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相澤等『築地魚河岸』ほか[2018年10月21日(Sun)]

◆東京都の豊洲市場移転、築地解体強行が波紋を呼んでいる。
食が暮らしを支える文化であることを改めて思い知らされる。

相澤等(1906-2000)という詩人に『築地魚河岸』という詩集がある。
昨日の清水正一同様に、詩人としては変わった経歴の人物だ。

神奈川県鎌倉郡中川村阿久和(現・横浜市瀬谷区)に生まれ、1927年、京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)に学んで卒業後は横浜市保土ヶ谷尋常高等小学校に就職するも結婚を機に1939年に商工省(戦後は通産省=現在の経産省)に転職、戦後はGHQの労働組合設立推進方針のもとで労組書記長も務めたが、1949年に財団法人・商工会館が設立されるや通産省を退職して商工会館の理事となった。(日本現代詩文庫「相澤等詩集」の〈自画小伝〉による。)

職歴だけを見れば堅実にキャリアを積んでいった人生に見えるが「転石苔むさず」の生き方にも見える。その間、続けていた詩作で独得なのは、『築地魚河岸』という、築地の風物・魚介類を詠んだ詩集があることと、『道具魔館周遊』(〈ドグマ〉に引っかけてあるのだろう)という、団扇や鉈、鉋など、我々が手にする道具を素材にした詩群があることだ。

◆詩集『築地魚河岸』は次のように朝の景から始まる――

東京午前六時五十一分  相澤 等

電動鋸で切断され、鮪がその牡丹いろの股をひらかれると、きめこまかに紡がれた脂肪と蛋白質のあけぼの。6時51分、東京・七草の日の出。莢のある動植物の蔓の紐が解け、群がる目にさらされる。男たちは複数のゴム長靴を着装し、肩幅を広くもち、一様に太陽に背を向けて歩み去る。そのあとへ、素肌に木綿のきみが通りかかる、柳庖丁を手にして。気だるく寒い鮪の蕊の背後から。

   (第1連)


場外店舗

ヤニのつまった喫煙具で呼吸しながら、他者の町で吐く痰の、咳と共に町を出ていったらもう戻らないでほしいのだ。必需品を買い求めるところは、掻捨てにする恥や見栄、万引、放火のうろつけるところか。ここは煮つめるものが煮つまるまで、分解が酔いを誘いだすまで、小エビや貝の身に醤油のしたたりがしみとおるまで。先祖からうけ継ぐ創業の意志を掲げる彫りの深い看板に、飯田屋の屋号はなんと「江戸一」なんだ。矜恃はひそかに今までも、これから先も。買う心であきなうのは大福帳の和紙に部厚く綴じこんであるものだ。桜が散り、艦上機が河岸の屋根をかすめて日比谷公園は爆弾を落された。焼け野が原の東京でここは焼け残った。取り払った遮光幕を、三度と取りつけさせる習慣は、ここにはないんだ。 



築地遠近法

人と車と人の織り目を縫って、踏まれたゴム長に文句をつけなくてよかった。きみを踏んづけたのはきみのゴム長なんだ。海幸橋際で手をあわせる波除神社に、つかまえた季節はずれの蚊が一匹、血にふくれたまま放してやる信心、信仰は排泄作用といれかわりに、きみの精神の棚卸しをしてくれる段取りだ。木偏に神をつけた植物を、きみは懐具合とかかわりなく手に入れる。精一杯生きている真っ当さを竹杓に一杯の水を汲んで。水は、江戸湾に臨む林泉に鯉の泳ぐ、築山の松に雪つりの縄の光る二百年前、天明飢饉のあと、湿地帯を埋立て東北の大名が将軍から与えられた閑雅な景観はここだったと。錨印の学校や病院も撤収していき、日本橋から魚市場が引越してきた一九二三年以来、雪の下の自生する行きどまりの露地の、藍いろの空の遠近法はさえぎられて、いまはまったく消滅したか。
 


◆食材も人も信心も歴史も雑多に重畳する築地の詩が生まれた理由は、相澤がここに毎朝食材を仕入れに来ることを日課としていたからだ。
商工会館は霞が関官庁街にある。その常務理事であった相澤等は、会館利用者のために食堂も経営していた。そこで供する新鮮な食材を、自ら調達していたというのである。

そうした事情を知って、今春、霞が関に出向いたついでに、その商工会館を訪ねて見た。
虎ノ門駅から霞が関ビルの裏手に回ったところに立つ、洒落たデザインのビルである。

DSCN6309商工会館-A.jpg

DSCN6305商工会館ビル-B.jpg

現在の商工会館ビルには残念ながら食事処が無い様子であった。

*******

『道具魔館周遊』の詩群から2編。
道具とは人間の手が働くことで用をなすものたちである。
道具が手の延長として使いこなされる場にこそ、自然も人間社会も初めて見えるものとして立ち現れる。
  

蚊 帳   相澤 等

霜のきつい夜は、アバラヤに蚊帳こそふさわしい
のだ。すき間だらけの、人生に吹きこむ風をふせ

ぐ。この緑いろの障壁の外にむらがる夏。防備は
蚊柱をたてて襲いかかる刺客たちへのそなえだ。
精霊などはくらやみに溶け、純粋なものにとりつ

かれて、蚊帳のなかに立てこもる。しなやかな織
物をへだてて、思いあがりの真理を、ひとり抱い

て眠ろうとする。稀薄になる酸味におびえるよ
り、いまです、むしろ、刺客たちのすべてを、閉
塞の世界へ迎いいれて、いれかわりに、展けた未

知の外へ出よう。

***



あぐらをかいた足が、しっかりと、木を押えこ
む。木材にかくされている仏を探り当てるといえ

ば、ひとりは木理の中へ、魂を刻みこむという。
信仰の薄いタタミイワシを肴に、コップの向うの

みえる焼酎をくらい、木材に加える銘の力学に、
酔いがまわってくれば、ひとは断橋の上にいるの

を忘れる。打ち下ろした、そいつを引き抜いた隙
に、刃こぼれを生んだ。仏の首筋にあたるところ

に悲哀の重さがのこり、木を押え込む足の裏
はそれでも表情をかえていなかった。
 


 *詩はいずれも『相澤等詩集』によった(土曜美術社出版販売、日本現代詩文庫、1995年)。



〈いのちなんて/一寸した工夫でのばせるもんだ〉[2018年10月20日(Sat)]

清水正一(1913-85)という人の詩集は、たまたま立ち寄った藤沢駅北口の古書店で出会った一冊。
帯に「蒲鉾屋で詩人であったひと」と、異色の経歴が記してあった。

改めて詩集を開いたら、「丸松」と店名の縫い取りがある半袖シャツにエプロンをしめて市場に立つ写真が巻頭に載っていた。

「続」とタイトルに付いたこの詩集は、詩人没後にまとめられたもので、〈一九八五〉としてまとめられた詩群から〈一九七九〉としてまとめられた作品まで時間をさかのぼって構成されているが、それぞれの中に年記のある回想の詩が配されている。
折に触れての追懐が綴られた一冊と言える。

例えば〈一九八五〉のグループに含まれる次のような詩――


落葉   清水 正一


いきられた日々よ

飽くことなく熱いペンをにぎらせた夏

〈死〉とはまだ縁なきものと思われる

オーサカの夕暮れ

落葉といっても

まだ青い翳(かげ)りがのこっている

ゆめにみた雑木ばやし

あすこは空気が素晴らしい

友よ

先に行かずにすむなら行かないで

いのちなんて

一寸した工夫(あいであ)でのばせるもんだ
    、、、、、
〈自分がやになった〉など

僕はこの齢(とし)になってから

言えなくなったよ


寺島珠雄が編んだ巻末の年譜によれば、蒲鉾の製造販売を生業とすることになったのは大阪の老舗の蒲鉾屋で修業した兄が独立し、姉も加わったのに、数えで16歳の3月、高等科二年を終えたばかりの正一少年も加わったという経緯であった。郷里の三重県上野を離れ大阪の淀川「左岸」での暮らしが始まったわけである。


次のように家族への思いが率直に綴られる。

どこへも行かぬ 
 一九三五年

ちいさい妹らは (兄が)
よその人となることを心配して床につく
カマボコ板をふせるように
私も横になる
夜がふかまると
仕事場の魚臭が
二階にまでつとうてくる
 久子も
 八重子も

 ゆっくりおやすみ

私は生涯どこへも行かぬ


◆八重子は正一より2つ下、久子は7つ下の妹たちである。

冒頭の詩は、少年時代、同学年だった少年の自死がもたらした衝撃と人生の意味を考えて生きてきたことを晩年に回想したものと読める。
「オーサカ」脱出の願望もあったようだが、兄弟姉妹が力を合わせて生き抜くこと、カマボコ板の上から社会と人間を見つめることを自らの立つ場と腹をくくった日のことを歌った。
「どこへも行かぬ」の詩に添えた〈一九三五年〉とは、正一と妹たちの母りんが亡くなった年である。

徴兵検査で「丙種合格」(徴兵されない)であったため、造船に徴用されたものの、戦地へと召集されることは免れた。そのことをたまの休日に反芻する、次のような一節もある。
  、、、
今朝かわやで落したものは

マダガスカル島のかっこしていた

(…略…)
〈いつの八月十五日にも 僕は暗いかわやで一兵卒の慟哭をきく――日記〉

「オーサカの休日から」の冒頭と結びである。



続清水正一詩集.jpg
編集工房ノア、1985年
〈枯れても松の葉は〉[2018年10月19日(Fri)]

◆散歩中、雨粒が落ちてきた。
傘を開くべきか見定めようと足元に目を落とすと、松ぼっくりが一つ転がっていた。
この辺に松の木などあったかな、と視線を水平に戻すが見当たらない。
振り返ると、下りてきた坂道の途中に一本、確かに在った。

*******

秋の歌  清水 正一

すずしい朝の庭に出て
松の木の 黄(あか)い葉を落す

―だまって 世をこらえねば 人もまた
落ちる
落ちる
枯れても松の葉は
ひふを刺す


『続 清水正一詩集』(編集工房ノア、1985年)
清水正一(1913-85)は大阪市淀川区十三で蒲鉾屋を営みながら詩作を続けた人という。



藤田嗣治〈平和の聖母礼拝堂〉+遺品の「謎」[2018年10月18日(Thu)]

ノートル=ダム=ド=ラ=ぺ(平和の聖母礼拝堂)を完成させる

◆藤田嗣治展図録の図版最終ページには、最晩年の画家と君代夫人の写真が収めてある。

藤田嗣治と君代夫人.jpg

「完成間近のランスの礼拝堂のエントランスで語り合う藤田と君代」とキャプションが付いているから1966年ということになる。
「ノートル=ダム=ド=ラ=ぺ 平和の聖母礼拝堂」と名づけられたこの堂と内部のフレスコ画を紹介しているいくつかのサイトのURLを下に貼り付けて置く。

http://www.mmm-ginza.org/museum/special/backnumber/0908/special01-03.html

https://madamefigaro.jp/paris/feature/170724-foujita.html

http://jun-gloriosa.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-5239.html

◆今日手に入った近藤史人の評伝『藤田嗣治 「異邦人」の生涯』は、フレスコ画制作に憑かれたように没頭する藤田の姿を描きつつ、地元紙の取材に答えた藤田の次の言葉を紹介している――〈この季節は最も素晴らしいひとときです〉
絵の具の乾燥と格闘する夏場の過酷な仕事が肉体を痛めつけていたことをおくびにも出さないコメントである。
上の写真についても「その表情は落ち着いて、幸福そのものに見える。」と記す。

完成した礼拝堂と内部の印象を近藤の本から引用する。

一九六六年八月三十一日、作業を始めて三ヵ月後、文字通り骨身を削るような作業を経てついに藤田はフレスコ画を描き終えた。ここに藤田最後の仕事となった礼拝堂が完成したのである。
礼拝堂は、「ノートルダム・ド・ラ・ぺ 平和の聖母礼拝堂」と名づけられた。かつてのエコール・ド・パリ時代、藤田は名前の意味を問われたときには、いつも「嗣治」という名には「平和の継承者」という意味が込められていると語っていた、その「平和」を意識した名だった。
礼拝堂が作られたのは、ランスの町はずれにある閑静な住宅街だった。通りに面した入り口の門をくぐると、広々とした庭に緑の芝生が敷きつめられている。小さな礼拝堂は、その中央にぽつりと静かにたたずんでいる。
内部へ入ると二十坪ほどの広さの空間がある。その四方の壁面には全面にフレスコ画が描かれている。題材は、キリストの誕生から復活にいたる物語である。
絵に包まれた小さな空間には、藤田の晩年の作品に共通する不思議な透明感が漂っている。祭壇の正面には、平和への祈りを捧げる幼な児キリストと聖母マリア。マリアは限りなくやさしいほほえみを浮かべている。
右手には「最後の晩餐」。これはあのレオナルド・ダ・ヴィンチの作品を意識したのだろうか。
そして手前には十字架にかけられたキリストとその下で祈る群衆の姿。その画面の中には、藤田自身の姿が、小さく描かれていた。
群衆の中に紛れ、知らなければ見落としてしまうに違いないささやかな自画像。
白髪の藤田は、十字架上のキリストをすがるような眼差しで見上げている。
藤田が精魂を傾けた、自らの死に場所としての礼拝堂。そこに描かれた自画像が、藤田最後の自画像となった。

 (第五章 「美の国」へ)


赤い衣装の日本人形の謎

◆近藤のこの本は最後にひとつの謎を記して終わっている。

藤田の生涯を書き終えようとしている今も心に引っかかっているのは、ヴィリエ・ル・バクルで何とも解釈のしがたい藤田の遺品に出会ったことである。
それは、アトリエにあった藤田の膨大な遺品をまとめて保管する古びた倉庫に埋もれていた。倉庫では県の担当者が遺品の整理にあたっていたが、資料的価値が不明だとして未整理のまま箱詰めにされた品々が倉庫の片隅に積まれていた。
私は担当者に頼み込んでその箱を開けさせてもらうことにした。その箱を片端から調べている途中で、古びた日本人形があらわれたのである。
その人形は体長二十センチほどの大きさで、素朴な童女の顔立ちをしていた。若いころから手もとにおいてきたものだろうか、赤い衣装は手垢にまみれ、すり切れてぼろぼろになっている。
その日本人形の胸には、フランス政府から授与されたレジオン・ドヌール勲章がしっかりと縫いつけられていた。


「赤い衣装の日本人形」自体は珍しいものではないだろうが、この人形の様子の描写から著者の心のうちには、藤田の最後の戦争画となった「サイパン島同胞臣節全うす」の画面中央に、埋もれるように描かれた人形を抱いた女性の姿がよぎっていたのではないかと想像する。

この絵は疎開していた神奈川県津久井郡小渕村藤野(現・相模原市緑区)で描いたものだ。
近藤は、軍にとって宣伝となるような題材ではないサイパン玉砕をあえて選んだ理由について〈庶民の悲劇を題材に選んだ藤田の胸には、出征していく藤野の青年達の姿がよぎったような気がしてならない〉と記す。

こちらで勝手な想像を広げるなら、藤田の遺品の中にあった日本人形は、あの地獄絵図というべき「サイパン島同胞臣節全うす」の中央に描かれた人形なのではないか?
死に行く人々ばかりの中に埋もれるようになりながら凝然と何ものかを見つめている若い女が抱いている人形は、人間の形代(かたしろ)=身代わりであるゆえに、女の方は、凄惨・酸鼻の犠牲の先になおも生き抜かねばならない者として唯一異質の描かれ方をしているのではないだろうか?


藤田嗣治サイパン〜人形を抱く女02-A.jpg

「サイパン島同胞臣節全うす」 (部分)
画面中央に人形を抱いて坐る女


【当ブログの関連記事】
藤田嗣治「サイパン島同胞臣節全うす」 [2018年10月14日]
http://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/1016

近藤史人「藤田嗣治」.jpg
講談社、2002年

*君代夫人はこの本が出た後の2009年に逝去。
フジタ夫妻は平和の聖母礼拝堂に眠って居る、という。

藤田嗣治晩年の信仰[2018年10月17日(Wed)]

レオ・フジタとしての晩年

◆戦時中の藤田嗣治は次のように自分の半生を振りかえっていた。

私は二十五まで東京で暮らした。それから二十年パリで暮らした。私の体は日本で成長し、私の絵はフランスで成長した。私には日本に係累があり、フランスに友達がある。今や、私は日本とフランスを故郷に持つ国際人になってしまった。私には二ケ国ながらなつかしいふるさとだ。
私は、フランスに、どこまでも日本人として完成すべく努力したい。私は、世界に日本人として生きたいと願う、それはまた、世界人として日本に生きることにもなるだろうと思う。
 

 『アトリエ漫語』より「私」(新井紀一・編『彩管余録』教材社、1937年)

世界大戦がなければ日本と欧米を自由に往き来して、上の言葉を過不足なく実現する生涯を送ったかも知れない。
しかし、戦後の藤田嗣治は画家の戦争責任を一身に引き受けるかたちになった。
身の置き所に窮したのだろう、再びフランスへ。二度と日本に足を向けることはなかった。

◆1949年、フランス入国の許可が下りるのを待ってニューヨークに滞在中、油彩「カフェ」を完成させ、個展も開いたが、国吉康雄ベン・シャーンらの抗議を受けたという。

アメリカで制作を続けた国吉が敵性外国人の立場に置かれて味わった圧迫と創作の自由を求める奮闘からすれば、戦時中の藤田が葛藤なきままナショナリズムに傾斜したことは容認しがたいものだったろう。
★2016年7月16日記事【国吉康雄の絵】⇒http://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/325

◆翌1950年2月、パリに着き、55年にはフランス国籍を取得(のち日本国籍は抹消)、1968年に亡くなるまで日本に戻ることはなかった。

1959年にランスの大聖堂で君代夫人とともに受洗。レオナール・フジタと改名。
レオナルド・ダ・ヴィンチへの畏敬をこめた改名であったことは良く知られている。

パリ郊外のヴィリエ・ル・バクルで夫人と二人きりの隠遁生活、人間嫌いの度を深めていったとされるが、晩年に綴っていた文章の中に、次のようなことばが残されている――

日本に生まれて祖国に愛されず、
又フランスに帰化してもフランス人としても待遇も受けず、

(…略…)
迷路の中に一生を終る薄命画家だった。
お寺を作るのは私の命の生根の試しをやって見るつもりだ。
4月18日


 *「夢の中に生きる」より、1966年の一文。

◆「お寺を作る」云々というのは、ランスノートルダム・ド・ラ・ペ(平和の聖母)礼拝堂を建設する話が持ち上がり、それを引き受けたことを指す。一人二人と静かな祈りを捧げるのがふさわしいような小堂の内部を飾るフレスコ画を1966年、80才を目前にしたフジタは3ヶ月で一気に完成させた。

◆今回の藤田嗣治展で初めて宗教画の数々に触れることができた。
3~40代にも宗教画は描いているが、晩年の作品群は身近に置いた十字架からカンヴァスや羊皮紙に描いたものに至るまで丹念に描き込まれた細部が見飽きない。

藤田嗣治教会のマケット1953年_0003-A.jpg
〈教会のマケット(模型)〉(1953年)

縦・横・奥行きとも30〜40cmほどのミニチュアの教会。小さなマリア像の後方のステンドグラスも丁寧に作り込まれており、極小の堂内を彩り豊かに照らしていた。



藤田嗣治マドンナ1963年_0002-A.jpg
〈マドンナ〉(1963年)
聖母マリアも天使もアフリカンの顔立ちで描いてある。
聖母のモデルは映画「黒いオルフェ」のマルペッサ・ドーンであるという。(ランス市立美術館蔵)


藤田嗣治礼拝1962-63_0001-A.jpg
〈礼拝〉(1962-63年)
聖母をはさんで修道士姿のフジタと修道女姿の君代夫人を描いている。
フジタの背後、丘の上の白い家は彼らが暮らしたヴィリエル=ル=バクルの家。
この絵もここのアトリエで制作され、1964年、生涯最後の個展に出品された。(パリ市立近代美術館蔵)


*******

*作品の画像および説明はいずれも「没後50年 藤田嗣治展」図録によった。
*藤田の文章は近藤史人・編の講談社文芸文庫「腕(ブラ)一本/巴里の横顔」収載のもの。藤田の生涯については近藤史人氏による解説及び同氏編の年譜によった。



藤田嗣治:「無期限貸与」の戦争画[2018年10月16日(Tue)]

◆昨日の記事の題、〈藤田嗣治「戦意昂揚」画への疑問〉とした。
国民に戦意を昂揚させるのが国家から画家たちへの要請であったろうに、藤田の「戦争画」はむしろ別の気分を立ち昇らせただろう、という意味をこめた。そこに描かれたのは勇猛果敢な兵たちではなく、あの世から召還された死者たちの姿であったからだ。
絵を観る者たちは慰霊や慰撫の感情に駆り立てられる。
さらには、ザラザラした厭戦の気分が、おろし金のように観る者の内心を削りさえしたのではないか。
「アッツ島玉砕」が初公開されたときに、絵を見た老若男女が絵の前に膝をついて祈り、老人たちは画前に賽銭を投げるのを目の当たりにした藤田が、絵の傍らに国民服姿で賽銭箱を持って立ったという話は、そのことを物語っているように思う(椹木野衣『戦争画とニッポン』p.41)。

アメリカから「無期限貸与」の戦争画

◆もう一つ、戦争画に戦後の人間たちはどう向き合ってきたか、という問題が残っている。
押収されアメリカに拉し去られた日本の戦争画が帰国したのは藤田没後の1970年。
「無期限貸与」という名目での作品群の「一時帰国」であり、この但し書きは今回の展覧会図録にもそのまま残っている。改めて考えれば永続敗戦を裏書きするようなこの冠を外してやって、作品を歴史の中に位置づけようという声はこれまであったのだろうか?
あいまいな「戦後」がここにもブスブスくすぶっているのではないだろうか?


藤田嗣治「戦意昂揚」画への疑問[2018年10月15日(Mon)]

藤田自画像1943-a.jpg
藤田嗣治「自画像」1943年

◆左下に「1・1・2603」と、「紀元」による制作年月日が記されている。
裏には、元日に宮中参内後の「試写」(描き始め)と記されているという。

藤田の数多い自画像の中では、1940年の帰国後トレードマークであったおかっぱ頭を丸刈りに改めヒゲも落とした自画像であるというだけでなく、左後ろからの逆光で陰影の濃い絵になっている点でも珍しいだろう。

◆1939年9月のドイツ軍のポーランド侵攻で始まった第二次世界大戦勃発当時、藤田は3度目の渡仏で妻・君代とともにパリにいたが、翌年5月、パリが陥落する直前に脱出して帰国した。おかっぱ頭を丸刈りにしたのはその時である。

戦争の道をひた走る日本に身を沿わせ自分を鼓舞する生き方はそれ以前からのものだが、父・嗣章は陸軍軍医総監まで務めた人物であった。その子であり画家として声望高かった嗣治に国策協力の話が持ち込まれ、彼もまた熱意をもってそれに応じたことは自然な成り行きだったろう。

1938年の秋には海軍省の嘱託として藤島武二らと漢口攻略戦に従軍、作品も発表している。
従軍記である「聖戦従軍三十三日」には、たどり着いた朝日新聞の臨時支局で林芙美子に遇い、彼女の漢口一番乗りをみな口々に賛嘆する様子を記しているが、その支局の門の傍らには、「支那兵の遺骸が二つも顔を地面にすりつけた儘(まま)放棄されている」ことを書き留めながらも、気分の中心は戦勝した高揚感である。

従軍記は次のように結ばれている――

私の食膳に上った白米は私には余りにもマブシクて面をそむける程勿体ない気がした。大根一切れのあの美しさにも、豆腐一ツのあの肌の白さにも塵と汗に浸る吾が勇士を想うて手が下せなかった。遥かに北支南支の忠勇無比の勇士の武運長久を祈り、これから愈々私は絵筆をとって、根の続く限り戦わねばならぬ。
(「聖戦従軍三十三日」*近藤史人・編『腕一本・巴里の横顔 藤田嗣治エッセイ選』所収。 講談社文芸文庫、2005年)

◆藤田の戦争画(戦争記録画)は他の作家の戦争画とともに戦後進駐軍によって集められ、一時期東京都美術館に置かれていたが1951年にアメリカに移され、その後1970年にアメリカから「無期限貸与」されて東京国立近代美術館に収蔵されたという経緯がある(今回の展覧会を監修した林洋子の解説「藤田嗣治――失われた時を求めて」)。
2015年の同美術館の収蔵作品展は藤田の作品を特集し、その戦争画を一度に展観するとして話題になったものの、正面から取り上げた論考がどれだけあったろうか。
そうした中で、批評家・椹木野衣(さわらぎ・のい)と「戦争画RETURNS」シリーズなどの作品もある画家の会田誠による「戦争画とニッポン」(講談社、2015年)は考えさせる一冊だ。

その中に、1942年の『大東亜戦争 南方画信』に載った従軍画家たちの座談会が再録されており、藤田嗣治の熱を帯びた発言も収められている。幾つか写しておく。

●僕は今まで支那の戦線へもノモンハンの戦跡への出かけた経験があるが、今度大東亜戦争が始つて南方へ従軍してみると、今までと全然気組みが違ふね。勿論、今までだつて決していゝ加減な仕事をして来た訳ぢやないが、今度こそは、というふ気がする絵を描くのにもずつと気持が締まつてくる。

●百万(注:「聖戦美術展」を観た人の数)なんて数は問題ぢやないよ。いゝ戦争画を後世に残してみたまへ。何億、何十億といふ人がこれを観るんだ。それだからこそ、我々としては尚更一所懸命に、真面目に仕事をしなければならないんだ。

●矢張り戦争の時にはいゝ戦争画を作る、それが画家の仕事だと思ふ。記録画を残すといふことだけでなく、どんどん戦争画を描く。それが前線を偲ばせ、銃後の士気を昂揚させる。これは大事なことだ。


「戦意を昂揚させる」ことが大事だと言い切り、信念をもって戦争画に全力を投入して行った藤田の作品は、実際その目的を果たしたであろうけれど、そのように片付けて、その先は考えない習慣の泥沼になずんだまま、我々は怠けていないだろうか?
深く考え直す必要があるのではないか?――そんな疑問が頭を去らない。

実物を見るまでは予想もしなかった疑問なのだけれど。




藤田嗣治「サイパン島同胞臣節全うす」[2018年10月14日(Sun)]

◆藤田嗣治展で感銘を受けた戦争画(戦争記録画)は「サイパン島同胞臣節全うす」であった。

藤田嗣治サイパン島_0002-Z.jpg
藤田嗣治「サイパン島同胞臣節を全うす」(1945年)*同展図録より

◆太平洋戦争中の1944年6月から7月に行われたマリアナ諸島サイパン島における日米の戦い。日本軍は全滅、民間人もバンザイクリフから身を投げるなど多くの犠牲があった。
石垣りんの詩「崖」でも知られるあの悲劇の島である。

この絵も「アッツ島玉砕」同様に暗褐色の画面の中にさまざまな姿態の群像が描かれている。右端の中景に、崖から落ちて行く人間、その手前に祈る女や頭を抱えた母親、最も手前には、銃口を口にくわえ、引き金に足指を置いて、自決する寸前の男も描かれている。

注目されたのは画面ほぼ中央、竹槍か旗竿のような長い棒を右手にもち斜め右方向に視線を向けている女性の立像(世界史教科書でおなじみのドラクロア「民衆を導く自由の女神」と良く似たポーズ)があるが、その人物ではない。
その足元に坐る、赤ん坊代わりの人形を手にした女の方である。
女の左肩の白い服の手前にそれよりさらに白い人形の顔が描かれている。人形の衣装は赤が使われていることによって、生々しい物語がそこにこめられているようですらあるのに、女の顔は平静のままであるように見える。絶望や狂乱とは無縁の、画面全体の中で最も異質の表情が、画面中央、観る者の目と同じ高さに存在している者として引きつけずにはいない。

◆しかし、今回の図録で、この絵の写真は、作品の磁力を全く感じさせない。
上掲写真で分かるように、中央の女性が埋没してしまっているからだ。撮影条件もしくは用紙や印刷技術の問題なのかはっきりしない。何か特別な理由があるのだろうか、とすら勘ぐってしまう。

*ネット上には比較的鮮明な画像が見つかった。
昨日の記事で触れた「アッツ島玉砕」の画像も鮮明に見ることが出来たので、URLを貼り付けて置く。
https://blog.goo.ne.jp/shirakabatakesen/e/47bd5f26c0597e7e6168abc9dc338d5a

この絵も戦意昂揚どころか、銃で自決しようとする人物も描かれていることなど、軍部は扱いに困ったであろう。

*******

  崖       石垣 りん

戦争の終り、
サイパン島の崖の上から
次々に身を投げた女たち。

美徳やら義理やら体裁やら
何やら。
火だの男だのに追いつめられて。

とばなければならないからとびこんだ。
ゆき場のないゆき場所。
(崖はいつも女をまっさかさまにする)

それがねえ
まだ一人も海にとどかないのだ。
十五年もたつというのに
どうしたんだろう。
あの、
女。          

 詩集『表札など』・1968年刊)
 *現代詩手帖特集版「石垣りん」(思潮社、2005年)によった。




藤田嗣治の戦争画[2018年10月13日(Sat)]

◆没後50年を期して開かれた「藤田嗣治展」を観てきた。
考えをいくつも改めた。

◆戦前の作品群の中にいくつもの発見があった。
1914年のキュビスムによる作品(「トランプ占いの女」)から例の独特な「乳白色」の女性像へと進む変化もその一つだが、欧米だけでない多様な世界にずんずん進んで行くそのたびに絵もずいぶん異なる風貌を備えることになるのが面白い。

例えば中南米を訪ねて描いた作品群。
黒人の母や子ども達を描いた「リオの人々」(1932年)や「ラマと四人の人物」(1933年。下図。本展の図録より)など。水彩で描いたためもあろうか、暮らしが鍛え上げた陰影のある顔貌が印象的だ。

藤田ラマと四人の人物1933−A.jpg

◆日本が国際的に孤立してゆく時期、1933年の11月に帰国した藤田は新潟、秋田、沖縄などを精力的に訪れ、土地の人々を描く。
以前見た「秋田の行事」という大作は、そのころの作品(1937年。今回は展示なし)で、それを見た時は思いがけないテーマに驚いた記憶がある。

◆ポーラ美術館で子どもたちを描いた小品たちを見た時にも意外の感じはあった。
しかし、今回の展覧会で中南米や日本各地への旅から生まれた家族像を目の当たりにすると、藤田嗣治という画家の戦前〜戦後にわたる制作の営みとして大きく貫かれたものがあることに納得せざるを得ない。

◆家族や子どもたちを人物群として描く、という点では、対象への向かい方において乳白色の裸婦群像と違いがあるわけではない。
当然のことのようだが、戦争画もその例外とはならない、と言って良い。
そのことを確認したのが東京都美術館での今回の展覧会だった(10月8日で終了)。

今回、「アッツ島玉砕」(1943年)を見るのが目的の一つだったが、発表当時、各地を巡回して人々に強い印象を与えた、という大作に自分は何を感じるだろう、ということを漠然と考えていた。

「国民総力血戦展」で発表され、まさにそうした国家の要請に応じて描いた絵には違いなく、求めに十分応える効果を巡回した先々でもたらしたのは事実なのだろう。

だが、一方、今回の展示でこれを見た若い世代が「戦意昂揚にはならない、と思った」と感想を述べたという話を新聞で読んで、そうだろうな、と納得する気分がある。
時代が違うからでは全くない。この絵を見た75年前の人たちも上の若者と同様に感じた人たちが少なからずいただろう、と思うのである。

◆逆巻く海と茶色い陰影の中にひしめいている兵たち。とどめを刺そうと銃剣の切っ先を鉛直に構え、あるいは銃床でたたきのめそうと銃身を握って振りかぶった兵……。

群像である。それも、勇往、玉砕に突き進んで行く進行形のドラマではない。
あえて言えば、死せる者たちとしてすでにあの世に征ってしまった者たちが、画家によってキャンバスに召還され、ひとつの図像として組み上げられたもの、と言うべきだろうか。

おびただしい死がそこに繰り広げられたはずなのに、ここには鮮血の色は存在しない。
茶や褐色の他には剣や海を描く沈んだ青色があるばかり。
それ以外では呼号する兵士たちの歯の白さが際立つ。

鮮血の色がないのは、流された血がすでに色を変じて軍装と区別するすべもなくなっているからだ。
死者が(冥界から)キャンバスに召還されて、と言ったのは、その意味である。
目にしみるほどの歯の白さもまた、すでに亡き者たちのむくろが見せる歯の白さであること、言うまでもなかろう。



清岡卓行「駅名あそび」[2018年10月12日(Fri)]

◆清岡卓行の小説に『マロニエの花が言った』という大著がある。
両大戦間のパリを舞台に画家の岡鹿之助(清岡の著作を飾ってもいる)や藤田嗣治、マン・レイ、詩人の金子光晴らが登場する。
先日、上野で藤田嗣治の他の面を知ったばかりでその印象をまとめないうちに小説に引っ張られるのもどうかと思って、序章のみに留めて置こうと開いてみたら、ジョセフィン・ベーカー(スペイン人の父と黒人の母のもとアメリカに生まれたシャンソン歌手)の名前が出て来たりして、たちまち本を閉じた。

代わりにこの数日パラパラ気ままにひもといていた「全詩集」(思潮社の1985年版。これとは別に定本全詩集が清岡没後の2008年に出ている様子だが未見)から、肩肘の張らない佳篇をひとつ。

駅名あそび   清岡 卓行

書物が奇態な生きもののように
しだいに乱雑に増殖してくる
狭苦しく 狂おしい 物書き部屋には
西と北に 大きな窓がある。
朝も昼もやや暗いが ときに
夕日の奔流が花やかな明るさで
わたしの疲労をすっぽりつつむ。
あと一枚 原稿を書くための
なけなしの 新しい元気を
胸に芽生えさせるのである。
こんな時間が
わたしは好きだ。

やがて トコトコ
幼い子が階段を登ってくる。
ドアのノブをぎごちなく廻し
「ごはんですよ!」
と 部屋のなかにはいってくる。
椅子に坐るわたしの膝に乗り
机のうえの書きかけの原稿を
小学一年生ふうに 拾い読みする。
わたしはそこで 問題を出すのだ。
「東京のなかを走っている電車の駅の名前で
ね 一とか三とか数がはいっているのがある
でしょう? 一から十までの数がひとつずつ
はいるように 駅の名前を十いってごらん」
電車に夢中の息子は すごく喜び
ゆっくり考えて さっと答える。

「青山一丁目!」
そうだ 先週もわたしはその駅で降り
知人の死を悼むため斎場に向かった。
「二子玉川園!」
十六歳のわたしが 受験のため大連から
初めて東京に出て来て泊った 叔母の家。
「三軒茶屋!」
二十六歳のわたしが 敗戦で大連から
東京に引き揚げて来て泊った 姉の家。
「四ツ谷!」
おまえの兄が いっぱし通っている
フランス人の先生の多い あの大学。
「五反田!」
わたしが通勤のため かつて何千回か
電車乗り換えで歩いた あの連絡通路。
「六本木!」
おまえのもう一人の兄が ときたま
お茶と踊りに その町に行っている。

幼い子は七のところで 大いに困り
頭を左右にかしげて 考えつづける。
ああ こんな時間が
わたしは好きだ。
「東京のなかでなくてもいいよ」
と わたしは問題をゆるめる。

「七里ケ浜!」
おまえは幼稚園を終えた 春休みに
母に連れられて その海岸で遊んだ。
「八坂!」
おまえの生まれた産院が その町にあり
どんな建物か おまえは見たがっている。
「九段下!」
おまえの父母は結婚前 その駅で降り
ウィーン・フィルハーモニーを聞いた。
「十条!」
敗戦の前の年の初夏 学生のわたしが
校友会雑誌の校正をした あの印刷所。

「ごはんですよ!」
一家の主婦の権威の声が
階下からおおきくひびいてくる。
幼い子を先にして
まだ西日が残っている階段を
二人で あわてて降りて行く。
こんな時間が
わたしは好きだ。


*『幼い夢と』(河出書房新社、1982年)所収。
テキストは『清岡卓行全詩集』(思潮社、1985年)によった。



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