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生体認証[2018年10月31日(Wed)]

DSCN8905.JPG

畑を縁取るように小菊がにぎやかに咲いていた。

寄り添へば菊華やげり去れば澄み  
          星野立子


*******

◆宅配便が来たのでハンコを用意してドアを開けたら目の前にスマホの大きさぐらいの端末機を差し出された。こちらにサインを、と言う。
指先で書いた文字はサインしたという実感がない。ペンで書いても達筆に書ける保証はないものの、荷物を受け取ってからもふわふわした感じが続いた。

ついで心配が頭をもたげる。
指先程度でも指紋を読み取って記録できるのではないだろうか。
金融機関のATMも指紋認証できるようになっているものが今や普通だ。
ひょっとしたら宅配の端末のデータを誰かが大量に集め、それを電子的にATMにつないで、指紋登録してある人間の口座から引き出すことだって出来るのではないか。

◆あれこれ心配していたら、スマホの生体認証でログインしてウェブ・サービスが利用できるようになる、というニュースがあった。指紋情報などはサービスを提供する会社側のサーバー上に保有せず、利用者が自分のスマホに設定した認証情報に基づくからさらに安全性が高まった、という説明だが本当にそうなんだろうか?

落としたスマホを誰かが悪用しようとしても機械は持ち主の指紋しか受け付けないから大丈夫、と説明するのだろうけれど、スマホには持ち主の指紋がいっぱい残っている。
何らかの化学的な処理でその指紋をコピー・復元することぐらい今は可能なんじゃなかろうか。
(映画で、Webカメラで画面に映った相手の手のひらの映像から指紋を取る、というのがあった気がする。そんなことも可能な時代のとば口に立っているように思える。)

顔や瞳(虹彩)の認証技術だって実用化されている時代に、それらの個人識別情報を集めていません、と言われても全く信用はできない。変装して群衆の中に紛れていても見分けられる顔認識の技術は、膨大に集積された顔情報との照合によって可能になっているのではなかったか。

拘留中の警察署から逃走して一月半以上も捕まらなかった事件は、世の中、まだそこまではヒドくないことを証明したのかも知れない。無論、事件をきっかけに、もっと監視カメラを増やせ、と流れていくのは願い下げだけれど。



かりんの実[2018年10月30日(Tue)]

DSCN8909.JPG

◆閉校になった小学校、伐られたかと思っていたカリンが無事だった。
前より実の生り方がたくましくなった感じがある。

良く見ると、リンゴと違って「つり」の部分が短く、枝との距離が殆どない。
枝に実がぴったりくっついていると言って良いくらいだ。
これなら、多少の風が吹いても落ちる心配がないかも知れない。
先日の台風24号(藤沢市辻堂で最大風速36.8m/sを記録した)を乗り切ったカリンたちということになる。

DSCN8911.JPG

◆葉を落とした枝に突き刺したように実の生った姿が何かに似ている。
先日の市民センターの「ふるさとまつり」でも飾ってあったなあ、と記憶の糸をたぐってみる――

「どんど焼き」(左義長)の団子だ。小正月に、木の枝に刺した赤や白の団子をどんど焼きの火であぶって食べるが、あの姿にそっくりだ、と思った。


榠樝(かりん)の実うれて日和のつづきけり
               貝島春光
 



心を偽造するわけにはいかない[2018年10月29日(Mon)]

DSCN8899ハト群-A.jpg

◆二十日余りの月が未だ空に残っている頃、鳥たちが群がり飛び、やがて二手に分かれた。
そのうち西方の上空を飛んでいた一団。向きを変えるたびに翼が白く輝いて見えた。

椋鳥のような鳴き声は聞こえないので、電線に留まったところでズームして撮って画面を見ると、鳩たちであった。珍しいことだと思った。

DSCN8902ハトと電線-B.jpg

◆◇◆◇◆◇◆

〈 恐怖の研究 〉より  田村 驤



心が死んでしまったものなら
いくらよみがえらせようとしたって
無駄なことだ
かれを復活させるために
どんな祭式が
どんな群衆が
どんな権力が
どんな裏切り者が
どんな教義が
どんな空が
どんな地平線があるというのか
たぶんブリューゲルだったら
重力よりも重い色感で
大きな橄欖樹を黙々と描いたかもしれない
空白をつくるためだ
空白によってしか答えられないからだ
空白の遠近感がどうしても欲しいからだ
空白のリズムをききたいからだ
ところで
行方不明になってしまった心なら
あっさり埋葬するわけにはいかない
死亡認定書も
火葬許可書も
偽造するのにぞうさはないが
心を偽造するわけにはいかない


*この詩は第1連が「10」と記され、以下、「9」「8」……と数字は降順に付されて行き、「1」の連のあとには「0」という数字だけあって、詩句そのものはない。
ことばは無いのだが〈魂〉がそこに在ることを感得せよ、と言っているのだろうか。

◆この詩にも「四千の日と夜」ということばがある。
田村驤黷フ第一詩集「四千の日と夜」がなぜ「四千」なのか考えてみたら、詩集が世に出た1956年は敗戦後11年、すなわちほぼ4000日である。その間の作品を収めたという意味だろうと見当付けてみた。
現代詩文庫の「自伝」を読んだら、果たしてそうだった。
しかし、そんなことは何でもない。

この〈恐怖の研究〉という詩で、上に部分的に引用した「9」の終わりが次のように書かれていることが重要だろう。

…(略)…
当方にはまだ名づけられない星がきらめき
その光りが地上に達するまでに
ヨハネの
ジョン・ダンの
ボードレールの
マラルメの暗喩がうみだされるだろう
これらの暗喩によって
数億の日と夜はわかれ
数万の日と夜は調和と秩序をもち
おお
ぼくの心のなかでは
四千の日と夜が戦うのだ


◆「数億」「数万」の日と夜のあいだに生まれ・死んで行った人間たちに連なる表現者として「ぼく」もまた世界を画し、調和と秩序の豊饒を生み、さらには破壊の昼と増殖の夜を生きて戦うことをやめることはない、と宣言しているのだ。
一口に「数億(日)」と言うが、換算すれば百万年に及ぶ人間の歴史に我も推参しようという壮大な気概を披瀝しているのである。
自負とそれがもたらす身震い――戦慄を覚えるほどの――「恐怖の研究」と題したゆえんである。

わずか一本の、しかし星の光りを集めて光る「針」、これを武器にした彼の破壊と増殖の戦いを読んでおこう。


8

日と夜のわかれるところ
日と夜の調和と秩序のあるところ
日と夜の戦いのあるところ
それは
一本の針の尖端
無名の星の光りにひかる針の尖端
歴史の火の槍
ふるえる槍の穂先

7

塔へ
城塞へ
館へ
かれらは殺到する
かれらは咆哮する
かれらは掠奪する
かれらは凌辱する
かれらは放火する
かれらは表現する
かれらはあらゆる芸術上の領域を表現する
白熱のリズムを
増殖するイメジを
独創的な暗喩を
危険な直喩を
露悪的なマニフェストを
偽善を弾圧するもっとも偽善的な芸術運動を


◆「殺到」し、「咆哮」する「かれら」とは、〈数億の日と夜〉を生きてきた――彼等の「生」そのものであるその表現を見つめ聴く者たちがいる限り、今も現に生き続けている――表現者たちであり、その中には「ぼく」もいる。
悪辣な暴徒のように「略奪/凌辱」するのは、「死んでしまった/心」を甦らせるためである。

この連の最終行「偽善を弾圧するもっとも偽善的な芸術運動」に至るまでの露悪的な表現には ボードレール「われは傷にして刀! /われは打つ掌(たなごころ)にして打たるる頰! / われは四肢にして引裂く車、 /死刑囚にして死刑執行人!」という詩が反響しているだろうけれど、自らを罰することすら厭わないのは、君子ぶった偽善の徒輩に抗うには他のすべがないからであり、「死んでしまったもの」同然の人々の「行方不明になってしまった心」は、そうすることで再び甦るはずだからである。
そうして何より、それを知っている(感覚している)「ぼく」として〈心を偽造するわけにはいかない〉からである。

*「恐怖の研究」は現代詩文庫『田村驤齊刻W』(思潮社、1968年)によった。
**ボードレールの詩は「われとわが身を罰する者」の第6連。村上菊一郎・訳『悪の華』によった(角川文庫、1950年)。


「空虚な建設」や「卑小な希望」ばかり[2018年10月28日(Sun)]

DSCN8889.JPG

◇ホオジロ。雀の大きさほどだが、群れないのが好もしいし、さえずりもまた悪くない……
……

◆ところが田村驤黷ノとっては、鳥たちはことごとく次のようなものとして存在するらしい。


〈言葉のない世界〉より  田村 驤




鳥の目は邪悪そのもの
彼は観察し批評しない
鳥の舌は邪悪そのもの
彼は嚥下し批評しない


*詩集〈言葉のない世界〉より

◆幾千言費やしたものであれ、寸鉄刺すようなものであれ、ことばで批評してくるものは何者でもない。しかし鳥はそんなものをぶつけては来ない。
ただひたすら世界とそこにさまよう自分を観察し、己が喰らうべきものを喰らって呑み下すだけだ。まるでこちらを相手にしている風ではない。
彼に見下ろされるようにして落下し漂流する自分が行くのは〈空虚な建設も卑小な希望もない道〉〈破壊と繁殖〉〈再創造と断片〉の針の道だ(「8」の第2連)。

◆この詩もテーマは「死」とそれに抗う自分であって、冥府の門番のような鳥に見下ろされている人間が、「建設」だ、「希望」だ、「創造」だ、と景気のいい言葉を連ねたところで、どれもたちまち氷結して粉々に砕け散る、ということを詩人は良く知っている。

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動乱の世界に生身を賭ける[2018年10月27日(Sat)]

◆イスタンブールにあるサウジアラビア領事館でジャーナリスト、ジャマル・カショギ氏が殺害されたとされる事件、田村驤の次のような詩を思い出させる。


沈める寺  田村 驤

 全世界の人間が死の論証を求めている しかし誰一人として死を目撃したものはいないのだ ついに人間は幻影にすぎず 現実とはかかるものの最大公約数なのかもしれん 人間にとってかわって逆に全事物が問いはじめる 生について その存在について それが一個の椅子から発せられたにしても俺は恐れねばならぬ 現実とはかかるものの最小公倍数なのかもしれん ところで人間の運命に憂愁を感じ得ぬものがどうしてこの動乱の世界に生身を賭けることができるだろうか ときに天才も現われたが虚無を一層精緻なものとしただけであった 自明なるものも白昼の渦動を深めただけであった

 彼はなにやら語りかけようとしたのかもしれない だが私は事実についてのみ書いておこう はじめに膝から折れるように地について彼は倒れた 駆けよってきた人たちのなかでちょうど私くらいの年ごろの青年が思わずこんな具合に呟いた「美しい顔だ それに悪いことに世界を花のごとく信じている!」 


*『四千の日と夜』所収。
   「田村驤齊刻W」(思潮社現代詩文庫、1968年)によった。

◆詩集『四千の日と夜』(1956年)は全編、死をテーマとしている。それも尋常の扱いを徹底的に拒否した「死」。敗戦時、田村驤黷ヘ23歳。戦争と人間の死は身近なものであったはずだが、そこから直接生まれた詩群ということはできない。
怒りを塗り込めた想念の楯を唯一の武器として世界の不条理を告発する。

◆次のようなことばを苦くかみしめるなら、生還したジャーナリストへの「自己責任」論など、笑止なものとしか思われない。60年以上前に、まるで21世紀の混迷を予告したかのような憤怒のことばたち。



〈 立棺 U 〉より

  地上にはわれわれの国がない
  地上にはわれわれの死に価いする国がない

わたしは地上の価値を知っている
わたしは地上の失われた価値を知っている
どこの国へ行ってみても
おまえたちの生が大いなるものに満たされたためしがない
未来の時まで刈りとられた麦
罠にかけられた獣たち またちいさな姉妹が
おまえたちの生から追い出されて
おまえたちのように亡命者になるのだ

  地上にはわれわれの国がない
  地上にはわれわれの生に価いする国がない



 「立棺 U」より第5〜7連(同じく『四千の日と夜』より)


どなたも「真心」忘れずに。[2018年10月26日(Fri)]

◆今日の神奈川新聞によれば、2016年熊本地震で被災し建て替え工事中の熊本市民病院にも、性能検査データ改ざんの油圧機器メーカーKYBの子会社の免震装置が使われていたそうで、KYBの社長が謝罪のため熊本市に出向いた由。
★【KYB、改ざんで熊本市長に陳謝 被災の市民病院に不正装置】
http://www.kanaloco.jp/article/368055

◆KYB社のオイルダンパーは、地元の藤沢市民病院にも18機が設置されているという。

DSCN8823-E.jpg

藤沢市民病院。ダンパーが設置されているのは右の新東館(8階建て)のようだ。
市民にもたらした動揺と不安、早く鎮めて欲しいものだ。

*県内の状況について先週10月18日の神奈川新聞記事
★【KYBデータ改ざん またも揺らぐ「安全」 県内6施設でも使用】
http://www.kanaloco.jp/article/366451

*******

◆藤沢市民病院入り口手前、左手の植え込みの中に、その名も「真心」と題する少女像が立っている。
KYB関係者が今度病院に来たときは、まずこの少女像に深く頭を垂れて下さいよ、と念じるばかりだ。

夏場は草むらに阻まれて近づくことが難しく作者名も分からなかったのだが、今は草刈りが済み、落葉が散り敷いている中にすっきりと立っている。

DSCN8820陶山定人「真心」C.jpg


DSCN8817陶山定人「真心」B.jpg

◆近づいて台座を確認すると「SADATO SUYAMA」のサインが深く刻まれている。
名前に記憶がある。やはりこのようにローマ字で深めに名前を彫り込んであったように思う。
「須山」でなく「陶山」だったナ、確か――と断片的な記憶しかない。
どこかで見たことがあるはずなのに、美術館の中か、野外かも思い出せない。

試しにネットで検索をかけたら何と、自分のブログが引っかかった。
しかもわずか半年前の記事である。藤沢市役所の旧新館前に立っていた「みぎわ」という女性の立像(1984年)の作者だった。

「認知症防止には1日2リットルの水を飲まなきゃだめなんだって。」と家人にクギをさされたばかりなのであった。

★4月24日の記事【打倒するには「開く」こと】
http://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/835


DSCN8816陶山定人「真心」D.jpg

陶山定人(1926-2009)氏は広島県新市町(現・福山市)出身とのことだが、相模原を制作の拠点にしていたというので、県内でまた出会う機会があるだろう。楽しみがまた増えた。
「陶山」という、珍しい方に属する作者名に2回も出会ったのだから、もう忘れないだろう(そう願う)。

DSCN8813陶山定人「真心」-A.jpg

首相演説におけるベトナム[2018年10月25日(Thu)]

首相演説になぜベトナムが登場したのか?

◆昨日10月24日の安倍首相所信表明演説を聞いていて、驚いた。
〈外国人材〉について触れたくだりでベトナム人青年のエピソードを引いていたからだ。

半年前に来日されたばかりの、ベトナムのクアン国家主席が先般お亡くなりになられました。心から御冥福をお祈りします。
来日の際訪れた群馬の中小企業では、ベトナム人の青年が、日本人と同じ給料をもらいながら、一緒に働いていた。そのことを、クアン主席はうれしそうに、私に語ってくださいました。
「彼にとって、大きな誇りとなっている」
これは、私たちにとっても誇りであります。世界から尊敬される日本、世界中から優秀な人材が集まる日本を創り上げてまいります。


◆23日の記事で触れたように、文部科学省「日本型教育の海外展開推進事業(EDU-Portニッポン)」で「2018年度EDU-Port公認プロジェクト」に認定された個別枠事業(額は少ないが支援金も出る)の一つ、Z会ホールデングスの「食育・健康教育」事業が、まさにベトナムを対象にした事業であるからだ。

当ブログ記事では、この事業が「日本型のしつけやマナーなどの推進も図る」としている点への懸念を述べた。
〈他国に文化を押しつけて平気な「上から目線」〉であり、こうした「日本型教育の売り込み」が、〈人的資源を確保し日本に呼び込むという未来図〉の下絵として描かれているのではないか、あえて言えば、経済力を背景にした植民地支配の発想があるのではないかと疑っているのだ。

★【10月23日記事「大岡信ことば館」閉館とソロバン】
http://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/1025

◆24日の演説で首相が特定の会社を国会の場で暗に持ち上げたとまで難じるつもりはないが、上の疑念は相当程度に当たっているのではないか、と思いつつある。
そのような視点から上に引用した演説を改めて読めば、ここでも現政府の「上から目線」を感ぜざるを得ない。

〈日本人と同じ給料をもらい、一緒に働くこと〉が誇りなのか?

◆群馬の中小企業に働くベトナム人青年が、〈日本人と同じ給料をもらいながら、一緒に働いていた〉ことを、故クアン・ベトナム国家主席は「彼にとって大きな誇りとなっている」と述べたというのだが、良く考えれば、そのことが青年にとって真の「大きな誇り」であったのだろうか?
演説は、ベトナム人青年が自らの言葉にこめた思いも、それを安倍首相との会談時に紹介したクアン氏の「誇り」も正しく伝え得ていないのではないか?
それどころか、日本のような「先進国」で日本人と同等の待遇を受けることは名誉であるはず、という決めつけに立ってクアン氏のコメントをつまみ食いし、自らの演説に利用しただけなのではないか。

◆安倍首相の演説は、このエピソードの直前でも「日本人と同等の報酬をしっかりと確保します」と、「日本人と同等」を強調していた。

しかし、実際にはその日本人労働者の報酬自体が、限りなく低く押さえ込まれ、経営側にのみ都合の良い非正規労働者が大半になっている中で、「日本人と同等の報酬」が実際には、生活の基盤を支え将来図をしっかり描くに足るものになっていないのが「経済大国日本」の紛れもない現実ではないか。「技能実習生」が安価な外国人労働者の別名に過ぎない問題も今さら指摘するまでもない。

◆事実、今年5月29日のクアン氏の群馬訪問を報じた産経新聞の記事の見出しは次のような、ミもフタもないものだった。

ベトナム人の犯罪や失踪増加…友好へ課題山積 越国家主席が群馬訪問
https://www.sankei.com/politics/news/180530/plt1805300014-n1.html

記事本文も抄録しておく。

増加するベトナム人居住者の中から犯罪者が生まれたり、働きながら学ぶ「技能実習生」が勤務先から失踪したりするケースは日本国内全体で相次いでおり、群馬県も例外ではない。


◆ベトナム人から「犯罪者」が「相次いで」いるかのように読者を誘導する書きぶりである。
もしそうしたケースがあったなら、その理由や背景を、雇用の実態、制度の問題点、関連する課題まで掘り下げて指摘すべきであろうのに、記事は触れていない。
印象操作に余念がないと批判されてもやむをえまい。

◆安倍首相演説の〈外国人材〉のくだりは、我が国の制度の問題点には頬被りしたまま、「経済大国」の傲慢を露呈したものではないか。

◆明治時代日本人がアメリカに移民として大量に進出したのは中国系移民に替わる安価な労働力ととしてであったと聞く。
日系移民の苦難の歴史も忘れたかのように、人不足の分野に安い労働力を、という発想だけなら、かつてのアメリカの移民政策をなぞっているだけだ。

自国民すら格差にあえぐ現状にてこ入れして全体を引き上げようとしないまま、ほころび隠しの労働政策では先が見えている。

「生存権はもとより、政治参加も対等に開かれた社会を目指そう」――そうした発想は芥子粒ほどもないようだ。働く人々に敬意をこめて迎えるのでなければ、結局は道具として人間を酷使することにしかならない。

安倍首相の演説に対して〈憲法ちゃんと勉強し直せ〉という声が議事堂のあちこちから飛んだのは当然だった。



ジャーナリスト・安田純平さん解放との報【追記】[2018年10月24日(Wed)]

【追記】ジャーナリスト・安田純平さんの無事の姿が夕方にはTVに映った。
彼自身が英語で名乗り、40ヶ月にわたりシリアで拘束されていたことを告げた。
「40 months」と語る言葉に生還までの長いトンネルを耐えて来た実感がこもる。
家族の喜びの声も次々報じられている。
再会する姿を見守りたい。

◆今朝の速報に若干の追記をして置く。

伊藤和子弁護士のコメントが出された。国際人権NGOヒューマンライツ・ナウの事務局長で安田さんと集会等で同じ壇上から発言することもしばしばあり、その人となりを知悉する一人。

【安田純平さん解放の報。本人を追い詰めるあらゆる対応を控え、心的外傷の治療を最優先すべき】
10/24(水) 12:50
https://news.yahoo.co.jp/byline/itokazuko/20181024-00101617/

◆コメントに次のような一節がある。

最後に安田さんと一緒に登壇したのは、後藤健二さんが殺害された直後のトークイベントであった。
後藤さんの死とともに後藤さんの生き方を振り返り、中東地域で続く殺戮や人々の苦しみに対する日本の無関心さにどう向き合うべきか、ジャーナリストやNGOの使命は何か、ということを語り合ったことを忘れられない。
安田さんは絶対に死なないで生きて帰ると信じていたが、胸がつぶれそうな映像にも接してきた。
本人はどれほど筆舌に尽くしがたい恐怖と苦悩の日々(これでは十分な言葉と言えないが、言葉を尽くせないものがある)を過ごしてきたことだろう。


◆この集会は2015年2月6日に後藤健二さんの事件を受けて行われた緊急集会「シリア人質事件を受けて今考える 私たちは中東の平和にどう貢献できるのか」で、会場にいた当方も二人の発言は覚えている。

★[2015年2月7日記事】伝える自由と想像力を働かせる自由
http://blog.canpan.info/poepoesongs/daily/201502/07

★映りが良くないが、その折りの安田純平氏の画像を載せておく。

150206安田純平氏豊島区民センター「緊急集会後藤健二さんらシリア人質事件を受けて」DSCF0015.jpg
2015年2月6日、東京池袋の豊島区民会館で。


◆◇◆◇◆◇◆

ジャーナリスト・安田純平さん解放との報せ

◆未だ官房長官発表の政府情報だけだが、2015年6月にシリアで行方不明となっていた安田純平さんが解放された旨のニュースがあった。
心から喜びたい。

*別ルートからの報知がまだ無く、政府の情報統制によるアピールの意図を疑うが、国民が素直に信頼を寄せる政府とメディアが近事どれだけあったか、改めて自前の目と耳と頭を持ちたいと思う。

ともかく安田氏自身と家族の辛抱に敬意を表する。
無事な姿を伝える続報を待ちたい。

【毎日】2018年10月23日 23時10分(最終更新 10月24日 01時59分)
安田純平さん・解放の情報 シリアで3年間行方不明
https://mainichi.jp/articles/20181024/k00/00m/040/171000c


「大岡信ことば館」閉館とソロバン[2018年10月23日(Tue)]

大岡信の詩を文庫で拾い読みしながら、ふるさと三島市に彼の文学館があったはず、と調べてみたら、「大岡信ことば館」という公式サイトが見つかったが、何と昨年暮れに閉館してしまっていた。

通信教育で知られるZ会(増進会出版社)が三島市の自社ビルに開いた文学館であったようだが、一度も行ってみる機会のないまま閉館とは……

彼が闘病の果てに不帰の客となったのは去年の春のことだったから、没後半年余りでせっかくの文化の灯火が消滅したことになる。
数万点に及ぶ彼の著作や原稿は2020年に開館予定の明治大学の新図書館に寄贈されて大岡信文庫として保存される予定であるとのこと。

★大岡信ことば館
http://kotobakan.jp/
*閉館にあたっては、せめて詩人の年譜に逝去の日付けも追記更新して有終の美を飾って欲しかったと惜しまれる。公式HPを存置させている以上、そうしたきめ細かさを過不足なく通わせて詩人に敬意を表すことも大切ではなかろうか?

◆企業が文化事業に注力する志が悪かろうはずはない。
但し維持する資金や人に恵まれなくては初志貫徹が難しい。
お茶の水のカザルスホールや小樽の石原裕次郎記念館などいくらでも先例がある。
個人的に今も残念なのは大船にあった松竹の「鎌倉シネマワールド」だ。1995ー98年のわずか3年の寿命で、いつでも行ける近さだと思っている内に畳んでしまった。
映画「男がつらいよ」の方は繰り返し再放送され、50年を機に新作も作られるという話だから、作品の方が永く生き続けていく良い例かもしれない。

◆それにしても「大岡信ことば館」の余りにあっけない撤退には、「店じまい」→「仕舞屋(しもたや)」という商いの道の先細りを連想をしてしまう。

ソロバンの珠の上に社会貢献が乗っかっているのでは、わずかに傾いただけで滑り落ちてしまう。
本業の方も、大丈夫かと案じてしまうほどだが、それには一つ理由がある。

◆先日取り上げた文部科学省「日本型教育の海外展開推進事業(EDU-Portニッポン)」の「2018年度EDU-Port公認プロジェクト」の個別枠10事業の中に、Z会ホールデングスも名を連ねているからだ
(Z会=増進会出版社は「大岡信ことば館」閉館を決めると同時に「Z会ホールデングス」と社名を変更した)。
ブログで触れたように、官邸主導で海外に日本型教育を売り込もうというプロジェクトの発想それ自体がどうかと思うのだが、Z会ホールデングスが申請し認定を受けた事業の概要は以下の通り。

〈事業名〉
日本型の食育・健康教育を起点に、健康・福祉の向上と文化・マナーの理解を通して、社会課題の解消を実現【ベトナム】 


〈概要〉ベトナム都市部における子どもの肥満問題と栄養不足による健康格差の課題について、日本型家庭科教育を授業(調理実習を含む)や情報提供を通して現地の小学生に提供し、持続可能な開発目標(SDGs)の健康的な生活の確保、福祉促進に貢献する。さらに、食を起点に、日本とベトナムの文化相互理解を推進し、日本型のしつけやマナーなどの推進も図ることで、学校だけでなく社会や経済的な活動においても、両国の関係や連携を強化する。

「道徳教育」売ります――文科省[2018年09月22日記事]
http://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/994

◆Z会が食育にも乗り出すということ自体驚きではある。ベトナムに子どもの肥満問題と栄養不足による健康格差の課題があることも初めて知ったが、自国に「子ども食堂」が広がりを見せるほどの貧困・格差問題を抱えていることについてはどう考えているのか?
国を挙げてのプロジェクトと銘打つだけにチグハグさを感じてしまう。

それにしても”日本型のしつけやマナーなどの推進も図る”という、他国に文化を押しつけて平気な「上から目線」にはクラクラ目まいがするほどだ。

◆折も折、日本の労働市場を外国人に広げようという政府方針を広報担当・NHKが流していた。ベトナムもその対象国である。

Z会のベトナムにおける食育プロジェクトの向こうに、人的資源を確保し日本に呼び込むという未来図があるのならば、教育を通して殖産興業に寄与せんとする壮図に、明治国家の鼻息荒しと感慨ひとしおである(政府は今日23日、明治150年祝賀式典を行ったとか)。

願わくは、ソロバンをKYなんとか製ではない免震ダンパーの上に、滑らぬよう、ソッと置かれますよう祈るばかりである。

地虫の生涯[2018年10月22日(Mon)]

大岡信にこんな短詩がある。

時間  大岡 信

地虫は一生の間知らずに終る
一メートル離れた根に棲む隣人を


 『草府にて』(1984年)所収。岩波文庫『自選 大岡信詩集』(2016年)によった。

◆木の根方をうごめく地虫に我々の孤独を重ねて見ているようだ。
立ち上がればすぐ隣の木の根方にも同様のやつが這い回っているのだが、そして両方に目を注ぐ自分には彼らの連帯を願う気持ちすらあるのだが、立ち上がって見下ろす気にはなれない。

一メートルどころか千キロだって移動することさえある人間なのに、その一人である己もまた、己よりはるかに大きな何者かに見つめられていることを感じているからだ。

*******

◆先日出会った上野公園の東京藝大卒業制作からもう一点――

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黒氏琢也「ムズムズ」 (2018年)

なぜ「ムズムズ」という題なのか、離れて見ていてはわからない。
近づいて根元を見ると――

DSCN8670黒氏琢也「ムズムズ」2018年-a.jpg

――というしかけである。

足下に蠢く虫たちにそそのかされてか、樹上には熾(さか)んに炎が噴きあがっているようだ。
あるいは木肌をはい上がる虫たち自らが、次々と我が身を灼いて空に昇って行くようでもある。

DSCN8671黒氏琢也「ムズムズ」2018年.JPG


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