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ネボウのわけ[2019年03月11日(Mon)]

◆このブログを書いている部屋の床板がヘタって来たので、やむなくフローリングの板材を重ね張りしてもらった。

予定よりずいぶん早く8時過ぎには職人さんが来着したので、ネボウな施主は10分ほど待ってもらって、部屋に残っていた机や本などを慌てて動かした。

五十肩が両方の肩・肘に広がって来て、腕を捻るとイタタタとなる。「まさか百肩とは言わないよナ」、「まいにち運動会の翌日みたいだ」と無駄口を重ねながら片付ける。

◆先日見積もりしてもらった際に、繰り返し重さがかかった所はどうしても傷みがはやい、と言われた。
言われてみると、確かに机に向かう椅子の位置が最初にヘタって来ていた。
その次は部屋の入り口から机に向かう動線の部分。
「継続とは圧力ナリ」であったわけだ。

◆指摘をきっかけに机の向きを変えて体重がかかる位置をズラすことにした。
ところが持ち上げた際に天板がはがれてしまった。
天板の裏の合板もまたヘタっていたのだった。

田舎の兄が新築祝いに贈ってくれた座卓であったのを、ダイニングテーブルの脚に載せてビス留めしたものである。30数年という時間の体重を受けとめてきた結果である。
藤沢市の総合市民図書館のカウンターわきに置いてある小山明子・大島渚ご夫妻が寄贈したムク板の机と比較することはできないが、これとて処分するに忍びない。
2本の薄板を裏板に接着剤で貼り付け、そこに脚を取り付けることにした。

ちゃんとくっつくよう、天板を床に寝かせ、アルバムや本、書類の入った段ボール、プリンタなど手当たり次第に積み重ねて重石としたのが昨夜のことである。

***

◆以上がネボウの理由だ。

むろん補強板は天板にしっかりくっついてくれた。
手柄のすべては断捨離されなかったモノたちに属する。

おかげで今夜もこのブログを綴り終えて安らかに眠ることができる。
明日のネボウは恐らく無い、だろう。


3・11の野見山暁二「アトリエ日記」から[2019年03月10日(Sun)]

◆2011年の3月10日、画家・野見山暁治は博多駅構内にいた。
新幹線開業に合わせて完成した彼の「海の向こうから」によるステンドグラスの除幕式に臨んでいたのだ。

★「海の向こうから」の原画およびステンドグラスは下記サイトから
http://jptca.org/publicart474/

◆翌11日には大分県津久見の戸鉱業へ。石灰を産するこの鉱山をかつて描いたゆかりの場所である。
その日の日記の全文を引く。

三月一一日
石橋、ブリヂストン両美術館のいつもの二女性を最寄りの駅で拾って、千里の運転、大分県の津久見に向う。すっかり晴れあがって、もう春だな、これは。
昼すぎ戸高鉱業に着く。早速にも二女性、この会社が所蔵しているぼくの作品数点について調べる。この秋の展覧会に出品依頼をかねてのこと。
それから一同、白い上っ張り、長靴、それにヘルメット。完全武装して石灰の山へ案内される。かつてぼくが描いた山頂は、三百五十メートルほどえぐり取られたらしいが、一同はマチュピチュみたいな異形の山容の壁に囲まれて、茫然と立つ。
その時、千里のケイタイが鳴り出し、東北から東京にかけて激震中の報せ。いきなり壁が崩れ落ちるようなおののき。津波は今にもこの海におしよせてくる気配。社長は港にある運搬用の船舶の避難指示その他、ともかく一気に、それぞれの周辺が叫び声をあげ始める。


2011年9月〜10月に久留米の石橋美術館、その後12月まで東京のブリジストン美術館へと巡回した野見山暁治展

◆翌12日から14日まで福島第一原発では水素爆発による建屋大破〜炉心溶融が次々と進んで行った。
14日の日記――

三月一四日
日を追うに従って膨れあがる震災、津波の怖さ。今までの天災と違って、新たな原発の、目に見えない恐怖。
人間が創りあげた利便と、それに伴う危険。いつかは、過失によって、あるいは一人の為政者によって、地球は壊されてしまうとぼくは、思い込んでいる。


◆野見山の予見を現実にしないための人々の努力が一人の為政者の嘲笑によってあしらわれる数年を閲した。無為に過ごしたつもりはないが、その間にドイツは再生可能エネルギーを倍増させ40%を超えたという。

野見山続々アトリエ日記.jpg
野見山暁治『続々アトリエ日記』(清流出版、2012年)



 
野見山暁治による宇佐見英治追悼のことば[2019年03月09日(Sat)]

◆画家・野見山暁治は、『アトリエ日記』を初め、多くの随想でも知られる。
文章で描かれる人々は絵の世界の人ばかりでない。実にたくさんのさまざまなジャンルの人たちが登場する。多くは長い交友を重ねてきた人々で、自然、追悼文を書く機会も少なくない。

「宇佐見さんの子犬」は詩人で仏文学者の宇佐見英治(1918-2002)を追悼したもの。

◆西武沿線に住んでいた宇佐見が、沿線の各駅くまなくコーヒーを飲みあるいた、と心許なく語るのを聞いたエピソードから、宇佐見本人の述懐に移る。

〈詩人と呼ばれるのは嬉しいが、まさか自分から詩人とはいえません、大学に勤めているが教師は本職ではない。モノ書きでもないし、美術評論家といわれるのは嫌だし……。〉

こう語る宇佐見の表情とその人生を次のようにスケッチする。

どこにも所属していない、心許ない顔なんだ。

そしてすぐ次のように続ける――

宇佐見さんは死んだ。風が攫(さら)っていったのか。宇佐見さんの身辺にいつも舞っていた風、なま身をさらしていたようなあの強靭な風貌は、どういうわけか姿を消して、酸素ボンベのカートを引きずって歩いていた姿だけが、やけに浮ぶ。
犬を連れてるみたいだと言ったら、いや犬に連れられて歩いているのです、と言い、ふと寄る辺ない表情になった。なにか優しげにも映った。
犬を引きずりながら、ぼくの個展会場にもやってくる。そうして、犬をうしろに待たせては、一点一点立ちどまり、地下の展示室に降りようとして、さすがに階段で足ぶみし、犬に目をやり、しばらくのあいだ、ためらう。


野見山と宇佐見の最初の出会いは若き日のパリ郊外の丘の上だったそうだが、訃報に接して浮かんだ光景は、酸素ボンベを子犬のように連れて野見山の個展にやって来た宇佐見の晩年の姿だ。

記憶に残るあまたのシーンの中で、なぜその映像を鮮明に思い浮かべたのか訝しく思いながら、野見山は次のように言葉を継ぐ。

宇佐見さんが生きているときには、こんな光景は浮ばなかった。ひとは消えると、どうしてひとつの映像になって棲みつくのか。肉をそぎおとし、この世から消えるものの姿をしてみせて、控えめに時空の中に踏みこんでゆく。

◆「ひとは…どうして〜」とは、人間が死ぬということへの感懐だ。人間一般の話に向かうのは、師友、肉親ら多くの死に接して来て、自分もその列にいずれ連なることに心が傾くからだ。

だが、個々の人間が一様な姿に還元されるはずもない。
野見山は宇佐見英治という一人の人間像をもう一度目の前に結び直す。

いやこれは晩年のことではなく、ぼくがずっと抱いていた宇佐見像だ。しかし、これも本人が消えてからの、こじつけかもしれん。
よくはわからない。わかっていることは、ぼくの絵をこれほどまでに喜んで観てくれた人はそういないということ。

その人はいなくなった。本当にいなくなることがあるんだと、ようやく今ごろになって知った。
(後略)

◆悼むことば自体も肉をそぎ落とし、不在を驚き悲しむ心そのものが手向けられている。
そのことに深く心を揺さぶられた。

野見山暁治「うつろうかたち」.jpg
野見山暁治『うつろうかたち』(平凡社、2003年)



入営前の酒盛りで抜刀された野見山暁治[2019年03月08日(Fri)]

野見山暁治と「無言館」館主の窪島誠一郎との対談『無言館はなぜつくられたのか』(かもがわ出版、2010年)より

第二章 喪われたカンバス
入営前の祝いの宴で

野見山 明日は僕が入営するという前の晩、近所の人や親戚の誰彼を家に招いて、別れの宴というか、座敷にいっぱい集まって、お祝いの酒盛りが行われた。

窪島 壮行会ですね。

野見山 兵隊にとられる前の、最後の夜だから、せめてその晩だけ僕は独りにさせてほしかった。今と違って一般に電話というものが普及していない頃で、ちりぢりになった同級生たちはこの夜をどう過ごしているか、知りたいものだと思いました。その前の日、お祖母さんや叔母さんたちが集まって、明日のお祝いの寄り合いにはご馳走を何にしようかと言っていたから、「やめてくれ、お祝いとかそういうもんじゃないんだから」と言ったんです。そしたら、「兵隊に行くのにお祝いしないバカがどこにいる」って、祖母さんに言われた。父にもやめてくれと頼んだんだけど、そういうわけにはゆかんと聞いてくれない。

窪島 当時は当たり前のことだった……。

野見山 それで、最後の晩、親戚、近所の人、それから知り合いの陸軍将校とかがやってきて、おおぜい大広間に集まった。ともかく、「国のために戦え」「命を捧げろ」「敵を打ち倒せ」そういった激がとび、勇ましい励ましの訓辞が次々と来賓によって出ました。宴のおしまいに当たって、僕から皆さんに挨拶しろと父が言うんだ。僕は固辞した。しかし親父は「なんで皆さんに挨拶しない」ってうるさく言う。どうしてもその場が収まらんので、僕は仕方なく下座に行って坐ったが、言葉につまった。その場の空気に嫌気がさしていたもんだから、何も言わなかったんだ。そしたら親父が「早く、言え」って言うし、困った挙句に、あるドイツの詩人が言った言葉が突然、口をついて出たのです。その詩人の名前は思い出そうとしたが思い出せなかったんだけど、「我はドイツに生まれたる世界の一市民なり」。その前後の文章は忘れましたが、この言葉に僕は強く打たれていたから、「わたしは日本に生まれた世界の一市民です」、そう言ったんだ。

窪島 先生、本当にそんなことを言ったの?

野見山 それまで考えてもいなかった、自分でもわからない。「それなのにどうして他民族と戦わねばならないのか。そんなことで死にたくない」と、もう夢中になって、僕は言いました。

窪島 そしたら、一座は水を打ったように静かになった?

野見山 いや、いったん言葉が口からぐっと出てきたら、興奮してきて、「なんで、わたしに敵がいるんですか。なんでそういう人たちと殺しあわなければならないんですか」って、うわーっと。父は「やめろ」と怒鳴ったが、もう止まらない。招ばれてきた何人かの陸軍将校は、「貴様もう一度、言ってみろ!」とすごい形相をして叫ぶ。もう酒盛りどころではなくなりました。それでも僕は言いつづける、自分でももう止まらないのです。その日の宴会はめちゃくちゃになった。

窪島 そりゃそうでしょう。

野見山 一番下の妹が、「なんかしらんけど、抜刀して怒鳴っている兵隊さんはおるわ、ばあちゃんは泣いて、お母さんの手を引っ張って『こんな家にはいられない』って言うし……。何だったんだろうとあの時は思ってたけど、そういうことだったんだ」って、今でも言っています。

窪島 よくおっしゃいましたね。

野見山 もう、てんやわんやで……。それから翌日の朝、町内の皆さん、愛国婦人会の人たちが家の前に集まっている。本来そこで挨拶をして出発するのですが、そうしたら親父が「暁治、何も言うな」って。で、ひとことも言わずに別れてきました。こっちの方が、かなり奇妙なくらいです。町内というのは、当時、一種の共同体ですから、そこに無言で立っている姿なんて、これは怖い。

野見山窪島無言館はなぜ.jpg




無言館―野見山暁治「アトリエ日記」より[2019年03月07日(Thu)]

野見山暁治のインタビュー連載(朝日新聞朝刊)が13回目になった。記事を読むのと並行して『アトリエ日記』や随想を拾い読みしている。

野見山が窪島誠一郎とともに各地を回って戦没画学生の作品を集めて1997年に上出市に開いた無言館について、『アトリエ日記』から――

2005年6月19日
無言館の、戦歿者の名を刻んだ慰霊碑に、誰かが赤いペンキをぶっかけたのだ。
今朝の新聞を見て驚いた。
さっそくにも現地にいる窪島さんに電話。鉄道の枕木に石を置いたりする奴もいるんですから、と彼、あきらめたような声を出す。憤りをおさえているのだろう。
何度でも言いたい。無言館は戦争をテーマにしてはいない。反対とか賛成とか、とは違う。卒業までの兵役延期、いわば執行猶予をうけた画学生たちのそれぞれの証言、残された日まで、どのように生きたか、どのような絵を描いたかということ。赤いペンキも、その後の、心もとない人間の行為として残しておくか。


◆ペンキ事件は当方も記憶にある。
その前年の夏だったか、無言館を訪ね、あわせて信濃デッサン館で村山槐多のほとばしるように赤い絵を見たばかりだったので、いかなペンキをぶちまけたところで、本物の絵が持つ鮮烈さには敵うはずがない、と思った記憶がある。

その翌週の「アトリエ日記」には――

6月25日
午後二時から七時すぎまで、がっちりとビデオ撮り。終戦六十年というので、嫌というほど、かつての日々の証言者みたいに引きずり出される。又しても無言館が看板にせられて、今まで何度も受けた質問、ぼくは繰り返し同じことを答える、何度も答える。
学生時代、親交のあった戦歿画学生の、当時のありよう、想い出。過去は時が経つほどセピア色にぼけていって、やがて消滅するのが順当だ。こうもたびたび掘りおこされてゆくと、そのたび色は鮮明に再成されて、ぼくは過去からいつまでも逃れられん。

  *野見山暁治『アトリエ日記』(清流出版、2007年)より

◆記憶は何度も掘り起こされてゆくと褪色することなく、むしろ鮮やかによみがえってくる。画学生たちが遺した作品もまた、人間がその前に立つことによって、画布表面のくすんだ色の下から鮮やかに立ち上がってくるものがある。
見る者は絵の前で絵筆を手にした若者の息づかいに耳を澄ませ、若者が見つめる対象物及び彼らを包む空気と時間への想像力を試されるのだ。


テロ想定の「国民保護共同実動訓練」というが[2019年03月06日(Wed)]

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玉縄桜。湘南台公園で。
大船にある神奈川県立フラワーセンターがソメイヨシノの早咲きのものから育成したものだそう。同センターのある鎌倉の地名を冠して品種登録された。
フラワーセンター寄贈の玉縄桜、2株が並んで満開だ。

*******

訓練に名を借りた危機演出

◆湘南台駅前を歩いていたら、来る3月9日(土)、神奈川県国民保護共同実動訓練を実施するので交通規制がある、との立て看板に出くわした。

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そんなもの頼んでないゾ!と県のホームページを探したら、「テロ災害を想定した神奈川県国民保護共同実動訓練」とうたってある。

実施会場は3ヵ所。湘南台については横浜市営地下鉄の駅ホームで不審物が散布された、という設定だ。
地下鉄サリン事件のケースを想定しているわけだが、ちょっと待てヨ、である。
1月に公表された訓練実施の狙いは次の通りだ。

県では、東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会等の県内開催を見据えて、競技会場及び周辺のソフトターゲットを狙ったテロ災害の発生を想定し、関係機関が連携して初動対応や被災者の救出、救護、搬送を行う「神奈川県国民保護共同実動訓練」を実施します。

2020年オリンピック・パラリンピック競技大会県内開催を見据えて」である。

分からないところがいくつもある。
2つだけ指摘しておく。

(1)「等」には何が含まれているのか。それ以外のイベントを含めて、予定されているものを具体的に考えているのか。
もしそうではなくて、大きく網をかけておけば無難だろう、と考えて「等」を付けたのなら、削除すべきだと考える。「等」が無限定に拡大解釈されて市民にガマンや不自由の受忍を強いることになるためである。

(2)藤沢市で予定されている競技はセーリングだ。ならば関係者や見物人が最も多く利用するであろう藤沢駅周辺を訓練会場とするのが普通である。まして本番まで1年半を切ったこの時点で行う訓練は徹底して現実的に考えるのでなければ意味がない。

看板によれば、湘南台駅周辺で交通規制を敷くのは[A]駅東口の大通りと[B]湘南台市民センター北東の交差点「藤沢北警察署入口」から東の住宅地に向けて真っ直ぐに伸びる通り(今田郵便局まで)の2本で、看板の地図では赤く塗られてある。
ところが、この2本の道が接続している国道467号の方は赤色になっていない。100m足らずの区間で、[A]←→[B]を人や車両が頻々と往来する場面だって予想される。ならば両者をつなぐ国道467号も車両規制の範囲に含めて示して置くのが当然ではないだろうか?

◆訓練がリアリズムに徹して計画されているように思えないのは、横浜港大桟橋の方も同様だ。想定は「航行中の大型客船内での爆発が起き、不審な船が逃走」というものだが、古い007映画の世界のようにしか思えない。

実施者(国の要請を受けた県)がやり易い(実際的でない)訓練で良いと考えているとしたら、それは「やってる感」をアピールするためのパフォーマンスに過ぎない。
そうした訓練は、国民を真に守るためにやるというよりは、規制や統制を当然の如く受け入れる人々を増やすために行われる。

そのように飼い馴らされて行ったなら、自然災害に遭った場合にも自分の判断で行動することは難しいだろう。

名前だけは「国民保護共同実動訓練」とあるが「保護」は名目に過ぎない。
むしろ、いずれ在外邦人を「保護」する名目で自衛隊を海外に出動させるための「実働訓練」なのではあるまいか?今回の訓練にはむろん、自衛隊も名を連ねている。

【神奈川県の「訓練」告知サイト】
http://www.pref.kanagawa.jp/docs/yt2/r9503400.html

【開場図】
http://www.pref.kanagawa.jp/docs/yt2/documents/kunrenkaizyou_1.pdf
ソクヨク[2019年03月05日(Tue)]

聞き間違い

◆在宅介護の講演とパネルディスカッションの集まりで「ソクヨク」という言葉を耳にした。
漢字が思い浮かばない。
講演を終えた先生が隣に座っていられたので、紙に「側浴」と書いて、「これ、ですか?」と訊いたら、「足よ、足」という答え。
一瞬、目がテンになった。これまで「足浴」の読み方は「あしよく」だと思い込んでいたからだ。良く考えれば「ソク」+「ヨク」と二つとも音読みの方が熟語として自然なのだったが、「あしよく」と口にした誰かにならってそのまま覚えたのか、はっきりしない。何となく靴やソックスを脱いだものは「あし」で、「ソク」のほうは何かを履いた状態、という感覚があるからかも知れない。

◆介護の話だったから、「側」に介護する人がいる情景を想像して妙な二字熟語を発明してしまった。と同時に、フィリピンなどから介護士の資格を得るために来日している人たちの日本語学習の大変さが思いやられた。
介護の分厚い教科書を見たことがあるが、嚥下(えんげ)、拘縮、など、暮らしの中では一般的でない用語が満載で、目まいがした。
褥瘡(じょくそう)、胃瘻(いろう)など、画数の多い、常用漢字ではないものを、書けと言わないまでも、読めないことには仕事にならない(「胃ろう」と交ぜ書きしても意味するものに近づけるわけではない)。

耳から入る言葉と、文字から入る言葉とのすれ違いや隔絶は時に滑稽を、時に悲劇をもたらす。

*******

言語ジャック 1新幹線・車内案内  四元康祐

今日も新幹線をご利用くださいまして、
どうも感情面をご理解いただけなくて、

有り難うございます。
情けのうございます。

この電車は、のぞみ号・東京行きです。
このままでは、わたしたち絶望的です。

途中の停車駅は
夢中の迷走劇は

京都、名古屋、新横浜、品川です。
焦土、アロマ、新人類、ホームレス。

つづいて車内のご案内をいたします。
鬱にて家内もたまんないと申します。

自由車は一号車、二号車、三号車です。
市場主義は今豪奢、記号化最優先です。

自由席の禁煙車は一号車、二号車です。
日常性の検閲者は葡萄酒に酔いしれず、

禁煙車両では、
先端医療では、

デッキのお煙草もご遠慮下さい。
にっちもさっちも埓があかない。

車内販売は、お食事とお飲物などをご用意いたしまして、
無病息災は願うべくもなく古今集など朗詠いたしまして、

後ほどお席までお伺い致します。
東風(こち)吹かば匂いおこせよ梅の花。

どうぞご利用ください。
儲かりまっか大川総裁。

車掌室は十号車です。
理想の死はサドンデス。

携帯電話のご使用についてお願いいたします。
身体髪膚(しんたいはっぷ)これを父母に受く母肺癌父前立腺癌。

車内ではあらかじめマナーモードに切り替えるなど、
騒いでは羽交い締めサマースーツを脱ぎ捨てるなり、

まわりのお客様のご迷惑とならないように、
まわりのお客様のご冥福をお祈りをしながら、

ご協力を御願いいたします。
自爆装置のスイッチ押す私。
 


小池昌代・編著『通勤電車でよむ詩集』(NHK出版、2009年)より

*******

DSCN0019.JPG
ソクヨク中(?)のカモたち。
境川に宇田川が合流するあたりで。



「ありがとうの花」[2019年03月04日(Mon)]

DSCN0138-A.jpg

先日のと同じトビだろうか。悠々たる姿。

DSCN0137-B.jpg

うしろ姿も大らかだ。

*******

◆地元の保育園の卒園式予行に招かれた。1年ぶりに見る子たちの大きくなったことに驚く。
未来の抱負を大きな声で発表する姿はまぶしいほどだった。
全員で幾つも歌った中で、『ありがとうの花』という歌が新鮮だった。

その最初の一節――

ありがとうの花   坂田修(詞・曲とも)

ありがとうっていったら
みんなが わらってる
そのかおが うれしくて
なんども ありがとう

まちじゅうに さいてる
ありがとうの花
かぜにふかれ あしたに
とんでいく

ありがとうの花がさくよ
きみのまちにも ホラ いつか

ありがとうの花がさくよ
みんなが わらってるよ


◆最初の4行の単純で実に深いこと。
発したことばが受けとめられ、笑顔が返される。
それに応じてまた次の「ありがとう」のことばが口をついて出てくる、というのだ。

ことばを誰かに向けて発するとき、人は、こころを相手に向かわせる。
受けとめる人のこころはそれに共鳴りする。そうしてそれは表情に実に正直に現れる。

発語がそのように応答によって報われれば、話し手は改めて自分のすべきこと(振る舞いや行い)を正して相手に正対することを表明する。そのように応ずる=レスポンスすることを私たちは「責任」と呼んできた。

ヘラヘラ顔でウマくはぐらかすのが得意らしい首相や、記者の質問をシカトする(拒否する)官房長官は、ぜひ「ありがとうの花」を子どもたちに負けないよう歌ってほしいものだ。
ウマの耳に吹いて来るのは東風ばかりではないんだからネ。


鏡と自画像[2019年03月03日(Sun)]

DSCN0158.JPG
早咲きの桜が満開だ。

*******

風景   石原吉郎

風景の中央へ
一枚の鏡面を押し立てる
鏡面の背後は
つまりは風景の
継続だが
鏡面がおしかえすのはついに
風景のこちら側だ
左右を明確に
とりちがえた
寸分たがわぬ風景は
もはや他界と
呼ぶしかないものだが
そこが入口だとの
保証はないままだ


詩集『足利』所収。
『続・石原吉郎詩集』(思潮社・現代詩文庫、1994年)に拠った。

◆先日、卒業式を間近に控えた小学校6年生の教室を見学させてもらった。
ちょうど図工の時間で、子どもたちは卒業式でお披露目する自画像の制作に余念がなかった。

◆自分の顔を見つめるには、ある諦めや覚悟がいると思う。
そのため僕自身は外出前に寝起きの頭がハネてないか確かめる時ぐらいしか見ない。
見るだけでなくその己の顔を描くとなったら、ほとんど絶壁でつま先立ちしたぐらいの気分だ。
世に知られた画家たちの自画像に、あえて不逞の表情を描いた演技性の強いものはあっても、弾んだ気分のものはほとんどないように思う。

ふつう、鏡の中の自分を視て描いているわけだから、左右反転して映じた己を視ることになり、他人の目に映る自分の顔ともまた違うのだろうと思う。
描く者は、鏡面のこちらと向こう側に居る者の異同やズレを感知しながら筆を動かすことになるのではないだろうか。自画像なるものを描いたことがないので想像で言うだけだが。

◆石原吉郎の上掲の詩、鏡面が「他界」への「入り口」だと言っているのは鏡の前に立ったときの未知への予感や不安を含むそうした感覚を表したものと読める。

◆さて自画像に取り組んでいた子どもたちは、鏡ではなく、大きめにプリントした写真を見ながら描いていた。デジタル時代ならではの制作方法である。
デジタルなら誰かに撮ってもらうだけでなく自撮りすることも可能だ。
さらにその画像を反転させることもできるわけだが、果たしてそれは鏡に映して視る我が顔と同じかどうか。考え始めたら眠れなくなりそうだ。


統制美か天の邪鬼許容か[2019年03月02日(Sat)]

◆境川のウの群れ、およそ30羽。

DSCN0129-A.jpg

そろって同じ方向を向いている時が何回かある。だが、一斉統一行動のように見えても、仔細に見ると、一番向こうの列にいる2羽のように横向きになってこちらをみている者もいるし、右端から3羽目のように体は皆と同じほうに向けながら首だけは完全に後ろを向いている者もいる。
こいつだけが群れ全体の安全のために後方ウォッチングの特命を帯びているのかも知れない、と考えれば、自然界にも分業体制が構築されていることに感心するほかない。ただし面白味はない。

ウの世界にも天の邪鬼がいてそれが群れの中に包摂されていると考えたほうが個人的には好ましいのだが、さて皆さんはどちらだろう?

DSCN0133-B.jpg

その後一斉に上流目指して飛び立った。
目の前を次々よぎって行くさまは壮観である。






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