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堀文子の多彩な世界[2019年02月10日(Sun)]

◆堀文子が半世紀余りを暮らした大磯の駅前に、彼女の筆による「湘南発祥の地」の碑が立っていることは2年ほど前に紹介した。

大磯をあるく(1) 2017年2月27日の記事】
http://blog.canpan.info/poepoesongs/daily/201702/27
別のアングルからの碑の姿を載せておく。

DSCN9861湘南発祥の地碑-A.JPG

*******

『別冊太陽 100歳記念 堀文子 群れない、慣れない、頼らない』には、大磯に移り住んだ頃の作品や、童画・装丁など若い頃の作品はもとより、イタリア・トスカーナでの暮らしから生まれた作品、南米やヒマラヤへの旅から生まれたものなど、恐ろしく多様に変幻した作品を収めている。

晩年という言い方で括るにはまだ早い、もっと時間が与えられていたならば、いよいよ豊饒な作品が我々を驚かしただろうと思わせる。

たとえば、抽象的な作品(青山の普通のアパートをアトリエとしていたころ)――

堀文子「地底の風景」1963年.jpg
〈地底の顔〉1963年

いわゆる「花の時代」に先駆けて、木や草が精気を汲み上げている地中はるかなところに息づいているものを透視したような玄妙な世界だ。

科学者になりたかったという堀の手にかかれば、顕微鏡で観た極微の世界も生命賛歌として表現される。

堀文子「極微の宇宙に生きるものたちU」2002.jpg
〈極微の宇宙に生きるものたちU〉2002年

堀の言葉が載っていた。

微生物やくらげの不滅の生命に触れたことが、
私の終わりへの不安を救ってくれた。
 



最も驚かされたのは次の作品。

堀文子「崩壊」2008年.jpg
〈崩壊〉2008年

金属やコンクリートが切断され、飛び散り、溶けかかったような小さな丸い形のものは身動きの取れない人間たちの顔のようにも見える。

幼児の関東大震災の記憶を原体験として持ち、「在るものはなくなる。」ということを心に刻みつけた堀。

しかし、その日、庭の泰山木の幹を大きな青いカマキリがゆっくりゆっくりと登る姿に鮮烈な印象を受けた、とも記す(「ホルトの木の下で」~〈生いたち〉p.29)。

震災の恐怖をも忘れるほどの、生命の神秘に心をとよもす体験であったのだろう。

そうした眼と心にとっては、脳の血管までもがクラクラするような不思議に輝く。
90歳を過ぎて次のような作品も生まれた。

ニューロンは考える2010年.jpg
〈ニューロンは考える〉2010年

下の最近作の一つも、冬枯れを照らす光が見る者を内側からあたためてくれるのである。
遍照の世界に我々を招く。

堀文子「落日の図 冬枯れの林を落ちる太陽」2015年.jpg
〈落日の図 冬枯れの林を落ちる太陽〉2015年

*作品はすべて『別冊太陽 100歳記念 堀文子 群れない、慣れない、頼らない』(平凡社、2018年)より。
作り手たちの画家への愛情が伝わってくる一冊だ。
 撮影:大屋孝雄、宮島径
 編集:竹内清乃、和田絹子、林理映子



堀文子と二・二六事件[2019年02月10日(Sun)]

堀文子の自伝『ホルトの木の下で』に、1936年、二・二六事件に遭遇した体験が生々しく記されている。

東京府立第五高女(現・都立富士高校)の卒業試験当日のことであった。
千代田区平河町の自宅から都電で登校しようとした雪の朝、街の到る所にバリケードが張られ、拳銃を持った兵隊が家々の角に立っている姿を目撃する。
ともかくもまだ動いていた電車で登校し、試験を受けていると、急に中止の命令が出た――

麹町方面に住む人たちと連れ立って学校を出ましたが、帰りの電車は四谷見附で止まっていて、そこから先は入れない。それでも何とか四谷から歩いて帰りました。
麹町三丁目まで来ると、今朝方に見た道路を塞ぐバリケードは数が増え、銃剣を付けた兵隊が三十メートル置きくらいに立ち、道行く人を止めて尋問している物々しさです。その頃は、すでに軍人の横暴が巷でささやかれていましたし、自分が尋問されたときは、文句を言おうと思っていました。父の教育もあり、軍の行動に対して私も憤慨していたのです。今思うと無謀というか、恐いもの知らずの娘でした。
私が近づくと、
「何処に行く!」と銃剣を喉に付きつけられた。今しがたまで何か言ってやろうと思っていたのに、その途端、恐怖で腰が抜けそうになりました。
「そこの先を曲がった家の者です。」
と言うだけが精一杯で、武器の前では何も言えなくなる情けなさを、身体で知った瞬間でした。
「行け!」
と道を開けられ、ようやくの思いで家に帰り着くと、
「まあ、無事によく帰ってきましたね!」
と母が抱きつくばかりに喜びました。
私の弟は決起した軍人の一部が立てこもっている山王ホテルの傍の府立一中へ通っていたので、帰ってくる途中に市民が殺されているのを見たというのです。筵がかけられ、そこから人の足が見えていたと。兵隊に歯向かった市民が殺されたのだろうという話でした。
街の噂では、
「この兵隊たちは高橋是清を殺した人たちらしい。」
と言っていたそうですが、国家は事件を秘密にしていましたし、むろん報道もされていなかったので、一般市民たちは本当のことなど何も知らされていなかったのです。私の家の一角、議事堂周辺五百メートルぐらいの中の出来事でしたから、おそらく全国の人はその騒ぎすら全く知らなかったでしょう。私自身も何もわからないまま、その大動乱の渦中に巻き込まれていたのです。


◆この後の父・竹雄と文子の取った行動は思い切ったものだ。
父は中央大で西洋史(ロシア史)を教える学者であったが、退去命令に背いて事件を写真に撮る決断をする。

そのうち、決起した将校やその部下の兵士たちは、天皇に背いたというので賊軍にされて追いやられ、家の周りの守りは官軍に変わりました。そして官軍の兵隊が、家々をまわり、『女子供は即刻退去せよ』との命令を出しました。状況がよく摑めないながら、私の勘は歴史的大事件が起きているらしいことを察知したのです。
父は日頃から、噂ではなく自分の日で見たことを信じなさいと言っていました。その父が、退去命令を無視して、この事件の実体を写真に撮っておくと言い出したのです。父だけを残しては行けないので、私も家に残りました。そんな大事件が起きているなら、私も歴史に立ち会ってこの目で見なくては…… 
と。


銃撃の弾がどこから飛んで来るかわからないため、身体をできるだけ伏せて、畳の塹壕の中に息をつめて潜んでいました。たとえ一人になっても生きるんだと覚悟した、あの切迫した瞬間を忘れません。
そのときでした。私の家の庭を、塀や裏木戸を壊して銃剣を付けた軍隊が進んでいくのを見たのです。表通りを避け、私の家と隣の家との境の塀を壊して進む軍隊を目の当りにして、ぞっとしました。非常時のときの秘密裏の抜け道が計画されていたに違いないと思ったからです。家の敷地内を何百人もの軍隊が粛々と進んでいきました。もう声も出ないほどの恐ろしさで、息をつめて見つめていたのを、今もまざまざと思い出します。
やがて「兵に告ぐ」という重々しい声が鳴り響き、
「一切の武器を捨てて出て来い―」
と叫ぶ声が聞こえてきた。反乱軍が白いはちまきをして、白旗を掲げて出てくるのを、父はもの影に隠れて写真に何枚も撮っていました。よく見つかってフィルムを取り上げられたり、脅されたりしなかったものです。その生々しいたくさんの写真をあとで見ましたので、そのときの情景はよく憶えているのです。


◆まるで、ハンナ・アーレント(1906-75)とその母のようではないか。

アーレントの母マルタは、1919年、スパルタクス団の蜂起に呼応してケーニヒスベルクでデモが起こった時、娘ハンナとともに街に出て「よく見ておきなさい! これは歴史的瞬間ですよ!」と、自分の目で視るよう促したという。

堀文子「ホルトノ木の下で」新装版_0001.jpg
堀文子「ホルトの木の下で」(新装版。幻戯書房、2011年。初版は2007年。)


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