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花のかずを かぞえるのは[2019年03月21日(Thu)]

DSCN0351ハナニラ.JPG
境川の土手に一叢咲いていたハナニラ。
三つ叉の手裏剣を2枚重ねたような6枚の花びらが美しい。

わが家にも一輪だけ咲いていた。

DSCN0357.JPG

*******


花のかず   岸田衿子 

ひとは行くところがないと
花のそばにやってくる

花は 咲いているだけなのに
水は ひかっているだけなのに

花のかずを かぞえるのは
時をはかる方法
ながれる 時の長さを

ひとは 群れからはなれると
花のそばへやってくる

花は 黙っているだけなのに
水は みなぎっているだけなのに


岸田衿子詩集『たいせつな一日』(水内喜久雄・編。理論社、2005年)

白菜[2019年03月20日(Wed)]

DSCN0281.JPG
白菜の花

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白菜  八木幹夫

炒めすぎて
水を出してはいけない

シャキッとか
パリパリとか
擬音でしめくくる
一日が
いい

料理の味について
とやかくいうのは
やめよう

フライパンから
炎があがった

白菜を放り込め


詩集『野菜畑のソクラテス』(ふらんす堂、1995年)所収。
現代詩文庫『八木幹夫詩集』(思潮社、2005年)に拠った。


◆相模原に生まれ、父と肥え桶かついで畑仕事をした詩人には、だいこん、かぼちゃ、みょうがなど、野菜尽くしの詩集がある。
そこに描かれる野菜たちは、商品や静物画の素材などではなく、日々それらを育て、食べる、という具体的な行動と直結している。「シャキッとか/パリパリとか/擬音でしめくくる一日」とは、それぞれの野菜にふさわしいやり方で食べること=我が身に取り込むこと、そのように一日一日を締めくくって生きることの具体的な表現である。



 


花の予感は[2019年03月19日(Tue)]

DSCN0276.JPG
白モクレン。

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 (花の予感は)  河津聖恵

花の予感は 遥かからみちてくる
車窓の向こうが重力を忘れていく
空 雲 川が輝きをひらいていく


「花の窟」より。詩集 『新鹿(あたしか)』 所収(思潮社、2009年)。
*新鹿は紀州・熊野。作家・中上健次が住んだことがあり、河津の詩集「新鹿」は中上の『紀州 木の国・根の国物語』を追うように新鹿から浜町までを旅した体験から生まれた。



みみずの「ぼうだいなうちがわ」[2019年03月18日(Mon)]

DSCN0326スノーフレークオオマチユキソウ.JPG
スノーフレーク。別名オオマチユキソウ(大待雪草)というそうだ。可憐だ。

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土   八木幹夫

ダーウィンのみみず論を読んでいたら
生きているあいだじゅう
いっぴきのみみずがうみだしつづける
ゆたかな土の量は数トンにおよぶそうだ

みみずのうちがわを通過していった土よ
みみずのそとがわへ出たとき
気がついただろうか
ぼうだいなそとがわはぼうだいなうちがわのことだと

ほらっ 気をつけて!
主人が鼻歌まじりで
春の畑に
鍬をいれはじめた


詩集〈野菜畑のソクラテス〉所収。
現代詩文庫『八木幹夫詩集』(思潮社、2005年)に拠った。

◆”ダーウィンのみみず論”とはこの詩で初めて教わった。正式には『ミミズの行為による肥沃土の形成とミミズの習性の観察』と言うのだと、細田直哉氏が「ダーウィンのミミズ研究とアフォーダンス」というエッセイで取り上げている。
https://www.brh.co.jp/seimeishi/journal/035/essay_11.html

◆みみずが体内に取り込み排泄する膨大な土。
豊かな恵みをもたらす土に変えてくれるみみずの営みに想像を働かせる、その心の使い方そのものもまた豊かである。


*八木幹夫(1947〜)の詩はこれまで下記の2編を取り上げた。

★「もうひとつの旅」 
http://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/753

★「銃剣」
http://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/752


耕す犂先に耳を澄ませ[2019年03月17日(Sun)]

◆朝、窓を開けたらウグイスのさえずりが聞こえた。
今年初めて聞く。


DSCN0334.JPG
イタドリハムシ。
大きさも飛び方もテントウムシに似るが、斑紋の形が独特。面長な胴に触角も長いなど、異なるところが多い。



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目に接ぎ木されて   パウル・ツェラン


目に接ぎ木されて
いるのだ お前の目に、森に道を示した小枝が――
眼差に兄弟姉妹のように結びつけられて、
それは あの黒い、
あの芽をふく。

空一杯に 瞼が この春のために張られる。
瞼一杯に 空が広がる、
その下で、あの芽に守られて、
永遠である者が 耕している、
主が。

その犂先に耳を澄ませ、耳を澄ませ。
耳を澄ませ――それは軋んでいる
あの固く、あの明るい、
あの太古の涙のうえで。


『敷居から敷居へ』(1955年)の〈取り替わる鍵で〉の一篇。
『改訂新版 パウル・ツェラン全詩集』中村朝子・訳(青土社、2012年)より。

★友より「おみ漬け」(と説明してくれた)――年来手ずから育てている野菜を細かに刻んだ漬けものを頂戴した。
夕餉に豊かさの加わる一品。
犂をふるい種を蒔き、育て、刈り入れる。
食する我らもまた太古からの営みに推参し、その恵みに浴すること。



ちりし[2019年03月16日(Sat)]

DSCN0245.JPG
花は白も黄色も水仙(和泉川沿いの歩道で)。

*******


あぶらかだぶら   池井昌樹


むかしむかしあるくにに
おごりたかぶりなるものが
あぶらかだぶらのりとをとなえ
そらとぶじゅうたんあやつって
きんぎんざいほうかっさらい
あげくにそらからおっこちて
おっちんじゃったとみてみたら
あたりいちめんどろっぷす
いろとりどりなどろっぷす
くだけたやつもひしゃげたやつも
いきかえれないやつまでも
うまれなかったやつまでも
こどもはみんなよろこんだ
おとなはどこにもいなかった
めでたしめでたし
すいっちをきり
こんやもてれびにまくおろし
おごりたかぶり
あぶらかだぶら
しゃぶっていたあめとりだして
ちりしにくるみ
ふところへ
これはあしたのおたのしみ


 『眠れる旅人』(思潮社、2008年)より

◆「ちりし」=チリ紙のことをこう呼ぶことに懐かしさを感じて作者の略歴を見たら、同年の生まれだった(1953年)。四国・香川県の生まれ、とある。
60年代初めのテレビ「魔法のじゅうたん」を小学校の低学年で見た世代となる。
呪文「アブラカダブラ」で空を飛ぶじゅうたんに子どもたちを乗せ、空撮映像を合成で見せるのが人気だった(たぶん生放送)。

「ティッシュ」などまだ存在しない時代、「ちりし」は祖母の前垂れ(エプロン)のポケットに忍ばせてあることが常だった。洟垂れ小僧の孫たちのために、である。詩のようにドロップスを包んで置くために、ではない。


パウル・ツェラン〈世界、ぼくたちのほうへ〉[2019年03月15日(Fri)]

DSCN0252-A.jpg

◆厚木飛行場に向かう飛行機が境川を目印に飛ぶことが増えた。
先日、上の様に2機が接近して見え、肝を冷やした。

航跡はクロスしたが、立体交差のごとく飛ぶ方向も高度も違っていたようで、無事ではあった。
ニアミスというものではなかったろうか?

*******

(世界、ぼくたちのほうへ) パウル・ツェラン

世界、ぼくたちのほうへ
空っぽの時刻のなかへ踏み込んで――

二つの
木の幹が、黒々と、
枝分かれもせず、
節もなく、ジェット機の航跡のなかに、縁がぎざぎざの、あの
一枚の弧-
立している高みの葉。

ぼくたちもまたここに、空虚のなかに、
旗の傍らに立っている。


『言葉の格子』(1959年)所収の一篇。
中村朝子・訳『改訂新版 パウル・ツェラン全詩集T』(青土社、2012年)より。

◆「ぼくたち」が世界へ踏み出して行くのでなく、世界のほうがこちらに踏み込んでくる。
こちらにあるのは「空っぽの時刻」すなわち「空虚」である(「無」ではないことに留意しよう)。
空虚を形づくっているのは「ぼくたち」の他に無機的な二つの木。
その高みに、ぎざぎざの「弧」線をくっきりと示しながら一枚の葉がある。
それは「空虚」の象徴であるようだ。
それが吹き飛ばされるのか千切れてしまうのか、ある覚悟をもって見上げている「ぼくたち」。
しかしその「空虚」の側から、何と「もの」たちは鮮明に見えることか。

「象徴」を見上げながら「旗」の傍らに立つ――60年後の現在の私たちのようではないか?


そらとみずのひしめき[2019年03月14日(Thu)]

DSCN0257.JPG
水仙。横浜市泉区・和泉川沿いの遊歩道にて。
和泉川は境川に注ぐ11kmほどの川だが、流れの途中にあえて岩を置いて流れの変化を生むように整備されている。

*******

争う     吉野弘


    

青空を仰いでごらん。
青が争っている。
あのひしめきが
静かさというもの。


    

流れる水は
いつも自分を争っている。
それが浄化のダイナミックス。
溜り水の透明は
沈殿物の上澄み、紛(まが)いの清浄。
河をせきとめたダム
その水は澄んで死ぬ。
ダムの安逸から放たれてくる水は
土地を肥やす力がないと
農に携わる人々が歎くそうな。
 
 

『北入曽』(青土社、1977年)所収。
小池昌代・編『吉野弘詩集』(岩波文庫、2019年)に拠った。

◆「清・浄」というふたつの文字に息を潜めて見入るなかから生まれた詩。
そら、みずそれ自身のうちに潜む争い・ひしめきが、地上のものを生かしていると気づくまでに、どれほど息を詰め目と耳を澄ましていたことだろう。




コブシ咲く[2019年03月13日(Wed)]

DSCN0225.JPG
コブシの花がほころび始めた。
横浜・関内駅前で。

地元・湘南の奥座敷(を勝手に「オアシス」と呼んでいる)も負けていない。
午後の逆光にボウッと烟る風情もまた佳し。

DSCN0262.JPG

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村への道   木村迪夫

やわらかな陽射しを夢みて
冬の河を遡(のぼ)ってきた農夫の姿がある
流れから這いあがり
水しぶきを躰でふりはらうと
岸のむこうの
萌えいそぐ田のなかの雑草(くさ)に腹這い
仰むけになり
頰うつ風に逆らうこともなく 眠る


百年の孤独のような凍えから解放された
農夫は
この先の百年の村のかたちを眼のうちに
黄色にけぶる空と地のはるかな接点を
歩きはじめる
昨日
過疎の村の学校の
木造校舎でむかえた入学式の子供たちのように
顔をひきつらせ
両手で胸をなでおどらせながら
病のあとの
疲労感はまだ五躰を包囲してやまないが
寒い河の流れの時節に訣れをつげ
ゆっくりと
村へとつらなる道の坂を
越える


木村迪夫(みちお)『村への道』(書肆山田、2017年)より


こわいこわいとなくからす[2019年03月12日(Tue)]

DSCN0214.JPG
シジュウカラ。地上近くに降りたところを正面から撮れた。

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烏の群れ飛ぶ風景   池井昌樹

ななつのこなどおりません
やまのふるすもありません
からすはまちのそらにいて
こわいこわいとなくのです
そらのしたにはまちがあり
おおぜいひとがゆききして
どこかいそいでいるけれど
どこかへにげてゆくけれど
そこがどこだかわからない
ひとのこえさえきこえない
きょうもだれかがさきへゆき
だれかがきょうもこぼれおち
まんいんでんしゃはしたうちし
だれもがあらぬかたをむき
からすのむれとぶまちのそら
なにごともなくときはすぎ
そらのしたにはいつからか
もうまちもなくひともいず
けだものみちがさむざむと
どこかへおれているばかり
あらしになるかもしれません


 池井昌樹『一輪』(思潮社、2003年)より

◆童謡「七つの子」(野口雨情)を換骨奪胎しながら、都会暮らしへの違和を歌う。
原発避難者が5万2千人以上(19年2月末復興庁発表の数字)の現状を、十数年前すでに予告した詩のようにも読める。
「まんいんでんしゃはしたうちし」――やむなく移り住んだ都会ではだれもが招かれざる客であることに焦れ、電車に押し込められた時間に耐えている。舌打ちは悶々沸々とした胸底のマグマがつかのま姿を現す炎の舌である。

人の皮着た「けだもの」ばかりとなった街には、折れて先を見通せない道が、寒々しく伸びているばかり。

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