入営前の酒盛りで抜刀された野見山暁治[2019年03月08日(Fri)]
◆野見山暁治と「無言館」館主の窪島誠一郎との対談『無言館はなぜつくられたのか』(かもがわ出版、2010年)より
第二章 喪われたカンバス
入営前の祝いの宴で
野見山 明日は僕が入営するという前の晩、近所の人や親戚の誰彼を家に招いて、別れの宴というか、座敷にいっぱい集まって、お祝いの酒盛りが行われた。
窪島 壮行会ですね。
野見山 兵隊にとられる前の、最後の夜だから、せめてその晩だけ僕は独りにさせてほしかった。今と違って一般に電話というものが普及していない頃で、ちりぢりになった同級生たちはこの夜をどう過ごしているか、知りたいものだと思いました。その前の日、お祖母さんや叔母さんたちが集まって、明日のお祝いの寄り合いにはご馳走を何にしようかと言っていたから、「やめてくれ、お祝いとかそういうもんじゃないんだから」と言ったんです。そしたら、「兵隊に行くのにお祝いしないバカがどこにいる」って、祖母さんに言われた。父にもやめてくれと頼んだんだけど、そういうわけにはゆかんと聞いてくれない。
窪島 当時は当たり前のことだった……。
野見山 それで、最後の晩、親戚、近所の人、それから知り合いの陸軍将校とかがやってきて、おおぜい大広間に集まった。ともかく、「国のために戦え」「命を捧げろ」「敵を打ち倒せ」そういった激がとび、勇ましい励ましの訓辞が次々と来賓によって出ました。宴のおしまいに当たって、僕から皆さんに挨拶しろと父が言うんだ。僕は固辞した。しかし親父は「なんで皆さんに挨拶しない」ってうるさく言う。どうしてもその場が収まらんので、僕は仕方なく下座に行って坐ったが、言葉につまった。その場の空気に嫌気がさしていたもんだから、何も言わなかったんだ。そしたら親父が「早く、言え」って言うし、困った挙句に、あるドイツの詩人が言った言葉が突然、口をついて出たのです。その詩人の名前は思い出そうとしたが思い出せなかったんだけど、「我はドイツに生まれたる世界の一市民なり」。その前後の文章は忘れましたが、この言葉に僕は強く打たれていたから、「わたしは日本に生まれた世界の一市民です」、そう言ったんだ。
窪島 先生、本当にそんなことを言ったの?
野見山 それまで考えてもいなかった、自分でもわからない。「それなのにどうして他民族と戦わねばならないのか。そんなことで死にたくない」と、もう夢中になって、僕は言いました。
窪島 そしたら、一座は水を打ったように静かになった?
野見山 いや、いったん言葉が口からぐっと出てきたら、興奮してきて、「なんで、わたしに敵がいるんですか。なんでそういう人たちと殺しあわなければならないんですか」って、うわーっと。父は「やめろ」と怒鳴ったが、もう止まらない。招ばれてきた何人かの陸軍将校は、「貴様もう一度、言ってみろ!」とすごい形相をして叫ぶ。もう酒盛りどころではなくなりました。それでも僕は言いつづける、自分でももう止まらないのです。その日の宴会はめちゃくちゃになった。
窪島 そりゃそうでしょう。
野見山 一番下の妹が、「なんかしらんけど、抜刀して怒鳴っている兵隊さんはおるわ、ばあちゃんは泣いて、お母さんの手を引っ張って『こんな家にはいられない』って言うし……。何だったんだろうとあの時は思ってたけど、そういうことだったんだ」って、今でも言っています。
窪島 よくおっしゃいましたね。
野見山 もう、てんやわんやで……。それから翌日の朝、町内の皆さん、愛国婦人会の人たちが家の前に集まっている。本来そこで挨拶をして出発するのですが、そうしたら親父が「暁治、何も言うな」って。で、ひとことも言わずに別れてきました。こっちの方が、かなり奇妙なくらいです。町内というのは、当時、一種の共同体ですから、そこに無言で立っている姿なんて、これは怖い。