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最首悟氏から植松聖被告への返信[2019年07月26日(Fri)]

DSCN1285ヤブラン.JPG
ヤブラン。
やがて黒い実を付ける。

*******

最首悟氏から植松聖被告への返信


◆神奈川新聞に<序列をこえた社会に向けて>と題する記事がある。
やまゆり園事件の被告・植松聖被告の手紙に対する最首悟氏の返信で、随時掲載されて来た。
最首氏自身、重度の障害を持つ娘を持つ親としてメッセージを発し続けて来た。
https://www.kanaloco.jp/article/entry-33738.html

7月25日に掲載された返信では、優生思想に立つ主張に対して「社会の現状に対するプロテスト、抗議でないとはいえません。世迷い言として無視するわけにはいきません。」と受けとめようとしつつ、次のように述べている。

ではわたしはどうか。本当のところ、わからないのです。そしてわからないからわかりたい、でも一つわかるといくつもわからないことが増えているのに気づく。すると、しまいにはわからないことだらけに成りはしないか。そうです。人にはどんなにしても、決してわからないことがある。そのことが腑に落ちると、人は穏やかなやさしさに包まれるのではないか。

そうして、そのように自問を深めていく営みを「問学」と名づけている。
「学問」をひっくり返したことばだが、氏の言葉から伺えるのは、わからないものに問いかける「問学」は対象を分かろうとする営みであると同時に、その働きかけを重ねることで、問いを発する人間自身が変容する、そのことに信を置く生き方なのだろうということだ。

一方、優生学であれ何学であれ、「確立したらテコでも動くことはない」と宣言しているような硬直したあり方はその対極にある。

だが、対極にある者も、自ら問うことで変容していく人間のことばを手紙で読んでいくならば、おのずから変容していくはずではないか?
問う行為は応答(=投げたボールが返されてくること)を待っているのであり、黙殺や放棄をしない限り、ボールを受けた感触が返球に反映されずにはいない、と思える。



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