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石原吉郎「神話」――その射程[2018年12月26日(Wed)]

DSCN9434冬の虹-A.JPG

雲の切れ間に、ごくごく小さな虹がかかっていた。
中天の風にそよぐ幡(ばん:大寺の柱に垂らした鮮やかな旗)のように。

*******

◆昨日の石原吉郎の詩「神話」について、最後に〈己が己の主体であると言える時間が奪われている以上(=「晩年」と呼べるような未来への期待も、継承する者を持つ夢も奪われている以上)、時間の上に在る者ではなく、時間そのものであらねばならない、と述べているようだ。〉と書いた。

そのことと詩の「神話」という題名の関係について半歩だけ考えを進めたので、そのことを書いておく。

◆「時間の上に在る者」とは、何年何月何日に生まれ、そして何年何月何日に死んだ、と記録される者のことだ。始まりと終わりが画然とした有限の生涯であるにせよ、とにもかくにもこの世に実在したことを少なからぬ人の記憶にとどめられ、いくつかの役所の記録にも姓名とともに記録される者のことである。
始点と終点がはっきりしていることこそが、その「者」が確かに存在している(存在していた)ことの証明となる、と言っても良い。

◆ところが「時間そのもの」はそうではない。始まりも終わりも定かでない、「者」と呼ぶことさえできない茫洋とした「何か」。
むしろその何かの中で(あるいはその上において)「者」が存在したり「事」が生起したりしている「何か」。
それでは余りにとりとめがないので便宜上これを刻んで暦にしたり一日の中にも細かな刻みを設けたりする。

石原吉郎の表現でいえば「水と汀(みぎわ)の平然たるくりかえし」こそが、そうした便宜的な刻みを設けない状態の「時間」のありようである。

『荘子』のいう〈混沌〉のような状態(擬人化しているが「者」というよりは「状態」といったほうが正確だろう)。従って「在ること」(在ったということ)を証拠立てることもそれを記録することもできない。その中に(もしくはその上に)居た者を「見た」と証言できる者が生きて居る間はかろうじてその実在を信じさせることができようけれど、証人がこの世から退場すれば、もはや確かめることはできない。「神話」と表現するほかないわけである。

端的に言って「いつ自分の最期があるのか」知ることを許されていない者が、その状態を肯んじることが出来ないのなら、「みずから朝でなければならぬ」=朝の光が照らしても己の姿は存在しないという事態になってしまう前に、われわれは時間そのものであらねばならない、ということである。
すなわち、この詩における「われわれ」は、「神話」となること、「神話」としてまつりあげられることを、全存在を賭けて拒否しているわけである。

◆われわれの最期をコントロールできるとうぬぼれる者が「時間」を支配しようと欲し(たとえば元号制定)、法理に基づく憲法論を神学論争だと貶め、史実と神話の境界をあいまいにして精神論に逃げ込む――1974年の詩集『禮節』に収められたこの詩の射程は、新元号を秘されたまま2019年とのみ印刷するほかなかったカレンダーが届く2018年現在の歳末にまで少なくとも届いているようだ。



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