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千鳥ヶ淵の「自由の群像」その2[2018年03月31日(Sat)]

彫刻と化した鳩たち

◆千鳥ヶ淵の「自由の群像」の男性立像は3体いずれも頭に鳩が留まっていた。
最初、その鳩も作品の一部だと錯覚した。
鳩たちが身じろぎもしなかったからだが、「自然が芸術を模倣する」という好例かもしれない。

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◆それはさておき、電通プロデュースによる谷口吉郎(設計)と菊池一雄(彫像製作)コンビの3部作のうち、最高裁前の「平和の群像」は2,3年前に撮影したはずだが画像が見つからない。

*次のブログに写真がアップされていたので参考までに。
★三宅坂の広告記念像
https://plaza.rakuten.co.jp/yoake3/diary/200805130000/
◆もう一つの代々木公園「しあわせの像」(未見)については下記のブログに画像が載せてある。
★渋谷区の歴史:しあわせの像(代々木公園)
http://tokyoshibuya.blog.shinobi.jp/%E4%BB%A3%E3%80%85%E6%9C%A8%E7%A5%9E%E5%9C%92%E7%94%BA/%E3%81%97%E3%81%82%E3%82%8F%E3%81%9B%E3%81%AE%E5%83%8F%EF%BC%88%E4%BB%A3%E3%80%85%E6%9C%A8%E5%85%AC%E5%9C%92%EF%BC%89


◆「しあわせの像」も3体の像で構成している。
弓なりに大きく身を反らして親に身を預ける子どもと若い両親。
親たちをベンチに座らせたのは子どもとのバランスを考えたためであろう。

◆最初の「平和の群像」(広告関係者の顕彰。1950年)が高い台の上にあって見上げるものであったことからすると、「自由の群像」(新聞事業者顕彰。1955年)は、台座を用いず、眺める者と同じ高さに降り立った。
「しあわせの像」(放送界の顕彰。1971年)ではさらに低く、子どもの視線の高さまで下ろしたことになる。シリーズとして構想された3作は、広告媒体の中心が庶民により身近なものになって行ったことを像高によっても表現していることになる。

電通の視野にある者・埒外の者

◆3つの像の銘板に名が刻まれた人には、新聞と広告という風に二つの分野で顕彰された人物もいる。正力松太郎(読売新聞&日本テレビ網)、務臺光雄(読売新聞&読売テレビ)、石井光次カ(朝日新聞&広告連盟会長)などである。
新聞と放送の系列が出来上がっており、広告の顧客はそのマスコミを利用するわけだから、当然の結果と言えなくはないが、経営のトップに没後もライトを当てることに熱心で、現場で身を粉にして働く社員たちへの目配りがないことは気になる。

◆新聞一つ取ってみても、現場で取材する記者の存在なくして、一行の記事も成り立たないはずではないか?
記事が一つも無い新聞というものを想像して見れば良い。
罫線枠と下段の広告以外は白紙が続くだけの朝刊。
全面広告で数ページを埋めたところで、そんな新聞は誰も買わないだろう。

だが、一方で、広告代理店というものは、そのような究極の新聞を買わせようという壮大な夢を育てているのかも知れない、と思ったりもする。

ゾッとするけれど。

*******

事 件  谷川俊太郎

事件だ!
記者は報道する
評論家は分析する
一言居士(いちげんこじ)は批判する
無関係な人は興奮する
すべての人が話題にする
だが死者だけは黙っている――
やがて一言居士は忘れる
評論家も記者も忘れる
すべての人が忘れる
死を忘れる
忘れることは事件にはならない


*『落首九十九』(1964)所収。ここでは小海永二編『現代の名詩』(大和書房、1985年)に拠った。


千鳥ヶ淵の「自由の群像」碑[2018年03月30日(Fri)]

千鳥ヶ淵の「自由の群像」碑


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◆千鳥ヶ淵公園の桜並木の途中に「自由の群像」と題する彫刻がある。

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1955年に大手広告代理店・電通が建てたものだ。

徳富蘇峰(猪一郎)の撰文が緒方竹虎(朝日新聞主筆。戦後は政界に進出して自由党総裁。)の筆で記されている。

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そこには大略、現代人にとって生活必須の容器にして日本の進運福祉に多大な貢献をした新聞事業の先覚者たちを顕彰してこの「自由の群像」を建立することが述べられ、さらに、株式会社電通が新聞業界に尽くそうとする微意の一つとしてこれを建立する旨が記されている。
現在の電通のメディアを通じて社会・政治にまで及ぼす影響力の大きさを思えばなかなか意味深長な文章である。

◆1955年の第一回顕彰者として20名の名がある。福沢諭吉(時事新報)や福地源一郎(桜痴。東京日日)、陸實(羯南。日本新聞)、黒岩周六(涙香。萬朝報)などそうそうたる顔ぶれである。
その後は5年毎の選考で物故者から数名ずつを顕彰し、その名を追記して現在も続いている。
時代がくだると正力松太郎(讀賣)などを除いてほとんど知らない人ばかり。



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◆論説委員長の肩書の人物もいるが、殆どは社長・社主を務めた人たちのようで、広告代理店との関係上、経営陣が選ばれ、言論人・ジャーナリストはお呼びじゃないのは当然と思いながら、アベ政権が目論む「改憲→国民投票」戦略において電通が牛耳り跋扈するであろうことを思えば、こころ穏やかではいられない。
「斯界に尽くさんとする微意の一である。」という文章が意味深長だと述べたのは、下げた頭の何倍ものもうけと力を手にせずにはおかない電通の野心をこめた文章に読めるからだ。
「斯界」=この業界(新聞業界)が決して狭いところを指すのでなく、この国・この世界までをも暗に含んでいるのではないかと、気鬱になるのだ。

◆彫刻は菊地一雄氏(1908-1985)の制作。広島、折り鶴のサダコにちなむ「原爆の子の像」の作者である。
設計は谷口吉郎とある。そう言えば谷口による大磯・高田公園にある高田保の墓碑もこの「自由の群像」と刻んだ石の趣と重なる。
千鳥ヶ淵墓苑の設計も同じく谷口吉郎だった。

★関連記事⇒高田保「拳骨」――「ぶらりひょうたん」より[2017年4月13日]
http://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/470


◆調べてみると、谷口吉郎・菊地一雄コンビで電通がプロデュースした顕彰像はあと2つあった。
ひとつは三宅坂の最高裁前の小公園に「平和の群像」というのがあった。こちらは広告功労者を顕彰するもので1950年に建立(電通50年事業)。
もう一つは代々木公園に「しあわせの像」というのがあるそうだ(未見)。
こちらは放送分野の功労者を顕彰する像で1971年建立の由。

◆要するに、広告・新聞・放送を三位一体のものとして戦後60年以上にわたって顕彰し続けることで電通としての影響力浸透の跡を刻み続けて来ている、ということになる。
遠大にして不抜の執念のごときものを感じてしまう。

それだけではない。場所の選定にも意味があるように思える。
最高裁のある一帯には戦前、陸軍参謀本部があったという。現在の最高裁の建物は「平和の群像」建立の24年後に完成したものだが、結果的にコンクリートの塊のような最高裁の事々しい外観を女性像が和らげる形になっている。

新聞事業顕彰の「自由の群像」は半蔵門を挟んで千鳥ヶ淵公園内に置かれた。明治時代から整備された公園として市民の憩いの場であり堀の向こうは皇居である。

3つ目の「しあわせの像」(1970年建立)は代々木公園に設置された。
放送界の功労者を顕彰するものだが、無論ここにはNHKがある(1964年の東京オリンピック後、段階的に移転・整備が進んだ)。
メディアの主役となった放送と電通が一体のものであることを宣揚する適地として選定されたものと見当が付く。

さて代々木一帯は戦前、帝国陸軍の練兵場であった。
戦後は占領軍用の住宅地。「武」とは縁が深い土地柄である。
というよりも、東京自体が皇居とその周辺を「武」によって守り固めるように配置されてきた街であったということだろう。
公園は、その「武」と守るべき本丸との間に緩衝地帯としての機能も与えられて整備される。
下々はその周辺部に細々と棲息することを余儀なくされるというなりゆきであったろう。
いわばそうした「武」と大衆の間に介在する土地を選んで顕彰碑は建てられていったと言えないだろうか。

電通が「広告」「新聞」「放送」各界の顕彰事業を続けて行った時代の吉田秀雄社長には「鬼十則」なる社訓があったという。現代の戦陣訓のような社訓が企業風土を作り、社員の過労死につながったという指摘もある。

顕彰碑建設と社訓との暗合を感じてしまう。
彫刻作品それ自体から受ける印象ががそのことと関係ないのはいうまでもないが。


千鳥ヶ淵戦没者墓苑[2018年03月29日(Thu)]

迂回  広部英一

地面が白くなるほど
はながこぼれていた
立ち止まって くわしく観察を
したわけではないが
地面にこぼれているものたちは
なにか早口でいい合っていた
はなびらがというわけではなく
その場所を通りかかった
その時刻に 地上を飛んでいたものたちも
こぼれるように地面に降りてきて
地面が白くなるほど
こぼれている灌木のはなにまじって
たとえば永遠について
ひとしきり騒いでいたのかも
しれない
踏みつけないように
その場所を静かに
迂回して通った

『広部英一全詩集』思潮社、2013年
*広部英一(ひろべ えいいち)は福井の詩人(1931-2004)。
福井県立図書館に長く勤めた。
★同館のサイトに略伝が紹介されている。
http://www.library-archives.pref.fukui.jp/?page_id=354


*******

千鳥ヶ淵戦没者墓苑

千鳥ヶ淵戦没者墓苑を初めて訪れた。
皇居のお堀に沿って桜が満開の頃合いなので入り口前の遊歩道は大変な人出であったが、道を隔てた墓苑の方は静かだった。

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千鳥ヶ淵墓苑の入り口。苑内には桜は多くない。

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納骨室がある六角堂。先の大戦の無名戦没者の遺骨を納める。

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納骨室の上に置かれた陶棺。岩のような外見だがアジアに広がる戦域から集めた小石を材料に高熱で処理した陶製の棺なのだそうだ。

手前に献花台が置かれている。
白菊を手向けて手を合わせた。

DSCN6101-A.jpg

ケヤキの淡い若葉が美しい。

◆苑内の休憩所に「千鳥ヶ淵」と題する墓苑奉仕会の会報が置いてあった(奇数月発行)。
3月1日発行の第530号には2月に行われた遺骨引渡式の様子が紹介されている。
「マリアナ諸島三十九柱 硫黄島十七柱」の見出し。
記事によれば硫黄島の戦没者は約21,900人。そのうち帰還した遺骨は約14,000柱(2018年1月末現在)である。

(厚労省の発表では1937年7月7日以降〜敗戦までの戦没者数は240万人。うち帰還した遺骨は約127万柱に過ぎない。まさに草むし水漬く屍いかばかりか、という状態なのだ。)

◆会報「千鳥ヶ淵」の1月1日付第529号の冒頭は「千鳥ヶ淵戦没者墓苑奉仕会」会長の津島雄二(元厚労大臣)の年頭挨拶だが、次のような言葉がある。

〈新春にあたり心から全戦没者の皆様に対する哀悼と感謝の誠を捧げたいと存じます。〉

ここでも「哀悼と感謝の誠」だ。スッキリしない。

以前、「哀悼の誠」という言葉遣いのおかしさを書いた。
★2016年12月29日の記事【こちら側だけの「和解」
http://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/397

そこでは神道風の「誠」を接ぎ木する違和感を指摘し、「心から哀悼の思いを捧げます」でじゅうぶん意を尽くすことができるはず、と書いた。

今度は「哀悼と感謝の誠」である。「誠」を追加するもう一つの理由に思い当たった。
「哀悼」「感謝」ともに漢語で音読みの熟語である。それに和語「まこと」を付け加えないとまごころが伝わらないと考えているのだろう。

ならば、簡明にやまとことばだけで述べれば良い。
「感謝」の念を表す適当なやまとことばを見出すのが難しいだろうけれど、あるかなきか定かでない「まごころ」を、ここにありますと軽々と示してみせるよりは、拙くとも思いの伝わる言葉を紡ぎ出す努力こそ「言霊の幸う国」の住人に求められることであろう。
「まことを捧げる」とは口幅ったい言い方に思えてならないのである。

◆「千鳥ヶ淵」第529号の津島雄二会長の挨拶には次のようなことばもある。「(墓苑には)現在三十六万七千三百二十八柱のご遺骨が奉安されています。当墓苑に祀られますご遺骨は、先の大戦における海外での戦没者、二百四十万人を象徴するものであり、当墓苑は全戦没者追悼の聖苑にほかなりません。私どもはこの墓苑を日本国民全体の聖苑として、各方面から幅広く、子々孫々まで、末永く奉賛されるよう日頃から努めて参る所存であります。」
「奉安」「奉賛」という、宗教色が色濃く歴史の刻印を帯びた用語を怪しまずに使う復古調に驚きを禁じ得ないが、もう一つ気になる点がある。

靖国と異なるこの墓苑の性格への顧慮のなさだ。
米国務長官らの献花の折にあらためて話題になったが、戦争責任や宗教色の問題をクリアできる国の追悼及び恒久平和祈念の施設として千鳥ヶ淵を正式に位置づけたらどうか、という声は少なくない。
しかし津島会長の上記「挨拶」は、そうした内外の声には無頓着に、あくまで「日本国民」に限定した追悼の施設とのみとらえている。
内向きかつ後ろ向きの姿勢と言わざるを得ない。
沖縄県の「平和の礎」のような、敵味方の区別無く碑に刻もうとする努力を国家として行わなかった戦争責任回避の姿勢がこんなところにも露呈している。

◆ついでに指摘しておけば、英連邦のように戦没者の記録をきちんと残し、生没年、戦没地・埋葬地について世界中どこからでもネットでアクセスできるような仕組みを築いてこなかった。
「命の安い」国であるために見向きもしなかったということでは、死者は浮かばれない。

〈参考〉英連邦戦没者についての記録は下から検索できるようになっている。
https://www.cwgc.org/
10年以上も前、横浜市保土ケ谷にある英連邦戦死者墓地でさる豪州人戦没者の墓参に行ったことがある。名前から墓の登録番号も分かるようになっているのが驚きだった。
ネットでの検索はもちろん、墓苑入り口に設置された画面からも探すことができたのである。

*******

墓苑を出ると堀の向こうの皇居側まで万朶の桜。

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山路[2018年03月28日(Wed)]

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ひそかに「湘南の奥千本」と呼びたい気がする景(そんなにたくさん桜があるわけではないけれど)。下の道からの眺めも良いが背中側、林の中から望見する満開が佳い。

*******

山路の木  長田 弘

深く木々が重なる山のなかを伝ってゆく道は、晴れた日でも、日差しがとどかない。
暗く湿った細い道が曲がって、先へ先へと、誘うようにつづいている。
旧道とよばれる古い道がのこる山中で、苔むした標石のところで、幼い頃、土地の老人に言われたことがある。
旧道に入ってはいけないよ。山辺の先を曲がったら、こっちに戻れなくなる。
昼なお暗い山中の旧道の先にいったら、帰れなくなる。帰れなくなった子どもは山の木々の後ろに引き入れられて、そのまま、木々の影の中から出られなくなるのだと。
そのときの老人の言葉を信じた幼い子どもが、まだわたしのなかにいる。
山中深い道をゆくときは、いまでも、遠く近く、声のない呼び声が聴こえてくるように感じる。
あれは、木々の影の外へ出られなくなった子どもたちが、風のまにまに呼んでいる声なのだ。

 長田弘『詩の樹の下で』(みすず書房、2011年12月発行)

手をあげるひと。声をあげるひと。[2018年03月27日(Tue)]

「風のうた」より  安水稔和

手をあげるひとのために。声あげるひとのために。歩きだす人のために。目のまえのひとのために。今。光る時間のまん中で。思いをつくして。

 *阪神大震災3年後に神戸生まれの詩人が詠んだ詩の第3連。
  
*******

佐川宣寿氏証人喚問の日

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◆連日、首相官邸前、国会前には疑惑の徹底解明と民主主義を取り戻せと声をあげる人たちが駆けつけている。
退陣を求めるプラカードが目立つ。

◆佐川証言に注目が集まった27日。
だが、午前参院・午後衆院で開かれた証人喚問、佐川氏は話をズラシ、時に補佐人に相談して答弁を拒否するばかり。「丁寧さにかけた」という反省の弁まで首相答弁にウリ二つだったのは、後ろに控えた補佐人の指南か。甘利明議員の相談役なども引き受けて来た弁護士だという。そういえば甘利氏の疑惑もウヤムヤのままだ。「体調不良」を理由に国民に説明しないまま歳費を貪っている。

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◆横断幕やプラカードを持つ手に市民の満腔の怒りを感じる。

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衆議院議員会館前。しばらく夜桜も堪能できる。

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首相官邸前交差点の桜。

◆官邸前交差点も議員会館前も桜花が咲きそろい、自民党からも退陣を求める声が出始めた。
空疎な「お詫び」だけでは「美しい」散り際になりそうにない。
総辞職は当然のこと。
なおかつ壊したものを建て直さねば。
そのためには真実をまず語らねばならない。
午前の質疑でその名前が出て佐川氏が動揺を隠せなかった今井尚哉(たかや)首相補佐官のほか、迫田英典元理財局長、首相夫人、およびその夫たる行政府の長その人の責務であり、それを実現させるのが与野党問わず議員の責務。私たち主権者はタダ飯を食わせているのではない。

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官邸前交差点の大きな看板が官邸と対峙する。



「うみを出し切る」とどの口が言う?[2018年03月26日(Mon)]

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馬酔木には春の日射しが似合う。

*******

◆アベ首相は佐川前国税庁長官の証人喚問を前に「うみを出し切ることが重要だ」と述べたとか(26日自民党役員会)。
全く意味不明だ。「うみ」という形容は、佐川氏に国会証言から公文書改竄にいたるウソとゴマカシを強いた者にこそふさわしい。天にツバするとはこのこと。

田舎の母親が電話口で毎度口にする言葉がある。
「ムチャクチャでござりまするがな」――花菱アチャコの台詞だ。
与党にも心の内で同じ文句をつぶやいている者がいるであろう。そこにメディアはもっと迫れよ。

*******

◆公務員にしろ政治家にしろ、彼らに「倫理」を求めても詮ないことと諦めるよう我々は飼い馴らされていないだろうか?

◆実は倫理が実現困難なものでなく、多くのふつうの人間にとっては合理性が高い生き方だということを内田樹が簡明に述べていた。

共同的に生きてゆく上でもっとも合理性の高い生き方を私たちの祖先は「倫理」と名づけた。
倫理は合理性の前にあるわけではない。むしろ、倫理にかなった生き方のことを「合理的」と呼ぶのである。ことの順逆を間違えないようにしよう。
内田樹『街場の現代思想』第15回〈想像力と倫理について〉より(文庫版p.223。 文春文庫、2008年)

◆上の部分に先立つくだりで内田は、作家・村上龍のエッセイを引き、村上が説いているのは「倫理的に見れば長い目で見れば経済合理性に合致している」ということだ、と述べている。

「倫理的」な生き方は不利益を甘受するやせ我慢などではない、ということ。
ならば、明日の佐川証人、「倫理」的な生き方を実行して洗いざらい証言することが、氏自身にとっても財務省にとっても、そして何より(ここが肝心)国民全体にとっても、経済合理性にかなうことであり、それ以外に取るべき行動はない、ということになる。
その逆を選ぶのは「ムチャクチャ」と言うしかない。

◆内田樹は次のように念押ししている。

「ことの条理」を「条理」として認知できる生物を「人間」と呼ぶのが本来の語の定義であるのだとすれば、「倫理」が「共同体にとっての合理性」のことである以上、「合理性と背馳する倫理」というのは、 原理的にはありえないはずである。
(同書、同ページ)



「大地のうたを/心合わせて/希望のうたを」[2018年03月25日(Sun)]

DSCN5891.JPG
オカメザクラというものらしい。花が落ちた後も萼が花のように鮮やかな赤。
花弁は細身で、遠目に見ると時ならぬ紅葉の風情(横浜市戸塚区宇田川沿い遊歩道にて)。

*******

荒川洋治「校歌」という詩がある。
自分の手を離れたことばたちに曲が付けられ、その学び舎につどう人らが歌い継いでゆくことを晴れがましく思うよりはむしろ戦きを覚えている詩人がいる。


校 歌  荒川洋治

ぼくの詩は
よいもので十年
へたをして一冬も越さないが

鳥の声 風の音をころして
出来上がった
校歌はどうか

二十六歳の作曲家は きょう
雨の日に
ピアノをつまみながら うたいそめる。
これですよ

その人はいわない
だが

それは十一年 いや
百年は生きるかもしれないものなのだ
ぼくは
羽をつけて飛びたつ
めずらかな歌をみつめた。
遠い冬の日にさえ
生きて
わがむくろへと吹きつける
惨酷な 意味の歌を。

  *福井県立ろう学校校歌。作曲は久木山直。

*詩集『ヒロイン』(1986年)所収。ここでは『荒川洋治全詩集』(思潮社、2001年)に拠った。

「校歌」の詩自体には屈曲が多い。
若きらが折ふしに歌ううたと個の内面の孤独な表現としての詩との間にある懸隔および両者の間に架け渡された橋の手応えとを同時に突きつけられた驚きがある。
「惨酷」とは自分がこの世から去った後も、外形だけはさらし続けて行くことを引き受けねばならないことの酷薄さを言う。それは表現者の宿命であろうけれど。

◆できあがった歌はどのようなものだろうか。福井県立ろう学校のホームページを訪ねて見た。

◆3番まである。
驚いたことに生徒たちがこの校歌を歌っているのを聴くことができる。
1番だけであるのが残念だが、3番まで聴きたいと思わせる力が伝わってくる。
詞にあるように「大地のうたを/心合わせて/希望のうたを」うたっているのだ。
詩人と作曲者が歌にこめたものが歌になっていると思う。


福井県立ろう学校校歌
    作詞 荒川洋治
    作曲 久木山直

一 野にひらく 花のように
  いつも 元気よく
  歩いて行こう
  いまここに わたしたち
  大地のうたを うたいます

二 風をきる 鳥のように
  いつも 胸はって
  歩いて行こう
  いまここに わたしたち
  心合わせて うたいます

三 舞いあがる 夢のように
  いつも あたらしく
  歩いて行こう
  いまここに わたしたち
  希望のうたを うたいます

★ぜひ同校のホームページの校歌を訪問してみて欲しい。
http://www.fukui-sd.ed.jp/kouka.html



永六輔の「ここはどこだ」[2018年03月24日(Sat)]

DSCN5910.JPG
木瓜が咲いた。白とピンクのアンサンブルが美しい。
これであのトゲさえなければなァ。

*******

永六輔が作詞した『にほんのうた』シリーズに「ここはどこだ」という沖縄をテーマにした歌があることを知った。
詩を知ったのが先で、童話屋からでている『詞華集 生きていてほしいんです――戦争と平和』というアンソロジーに載っていた。


ここはどこだ   永六輔

ここはどこだ いまはいつだ
なみだは かわいたのか
ここはどこだ いまはいつだ
いくさは おわったのか

ここはどこだ きみはだれだ
なかまは どこへいった
ここはどこだ きみはだれだ

流された血を
美しい波が洗っても
僕達の島は
それを忘れない
散ったヒメ百合を忘れはしない
君の足元で歌いつづける

ここはどこだ いまはいつだ
いくさは おわったのか
ここはどこだ きみはだれだ
にほんは どこへいった


◆いずみたくの作曲で歌はデューク・エイセス。
幸いYouTubeにアップされていて、ラジオの永六輔の声も聞くことができる。

https://www.youtube.com/watch?v=iqp4HAShWy0


童話屋生きていてほしいんです.jpg
田中和雄・編『詞華集 生きていてほしいんです ――戦争と平和』童話屋、2009年


ひとり立つ不安が自由というもの[2018年03月23日(Fri)]

DSCN5878.JPG
ソメイヨシノがはつかにほころんだ。
風の冷たい川べりで、咲いたのは未だ一本の樹に一枝ほどだが。

*******

秋山清の詩から


時々刻々、そのひとり立つ不安が自由というものです。


◆詩全体は女性の独立を主題とするが、女たちを習慣や法で縛って来た〈家というもの/親きょうだい/国家/民族/世の中〉といった者たちの方こそほんとうに「独立」しているの?と逆に問われているのじゃないか?
不安にふるえつつも――あるいは当たり前じゃないかと不安を全身で呑み込んで――「ひとり立つ」自由を時々刻々に生きている女たちを前に、あんたらは大人面したガキじゃないのか?と。

うえの詩句には次の行が続く。

亢奮も落胆も、未知も責任も、つかの間のみんな吾がもの。

「亢奮も落胆も、未知も責任も」すべて瞬間瞬間、吾が一身に引き受け、〈自在に生きて、そして死にゆくことを願わんと〉して〈辛棒づよ〉く生きる彼女たちの前では、「本省の指示」や「首相の意向」などと責任たらい回しの男どもはシッポを巻いて青ざめるしかないんじゃないか。

秋山清「朝にかけての団欒」(――戯謡(1971)より。思潮社現代詩文庫「秋山清詩集」(2001年)に拠った。



世論のうしろに寝ているものは[2018年03月23日(Fri)]

秋山清の詩から、戦後の占領軍を描いたものを一編。
アナーキスト詩人として知られる秋山の詩は、戦後73年目を謳歌するかのような今日の日本人には寓意詩のように映るかも知れない。
しかし敗戦直後より今の方がよほど不自由になっていないか。
無論、解放してくれてアメリカさんありがとう、というような単純な話ではない。
随分ストレートな表現に見える表現にも、実はなかなか一筋縄でない工夫を凝らしている。


アメリカ    秋山 清

ジープにのって
朝九時ごろ
白山(はくさん)あたりにもうきている
自由で
目色があかるく
わらいごえをたてて
おおきな図体だ。
電車の天丼につかまり
街角の柵にこしかけ
あるきながらタバコをうり
よっぱらって駅でねていたり
子どもをだいたり
ビルの窓の女事務員に合図したり
巡査とならんで
交通整理のまねをしたり。

地図をひろげて
洲崎遊廓*のあたりを
指でたたいている
焼跡を指さして手をふってやると
合点々々をして
口笛をふいていった。

健康で
簡単率直で
ものずきで
おしゃべりで
チュウインガムをかんで
いろんな帽子をかぶり
みやげものの人形をかかえ
日本の女の子の腕をかかえ。
B二九のように大きいのや
グラマンみたいにいそがしいのや

P三八**のように颯爽としたのや
ボート・シコルスキー***のようなおしゃれや
でっぶりと双発の輸送機みたいのや
くろいのも
きいろいのも
ぼくよりひくいのもいる
しかめっつらもいる
この種々雑多が
なにか彪大なものとなって
日本にあふれた。

暴行沙汰などあまりないという
新聞が出さんのだという
四、五人できて店さきから掻払ったりもするという
日比谷あたりにいってごらんなさい
赤っ毛のもじゃもじやと手を組みあって
いやだわという
日本人が卑くつすぎるからだという
だって戦争が負けたんじゃないかという。
むこうは占領といい
こっちは進駐という。

東京への道は遠かったが
こんなにひどくなって
すこし焼きすぎたという
まったく このように
手もつけられん焼跡に
秋がふかくなり
しずかな夕べがきて
焼けのこった運輸省の建物に 久しぶり
窓々の灯がついている
戦争はじつにくらかった
憲兵や特高や右翼や
みんな、きれいさっぱりと
われわれの周囲は
明朗民主々義の
アメリカさんばっかりだ。

日本の工業は
最低水準にしかのこさぬという
航空機技術に関する一切
武器兵器に関する一切
在外資力に関する一切
北海道 本州 四国 九州の
他の一切はのこさぬという
封建的なるものは清算され
言論自由の日がきた
八千万がせまい山野におしあいへしあい
勝手なことのいいあえるときが。

いつか進駐ごろの夏服から
冬にきかえて
ふかく晴れたそらを
ながめている しずかなかおつき
太平洋のむこうの
故里がおもいだされるのだろう
無血上陸 それはほんとうによかった
君たちにも
ぼくたちにも。
   、、、、
一発の新型爆弾がヒロシマをつぶした
日本に双手をあげさせた
二十億ドルと
六万の労力と
科学の知能の結集とが
しかし原爆をおとしたのは
それは兵たちではない
彼らはみやげものをぶらさげて
女たちとわかれをおしみ
明日の出帆をまつ。

日本を支配するマッカーサー司令部
司令部に命令する大統領
トルーマンは議会のきげんをとる
議会は与論の鼻息をうかがう
天皇制も
賠償も
みんな与論だという
与論のうしろに誰がねているだろう
ぼくはみたい
そのアメリカの顔が。


****

洲崎遊郭は、現在の東京・江東区東陽にあった。明治中期に根津から移転した遊郭が発展、1958年の売春防止法成立まで吉原と並ぶ代表的な遊廓だった。
**P三八…アメリカの双発戦闘機
***ボート・シコルスキー…アメリカの飛行艇
ここではいずれも進駐軍米兵のたとえ。

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