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卒業〜入学 師の声に耳を澄ます[2019年03月31日(Sun)]

DSCN0294_0000-A.JPG
藤沢市の鳥であるカワセミほかをあしらったレリーフ。
市民会館前の舗道にて。

*******

◆新年度を前に、県内の教職員の異動が朝刊の別刷りで届いた。地元小学校の校長先生の退職が録されてある。先般の卒業式が教師人生において教え子の旅立ちを見送る最後の式となったわけである。6年生たち数名ずつ順繰りに校長室で給食をともにする時間を持ったと話されていた。巣立つ子ら、見送る者それぞれに忘れがたいひとときとなったことと思う。

◆先日、高校時代の恩師である小田桐孫一先生(1911-1982)の声をYouTubeで発見した。録音テープ発見の記事を地元紙がアップしたもので、中に47年前――1972年の3月の我々の卒業式でのスピーチが含まれていた。
その後、スピーチ全部を収めたCDを同期の友人から送ってもらった。
録音発見を伝える地元紙「東奥日報」の記事も添えてあった。

★【2018/6/23 東奥日報ニュース】
伝説の名物校長 生前の音声テープ発見
https://www.youtube.com/watch?v=oz2tJvbVQ6A

◆CDの声は、18歳の我が耳に刻み込んだ記憶と重なりつつ、当時感じていたより遥かに若々しい声であることに驚いた。
必ず我々の先を歩いている人という絶対的な感じとのズレなのだろうが、当時60歳の恩師より齢が上になったにも関わらず、なお追いつくことはない、ということを確かめるために生きて来たような気がする。

今まさに壇上の師の声を聴く思いで涙、その日のスピーチを収めた随想集を久しぶりに繙いてまたまた涙…であった。

◆我々の卒業と時を同じくして恩師も退職の期を迎えていた。
スピーチは次のように始まっている。

〈チップス先生さようなら〉――イギリスの作家ジュームス・ヒルトンは、彼の書いた短編にこのような名前を付けました。この短編小説は、私(わたくし)がこれまでいくたびか読み返し、そのたびごとに心から笑い、またときには思わず涙を流したことのある作品であります。ここには永遠の教師像ともいうべきものが描かれてある。描かれたものではあっても、私は年来そういうものになりたいと願い、今その願い半ばにして、三十年になんなんとする学校生活を終ろうとしています。しかも、この学校の八十九年の歴史の古さとここに学ぶ生徒の若さとが、今日の日までよく私ごとき者を支えてくれました。去る身にとって、なんの悔いがありましょう。この上はただ、これからの私の人生の黄昏においてもなお、生のある限り、わが「心の故郷」のさらに栄あれと祈りながら、私自身、心してチップス先生の求めたる所を求めつづけたいものと願うのみであります。

◆芭蕉の〈古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ〉をふまえた語、「先生の求めたる所を求めつづけたい」とは、薫陶を受けた者たち一人ひとりの胸に刻まれ、指針となった言葉でもあったはず。

このスピーチでは、チップスの生涯をたどりながら、第一次大戦で戦死した教え子たちの名を日曜礼拝のたびに読み上げるチップスの姿も朗読している。
日本の敗戦から丸四年におよぶ抑留体験を味わった人として、チップスの悲しみを通して戦争のむごさを我々に伝えずに済ますことは出来なかったのである。

◆卒業生への言葉はチップスの最後の言葉を受けて次のように締めくくられた。

私にも何千人もの子供たちがあった。今「その何千人もの子供たちの大合唱(コーラス)が、これまでに聞いたことのない壮大さと美しさと暖かい慰めとをもって」聞こえてくるような気がする。その大合唱(コーラス)隊の中に諸君ひとりひとりがいる。しかも諸君は今、私と一緒にこの学び舎を立ち去ろうとしているのである。
諸君はこれからヘラクレィトスのいわゆる「上への道」を辿ることになり、私は「下への道」を辿ることになる。それにしても、いわば同期生なのである。だから私は、ことにたぎり立つ思いを籠めて諸君に呼びかけたいのだ。諸君に呼びかけることは、私の教え子たち全部に呼びかけることであり、またわが母校の八十九年の歴史に呼びかけることになるのである。
教え子たちよ、人生の旅人たちよ。
十分に翼を張り、いかなる風雪にあおうともそれに耐えるようそれぞれ翼の付け根を固めよ。
俗物の教養がどのように世にはびころうとも、諸君ひとりひとり、「一隅を照らさんとする」高き志を立てて、思う存分羽ばたくがいい。
私は別れの袖の重き心を抑えながらそこまで見送ろう、諸君ひとりひとりの後ろ影が消えるまで。そしてやがて、私自身、瓢として浮雲(うきぐも)の若(ごと)くに、この門から立ち去るであろう。晩年のチップスのあとをなおも尋ねて行くために。
鏡ヶ丘の子供たちよ、さようなら。
 
(昭和47年3月)

「一隅を照らす」…「山家学生式」にある最澄の言葉。
*文字遣いは小田桐孫一随想集『鶏肋抄』(1972年)所収の「螢雪の辞(二)」に拠った。

◆高校の入学式における出会いから数えるとちょうど50年。時間の長さが果たして質の伴うものであったか、師の墨跡をながめながら自問する。

小田桐孫一[飄若浮雲又西去](鶏肋抄より)-A.jpg
〈飄若浮雲又西去 石心書〉…〈飄として浮雲のごとくまた西に去る〉、「石心」は小田桐孫一先生の号。(『鶏肋抄』中扉より。1972年発行)

*******

◆昨日と同じト・ジョンファン『満ち潮の時間』(ユン・ヨンシュク、田島安江 訳)から――


教師の祈り   ト・ジョンファン

天に放つために鳥たちを育てます
子どもたちが私たちを愛するようにしてください
あなたが私たちを愛するように
私たちが子どもたちを愛するように
子どもたちも私たちを愛するようにしてください

私たちがあなたにそうであるように
子どもたちが私たちを熱く信じ、従い
あなたたちが私たちにそうであるように
子どもたちを慈しみ、大事に思い
嘘偽りなく教えることの出来る力をお与えください
子どもたちがいるから、私たちがいるように
私たちがいるから
子どもたちが勇気と希望を持ち続けられるようにしてください
力強く飛べる羽ばたきを教え
世の中を正しく見る目を持てるようにし
やがて彼らが、空の向こうに飛んで行ったあとの
がらんとした風景を眺め
その風景を再び満たせることで
一生を捧げていきたいと思います
子どもたちがお互いを愛し合うときがくるまで
私たちを愛するようにしてください
私たちがもっともっと子どもたちを愛せるようにしてください


*1954年生まれの韓国の詩人もまた教職にあった。訳者の一人ユン・ヨンシュク氏は1953年生まれ。ともに当方と同世代だが、「戦後」ではない韓国の歴史を生き、そこに言葉を沿わせて子どもたちへのメッセージとしていることに感動を覚える。


ト・ジョンファンの詩「蔦」[2019年03月30日(Sat)]

ト・ジョンファン(都鍾煥)という韓国の詩人を知った。1954年生まれ。
白粉花(おしろいばな)、スベリヒユ、茄子の花、ナデシコなど、草花が鮮やかなイメージを立ち上げる。それらを用いた比喩も美しい。とりわけ、若くして逝った妻を立葵(たちあおい)の花にたとえた一篇「立葵の花のようなあなた」。
病床の妻に終夜付き添い、残された時間をいとおしむ結びのことばが、惻々と胸に迫る――

とうもろこしの葉を打つ雨音が大きくなってきました
また夜がひとつ闇の中に消えるけれど
この闇が終わり 新しい夜明けが訪れるその瞬間まで
私はあなたの手を握りずっとそばにいます


***

◆教師として教え子たちに注ぐ愛情を歌った詩も多いが、30代半ばで教職員組合結成に参加したことを理由に免職・投獄された経験を持つ。
抑圧するものへの不屈の抵抗をうたった次のような詩は、私たちを励ましてやまない。


 蔦    ト・ジョンファン

あれは壁だ
ひとは抗いようもない壁だと思うのに
なんとその壁を
(つた)は何もいわずに登っていく
一滴の水もなければ たとえ一粒の種子だって生き残れない壁
あれは絶望の壁だとひとびとは言うのに
蔦は焦らず黙ってゆっくり前に進む
わずか三センチほどの距離でも
みんなで手をつなぎあって進んでいく
絶望の緑一色に覆いつくされるまで
その絶望しっかり握りしめて離さない
ひとはどうしても越えられない壁だと肩を落としているのに
一枚の蔦の葉は 数千枚の蔦の葉と手と手をつなぎ
ついにその壁を乗り越える

  (ユン・ヨンシュク、田島安江 訳)

ト・ジョンファン満ち潮の時間.jpg
ト・ジョンファン(都鍾煥)詩集『満ち潮の時間』(ユン・ヨンシュク+田島安江 編訳。書肆侃々房、2017年)

*2017年より文在寅政権で文化体育観光部長官の職にあるとのこと。

撫でる[2019年03月29日(Fri)]

◆藤沢市役所1階に緕R賀行(くわやまがこう)という方のクスノキの彫刻が置いてある。
「我家のソクラテス」と題するワンちゃんの木彫りである(2010年制作)。

DSCN0290-A緕R賀行わが家のソクラテス.jpg

「手で触れて見る彫刻」とのこと。説明板には「我家にやって来た盲導犬リタイアのアイリスはソクラテスを思わせる風貌をしていた」と書いてあった。

DSCN0292-A緕R賀行我家のソクラテス.jpg




犬の椅子  佐野千穂子

犬よ お前には椅子はいらない
お前がすわれば
そこはみんな椅子になる

山を駆け登り
田を駆け走り
追いつけぬ私を待っていた

あの山や刈田が お前の椅子だと気づいた時
夜毎 私と眠るお前の
鶏のももほどの足が愛(いと)しく
目を閉じて撫でていると
お前の椅子だった山や田を
そっくりそのまま撫でている気がして
お前が駆けた大地が私の椅子になってゆく

ある日 赤い犬がやってきて
いきなり私の椅子をこわした
かみつくやいなや 二・三分で――
人の顔したわけ知り顔の犬は知らないらしい
たんにいっときの 作った椅子は
 〈こしかけ〉でしかないことを

愛犬(ヴェラ)を通して撫でてつかんだ山や田や森
そうです それはもはやこわされはしない
個である私の犬の椅子です


*村田正夫・編『現代動物詩集』(清流出版社、1992年)より。



空谷への想像力[2019年03月28日(Thu)]

◆昨日の記事で「はがねづくりの鯉」などという詩句を引用して明けた今朝の境川、コイたちの戦いの火ぶたが切って落とされた。
3月末から4月初めに繰り広げられる、繁殖の勲(いさおし)を求めるたたかいである。

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*******

◆昨日と同じく南川隆雄の『みぎわの留別』(思潮社、2018年)から、詩人の地元、相模原市の深掘川から境川・江の島の海へと思いを川下りさせる詩を一篇――


急坂の町   南川隆雄

朝日を浴びて急坂をくだると
危なっかしい仮橋のしたに深掘川の流れがある
こわごわ覗きこみ
ひとの棲まなかったころの
底深い渓谷に想いをはせる

ひとが蹲るかたちの影が
地べたを這ってのがれていく
空をうかがえば それはきれぎれの雲の一片
西方の丹沢に雨の気配がうごめく

深掘川は暗渠となってすがたを消すが
やがて都県境の境川に合流して
江の島で相模湾にそそぐ
川べりを鯉を見ながら歩くと
隣市の図書館が近い

まだひとのいなかった時代の
底深い渓谷をなおも空想しながら
いま流れを添いおよぐ鴨のつがいを
うらやましげにながめる

伊勢でこの世に顔を出し
尾張三河 相模武蔵と海沿いに漂うてきた
偶然に偶然が重なって いまここに
じょうできだろうな
近々このあたりで煙になって雲間に消えれば






はがねの鯉にまたがって[2019年03月27日(Wed)]

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朝日を受けた桜のつぼみ。
今日には開くだろう。
いつもの境川べりの土手道で。

*******

朝の散歩   南川隆雄

逝くときは朝方だろうね――
ささやきは耳たぶに斜めの針穴をあけた

するりと夢のそとにでて
からだをねじって周りを見わたす
そしてだれよりも早く起き遠くまで足をのばす

ささやきはここまで洩れ聞こえるようだ
震える水があるとついのぞいてしまう
はがねづくりの鯉が身じろぎもせず
背に乗れと言ってくれている
蚊の小母さんとよぶ水馬も親しげに寄ってくる
もしや伝える術のない伝言を携えているのかも

見れば あちら側から蜘蛛の糸が外気にまで逆に垂れ
水鏡のなかのひとのからだを貫いている
細糸をたどって空という底しれぬ淵を浮びあがれば
ぽっかり彼岸の湖面に頭をだせるとでも

いたずらに生きのびてきたおかげで
逝く人びとの背中をさまざまに見送ってきた
いつも一枚のくもり硝子をあいだに立てかけ
度胸はさっぱりつかなかったけれど

次の朝を待つだけの日とはなに
きょうもなんの変哲もなく過ぎそうだ
いくらか陰うつに貌をつくり 踵をかえす


*水馬…アメンボ

◆作者は相模原にお住まいの詩人。その街から境川を眺め、江ノ島で相模湾に注ぐさまに思いを馳せて詠んだ作品もある。
川下に棲む者が水面に目を凝らせば、散歩のついでに「はがねづくりの鯉」にまたがった詩人が流れを下ってくるかも知れない。

『みぎわの留別(りゅうべつ)』(思潮社、2018年)に拠った。




「脱原発ひろば」の淵上太郎さん逝く[2019年03月26日(Tue)]

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境川べりもソメイヨシノがほころび始めた。

*******

◆今日26日の東京新聞、鎌田慧の「本音のコラム」が淵上太郎氏の訃音を伝えていた。

福島第一原発の事故後半年の2011年9月11日から経産省前に「テントひろば」を開き、5年にわたり脱原発の拠点とする運動を続けて来た方である。

淵上さん逝去の報は21日代々木公園であった「さようなら原発全国集会」で参会者には伝えられていたが、その後、通夜・葬儀の日取り・斎場のお知らせがSNS等で伝えられ、図らずも地元在住の闘士であったことを知った。
享年76。

謹んでご冥福を祈ります。

*******

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◆土手沿いの菜園にはナバナ。
その頂上を極めたという表情のハチ。
自然界の運行はすべて世はこともなし、の風だが、地方統一選挙、神奈川県は知事選、県議選が間近だ。旗幟鮮明に脱原発を進める候補を推したい。


記憶する歌[2019年03月25日(Mon)]

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レンギョウが咲きそろいつつあり。

川べりの桜もポツポツと開き始めた。
六会の駅周辺では日大の桜がみごとだが、そちらはすでに一〜二分咲きというところ。
引地川からやや離れていて冷たい空気にさらされにくい環境に加えて、生物資源科学部のキャンパス(かつては農獣医学部)なればこその地味に恵まれて、ということがありはすまいか?

*******


風の歌が   安水稔和

奪われた視野に
わずかにあらわれる
ふっとあらわれて
そっと近づいてきて。
揺れて 揺れて震えて
姿を変えて。

立ちあがる
木の形 木だろうか
立ちすくむ
森の姿 森のような。
走り去った獣たちよ
失われた人の影よ。

霧が流れる
水の粒がからみつく
ものの記憶にも 人の記憶にも
人の魂の記憶にも。
引き離され引きずられ
どこへどこまで 私たちは。

私たちでもあるあなたがたも
あなたがたではない私たちも
これまでいつも
この先かならず。
風の歌がきこえてくる
風の森から。
 


『安水稔和詩集記憶の目印』(編集工房ノア、2013年)より。

◆震災が有無を言わせず奪い去ったもののわずかな残像―確かに在ったはずなのに揺さぶられて流動する砂粒に変じてしまったような木や森、そこにいたはずの獣や人間たちまでもが弄ばれたように激しく引き動かされ、消え失せた。
それらを見失うまいとする私たちは、見失われまいとしたあなた方と、ついに同じではないのだが、目を凝らし続けている限り聞こえてくる歌があるはずではないか、と。



イチローとスミレと漱石と[2019年03月24日(Sun)]

イチロー選手の引退会見、異国でかみしめた孤独とそこから得たものがこの先の人生で意味を持って来るだろう、と締めくくった奥の深いコメントを聴きながら、119年前に海を渡った漱石の孤独を想像した。
イチローが渡米したのは27歳、漱石の渡英は33歳であった。

***

DSCN0347.JPG
スミレ。舗道のすきまからまことに小さな花をもたげて、たくましい。

***

漱石の俳句の中でも良く知られた〈菫程な小さき人に生れたし〉は、こうした在来種のスミレをイメージして詠んだものだろう。熊本にいた明治30(1897)年の2月、子規へ送った句稿40句中の一句である。

◆明治28年、松山にいた漱石の下宿(愚陀仏庵)を子規が訪ねて以降、漱石の俳句熱は一気に高まった。翌明治29年4月に熊本の第五高等学校に赴任、その地で所帯を持ってからも東京の子規に句稿を送り、子規はこれを添削して秀句は自らの帳面『承露盤』に書き留め、新聞紙上で論評した。

明治32年秋までに、句稿が子規に送付されること35度に及んだが、明治33年、英国留学に伴い漱石の句作が大幅に減ったのはやむを得まい。
呻吟・懊悩の倫敦時代と言われる。
子規の病状については日本から送られてくる「ホトギス」誌などでも知り、再会することは叶うまいと覚悟を固めざるを得なかった。
畏友・正岡子規の訃報をロンドンで聞いたのは明治35(1902)年、帰国の準備を始めたころであった。
同年12月、帰国に向けて再び異文化に心と体を切り替える孤独な作業を進めながら、ようやく手向けの句を高浜虚子宛の手紙にしたためる。
以下の五句である。

 
  倫敦にて子規の訃を聞きて

筒袖や秋の柩にしたがはず
手向くべき線香もなくて暮の秋
霧黄なる市に動くや影法師
きりぎりすの昔を忍び帰るべし
招かざる薄に帰り来る人ぞ


◆冒頭句の「筒袖」(=洋服)とは、懸命に身と心を「洋」に合わせようとして過ごして来た日々を自嘲的に述べたものだろう。友の野辺送りに連なることの叶わないのは、異郷にあるだけでなく友と共有する言葉から遠ざかっているからだ、という含意があるようだ。
同じ手紙には「かく筒袖姿にてビステキのみ食ひ居候者には容易に俳想なるもの出現仕らず昨夜ストーヴの傍にて左の駄句を得申候得たると申すよりは寧ろ無理やりに得さしめたる次第に候へば只申訳の為め御笑草として御覧に入候近頃の如く半ば西洋人にて半日本人にては甚だ妙ちきりんなものに候」と書いている。戯画化しながら2年余りの英国留学を総括した偽らざる感懐でもあっただろう。

*句は1967年刊の岩波版漱石全集第12巻、書簡は1928年刊の岩波版全集第18巻に拠った。
伝記的事項は荒正人による『漱石文学全集 別巻』(集英社、1974年)を参照した。

★なお、3句目の「霧黄なる」ロンドン風景については、正に漱石が留学していた頃に繰り返しロンドンを訪れていたモネ「テムズ河のチャリング・クロス橋」および「霧の中の太陽」を参照してみて欲しい。

モネの描いた霧のロンドンと2人の日本人】[2018年9月18日の記事]
http://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/990


「DAYS JAPAN」最終号届く[2019年03月23日(Sat)]

「DAYS JAPAN」の最終号が届いた。2004年3月の創刊号以来、通巻で183号を数える。
購読15年に及んだ。

昨年休刊を公表した直後に、同誌を立ち上げ長く編集長であった広河驤氏の性暴力問題が報道され、これに対するデイズジャパン社の対応も混乱を呈して2月予定の最終号発行も一ト月延期するなど、曲折があった。
有終の美を飾ることができなかったのは無念である。

DAYSJAPAN_0011.jpg
 [表紙:東京上空。Sama Salek/EyeEm via Getty Images]

◆最終号は〈「広河驤齔ォ暴力報道」を受けて―検証報告〉
および〈性暴力を考える〉の二部構成。
検証委員会としての報告は時間的な制約もあって中間報告に留まり、「最終報告」は発表方法を含めて今後の課題としている。

一つ前の今年2月号表紙は次のような異例のものであった。

DAYSJAPAN_0012.jpg

市の図書館に行ったおりにいつも配架されている棚を見たら、2月号の上に他の本がかぶせられて、表紙が見えない状態だった。
人目にさらされることに居たたまれぬ愛読者がしたことであったろう。

◆いずれにせよ創刊以来、フォト・ジャーナリズムとして世界の現状に我々の目を開かせて来たメディアが消える。
表紙に毎号付された「一枚の写真が国家を動かすこともある」、「人々の意思が戦争を止める日が必ず来る」のコピーは、ジャーナリストたちの使命感と自負をこめた言葉である以上に、読者の希求するものの表現であった。

◆記憶に残る表紙をいくつか載せて置く。

DaysJapan_0002.jpg
2004年4月号。創刊号である。衝撃であった。
(表紙:Photo by NABIL/AP/WWP)


DAYSJAPAN_0013.jpg
2005年2月号。(表紙:Arko DATTA/REUOTERS。親類が津波で犠牲になり、砂浜で泣き崩れる女性。カッダロール・インド)
*日本政府に難民認定を申請していたクルド人家族が掲載された号。


DaysJapan_0005.jpg
2007年5月号。表紙はRenee C. BYERの「母の旅 小児ガンの子とともに」(2005.6.21、米・サクラメント)。車椅子の息子デレック・マッドセンとその母シンディ・フレンチ。


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表紙:Photo by Kazuya ITO 菜の花畑で遊ぶ少女たち。
アフガニスタン東部ジャララバードで拉致され、遺体で発見された伊藤和也さん(ペシャワール会)が撮影した一枚。撮る人間の愛情が立ち昇ってくる写真だ。
「DAYS JAPAN」は緊急特集を組んだ。


◆志あるフォト・ジャーナリストたちも、読者に作品を届ける場を失っては翼をもがれた鳥に等しく、読者にとっては鉛のアイ・マスクで視界を遮られたも同然である。
フォト・ジャーナリズムの松明を再び高く掲げる者は現れないものか。

祝祭[2019年03月22日(Fri)]

DSCN0353.JPG
テントウムシ。つややかだ。
これは一昨日のわが家で見かけたやつだが、その翌日、つまり昨日の散歩道では、目の前を地上3メートルほどの高さまで飛び上がったテントウムシに遭遇。
再会したうれしさに舞い上がった……ということはないよネ、たぶん。

花も虫も一斉に動き始めたようす。

*******


祝祭  中本道代

這う虫も飛ぶ虫も
ひとときの祝祭の中にある
神さまも今はちょっと御座をはなれておられる


*4連から成る詩の第一連。
入沢康夫・三木卓ほか編『詩のレッスン』(小学館、1996年)に拠った。

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