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労働は安く精神はもっと安い国[2018年11月30日(Fri)]

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ヤツデ

*******

◆今日の夕方、「公共放送」のニュース解説は「技能実習生」問題と入管法改正
解説者の不勉強と準備不足があらわで、メロメロだった。
生放送とはいえ、当事者の声も相当量報じられて問題点が見えているこの段階での解説としては体をなしていなかった。
政府の面子を損なわぬよう、局内の「一線を踏み越えてはならない」放送指針があるのだろう。原稿を気にしすぎて、低賃金・長時間の労働を強いられている生身の人間への想像力は、耳と目を注いで探しても、ついに見あたらなかった。番組MCからのフォローも補足もなし。

労働は安く精神はもっと安い不潔な統一に
わたくしたちの国は絹のように落着いていましたむろん


  北村太郎「イン・メモリ・オヴ……」 『北村太郎詩集』(思潮社・現代詩文庫、1975年)より


「安保法制は憲法違反」の判決を求める署名提出[2018年11月29日(Thu)]

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本日、安保法制違憲訴訟第8回口頭弁論
開廷前に横浜地裁前で

今日もたくさんの傍聴者で横浜地裁101号法廷は熱気に包まれた

◆広島で生まれ育った原告Nさんの意見陳述は、小学校の社会見学で原爆資料館(現・平和資料館)見学から帰って来た夜の夢の記憶から始まった。
「助けて、助けて」と自分に追いすがる大勢の人たちが夢に出てきたのだという。

その後、神奈川で暮らすようになり、地元生協の「ひろしま子どもツアー」で10代の子どもたちと一緒に戦争・平和について学び直す中で、じぶんの中の「原爆」に向き合い直した、と述べた。
Nさんの陳述が終わると、傍聴席からあたたかな拍手が湧き起こった。

◆ツアーに参加した子どもたちの声を紹介しながら、ご自身にとっての10年に及ぶ「ひろしま子どもツアー」を総括したNさんのことばを抄録する。

平和が空気であるかのように育った子どもたちにとっては、当然、見るもの・聞くこと全てが衝撃的であり、「気持ち悪い、怖い」など吐露しながらも、最後には「戦争になったら絶対、声を上げて止める」「首相になって核兵器を無くす」等々、乾いた大地に水がしみ込んでいくような柔軟な感性で応えてくれました。
戦争とは殺し・殺されることであり、平和を構築していくには、史実をきちんと学び、原爆を語り継いでいくことの大切さが不可欠だと受けとめていました。「見て、聞いて、感じ、そして想像して考えることは、9条を守り、活かすことに繋がる」と私たちに教えてくれた「ヒロシマ」こそが平和の原点だと学んだ10年でもありました。



署名12,369筆提出

◆閉廷後、「安保法制は憲法違反」の判決を求める署名を裁判所に提出するというので、弁護士さんや他の原告の方々とともに書記官室に行き、12,369筆(!)もの署名の束が確かに手渡されるのを見届けることになった。裁判所での署名提出は初めての経験。

★署名は「憲法9条にノーベル平和賞を」実行委員会が呼びかけているもので、今後もまとまりしだい裁判所に届けられる。
署名は県外在住の方も若い世代もOKなので、ぜひご協力を。

〔A〕ネット署名で

https://www.change.org/p/裁判所宛-安保法制は憲法違反-の判決を求めます

〔B〕署名用紙で(下記からダウンロードしてプリントして下さい)
https://drive.google.com/file/d/1R5eR-ac-lG7xpggc4SrKI7FC0gMNC094/view


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横浜地方裁判所近くに咲いていたツワブキ



11.29安保法制違憲訴訟かながわ[2018年11月28日(Wed)]

〈安保法制違憲訴訟かながわ〉
  あす、第8回口頭弁論



11月29日
横浜地裁101号法廷を8たび埋め尽くそう!


◆11月29日(木)11:00開廷(101号法廷)

集合時間:10:00…横浜地裁、日本大通がわ入口前に(↓下の写真)
傍聴抽選:10:40ころ予定


★口頭弁論終了後、報告集会が11:45〜13:00、
横浜YWCAにて行われます(横浜地裁から徒歩7分)。そちらにも是非ご参加を。

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闇を曳航する船の上の我ら[2018年11月27日(Tue)]

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アカトンボ

*******

◆TVの「お宝鑑定」で井上有一の書が出ていた。依頼人が井上の発注した筆を届けに行って書いて貰ったものだという。小ぶりな書ながら、「上」という一字が、土筆のように屈託なく空を志向していた。

井上有一の書を表紙に選んだ辺見庸『月』について、もうすこし――

◆「さとくん」がネット通販で「鎌」四本やハンマーを調達する一方で、ナイジェリアの栄養失調の子ウマラの登場する公共CMを見て「ユニセフ・マンスリーサポート・プログラム」に参加すべくクリックする。
そのチグハグさ。
さとくんの中には憎しみや意地悪さ、邪悪なものがない。

かれの脳裡の海と空は、こういってよければ、あっけにとられるほど”まっとう”なのだった。ただ、さとくんの想念には、かさねられた何枚かのセロファン紙のように、おぼろに屈折した、いくつかの光と影がうきしずみしていた。みえかくれする影は、どうやら小船であった。一艘の黒い木造船が煙霧にかすんでういているらしい。それは象の鼻のような舳先のあたりはまあまあはっきりみえるのだけれど、艫(とも)のところが、闇と霧とに煮とろけて、どんよりと形をくずしているのだった。船尾のみえない船は、半身のない魚のように、なにかうけいれがたいものだ。ひとだってそうだ。夜の海原をすすむとき、じぶんの船首から、じぶんの船尾はみえない。そして面舵(おもかじ)をとるにせよ取り舵にせよ、艫というのは、どこか怪しい。きまって闇に融けているから。ヘッドライトは波間をどんよりと鉛の谷のように照らす。けっきょく、探照灯をつけた艫のない船は、闇の先頭にあって、闇のぜんたいをするすると曳航しているのだった。

「船尾のみえない船は、半身のない魚のように、なにかうけいれがたいものだ。」――なんという表現だろう!
「うけいれがたい」とは、倫理に拠らず、論理に委ねることも肯んじない、むしろ生理のことばだ。
そうして、この、船尾が闇と霧にとろけたまま夜の海原を進む船に我々自身が乗っていることを否(いや)も応もなく納得させてしまうことばだ。
そうして、我らが托生しているこの船は、「闇のぜんたいをずるずると曳航している」!!

◆「托生」と書いたものの、闇の中が見通せない以上、実は「托死」ではないのか。そう思って次の段へと読み進めると、案の定だ――

闇の正体は、光線のかげんで、おりかさなりあって相当の厚みさえおびた、おびただしいカゲロウの死体にもみえた。それは巨大な氷山のようになってゆっくりと夜をただよっていた。そのものには、この世のだれもが例外なく、眠ったふりや死んだふりや気づかぬふりをしてくわわっていた。岬の回転灯台の光が、漂流物をつかのま照らす。そのかたまりの一角に、なにかとてつもなくじゅうだいなものがさらされたようにおもったしゅんかんに、光線と漂流物ははなればなれになった。

◆続く朝、「次元A」 「次元B」の接続部から湧き出てくるカゲロウたちの姿こそは、何度か繰り返される凶事への道行きの中でも、目を奪われずにはいない高潮と氾濫の表現である(p.213から214にかけての8行)。

*以下にそれを写そうとしたが、ここまでに挟んだ感想が余計なお節介であることに気づき、引用を中止する。願わくは原著の2427(p.195~222)までを、予断を排して通読せられんことを。



おろぬく うろぬく まびく[2018年11月26日(Mon)]

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黄花コスモス

*******

辺見庸『月』24、きーちゃんが入所している園では毎朝「ともに生きよう!」5箇条が職員達によって復唱される。

ひとつ。わたしたちは、あたたかいこころをもって、すべてのひとびとの生命とからだをたいせつにします
ひとつ。わたしたちは、だれもがそのひとらしく暮らすことのできる社会をじつげんします
ひとつ。わたしたちは万人の社会への参加をさまたげるいかなる壁、あらゆる偏見と差別にも反対します。

……
……

*(これは、2016年のやまゆり園事件後に神奈川県と同県議会がつくった「ともに生きる社会かながわ憲章」を下敷きにしている。2016.10.14。4箇条からなる「憲章」を、小説の方は5箇条にしている。)

*神奈川県ホームページ参照
http://www.pref.kanagawa.jp/docs/m8u/cnt/f535463/index.html


◆職員たちの復唱は戯画のように描かれる。だが、嘲弄しているのではない。

当番の職員がさいしょに「ひとつ。わたしたちは……」と音頭をとる。それを全員で復唱する。なかなか声がひとつにそろわない。こわれて散らばった算盤珠(そろばんだま)のような声たち。入所者たちが聞くともなく聞いている。当番がいいまちがえると、笑い声があがる。入所者も笑う。「まじめにやれ!」と、ヤジがとんだりする。「ともに生きよう!」を、だれが本気で信じているだろう。だれが本気で発声しているだろうか。笑っちゃう。いや、笑えない。ぞっとする。

ひとつ。わたしたちは、あたたかいこころをもって、
……(中略)
……
……
ひとつ。わたしたちは、すべてのひとびとが生きるに値し、均しく生きるけんりをゆうすることを、ここにかくにんします。
ひとつ。わたしたちは、これらの理想のじつげんのために、ともに努力することを誓います。

集合室からながれてくる、だらけた読経みたいな声。どうかすると、嘲謔(ちょうぎゃく)とまがうふざけたアクセント。どこからか含み笑いもきこえてくる。あたしはひねくれているのだろうか。何回、何千回これをきいただろう。きかされただろう。手が自由に使えたなら、あたしはただちに耳をふさぐにちがいない。なんなのだ、これは。いつのころからか、職員たちの声が、あたしたちへの脅しのようにきこえるようになった。おとこたちを中心にした、ふぞろいの声は、不潔な古井戸の底からはいのぼってくる呪詛にしかおもえなくなった。


◆毎朝、復唱される「ともに生きよう!」五箇条。本気で信じているわけでもないことばたちが脅しや呪詛のように聞こえる。
てんでんばらばらにとなえているから真実味が乏しいのではない。
これらが調えられ、呼吸を合わせて朗々と唱えられたならば、むしろ「あたし(たち)」をたちどころに弾き飛ばすか裁断する凶器と化すだろう。

あたしはどこにいるのだろう。あたしはどうしてここにいるのだろう……といぶかる。
あたし(たち)は〈割愛〉されるべきなにかではないのか。森はただ森であってよいのだろうか。ただ森のままでいられるのか。森はただ森のままで繁茂すればいいのか。繁茂できるのか。そんなわけがない。おろぬく。うろぬく。まびく……。小声で、ひそやかに発音される、ことばたち。おろぬく。うるぬく。まびく……。伐られない杣(そま)なんてない。伐採されない森はない。あたしは、このままほうっておかれてよい枝か。草か。羊歯か。それとも食べられないキノコか。毒キノコか。あたしは。おれさまは。

  (『月』24、p.202~204)

*******

「おろぬく(疎抜く)」・「うろぬく」という語をここで教わった。
「まびく」という意味だ。

――誰が、誰を? どんな理由で。




壊死している社会[2018年11月25日(Sun)]

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桜の木にまとわりついたツタ。
ともに葉を落とした姿ながら、ともに次の春への備えをしているのだろう。

*******

辺見庸『月』24より

きーちゃんの母の話/げんじつということが、しょうじきなところ、よくわからない/あたしはまもられるべき生き物だろうか/ともに生きよう!


だれがいったのだっけ。にんげんの共同体の、どうしてもまぬかれがたい無限反復的な法則――暴力の回帰性――戦争―― 日常のなかにこまかに、じつにこまかに断片化し粉末化し、ついに内面化された、常態的戦争――ありもしない民族的、人種的、階級的、宗教的合一の幻想を求めてしまう集合的な無意識――原始への逆行――あんのじょう、壊死(えし)性の民主主義。変わらないのは暴力の反復と空虚なことばの散逸だけ。
どの局面をとってみても、あたし(たち) はひつようとされてはいない。あたし(たち)という人体の存在とその再生産は、かつてもだが、いまはもっとも求められていない――合法的に、できれば平穏裡に消去されるべき影だ。
それじゃあ、お訊きします。あたしはまもられるべき生き物だろうか。冗談ぬきで、みなが多少の犠牲をはらってでもまもるべきなにかですか? なんどもいいますが、〈絶滅危惧種〉のようにたいせつにされるべきだろうか。イヘヤトカゲモドキやクメトカゲモドキやミヤコカナヘビのように注意をはらわれているでしょうか。あたしはこわれやすい存在だろうか。羽をもがれた小鳥のように。目をえぐられたウサギのように。ひらたくいって、あたしはかわいそうだろうか。よしよしと愛護されるべきものだろうか。あたしは犬以上の存在だろうか。これから殺処分される犬猫以上に涙をさそっているだろうか。あたしは、とりあつかい注意か。あたしは真にまもられるべきなにものか、または、そのように考慮されるにたるなにものかであろうか。ウソをつけ!

   (p.201〜202)

〈暴力の回帰性〉〈常態的戦争〉〈原始への逆行性〉〈壊死性の民主主義〉
…理性の灯で世界を照らし出すのでなしに、無限に繰り返される暴力⇒そうしなければ収まらないとでも言いたいかのように、文明社会でなく原始的蒙昧に逆行しようとする⇒マイクロ・プラスチックか阿片の粉のように体内のすみずみに取り込まれたウィルスが、体のあらゆる組織から滲出して他者を消し去るように駆り立てる。

営々と積み上げてきた世界はすでに壊死に直面しているのに、「すべての人々の生命を大切にする」という薄っぺらいことばの皮膜が真実を覆い隠している。

「すべての生命を大切にする」?――〈ウソをつけ!〉

『月』――カラスの末期の目に映るもの[2018年11月24日(Sat)]

辺見庸『月』 15 より
大津波/遁走/カラスの大量死/身ぶり顔つきは、すでにそうされたことの無意識の再演であること/あかぎあかえが赤いおんなと番うまでの話

◆語り手「きーちゃん」の”割れ”(分身)である「あかぎあかえ」の記憶。「あかぎ」は過去からの遁走者であるとされる。

おとこは以前もカラスが群れとぶ風景を目にしたことがあるのだった。そのときは、冷たいみぞれが横なぐりにふっていた。海が黒くもりあがっていた。そうかとおもうと、海原が深い盆地のようにえぐれ、えぐられた分が巨大な水柱になって起ちあがったりした。水柱につっこむようにしてカラスたちがはげしく飛びまわっていた。その地方のカラスがぜんいんあつまったかのように、みぞれの空に黒い斑痕ができた。あれも喪だったのか。
カラスのほかに、たしかカモメもトビもスズメもいた。ひとも鳥も狂ったように泣きわめいていたが、音はなにものかにかき消された。無声映画のように。おとこは波をかぶった。顔の側面を流木か瓦礫にこすられ、手をあてると右耳がつけねからなくなっていた。大波の崖に、ひとの手がいくつかみえた。たぶん子どもの手のひら。すべてから音、声、色が、いともかんたんに、機械的なせいかくさで、ぬきとられていた。そのときまではみたこともない、あたらしい光景だったのに、まるでひどく古い、みなれた映像のように、ひとびとも、ものごとも、うごいた。みんな、おどろき、おそれ、あわてふためいていた。とおいむかしに、そのようにたんねんに役づくりされていたかのように、どこかわざとらしい動作で、あわてふためいた。なにか芝居じみてみえた。下手な芝居。
ひとの身ぶり顔つきというのは、おおむね、すでにそうされたことの無意識の再演である。卜書きがないようで、意識下にはある。ひとびとは村人Bや市民Aとなり、声のでない口をパクパクさせ、両手をバンザイして沖に流されたり、丘にむかって(なんだか鈍くさく)逃げまどったりした。たくさん死んだ。なにかのにおいがしていた。よくおもいだせない。プロパンガスだったか。腐ったタマネギの臭気か、化学物質が焼けるようなにおいが、ひとかたまり、まだ頭蓋にとどこおっている。いや、遺体を重油で焼くにおいか……。
いままで聾者どうぜんだったのに、ときどき、防音壁がこわれたかのように、いっしゅんだけ音と声が断片になって、洪水のようにどっと耳にながれこんでくることもあった。
「あ――」「あ――」「はっ、はっ、はっ……」
身も世もない悲鳴が、無神経な哄笑のように変形していた。ああなることはわかりきっていたはずだ……と、片耳のおとこはおもった。ああなることは……。ああなることはわかりきっていたはずなのだ、としょうじきおもうのだけれど、なぜわかりきっていたのかは、よくわからないまま、これまで何万回もおもってきたことを、またもなぞった。またある。またくる。ダルマ落としのダルマになったような墜落感。くりかえす崩壊感。永遠の徒労。悔恨はなかった。そんな上等なものは。ぜんたい、地震と津波を後悔してもはじまらない。かれは失った耳殻を気にした。しばらく突堤のあたりをさがしたのだった。海星(ヒトデ)はあったが、おとこの右耳はなかった。海があんなにも荒れているのに、カモメが海星をくわえて飛んでいた。耳のかたちをした赤い海星だった。
片耳を捨て、すべてを捨てて、ひとりで逃げてきたことをおとこは悔いていない。みんな死んだのだし、じぶんも形式上は「行方不明」あつかいではあったが、だれもかれが生きているとはおもっていなかった。片耳のおとこは50ccの原付バイクで逃げた。「親もねえ……子どももねえ……だれもねえ……」とうたうようにさけびながらはしって逃げた。そうだ、「悪者は追うものもいないのに逃げる」のだ。なにから?
わからなかった。過去からげんざいへ、か。場所から場所へ、か。ただ逃げたかった。ヘドロと死体と汚水だまりの原、幻影と予言の原をはしった。なんどもたちどまった。ゴム風船のようにふくらんだ死体たち。さまざまなメタモルフォーゼ。奇抜な。腕や首。足首。死者のぶぶんたち。パーツ。死んでいるのか生きているのかわからない、身じろいだのか、そうではなく、ただ傾いだだけなのか、ひとか、あるいは、ひとのような黒いかたまり。夢中ではしった。あれはなんだったのか、いやにさっぱりした終了感か終焉感。奇妙にさばさばした解放感もあったな。おとこの目もとが少し笑っているようだった。笑ったのではなく、ただゆがんでいるだけかもしれなかった。どうにもならない。どこまでもやられる。抵抗なんかできやしない。泣いても、祈っても、うたっても、しゃべくっても、だきあっても、なんにもならない。またかならずくる。かならず、かならず、平気でやってくる。どこまでやられるか想像がつかない。あれらはてっていてきに斬新だ。斬新にころし、斬新に破壊する。そうなると、こちらも、なんだってできる気がする。なんだって。おとこはカラスの死体をよけながらあるいた。
カラスがひとのような声で鳴いた。促音がない。だからか、いっそうふとどきにきこえる。ふらちに。「あ―― 」。また鳴いた。「あ―― 」。声がふしだらに尾をひいた。「あ――」。みるまに、宙を舞っていたカラスのうちの数羽が、鉄のくちばしを下にして、黒い礫(つぶて)になり、すいちょくにふってくる。すいちょくな悪意のように。あたまに突きささってくるようないきおいだった。カラスの礫をよけながら、おとこはおもった。かれらは空中でふいにプツンと命の糸が切れて落ちてくるのだろうか。それとも、旋回中にじょじょに気を失って落下し、地面で絶命するのか。落下してくるカラスの目にはなにがみえているのか。かれらにも「末期(まつご)の目」があるのだろうか。おとこは気にした。少しだけ気にして、じきに忘れた。死にゆくカラスらの目に、じぶんはみられていただろうか。どのようにみられたのだろう……。死んで冷たくなったカラスの目に、じぶんの静止画像がいちまい映ったまま、消えていないのではないだろうか。おとこのあたまのなかで、昔の水滴の音がこだましていた。それはもちろん、あたし(き―ちゃん)のあたまにもひびいた。とおい雨音、雨だれ……。頭蓋からなにかがもれていた。ずっともれつづけていた。ポタ・ポタ・ポタ……。

*『月』15、p.123〜126
聖書「箴言」28章(原注)

◆死んだカラスの目に「じぶんの静止画像がいちまい映ったまま、消えていないのではないだろうか。」という想像は読者を瞬時に凍り付かせる。


辺見庸『月』――さとくんの発心[2018年11月23日(Fri)]

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ビワの花にキタテハ

*******

辺見庸『月』 12より

「さとくん」が「とても偉いひと」に〈世の中をよくするために貢献したい〉という内容の手紙を書きおくったという。それを受けて園に背広にネクタイの二人連れの男たちが来て「さとくん」のことを訊いていたというのだ。

そう言えば「さとくん」から、電車で白杖のおんなのひとが集団痴漢に遭っているのを救おうとしたという事件のことを聞かされてもいた。残念ながら逆にかんたんにのされてしまい、他の乗客は誰も助けてくれなかったのだが――

なぜなのだろうか。あたしにはどんなことも深刻にはおもえない。この世ではいかなることも深刻におもわれてはいないのじゃないか。ひとがなんにん殺されようと。のっぴきならないということは、なにもない。理不尽。リフジン。無残。ムザン。ことばだけはいくらでもある。干からびたゲロのように。いつからそうなったのだろう。いちいち深刻にうけとめるのは、なにごとにつけ、おかしいようにおもわれる。まるで筋ちがいのように。話しているさとくんじしんもあまり深刻そうではない。おきたできごともさっぱり深刻ではないようだ。深刻さがたちまち脱臼する。複雑骨折する。話すそばからそうなる。芯がどこにもない。漫才だ。だれもが、なにごとにつけ、ほんとうは真剣ではないようにおもわれる。真剣な声は、真剣なふりの声とまったく同じだ。なんだか気味がわるい。どこか戯(たわ)けていて、これいじょうはむりなほど徹底的にわるずれしているくせに、まったくそうではないように、ぜんいんがよそうでもなくよそおう。ぜんいんがさりげなく、できごととのかかわりあいを避けようとしている。あらゆる存在とことばが疲弊している。困憊(こんぱい)して、引きつけをおこしている。
さとくんは、それでも、ものごとにかかわろうとした。身びいきかな。あたしはそうおもう。かかわるって大変なことだ。さとくんは「境界」から一歩踏みだした。踏みだそうとした。そうじゃないのかな。不首尾ではあったが、とにかく踏みだした。

(略)
おどろいたのは、さとくんがはなしてくれたこと、つまり、電車のできごとの顛末ではなかった。さとくんはかならずしもナイーヴなのではなかった。ただ純朴なのではない。すなおすぎるバカでもない。そのことになぜだかはっとした。かれは「世の中をよくしたいんだ……」というようになった。「そのためにはどうすればいいか、かんがえはじめているんだ」
わたしは瀕死のちいさな蝶をおもった。ルリシジミではなく、翅の透明なスカシジャノメが一頭、あたしのなかをおろおろと飛んでいた。電車の窓のそとは瑠璃紺の海だった。カゲロウが低く飛んでいた。
 


*『月』12 さとくんの発心〈よの中をよくするために貢献したい〉〈そのためにはどうすればいいか……〉より(p.109〜111)
**下線部、原文は傍点

◆現実のやまゆり園事件では植松聖被告の優生思想が焦点化されて来た。
しかし小説『月』の「さとくん」は上のような青年として描かれていく。
語り手のきーちゃんは彼に好感を抱いてさえいる。

「〇〇のために良かれ」と思うことは誰にもある。しかも、思うだけでなく「善きこと」と信じて実行することすらしばしばある。とすれば、我々はおのがじしの中の「さとくん」に注意深く眼をこらさなければならない。


パペットのような「さとくん」[2018年11月22日(Thu)]

◆昨日、11月21日の11時ころ、当市の防災無線からいきなりJアラートの試験放送が流された。
「これは、Jアラートのテストです」を繰り返した。
アナウンスの声も、警戒音を意味するらしいノイズのような信号音も音質が非常に悪い。

今年、すでに記憶にあるだけでも2回目。
「馴れさせる」ためなら、回数が多いのは逆効果であり、子どもたちの不安と恐怖をあおるだけだ。授業中の学校などは迷惑このうえない。

市井の人々の暮らしは「パッペット・ショー」(桐生悠々「関東防空大演習を嗤(わら)う」1931年)ではない。わたしたちは国家の操り人形ではない。

*******

辺見庸『月』にもJアラートが登場する。
「赤いおんな」に人形みたいに首根っこをつかまれた「さとくん」が、窓の外に何が見えるか、答えさせられる場面――

さとくんがふたたびまばたきする。自発的にまばたきしてみる。積極的に。小窓からまた、そとをながめる。答える。答えさせられる。「海……あっ、みえますね、やっぱりみえます……」でしょう? それならさいしょからすなおにそういえばいいのよ。沖の色は? 水平線はみえてる?波は? 波の色は? おんなの声が波になってつぎつぎにかぶさってくる。黄色い海が視界いっぱいにひろがっている。まぶしい。うねっている。津波だろうか。遠くでサイレンが鳴っている。音がうずまいている。あれはきっと「国民保護サイレン」だ。国民保護サイレンがだんだんちかづいてくる。何匹か犬も吠えている。肝がふるえる。なんだか悲しい。Jアラートがなにかをくりかえしつたえている。しかし声は切実ではない。ちかごろはなにをいっても切実には聞こえない。

(略)
市民巡回員や駐輪場の老人たちがハナミズキのしたを、けんめいにほふく前進している。オシッコ一回分らくらく吸収の尿もれパッドが股からずれている。なんにんかは海にあおむいてうかんでいる。黄色い海で溺れている。そうやってえへえへとわらっている。
 (p.74〜75)

◆Jアラートに反応して待避行動をしている人間たちの向こうには津波の犠牲者が浮かんでいる。
ファルス(道化芝居)と悲劇が区別なく目の前に広がっている。


閑話休題[2018年11月21日(Wed)]

DSCN9111.JPG
アオサギとカモたち。

◆鳥同士で獲物を掠め取ることがあるのかどうか知らないが、人間界では「なりすましサギ」事件が一向に減らない。被害者の多くは高齢者。

◆一方で、歳費や政党助成金をチョロまかす議員バッジの徒輩や、実直に納税する国民を嘲笑うかのように税を逃れ、会社を私物化する企業トップがひきもきらず。

掠め取る相手が違うだろう!と言いたい。

*******

「朝の鏡」より   北村 太郎

朝の水が一滴、ほそい剃刀の
刃の上に光って落ちる――それが
一生というものか。残酷だ。
なぜ、ぼくは生きていられるのか。嵐の
海を一日中、見つめているような
眼をして、人生の半ばを過ぎた


 「朝の鏡」の最終(第5)連。
 『北村太郎詩集』(思潮社現代詩文庫、1975年)によった。


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