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三つ目の「牢」[2019年02月25日(Mon)]

DSCN0038アオキ.JPG
アオキの実

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牢    石原吉郎

牢はかぞえて
三つあった
はじめの牢には
錠があった
つぎの牢には人があった
さいごの牢は
人も錠も
あげくの果ては
格子もなく
風と空とが
自由に吹きぬけた


『続・石原吉郎詩集』(思潮社・現代詩文庫、1994年)より

◆2つの牢屋を経て進んだ3つ目の牢が、それまでの錠前も監視も鉄格子すらもない自由な場所だったとしても、人はそこもまた「牢」であると思うことしか出来なくなっている、という意味か。
あるいは完全に自由な世界に人間はとうてい耐えることが出来ないものだ、という寓意なのか。

魯迅の短編「賢人と馬鹿と奴隷」(1925年)を連想する。

劣悪な暮らしにいつも不平をもらしている奴隷が、いつものグチを馬鹿に訴える。ジメジメした窓一つない小屋に暮らしているのだと。馬鹿はこれに憤慨して奴隷の家に行き、窓を開けてやろうとする。自由の風を入れてやろうとしたのだ。
しかし奴隷は喜ぶどころか、大声で騒ぎ立て、自分のために動いてくれた馬鹿を泥棒呼ばわりして追い払ってしまう。

奴隷の暮らしから抜け出すことを真に望んでいるわけではなかったのだ。
アメリカに隷属した日本、という国の身の処し方も同様であろうか。

◆そう考えて行くと石原の3つ目の「牢」は、格子も監視もない状態である風に装った「自由もどき」に過ぎないように思われてくる。

***

◆魯迅はまた「人生で最も苦しいことは,夢から醒めても行くべき道が無いことである。」とも述べている。(1923年の講演「ノラは家出してどうなったか」)

これに徴して現在の日本政府を見れば、アメリカ隷属以外に行くべき道がないと思い込んでいる状態、ということになる。
どうしてそうなったかと言えば、錠前や監視の経験に自ずから学んだ、というわけだろう。
石原の詩はそうした心理的馴致=習い性となった思考パターンを諷してもいるようだ。


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