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清岡卓行と上野[2018年10月11日(Thu)]

DSCN8660最上壽之「イロハニホヘト〜」-B.jpg
最上壽之(ひさゆき) 「イロハニホヘトチリヌルヲワカヨタレソツネナラムウヰノオクヤマケフコエテアサキユメミシヱヒモセスン」(1979年)
上野の東京都美術館の、正門ではない、右手横の入口にある。
材は富士大沢石。
*なお、説明プレートの題は「…ケフコテ…」とあったのを「…ケフコテ…」に改めておく。

*******

◆上野を訪れた日は3連休の最終日で、都美術館の上の階からは動物園に並ぶ子供連れの人々の列がよく見えた。

◆清岡卓行の詩集『ひとつの愛』は亡き妻をモデルとした詩群を含む。
その中に上野界隈を舞台に、出会いの前、空腹を抱えた青春期の散策と、20数年後の休日、病妻と幼子とともに歩いた一日とを対照させた一編がある。

上野  清岡 卓行

大学のすぐそばに下宿して
ときめく権威の講義を聴きに行かず
ひとりきりの部屋で 碁盤に
白と黒の石のトッカータを
うっとりと奏でてみたり
窓から見える 空襲のあとの
汚された空の舞台の かわらぬ青に
向日葵(ひまわり)と海星(ひとで)の
なまめかしいバレーを演出してみたり
そんな夢ばかり見ていた 学生の頃。
唾をのみこんであやす胃袋は
辞書を食べたいほど からっぽで
夢こそは現実。
古代のようにうすむらさきの夕ぐれに
池の端などを散歩しては
動物園帰りの 埃っぽく疲れた親子連れに
ふしぎな憐れみを覚えたものであった。
ぼくの胸に そのとき
浮かんでいた不遜の言葉
――創造のない家庭のみじめさ。

それから二十数年。
ぼくは ときたま
残酷な童話の動物園から
あるいは 沈黙の少し足りない音楽会から
病んだ妻や幼い子供と連れだって
広小路大通りなどを
夢の中のようにぶらぶらと
懐かしく歩いて帰るのである。
おお 現実こそは夢。
だるく底しれぬ平和の中の
残りの時間の狂おしさ。
休日の気ばらしにも疲れて ぼくたちは
横道の古風なそばやととんカツやで
眩しく明るい舞台にのぼったような
粋でたっぷりな食事をする。
ぼくは 家族の優しい視線の交錯で
透明な鳥籠などを作ろうとする。
ぼくの胸に そのとき
浮かんでいた不安の言葉
――家庭のない創造のみじめさ。


『ひとつの愛』 (講談社、1970年)所収。ここでは『清岡卓行全詩集』(思潮社、1985年)によった。


*******

◆冒頭の彫刻の作者・最上壽之氏が10月2日に逝去されたことを知った。
享年八十二。
横浜みなとみらい地区にある「モクモク・ワクワク・ヨコハマ・ヨーヨー」も氏の作品だった。
ステンレス製で全く異なる作風。横須賀生まれとのことだから、また作品に出会う機会があるだろう。

201809151320最上壽之「モクモク・ワクワク・ヨコハマ・ヨーヨー」1994.jpg
最上壽之「モクモク・ワクワク・ヨコハマ・ヨーヨー」(1994年)
*ランドマークタワーからクイーンズスクエアに渡る所にある。


蛸の願い[2018年10月10日(Wed)]

DSCN8674菊地言美「雌蛸」2018.jpg
菊地言美「雌蛸」 (2018年)
上野公園、東京藝大の奏楽堂に向かう途中に今春の卒業制作がいくつか展示されている。
中で最も愉快な作品。グルリをめぐって、タイトルにいちばんふさわしそうな角度から撮れたかと思う1枚。

*******

たとえば、この彫刻に次のような詩をつがえるのはどんなものだろう?
地べたに置かれて迷惑げな蛸のつぶやきに他ならないように思える。

ある願い  清岡 卓行

わたしは乾きたくない
山の上に浮く魚の化石のようには。
わたしは氷りたくない
凍土帯(ツンドラ)に埋もれたマンモスのようには。
わたしは潜みたくない
原始の住居の跡の穀物の粒のようには。
わたしは狂いたいのだ
海の底から噴きあがる焰のように。
わたしは泣きたいのだ
砂漠の中を動きまわる湖のように。
わたしは消えて行きたいのだ
青空に羊雲を残す嵐のように。
 


『西へ』(講談社、1981年)所収。
『清岡卓行全詩集』(思潮社、1985年)によった。

DSCN8676菊地言美「雌蛸」-B.jpg
1枚目の位置から左回りに動いてみるとこのような姿。
左奥に奏楽堂が見える。



朝 微風とのたたかい[2018年10月09日(Tue)]

DSCN8688.JPG

シオカラトンボ。
グランドの隅に置かれたまま、今は使われなくなったゴミ焼却炉のさび色を愛でるように止まっていた。

全く時空の異なる次のような詩句を演じて見せるようにしてそこに止まって在った。


「氷った焰」より   清岡 卓行 

  1


きみの肉体の線のなかの透明な空間
世界への逆襲にかんする
最も遠い
微風とのたたかい

  2

きみはすでに落下地点で眼覚めている
きみはすでに絶望している

  
  *『清岡卓行全詩集』(思潮社、1985年)によった


石原吉郎の「位置」[2018年10月08日(Mon)]

DSCN8646.JPG
ツグミ。

◆葉をあらかた落とした桜の枝の一つに、今、ここでなければ済まされない刻(とき)と晴れ具合であることを見定めたようにして止まり、その啼き方でなくてはならないことが予め決められていたように短く高いさえずりを響かせた。
そうなるとその啼き声を聴く人間は自分以外の者であってはならないように何者かがずうっと前から決めていたのではないかと思えて来る。

◆次の石原吉郎の詩は、そうした時に、やはり空を仰いでそこに存在する者の気配に全身を領されながら、その者によって己の居るべく決められた位置を了解した時の言葉に違いない。

位置   石原 吉郎

しずかな肩には
声だけがならぶのでない
声よりも近く
敵がならぶのだ
勇敢な男たちが目指す位置は
その右でも おそらく
そのひだりでもない
無防備の空がついに撓(たわ)み
正午の弓となる位置で
君は呼吸し
かつ挨拶せよ
君の位置からの それが
最もすぐれた姿勢である


嶋岡晨=編『国八十八ヵ所巡り』(洪水企画、2017年)によった。


小さいのが うじゃうじゃいた方が[2018年10月07日(Sun)]

DSCN8601トノサマバッタ.JPG
トノサマバッタ

*******

ちきゅうも すっぽり    まど・みちお

アリの下は ノミ
ノミの下は ミジンコ
ミジンコの下は 目に見えないバイキン
バイキンのまだずうっと下には ウィルス

それなのに大きい方は
カバの上がゾウ
ゾウの上が クジラ
で おしまいとは不公平だな

だが 天に頭がつかえるようなのが
二、三〇ぴきで
ぎゅうぎゅう まんいんなのと
小さくても いろいろ変ったのが
うじゃうじゃいるのと
どっちがおもしろいだろう

やっぱり うじゃうじゃだな
と かみさまが考えて
そっちになさったのかな

そして 小さくても
大へんなものを一つ くださったんだ
ちきゅうも すっぽり
にんげんさまの頭も

気をつけて使わないと
とんでもないことになるよ といって


小海永二・編「まど・みちお少年詩集 つけもののおもし」(ポプラ社文庫、1979年)

◆地球もすっぽり入る、頭という、小さいが大変なものを神さまは下さった、という。
昨日の学習指導要領の学習会、「道徳」について深める余裕がなかった。

月刊誌『世界』の11月号で「〈道徳化〉する学校」という特集を組んでいる。小・中に続いて高校でも新科目「公共」などで科目として道徳を扱わせようという、2006年教育基本法体制下の日本。
干からびてミイラ化寸前の頭でなければ思いつかない発想だ。
「いろいろ変わったのが/うじゃうじゃいる」、その方が種として生き延びて行けるのに、特定の価値観を小さな頭にビッシリ植えつけて、個も全体も自滅する道を選ぼうとは!




「僕らはいつも、路の途中か、考の途中にゐる。」[2018年10月06日(Sat)]

教育の自由を求める10.6学習会 熱い議論

「学習指導要領徹底批判!!と銘打った学習会、外の陽気を上回る熱気が会場にあふれた。
質問・意見が続き、さらに取り組みを繰り出すことが必要と痛感した。

◆居ても立ってもいられぬ思いの参会者がこぞって憂えていることは、子どもたちに最も近い若い現職の先生たちにこの切実さが共有されず、問題の存在自体が意識されていないのでは、と思える事例が噴出していること。
「忙しい」というのは言い訳に過ぎない、何がまずいのか、掘り下げ具体策につなげる努力を怠っていないか?……議論が続いた。それは各々が歩いてきた道筋を根本から問い直す作業でもある。

◆教育に携わる人たちばかりでない。
子どもたちをめぐる今の教育の問題を市民にもっと具体的に分かるように伝えて、という声も大切な指摘だった。不透明な暗雲にもどかしさ以上の恐怖を感じているのは誰も同じだ。

共有しうることばの模索が続く。

*******

 短章(二十三篇)から  W   金子光晴

冒頭もなく、終もなく、人生はどの頁をひらいてみても人生であるやうに
僕らはいつも、路の途中か、考の途中にゐる。

一人の友としんみり話すまもないうちに生涯は終りさうだ。
そののこり惜しさだけが霧や、こだまや、もやもやとさまよふものとなつてのこり、それを名づけて、人は”詩”とよぶ。

       (一九五一年)
  *清岡卓行・編『金子光晴詩集』(岩波文庫、1991年)



青年・金子光晴のマニフェスト「反対」[2018年10月05日(Fri)]

◆アンソロジーで読者を未知の作品に出会わせることは編者の詩人への愛情あって可能になる。
清岡卓行の編んだ「金子光晴詩集」(岩波文庫、1991年)でその恵沢にあずかった。
「拾遺詩篇」の一つとして収められた「反対」という詩である。

反対    金子光晴

僕は少年の頃
学校に反対だつた。
僕は、いままた
働くことに反対だ。

僕は第一、健康とか
正義とかが大きらひなのだ
健康で正しいほど
人間を無情にするものはない。

むろん、やまと魂は反対だ。
義理人情もへどが出る。
いつの政府にも反対であり、
文壇画壇にも尻をむけてゐる。

なにしに生れてきたと問はるれば、
躊躇なく答へよう。反対しにと。
僕は、東にゐるときは、西にゆきたいと思ひ、

きものは左前、靴は右左、
袴はうしろ前、馬には尻をむいて乗る。
人のいやがるものこそ、僕の好物。
とりわけ嫌ひは、気の揃ふといふことだ。

僕は信じる。反対こそ、人生で
唯一つ立派なことだと。
反対こそ、生きてることだ。
反対こそ、じぶんをつかむことだ。


◆1917年ごろの作品だというから、1895年生まれの金子が22歳のころだ。
11歳で渡米を企て、中学時代に学校に反発して留年。以後いくつもの学校で中退を繰り返す波乱と反骨の生き方が、このマニフェストの詩となった。

◆1915年春に東京美術学校の日本画科に入学するが夏には退学してしまう。一箇所に留まることを肯んじない生き方は、のたうつようなエネルギーの氾濫に他ならないが、同時に「すべて、腐爛(くさ)らないものはない!」(「大腐爛頌」)こと、あらゆるものが消え、汚れ、蝕まれてやすいことに心が焦れることを「しりぬいているのだ。それでもしかたがないのだ。」(同)と吐きだすように記す。それらの只中に身を転がして生きること以外にどのような生き方が彼にあり得ただろう。

◆文庫詩集のカバーに金子光晴自身の絵(ヒンズー教寺院の図)をあしらったことも編者の手柄に帰する。

清岡卓行編「金子光晴詩集」.jpg


一億とよばれる抵抗のなかで――金子光晴[2018年10月04日(Thu)]

DSCN8578.JPG

*******

戦争         金子 光晴

千度もぼくは考えこんだ。
一億とよばれる抵抗のなかで
「なにが戦争なのだろう?」

戦争とは、たえまなく血がながれでることだ。
そのながれでた血が、むなしく
地にすいこまれてしまうことだ。
ぼくのしらないあいだに。ぼくの血のつづきが。

敵も、味方もおなじように、
「かたなければ」と必死になることだ。
鉄びんや、橋のらんかんもつぶして
大砲や、軍艦に鋳直(いなお)されることだ。

反省したり、味ったりするのは止めて
瓦を作るように型にはめて、人間を戦力としておくりだすことだ。
十九の子供も。
五十の父親も。

十九の子供も
五十の父親も
一つの命令に服従して、
左をむき
右をむき
一つの標的にひき金をひく。

敵の父親や
敵の子供については
考える必要は毛頭ない。
それは、敵なのだから。

そして、戦争が考えるところによると、
戦争よりこの世に立派なことはないのだ。
戦争より健全な行動はなく、
軍隊よりあかるい生活はなく、
また戦死より名誉なことはない。
子供よ。まことにうれしいじゃないか。
互いにこの戦争に生まれあわせたことは。

十九の子供も
五十の父親も
おなじおしきせをきて
おなじ軍歌をうたって。


鈴木志郎康 編『詩のおくりもの4 社会の詩』より(筑摩書房、1981年)


柴山文科大臣は辞任を[2018年10月03日(Wed)]

柴山「教育勅語」問題

柴山昌彦・新文部科学大臣の「教育勅語」擁護発言が批判を浴びている。
閣僚としても、議員としても失格だ。
発言を撤回した上で辞任すべきであり、首相の任命責任も言うに及ばず。

◆政府は教育勅語について「憲法や教育基本法等に反しないような形で教材として用いることまでは否定されることではない」との答弁書を閣議決定(2017年3月)した。そのおかげで、このようなゾンビが昼日中、霞が関に登場する。
閣僚、それもあろうことか、文科大臣として就任最初の記者会見で臆面もなく言ってのける神経を疑う。

◆2017年4月には「政府として教育の場における活用を促す考えはない」という追加答弁を閣議決定してもいるが、不充分だった。
「負の遺産として、教育勅語が国民を縛り上げ、戦場に命を捨てる臣民を育てた歴史をきちんと学ぶことが必要。国会で失効決議によって否定された教育勅語を、部分的にであれ子どもたちに向かって称揚することはあってはならない。」とはっきり言わなかったために妄言が繰り返される。
復古主義者を封じる気がなく、むしろ表舞台に登場させて利用することに本当の狙いがあるからだ。

◆柴山氏は「アレンジをした形で、今の例えば道徳等に使うことができる分野は、十分にある」と大臣として公言したのだから、幼・小・中・高で実施されつつある新学習指導要領下での「道徳」教育において教育勅語の精神・徳目を学ばせよ、というのが真意であること、紛れようもない。

もう一つ「勅語」を持ち上げる人の例に漏れず、柴山氏もまた勅語全体の構造を理解していないことも天下にさらした。
次期高校学習指導要領では「論理国語」という新しい科目が登場する。柴山氏が先ず行うべきは、一切の官職から身を引いて、新科目の「論理国語」で日本語を学び直し、教育勅語を論理的に読む力を会得することだ。「云々→でんでん、背後→セゴ」などと読み間違えない語彙力とともに、構文理解も重要だ。

◆以前触れたことだが、もう一度書いておく。

教育勅語の3段落目(句読点(「。」や「、」)を使っていない教育勅語を「。」で区切って行った時の3番目の段落)、「爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ〜」で始まる部分は、すべて連用中止法(「〜し、…し」と連用形で長く続けていくやり方)を連ねて、すべて文末の述部にかかっていく構造になっている。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が、連用中止法で綴られて行き、すべてが最後の「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」に掛かって行く構造になっていることと同じである。
第三段落の結び「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ。」に「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ〜」は掛かって行くわけである。そうしてこの結びが、「戦になったあかつきには身命を〈皇(すめらみこと)〉に捧げよ。」という意味であること紛れもない。

◆「すへし=すべし」とは天皇から臣民への命令である。
現在の憲法では許されないものとなったはず。

いくらアレンジしたところで、誤魔化しに過ぎず、「胡麻菓子」としてこれを子どもたちに食べさせようとすることは憲法違反であり、公教育としてやってはならぬことであるのは明らかだ。
新大臣がこれに基づいた「道徳教育」を推進させようというなら、2006年教育基本法のもとにおいてすら、教育への「不当な介入」として法令違反であることも言うまでもない。
教育勅語暗唱を実践していた森友学園問題のもう一つはそこにあった。

悪い冗談」(小沢一郎による批判)どころの話ではない。

******

「古き悪しき時代」より  ケネス・レクスロス (田口哲也・訳) 

眩暈がして、吐きそうになった私、その惨めさから
恐ろしいまでの怒りが込み上げ
絶対的な誓いが湧き起こった
今日、悪は清潔で
栄え、それはどこにでもある
路面電車に乗って探しに行く必要もない
そしてこの同じ悪
この惨めさ、この怒り、そして誓いに変わりはない


J.ソルト・田口哲也・青木映子 訳編『レクスロス詩集』(思潮社海外詩文庫、2017年)




あかるくてらしながら[2018年10月02日(Tue)]

◆本も液晶画面で読む時代とは言え、手に取って読んでみたら、とデジタル本が誘うことはなさそうだ。

その点、丁寧に作られた絵本や詩集は読み手にいつも語りかけてくるものだ。
小ぶりでも伝えたい何かが感じられる、さしづめ次の詩集のような。

こやま峰子詩集「かぜのアパート」_0001.jpg

こやま峰子詩集『かぜのアパート』 (朔北社、2003年)

表紙のような銅板画と詩とのコラボレーション。

おそらくは詩が先に生まれ、それを受けて画が制作されるという順ではないかと思うのだが、市川曜子による銅版画が心地よい。


こま  こやま峰子

からだぜんたいを
うずまきにして
じぶんじしんの軸に
たいせつな あした
まいて まいて
まわりつづける


こやま峰子詩集「かぜのアパート」〜こま_0003.jpg


ほうたい

あおぞらに うかぶ雲
ころんだこどもを みつけ
のはらにまいおり
おかあさんのように やさしく
ひざこぞうを いたわり
きずぐちに よりそう

たおれた兵士をみつけ
せんじょうに まいおり
おとうさんのように おおしく
さまよう いのちをつつみ
めざめるまで よりそう


こやま峰子詩集「かぜのアパート」〜ほうたい_0007.jpg

モノクロに一点だけ黄や赤の色を灯した画が、それぞれの詩と釣り合いよくA4サイズの紙に刷られている。少しクリームがかった用紙もこの詩集にふさわしい色合いだ。

次のような作品も印象的だ。


ろうそく

天から さずけられた
しごとが とてもすき

まわりを あかるく
てらしながら
いきていけるのは


こやま峰子詩集「かぜのアパート」〜ろうそく_0008.jpg



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