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プリーモ・レーヴィ「生き残り」[2019年08月28日(Wed)]

◆今日、8月28日の朝日新聞「文芸時評」、小野正嗣〈戦争を刻むには〉と題して苛酷な体験を「文学」として記録した3人を取り上げている。
アンネ・フランクアレクシエーヴィチ、そしてプリーモ・レーヴィである。

◆苛酷な体験が他者に共有されるためには〈文学〉が必要であり、その好例として、アウシュヴィッツを生きぬいたレーヴィの『これが人間か』(竹山博英訳、朝日選書。*旧題「アウシュヴィッツは終わらない」)を取り上げている。

さらに、最近出た同じ訳者による『プリーモ・レーヴィ全詩集』(岩波書店)の中から「生き残り」という詩を紹介している。

その全体を写しておく。


生き残り  プリーモ・レーヴィ(竹山博英 訳)

あの時から(シンス ゼン) 、予期せぬ時に(アト アン アンサートゥン アワー)
あの刑罰が戻ってくる、
そして話を聞いてくれるものが見つからないなら
心臓が焼け焦げる、胸の中で。
仲間の顔がまた見える
夜明けの光に照らされて、蒼白で
セメントの粉で灰色に染まり
霧の中で見分けもつかず
不安な夢でもう死の色に染めあげられている。
夜は顎を動かす
夢という重い石に押しつぶされて
ありもしない蕪をかみながら。
「下がれ、ここから立ち退け。溺れたものたちよ、
出て行け。私はだれの地位も奪わなかったし、
いかなるもののパンも横取りしなかった、
私の代わりに死んだものなどいない。
だれ一人として。
だからおまえたちの霧の中に帰れ。
私が悪いわけではない、もし私が生きていて、呼吸をし、
食べ、飲み、眠り、服を着ているにしても」
               1984年2月4日


◆この詩に胸をつかまれたという小野は次のように記す。

誰の「パンも横取りしなかった」し、「私の代わりに死んだものなどいない」にもかかわらず、つまり収容所という地獄のなかで必死に〈人間〉たろうと全力を尽くしたレーヴィでさえ、自分は誰かの命を犠牲にすることで生き延びたのではないか、と罪悪感に苛まれていたのだ。

「もし私が生きていて、呼吸をし、食べ、飲み、眠り、服を着ているにしても」とは、苛酷な体験をくぐり抜けた者の、「生きてここにいる」という実感から限りなく遠い、己の遺品の残欠を眺めているような戦後の「生」を表現しているだろう。

現実にあったことだと到底思えない体験は、人間から言葉を奪う。
地獄から生還した者たちの多くが黙して語らない理由はそのためだったろうと推測する。
それゆえに、後に生まれた者たちは想像によって肉迫するしかない。

そう書きながら、この8月にBSで放送された映画『野火』(大岡昇平原作。塚本晋也監督・主演、2014年。日本公開は2015年)の主人公・田村一等兵の懊悩を思い出している。

一方で「表現の不自由展・その後」をめぐる黒岩祐治神奈川県知事の「(少女像は)表現の自由を逸脱している。もし同じことが神奈川県であったとしたら、私は開催を認めない」という発言や、柴山昌彦文科相の「演説に対して大声でヤジる権利は保障されない」とする発言の乱暴さに憤りを覚えてもいる。(*発言は、ともに8月27日)

二人ながら、「息するための空気」は権力者が与えるもので、人間を窒息させ、くびり殺すことはいとも簡単だ、と言い放っているに等しいからである。

人間を人間たらしめている想像力とその表現、すなわち人間の尊厳を、唾棄し憎悪を向けたことばと言うしかない。



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