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〈学習評価の在り方について〉意見を送ってみた[2019年01月09日(Wed)]

◆中教審がおこなっている「児童生徒の学習評価の在り方について(これまでの議論の整理)」に意見を送ってみた。

*最初の数字[13] は、募集要項ではLなど丸数字で示された論点の項目番号。ところが丸数字を使って入力・送信しようとするとエラーが出て振り出しに戻ってしまった。〇ナシの数字に直したら大丈夫(1通だけ違う意見募集のタイトルで「受け付けました」とメッセージが返って来てびっくり。やり直したが、なかなか手数を踏ませるパブリックコメント・システムだ。

ホワイトハウス流に簡便で、かつ「ありがとうございました」という気持ちが伝わるような返し方を日本の政府は未だ出来ないらしいのが、愛国心の有無に関係なしに、泣ける。

いくつか転載しておく。
(1)[13](評価を行う場面や頻度について)
◆単元や題材のまとまりごとに評価を行い、それをもとに学期末でない早い段階で児童生徒に指導・支援を、ということだが、単位数の少ない科目の教員は担当するクラス数・生徒数は膨大になる。一人一人に指導・支援をきめ細かく行うのは物理的に無理ではないか?むしろ平常の授業等で必要な指導・支援に相当する生徒たちへの働きかけを(個々に直接対面でなくとも)行っているのが実際ではないか。
資料だけでは個別指導を絶対視しているように受け取られる。

(2)[6] (学習評価の基本的な枠組みについて)
◆3つの観点が芸術にも妥当するのか、疑問だ。
その点について議論がなされていないのではないか。中・高と進路に向けて生徒の興味・意欲が絞り込まれ、特定の分野に秀でた力が顕在化する段階へと成長するものであることに照らして、おざなりではないか。
わずかに「これまでの議論整理」p.7の脚注10に「芸術系教科の「知識」については〜」という芸術に関する「知識」の観点についてのみ記述があるが、他の2観点について芸術科において特に考慮すべき点はないのか?
本文全体を眺めても「芸術」について言及が全くない。公開されているWG(ワーキンググループ)の会議録も読んだが、俎上にあがっている様子がない。特別な分野だから取り扱いに窮している、というのが実態ではないか?
であるならば、3観点による評価をすべての科目に当てはめる事自体に無理があると言わざるを得ない。

(3)[10] (「主体的に学習に取り組む態度」の評価について)
◆「学習に関わる自己調整」「自らの学習を調整しながら学ぼうとしているか」が評価の対象となっている。
現状、これを理解している教員、教委関係者が一体どれだけいるのか疑問。
児童生徒にこれを理解させられるか、となるともっと疑問。
保護者に至ってはなおのこと理解に苦しむだろう。
「態度」を評価するという習慣から脱し切れていない大人たちの方に問題があるのではないか?

*入力・送信を繰り返しながら、審議の薄闇の中にあるものが見えてきて語数が増えるばかりとなった。
この「自ら学習を調整する」という論点については万言費やしても足りない気がして来たのである。

(4)[10] (主体的に学習に取り組む態度」の評価について)
◆「学習の自己調整」という考え方が腑に落ちない。
「学ぶことによって変容する」のはどの子にも期待するところだが、「調整」という言い方には「成長」へのまなざしが感じられない。しかもこれが評価の対象となっている。これでは、教師のもとに「どこをどうしたらボクは良くなるでしょうか?」とちょこまか指南を仰ぐだけのちょこざいさしかイメージできないように思う。「主体的・対話的で深い学び」の理想とはほど遠くないか。理解できない。
「調整」という言葉自体が適切でないのだと思う。

(5)[10]
◆学びの「自己調整」という言い方は浸透・定着していかない。削除すべきだ。
そうして現在も学校で続く「態度」を評価するという惰性や習慣から脱却すべきだ。

学習・評価のワーキングの議論は何回か傍聴した。(現在公開された会議録は途中までしかアップされていないので断定はしないが)振り返ると「主体的に学習に取り組む態度」の議論の中で「学びに向かう力・人間性」というキーワードが繰り返し使われてなじんでいく一方で、「人間性」を評価の対象にしてしまって果たしていいのか、恐れ多くはないか、というモヤモヤが立ち昇り始め、そうした懸念を解消するために、「学習に関する自己調整」ということばが、危険性を薄めるために使われたのではなかったか?「自己調整」という言い方によって、下駄を児童生徒の方にあずけることで「人間性」を評価する恐れ多さに悩むことを避けたのではなかったのかと、委員お一人ずつ胸の内を伺ってみたいとさえ思う。成長し大きく変容を遂げていく多くの青少年の姿を目の当たりにして来たはずの識者の議論としては、小さな軌道修正やつじつま合わせで終わって貰いたくない。
ABCでなく記述による「個人内評価」だという5頁の図1の説明はあいまいで弁解じみている。

2016年の高大接続システム改革会議の席で山極壽一氏から出された「そもそも態度が評価できますか?」という根源的な問いを中教審の各委員はもう一度思い出すべきだ。その時この発言を支持する委員もいた。しかし中教審全体としてはこれに共鳴する大きな教育哲学が共有されて来なかった。それゆえに「自己」という言葉を冠して主体性を尊重するように見せつつ「調整」という縮こまった言葉に連接させて平気なのだと思う。これは中教審および現在の文科省の言語感覚の貧しさを示してもいる。やはり「自己調整」という言葉は引っ込め、「態度」「人間性」を評価するのはおこがましいのだ、という基本に立ち返って、3つ目の観点による評価自体を見直すべきだと切に思う。人間性を「評価」することが誰にできるというのだろうか?「自己調整」が問われているのは中教審と文科省の方ではないだろうか?

*******

◆送信が完了する度に

「児童生徒の学習評価の在り方について(これまでの議論の整理)」に関する意見募集の実施について」への意見を次の受付番号で受け付けました。
201901090×××64


と自動メッセージが画面に出てくるのだが、ありがたみも、手応えもない。
入力フォームでなくメールで送ってみたらどうなのか。

とにもかくにも、甘言はいらないが諫言を酌んで子どもたちに寛厳よろしきを得た支援が届いて社会的還元となってくれよ、と願う〆切直前の入力・送信作業だった。

山極壽一氏の中教審での発言を紹介したブログ記事:2016中教審、傍聴納め[2016年12月21日]
http://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/393

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