◆映画
「万引き家族」(
是枝裕和監督)を観た。
現下起きている家族をめぐる様々な事件ーDVであり、子どもへの虐待・ネグレクトであり、貧困であり―それらの傷を帯びた人々が都会の隙間に取り残された小さな古家の居間で、コタツの上の鍋を囲む。
6人の「家族」の関わりの時間が彼らの傷をくるんでいく。
彼らの奇妙な「絆」は逆に、世の中で家族の体を成しているように見える「普通の家族」も実は薄い膜でかろうじてかたちを保っているものでしかないことを照らし出す。
◆彼ら6人は声を荒げることがない。周辺の人々ー駄菓子屋の主人(
柄本明)なども、万引きをする祥太(
城桧吏:
じょうかいり)に穏やかな口調で諭すだけだ。
信代(
安藤サクラ)は、少女ゆり(
佐々木みゆ)の体の傷の痛みを誰よりもよく知るゆえに、職場のリストラであえて貧乏くじを引く。
声高に言い立てることのない人間は誰よりも傷つきやすい人々である。
誰かのせいにするよりは言葉をグッと呑み込んでしまう人々である。
その端的な例は、亜紀(
松岡茉優)のバイト先・JK(女子高生)見学店の常連客である「4番さん」(
池松壮亮)だ。
呑み込んだものの苦しさゆえに彼が発しようとする言葉たちは、プツプツと気泡になるばかりなのだ。
◆忘れ難いシーンがいくつもある。
細い縁側から6人が花火の音のする方を見上げる場面。
(実父母のもとで「じゅり」として生活する日々に戻った少女がベランダの隙間から外を見ようとする場面と重なる)
「家族」旅行として海に出かけ、寄せる波にジャンプするシーン。
その5人の「家族」に何か言葉をかけながら、自分の脚に初江(
樹木希林)が砂をかけるシーン。
脚にさらさらと砂をかける初江の姿は、無論、結末への伏線となっているわけである。
撮影予定の全体が見通せていようが、そうでなかろうが、息を吸い、吐くことを最期まで繰り返すのが人間であること、と語っているような一人の老女の姿が目に焼き付けられた。
*本作のプログラムによれば、撮影はこの終盤にある海辺のシーンを最初に撮り、他は暮れから撮影、年を越してその先を撮るという日程だったそうである(樹木希林のインタビュー)。
◆プログラムには
内田樹「万引きされた家族」や
中条省平「家族は自明ではない」というコラムが載っていて、オトクである。
(欲を言えば、文字組みが、ふところの窮屈な小さめのゴシックで読みづらかった。
他の書体で大きめのフォントで組んでくれた方が老眼の進んだ当方にはとても有り難い。)
◆内田樹のコラムは、映画に登場する小道具で、なぜそれでなければならないか分からないながら、妙に印象に残るもの、明示的なメッセージは含まれていないようでいてリアリティをはっきしているものの存在に触れている。
「万引き家族」では、家の中はさまざまなモノたちで埋め尽くされている。
よって、家の外にある小道具たちが幾重もの意味を担い、それでなければならない必然性を具備していることになる。
たとえば祥太があえてガードマンに捕まるためにとっさに手にした玉ネギである。
本気で逃げるためなら重い袋を手にするはずがない。塀から飛び降りてネットが破れ、転がって行く玉ネギを写して、落ちた祥太の姿は写さない。散乱した玉ネギは「万引き家族」の崩壊を象徴する。同時に祥太とゆりが押し入れの中で見つめたビー玉や、6人が音だけを楽しんだ打ち上げ花火に重なり合うものだろう。
◆実は先日観た「
ザ・空気ver.2」でも玉ネギが登場する。
安田成美演ずる井原まひるのカバンの中に、仕事とは全く関係ない玉ネギが入っていて、TV局解説委員の秋月が顔をしかめるシーンである。
家庭持ちの井原と、生活臭とは無縁の秋月とを対照させる効果がある。
無論、剝いても剝いても同じような姿で、最後は何も残らないが、日持ちする万能食材であるところの玉ネギをシンボリックに用いているわけである。
「万引き家族」プログラム表紙