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安保法制違憲訴訟かながわ第5回口頭弁論[2018年01月10日(Wed)]

「安保法制違憲訴訟かながわ」
第5回口頭弁論傍聴のお願い


司法を動かし支えるのはわたしたち平和への思いをこめた市民の声です。
それをじかに裁判官たちに伝える貴重な機会にあなたも当事者のお一人としてご参加ください。

★明日1月11日(木)16時開廷
横浜地方裁判所101号法廷
  (日本大通駅歩1分。関内駅から15分)
15:15 集合(日本大通がわの地裁入口)
15:30 傍聴抽選
16:00 開廷


★報告集会があります。
傍聴抽選にもれた場合も下記のホールにご参集下さいますよう。

16:45〜18:00
横浜情報文化センター・ホール

(横浜地裁より徒歩3分)
  *日本新聞博物館(ニュースパーク)や放送ライブラリーのある建物です。

 「安保法制違憲訴訟かながわの会」のホームページは
https://www.anpoikenkanagawa.com/

170111神奈川違憲訴訟#5-A.jpg

長田弘「おやすみなさい」[2018年01月10日(Wed)]

長田弘が自ら編んでいたという最後のエッセイ集『幼年の色、人生の色』(みすず書房、2016年)は、1989年から2013年までの折々の随想を、詩集を編むようにして配列構成した本だ。

おしまいの3編、題名を順に並べると
1.「遠い日の友人の死」
2.「人生の特別な一人に宛てて」
3.「福島、冬ざれの街で」
4.「じゃあね」
 となっている。

◆それぞれの内容は、
1.遠い幼年の友の顔を街の人込みの中にみとめた話。
2.大学で同じ講義を受けたはずの人物から35年ほどして届いた手紙で、長田の新刊が出ると街の本屋で買って読むようにして来たが、いまは病気で倒れ本屋へゆくことができない、そのかわり漱石の千円札二枚をおくる、という、最初で最後の手紙を受け取った話。
4.「じゃあね」は、小学校中学校と一緒だった幼なじみの友と久しぶりに会った最後に彼女が言った一言の記憶。

◆人生のある時期に接したゆかりはそれぞれにあるが、その生涯のあらかたを承知しているというわけではなく、2.の手紙の主のように名前の記憶と静かだったという印象以外、何も知らない人すらいる。
だが人生の夕暮れ時を迎えた著者の記憶の中に、明るく光を放って浮かび上がった人たちだ。
そうして詩人がこれらの文章を書いた時点では、すでにこの世にいない人たちばかりである。

だが、これらの文章は挽歌ではない。哀傷や追悼ではない。悼むことはしばしば忘れる結果になってしまうことがあるが、これらの文章は逆だ。ただし忘れないようにする、ということではない。
むしろ、生き生きとよみがえらせることだ。それが可能になるのは、彼ら一人ひとりに直接宛てて詩人が差し出すことばによってである。
そのようにして詩人は、ことばを返して来ることはないはずの人々との「対話」を行っているのである。

◆これらのうち最もあとに書かれた3.の「福島、冬ざれの街で」も同じことが試みられている。
長田が詩を書き、同じく福島県(郡山)出身の湯浅譲二が曲を付けた「おやすみなさい」の演奏を福島市音楽堂で聴いた帰り、隅から隅まで知っているはずの産土の地で味わった名状しがたい体験を書いている。

◆「おやすみなさい」という言葉を幼子に語りかける時は、語りかけに対する返答を必要としない。
親は幼子の安らかな寝顔というよき報いを受け取るからである。
わが子の成長につれて親が受け取るものもまた、それが返って来ることを本質的には期待しているわけではない。
いわゆる無償の愛情がそこに注がれているわけである。

◆ふるさとに対する語りかけも同様であろう。しかしそこに愛する者の見飽きることのない寝顔が見出せない場合、語りかける相手を失った私たちのことばは誰に向ければよいのか。

*******

福島、冬ざれの街で

鋭い切っ先をもつ冬の風が、顔に切りかかるように吹きつけてくるので、顔を上げて歩けない。夕刻近く、零下の街を区切ってゆく灰色の凍りついた道には、人のすがたもなく、街中の残り雪の凍りついた道には、車も入ってこない。風のまにまに、棒のように街をつらぬく大きな広い通りを、車の走り去ってゆく音が遠くひびく。

福島市。周囲すべてが低い山竝に囲まれてい、西には、山頂を灰色の雲が覆っている吾妻連峰の寒々とした裾野がひろがる。めずらしいことに、福島市は市街の真ん中に、信夫山という隆起した丘のような山をもつ街だ。深い盆地に市街が沈んでいる。

そんなこの街のほぼ真ん中に生まれ育って、家ともどもこの街を離れ、いつのまにか半世紀を経たけれども、どこをどう歩こうと、市街の道を間違えることはないと思っていた。ところが、無造作に道の角を曲がって、ずっと先までも見通せるような道に入って、風を避けるようにして歩いてゆくうちに、じぶんがいま、どこにいるのか、まるでわからなくなっていることに気がついた。冬ざれの街の通りの家々は、どうしてなのか、暗くなってきているのに、どの家にも灯影がない。住所表示にある街の通りの名さえ、記憶に全然ない。街中の道を吹き抜けてゆく夕刻の風は、冷酷なまでに冷たくなってきた。

わたしが生まれて育った旧くからの市街は、いまでは区画整理がすすんで、いくつもの広く整然とした大きな通りができ、いくつもの高い建物が視野を遮って、街の景色は全然違う街に変わっている。この国のどこの街でも、たぶんそうだ。現在の街の光景のおおくは、あたかもそれが歴史だというかのように、それぞれがその風景の子どもとして育った、かつての日常の光景の記憶を、なつかしい時間の記憶を、ほとんどもっていない。

その日は、わたしが詩を書き、湯浅譲二さんが作曲したメゾソプラノによる歌曲が、福島市音楽堂で初演される前日の、リハーサルの日だった。
わたしが書いたのはセレナードのための詩だ。一枚の調べとされるセレナードは、もともとは、愛しいものの住む家の窓の外でうたわれる歌だった。だが、いま、閉ざされた冬の街の家並みはまるで無人の家並みのようで、道々の日陰になる側は残り雪が底光りする氷の塊になっていて、出歩いている人は一人もいない。そうでなくとも福島市もまた、3・11以後、福島第一原発事故の影響に、四季曝されてきた。

愛しいものの住む家というような考え方、感じ方が難しくなっているいまであればこそ、安らぎのない眠れない夜に、なによりもとめられるべきよき眠りのための言葉が、セレナードである歌が、なくてはならないという思いがつよくあって、その思いにうながされるようにして、「おやすみなさい」というストレートな言葉が二十回続くだけの、「おやすみなさい」というセレナードのための詩を書いた。

おやすみなさい森の木々
おやすみなさい青い闇
おやすみなさいたましいたち
おやすみなさい沼の水
おやすみなさいアカガエル
おやすみなさい向日葵の花
おやすみなさい欅の木
おやすみなさいキャベツ畑
おやすみなさい遠くつづく山竝(やまなみ)
おやすみなさいフクロウが啼いている
おやすみなさい悲しみを知る人
おやすみなさい子どもたち
おやすみなさい猫と犬
おやすみなさい羊を数えて
おやすみなさい希望を数えて
おやすみなさい桃畑
おやすみなさいカシオペア
おやすみなさい天つ風
おやすみなさい私たちは一人ではない
おやすみなさい朝(あした)まで


作曲にたいへん難しい思いをしたと言われたが、湯浅さんが作曲された「おやすみなさい」はとてもうつくしい歌だった。リハーサルのその日に、わたしは初めてその歌を聴いた。二十回繰りかえす「おやすみなさい」は、全部微妙に異なる旋律をもちながら、音楽的に一貫していて、メゾソプラノの歌と複雑なピアノの響きが、かさなっては離れ、離れてはかさなって、呼び交わすようにつづく。リハーサルに立ち会って、音楽堂の外にでると、放射性物質を除染するクレーン付きの作業車が二台、黙々と作業していた。
音楽堂から歩いてホテルに戻れば、途中、少年の日を過ごした界隈を通って戻れる。そう思ったのが間違いだった。よく知っていた街は、もう全然知らない街だった。ここはどこなのか? 立ちどまると、そのまま凍えてしまいそうなほど、芯まで冷えてきた。


*長田弘『幼年の色、人生の色』(みすず書房、2016年)。
 初出は「群像」講談社、2013年4月号

★合唱による「おやすみなさい」がYouTubeにアップされている。
(1) 2017年2月3日、西川竜太・指揮、合唱・暁
https://www.youtube.com/watch?v=GPSgXubB5u4

(2)湯浅譲二(1929〜)の母校である安積高校合唱部の演奏も聴くことができる。
湯浅の文化功労者受賞を記念した祝賀会での演奏。
中ほどのソプラノのソロがすばらしい。指揮は鈴木和明さん。
https://www.youtube.com/watch?v=tcwj-049n60



角田柳作という人(5)[2018年01月08日(Mon)]

角田柳作というひと

長田弘『詩人の紙碑』(朝日選書、1996年)のあとがきで、その後に知り得た「角田柳作先生」について追記している。
『図書』に載せた文章への司馬遼太郎の私信のほかに、角田の謦咳に接した人たちからの貴重な資料も長田のもとに寄せられた。
そのなかに、追悼文集としてまとめられた『RYUSAKU TSUNODA SENSEI』という英文の私家版回想録があり、そこに貴重な詩が載っていた――

思いがけなかったのは、「角田柳作先生」の詩が、最後の詩として、その本におさめられていたことです。
「角田柳作先生」の詩は漢詩で、一九六四年に八十七歳にして日本への帰国をのぞみ、ニューヨークを発つ直前に書かれたもので、墨筆のまま載っており、付せられたローマ字の読み下しによって書き下すと――乾坤ハ孤節ヲ樹ツルニ餘リ有リ。且ツ悦ブ、青空東海ニ連ナルヲ。鵬翼一夜、七千里。清風明月、イザ帰リナン。そして、次のように、詩は英語に書きあらためられています。

In this world
There still is room
For this solitary walking-care――
And I rejoice.
Azure skies stretch
Across the Eastern seas.
But one night on phoenix’ wings
Can span
Seven thousand ri
With fresh winds and a bright moon
I may return. (Poem,Fall 1964)

けれども、帰国の機上で、ハワイへ向かう途次、「角田柳作先生」は亡くなります。ただ、その九年前、一九五五年に日本を訪ねた「角田柳作先生」が母校の(前橋中学)前橋高校で講演していたことを、「司馬遼太郎氏への手紙」を読まれた、同校出身で生徒としてその講演を聴いた宮下恒雄氏の手紙で知りました。


◆前橋高校同窓会誌第二十号(1981年)に再録された、講演の速記録を長田は紹介する。

そのとき「角田柳作先生」は生徒たちに、「三」ということの大切さを説いています。「最小限度に物を考えるとき、どの位まで切りつめることが出来るかというと、一つでいいという考え方がある。二つでなければならないという考え方がある。私は少なくとも三つなければならないと考える考え方をとる。ものを考えることは生一本に考えることではなく、自分の反対の人と二つを考えるということでもない」。さらにもう一つ、三つ目を考えることができなければいけない、と。
そして「人の世の光」について語って、「世の光と云うのはどこから来るかと云うと、三つのエルから来る。法(Law)、愛(Live)、行(Labor)です」と言い、「ロー、ラヴ、アンド、レイバーの相対性」をみずから持して、その心持ちで通してゆくときに、われわれの生活というものがはっきりしてくるのだ、と語りかけます。座右の言葉だったという次の端的な言葉が、「角田柳作先生」の気韻を伝えています。

Only relativity,not in absolute isolation,will the three L’s be
the light of life.

「角田柳作先生」にとって、人の世とはすなわち、Life のことであり、のこされた講演を読んでつよくのこるのは、詩人ミルトンにまなんで、「自分の心の奥にもっていることは世界のはしに達するほど明らかにいい表すこと」を、人生の「要求」とした人の気概です。

(略)
太平洋戦争中、ニューヨークの「角田柳作先生」は黙々と日々を送り、ただハドソン河畔に起って夕陽を眺めるのを好んだ、といいます。敵と味方しか認めない戦争は、「三」を求める考え方、生き方を斥けます。日米開戦とともに抑留されて、裁判を受けた「角田柳作先生」にまなんだドナルド・キーン氏の回想(そのもともとの英文も『RYUSAKU TSUNODA SENSEI』におさめられています)から、次の場面を象徴的に抽きだしています。
尋問に対する「角田柳作先生」の毅然とした態度にうたれて、裁判官は、最後に、「あなたは詩人か(”Mr.Tsunoda, are you a poet? ”)」と問うのです。


◆「詩心」をもって昭和という時代を生きた人々を中心に誌した『詩人の紙碑』は、戦争の時代に生きた彼らのことばから私たちが受け取る遺産と負債の双方を確かめる長田弘の意思をかたちにしたものだ。

太平洋を挟む日米の学舎で多くの若者にとってのmentorであった角田柳作の、「三」を求める続ける生き方、「あれかこれか/敵か味方か」の二分法でなくその相対性を理会して「三」の可能性を複数の異なる存在たちの関係性の上に追求する生き方を書いたのは、母校ゆかりの人の生涯を紙碑に刻むという以上に、平成以後の生き難い時代をことばによって生きる手がかりとなることを示したかったに違いない。
角田の「鵬翼」は一夜にして七千里を渡るであろうけれど、七千里の外にも人間は生きているのだし、光の当たる面だけが月の姿でないことも現代の我々は知っている。
遺産の恩恵に与ることまれにして暗がりで息を潜めている人たちの所に想像を及ぼすことができなければならないだろう。
そうしてその人たちに語りかけ、分かち持つことばがそこには必要だし、求めるところにそのことばはきっと生まれるだろう。

「角田柳作先生」同様にアメリカやヨーロッパ、そして日本で、歴史の恵みと負債の両方を見てきた長田弘にとって3.11後のふるさと福島を目の当たりにしたことは、上に述べた言葉への信念を根底から揺さぶったはずだが、その気持ちを失わせるまでには至らなかったように思う。

★「角田柳作先生」の三つのLについては
http://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/tsunoda/preview-j.htm

★早稲田大学の「角田柳作WEB展」は下から。
詳細な年譜のほか貴重な写真を載せている。
その墨跡も謙抑的でありつつ気概の人であった「角田柳作先生」の人なりを良く伝えている。
http://www.wul.waseda.ac.jp/tsunoda_web/index.html


角田柳作という人(4)[2018年01月08日(Mon)]

明治41年9月の角田事件

◆福島中学の青年教師・角田柳作について。

長田弘『詩人の詩碑』(朝日選書、1996年)の巻頭に『「角田柳作先生」のこと― 司馬遼太郎氏への手紙』とする文章がある(初出は1994年の『図書』)。自らについてはほとんど語ることのなかった角田の、若かりし日の「事件」を伝えている。

司馬が『ニューヨーク散歩』で角田柳作の気概を筆に表したことに応える形で、長田は母校・福島高校の前身である旧制福島中学で教鞭をとっていた時代の角田柳作先生について、母校の80周年記念誌『福高八十年史』(同高校記念誌刊行小委員会編集、1978年刊)から紹介しているのである。特に「角田事件」について。

◆角田は1903(明治36)年4月に福島中学に着任したがその5年後の秋のことである。

明治四十一年(一九〇八)九月、当時の東宮(後の大正天皇)が来校参観の折、英語の授業(5年級)を披瀝。しかし、その翌月、「角田柳作先生」は突如、転任となります。「角田事件」として福中(福島中学)の伝説となる出来事が起きたのはそのときで、それは年表には、史料に拠って、次のように記されています。

「1908 (明治41)10・1 教諭角田柳作、宮城県仙台第一中学校教諭に転任のため、告別式挙行。角田柳作教諭の仙台一中転任の報に接した全校生の大半が、同教諭の留任を嘆願のため、5年生一同を実行委員として、留任運動推進のため秘密会を決議す」


*皇太子の来校は東北地方巡行の一環として各地の中学校を訪問したもので、県知事が随行、授業のほか、図画・習字などの生徒作品を見学し御真影下賜のセレモニーも含むものであったようだ。
この行啓が「角田事件」の発端になった、というのである。
長田が紹介する『福高八十年史』の記述を引く――

角田事件
授業を台覧に供する予定の組が、都合により取り止めになった。張合抜けした生徒らの一人が不服として、奉迎送へ参加せず早退してしまった。学校当局では、その生徒の処置に苦慮した末、諭旨転校に処したとの噂、またその処置に異存のあった角田柳作教諭も、仙台一中へ転出するにいたったとの噂が、生徒にも伝わったように記憶しています。
ところが、角田先生を惜しむ五年生らが留任運動を策し、ある日昼の休憩時間に、全員を信夫山公園広場へ集合させ、留任要請運動を提案、決議しようとした。これに対し四年生の森徳治(後に海軍少将)が独り決然立って、運動反対の慎重論を主張、その後、運動は挫折しました(中十回卒服部実「編集委員会宛メモ」)。
これがいわゆる角田事件である。角田柳作は仙台一中(明治四十一年十月三日〜四十二年三月三十日)で教鞭をとり、明治四十二年ハワイに渡る。

台覧…皇族など身分の高い人が見ることの尊敬語。同様の人が来る、臨席することは「台臨」と言った。

◆ちなみに皇太子の東北巡行は十日後の9月23日、青森県立弘前中学におよんだ。同校の後身・弘前高校の「鏡ケ丘百年史」(同校記念誌作成委員会編、1983年刊)によれば、校内見学はわずか50分。その間に4教室の授業、撃剣と柔道の見学、図画、作文、英習字の陳列作品室に加えて、予定にはなかった寄宿舎自修室の見学も行ったことを記す。この訪問を迎えるべく「綿密周到な準備が数十日前より行われ、至誠を尽くして奉迎」し、「当日は、一同斎戒沐浴して、門前に整列し、粛然として、鶴駕を迎へまつりぬ」とある。学校をあげての一大事業の観がある。 「鶴駕」…皇太子の車

◆福島中学の場合も同様であったと想像される。それほどの労と時間を費やしたのに、都合により取り止めになったクラスの拍子抜けした気分や不服は容易に想像できる。しかるに不服に思って早退した生徒が「諭旨転校」という処分を突きつけられたことに唖然とする。
1889(明治32)年の中学校令以後新設が進み10年後の明治1909(明治42)年に全国の中学校数はようやく303校を数えるに至るが、地方では一県に数校を数える程度であったはずで、他の学校を探せと宣告されても途方に暮れるしかなかったはずである。
角田柳作がこの処置に承服できずに異を唱えたことは生徒たちの間にも噂として広まっていった。(そのこともあってか)学校側は角田の異議申立を非とみなして他県への強制的な異動を慌ただしく(その月の内に!)決めて行った。
理不尽な話である。留任を求めて生徒たちが動いたことは角田柳作に寄せる信望が厚かった証拠である。

◆長田が紹介する「福高八十年史」の続きを抄録しておく。

斎藤勇(三回卒)はその思い出のなかで「角田柳作先生の御恩を忘れることができない。先生は正しい発音で読み、訳はすばらしく正確であった。私はこの博学の先生からすすめられて色々の本を読んだ」と語っている。
このように先生を敬慕していた生徒たちが、突然仙台一中へ先生が転出することを知ったとき「離別の悲しみに堪へず、徒なる此秋の憾に泣き」告別の式では「感慨無量涙滴々頼を伝ふて止ま」なかった。
このとき「先生壇上に於て多くを言はれず、只一言『自重せよ』とのみ」と、信夫草(十一号)**は伝えている。

斎藤勇(たけし。1887-1982)…英文学者。英文学・英詩をかじった人でこの名を知らない人は殆どいないだろう。
**…同校の校友会誌。



角田柳作という人(3)[2018年01月07日(Sun)]

DSCN5162.JPG
鬼柚子(オニユズ)。獅子柚子ともいうそうだ。ソフトボールよりもさらに大きい。

*******

◆角田柳作(1877-1964)について、ドナルド・キーンは『日本との出会い』の中で敬愛をこめて紹介している。
「ニューヨークの中の一人の日本人――我が師角田柳作先生のこと」がそれだが、キーンとの最初の出会いから20年ほどのち、角田が存命中の1962年頃に書いた文章とおぼしい。

明治十年生れの角田は当時85歳、なお元気に「心はまさに青年のよう」にコロンビア大学の講義を持っていた。そうした事情をキーンは次のように書いている。

角田先生は何回も正式に隠退したが、若い学生たちが教わりたがるので、何回も現役に戻ったのである。今年は私の休暇の年に当るので、学生たちの希望に従って私の講座を角田先生に頼んだ。八十五歳でも新しい講座を喜んで引き受けて、元気よく教鞭をとっている。

◆先述したように、キーンが最初に角田の講義「日本思想史」を受けたのは日米開戦の直前、1941年の9月のことであった。12月5日に講義をした2、3日後に角田は敵国人として抑留された。ワシントン橋の側に角田のアパートはあり、ハドソン河のほとりの長い散歩を好んだ角田は、橋を爆破する可能性があるのではないかと疑われ、尋問を受けたようだ。

先生は返事として、長年にわたってアメリカで生活した外人の義理と責任について裁判官を感動させるほどの誠意が籠った発言をしたので、裁判官はしまいに、「角田さん、あなたは詩人ですか」と真面目に尋ねた。


◆戦前最後の角田の講義を受けた2ヶ月後にキーンは海軍に入隊し、そこで日本語の本格的な勉強に入る。任務で尋問した日本人捕虜から受けた印象や日本兵が記した日記を大量に読んだことがのちの日記文学の研究につながっていく。

戦後、同様に軍人として日本語を学んだ青年たちとともにキーンも復学し、角田の講義をむさぼるように吸収した。

要するに、われわれは先生の講義から全く新しい知識を得て、インスパイアされた。(略)
熱情の籠った講義をし、発言は独創的であって、詩的に聞えた。
(略)
民主主義を深く信ずる先生は、日本の伝統の中に現代人と繋がりがあって、将来の日本のためになるものはないかといろいろ考えて、あまり研究されていない思想家をを大きく取り上げた。三浦梅園、富永仲基、本多利明等についてすばらしい講義をされ、それはまだ私の頭に残っている。

◆文学に関して角田が愛読したのは西行、宗祇、芭蕉、漱石などむしろ正統なものであった、とキーンは振り返っている。

角田柳作という人物の魅力をよく伝えている文章であり、長田弘が福島中時代の角田先生について伝えるところとピタリと重なる。

◆話がわき道にそれるが、一点、キーンが記憶に残る出来事として記す西鶴の「好色五人女」にまつわるエピソードも引いておく。その理由は、師への敬愛に発する美しき誤解をそのまま録した風であり、司馬遼太郎も「ニューヨーク散歩」でこのくだりをそのまま引用しながら説明を加えていないのが気になるからである。

私の記憶の一つであるが、「好色五人女」の八百屋お七の巻を勉強していた時、「すこしの煙立ちさわぎて」とかいう文句があって、その次はお七は死刑場に引っばられる。私はいくら考えても意味を取れなかったが、教室で先生に聞くと、大いに笑って「あれは江戸の大火災のことだ」と説明した「すこしの煙」とだけを読んで、大火災を指していたことを了解するのは、私の日本語の力では絶対不可能であったが、先生は一切辞書や参考書を見ないで、直感的に何でも読めた。先生の専門は文学ではなくても、さすがに明治初め生れの学者だけあって、古典文学を特別に勉強しなくても自然に身の養いとなっていた。
*下線は引用者。

◆「すこしの煙」が大火災を意味するとは、手品を見せられたような書きぶりだが、飛躍があることが気になる。キーン氏の質問と角田先生の説明のやりとりの詳細は分からないのだが、質問に対してあえて意表を衝く答え方をしたとも取れない。大火は忌むべきことゆえにワザと「すこしの煙」と表現する忌み言葉のような使い方があるのかと思ったりする(「スルメ」の「スル」が縁起が良くないので「アタリメ」と言い換えるごとき)。
ズバリいうことを避ける婉曲表現や朧化表現はたくさんあるだろうが、「少しの煙」が大火を表すのなら、研究者が注解していそうなものだ。
いくつかあたってみたところ、そうした注記は見当たらない。

◆原文は以下のようになっている。西鶴の『好色五人女』巻四の八百屋お七と吉三郎の物語、その「世に見をさめの桜」の段、句点を施した岩波古典体系で3つ目と4つ目の文である。

すこしの煙立ちさはぎて、人々不思議と心がけ見しに、お七が面影をあらはしける。これを尋ねしに、つつまず有りし通りを語りけるに、世の哀れとぞ成りにける。

◆「世の哀れ」という抽象的な表現は放火犯として罪を問われる(それを人々が悲しむ)ことを意味しているのだが、「捕縛されて」に相当する表現はここにはない。上の文章に続いて神田や四谷、日本橋などでさらし者となりやがて火刑に処されるまでが綴られて行く。お上に突き出されて、といった具体的な動きを省略した記述になっているだけで、「少しの煙」自体はやはり文字通りの意味であろう。吉三郎に逢いたさの放火は大事には至らなかった、という記述に読める。

東明雅校注による小学館「日本古典全集」では以下の現代語訳を付けている。

少しばかり煙が立ち上ったので、人々騒ぎ立て、不思議だと気をつけて見たところ、お七の姿を発見した。

吉行淳之介も「煙がすこし立っただけで人々は立ち騒ぎ、怪しい出火と注意して見ると煙の中からお七があらわれた」と訳している(中央公論社版)。

現代語訳ではないが、たまたま古書店で入手した暉峻康隆先生の「西鶴 評論と研究(上)」(中央公論社、1953年)のこの場面の記述も引いて置く。

(吉三郎を)再び逢ひ見るよすがもなく、むなしく暮らすうち、ある風のはげしい夕暮、お七は寺へ避難した時のことを思ひ出して、「又さもあらば吉三郎殿に逢ひ見る事の種ともなりなん」と放火したが、燃えも上らぬうちに事あらはれて捕らえられ、定めの如く火刑に処せられることになつた。

やはり「すこしの煙」が立ち上っただけで、と解している。
「すこしの煙」に「大火災」という裏の意味がある、などということではない、と考えていいだろう。
◆「好色五人女」のこのくだりにお七捕縛が記述されていないためのわかりにくさであった。
キーン氏の疑問に応えて角田先生の短い一言が返されたのは事実だろう。その時、氷が一気に融けるように解決が与えられたことが、キーン氏には「すこしの煙」⇒「大火災」と直結した理解となり、驚きをもって記憶に刻みつけられた、ということであろう。

◆事実は放火の前年、天和2(1682)年12月21日の大火が最初の出会い。翌天和3年の3月2日夜にお七は火を放ったが、すぐ消し止められたというのが実説である。西鶴の「好色五人女」のお七の物語はそれをふまえる。
ただ浄瑠璃、歌舞伎や祭文語りでこれが流布するにつれ、お七が焼け出された1682年の大火をお七が火を放った大火災のように脚色されて行った経緯がある。
また、実際に天和年間は火災が頻発し、多くの放火犯が処刑されたことは事実である。
大事に至らなかったとしてもお七の放火は大火災をもたらしたのと同じ大罪を犯したことになる。
それが「お七火事」として流布されて行く。

◆実説と巷間に伝わる俗説との異同を吟味することがその時の師弟に必要だったかどうかは分からない。説明の手間を角田が省いたのかも知れず、あるいは「すこしの煙」が「火刑」の大罪に至る悲劇の物語を感得することの方が大事だと考えて、飛躍があるままの説明で事足れりとしたのかも知れない。
だが、仮にそうであったとしても、師弟の交流に瑕瑾を探すようにこのエピソードをあげつらうつもりはない。
これが物語るのはその逆で、師の短い示唆が弟子の胸にストンと領解されて、突き動かされた学びの意欲がそのさきはるか遠くまで及んで行く、そのきっかけを与えられたという体験が二人の間に(師と弟子の双方に)幾度もあっただろうということだ。「美しき誤解」という言い方をしたのはより正確には「意味のある美しき誤解」というべきで、多くの学芸上の発見や進化のスタートや分岐点において、しばしばそれは起こることのはずではないか。


キーン日本との出会い.jpg
ドナルド・キーン『日本との出会い』(中公文庫、1975年)

暉峻康隆西鶴上_0001.jpg
暉峻康隆『西鶴 評論と研究 上』中央公論社、1953年
*76年に西鶴を講じる暉峻先生の授業を受けた。「好色五人女」も無論取り上げた。時事的な話題もしばしば取り上げる警世のひとであった。艶っぽい噺や冗談に女子の笑い声が上がるのに比べて、男子の反応が乏しいことに情けなさを感じたことも懐かしい。

角田柳作という人(2)[2018年01月06日(Sat)]

角田柳作という人について、司馬遼太郎『ニューヨーク散歩』(「街道をゆく 39」朝日文庫、1997)は、コロンビア大学で彼に師事したドナルド・キーンの記憶に拠って描いている。「週刊朝日」に連載当時(1993年)日本において広く知られていなかった事情がある。
「角田柳作先生」と標題を付した回で、まず人物像を次のように描き出す――

いかにも明治人であった。
たとえば、自然な謙虚さ、頑質なばかりの地味さ。
また禅の説話のなかの人のように名利に恬淡としていたこと。
存在そのものが古典的日本人のエキスのような人でありながら、日本に住むことなく、ニューヨークのような超現代的な大都市に住みつづけたこと。
(略)
すばらしい学殖と創造心をもちながら、著作を持つことに無頓着だったこと。理由は「私はまだ生徒ですから」というのが口癖だったこと。このため母国では無名だったこと。

◆そのほか司馬の記述によっていくつか点綴しておくと、群馬の出で旧制前橋中学校から東京専門学校(早稲田の前身)に学び、坪内逍遙の講義をきいたこと。明治30(1997)年には世界最初(!)の研究書である「井原西鶴」を20歳で刊行した。
(司馬が(!)を付して特筆しているとおり、岩波の旧日本古典体系の「井原西鶴・上」は参考書目の筆頭に〈角田柳作・井原西鶴〉を挙げている)。

その後、明治42年、ハワイに渡り、ニューヨークにやって来てコロンビア大で講義を聴いたのは1918年、すでに41歳になっていた。学問の飽くなき遍歴者というべき人だった(司馬)。

コロンビア大ではプラグマティズムの大宗というべきデューイの講義をきいた。

◆当時のコロンビア大に乏しかった日本学の文献を寄贈し、これが「日本文化研究所」として発足、角田は研究所長兼特別講師に任ぜられた。
1928年から日本思想史、歴史、古典文学を講じるようになった。

◆10年後、角田の薫陶を受けたのが、のちの歴史家ハーバート・ノーマン(1909-57)であった。
父ダニエル・ノーマンは宣教師として来日し、保養地としての軽井沢を開拓した人として知られる。ハーバートは軽井沢で生まれ、カナダのトロント大を出たあと、英・ケンブリッジ〜米・ハーバードに学び、ロックフェラー財団の学資を得てコロンビア大の角田のもとで研究した。
戦後はカナダ駐日代表部主席として活躍したが1957年、アメリカに吹き荒れたレッドパージがカナダにも及んでスパイの嫌疑を受けた果てに赴任先のカイロで自ら命を断った。

◆ハーバート・ノーマンは角田柳作についてふれた文章は残さなかったようで、その理由を司馬は「ノーマンは鋭すぎるほどに社会科学的な体質だったせいか」と書いているが、ノーマンの重要な著作「忘れられた思想家 ― 安藤昌益のこと」(岩波新書、1950年)が念頭にあってのことだろう、安藤昌益や本多利明らについては「戦前、日本の大学で研究・講義された形跡がすくなかった」のに対して、「その時期、ニューヨークのコロンビア大学では、角田柳作によって、朗々と講義されていた。」と、書いている(『ニューヨーク散歩』「学風」の章)。
角田の講義が若い日本研究者たちのために多くの素材を融通無礙に示したことが想像される。
ドナルドキーン氏を軸としてその学統の結実ともいうべき人々が司馬の『ニューヨーク散歩』には多数登場する。角田柳作という一人の傑出したmentorのもとで学んだ人々が、それぞれに個性豊かな風姿で読む者の前に立ち現れてくる思いがする文章である。

◆この本で「瀉瓶(しゃびょう)」という言葉を知った。司馬の説明を引く。

キーンさんは、復員後、大学にもどり、大学院で角田先生の瓶(へい)から水のすべてを自分の瓶に瀉(そそ)いでもらった。瓶(へい)を呉音で瓶(びょう)と読んで、瀉瓶(しゃびょう)という。
このことばは、『広辞苑』にはある。しかし古い漢語の辞典には見あたらない。
空海が創(はじ)めた真言宗では、「瀉瓶相承」(しゃびょうそうじょう)は重要な用語である。
このことばは、空海の師である長安の恵果がつかった。


瀉瓶はコロンビア大だけの話ではなかった。
若き角田柳作が旧制福島中学で関わった出来事について、長田弘が司馬に書簡の形で伝えた。
同校の歴史で「角田事件」として知られるその出来事もまた師弟間の「瀉瓶」と角田柳作という人物のひととなりを良く伝えているように思う。

司馬遼太郎ニューヨーク散歩.jpg


角田柳作という人(1)[2018年01月04日(Thu)]

長田弘『詩人の紙碑』(朝日選書、1996年。初出は『図書』1994年3月号)の巻頭にある「『角田柳作先生』のこと」は、司馬遼太郎の「ニューヨーク散歩」(「街道をゆく」39)の「角田柳作先生」を受けて司馬に対する手紙のかたちで書かれたものだ。

◆司馬の「街道をゆく」は日本文学研究者のドナルド・キーン(1922~)のコロンビア大学退官記念の講演会および祝賀会に出席した話を中心に、キーンの師であった角田柳作(つのだりゅうさく。1877-1964)について数回にわたって綴っている。角田についてはキーン自身がその著書の中で回想しているが、彼の退官記念講演の中でも角田について触れた。

◆コロンビア大で〈日本語で「センセイ」と発音すればそれは角田先生のことにきまっていた。〉という。1931年から長くコロンビア大学で日本思想や日本文学について教え、また同大に日本関係の図書を多数寄贈、それをもとに設立された日本文化研究所の所長も務めた人物である。
キーン氏が角田の講義を初めて受けたのは1941年9月。日米開戦前夜であった。

◆早稲田大学に「角田柳作WEB展」というサイトがあり、そこにドナルド・キーンが一文を寄せているので引いておく。
同サイトには英文も載せているが、日本語全文を引くのは、キーン氏の語り口を彷彿とさせる日本語であるからだ。
個人的な記憶を書き留めておくと、1972年4月、川端康成の自死を伝えるニュースでキーン氏へのインタビューを聞いた。以下の文章はその時のインタビューをまざまざと思い出させた。1972年の4月17日夕刻、下宿に戻って未だ明るさの残る部屋で、ラジオから流れるキーン氏の声を初めて聞いたのだった。

★オリジナルは下から。
http://www.wul.waseda.ac.jp/tsunoda_web/p16.html


角田先生と私   ドナルド・キーン

角田先生のお目に初めてかかったのは1941年9月のことでした。

或る友人は角田先生の日本思想史という講座を最高に誉めたので、まだ学部の学生だったのに、おめおめと大学院の講座に登録しました。

同年の夏、家庭教師に日本語の手解きを受けたばかりで、高等授業に出席する資格は全くありませんでした。その上、学生が集る筈の最初の講義の時、私しかいませんでしたので、たった一人の学生(しかも資格のない学生)のために講義なさることはもったいないと思いましたので、先生に私が辞めようと申したら、先生は、一人でも十分ですと答えました。

二週間後、二人の日系人の学生が出席しましたので、ほっとしました。

初めは、私だけのために先生は徳川時代の思想化の講義をなさり、私が教室に入るまで、先生はその日論じる思想家の名言などを黒板が白くなるほど沢山書いたのです。私は勿論何も分かりませんでしたが、未来は分かるかもしれないと思って、黒板にあった漢字をノートに写しました。

が分からなくても、先生の講義は分かりやすかったばかりでなく、詩的でもありました。先生は朱子学派、陽明学派などの思想の特徴を説明しながら、どうして当時の日本人がこれらの思想を自分たちの生涯の進路として信じていたか、私たちに伝えました。しかし、私のなんとなく受けた印象では、先生の最もすきな思想家は学派に属しない独立な思想の持ち主だった。三浦梅園、富永仲基、本多利明などについての講義は異彩を放っていました。五年後のことですが、本多利明について修士論文をかきました。

ところが12月8日に講義があった筈でしたが、先生が見えませんでした。敵性外国人として留置されました。二月ほど後に、無罪が決まりまして、先生は釈放されて、コロンビア大学に戻りましたが、その時点、私はすでに海軍の日本語学校に入り、大体四年間ニューヨークにいませんでした。

戦後、大学院の学生としてまた先生の講義を聞くようになりました。当時、先生以外の日本関係の授業をする教師は皆日本にいましたので、先生は思想史の他に、歴史と文学も教えるようになりました。軍事服務のために思うように勉強できなかった学生たちは、非常な知識欲があって、先生にさまざまの授業を頼みました。先生は文学の方では、平安朝、元禄、そして仏教文学を学生の依頼に応じて教えていました。酷く搾取されていたと言えますが、若いアメリカ人がそれほど情熱的に日本のことを勉強したがることは、慰めだったと思いたいのです。

私は先生の授業から数え切れないほど沢山覚えました。私の古典文学の翻訳に[徒然草]と[奥の細道]が好評ですが、両方先生の許で勉強しました。博士論文は近松の[国性爺合戦]の研究でしたが、それも先生の授業に負うことが多いです。

先生がいなかったら、私もいなかったと言っても、過言ではないでしょう。




大方は偶なし[2018年01月03日(Wed)]

箱根駅伝(復路)8区は熱戦だった

◆箱根駅伝2日目、8区(平塚〜戸塚=21.4km)は熱戦だった。この区間の18km付近、横浜市戸塚区影取(白バイの交代地点でもある)で観戦したが、ラジオの中継を聴いて待つと、青山学院大が目の前をトップで通過した頃、遊行寺(藤沢市)の坂では3位だった早稲田を東海大が抜いたようであり、その後も2人、3人が並走してくるシーンに出くわした。かなり強い逆風のなか、中継所手前で最後の力を振り絞る選手たちに声援も熱が入った。

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◆観戦の帰路、富士の見える広い駐車場にウチワサボテンがみごとな実をつけていた。
落ちて車に踏まれたか、割れて中が見える実が転がっていて、赤い粒々が鮮やかだった。

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大方は偶なし(大いなる方形に四隅なし)


あるアメリカの建築家の肖像 長田弘

家は、永遠ではない。
人のなかに、失われる家がある。
雨に朽ちて、壊れて、いつか
時のなかに、失われてゆく家がある。
けれども、人びとの心の目には
家の記憶は、鮮明に、はっきりとのこる。
フランク・ロイド・ライトという
アメリカの建築家のことばを覚えている。
家は、低く、そして小さな家がいい。
水平な家がいい。地平線のなかに
隠れてしまうような家がいい。
大地を抱えこんでいるような家がいい。
大方(たいほう)は隅(ぐう)なし。
大いなる方形に四隅(よすみ)なし。
連続する空間が新しく感じられる家がいい。
風景こそ、すべてだ。
風景という、驚くべき
本の中の本。体験だけが、
唯一、真の読書であるような本。
そのような美しい本であるような家。
そうして、明るい日の光の下で、
影という影が、淡いすみれ色に変わる家。
フランク・ロイド・ライトは戦争を憎んだ。
戦争はけっして何も解決しない、
世界をただ無茶苦茶にするだけだ、と。
建築家が愛したのは、地球の文法であり、
すべての恐竜たちが滅びさった、
風のほかは、何もない大草原であり、
石灰岩の丘であり、サグアロ・サボテンと
花のほかは、何もない砂漠だった。

  大方は隅なし。…… (老子)

長田弘 詩集『世界はうつくしいと』より(みすず書房、2009n年)

*『老子』第四十一章に「大方無偶。大器晩成。大音希声。大象無形」とある。
*フランク・ライド・ライト(1867-1959)の設計した建築のうち、帝国ホテル(1923年竣工)の正面玄関が明治村に移築されている。

◆長田弘の「『角田柳作先生』のこと」が書かれるきっかけとなった司馬遼太郎「ニューヨーク散歩」(「街道をゆく」39)ほかを迂回しているうちに一日が過ぎた。
日米を往き来した人の中に建築家もいたわけで、そのことばをとりあげたこの詩に老子の一節が引用されているのも面白く、まるまる引いておく。
◆また、詩中「風景という、驚くべき/本の中の本。体験だけが、/唯一、真の読書であるような本。/そのような美しい本であるような家。」ということばから、昨秋とりあげた世界の図書館を紹介した本、とりわけ中国の「籬苑書屋」(2012年、設計:李暁東)のことが思い出された。
その写真を再掲しておく。

世界の図書館_0008.jpg

★2016/9/8記事「図書館という未知の森」
http://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/614
 
長田弘と吉川幸次郎(2)[2018年01月02日(Tue)]

箱根駅伝1日目往路

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◆横浜市戸塚区影取付近を走る関東学生連合チームのランナー。
戸塚の中継所でタスキを受けてから2~3キロの辺りである。

今年も快晴で富士がくっきりと見えた。

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長田弘と吉川幸次郎(承前)

◆長田弘『幼年の色、人生の色』は詩人が生前に自ら編んでいた随想集である。
その中で、「市井ニテ珠玉ヲ懐クモノ」は吉川幸次郎の訃に接して綴ったもので、本を通して吉川から教えられたこと、とりわけ詩人・長田弘の背中をどう押してくれたか述べていることに感銘を覚える。文章の後半をそのまま引く。

吉川さんは一九八〇年になくなられたのですが、わたしは、吉川さんについて、とりわけ宋詩の魅力というものをおしえられたのだったと思っています。小川環樹さんとともに編集された中国詩人選集第二集は、わたしには手ばなせない本ですが、その一巻をなす吉川さんの宋詩概説によって、わたしは宋詩の世界に誘われ、深くとらえられた。宋詩と親身に出会うことがなかったら、わたしはのちに、『言葉殺人事件』のような詩集を書くなんてきっとできなかっただろうと思います。
宋詩はそれまでの詩にたいして新しい人生の見かたをつくりだした。人生は悲哀にのみは満たないとする態度ですね。吉川さんによれば、それまでの詩が人生は悲哀に満ちるとし、悲哀を詩の重要な主題としてきた久しい習慣からの離脱が、宋詩をつくったのです。すなわち、絶望への誘惑にたやすく駆られない。人生をながい持続とみ、静かな抵抗とみる。
宋詩の底にながれるそうした考え方を生みだした詩人たちのライフスタイルというか、姿勢に、わたしは惹かれます。宋詩には、と吉川さんは言います。ながい人生にたいする多角な顧慮がある。巨視がある。目は、詩の生まれる瞬間ばかりに、釘づけにならない。また対象の頂点ばかりをみつめない。陳師道は、鉄石のごとき腸をもって、環境に抵抗しよう、と言った。詩は悲哀じゃない。悲哀の止揚なのです。
宋詩につらぬかれたのは、選民であることをあくまで拒み、市民の一人として生きるという態度でした。宋詩といえばまず蘇軾ですけれども、蘇軾がわたしは好きですが、つよく共感をおぼえたのは、黄庭堅です。

但ダ観ヨ百歳ノ後
伝ワル者ハ公侯二非ズ

百年たったのちにもつたえられるのは、いまの権勢を私しているような輩の名なんかじゃない。人びとが日々につちかう無名の生き方が、百年の日々をつたわってゆくだけだ。黄庭堅という人は、詩とは情熱の表現であるという予想をあっさりとしりぞけて、いかにも吉川さんらしい言いまわしで言うと、情熱の情熱としての表現をスッパリ忌避した。その一コの生き方は、およそ気どりがなかった。黄庭堅のような詩人にとって、詩というのはあくまで「市井ニテ珠玉ヲ懐クモノ」の言葉だったのです。
詩について、いまも胸にのこっているのは、六〇年代の半ば、ちょうど宋詩概説をまとめられてすぐあとのころの、桑原武夫さんとの会話のなかにのこされた、吉川さんの言葉のいくつかです。
……日常性の文学。路上の経験ということ。もっとだれでもが持ちうる経験、だれでもが持ちうる経験だけれども、そこに詩人でなければ感じえない意味を発掘する。そこのところに文学が成り立つ。……ただ花がきれいだというだけでは、これは詩になりません。日常の素材が、高邁な懐慨の志がふくらまねばならない。あるいは高邁な志があればこそ、いっそう日常を見つめるわけです。ただ懐慨の志がマンネリズムになると、詩に退屈さを生む。それはありますが、全人生といいますか、あるいは人間だけではなしに、世界全体の秘密は、もっとわれわれの身辺にあるのじゃないか。毎日の経験するものの中にも、それを掘り下げていったらあるのじゃないか。……思索を経たのちの詩でなければ詩でない。思索がすぐ詩の内容になるというのではない。思索しつづけている姿勢が、詩を作る。もはやそういう時期になっているのではないかな。好むと好まざるとにかかわらず、そうなってきているのじゃないか。……
そのときわたしは、初めての詩集を『われら新鮮な旅人』としてだそうとしていたのですけれども、そのわたしにとってとりわけ印象深かったのは、吉川さんにとっての詩の魅力というのが何だったかを何より端的に語っていると思える、次の話でした。
……中国のいなかを旅行しておりましたとき、本がないでしょう。土地の本屋へ行くと、売っているのは、名前を聞いたこともないその土地の詩人の詩集なんです。しかしそれを宿屋のランプの下でひろげていると、一晩はとにかく楽しい。……


*陳師道(ちんしどう 1053-1101)蘇軾に師事。号は後山居士。
*蘇軾(そしょく 1036-1101)唐宋八家の一人。詩文にひいでた。「赤壁賦」など。 
*黄庭堅(こうていけん 1045-1105)蘇軾とともに蘇黄と併称された。山谷と号した。

「人生をながい持続とみ、静かな抵抗とみる」「鉄石のごとき腸をもって、環境に抵抗しよう」「詩は悲哀じゃない。悲哀の止揚なのです。」「市民の一人として生きる」「人びとが日々につちかう無名の生き方が、百年の日々をつたわってゆくだけだ。」
……どのことばも行き悩んだときのしるべとなるにちがいない。

*「市井ニテ珠玉ヲ懐クモノ」は『詩人の紙碑』(朝日選書、1996年)にも収録されている。その巻頭にある「『角田柳作先生』のこと」は、長田の母校福島高校の前身・旧制福島中学の草創期に英語教師だった角田柳作についての文章で興味深いものだが、それについては他日。
*(つのだりゅうさく。1931~64の長きにわたってコロンビア大学で教鞭をとり、ドナルド・キーンらを育てた。1877-1964)

長田弘と吉川幸次郎(1)[2018年01月01日(Mon)]

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ガマの穂

*******

◆一冊の本がある時の記憶をたちまちよみがえらせることがあるものだ。
詩人・長田弘(1939-2015)の没後に出たエッセイ集『幼年の色、人生の色』の一篇「市井ニテ珠玉ヲ懐クモノ」を読んで、中国文学者・吉川幸次郎(1904-80)の名前が出て来た時だ。

一どもその声貌に接したこともなかったし、またその著述にかならずしも深く親しんだというのでもなかったけれども、吉川幸次郎さんの訃を聞いたとき、胸におぼえたのは、詩について、詩人の生きかたというものをめぐって、ある痛切なイメージというか、切実な印象を、その人の言葉から確実に手に享けたという感慨でした。

◆以前、学生時代に長田弘さんの授業を受けていながら猫の話しか覚えてないという情けないことを書いてしまったが、そうだった、吉川幸次郎の話をしたことがあった、と思い出した。
吉川幸次郎から享けたものを語っているこのエッセイの語り口が、当方の覚えの悪い頭をうまく揺するようにして思い出させた感じだ。
それだけではない。授業で吉川幸次郎の名前が出た折に「長田弘と吉川幸次郎という取り合わせとは意外だなあ」と感じたことも古い記憶の底からよみがえったのである。

◆このエッセイは、なぜ吉川幸次郎について語るのか、改めて理由を説明してくれたばかりでなく、我々に伝えたかったことを、ボンクラ頭が二度と取り逃がさないように書いてくれたのだ、と思える。

◆1955年に北米を旅した吉川が、詩人のエズラ・パウンド(1885-1972)をセント・エリザベス病院の精神病棟に訪ねたという話も、中国文学者とモダニズム詩人との取り合わせという点で不思議な感じを覚えるが、病院での二人のやりとりは竹林の七賢の清談を思わせるものであったようだ(吉川著『西洋の中の東洋』所収)。
パウンドは第二次大戦中、イタリアに暮らしており、ムッソリーニの熱烈な支持者だった。そのかどで米本国に召還されて反逆罪で告発されたのだが、精神障害を理由に1958年まで上記病院に入院していた。

パンツ一つの姿で吉川に会ったパウンドの印象を吉川は「Ezra Pound を聖Elizabeth病院に訪う。裸裎(らてい)にして客を見ること、阮籍の如き有り」と書いているという。
阮籍とは先述の竹林の七賢の中心で、俗物がやってくれば白い眼で冷ややかにあしらい、風雅の人士には青眼によって迎えたというあの人物である。
パウンドの目の色が実際何色であったか、ここでは触れていないが、歓迎の意をもって吉川とのひとときを共に過ごしてくれたと吉川が実感できたことは明らかだろう。

◆もう一人、吉川が目撃したウィリアム・エンプソン(イギリスの詩人・批評家。1906-1984)の過激な講演のエピソードも面白い。
中華人民共和国の人民服を着たエンプソンがアメリカの対中国政策を挑戦的に批判したのだという。マッカーシズムの余燼さめやらず、東西冷戦がはじまった1955年のアメリカでの話である。
長田はエンプソンの次のような詩を紹介している。

かれらが成長するのは、矛盾によってだ。
身を起して出かけるのが、いちばんいいことのようだった。
身を起せというのは、元気のつく力づよいこたえだった。
立っているということの本当の意味は、飛べないということだ。

「Aubade」(「夜明けの歌」1937年)から適宜抜粋したものだが、1931年に日本にやってきたエンプソンが来日早々に遭遇した地震を素材にしながら、満州事変から日中戦争へと続く戦争の時代にあって異なる文化を持つ者同士の恋愛につきまとう「不安」をテーマにした詩。
詩の生まれた事情をわきに置いても、この詩は「身を横たえて危機が去るのを待つ」ことと「立った姿勢を辛うじて維持する」こととは別の選択、「身を起して」外へ出て行くこと=一箇所に住することなく意思をもって動き続けること=ヨコでもタテでもなくその間のナナメの方向に運動し続けることの選択が意味のあることだ、というメッセージが込められているようだ。

パウンドもエンプソンも東洋と西洋の橋渡しを行った人々である。日中の文化的な架橋を進めた吉川の関心も、一国・一時代に住して固着する愚から遠かったことはいうまでもない。

*エンプソンは1934年まで東京文理科大で教鞭をとり、その後、北京大学でも教えた。なお、エンプソンは滞日中に詩人・畠山千代子(1902-82)を知り、その英詩の添削指導を行った。畠山の詩作品の翻訳・紹介も行ったという(青森県立近代文学館の鎌田紳爾氏による平成18年度調査報告に基づく)。同報告によれば畠山は弘前女学校に英語教師として勤め、石坂洋次郎の「若い人」の橋本先生のモデルとも言われる。作品集『隻手への挽歌』が2005年に新風舎から出た。
★青森県近代文学館の鎌田紳爾氏報告
https://www.plib.pref.aomori.lg.jp/top/museum/hatakeyamatiyoko.html

2015年5月10日の関連記事「長田弘さん逝く」
http://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/133


長田弘「幼年の色、人生の色」_0001.jpg
長田弘『幼年の色、人生の色』みすず書房、2016年


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