずあらかじめひとつの大前提として、見ておいていただきたいと思うんです。

四 「資本主義の枠内の民主的改革」とは
  安保・外交――基地国家から非同盟・中立・独立の日本へ

 つぎに、その「資本主義の枠内の民主的な改革」とは何なのかということですが、私ははっきりいって、いまの日本は、世界の資本主義国のなかでも、ゆがんでいる度合い、いびつの度合いが相当ひどいと思っています。政治・外交・安保でも、あるいは国内の内政・経済でも、いびつの度合いがひどい。このひどいゆがみを直す――一口でいえば、「資本主義の枠内の民主的改革」とは、そういうことだと考えていただいて結構です。
 今日は、各分野の経営者をはじめ経済界のみなさんの集まりですから、重点は経済ということにして、外交・安保の話は簡略にしましょう。
 いま世界にアメリカと軍事同盟をむすんでいる国はずいぶんあり、アメリカの軍隊がいる国もあります。しかし、その国を守る任務をもたない、もっぱら海外遠征が任務だという軍隊を大量において、そこを足場にして外へ出ることが基地の役目だという国は、世界に日本しかないのです。
 海兵隊というのは、海外出撃専門の地上部隊で、アメリカには三個師団ありますが、海外にいるのは沖縄の第三海兵師団だけです。あとは全部本国です。つまり、これは、海外出撃専門の部隊だから、普通なら他の国にはおけないものなんです。しかし、日本は、第二次大戦でアメリカに負けて占領されたということで、その海兵隊がずっとおかれています。
 さらに航空母艦を中心にした機動部隊があります。航空母艦ですから、もっぱら外国に出てゆき、いざというときには外国を攻撃する部隊です。アメリカの機動部隊で、アメリカ以外の国に「母港」をもっているのは、横須賀を「母港」とする第七艦隊だけです。いま米海軍には、たしか十二隻の空母(現役)がありますが、大西洋で活動している部隊でも、地中海で活動している部隊でも、仕事が終われば「母港」がある本国に帰る。アメリカの第七艦隊に属する航空母艦だけが、ひと仕事したら「母港」の横須賀に帰って家族に会ったり、必要な修理や補給をしてまた出かけてゆく。こうした空母機動部隊にも、「母港」を提供する国は、日本のほかにはないんですね。
 アメリカのペンタゴン(国防総省)の文書を見ても、日本にいる在日米軍部隊は「日本防衛の任務」をもっていない。日本を足場に海外に出撃することが主任務なんです。
 ですから、アメリカが戦争状態に入ったら、日本はいやおうなしにそのアメリカと運命共同体になる。そのために、ふだんから、日本の外交もゆがみ、沖縄などがひどい目にあっている――これが日本の現状です。
 日本ももう戦後五十年以上たっているのだから、そろそろ世間なみに、外国の基地のない本当の主権国家――われわれは非同盟・中立・独立といいますが、そうした国になって、アメリカとも軍事同盟ではない普通の平和友好条約を結ぼうではないか、こうして外交・安保面のいびつを直そうというのが、この面でのわれわれの改革の提案です。

五 内政――「ルールなき資本主義」からの脱却
  (その一)企業の活動の面での民主的なルールづくり

 今日の本題である経済の問題についていいますと、私たちは、日本の資本主義というのは、国民の生活や権利を守るルールがなさすぎるといいますか、弱すぎるといいますか、これが非常に大きな特徴だと考え、現状を「ルールなき資本主義」という言葉で呼んでいます。
 この状態から脱却して、せめて世間なみのルールのある社会のしくみ、経済のしくみをつくろうではないかというのが、私たちの大きな改革の目標です。
 このいびつさについて、一年前の赤旗まつりという私たちのお祭りのときでしたが、私は、あだ名をつけたことがあります。外交・安保面でのいびつさは「アメリカ基地国家」、米軍基地がすべてということです。内政の面でいうと、「大企業・ゼネコン国家」と名づけました。今年の演説では、それだけでは足りなくなって、「大企業・ゼネコン・大銀行国家」と呼びました。憲法では国民が主役になっていますが、実態としての主役は違う。そこらあたりを改革しようというのが私たちの大きな改革の基本方向なんです。
 よく、「共産党は大企業を敵だと思っているのではないか」という方がいますが、私たちは、そういう立場ではありません。私たちの改革では、大企業の横暴、特権のいびつさを直そうというのが目標で、日本経済で大企業がはたす役割は否定しないし、経済のまとまな発展の一翼をになってほしい、と考えています。その立場からも、大企業の横暴、特権のいびつな現状を直すことが大事で、このことを経済改革の目標にかかげてずっとやってきました。
 日本の資本主義の特別のゆがみ、いびつさには、大きくいって二つの面があります。
 きょうは経済界のみなさんが多いので恐縮ですが、まず第一に、企業の行動のいびつさがあります。それから、第二に、政府と経済の関係にかかわるいびつさがあります。

企業の活動に世間なみのルールがない――経済界のトップの論文から

 まず企業の行動についていうと、六年ほど前に、経済界のトップの方が、ある雑誌に論文を書きました。それを読みましたら、立場はまったく違うのですが、私たちの考えと非常によく似ている。その方は、いまは現役を退いていますが、論文の内容は私たちはいまも拝借してよく紹介します。それは、当時ソニーの会長だった盛田昭夫さんが、『文芸春秋』九二年二月号に書いた「『日本型経営』が危ない」、サブ見出しは「『良いものを安く』が欧米に批判される理由」という文章です。
 自分が、電機関係の経営のトップとして、ヨーロッパにゆく、アメリカにゆく。その国の政府とのつきあいもあれば、財界とも会う。そうやってつきあってゆくと、“日本でこれがいいと思ってやってきたことを、このままやっていると世界で相手にされなくなる”、そういう危機感から、現状批判と改革論を提案されたのです。
 経営トップで財界の方ですから、われわれとはずいぶん違う話をされるのだろうと思ったのですが、具体的に読んでみるとそうではありませんでした。
 たとえば盛田さんは、日本の企業の活動について、“これは世界に通用しない”という問題点を六つほどあげています。

 一つは、従業員との関係で、まず労働時間の面で欧米と格差が広がってしまった。イギリス、ドイツ、フランス、アメリカの労働時間と比較して、大きな格差がついているということです(盛田さんは、一九八九年の年間総労働時間の比較として、日本の二千百五十九時間にたいして、アメリカ千九百五十七時間、旧西ドイツ千六百三十八時間、フランス千六百四十六時間という数字をあげています)。いまは不況ですから日本の労働時間は平均的に減っていますが、大もとの関係では、いまもこの格差がつづいています。
 二つ目は、従業員にたいする成果の配分――賃金の問題になりますが、この割合が欧米とくらべてたいへん悪い(盛田さんがあげているのは、一九八〇年〜八四年の五年間平均の労働分配率で、日本の七七・八%にたいして、アメリカ八〇・三%、旧西ドイツ八八・八%、フランス八九・二%という数字です)。
 三つ目は、株主の配当が非常に低い。
 四つ目は、取引先・下請け企業との関係が対等・平等でない。「セットメーカーと部品供給企業の関係を例にとると、欧米では両者の関係が対等であるのに対し、日本では一般的には長期継続的取引が行われて両者に安定的な関係が築かれる半面、納期や納入価格などの面でセットメーカー側に有利なように決定されることが見受けられます」(盛田)。ずいぶん遠慮がちな言い方ですが、要するに親企業が下請け企業をいじめすぎている、ということでしょう。
 五つ目が、地域社会との関係で、「日本の企業は地域社会への貢献に積極的とは言いがたい」(盛田)。
 六つ目に(これは、改革提言の部分でですが)、盛田さんは、「環境保護および省資源対策に十分配慮しているか?」「環境、資源、エネルギーは人類共通の財産であることを強く認識するべきではないか」という問題をあげています。やはり、日本企業が環境の汚染や破壊に無関心であることを、痛感しているのでしょう。

 このような問題点をあげ、ここを解決しないと、いくら「よい製品を安く」つくっても、世界から「ルール破りだ」と叩かれるだけ、そこをなんとかしないと、世界のなかでやってゆけなくなる、こういうことで一連の改革の提案をしていました。
 盛田さんのこの提案は、私たちが“「ルールなき資本主義」から脱却し、国民の利益にかなうちゃんとしたルールを確立しようではないか”といっていることと、ほとんど合致しています。
ルールづくりは社会全体のしくみの改革が大切
 盛田さんの議論でもうひとつ共感したのは、そうした改革を、ではどのようにやったらよいのか、ということについての考え方の問題です。「日本の現在の企業風土では、敢えてどこか一社が改革をやろうとすれば、その会社が結果的に経営危機に追い込まれてしまうような状況が存在しています」(盛田)。まわりがやらないのに自分だけがやったら、かならず失敗してしまうということです。実は私は、この文章を読んだあとでソニーの職場の労働者に会ったとき、「盛田さんはこんな論文を書いているけど、会社はどんな調子?」と聞きました。「いやぜんぜん変わってません」というのが答えでしたが、やはり、一社では無理だということですね。
 一社では無理だから、社会全体のしくみとして変えなくてはならない。盛田さんの主張では、ここで提案しているような「日本企業の経営理念の根本的な変革は、一部の企業のみの対応で解決される問題ではなく、日本の経済・社会のシステム全体を変えていくことによって、初めてその実現が可能になる」。一社ではできない改革も、こうすればできるようになる、ということです。
 この意見は、私たちが、政治と社会の側できちんとしたしくみとルールをつくり、これを社会的に守ってゆく体制をつくろうではないか、といっていること――大企業にたいする民主的規制――と、いわば方法論がよく似ていることを痛感しました。
 このように、私たちが感じていることを、ぜんぜん別の側にいる企業のトップの方が同じように感じている。私は、そのことをたいへん印象深くくみとりながら、この論文を読みました。
 率直にいって、いまの国会は「規制緩和」ばやりです。もちろん、官僚的な古い規制を撤廃したり直したりすることは当然のことですが、日本では、いまあげたような、企業の行動にかかわるいちばん大事な問題で、社会的コントロールが弱いのが実態です。欧米にはあっても日本にはルールがないという問題がいっぱいある。残業時間ひとつをとっても、その上限が法律で決まっていない。そうした問題について、世界を見渡しながら、日本の資本主義のルールづくり、世界に通用するルールの確立を、企業の活動の面でも考えたいというのが、私たちが考えている民主的改革のひとつの柱です。

六 内政――「ルールなき資本主義」からの脱却
 (その二)あまりにも大企業本位の異常な逆立ち政治をただす
  政府には、十年、二十年先の日本社会を考えて政治にとりくむ責任がある

 もう一つの柱は、政治と経済のかかわりというか、経済への政府の側からのかかわりです。さきほど「大企業・ゼネコン・大銀行国家」と、この席にはあまり好ましくないと思う方もいらっしゃるかもしれないあだ名を紹介しましたが、そういって不思議でないくらい、この面でも日本でのゆがみは極端になっています。
 最近、経済界の何人かの方がたと話しあう機会がありました。そのときのことですが、外国の政府と日本の政府の違いが話題になって、ヨーロッパのある政府などは、なかなか先をよく見てやっている、という方がいました。私はそのとき話したのですが、やはり資本主義の国であっても、国をあずかっている政府というのは、いまのこと、一年先のことだけを考えてやっていたのでは役目は果たせない、やはり十年先、二十年先を考えて政治をやらなければならない。いまこれをやったら、当面経済界に不利になるからダメだということであっても、十年、二十年先を見通して社会を維持してゆくには、これが必要だということを、政府はやらなければならない。ところが日本では、政府の政策もすべて財界との相談ずくだから、ゆがみが毎年積み上がって、最後にはたいへんなことになる。こういう話をしましたら、その席にいた経済界の方がたともかなり意見が一致したんです。そうした問題点が、日本の政治には大きくあります。
 政治のゆがみというその問題を、今日は三つほどの角度からあげてみたいと思います。
大銀行への応援だけで景気対策になるのか
 ひとつは、いまの深刻な不景気のなかでの景気対策です。参議院選挙のときに、私たちは、いまの不景気は昨年の消費税増税をはじめとした九兆円の負担増にある、そこから国民の個人消費がずっと冷え込んできた、だから、そこをまず直そうではないか、消費税を減税して税率をもとの三%にもどそうではないか、という提案をしてきました。
 ところが、政権党である自民党のほうは、国民生活よりも金融があぶない、銀行をどう助けるか、その体制をどうつくるかが大問題だ、それが片づけば、日本経済はうまい軌道にのるという言い方で、今年初めから、三十兆円の銀行支援の枠組みづくりなどにもっぱら力をそそいできました。だから私たちは、選挙のとき、“政治が大銀行の応援団になるのか、それとも国民の消費の味方、暮らしの味方になるのか”というスローガンを中心におしだして、訴えました。
 しかし、選挙後の八月〜十一月の臨時国会では、完全に銀行応援の話だけに終始し、しかも銀行応援に税金をつぎこむ枠組みは、最初の提案の三十兆円が最後には六十兆円にふくれあがりました。本来なら、それにつづくいまの臨時国会で、本格的な景気対策を検討するはずでしたが、そこでも、肝心の、国民多数の消費をあたためる話は、ろくろく出てこないのです。
 いったい、こういうやり方が、世界の資本主義国どこでも当たり前の話なのか、世間並みなのかというと、これがまた、世界の資本主義国での常識との違いがたいへん大きく出ている分野なのです。
 そのことを、先日、アメリカの経済学者の書いた文章を読んで、あらためて痛感しました。
 アメリカにガルブレイスさんという、七〇年代にアメリカ経済学会の会長をやったこともあり、六〇年代にはケネディ政権のインド大使をやったこともある、政界にも経済界にも関係深い方がいます(現在はハーバード大学の名誉教授)。その方が日本経済新聞(九八年十月九日付)の「経済教室」という欄に、いうならば、日本政府とアメリカ政府に忠告するという立場から文章を書いていました。これを読むと、いままさに日本の国会で議論していること、選挙で問題になったことについて、アメリカの主流の経済学者がどう見ているかが、非常によくわかります。

ガルブレイス教授の忠告

 ガルブレイス教授は、最近の経済情勢について、アジアの危機に日本も巻き込まれ、アメリカもあぶなくなってきた、正直にいって「米国経済もまた深刻で危険なもろさを抱えており、そのぜい弱性はますます顕在化しつつある。世界経済の安定にむけて、米国はもはや確実に信頼できる力を持っていないのである」との見方をまずのべます。
 そして、そのアメリカと日本に、「危機」が波及したとき何をなすべきかについて提言したい、として、こういいます。
 ――バブルの崩壊は別にめずらしいことではない。これは、「資本主義下で市場経済システムが内包する基本的な特質」であって、投機ブームとその崩壊の歴史は数百年前にさかのぼるものだ、だから、バブルとその崩壊を、「通常の経済的現象の一部」として見ること、とくに「バブル崩壊」が「経済の調整が進展する過程」としてとらえるべきである。
 つまり、バブルがあれば、そのあと必ず崩壊する、それは、経済の矛盾を調整する過程であって、そこで無謀、無能な組織は市場から排除されることになる。それは痛みをともなうが、それは必要な調整過程であって、それによって、見識のないものも正常な感覚をとりもどすようになる、そこが大事だというのです。
 こういう見方にたつと、バブルの崩壊後に、政治がなにをやるべきか、なにをやってはならないのかが、よく分かると、ガルブレイスはいいます。
 そうした時期に、政治がいちばんやってはならないことだが、ついやりたがることがある、といってなかなか面白いことを指摘するのです。
 それは何か。
 ――無謀にも投機ブームを招き、バブルを膨張させた経済主体を救済するようなことは避けるべきなのだが、経済危機のごく初期にはよくこの過ちを犯す。……すなわち、経済危機を招いた張本人が最初に救われるのが実態なのである。

 これは、日本の政府のやってきたことへの痛烈な批判となっています。
 問題を日本に引きなおして見ますと、バブルを引きおこし、今日の経済危機を招いた張本人は銀行でしょう。また銀行の裏には不動産・建設関係があります。ここがバブルを仕掛けた「経済主体」だし、その崩壊で日本を大変な不況におとしこんだ「経済主体」です。バブルが崩壊したときには、当然、銀行・ゼネコンの経営も苦しくなります。しかし、そこはバブルを引き起こした中心なんだから、政府としてはそこを助けたくなるかもしれないが、それをやってはダメなんだ、というのが、ガルブレイスの第一の主張なのです。
 そんなことをやると経済の調整がすすまなくなる、経済危機のごく初期にこの過ちを犯すと、危機をずるずる長引かせて、問題の企業のまわりの“罪なきもの”をいっそうひどい目にあわせることになる。罪もない従業員とか関係の下請け企業に転嫁されたり、一般国民にツケがまわされる。だから、これはやってはいけないことだと、きわめて明確に断言しています。
 ガルブレイスはつづけていいます。「崩壊したバブルへの的確な対応は、経営方針を誤ったり投機に走った銀行や企業には自ら責任をとらせることにある」。責任をとらせれば、つぶれるところも出てくるし、失業者も出てくる。そういう“罪なき”人たちにたいして、国が、その現場で援助することが大事だというのです。
 「それによる経済への悪影響は、罪なく苦境に陥った人たち――ガルブレイスは、バブルとその崩壊に責任・罪のある人と、罪がないのにその結果によってひどい目にあう人たちとを厳格に区別するのが特徴ですが――とくに失業者とその家族への公的資金を進めることでカバーすべきである」(ガルブレイス)。
 それから、国はさらに、公共サービスを増やして新たな雇用機会を最大限提供しなければいけない、といいます。「公共」といっても日本とは違い、ゼネコン型公共事業は出てきません。まず、一般の「公共サービス」、さらに「教育」のサービスを増やさなければならないといい、そのあとに「建設」がでてくる。これも、国民無視のゼネコン仕事ではもちろんありません。「社会的に必要で有益な活動分野」で新たな雇用機会を最大限提供してゆくことです。
 さらにガルブレイスは、「もう一つ欠かせないものがある」、それは「機動力があって的確な判断力を備えた政府である」といいます。これも、「機動力と判断力」に欠けた日本の政府の現状を心配しての忠告と聞こえますが、そうした機動力と判断力をもった政府の役目は何かというと、「それは破たんした企業を救済することではない」と重ねていいます。「そうではなく、非難されるいわれのない国民の所得や雇用、福祉を改善・向上させることがより重要であり、それが政府の使命だからである。所得を消費に向かわせ、購買力を持続させるよう政策的に支援すべきである」。こうすれば、消費が拡大して不景気から抜けだすのに役立つ。
 これはおそらく、アメリカの経済学界では常識なんでしょう。最近の日本やアメリカを見ていると、どうもこの常識からずれて、おかしくなっている、常識をきちんとわきまえて経済危機にふさわしい行動をとるよう、日本とアメリカの政府に忠告したい、という言い方です。
 このように、政治にかなり関係の深いアメリカの経済学者が、“やってはいけない”といっていることを、日本の政治はずいぶんやってきたし、“やらなければいけない”といっていることをやらないできた。いちばん“やらなければいけない”とされていることは、十一月〜十二月の臨時国会でもまったく出てきません。
 これは、日本の大きなゆがみの一つです。私たちは、これを「逆立ち政治」といっていますが、これは本当に大きな問題だと思います。
 この点にも関連することですが、ヨーロッパの政治を見ていると、たとえば、いまフランスも失業が増えていますが、政府や国会が取り組んでいる対策の第一は、労働時間の短縮です。もともとフランスの労働時間は日本にくらべるとかなり短い。その労働時間をもっと短くすることによって雇用が増えるような仕組みの法律を国会で審議する。つまり、雇用が減ったら、雇用をどうやって現実的に増やすかという、現場の具体策がすぐとられています。
 ところが日本では、雇用が減って失業が増えると、企業が大変だからこうなるんだ、大企業を応援して、大企業が活力をもてば、おのずから雇用も増えるだろうという理屈で、まずやられるのは大企業へのテコ入れです。しかし、企業にテコ入れしても、いまの不況だとリストラ強化を方針にしていますから、いくら応援しても雇用の増加にはつながらない。つまり、テコ入れした結果が、この面で、経済に何もかえってきません。
 このやり方、企業を応援すれば“おのずとまわりも潤うだろう”というやり方、考え方は、アメリカでも、九〇年代のはじめからもう効果がないといわれていることです。にもかかわらず日本は、そのやり方をずっとつづけている。ここにも、日本流の「逆立ち」があります。

七 内政――「ルールなき資本主義」からの脱却
 (その三)税金の使い方・産業政策でも逆立ち政治をただすことが急務
  税金の使い方の逆立ち――「公共事業」の名による世界に例のないむだ遣い

 もう一つの極端な「逆立ち」は、税金の使い方の「逆立ち」です。これは選挙戦のなかでも大いに宣伝したことですから、すでに聞いていただいた方も多いと思います。
 国と地方の財政分を合わせて、いま日本で社会保障に使われている公費負担は二十兆円です。九四年度で見ると十九兆四千七百六十一億円。公共事業につぎ込んでいるお金は四十七兆八千二百十億円、約五十兆円です。「公共事業に五十兆円、社会保障に二十兆円」というのが、日本では、毎年の当たり前の税金の使い方になっています。しかも、いま借金の元利払いをのぞくと、実際に年々使える税金は七十兆円そこそこですから、その七割に匹敵する金額――そこには直接的には税金以外のお金ももちろんふくまれますが――、五十兆円ものお金を公共事業につぎこむというやり方は、国でも地方でも膨大な赤字のいちばんのおおもとになり、それが年々積み重なって、はてしない財政破綻をひきおこしています。
 外国を見ますと、公共事業にこんなに税金をつぎこんでいる国はありません。たとえばドイツでいうと、公共事業に使うお金の三倍を社会保障に注ぎ込んでいます。アメリカは公共事業に使うお金の四倍が社会保障、イギリスでは六倍です。三倍から六倍まで数字に多少の違いはありますが、社会保障など全国民の暮らしを支える仕事のほうが予算の主役で、その何分の一かを公共事業に投資するという関係は、どの国でも変わりがない。日本だけが全国民向けの社会保障には二十兆円で、その二倍半ものお金を公共事業に使う。この逆立ちぶりは、本当に極端なものです。
 それだけの税金を使って、実際にはムダな公共事業がやられているではないかという問題は、このごろマスコミでもずいぶんとりあげられるようになっています。
 第一、いま日本の政府と自治体が発注するゼネコン中心の公共事業は、だいたい目的不明のものが多いのです。ひどい例としては、よく港の話が問題になり、“何百億円の釣り堀”という話があちこちに流行しているでしょう。なぜ巨額の費用をかけてつくった新港が釣り堀になってしまうかというと、もともと田中角栄内閣――例の「日本列島改造論」の時代に、日本各地に工業コンビナートや大工業地帯をつくる開発計画がたてられ、それに付属するものとして新しい工業港をつくる計画ができたのです。ところが、工業地帯の造成計画はみなつぶれて、新港を必要とする事情は二十〜三十年前になくなってしまったのに、港の建設計画だけはとりやめないでそのままずっとつづけてきた。だから、港はできてもその港に船が入ってこず、もっぱら釣り人むけの釣り堀になってしまうということが全国で起こっているのです。こうした釣り堀は全国いたるところにあります。
 最近、政府が、むつ小川原の大コンビナート計画を考え直すといいはじめましたが、これもコンビナート計画そのものの失敗は七〇年代の初めに明らかになったのに、その後も港だけはつくりつづけてきて、ようやく最近になって方針転換を問題にしはじめたのです。こういう目的のはっきりしない巨大開発は本当にあちこちにあります。
 第二に、いまの開発は、採算もまともに考えません。もちろん、公共事業によっては、採算を考えないでよいものもあります。しかし、橋とかトンネルとか空港などは、採算を考え、何十年かたったら、きちんと減価償却もできるということで、やっているはずの事業です。ところが実際には、多くの場合、その見積もりは、はっきりいって机の上のうわべを取り繕っただけの計算にすぎず、現実には、その種の大型公共事業で採算がとれる事業は、ほとんどどこにもないというのが、実態です。
 たとえば、本州と四国をつなぐ本四架橋ですが、来年には、児島?高松ルート、明石?鳴門ルートに、尾道?松山ルートがくわわって、三本がそろうようですが、新しくできた明石?鳴門はもちろん、いちばん最初にできた児島?高松でさえ、交通量からいって、毎年の交通料金収入では利子と維持費を支払えるか払えないかという収入水準で、減価償却にまではとても手がとどきません。海ホタルで有名な東京湾横断道路も、採算の見通しがたたない点では、まったく同じです。
 本来、公共事業をやるときには採算を建前にしているのだが、日本の大型開発は、すべて責任をもった採算計画なしでやっている。これは、とくに七〇年代から当然扱いされているやり方です。
 第三に、開発によって環境が破壊されるのも、当たり前のことになっています。私は、以前、京都の大学に研究にきていたイギリスの学者が、日本の環境アセスメントと、アメリカやイギリスの環境アセスメントとを比較して、その結論をその大学の雑誌に書いたものを読んだことがあります。日本のように、なんの制約もなしに開発が大手をふってまかりとおる国はないと、本当にびっくりしていました。アセスメントという同じ言葉を使っても内容も発想もまったく違うというのです。この面でも、それぐらい、ひどい状態があります。
 つけくわえていうと、こういうやり方が、国の財政を壊しているだけでなく、国からの開発事業のおしつけが、地方財政を壊していることも、大問題です。最近の地方自治体の財政危機の主因は、こうした採算無視の公共事業によって引き起こされているといってもよいでしょう。
 ですから、最近では、政府が公共事業中心の補正予算を組んでも、なかなか執行されません。地方自治体が、その公共事業をうけとめ、自分で予算をつけてやりましょうというところが出てこないため、空回りに終わってしまう例が増えています。調べてみると、これも、田中内閣の列島改造時代には、国が開発の負担を大きく引き受けていましたが、だんだん国の財政が苦しくなってきて、国の負担分を減らして地方に回すという傾向が強くなり、それが二十〜三十年も重なってきた結果です。そのため地方財政は大赤字になってしまったのです。
 こういうことを痛感しているとき、今年の六月に、経済同友会が発表した「公共事業改革の本質――既得権益構造の打破――」という提言を読みました。ついに財界団体も、このむちゃな公共事業をやめようといいだしたなと思って感心し、八月の国会質問でもとりあげました。内容はなかなか大胆な提案で、現在の公共事業は「既得権益の集約」となって「壮大な無駄」を生んでいる、このやり方をあらためないかぎり、日本は大変なことになるといって、公共事業の全体の規模の削減、建設国債と赤字国債の区分の撤廃、公共事業関係の長期計画の廃止、特定財源の制度の廃止、入札制度の見直しなど、私たちも賛成できる一連の思い切った改革を提言していました。
 財界団体の一つが、こういう提言をする、事態はそこまできているのです。
 ところが、政府はこれにもまったく無反応で、平然として「五十兆円・二十兆円」体制をつづけ、景気対策といえば、効果のないことが分かっているのに、公共事業予算の積み増し、積み増しをくりかえしています。総枠としても、アメリカと約束した十三年間で公共事業六百三十兆円という大枠は一歩も引かない構えです。これは「逆立ちのきわみ」ですが、これが、いまの日本政府です。

中小企業と農業をこんな現状にほおっておいていいか

 もう一つの「逆立ち」は、産業政策です。
 日本という国は、商工業のいろんな分野で、中小企業の役割が非常に大きなことが特徴になっています。どんな大企業でも、部品はほとんど中小企業の製品にたよっているでしょう。おなじ自動車企業でも、アメリカなどへゆくと、部品もだいたい自分の企業内でつくるのが普通ですが、日本では部品は大部分を中小企業に依存して、本社工場では組み立てだけというところもあります。
 日本経済のなかでの中小企業の比重をしめす統計をとってみますと、事業所の数では全国の六百六十四万の事業所のうち、政府がきめた「中小企業」の基準にてらして、中小企業の数は六百五十六万、約九九%です。従業員の数では、総数五千二百三十五万人のうち四千二百四十九万人が中小企業の従業員で、約七八%です。小売業の販売実績は七七%、卸売の実績は六一%、製造業の出荷高は五一%、統計のうえで中小企業はこれだけの比重をしめています。
 私はよく「中小企業は日本経済の主役」といいますが、実態からいって、中小企業は、それだけの大きな比重を占めています。
 ところが、日本経済の大半をになっているその中小企業にたいして、国からの援助が日本ほどお粗末な国はありません。今年の中小企業対策予算は千八百五十八億円です。一般会計のわずか〇・四三%。以前、中小企業対策基本法をつくったときには、もっと予算に占める比重は多かったのですが、政府は“それでは足りない、中小企業基本法をつくって、もっと予算を増やすんだ”と鳴り物入りの宣伝をしたものです。ところが、現実には、それから年々切り下げられて、いまではこんなにひどい状態です。
 この千八百五十八億円という数字がいったい、どれほど少ない金額なのか。銀行にたいする政府の応援ぶりと比較してみましょう。政府は前の国会で六十兆円の銀行支援の枠組みを決めました。それで、資本注入の第一回分を計画していますが、その最初の分だといって、十五の銀行が申請したのが、合計五兆七千億円になると報道されていました。これは一行当たりに平均すると三千八百億円です。中小企業対策予算は、その半分にもなりません。日本経済の大半をになっている中小企業のための全国的な対策予算が、銀行への応援のために、政府が第一回目としてとりあえずだそうとしている資金一行あたりの半分以下。逆立ちぶりは、あまりにもひどいのではないでしょうか。
 もう一つの産業政策の「逆立ち」がきわだっているのは農業です。いま日本の食料自給率は四二%(カロリー自給率)まで落ちました。四二%ということは、一億二千万人の国民のうち、五千万人分しか国内ではまかなえず、七千万人分の食料はもっぱら輸入にたよる、ということです。将来の見通しというのは、なかなかむずかしいものですが、いま世界の食料事情を分析している専門家の研究では、膨大な人口をもつアジアの発展途上国などの経済水準が高まるにつれて食料需要は強まり、二十一世紀には世界的な食料不足が必至になるだろうというのが、大方の一致した見通しになっています。
 そういう時代に、七千万人分もの食料を外国からの輸入にたより、自給率を高める手だてはいっさい講じないような国が、いったい国民の食料にたいする責任をはたしてゆけるのか。問題はそれほど深刻なのです。
 サミットに集まる国・七カ国のなかでも、日本のような無責任な国はありません。イギリスなどは、一時五〇%台かそれを割る年も出るほど自給率が落ちたことがあります。そうしたらこのままでよいのかと国をあげての大騒ぎになり、自給率向上と農業重視政策によって、いまでは食料自給率を七〇%台にまで回復させています。自給率を高めるという点では、あのような島国でもそれぐらい力を入れる。サミットに集まる国で、四〇%を割りかねない水準になっても、平気な顔をしてのうのうとしている国は、文字どおり日本のほかにはないのです。
 しかも、こうした現状を打開するための対策、方針をもとうともしないのが、日本の政治の現状です。七〇年代までの日本政府は、「自給率向上」ということを、言葉のうえだけではあっても、一応は国策の「目標」にしていました。しかし、八〇年の農政審の答申を転機に、「自給率向上」という言葉すら、日本の農政の「目標」からはずされてしまいました。「自給率」を「自給力」にかえて、現実には食料を外国に依存していても、いざというときには、農業を復活させる潜在力をもっていればいいではないか。こんなごまかしの「理屈」をつけて、八〇年以後は、自給率は下がっても結構という方針を公式にとりだしたのです。それがそのまま、今日までずっとつづいています。
 このような産業政策の「逆立ち」とは、結局のところ、自民党政治が、企業献金の元になるような大企業・大産業だけを大事にする方針をとっているということだといわざるをえません。こんなことでは、国の将来すら危うくしてゆくことになりかねませんが、私はその危険が、農業・食料問題にいちばん深刻に出ていると思います。
政治の切り替えは二十一世紀に日本が生きてゆく条件にかかわる
 このように、同じ資本主義国であるヨーロッパその他の国ぐにと比較しても、日本の政治は、本当に目先のことだけに目を奪われて、大局を失っている政治だといえます。景気対策でもそうでした。税金の使い方もそうですし、産業政策もそうです。
 この政治を、まともな方向に切り替える仕事をいまやるかやらないか、それは、二十一世紀に日本が生きてゆく条件にかかわってきます。私たちはこう考え、その切り替えを提案しているのです。
 ですから、外交・安保の面では、いまの日米軍事同盟と米軍基地の体制から、外国の基地も軍事同盟もない非同盟・中立の日本に切り替える。内政の面では、あまりにも異常な大企業中心主義で各国から笑われているいまの状態を抜本的に切り替える。ここで外国から笑われている実例を一つつけくわえますと、昨年、アメリカの「ニューヨーク・タイムス」紙が三月、日本がなぜ公共事業に度をこえて熱中するのか、という問題をとりあげて、「日本の破滅への道は公共事業によって舗装されている」という皮肉な題で、痛烈な批判の論説をかかげました。それぐらい異常さが際立ってきている。この異常な状態をあらためる改革を本気でやる政治をつくらないと、将来は大変だというのが、私たちの率直な実感です。

八 政権の問題――修正資本主義の党も、民主的政権での連合の相手になれる

 私たちは、政治の改革をいま説明した方向で考えています。実は昨年九月の党大会(第二十一回党大会)で、二十一世紀の早い時期に、民主連合政府とわれわれがよんでいる民主的政権をつくろう、という目標をきめました。
 その民主的政権は何をやるのかといえば、いままでのべてきた「資本主義の枠内での民主的改革」をやろうということです。そうした政権をつくろうということを、党大会として、広く国民によびかけたのです。
 では、民主連合政府というからは、連合の相手はいるはずだ、その相手はいるのかという問題ですが、いまの政治と政党の現状では、まだまだだといわなければなりません。
 日本の国会では、一九八〇年以来のかなり長いあいだ「日本共産党をのぞく」というまちがった枠組みががっちりとあって、どんな問題でも、他党との共同ということはなかなかできませんでした。政治の情勢も変わり、日本共産党の選挙での躍進が連続するというなかで、それまでの「日本共産党をのぞく」という悪い筋書きがだんだん消えて、一致する点ではいっしょにやろうという雰囲気がある程度できてきたのは、今年(一九九八年)になってからのことです。一月からの通常国会では、民主党、自由党、共産党の三党で、内閣不信任案を共同提出するとか、参院選後の八月からの臨時国会で首相指名選挙で共同行動をとるとか、一致できる問題では、野党共闘の形でいろんなことをやってきました。しかし、まだごく部分的な共闘が始まったという、そういう段階ですから、政権をつくって、こういう切り替えを抜本的にやろうではないかというところまで、考えが一致している相手はいません。
 ただ、政治は動くものです。その動きのなかには、こんどの「自自連合」のように、これまでの野党が急に与党になるという動き方もあれば、野党が共闘をやってゆくなかで、政治の改革の内容やそれにとりくむ立場で、話がより突っ込んだものになってゆく、という場合もありえます。日本の政党状況は、全体としてまだまだ流動的ですから、これからも、いろんな動きが出てくると思っています。
 私たちは、日本を改革する仕事のどんな段階でも、単独で政権を担おうと考えたことはない政党です。いまの民主的改革の仕事でも、そういう動きのなかで、いっしょに仕事のできる政党は必ず生みだされてくる、と思っています。いまの政治の動きは、それほどの激動の時期です。
 では、将来を見渡して、どんな政党、どんな勢力が連合の相手になりうるのか、このことが問題になったとき、昨年の党大会で私はこう報告しました。
 ――私たちのめざす改革の方向は、資本主義の枠内の民主的な改革なのだから、資本主義賛成の政党でも民主連合政府では連合の相手になれる。つまり、いわゆる「修正資本主義」の党でも、現在のこの異常なしくみをこのように改革しようという改革の中身で一致すれば、いっしょに連合政権をつくることが十分にできる。
 私は、この点では、保守政治の流れのなかからも、そのような連携がおこりうると思います。今年は一月から金融国会がつづきましたが、保守的な政党の流れのなかにいた方で、アメリカで企業の副社長をやった経験ももっている方が、われわれとほとんど同じ立場から、銀行破綻のときには銀行が自分で責任を負うべきであって、国民の税金を投入すべきではない、という議論を展開し、それが資本主義のルールではないかと強く主張していました。その方は、「しんぶん赤旗」にも寄稿して、“いまの日本にはおかしなことがある。それは、『資本主義のルール』をきちんと守れといっているのが共産党だということだ”といっていました。保守政治の流れのなかでも、いまの日本の異様さに気づいて、そうした声をあげる方がポツポツですが出てきていますから、私は、日本の政治は、これから二十一世紀にかけての激動の時期には、いろんな新しい発展の可能性を豊かに生みだすだろうと思っています。
 そういう点で、二十一世紀を希望をもてる時代にしたい。希望のもてる時代の、いわばその中心に政治が先頭に立てるような、そういう政治をつくりたいものです。

九 民間企業への期待と約束

 ここで話を結ぼうかと思いましたら、大事なことを忘れるところでした。民間企業への「期待と約束」(笑い)がありました。
 私たちの日本改革論は、いまのべたようなことですから、民間企業への「期待と約束」というものも、おのずからそこから出てくると思います。
 まず「期待」ですが、日本共産党が、こうした改革の目標をもっていることを、念頭においていただき、その改革というのは、自分たち経営者にとって、どういう意味をもっているのかなど、考えてもいただきたいし、私たちも、大いに意見を交換したいと思います。そして、意見を交換し、考えていただいたうえで、この点は筋が通っていると多少とも思われることがあったら、改革の考えのあうところでご協力をいただきたい。これが、私たちからの「期待」です。ご協力といっても、私たちは、企業や団体からの政治献金はいただきませんから(笑い)、「この点で賛成していただけるなら、どうか献金をください」などということは絶対にいいませんから(笑い)、安心してご協力をいただきたい。それが「期待」であり、お願いであります。
 それから「約束」ですが、これも、やはり私が最初にのべた二つのことにつきる、と思います。一つは、私たちがいま全力をあげ、しかも、二十一世紀の早い時期に実現をめざしているもの――これもかなり長い視野で実行しようとしているものですが――は、資本主義の廃止ではなく、「資本主義の枠内での民主的な改革」だということです。日本共産党は、党の綱領でこの方針をきめてから(一九六一年の第八回党大会)、三十数年にわたってその立場でがんばっているわけですから、その方針からそれて違った方向に足を踏み外すということは絶対にいたしません。
 もう一つのお約束は、私たちは、将来の改革を段階的に考えているといいましたが、将来問題になるどんな段階でも、日本の条件を飛び越して何か机のうえで考えた勝手な改革プランを、国民多数の合意なしに、社会に押しつけるということは絶対にやらない、ということです。
 この二つは、私たちの党の信条にかかわる問題として、お約束できることです。

一〇 社会主義の問題など

 最後に、まだ少し時間があるようですので、私たちが将来の展望としている社会主義の問題について、一言のべたいと思います。
 社会主義というと、七年前に崩壊したソ連のことだと思われる方が、まだたいへん多くおられるのですが、私たちは、あのソ連の社会は、社会主義とは似ても似つかないもの、いわば社会主義の反対物だったとみなしています。それは、私たちが党の大会で出した責任ある結論です。
 このあいだ、知人のある文学者が文学賞をもらい、呼ばれてその受賞のレセプションにゆきました。その席で、そこにこられたある企業の社長さんから、こういう質問をされました。“世界では共産党の調子が悪いのに、なぜ日本では調子がいいんですか?”と。そのときも、民主的改革の話もしましたが、なにしろ長話はできない席でしたから、こんな話をしました。
 世界で共産党の調子が悪くなったといわれる大きな背景には、やはりソ連の問題があります。なんといっても世界では、ソ連の影響の大きい、またソ連とのつながりの深い共産党が多かった。だからソ連が崩壊したときに、いわば本山がつぶれたように落胆をしたり、それがどんな意味をもつかの説明もできないところが結構あったんです。しかし私たち日本共産党はそうではなかった。逆に三十四年前(ソ連の崩壊から数えて)に、ソ連から、日本共産党をソ連のいいなりの党にしようという乱暴な攻撃をうけ、その時から、私たちは、社会主義を建前にした国が資本主義国で苦労している仲間の党にこんな無法な攻撃をしかけるとは何事だと、全面的な批判と闘争をした。そのころから、私たちは、いったいこのソ連とは何者なのかということを研究して、もともと社会主義とは縁がない国だなと思っていたものですから、ソ連が崩壊したときには、世界の進歩をじゃまする「巨悪」――巨大な妨害物がなくなって晴々とした気持ちだという声明をだしました。これは、やせ我慢ではなく本音でした。ほんとうに三十四年間、さんざんの攻撃や悪巧みとのたたかいで苦労してきましたから。
 そういう気持ちで、あのソ連の崩壊を歓迎した党と、本山がつぶれて大変だと思ってしまった党とは、ずいぶん運動のあり方でも違うわけで、そこらへんに、いまの調子の違いがあるんですよ、と話しました。
 私たちが「階段」というときには、いまの「民主的な改革」の階段だけでなく、その先をもちろん考えており、共産党という名前をもつ政党ですから、将来の展望には、社会主義への改革という階段も展望しています。しかしこれは、ソ連などにあった体制とは全然違うんです。
 だいたい共産主義、社会主義というのは、いちばんの合言葉は「人間が社会の主人公になる」です。ところがソ連という国は、主人公どころか、あんなに人間が抑圧されていた国はない。アフガニスタンとかチェコとか外国を侵略して抑圧するというだけではなく、また、わが党がうけたように、外国の自主独立の党に攻撃をかけるというだけではない。ソ連自身の国内でも、人間を人間らしく扱わなかった国です。これは、スターリン以後のことで、スターリンが社会主義の理想をめざす道を投げ捨てて、専制的な体制をうちたて、あんな人間抑圧型の社会をつくってしまった。あのようなものは社会主義でもなければ、社会主義にいたる途中の段階といえるものでもありません。まったくその理想とは反対の抑圧社会です。
 社会主義とは、一口でいえば、利潤が経済を動かす社会(資本主義)をのりこえて、社会全体の利益が経済を動かす大目的になるような社会に前進しよう、ということです。
 これまで世界では、いろいろな国で、資本主義をのりこえて社会主義をめざそうという動きがありましたが、それはすべて、出発点が、経済の発展のおくれた国でした。日本のように資本主義の時代に大きな経済的な発展をとげ、その発展水準をひきつぎながら、新しい社会をめざそうとした国は、なかったのです。さきほど、スターリンが社会主義の理想を捨てて、抑圧型の社会をつくったという話をしましたが、それにくわえて、出発点での資本主義のおくれという問題が、客観的にみて、たいへんな悪条件となりました。
 しかし、日本が、将来、階段を一段一段あがりながら、社会主義にむかって前進をはじめるとしたら、それは、資本主義の時代に生みだした価値あるすべてのものをひきつぎ、より発展させながらの前進となります。そういう条件のもとで、経済のしくみでも、利潤中心でなく、社会の利益――国民の利益が名実ともに中心になるような新しい社会、これを、国民みんなの合意でつくってゆこうというのが、私たちの考えです。
 そのとき、政治の体制はどうなるのか。この問題も、ずいぶん前から明らかにしていることですが、いろんな立場の政党が選挙で争いあい、選挙での国民の審判で誰が政権を担うかが決まるという政権交代制、複数政党制、議会制民主主義を、徹底して守ってゆくというのが、われわれの立場です。
 そういう点で、二十一世紀には、世界どこでもやったことがない、国民が中心の新しい国づくりを国民みんなですすめるんだという意気込みで、将来も楽しく展望しながら、当面の民主的改革の仕事に全力であたりたいと、考えています。
 きょうは、将来の階段の問題については、あまり詳しく話す時間はなかったのですが、まだとうぶんは、民主的改革の仕事で、みなさんといっしょに力を合わせて苦労しなければなりませんので、この程度でごかんべん願いたいと思います。(ふわ・てつぞう)
この記事のURL
http://blog.canpan.info/renn/archive/196
トラックバック
※トラックバックの受付は終了しました
 
コメントする
コメント
検索
検索語句
最新記事
<< 2019年10月 >>
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
タグクラウド
月別アーカイブ
http://blog.canpan.info/renn/index1_0.rdf
http://blog.canpan.info/renn/index2_0.xml